65 Re:8月8日
一人の人間が宙を舞う。
道路を走り抜けてきた鉄塊に巻き込まれて、生々しい墜落音が夜の交差点に響き渡った。
ぶちまけられたペンキのような血飛沫が赤々と海を作る。
轢かれたその男子高校生は、俺の記憶にある人間の一人だった。
“日下部……?”
あれはいつの頃だったか? 図書室に呼び出された時に顔を合わせた奴だ。
他に大した交流はしていない。だから顔見知り、という程度の関係性。
だがそれでも、知っている顔が目の前で事故に遭った瞬間というのは、それなりにショックだったらしい。
“日下部!!”
夢の中で俺は叫ぶ。
仰向けで人形のように転がっている日下部の元まで走り寄り、──次の一言を聞いたのだ。
『<再出発>』
──夢はそこで終わった。
#2
「っ……ん?」
「すー……すー……」
目蓋を開けると愛しい寝顔が見えた。
白いシーツの海の上、腕の中には一人分の体温がある。
いつも通りの安定した寝息。少し乾いている桜色の唇。寝ぐせが出来ていそうな白い髪。
すやすやと熟睡中のレティだ。ここからキスしたら起きそうだな、となんとなしに思いながらも、彼女の安眠を刺激しないように上体を起こした。
(なんだ今の……? 夢?)
夢、というには突拍子もない内容だ。
じっとりとした汗が気持ち悪い。やけにリアリティのある、生々しい「記憶」だった。
日下部草紀。
俺はあいつのことを何も知らないし、夢にまで見るほど交流が多いわけでもない。
なんだったんだ?
「……ちゅー」
「?」
「むにゃむにゃ……今日はぁ……先に起きた方がちゅーをするんですよ~……むにゃり」
物凄く自己意志のある寝言だな!
どうやら寝覚めのキスを御所望らしい。朝からそんなに甘々で大丈夫か?
(今日は……水曜か)
8月8日。
相変わらず一週間の半分くらい界域に出撃している日々だが、ここ最近の界域発生は沈静化傾向にある。何事もなければ今日丸一日は休日だ。
(何事も……なかったか?)
「むにゃむにゃ~……遅いですねぇ、焦らしてるんですかねぇ……むにゃー……」
「……、」
催促の声には倍で返すのが俺のスタイル。
絶対に起きているだろう少女に覆いかぶさり、唇を塞いだ途端、片手をあらぬところに突っ込む。
この後、朝の寝床に可愛い嬌声が響いた。
「夢? ですか?」
朝食を摂り終わったのち、夢について話してみた。
テーブルを挟んだ対面、食後のホットココアを飲んでいたレティがきょとんとする。その肌はどことなくツヤツヤしていた。元気すぎるぞ、おい。
「ああ……やけに現実味があってな。日下部って奴が事故に巻き込まれてた」
「クサカベ──あぁ、あのクレアという融合精霊の契約者ですか」
……、あれ?
「俺、あいつらのことお前に話したことあったっけ……?」
「いえ、ちょくちょくあなたの記憶を参照しているだけです」
そうなのかー。
……図書室で何話したっけ俺? い、いや、思い出さない方がいいやつか!?
「しかしクサカベさんに関してはディアも知らない以上、私も知る術がありません。もっと詳しそうな方に伺ってみては?」
「そうだな……ってか、あっさり信じるんだな。未来を視てきたって言ってるようなモンなのに」
「生涯唯一の伴侶を疑うことはありませんよ」
……た、頼もしい。
けろっとした顔で返されると特に。ココアのおかわりいる?
「しかし疑問なのは、『なぜディアだけが前回の周回を覚えているのか』です。私との契約で時間干渉の影響を受けないのは理屈が通りますが、私自身は覚えていませんし」
「……レティは完全に弾いてるからじゃねぇの? つまり、お前の耐性は百パー。けど俺の耐性は五十パーくらいだから、半端に記憶を引き継ぐ……とか」
ループそのものを認識しないということは、その檻に囚われていないということだ。
認識するからこそ囚われる。ループものの恐ろしさはそれだ。自分が前に進めているのか、同じところを歩んでいるだけなのかの判別がつかなくなる。
初めから囚われない者こそが正常。
どんな事があろうと、一本道の未来へ歩き続けられるのが人間の利点だろう。
「筋は通ってしまいますね……仕方ありません。ディア、人間を辞めましょう。私の完全なる眷属になるのです。そうすればループの過程をスキップし、何事もなく明日を迎えられることでしょう」
「あー……元々、俺に人間の輪郭を残してくれたのはレティの厚意だったもんな。眷属化って、具体的にはどうなるんだ?」
「まず、あなたは私を愛することしかできなくなるでしょう」
「……? 今との違いがよく分からないぞ?」
「正確にいえば、私への完全隷属化、ですかね☆ 思考、精神、指先一つの動きまで、今は最低限あなたの意識下にあり、私も『アクセスする』という工程が必要です。しかし眷属化はそういった壁がなくなる──文字通り、あなたの“全て”が私の手中に収まるのです♪」
「……待て、それは困る。レティの隠し撮りができなくなるってことじゃねぇか!」
「カクシドっ!? な、なにをしてるんですかぁ!?」
サプライズとかが無意味になるってことだろそれ!
それは困る。流石に困る。申し訳ないが、その提案を受け入れることはできねぇ……!!
「チ、そう簡単に解決とはいかねぇか……まぁ、ただの夢だった、って可能性もまだあるしな……」
「ディア、早急に物品の提出を。携帯を渡してください」
「スマホで撮ったと誰が言った?」
「なんですと!?」
一応、ニュースなんかを確認しても交通事故の類はない。
しかし精霊士が──精霊の加護を持っている人間が交通事故で早々死ぬんだろうか? 大いに疑問がある。
「まずは日下部の周辺を軽く探ってみるか……ん?」
『あなたにお届け♪ メールのお知らせ~』
「!? ちょぉぉっ、またなにを着信音にしてるんですか!?」
突如として俺の携帯から響き渡った可憐な歌声にレティが愕然となる。
自分で歌ってくれたくせに……と思いつつ画面を確認した。
『作戦会議に集合されたし。明日10時00分から。場所→時永市 自販機前』
──その内容を見て奇妙だったのは、差出人が噂の学友野郎だったことでもなければ、懐かしい場所指定だったことでもなかった。
なんか見たことある内容だな、と──軽いデジャヴを覚えたことだった。
◆
「あ、味噌がねぇ」
「買い出しデートの時間ですね!」
──そんなワケで17時を回った頃、二人で街へ繰り出した。
行きつけのスーパーで必要物資を買い込み、帰路に戻る頃には日も沈みかけた18時。
「きゃああああ! ひったくりー!」
悲鳴が聞こえた方を見やれば、鞄を手にこっちへ走ってくる犯罪者。
軽く一歩踏み出し、袋を以ってない方の左腕を叩き込んでラリアットを決めてやった。
「明日の費用、補充するか……」
「強盗だァ! 全員手を挙げろォ!!」
銀行へ寄ったら押しかけてくる強盗団。
刀を形成し、連中の持っていた銃火器をバラしたついでに殴り倒して蹴散らした。
「なんなんだよ今日は……」
「皆さん避難してください! 精霊士らしき男が無差別に暴れています──!」
「全員死んじまぇえぇ──!!」
銀行から出れば、目の前で吹っ飛ぶパトカー。
叫び散らしていた奴の背中がガラ空きだったので、後ろから奇襲した。
「フシャァァァァ!!」
「ガルルゥ!! ヴァゥッ、バゥバゥ!!」
「うわああああん! ディアー!!」
通りかかった野良猫がレティを見るなり毛を逆立て、散歩中の犬まで彼女を吼え立てる。
動物的本能がレティの気配を恐れたのかもしれない──泣きついてきた嫁は可愛かった。
「小腹も減ったしなんか買い食いするか」
「もー、ご飯前ですよ?」
「さっさと金を渡せぇ! ぶっ殺──ゴハァッ!?」
コンビニに行ったら包丁を構えたコンビニ強盗に出くわした。ぶん殴った。
そんなこんなで、俺たちがようやく平穏な帰り道についた頃には19時近くになっていた。
「……今日はなんか治安悪ぃな……」
「久々の四コンボでしたね……最高記録は八コンボくらいでしたっけ?」
偶に、こうして魔獣と関係のないトラブルに出くわすことはある。
以前は不良どもが絡んでくるだけだったのに、ここ最近でグレードアップしている気がする。そんなサービスいらねぇよ。
「それで次は交差点……ですかね?」
「……だな」
交差点なんてこの街にはいくつもあるが、まずは帰り道の途中にある所に行くのが筋だろう。
何事もなければ無いで、それでいい。
俺の勘違い。俺だけが“おかしな夢を見た”、というだけで済むのだから。
五分くらい歩いて、件の交差点までやってきた。
人通りは少なく、行き交う車両も片手で数えられる数だ。トラックの姿はなく、日下部らしき姿も見当たらな──
「──あ」
今。駆け抜けた。
びゅう、とすぐ左横を風が駆け抜けた。
いや違う。その後ろ姿は学園の夏服を着た日下部草紀、その人──!
「くさかっ……!!」
遅い。もう遅い。
青信号を待たずに一人、彼だけが道路に飛び出した。
「!?」
──怖気立つクラクションが鳴り響く。
トラックだ。左からやってきたそれは道路を勢いよく通過しようとする。
遠目から見たその運転席は──運転席は──? 人が乗っていなかった。
考えている暇はない。
夢では呆然と見ていることしかできなかったが、今回は違う。
日下部とトラックの衝突まで一秒もない──だが刹那の猶予さえあれば、刃を振るうには充分だ。
「刹火ッ!」
武装の形成、コンマ一秒。
日下部がトラックに気付く。──瞬間、斬撃を飛ばした。今まさに両者が衝突しようとした寸前、トラックを横薙ぎに両断する。
「っ……!」
トラックの残骸がそのまま吹っ飛び、交差点で爆発した。
軽く周囲から悲鳴があがるが……他に被害はなさそうだ。
「はぁ……間に合ったか……」
「お見事ですね!」
ひとまず未来の改変に成功……? したのか?
何はともあれ日下部だ。あいつに話を聞いてみないと──て。
「……気絶してやがる……」
横断歩道の中途で爆風に巻き込まれてしまったらしい、肝心の日下部はそこでぐったりと倒れ伏していた。
となると、次に気になるのはあの無人トラックだが……、
「なになに!? 誰か、救急車!」
「トラックが斬られた……!? 精霊士か!?」
「さっき道路に飛び出した子がいたぞ! 助けたんじゃないか!?」
……まずい、注目を集めてしまっている。
咄嗟だったとはいえ、トラックを斬るのはやりすぎたな。
「……ひとまず、観測局には報告しておいた方がいいかもしれませんね?」
「そうするわ……」
ほどなくして、救急車やパトカーのサイレンが聞こえてくる。
俺はひとまず事情をお上に報告し、気絶中の日下部はやってきた救急車に乗せられていった。
「とりあえず……これでいいのか?」
他に異常はない。
ループしていたのか、俺の新たな能力だったのか。その真相は結局、分からなかった。
◆
「……現場に到着。対象の付近に要注意人物を確認。『刈間斬世』と一致する」
──燃え盛る交差点を見下ろす高層ビルの屋上に、彼はいた。
素性を隠すように深く被った黒い雨合羽。発するその声には感情が帯びておらず、自動音声のような無機質さがあった。
右耳に仕込まれたイヤホンが、通話相手の返答を彼に伝える。
『……新たな因子は彼か。前回から巻き込まれたか? 日下部草紀の生存は?』
「搬送された」
『ふむ……ならば良しとしよう。予兆があったのかもしれないが、二周目で運命を変更するとはな。悪くない線になりそうだ。彼ならば……私が見てきたその先に行けるやもしれん』
雨合羽の観測者は何も言わない。
彼はただ、命じられるがままに応答するだけの機構に過ぎないのだから。
『刈間斬世の契約精霊に注意しろ。感知範囲内に踏み込んだだけで破壊される恐れがある。お前は引き続き、事前に伝えた対象人物たちを監視せよ』
「了解──我が主」
地平線の陽は落ちた。
此処を新たな起点とし、事象は廻り出す。
その先にいかなる伝承が紡がれるのか、まだ誰も予期しないままに。




