42 希望せよ、さらば与えられん
──全身に叩きつけられる白い濃霧。境界を越えて見えた先のそこには、異文明のような巨城があった。
現在、高度四百メートル……か少し。命綱もなく、白銀竜の背に乗った飛行体験は、飛行機という人類の技術結晶の偉大さを感じる瞬間でもある。
「眼下に明らかな拠点ポイント! っていうか、界域の深度も結構深いね……なんでこんな一発で来れるルート見つけられたの、栄紗さん!?」
「あいつは色々と……規格外なんだよ。とにかく侵入するぞ……」
「了解……!」
霊力不足の息苦しさに眩暈がするが、ここで意識を落とすわけにはいかない。
良夜の指示で竜は城の中腹辺りにまで高度を落とし、外にせり出しているバルコニー近くまで寄ってくれる。良い高さまで来たところで飛び降り、レスティアートの強大すぎる気配を追う。
「向こうか……くっ、」
「ちょ、無理しないで! 立つのもやっとでしょ、斬世!?」
一歩踏み出しただけで、全身の血が沸騰するような感覚に陥る。遅れて着地してきた良夜に引き上げられ、どうしようもない自分の状態に歯噛みする。
「ねぇ……今から引き返しても良いと思うよ、俺は。そりゃレティちゃんのことは心配だけど、あの子、凄く強いよね? なのに、なんで斬世はそんな状態でも行こうとするの……?」
「理由なんかいるかよ。……あいつが戦場にいるってだけで、大問題だ。精霊とか英雄とか関係ない……──大事な奴が危険地帯にいるなんて、本当は絶対にあっちゃいけねぇんだよ」
地獄で、悪夢だ。現実にあっちゃいけない。だけど起きてしまったなら、せめて付いて行きたい。共に戦わせろというものだ。
「「……──ッ!?」」
ゾクリ、とその時、悪寒がした。
城内からだ。そこに、その奥に何か、なにか強大な存在が顕現したような──
「こ、の……気配、大精霊……!?」
「……どうやら思っていたより、時間はないみたいだな」
向こうの状況は分からない。いくら念話でレティに呼びかけても一向に返事が来ないのだ。
ここから徒歩で追っても間に合うのか? もっと、もっと直接的に、最短で彼女の元に行けるルートは──
「……良夜! お前、『召喚書』持ってるか!?」
「え!? そ、そりゃ持ってるけど……」
良夜が懐から一冊の本を取り出す。青い布装丁のやや厚みのある書物だ。
召喚書──精霊召喚を行う際に使う詠唱具。ページを開けば、自分と相性の良い精霊の召喚呪文が自動的に刻まれるというスグレものだ。
観測局の監修もがっつり入っているだろうし、変な精霊や存在には繋がらないようにはなってるだろうが……既に契約権がある場合は別だろう。
「ここまで来たらあいつを強制召喚した方が早い。貸してくれ……!」
「あ、なるほどね! って、斬世、持ってないの……?」
「ああ。入学した時には精霊士の適性がなかったからな。そもそも貰ってない」
界域に出入りする精霊士なら誰しも、この召喚書を持ち歩く。界域内ではぐれた時、手元に精霊を強制召喚するためだ。
先日、俺が落下した時にもこれがあったら……いや、あっても黒聖女の毒を食らう方が早いか。思えば、召喚をさせないための念入りな追撃だったのかもしれない。
──しかし、まあ。
「……ここまで来て、まさか厨二溢れる文章を読み上げることになるとはな……」
「古今東西、精霊召喚はそういうものだよ!?」
良夜から本を受け取り、詠唱準備に入る。
実質、これが俺の初の精霊召喚の瞬間だ。……絶対に嚙まないようにしないと。
──だが俺はここでもう一歩、踏み込んで考えるべきだったのだ。
俺とレティは一心同体。命を共有した存在同士。
そんな俺が彼女の召喚呪文を唱えることは、普通の精霊と契約者ではありえない、イレギュラーが起きうるものだと──想定するべきだったのである。
◆
「ひっ……ひぃい、ひぃいいいい!!」
石造りの廊下に、慌ただしい足音と規則正しい足音とが響く。
前者は恐怖に。後者は冷徹に。
灯りがない通路は闇に覆われている。それでも駆ける男は決して足を止めなかった。止められなかった。どれだけ走っても、後ろから追いかけてくるヒールの音が途切れない。
どこまでもどこまでもそれは追ってくる。
一気に距離を詰めてこないのが、より恐怖を煽った。徐々に追い詰められる感覚がし、ただでさえ限界を超えているセオドアの精神はいよいよ削れていく。
「っ……!」
ドン、と重い発砲音。
男のすぐ右横を、黒い光のようなものが飛んでいった。
それは床に当たり、ごっそりと空間を抉って隣の部屋にまで貫通した。あんなものが人体に直撃すれば、無事で済まないのは明白だ。
「なんだ……なんだお前はァア!? わたっ、私が何をした、お前に一体なにをしたんだッ!」
「そうですね。貴方は私に何もしませんでした。何もしてくれませんでした。話しかけることも、戦場に行くのを引き留めることも、何一つとして」
暗がりの奥から、少女の声が聞こえてくる。
銃口は、男に向けられているに違いない。
「ですが貴方は私の大切な方に手を出した」
ギシ、と空間が軋み上がる。
少女を中心に、今にも爆発しそうな破壊の奔流が、この場に圧力をかける。
「私が処断する理由はそれで十分。貴方が処刑される理由は……代表的なものを挙げておきましょうか。──帝国と滅びるべきだった者が、今も生きている。過去に埋もれるべきだった者が、摂理を無視している。それだけで幾万もの理由に勝りますよ」
「それは貴様も同じだ……! 兵器として生まれた者が人界に干渉するなッ! 貴様にその権利はない!! 本来の用途から外れ、皇帝の意志に反逆している! 異界の境界に踏み止まることこそが、貴様の存在理由だろう──!!」
「──、」
少女は、答えなかった。
皇族から下されるだろう当然の指摘に、彼女は反論できない。
……合理に則った今の言葉だけは、皇帝も口にするだろう一言だったからだ。
「そ、それに、私を殺して何になる! 私を殺せば、彼に愛想を尽かされるんじゃないか!?」
「──貴方が私のディアの何を知ってるって言うんです?」
ドスの利いた声に、走りつつセオドアの喉が引きつる。
ミシミシと、城内が軋んでいく。
彼女の怒りが、破壊の災禍がはち切れそうになる。
「……もしかして私よりもディアに詳しいって言うんですか? 貴方が? ああ、そうなんですね、そうでないとおかしいですもんね。でないとディアに手を出すなんてありえないし。ええ、ええ、そういう事ですか。それはそれは、生かしておく理由がありませんね──?」
「ッ……!?」
引き金に少女の指がかかる音がする。殺気が弾丸となって放たれかける。
刹那、セオドアの思考は限界まで加速した。
「助けろ……」
藁にも縋る気持ちで、彼は懐から一冊の書物を取り出す。
召喚書だ。白紙のページを開いた瞬間、そこには文字が刻まれ始める。
望霊を使うには対価が必要不可欠。だが今の彼に、かの精霊に差し出せるほどの精神力は残っていない。ならばここで手を伸ばすべきは、契約に応じて力を貸す精霊しかいない。
「私を助けろッ!! “其は大いなる風の主、星を大気の檻に閉じ込めた収監者”! “大公の契約を以って顕現せよ”! “今は名もなき大使徒──天の大守護者”!!」
──閃光が空気を割った。
放たれていた破壊の魔弾は、圧倒的な力によって相殺される。光の対消滅のあと、後ろを振り返ったセオドアの前には、その存在が顕れていた。
人型でありながら、四枚の翼を背から生やした神々しい異形の姿。
四メートルと少しの身長で、騎士兜のような頭部も、空に溶けるような剥き出しの胴体も白亜の色だ。しかし、本来輝かしいまでの威圧感と戦意を撒き散らすはずのソレには──大精霊の一角でありながら──意志らしき挙動は一切見られない。
更に言えば、造形にも異常があった。右半身が裂けており、その先に繋がるはずの右腕が丸ごと喪失している。
「ッ……腐っても皇族の血は本物ですか、労しい。力の一片を貸し与える程度の慈悲があろうとは、ここは貴方ではなく、大守護者の寛容さの方に胸を打たれておくべきでしょうか?」
初めてレスティアートがそこで立ち止まる。
二十メートルほどの距離を空けて見上げるその青眼は、やはり守護者の欠陥部分を捉えていた。
「ディアの剣撃ですか、それは。──まったく、あの人に傷をつけられるなんて憎らしいにも程がありますッ!」
白銃を突きつけられてなお、天の大守護者は黙して語らない。その頭蓋に知性と思考は存在しない。
此処に在るのはただの力のみ。帝国の守護精霊が一角は、召喚者の器に応えたのではなく、遥かな昔の契約に従ったに過ぎない。
「私を護れエアリエル!! この反逆者を処分しろォッ!」
「口を閉じなさい劣等愚民。貴様こそ皇族の一員たる資格がない……!!」
レスティアートが引き金を引く──引こうとした、時だった。
──かくんっ、と急に彼女の膝が崩れ落ちた。
「えっ……?」
拍子抜けした声を、思わず出してしまった。
力が入らない。一秒前まであった破壊の力が、武器が──感じ、られないっ?
「は……はは! はははははは! やはり、やはり大精霊! おお、我が国の守護精霊よ! やはり人造のモノとは比べ物にならん──!!」
相手は帝国の守護精霊。
この力の急速な減衰の原因に、レスティアートは嫌が応でも思い当たる。
「……顕現しただけで、土地概念を書き換えるとでも言うんですか……!?」
国家と契約し、大守護者となった精霊は格が違う。
その守護性は現世も界域も問わずに発揮され、逆説的に、一つの事象を引き起こす。
「──“大守護者がいる地は、帝国である”。故に、其が在る場所は帝国領内でなければならない。それに歯向かう外敵の力は、削ぎ落されて然るべきだ!」
「そんな……そんなハズはありません。私だって皇族の──」
「所詮、貴様とは格が違ったということだ! 精霊としての格が。英雄としての質が。伝承の──純度が!!」
「純、度……」
「人と精霊のキメラめ。真の大精霊には敵うまい……!」
混ざりものと、真正の違い。
人間と精霊。彼女は、そのどちらでもあり、どちらでもない。
だが此処に、一つ証明された事実がある。
すなわち今の第一王女は──帝国にとって、外敵でしかないのだと。
「あ、ああ────じゃあ、私は、わたし、は……なんの、ために…………」
──何のために。
──何のために戦い、現世を取り戻してきたというのか?
「無論、帝国の──人類のためだろう。貴様の力が、最も効率的だったから選ばれただけだ」
「……は。知ってますよ。そんな、国だったって、ことは……!」
そうだ。知っている。
この上なく合理的で、計算尽くしで運営されていた国家だと知っている。
それでも。
それでも、だ。
──嫌ったことなんて、一度もない。
……運営形式がどういうものだったとしても。
あの国にあった繁栄は、本物だった。計算で造られた景色は、それでも美しいまま、少女の記憶に焼き付いている──
「歴史に葬られるべきは貴様だ。求める者など、どこにもいない」
「違います……私は、私は出会ったんです! 永遠に──永遠を共にしてくれる人を──」
「ならば何故ここにいない?」
「っ……」
「捨てたのだろう。壊すのだろう。貴様にはそれしか能がない。故に皇帝陛下は異界の戦線に貴様を送り込んだ。──人類の未来を想った、実に偉大なる英断だ……!」
壊す。壊した。
呪われた王女。血濡れた伝承。英雄は悲劇ある所にこそ生まれるものだ。
ならば。
悲劇と災禍を引き起こすばかりの己の居場所など、どこにある?
「処分しろ、エアリエル。用済みの兵器は廃棄するに限る」
大精霊の手に、霊力が収束する。それは暴風で編まれた大槍の形を取って、たった一人の少女へ向けて構えられる。
座り込んだ彼女には、今やただの人間同然の強度しかない。暴風であれ烈風であれ、大精霊による一撃はその身を再起不能にするだろう。
(駄目……駄目です、死ねない! 私はどうなっても、ディアは……ディアだけは──!)
『──“此処に運命を誓い告げる”』
不意に。
彼女だけが、その声を聴いた。
『“永遠と剣を捧げ、命と約定を果たすまで”』
(あ……)
眼前で、暴風の凶器が放たれる。
その前に、誓いは此処に告げられる。
『“たとえ、世界が終えても”』
(──あ。ああ、ああああ────!)
端的な詠唱は、それだけで彼女に果てしない歓びを与えた。
刹那。斬り裂くような閃光が顕現する。
「──《運命誓言》」
否。まさにそれは斬撃だった。
少女に迫った槍が、真正面から両断される。斬撃の乱舞は、四枚羽の異形もろとも、近くにいたその召喚者まで──
「──ごア、はッ……!?」
血潮が散華する。一瞬にして切り刻まれ、ズタズタにされた男はその場に倒れ込む。
それだけではない。あろうことか、この空間から天の大使徒の姿が消えていく──
「まッ……待て! 待てエアリエルッ……! なぜ退去するッ!?」
「お前らの契約を斬った。随分と強力な精霊みたいだったが……人望ねぇな?」
差し込まれた声の方向に、セオドアは目を向ける。
座り込んだ少女を庇うように、幻刀を手にした制服姿の剣士──刈間斬世がそこに立っていた。
◆
たった三節の詠唱を唱えた時、直感した。
俺の前にではなく、足元に魔法陣が展開したのも無意識の判断材料になっていただろう。えっ、という後ろからの良夜の困惑したような声を最後に、俺は空間を跳躍していた。
逆召喚──ということになるのだろうか?
俺とレスティアートの存在は、命の共有で成り立っている。だから必然、召喚書には「レスティアートが俺を喚ぶ用の詠唱」が刻まれた……のかもしれない。一種のバグ技じみている。
「ディ……ディア…………」
「ん──」
四枚羽の、明らかに超がつく上位精霊っぽいのが完全に退去したのを確認すると、後ろから求めていた声がかかった。
振り返ってやろうかと少し悩み、何を言えばいいか迷い、結局、自然と身体が振り返った時。
「ディ、ディア……ディア~~~~!!」
「……!!」
いきなり飛びつかれた。
そのままバランスを崩して尻餅をついてしまう。が、胸の中には探し求めていた相手がすっぽりと。
「あー……なんだ、まずは無事でよかっ──なんだその新衣装ッ!? 聞いてねぇぞ!!」
軍服+漆黒ドレスの戦闘衣!? 白い髪色に映えて完璧だな美しいッッ!! 白と黒のコントラストは鉄板の色相だがしかし、再会頭にこんな不意打ちをカマしてくるとは、相変わらずこの恋人は侮れないッ……!! しかも十六歳の方の姿だし!?
「ふえ~~ん! ごめんなさい、ごめんなさい!! 私が全部悪かったです、私が、私が……!」
「──いや何ちょっと可愛い泣きでなぁなぁにしようとしてんだ? 許さねぇからな?」
「ひっ」
呆れた圧をかけると、びくっとレティが身体を震わせる。
が──今はすぐさま、その体躯を抱きしめた。
「…………良かった……」
「あ、あの、わたし、」
「浮気しやがってこの野郎……許さねぇからなホント……」
「えっ」
えっ、じゃない。
なにをボケた顔をしているのだ。まだ自分の罪を自覚してないのかこの娘。
「う、う、ウワキ? な、何の話でしょうディア……そんな誤解を招くような言い方は──」
「誤解じゃなくて事実だろ」
伴侶として、言うべきことは言わなくてはならない。
そう、レスティアートは悪い子になってしまったのだ。これを糾弾せずして、和解の道はないと思え──!
「お前が殺していいのは俺だけだろ……何を何股してんだよほんと。ふざけんなよホント……」
あ、マズイ。言語化したことによって明確なショックがきた。ずーんと重い心地になる。
しかしそんな俺の心情とは裏腹に、相変わらずレティはぽかーんとした顔をしていた。可愛いなぁ、クソゥ!
「た……確、かに? ……言われてみれば確かにッ!? ああ、私はなんてことを──!?」
「分かったなら反省しろ。あと霊力……」
「は!! そ、そうです、霊力を制限したのになんで……ど、どうやって此処に?」
「いや、俺はお前を強制召喚しようとしたんだがな……」
「え……? あ、もしかして私とディアの命はリンクしているから、私のいる座標にディアが逆召喚されてしまう形に……?」
「ま、たぶんそんな所だ」
自分の召喚呪文があるなんて変な気分だが、これはこれで戦術の手札として使えそうではある。
……別にそこまで変な詠唱じゃなかったよな? 俺の召喚呪文みたいなやつ……
と──そこで怠かった身体が軽くなり、呼吸も楽になる。
レティからの霊力供給が復活したのだろう。顔を見ると、居づらそうに俯いている。
「あの……今回は、本当に……!」
「……言い訳は帰ったらじっくり聞いてやる。今は──」
廊下の向こう。そこで血だまりに倒れていた奴の方を見る。
その顔は、くすんだ長い金髪の若い青年だ。体格からして三十代手前の歳に見える。しかしローブから見える手には、老人のようなシワがあった。全体の雰囲気も、どこか痩せ衰えている。
初めて会った時はどんな姿をしてるか分からなかったが……こいつがセオドアか。なんだか若いのか年寄りなのか分からん姿をしている。
「……まだ、だ……ぐっ、ううぅ……! まだ、私、は……!!」
そいつは俺たちに背を向け、廊下の向こうへと這いずって行こうとする。
どうも見た限り、俺のなり替わりには失敗したようだが……レティすら眼中になくなったのか?
「っ……往生際の悪さは筋金入りですね」
ともかく、生きているなら生きているで、然るべき所に突き出すのが妥当だろう。
──と、その時だった。今、俺たちが彼に近付こうとした、まさにその瞬間だった。
“くすくす くすくす 『また』ダメだったんだね ニンゲン”
セオドアが這いずり進んだその先に。
ロングヘアの銀髪を流した、白いワンピースの幼い少女が、顕れた。
◆
「あいつは……」
「! 前に、公園で見かけた精霊です! まさか──」
それか。どこかで見覚えがあるかと思ったら。
……で。そいつがここにいるってことは、つまりアレは……
「望霊──か」
コクリとレティが頷き、俺たちは同時に戦闘態勢を取る。
今回の件で、もっとも警戒すべきはアイツだ。セオドアが何か言い出す前に、トドメを──
「望霊……! 我が精霊よ、叶えてくれ! 私に、私にもう一度チャンスを──!」
“ニンゲン もう なにも もってないよ”
その一声に、俺とレティは動きを止める。
可憐な声で、くすくすと少女は笑う。
可笑しそうに。心底から面白そうに。
嘲笑ではなく、ただただ純粋に──笑っている。
「ッ……! な、ならば教徒たちだ! お前と契約している者たちがいるだろう!? そいつらを全部やる! 全員だ、全員──」
“いないよ? みんな みんな こわいおひめさまに たべられちゃった”
「……た、食べてはいませんが……」
……これを聞くと、割とレティの手段は間違っていなかったのかもしれない。
生贄がいれば、それだけでセオドアの逆転の一手になりうるのだ。望霊への願いの対価として。地道な教徒全滅作戦だが、もしや本当に信者たちを一人残らず消さなければ、「マリア年代紀」を倒すことは永遠にできないんじゃないのか──
“だから たりないよ ニンゲン ねえ どうしようか”
……セオドアに支払える対価はない。
ではなぜ、望霊はここにいる? 何の目的で──
「だッ……だったらそこにいる奴らだ! そこにいる奴らをやる! それでどうだ!?」
「な──」
“やだよ”
フッと笑顔を消して望霊は言う。
“ふたりはこわい うえにいるりゅうもこわい こわいよ たべられちゃう”
「ならば現世だ! 現世に行けば、生贄などいくらでもっ──」
“しはらえない? じゃあ”
ことり、と幼女はその首を傾けた。
にこやかに。その金の目を見開いて────
“あなたを くれる?”
ゾォッ────と瞬間、空間が異質なものに塗り替わった。
影が伸びる。彼らのいる空間は一瞬にして切り取られ、こちらとあちらで断絶する。
俺たちは、外から彼らを見ていることしかできない。身体を動かす、という意志すら働かない。
「な、なんだ……? 何をする気だ……望霊ゥ! ひっ……!?」
ボゥ、と影の中から人らしきものが立ち上がる。
それは一人ずつ、二人ずつ、三人、四人、五人──と増えていき、全員、セオドアだけを見つめている。
「お、い……なんだ、アレは……」
怖い。
怖い。
怖い──
気付けば刀を消して、咄嗟にレティを抱きしめていた。そのまま、離せない。動けない。
ただ本能で、思った。何があっても、彼女だけは護らなくてはならないと。
“あなたのなまえを おぼえてる?”
「わ、私は……私は『セオドア』だ! ほ、他の誰でもない……わた、私は……!」
『──あ、そっか』
不意に、念話でレティが呟いた。
彼女は恐怖を感じていないらしく、それは得心いった、と何か納得するような声だった。
『彼……お義兄様でも、なかったんですね』
『……ど、どういうことだ?』
『“なり替わった”んですよ。きっと。元は別の誰かで……あ』
そこで俺たちの近く──境界を隔てたすぐ近くの影から、一人の人影が立ち上がった。
佇む、男。子供。女。少女。老人。
その誰も彼もが無貌で、誰も彼もが同じ気配で──きっと、「彼」だった。
「おい……まさか……」
ぞっとする話にも程がある。
あの「セオドアになった奴」は……もう、何人も何人も、なり替わりの人生を送ってきたということか──?
「だと……しても、時系列が合わねぇだろう……望霊の召喚が観測されたのは、少なくとも奴がセオドアになった後で──」
「時系列、関係あると思いますか? 望霊なら、きっと現実の改変も可能でしょう……」
「──ッ!!」
ならば事態は深刻を極める。混迷を極める。
まず地点Aに、「望霊を召喚した『誰か』」がいて。
それから「別人になり替わって」──いくつもの現実を、いくつもの人生を、同一時間軸上で、重ねるように送ってきていたとしたら──?
“あなたがわたしの『最初の』召喚者”
“精霊たちに祈りを捧げていた かわいいひとたちの ひとり”
“貴族になりたい” “家族がほしい” “子供がほしい” “お金持ちになりたい” “権力がほしい” “地位がほしい” “──皇子さまに なりたい”
「な……何を、言っている……? 私は、私はまだっ、お前に一度しか願っていない! だから対価はあるはずだ、まだある──」
……一人の、どこにでもいる人間がいたとしよう。
そいつが別人に「なりたい」と願ったとして、それが叶ったとする。ならば、「なる前」の自分自身はどうなるというのだろう? 元のそいつがいた現実は……?
消滅するのか? 改変されるのか? ──なんにせよ、第三者の目からは、「そいつは初めからはそいつだった」という『事実』しか残らない。その前の現実のことなど──知りようがないのだ。
俺たちにとって、現実なんていつも一つだけなんだから。
現実を上書きする。
人生を上書きする。
理想を上書きする。
──一方で「希望」への負債は積み重なり、払う対価は消耗していくばかり。
「や、やめろ……来るな、来るなァアア!!」
セオドアに、影から生まれた人影たちが──恐らくは、「これまでの彼」が──近づいていく。
これまでと同じように。
奴はずっと、最後には望霊に呑まれ続けてきたんだろう。別人になり替わるという道があるのなら、前の自分はもう要らない。
精神力か……或いは魂でも、少しずつ、少しずつ捧げて。
自分を対価に、ずっとずっと。
──だが、もう逃げ道はなくなった。
「嫌だ……誰か、誰かッ!! たすっ、助けてくれ! 助けてくれレスティアートッ!! 英雄なんだろう大精霊!? 私を、私を──!」
「──、!」
どこまで優しいのか、答えようとしたレティをより強く抱き締める。あんなものと彼女が言葉を交わす必要なんてない。
だから、これは借り物の人生上といえど、俺から一本取った奴への礼だ。なんで失敗したのか、最大の理由を教えてやる。
「自分の人生を投げるような奴が、他の誰かになれるワケねぇだろうが。破綻した願いをかけた時点で詰んでんだよ、お前」
「ッ……!!」
男の顔が苦渋に歪む。
そこへ彼の精霊が、にっこりと歩み寄る。
“あなたのおねがいをかなえるから”
“わたしのおねがい、さいごにかなえてね?”
……それがその精霊との契約条件。
他者の願いを食らい、自分の願いを叶える。
相手の願いを叶えたことを対価に、願いを叶える。
希望の精霊エルピス。実に、人間には過ぎた精霊だった。
──契約者が闇に消えた後、希望の精霊もまた姿を消した。
在るべき居所へ。或いは“幽世”と称される、精霊たちの故郷へと。
ある教徒の男
冴えない石工屋だったことが彼の原点。だが、その事実、ないし現実は作中に存在しない。
いくつもの人生を巡った先、ある人生の中で彼は「自分をセオドアにしてくれ」と望霊に願った。
セオドア・F・クルイロフ(真)
先天的にとても優秀で、とても普通で、空っぽの人物。仮に本物の彼がレスティアートを目撃しても、彼女を風景の一部として捉えるほどの感性のなさが特徴といえば特徴。表面的な「常人のフリ」は卓越しているのでタチが悪い。
なり替わり後は精神が汚染されていくので、そんな彼にも感情が発生した。まさに「バグった」。
戸籍上、レスティアートの義兄にあたり、彼女が生まれる前に、その個性のなさを買われて「フェブルウス家」という公爵家から養子になった。こういった義理の兄弟は皇族家に多かった。
なり替わられていることを察していたのは、皇帝や帝国と契約する大精霊たちのみ。
とはいえ、それこそが彼という皇族に与えられた、「用途」であった。
望霊
欲望を食らい、叶えるもの。夢のような精霊であり、間違いなく精霊に区分される存在。
生きている限り知性体は精神活動を続けるため、それに応じた取引を持ち掛けてくる。
銀髪の少女の姿は、前教祖の娘を模しているため。
「願いを叶えるもの」を、人間は「希望」と呼んだ。
それは果たして本当に正しい呼称だったのだろうか?
エアリエルさん
出勤したと思ったら退勤していた。契約があったから顕現しただけ。本人的には、「オ、契約切れた。じゃあかえるねー!」という感じ。
精霊は精霊でもホラーテイスト的というか、「人間の手に負えるもんじゃねぇよ」感が望霊から出ていれば幸いです。
長引いてしまったEP2もそろそろエピローグの頃合い。
それじゃあ浮気した子にはお仕置きしないとね()