00 月下絶命
──心臓を握りつぶされた。
そのような感覚だった、ではなく。
比喩ではなく────物理的に。
ごはっ、と自分の口から血を吐き出す。いや、吐くというより噴き出したような感覚だった。狂った血流が逆流して意識が明滅する。此方に突き刺された腕が、白い服飾が、赤に穢れていく。
「ゲハッ……ァが、づっっ……!!」
ロクな言葉など紡げるはずもない。
激痛という劇痛が全身を走り抜けながら、しかし視界には、たった一人だけを映している。
──まっ白な女だった。呼吸が止まるほどの美貌。冴えた青玉の瞳。
あどけなく整った輪郭。穢れぬ月白の肌。可憐に調和した鼻梁と唇の形象。色素を帯びない長髪が月下の光沢に濡れ、鎧をまとう戦装束さえ彼女の引き立て役でしかない。
自分が何のために生きてきたのかと問われれば、間違いなく。
この相手に出会うためだったのだと断言できるほど────美しい。
「そう……あなたが……」
「ッ……!?!?」
蕩けそうになる甘い声色。
美しい女は眉一つ動かさず、柔らかな微笑みで俺を見つめてくる。
「私の恋人……」
呆然としたまま、よく分からない単語を名前のように囁かれ。
唇を塞いだ柔らかい感触を最後に、俺の意識は断絶する。
ああ──
……こんな美人に殺されるなら悪くない、なんて思いながら。
◆
──数日、時は遡る。
春から夏に移り変わる頃の、六月上旬。
近年、都市開発が盛んに進む境黎市は、摩天楼が立ち並ぶオフィス街だ。太陽が地平線に沈んだ夜間に差し掛かれば、さぞかし美しい夜景が拝めたりするのだろう。
その中でも一際暗く、人気のない路地裏には、
「死ねェェエ刈間ァアアア!!」
「だからうるせェっつってんだよ不良とか今時恥ずかしくないのかスーパーのセールに間に合わなくなるだろがァア──ッ!!」
捻りのない怒号と、単調な打撃音が響いていた。
叫びながらやみくもに襲い掛かってきた馬鹿を蹴り飛ばし、次いで、ガタイだけは良い阿呆が拳を放ってくる。カウンターで一撃を叩きつけると、派手に吹っ飛んだ男は、余計な断末魔さえあげることなくゴミ箱に頭を突っ込んでいった。
そこで顔をあげ、周囲に広がる死屍累々さに辟易する。
不良百人斬り。
いや斬っちゃいないが、六人も男子高生が倒れていたらそんな惨状だった。よく見るいつもの光景だった。
「……はぁ、はあ、はあ……いいな? もう終わりだな? 俺は先に定時退社させてもらうぞクソバカども……」
「待ちやがれぇぇええ!! ──ごはァッ!?」
こっちは息が切れてきてるというのに、根性だけはあるチンピラの一人が起き上がってきた。ので、起き上がってきたのを察知した瞬間、顔を殴り飛ばして今度こそ昏倒させた。
「……タイムセール……!!」
スーパーの安売りが終わるまであと幾分か──と焦燥感に駆られながら、俺はさっさと路地裏を後にした。
「……やってられねぇ」
無事、なんとか食料を買い込むことに成功し、学生寮までの帰路を歩く。
我ながら、目を引く容姿をしていることに自覚はある。
後ろで短く一つ結びにした白髪、赤い目。高校一年にして育ちすぎた背丈。ついでに、絶望的なまでの目付きの悪さ。
ごく普通の男子高校生とは到底言えない。不良男子高校生そのものである。
それに加え、俺は春に越してきたばかりなので、この街を縄張りにしてる輩からすれば新参者だ。しかもあの学園に通いながら、六月に入ってもなお、『精霊召喚』に一度も成功していない劣等生ときた。
負のロイヤルストレートフラッシュ状態か何かだった。完全に終わっている。
「刈間!!」
「……」
道を塞ぐ、見覚えのある人影。先ほど殴り倒した小物の一人だった。
まさか買い物帰りにまでつきまとってくるとは……暇しすぎだろ、こいつ。
「なんだよ……もう今日のケリはついて──」
「魔獣だ! き、岸沼さんが……みんなが──」
「──、場所は」
「こ、こっちだ!」
レジ袋から手を離す。走り出した奴の後を追いかけ、暗がりの路地裏へと再び踏みこむ。
……周囲の空間のノイズは少ない。だが歪んでいる。侵蝕したてといった具合だろうが、魔獣が出てきているのは非常にマズイ。
「クソッ!! なんなんだよこいつは!」
袋小路になっている最奥まで行くと、そこには異形と相対する影があった。
一人は剣を持った学生、もう一方は六メートルはある四つ脚の化物だ。こちらはでかい猪にも似ていた。影のような存在で、ソレが存在する周りにはノイズが走っている。その後ろにある、行き止まりになっているはずの壁も同様だ。
──魔獣。異界からの脅威にして侵蝕者。
アレに対抗するのは、通常、精霊と契約した者たちなのだが──
「ぐぁぁああ!?」
「き、岸沼さん!」
化物の突進を受けて、長剣持ちの奴が吹っ飛ばされる。慌ててそこに駆け寄るのは案内してきた青年だ。
……あいつらの契約精霊は既にやられた後のようだ。時間が経てばまた召喚はできるだろうが、この場での再戦は不可能だろう。
「っ……!? て、テメエ! なんであいつを……!」
「い、いや、ちょうどいい所にいたんで、咄嗟に……」
「馬ッ鹿か!! 刈間に契約精霊はいねぇんだよ、だから落第生なんだろうがッ!!」
背後からは酷い言い草が聞こえてくる。見捨ててやろうかこいつら。
しかし精霊を召喚できないだけで落第生扱いされる教育機関、本当にどうかしている。
というか、俺なんかがそこに通ってる事実自体がオカルトだが。
「おい、借りるぞ」
足元に落ちていた長剣を拾い上げる。岸沼という奴が持っていた武器だ。
精霊はいないが──魔獣に対抗する武具なら使いようはある。
とりわけ、刃物なら俺の唯一の得意分野だ。
《────!!》
まだ現世に適応していないのだろう、生物としてはぎこちない動きで魔獣が飛び掛かってくる。
俺は剣を片手に、構えることもなく突っ立っている。
接触は一度。ならば勝敗がつくのも──一瞬のことだった。
◆
「次からは気を付けろよ」
──そう言ってその場を立ち去った青年の後を、彼らは追いかけない。
地面に砕け散った己の得物の破片を、岸沼は呆然と見つめていた。
「……き、岸沼さん……あいつ、落第生って話じゃ……」
「……、いや精霊士としてはそのはずだ。精霊と契約してねぇんだからな。……チッ、特待生で入学したってのは、こういうことか……?」
夜の路地裏の異変は、こうして人知れず終息した。
元の袋小路となった壁には、一線の斬撃痕のみが刻まれている。
「……本当に人間かよ」
精霊の加護もなし。恐らくは、己が天賦の才のみで完結した怪物。
魔獣ごと、その向こうの領域との繋がりまで「斬った」剣士に──運命はまだ訪れない。