第10章【2】
「恋ってなんでしょう……」
賑やかな食堂での和やかな昼食会。リティカがそんなことをぼんやりと呟いた。イリーとリッツは顔を見合わせ、首を傾げる。先にイリーが口を開いた。
「急にどうしたの?」
「いえ……キールくんが優しいのは私のお助けキャラだから……って思っちゃって……」
リティカの同級生のキール。ブライトは、続編のヒロインをサポートするために登場するキャラクターである。入学当初から友人となるため、出会ってから仲良くなるまでそう時間はかからない。
「そんなの関係ないよ」イリーは言う。「この世界では、キールも自分の意思を持つひとりの人間なんだから」
「そうなんですけど……」
「私だって悪役令嬢のフローティア様と友達になったんだから、ゲームの役割なんて関係ないよ」
「キールとの関係がどうなるかはリティカ次第なんじゃない?」
優しく微笑むリッツに、リティカはまだ顔色が晴れないながらも小さく頷いた。
「イリー先輩はフェリクス様のこと、どう思ってますか?」
男性の視点であざとく見えそうな上目遣いで問うリティカの思ってもみなかった質問に、イリーは手からフォークが滑り落ちるほど動揺する。リッツが困ったように小さく笑った。イリーには、この話題について誤魔化すつもりはなかった。
「正直、まだよくわからないかな」
「うーん……?」
リティカは不思議そうに首を傾げる。リティカの最推しはフェリクスだとセシリアが言っていた。リティカが自分の立場であれば喜んで頷いたことだろう、とイリーは考える。
「状況的に、私とフェリクス様が結婚しても、恋愛結婚というわけじゃない」
「政略結婚なんですか?」
「それもちょっと違うかな。政略結婚だったら、迷いなく結婚してたかもしれないね」
軽く肩をすくめるイリーに、リッツが気遣わしげな視線を向けた。リティカは、少しだけ悲しそうに眉尻を下げる。
「それでいいんですか?」
「政略結婚は貴族の義務のようなものだからね」
「政略結婚は辛くないんでしょうか……」
「辛い想いをする人はいると思う。すべての妻が歓迎されるとは限らないから。すべての夫が妻を愛するとも限らない。煩わしいものであるのは間違いないだろうね」
イリーは平民出身であるが、いまはマッケンロー伯爵家の娘。いずれ義父が選んだ相手と結婚するつもりでいた。イリーが苦しむような結婚は義父が許さなかっただろうが。
「フェリクス様と結婚するのが最善ってことはわかってるんだけどね」
「私が言ってもいいのかわからないですけど……早めに決めたほうがいいと思います。イリー先輩は聖女ですから」
リティカは声を潜める。イリーが聖女であることは、リッツとフローティア、攻略対象たちしか知らない。それを公にすれば、イリーを欲する者が大量に湧くことだろう。
「早いうちにフェリクス様との婚約を発表しないと、イリー先輩が危険に晒される可能性もあります」
リティカが案ずる表情で言うので、イリーは軽く肩をすくめた。
「わかってはいるんだ。でも、そんな利用するようなことをしていいのか……」
「兄はそれを了承しているわ」リッツが言う。「イリーは私の親友なんだから」
「うん……ありがとう」
いまは曖昧に返すことしかできない。フェリクスも義父もそれを了承している。あとはイリーが頷くだけなのだ。
「正直、フェリクス様と結婚できるなんて羨ましいです」
つくづくと言うリティカに、イリーは小さく笑う。
「リティカの最推しはフェリクス様なんだよね」
「はい。だからこそ、イリー先輩にはフェリクス様と結婚してほしいんです。最推しと最推しが結婚するなんて、推し事の至高ですよ」
リティカはあくまで真剣な表情をしている。困って曖昧に笑うイリーに対し、リッツは少しおかしそうに笑った。
「なんだか、少し前のイリーを見ているようだわ」
イリーは最推しであるフローティアが婚約者であるアルヴァルドと結ばれることを望んでいた。そのために尽力した。もしかしたら、今度はそれがリティカの番になるのかもしれない。
* * *
友人に呼ばれたリッツと教室前で別れ、イリーはいつもの席に腰を下ろす。授業が始まるのを待っているあいだ、ぼんやりと考えに耽った。
(結婚なんて、したくない。恋心なんて……偽物だ)
口が裂けても声に出して言うことはできない。そうでない人が身近にいるからだ。
「なんだかぼうっとしているのね」
ちょうど考えていた人物が声をかけて来る。フローティアが首を傾げつつ、イリーの左隣に腰を下ろした。
「フローティア様は、アルヴァルド殿下との婚約が決まったとき、どんなお気持ちでしたか?」
出し抜けに問うイリーに、フローティアの頬が少しだけ紅潮した。フローティアはそれを誤魔化すように、ぷい、とそっぽを向く。
「レヴァラレン公爵家の娘として当然のことよ」
「公爵家の娘でなく、フローティア様ご自身としてはどうでしたか?」
フローティアの顔がさらに赤くなるので、イリーは天を仰ぎそうになるのを堪えた。
「正直なところ……嬉しかったわ。だから、国母に相応しくあろうと思った……。けれど、アルヴァルド殿下は国のための婚約だとお考えだったでしょう。……あなたと出会うまでは」
不意にフローティアが真っ直ぐにイリーの瞳を見つめる。イリーは頭が爆発しそうになっていた。
「あなたがわたくしを変えてくれた……。それまで、あの方はあまりに眩しすぎたわ。アルヴァルド殿下が微笑んでくださると、あなたのことを思い出すようになった。わたくしがここにこうして居られることは、あなたのおかげよ」
嘘偽りのないフローティアの言葉に、イリーは苦しくなって胸元を押さえる。
「そんなに私を褒めて、どうなさるおつもりですか……」
「本当のことよ。あなたがいなければ、わたくしはどうなっていたか……」
「フローティア様にそんなこと言っていただけたら、私は昇天してしまいます……」
イリーはついに天を仰いだ。仰がざるを得ない。
「やっぱりフローティア様は女神です。このままでは、天界に連れ去られてしまいます」
逆を突いて真顔になるイリーに、フローティアはおかしそうに小さく笑った。
「あなたのそれは一生、変わらないのでしょうね」
きっとその通りなのだろう、とイリーは思う。変わるつもりもない。変わる必要はない。フローティアはこのままのイリーを受け入れてくれた。それはきっとフェリクスも同じなのだと考えると、少しだけ苦しくなった。




