38 闇の底
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「──う、ッぐ……」
意識が輪郭を帯びた時、まず生きていることに安堵した。
俺が死んだらレティも死ぬ。
だから、生きていてよかった──俺が生きている以上、彼女も生きていると実感できるから。
感覚を辿って今の体勢を確認する……五体に支障はない。目を開けると、どうも刀を岩壁に突き刺したまま、うつ伏せになっているらしかった。
「っ……はあ……」
落下した直後、咄嗟に刀を壁に刺して──勢いを殺したのか。
かなり長い間、落ち続けた気もするし、それで五体満足で無事というのは中々に奇跡的だが……と考えた時、一つの可能性に至る。
(……レティの防御結界か)
刀による減速がなくとも、それが残っていた時点で、ひとまずの無事は約束されていたわけだ。レスティアートに日々感謝である。
「で……どこに落ちたんだか……」
刀を引き抜いて立とうとすると、足場の悪さに転びそうになった。ガタガタの岩壁、岩の床だ。まるで雑に削岩された洞窟の中。上を仰いでみるが、流石に地上らしき景色は見えない。
では周りに目を向けてみれば、そこは瓦礫の海だった。
深い穴の底に落ちたというのに、灯りがある。──街灯だ。何本もの街灯が、チカチカと光を放ちながら、そこらにぶっ刺さっている。バスらしき車両の残骸や、看板もある。まるでゴミ捨て場だ。俺のように上から落ちてきたものか?
『──レティ。聞こえるか?』
念話を試してみるが、繋がる気配はない。
……界域において、境界を乗り越えることは、より異界へと近づく行為を指す。
ここから上へ登れば元の場所に戻れる、なんて甘い構造ではない。空間、次元が混線してるからこその異界と現世の狭間。越えられぬ境界線……天地なんてその際たるものだろう。
その概念を、とうにこの界域は取り込んでいた。本来の界域主が地獄犬というのを考えれば、地上と地下とでは別世界に等しい。
「──ぐッ!?」
突然、ビリッと足元から痺れが突き抜けて倒れ込んだ。
地面の上には紫色の電気が走っている。なんだ──これは。
「がッ……ぐ、ぉ……!」
全身が思うように動かない。細胞という細胞に針を刺されたようだ。呼吸するだけで身を引き裂くような激痛が走る。
「──いかがでしょう? 毒と電流のお味は」
「ッ……!!」
暗闇の中から歩いてきたのは、フリル傘をさした例の黒髪シスター。
街灯が照らすその影は不自然に歪んでいる。どうやら、それが電流の発生源のようだった。
「ッギ、づっ……テメエ……なんで、ここに」
「あら驚き。喋る力があるなんて、やはりあの破壊精霊の契約者なだけはありますわね──」
そこで女の靴が俺の左手を踏んでくる。が、そちらの痛みはもはや麻痺して感じ取れない。呼吸する方がずっと辛い。ごほっ、と咳き込み血を吐き出した。
「しかし動けないでしょう? わたくしの基本的な拷問手段ですの、これ。常人であれば、三分も電流を浴びていれば死んでしまいますのよ」
「へ、え……そりゃ、軟弱な奴もいるもん、だな……ッ!」
あくまでも強がる俺を、黒い聖女は面白そうに見下ろしている。
ぐりぐりと左手を踏んでくるが、呻き一つ上げてやらない。激痛は辛いが──この痛みの感覚、似たようなものを知っている。呼吸を一定にし、痛覚の波をコントロールする。それで多少、マシになったと思っておく。
「先の質問にお答えしましょうか。わたくしは貴方様を落とした後、ここに逃げこんだのですよ。ええ、あの破壊精霊を一人で相手にするほど驕っていませんので──ふふふ。上から聞こえたあの娘の怒号、染みましたわ~」
レティの怒号って……想像すらできない。つか考えただけで胃が痛くなる。
──本当に足手まといになってどうすんだよ、俺……!
「冥途の土産に、貴方様がなぜここで殺されるのか教えてあげましょうか」
「親切だな……」
「『弱者』には優しく。それが心優しい聖女としての、わたくしの信念でございますゆえ♪」
にっこりと微笑みをたたえてから、女は話し始める。
「貴方様はある罪を犯したのですよ。『窃盗』──人のものを横取りする、という低俗な重罪を」
「なんだ、そりゃ……」
「『あの方』は何年も、何百年も、何千年も──レスティアート様を想い続けてきた。愛し続けていた。再び巡り合う機会を望んで、いつまでも。そこへいきなり貴方様が現れ、全てを台無しにしてしまったのです」
何年、何百……何千年?
いきなりスケールが変わってきた。一体なんの……「誰」の話をしている?
「大精霊の契約者など、貴方様では荷が重すぎる宿業。あの方こそ、ずっと相応しい契約者でしょう」
「……なんだ、そいつ。どこの誰だよ。教えろよ……俺をこうして、死に追いやるような奴なんだろう? 陰から全てを操って、自分の手を汚さずに目的を達成するなんて──すげぇ奴じゃねぇか」
「ふっ、ふふ! 流石の貴方様でも、ご自身を殺す相手には興味をひかれるのですね? ええ、ええ、いいでしょう。いいでしょうとも! わたくしは弱者の味方ですもの。死にかけの弱い貴方に、最後の慈悲を与えましょう」
狂笑まじりに、聖女は言った。
「あの方の名はセオドア。王女レスティアート殿下の……兄君にございます」
◆
家族の話というのを、俺はしたことがない。
自慢話はおろか、毒にも薬にもならない身内の話だ。家族構成を訊かれて、かろうじて答えられたのは祖父にあたる爺くらいだった。
「ディアに剣を教えたのが、お爺様だったんですよね?」
それはある日、学校から帰ってきた後のこと。
家で不意に、ソファに座るレティがそんな話題を出してきた。
「ああ……教えるっつーか、『叩き込まれた』って感じだけどな。実戦派というか脳筋というか」
一方の俺は台所で夕飯の支度をしていたと思う。今度こそ包むオムライスを成功させようと躍起になっていた覚えがある。
「アホみたいに強くてな。まぁ、あの家でも人間兵器扱いされてたから、ちょっと人間の枠は超えてたんだろうな。俺も一度も勝てたことなかったよ」
「ディアが負けてしまうほどのお相手とは……お会いしてみたかったですね」
「ん? 誰が負けたなんて言った。『引き分けた』だけだ」
「……え?」
真実、あの爺は強かった。
刈間零仁。歴史の影に埋もれた剣の鬼。
俺は終ぞ、最後までそいつに勝利することはなく──
『──結局、引き分けか。まったく、老いぼれに敬意の欠片もねぇ野郎だったな。俺様が負かせなかった相手なんぞお前だけだぜ?』
それが奴との最後の会話だった。
勝ち越しもなければ負け越しもない。
最後の勝負まで、俺は爺に「勝った」とは言わせなかった。
「…………ディアがやっぱりなんかおかしいです」
「才能だけで生きてきた、という言葉は俺のためにあるようなもんだからな」
と言ってから、ふと思った。
「そういやレティの方は? 前に軽く聞いたが、兄弟とかはやっぱりいたのか?」
「んー、そうですね。親戚は多かったようですが、私はあまり身内で関わりを持ったことはありません。というか、そういった方面の役割は用途外だったのでしょう。私がよく『皇女』ではなく『王女』と呼ばれるのは、国を運営する皇族として数えられていなかったからですし」
「あー……」
クルイロフ帝国。ならば、その王家に生まれたものは「王女」ではなく「皇女」である。
しかしレティはその称号を持たない──戦線送りにする生体兵器に、その名は不要。“国王の娘”だという事実だけを残し、皇族からは除外されたのか。
「つまり実質的な絶縁状態ということです。国家の運営に関われる人材のみが皇族を名乗ることを許される。まあ、あの合理国家らしい区別ですね」
「そうか……んじゃあ、その皇族の子孫とか末裔とかがいたら、お前の親戚ってことになるのかね」
「当世にですか? それはないと思いますよ」
「え、そうなのか?」
そこで後ろからレティが抱き着いてきた。柔らかい感覚に動揺の声こそ押し殺したものの手元が狂いそうになり、俺は咄嗟にフライパンを持ち直す。
「帝国はあの時代に礎となって終わりを迎えるよう計算されていましたから、血族も残っていることはないでしょう。なので私とディアが、新たな皇族の始まりになるんですよーっと☆」
◆
確かそういう話だった。
レスティアートのことを思い出したので、毒の激痛も半減した気がするのは思わぬ収穫だ。レティはいずれ万病に効くようになるのかもしれない──それはともかく。
「兄、だと……?」
レティの兄弟。
だが、それはおかしい。おかしさしかない。その存在ではなく、その生存が。
レスティアートの家族は──家庭は、どれだけ埒外な能力を持っていようが、ただの人間だったはずだ。
それが現代まで生きているなんて、こんなに道理の通らぬことはない。
「得心いきませんか? ですが寿命を延ばす精霊なんて、いくらでもいるでしょう。多くの対価を支払って、彼は彼女に会うためだけに待ち続けていたのです──三千年間、ずっと」
……三千年、たった一人との再会を待ち続けた、相手。
そこへ俺が割って入って──今の、台無しな状況、ってか。
「……なるほど。そりゃあ……」
間男、と呼ばずして他になんという。
殺されるくらいの恨みを持たれて当然だ。凄まじい執念だ。三千年って……イカれてるとか、そういう次元を超えてんじゃねぇか。身震いするぜ。
「と、こういう訳でして。貴方様が人生の道半ばで倒れてしまう理由……理解できましたか?」
「ああ……理解したよ。痛感するくらいだ。ははっ……すげぇ奴がいるもんだな、世の中には……」
そんな俺の敗北宣言とも取れる発言に、黒い聖女は満足気に微笑んだ。
そこでようやく、その足が俺の左手から退けられる。
「納得いただけたようで何より。さて、そろそろ……お別れですのね、貴方様」
「……そう、らしい、な」
電流は、もう地面に流れていない。
だが猛毒の電流だ。一度でも食らったが最後、もう──人間は、動けない。死を待つしかない。
普通の人間は。
「ご清聴、ありがとうございました。悔い改めた貴方様が来世で……どうか本当の幸福を掴めることを、切に祈りましょう」
傘を虚空へと消した黒い聖女は、優雅なカーテシーを一つ。
ピクリとも動かなくなった俺は、目を閉じて────そいつが踵を返し、歩き始めた足音を聞き届ける。
──直後、目を開く。
素早く立ち上がって一気に飛び出す。異常に気付いた聖女が振り向く前に、背後からその首に左腕を回して体を固定し、右手に握り続けていた刀を、容赦なく胴体へとぶち込んだ。
「ォッ、がァァッ!?」
噴出する鮮血。濁った女の絶叫。
突き刺した刃から分かる、肉を裂く気色の悪い感触。
「──な、なぜ──何故、なんでぇ!? なんであなた、動けっ……」
「この程度かよ、クソ聖女」
「──ッ!!」
背中を蹴り飛ばして、その華奢な体から刃を引き抜く。
刀身についた血は振って飛ばす。びちゃりという音がした。
強烈な一撃を食らったせいか、自称聖女は蛙のように地の上で痙攣している。いい気味だ。
毒と薬は紙一重……拷問には昔から慣れている。
だからこうして痛覚を無視して動けるのは、剣才以外での俺の数少ない特技だ。正直、立つのもキツいが、まだ踏み倒せる範疇にある。耐久試験のようなものだと思えばいい。
「確かに俺ぁ、『人を斬るな』って言われて鍛錬はしてきたぜ──だがよ、自分をぶっ殺しにくる相手を見逃すほど、お人よしのつもりはない」
最低で最悪の人間だ。低俗で、凡庸で、救いようのない人間の一人だ。
レスティアートには嫌われるかもしれない。良夜や架鈴なんかが見たら縁を切られるだろう。
だがな──
「俺はレティ以外に殺されるわけにはいかねぇんだよ。浮気になるからな」
俺を殺すのも生かすのも、彼女しかいないと信じているし、決めている。
だからそこに泥を塗るようなこういう輩は──始末するに限る。
といっても、まずは情報を引き出し切ってからだが。
「さて……じゃあ訊かせてもらうかね、色々と。まずはさっきの話についてから──、!」
言いかけた時、バリン! と音を立てて街灯の灯りが消えた。
いや、その直前に銃声があった。夜目を利かせて目を凝らす。洞窟の暗がりの向こう。歩いてきた十人ほどの武装集団が、こちらに銃口を向けていた。
(こいつら……)
船で見た者たち。
ショッピングモールでも見たテロリスト。
──それは最後には例外なく記憶を忘却させられていた、あの武装集団だった。
「撃て」
「刹火ッ……!」
端的な命令と同時、一斉射撃が開始する。
俺は反射的に斬撃を飛ばし、四、五人の武装をぶった斬る。残る銃撃は最小の動きでかわし、弾丸を斬って、隙を縫って再び斬撃を放った。
「うざってぇ!」
倒れた人数はプラス二人。残るは三人──と思ったところで、嫌な予感がして俺は大きく後ろへ下がった。さっきまでいた所に、別の暗がりから射撃が飛んでくる。
「おいおいマジか……」
夜目が利くようになっていて本当に良かった。
この洞窟の天井は高い──街灯の突き刺さったここを地上だとするなら、そこは此方を見下ろす高く切り立った岩壁の上。二十人規模の武装隊が、闇の中で銃口を構えているのが見えた。
「なんなんだお前らは……って、聞いちゃくれねぇか……!」
再び一斉射撃。だが包囲網の範囲は広い。再び斬撃に霊力を乗せ、真紅の一閃を──その岩壁という地形もろともぶった斬るようにして、極大の斬撃を振り放つ。
「なッ──!?」
洞窟内が盛大に崩れ、落ちていく射撃隊の悲鳴が聞こえてくる。
だがそれを見届けている暇はない。
「沈んでろボケカスども……!」
言いつつ、まだ地上に残っている射撃隊の一人に接近して蹴り飛ばす。そいつが立っていた仲間に衝突して倒れたところで、俺は死角から発砲されてきた弾丸をかわして斬撃を放つ。銃がバラバラになる中、すぐさまナイフに持ち替えて向かってきた最後の一人の攻撃を回避し、勢いで殴り倒した。
「ごふっ……けほッ」
血反吐を吐き捨てる。毒のせいで平衡感覚が怪しいが、地面の感覚を頼りに立ち続ける。
……ここで倒れれば、待っているのはさっき上から落ちてきた連中の追撃だ。さっさと逃げ道を探すかしないと──
「づッ……!?」
右の脇腹に風穴が空いた。
直後、全身を見えない大気のハンマーにぶん殴られたような感覚と共に、バスの残骸に叩きつけられる。
「がァァァッ」
意識が明滅する。身体が地面に落ちる。
何度か血を吐きながら、蛆虫のように転がり這う。
“──まるで虫のようにしぶといな。終わった生に縋る者ほど醜いものはない”
遠くで、そんな男の声が聞こえた。
誰だ──誰だ? 顔を上げても視界が上手く機能しない。ローブを着た人影だ。その近くには……精霊。銀色の……精霊の気配が、ある。
“ようやく毒が回ってきたようです……まさか、ここまで耐えられるとは思いませんでしたわ”
“貴様の仕事は終わりだ、卑しい聖女。疾く失せろ”
ざり、ざり、と足音が此方に近付いてくる。
……腕に力を篭める。刀の感覚はある。なら──立てる。この手に剣がある限り、俺は動ける。それしか能がないんだから。
“ぬっ……”
“……ここまでくると怪物ですわね”
立ち上がった。
周囲の状況は、上手く把握できない──だが、戦える。刀を構える。
“なるほど。英雄に選ばれる人材というだけはあるか。……〈望霊〉”
“願望成就、受諾。精神負荷、増大”
少女の声が聞こえると同時、どこからか悲鳴が上がる。恐らくは武装集団の一人──直後、俺は全身が鉛にされたような怠さを感じ、膝をつく。
「それが……どうした」
頭が重い。眠ってしまいたい衝動に駆られる。益体のない希死念慮の思考が渦を巻く。
この感覚は知っている。ならば対応できる。立ち上がる。
“っ……”
呼吸の痛みを利用しろ。痛覚で外界との境界を把握しろ。俺に折れるほどの精神なんかない。俺にあるのは剣だけだ。斬ることだけだ。それ以外に何がある? だから寝てる暇なんかねぇだろ、とっととシャキとしろよ馬鹿野郎──!!
“なんだこいつは。人間なのか?”
「ッ……!」
ドン、と音がして左足が熱くなった。
撃たれたのか? 知らん。どうでもいい。目の前に敵がいるなら──俺は斬るだけだ。
「刹火ァァ!!」
刃を放つ。真紅が発生する。斬撃がカッ飛んだ。
それはどこかへと飛んでいき、崩落の音が聞こえてくる。
“これはいい。挑戦のし甲斐がありそうだ”
「うっ……!?」
顔を掴まれ、そのまま後頭部を壁に叩きつけられた。
今度こそ、ぐらりときた。意識がトびそうになる。手から刀の感覚が消えていく。
“なにをなさるおつもりで?”
“なり替わるのさ。条件はあるが望霊なら可能だ。『彼女』と出会うまでの彼の人生を追体験し……それを越えれば、晴れて現在において、私が刈間斬世となる”
なりかわる……?
なんだ、どういう話だそれ。俺に? 俺になるっつったのかコイツ? 正気か? 追体験? アレを? 何言ってんだ? 本気か? 馬鹿か?
“こいつのせいで全てが狂った。だが、仕切り直せる。教団は失うことになるが、惜しくはない。彼女と共に在れるのなら”
“狂愛、ですわね。ええ、素晴らしき純愛ですこと。そんなに彼女を愛しているんですのね”
“そうだ。そうとも。何千年、焦がれ続けてきたと思っている。ようやく彼女に手が届く。彼女の心も、体も、魂も……ようやく手にできる。さすれば、かの帝国の再興すら可能だ。っはは……ようやくだ。ようやく……”
……要はレスティアートが欲しいって話か。ふざけてんのかこいつ。死ね。
“君の全ては私が貰う。いや、本来お前が得たものは私が手に入れるものだった。だからこれは「返してもらう」というのが正しいな。なに、儀式が完了するまでの余命はある。恐怖に震えながら、大事に過ごすがいいさ”
「──ハ」
ククッ、と思わず喉から笑いが漏れた。
もう完全に勝ち誇っているこいつの口調が、心底おかしかったからだ。
「できねぇことほざくんじゃねぇぞヘタレ……正面から女口説くこともできねぇ奴が、俺に、敵うワケ、ねぇだろ……」
なり替わられるかもしれない──俺は俺でなくなるかもしれない。
という恐怖は、実のところ、微塵もなかった。
だって出来るワケがない。いや、むしろ成し遂げてみせたのなら、少し感心してしまうまであった。なにせ俺が経験してきたことを、こいつは知ることになるんだから。
「やれるモンならやってみろよクソ野郎。──お前が正気を保っていられるか楽しみだ」
笑いながら口から血が零れる。鉄の味がする。
顔を掴む力が強まった。
“──やれ、望霊。然る後、私の肉体は本部に安置しろ”
“願望成就、受諾。存在回廊にアクセス。代替回帰──開始”
そこまでだった。
意識は切断され、世界が闇に墜落する。




