追放しても、第二第三のわたしがほら、そこに。
2021年10月20日pixivにて「一迅社異世界漫画原作_令嬢聖女」にて投稿したものをこちらにも転載する。
「皆の者、よく聞いてくれ! とんでもない事実が判明した!」
ゲマインシャフト学園、卒業生送別会の席上だった。和気あいあいと話し合う未来の重鎮たちを押しのけるようにして、生徒会長を務めた王子、ハインリヒが大声を出した。
金髪碧眼、整った顔立ちは、王家数百年の遺伝の賜物である。しかしながら現国王陛下と比べて見劣りがするのは、やはりこういった空気の読めないところかもしれなかった。
生まれた時から権威と階層に対し従順になるよう叩き込まれた同級生は、雷に打たれたように硬直し、先を争って己のグラスを間近のテーブルに並べた。
そんな中、初めからグラスを手にしていなかった少女は、落ち着いた所作でシガレット・ケイスを取り出した。純銀のケイスからすらりと一本、香草を調合して作った煙草を取り出す。
彼女は王家に最も近いとされる公爵家の一人娘で、王子の婚約者という立場でもある。
にもかかわらず、彼女は遠巻きに、どこか腫れもののように扱われていた。
何より、ハインリヒの憎々し気な視線が、将来の伴侶に向けられている時点で、多くの人間がこれから起こりうることをほとんど正確に予想していた。
「そこの! グレース家の一人娘アリスは、偽者の聖女である! 本物の聖女は、今私の隣にいる。未来あるマクレガー男爵家が娘、ライン令嬢だ」
聖女の象徴たる純白ドレスに身を包んだラインと視線を交わし、目尻を下げたハインリヒは、再び声を張り上げた。
「偽物の聖女として、この国を混乱させ、支配しようとした罪は重い! よって私は、グレース・アリスから、聖女の称号を剥奪するものである! 同時に、婚約も破棄するとこの場を借りて宣言する! これが、次期国王たる私ができる、彼女への罰だ!」
シガレット・ケイスの留め具がぶつかり合う音が、大広間に響き渡った。
聖女に関して、様々な奇跡が吟遊詩人などによって歌われている。王都の大神殿に行けば、神官たちが喜んで彼女たちの生涯について語ってくれるに違いない。
ただ、そもそも聖女が確認され始めたのはいつなのか、という根本的な疑問に関しては、不明瞭なことが多い。
――正確に言えば、ぼかされている。
国教、ツァンの神殿にて、神官らによって祝福された子供の中で、奇跡を宿す子供が見いだされ、認定される。
王家というのが俗世的な権威であるなら、好対照なのは神殿――と決めつけるのは早計だ。
神殿は多くの信者たちを抱え、一つの勢力となっている。時の権力者に対しても神殿が首を縦に振らねばたちまち足元が不安定になる。
その一方で、神殿は多くの寄付によって成り立っている。修行によってどんな民をも救うという題目に寄付を募るのだが、やはり大口は貴族、特に王家である。
結果的に、よほどのことがなければ、王家と神殿は対立しない。蜜月である限り、両者ともに現世のすべてを手に入れられるのだ。
見かけは対立、内実はグル。
こういった体制は決して珍しいものではない。
――少なくとも、『世界史』を知っているなら、なおさら。
『この状況を作り上げるために、神殿にどんな対価を払ったのやら……』
立ち上る煙から視線を外せば、正装に身を包んだ巨漢が一人、頭痛を堪えるように額を押さえていた。
あなたが心配する必要はないんじゃないの、と声を出さずに伝えれば、
『我が姫君が草葉の陰で泣いておられる』
と、巨躯にぴっちり合わせたタキシードを揺らし、聖女の使いは嘆いていた。
初代の聖女は信心深い王家の姫君だった。彼女は政争から降り、王家を離脱した後、各国を旅し貧困にあえぐ人々のために尽くし、最後には病死したと伝えられている。
王家を離脱した彼女だが、決して無能だったというわけではなく、むしろ政治的にも有能であったとされる。
彼女は女性の地位向上のために聖女の称号を作り上げた。そして、生前はその称号を何度も固辞し、死後ついに聖女と認定されたという経緯がある。
つまり聖女という称号は、初めから政治的なシンボルとして作られ、姫君の活躍によって宗教的な意味合いを帯びたというのが正しい。それを提案した本人だからこそ、彼女は神殿が自分を聖女に認定するのを避けようとしていた。
とはいえ。
長い銀髪を揺らし、我が姫君がと嘆く、一般人には見えない精霊。
彼女の数多の伝説の中に登場する、元悪霊。
これを従え、死後も敬慕されるあたり、神通力は本物だったのかもしれない。
『……それにしても、今までの神殿の在り方、聖女認定については、思うところはないの?』
指先に灯した火を消しながら尋ねると、元悪霊は大袈裟に肩をすくめた。
『たとえ神殿が何といおうと、本物の聖女は我が姫君一人』
『ここにいる男どもに見習わせたい一途さよね』
あるいは元悪霊ゆえのいわゆるヤンデレという奴か。
会話の流れをぶった切るように(実際聞こえていないから仕方がないのだが)、わざとらしくマントを翻したハインリヒが叫ぶ。
「グレース・アリス! 公爵家の実績を慮り、お前の家に責を問うような真似はしない。だが、今一度正しい信仰に立ち返り、本来の聖女の在り方について、自宅にてよく考えるがよい!」
王子の断罪は終わった。
『罪人』に恥をかかせるための儀式を大々的に披露したかったのだろう。とはいえ、何も送別会の出し物であるかのように、途中に挟まなくてもよかったものを。
『空気を読むなら、お前がこの場を立ち去る方が円満に治まるはずだが』
『難癖付けて聖女の肩書を剥奪してきたのに?』
煙草を唇で挟み込む。麝香の甘い香りが薄い膜となって体を包む。早く立ち去れと目で威圧してくる王子とその取り巻きがなんとも鬱陶しい。
あれだけ盛大に啖呵を切ったのだから、そのまま高飛車に命令すればいいものを。妙なところで小心に見える。
膠着したこの場をぶち壊すのは、プライドばかり高い男どもとは異なる『オンナ』であった。
「アリス様! その、煙草を一本、いただいてもよろしいですか!?」
駆け寄ってきた男爵令嬢、マクレガー・ラインの言葉に、王子の取り巻きだけでなく、推移を見守ってきた周囲すらぎょっと目を剥いた。
『この女は……』
元悪霊も額を押さえて空を仰ぐ。
周囲の反応は、わからなくもない。元聖女に現聖女。私をハメた悪女という見方も十分成り立つし、悪口を吹き込んで自分が聖女になったというなら、疑いようのない加害者だ。
――とはいえ。
「ええ、どうぞ。指を火傷しないように気を付けてね」
シガレット・ケイスを開き、なかよく煙草を喫む姿に、周囲のざわめきが大きくなった。
煙草を咥え、爪に魔法の火を灯し、唇をなぞるように指を動かせば、一筋の光となって消える。
紫煙が二つ立ち上り始めた。
「ライン!」
王子の制止も聞こえなかったのか無視したのか、
「どうせなら、バルコニーへと行ってみませんか?」
「あら、あそこは確か、生徒会しか入れないと思っていたのだけれど?」
「大丈夫です! 私もハインリヒ様にお願いして入れていただきましたから!」
銀色に輝く鍵を掲げるラインに対し、これ以上ないほどに狼狽するハインリヒ。取り巻きの一人からも、鍵まで渡しているなんて正気ですか!? と詰られる有様である。
私もサポートにも回ったのだろう。婚約破棄さえされなければ。
「殿下のお墨付きがあるなら安心ね。じゃ、行きましょうか」
今更、アフターフォローの必要もなかろう。
『姫……我が姫君……あなたが恋しく思えます……今はどちらにいらっしゃるのか……』
「何をぶつくさ言ってるのよ」
月明かりに照らされた廊下を、三人で走り、辿り着いたのがバルコニーだ。校舎を見下ろす形で設置されたこれは、王族が学園を訪れた時に必ず挨拶するために使用するもので、ぶっちゃければこれもまた権力の象徴と言える。
煙草を指の間に挟んで手すりから見下ろす私と、背を向けて腰かけるライン。
そして、壁に頭を打ち付けるようにして嘆き続ける男が一人。
ふう、と紫煙を吐き出したラインは、まっすぐに三人目を射抜き、言った。
「いったい何を、そうやって嘆いているというの? あなたとて、王子の取り巻きに飽き飽きしていた様子だったのに」
「女性が強かであることは、姫君も望んでいたのではなくて?」
『お主らのような強かさではないわい!』
いつもの紳士面も剥げ落ちて、くわっと口を開くと顔の半分が潰れ、爬虫類のような鱗が見え隠れする。作画崩壊ならぬ、まんま顔面崩壊だ。
私とラインはどちらともなく顔を見合わせ、噴き出した。
王家も神殿も、聖女の肩書を見栄えをよくするものでしかないと知っている。自分たちがそのように取り決めたのだから、そうであると思い込んでいる。
ゆえに王家や神殿にとって都合が悪ければ聖女を引きずり下ろすことができるし、代わりの人間を据えられる。
だが、自分たちが作り上げた聖女の伝説の中に、本物が混じっていたという事実には、気づくべきだったかも知れない。
初代の聖女が、もう一人の自分に出会うという山に出かけた。対になる心を映し出すと呼ばれる山へ、彼女が行くことを周囲は大いに恐れた。彼女ほど心もちが立派な人間と対になるような怪物が誕生することを恐れたのである。
周囲の反対を押し切って、聖女は三日三晩山にこもった。そこで聖女は、もう一人の自分と出会った。彼女は悪に染まったもう一人の自分を見、常に正しくあろうとする心によって悪を消そうとする自分の間違いに気づいていたのである。下山後、聖女は、悪は心から追い出すものではなく、常に自分を律することで自ずと鎮めるべきものであると説き、人々の前で幾人にも増えた姿を見せた。
というのが、神殿に伝わる話である。このいかにも説話っぽい説話は比喩として受け止められたが、時たま、聖女と認定された少女たちの中には、この分け身という力を使える者たちがいた。
先達がこの不思議な力を神殿や王家に漏らさなかったために、私はありもしない男爵家を作り出し、ラインというもう一人の私を生み出した。
『だが、その魔法の真意は、説話の通りだ。決してそのような……立場の安寧のために見出されたものではない!』
鼻息荒く語る忠臣に、私たちはどちらともなく顔を見合わせる。分け身とはいえ、互いの顔がそっくりだとか、そういう風には見えない。けれど彼女は私であり、私は彼女だった。
「別に立場に固執するために、あなたの姫君の置き土産を使っているわけではないのだけれど」
「考えてごらんなさいな。あなたの慕う姫君が立派だったことは私たちにもよくわかる」
「けれど、姫君がどんなに優れた人間だったとしても、結局は王室と神殿の権威の象徴として使われてしまったわ」
私とラインの言葉に、精霊は黙り込む。逆立った髪から徐々に力を抜くと、己の無力に打ちひしがれるように呟いた。
『……そうだ。姫君は……人間の、個人の弱さを誰よりも知っておられた』
そして彼はきっと顔を上げると、私たちをねめつける。
『では訊こう。その力を使い、ありもしない男爵家を作り、一人二役をもって自らを貶めるような真似をしたのはなぜだ』
「……カール」
私は久々に、彼の名前を口にした。姫君に名付けられ、代々の聖女にのみ呼ぶことを許したその名前を。
聖典の中では裏切り者として、姫君に助けられたにもかかわらず恩を仇で返し、結果として命を奪ったと後世に伝えられている優しき精霊の名前を。
「あなたからすれば、安っぽく思えてしまうかもしれない。私も、この件を考え始めた時点で、もうどうしようもないくらい俗っぽいという事実に気づかなくてはならなかったから」
『……御託は良い。さっさと話せ』
苛立たし気に足を踏み鳴らし、牙をむき出しにする彼に、私は言う。
「王家と神殿の地位を、不安定なものに変えるため」
「今まで闇の中に葬られてきた聖女の認定が、どれだけ杜撰なものであるか、世間に知らしめるため」
瞠目するカールに手を伸ばす。その銀色の髪に、触れられるはずもない絹はやはりすり抜け、宙をさまよう手は壁を撫でる。
「これまでも、国王が自分の望む女子と結婚するために、相手を聖女に認定して結婚するという風潮はあった。徐々に綻びが生まれ始めているとはいえ、時間がそれを忘れさせる」
「けれど、もう忘れさせるつもりはないのよ」
「どんなに盤石な国も、いつかは滅びる。王家に弓引くこととなっても、私が愛しているのは王家ではなく国そのもの。聖女の肩書が結果として国の在り方を歪め、その人ではなく他の誰かに利用されるだけならば、聖女もまた間違ったものとして淘汰されるべきだわ」
私たちは言う。
――あなたの姫様には、悪いけれど。
二人の独白を、俺は黙って聞いていた。いつもの賢し気な笑みや、勝気な笑みは上辺だけで、弱々しい。
あなたの姫様には悪いけど、なんて。
――俺はずっと嘘をついてきた。歴代の聖女たちにしか俺の姿は見えないと。
そんなことはなかった。俺はずっと一人だった。
姫様がこの世を去ってもなお、人ではない俺はここから逃れられないままだった。姫様は、人という圧倒的に無力な生き物でありながら、志一つで俺という存在を根本から変えてしまった。
金で雇われた暗殺者が姫様に近づき、殺された。
止められなかったのはこの身が人とは異なる醜いものであったためか、はたまたやはり姫様は同じ人間と一緒にいた方がいいと考えた、余計な思い込みからか。
いや、すべては無能な自分への言い訳だ。
姫様を殺した男は聖人として神殿に祀られ、俺はその名を貶められて、悪として記録されることとなった。姫様が死んだ瞬間に、俺はこの世の誰もから求められない存在となりはてた。
いただいた名前が辱められていくことが、ただただ情けなかった。
それでも、神殿には出入りができた。作られた伝説の当事者が真実を知っていれば、嘘に基づく呪いなど何の意味もなさなかった。俺は姫様が遺したという聖女という称号に、一縷の望みをかけていた。
姫様ほどの人間が、決して絶えるはずがないと。必ず輪廻の車輪を回り、始まりへと戻ってきてくれると。
憎しみは、日を追うごとに薄れていった。あれほど固く、絶対に忘れないと誓ったはずなのに、姫様に再び会えるはずだという、根拠のない希望、楽観が、俺から力を奪っていった。新たに認定される聖女の顔を覗き込んでは、どこが姫様に似ているだろうかと自分に言い聞かせ続けた。
誰もが姫様に似ていたし、そして、誰もが俺の存在に気づくことはなかった。
――そして。
「カール?」
あなたはまったく違う声、まったく違う顔で俺の名前を呼んだ。俺の顔をまっすぐに捉えて。
たった一人を求めて身を焦がす痛み。
姫様と一緒に聞いた当時のはやり歌の言葉が、ようやく理解できたような気がした。
あなたの姫様には悪いけれど。
そうもったいぶる必要はないのだ。ただ一言、私はあなたが思っているよりも俗っぽいのよ、と肩をすくめて言ってくれさえすれば、俺はどんなあなたでも受け入れるつもりだ。
でも、まだその言葉を頂けない。だとしたら、俺はただ待つだけだ。
――人間なら、自ずと言い出すものなのだろうか。
そう考えると俺は、人間というのは、途方もない力を持っているのだと、その勇気を羨んでしまうのだ。
非公式の聖女の変更、そして婚約破棄が行われてから一か月が過ぎ、ようやくそれが公式のものとなった。歴史上の聖女の交代を紐解けば、どうにも手続きが遅い感は否めない。
『神殿側が反対したのでは?』
神殿の肩を持つような口ぶりに、思わず笑いを堪えきれなかった。カールはきゅっと眉を寄せて、鼻を鳴らしてそっぽを向く。
メンツをつぶされた形となった公爵家だが、父が何も言ってこないところを見ると、おそらく王室との間で密約が取り交わされたのかもしれない。このような見返りを用意するから何も言うな、とか。
今まで新しい伴侶が欲しくなるとやってきた手口だ。歴史ある家柄にはもう筒抜けだろう。
同時に、見返りがあると言われて納得したのであれば、公爵家は見返りがきちんと用意される、王家にそれだけの力があると見越している、という証左に他ならない。
「……いつまでもつのかしらねぇ」
「私にはよくわかりません!」
独り言を拾ったライン男爵令嬢が、向かいで能天気な大声を出し、周囲の客を驚かせていた。
何の変哲もない喫茶店。市井の人間がよく立ち寄るこの場所は、情報交換が活発に行われる場所でもあった。そこに渦中の女子二人がなかよく珈琲を啜っている光景を目の当たりにして、目を剥く客が大勢いる。
さすがに部外者はほとんど話しかけてこないが、学園のクラスメイトは恐る恐るといった風に話しかけてくる。
『私』の友達であれば、どうして男爵令嬢とそのように友誼を結んだままでいられるのか。
メンツをつぶされたことが悔しくないのか。
『ライン』の友達であれば、慇懃無礼にお悔やみを言い放ち、男爵令嬢の降ってわいた幸運におべっかを使ったり、または彼女の行動に対して消極的に諫めたり。
どちらの立場であっても寄せられる質問は、どうしてこの騒動でもそうやって振舞えるのか。
私たちは声を合わせてこういう。
「「殿方が決めたことですし」」
『悪女としか言いようがないな』
「だったらいつでも、王家の応援に行ってもらっても構わないわよ?」
『抜かせ。バカ王子の二の舞になるのは死んでもごめんだ』
日が沈むと、喫茶店は閉店し、一転酒場へと姿を変える。女将さんが外へ出ていき、閉店の看板に切り替えた。
「バカ王子と言えば、私の方もいろいろ言われてますねぇ」
ラインが思い出したように指を折る。
「なんで公爵家に喧嘩を売るような真似をするのかだとか、一緒に行動するのはいい加減やめろだとか……」
確かに、女同士が敵に回れば、かなり面倒なのは間違いない。
「で、返事は?」
「いやですねぇ。『独り言』は私の習慣なんだから、それくらいは配慮していただかないと困りますよぉ」
「あっはっは、このオタンコナス」
「えへへ」
『……異常だ。どう見ても異常だ』
ブツブツ呟いているカールは、手酌で酒を飲み始めていた。最近はこの光景も一般的になりつつある。
人の手で触れることができないだけなのか、手酌であれば飲めるようなのだ。酒を置いておけば、後は酒精に酔うことができるらしい。
「ほどほどにしときなよ、カール」
酒浸りの精霊を見下ろす女将さんに、カールは複雑な目を向ける。何か言いたげに口をもごもごと動かしていたけれど、
『お前さんに言われなくとも』
と、そっぽを向いた。酒瓶を抱きかかえるようにして。
女将さんはため息をつくと、そのままぱこん、と。
公爵令嬢と男爵令嬢の頭を銀のお盆で軽く叩いた。
「ほーら、あんたたちがバカやってるからスネたじゃないか」
「女将さんが注意したのが癇に障ったのでは……?」
「うるさいね。摘まみだされたいのかい、まったく……」
この『わたし』も、女将さんの役を楽しんでいるようで何よりだ。
同じ記憶、同じ魂が宿った『わたし』が、貸し切りになった酒場へとぞろぞろ現れる。顔も役割も違うが、それだけだ。かつてない結束力と、一度の人生では経験しえない生まれつきの階層を、それぞれの立場で楽しんでいる自分がいた。
「公爵令嬢の私がフラれて、次は男爵令嬢ねぇ……」
「ということは、その次は私の出番でしょうか!?」
目を輝かせるのは街娘。この酒場で、女将さんの下で働いている。
「もし実現したら大出世?」
「というより玉の輿?」
「そのためにはまず王子がアンタと出会う必要があるだろ」
と女将さんが醒めたツッコミを入れる。
「だいたい、貴族の娘をより取り見取りな王子が、庶民をおきさきさまに迎えるもんかね。妾にしてもらえればいいとこだろうよ」
「うーん、愛のないあつかいはちょっと……」
愛。
その言葉にドキリとさせられた。貴族同士の結婚に、愛はないとよくよく自分に言い聞かせていたつもりだったけれども、王子との間には『何』があったのだろう。
血筋と地位が釣り合うからこそ公爵家のわたしが選ばれ、次に性格が全く違う、新鮮さを前面に出したわたしが選ばれた。
王子にとって、男爵令嬢のわたしに対するものが初めての自由恋愛だったとすれば、一体愛は、どこから生まれてくるものなのだろう。
「ぬわぁに、バカみたいなことに悩んでんですか」
と、濁った声が女の園をぶち壊しにした。すっかり酔いつぶれたカールが、とろんとした目でこちらを睨みつけている。
「愛も恋も、大差ねぇですよ。相手を想う気持ち。それがありゃ十分でしょうが。あの腑抜け王子が……こぉんなイイ女を捨ててバカみたいに浮かれてやがる」
「……あの、捨てられたわたしはともかく」
「待てこら」
「新しく婚約されたわたしはイイ女じゃないんですかね……」
人の心にナイフをブッ刺した後で、妙にシュンとする男爵令嬢のわたし。
そんなわたしたちに向け、カールが一喝する。
「バッキャロ。側面だけ見てるから、イイ女の本質に気づかねぇんだよ。どんな相手にだって隠し事はあるし、特別隠しているわけでもないけど、見えづらくなってる面ってのは確かにあるんだ。そこを、時間によって埋めてくのが愛ってもんだろ」
こんなイイ女を振りやがって、とふにゃふにゃした言葉を吐き出して、カールはしなしなとテーブルの上に突っ伏した。誰ともなく笑いだす。
「酔っぱらわないと、愛の言葉をささやいてくれないわけね」
「でも、フツウの人より愛に対して持論があるみたいですよ?」
「まったく、こんな風に思われてる女は幸せもんだよ。くっつくかどうかは別にしても」
様々な立場で、様々な側面のわたしたちが、自分の考えを共有しあうように言葉を重ねる。一人、また一人とカールに上着を掛けていき、最終的にカールは座布団のような格好になってしまった。
あれだけカールにすらすらと、演説ぶっていたわたしがバカみたいだ。
本当は、王子との間に通じる気持ちがないことを、はっきり表そうとしただけかもしれない。そういう意味で、わたしは王子との間に、それを育む努力を放棄していたと言える。けれど、不思議なことに、王子に対してフラれたことも、自分の努力不足も、すべて尾を引くことはなかった。
「……ちょっと待って。わたし、このままだと王子と一緒になること決定なんですけど!?」
「あら。頑張ってみたら? 王子との間に、愛以外の何かが芽生えるかどうか」
ほほほ、と笑って見せるわたしに、男爵令嬢のわたしが牙をむく。
「自分がカールに愛してもらってるからって、こっちに全部丸投げして!」
「そんなことはないわよ。カールはわたしのすべてを愛してくれているのだから」
「じゃ、わたしはどうしろと!?」
ぐしゃぐしゃと髪を掻き回すわたしに、少し考えこんでから、アイデアを伝える。
「別にこれから、好きな人と手と手を取って逃避行するわけじゃないのよ」
「……だから?」
「だから、ここでずっと暮らそうかなって」
気まずくなった王子から追い出されるまでは。
そう付け加えると、目の前のわたしは耐えきれなくなったようにヘッドバンキングを始めた。わたしたちは笑いあう。
口にはしないだけで、わたしたちには予感があった――簡単に婚約者に偽物の烙印を押し、人目につくような場所で矜持を傷つけようとする男が、愛を育む時間の長さには到底耐えられないであろうことを。
カールはわたしを愛してくれていた。わたしがいない間も、ずっとその気持ちを大事にしていてくれた。こうして前後不覚にならないと、決して本心を吐露してくれないし、わたしの方も、カールに軽蔑されることを恐れて自分から言い出すようなこともできない。
お互い他人のふりをして、互いの距離感を掴もうとしている真っ最中。
それでも、カールが過ごした時間に比べれば、遥かに短い時間なのだ。始めたのはわたしなのだから、わたしにはその円を閉じる義務がある。ぴたりと綺麗な車輪を作り上げる義務がある。
そう、女将のわたしが言うように、くっつくことがなくとも、だ。
わたしは、過去へと思いをはせる。カールが好きになったという、わたしの過去。聖女に相応しいと言われた過去。他人も同然のわたし。
ここはわたしで飽和している。一瞬一瞬が切り取られている。わたしたちはここに集い、わたしがわたしであることを確認する。同じ記憶を共有するわたしたちは、混ざり合いながら異なるわたしへと日々変化しながら生きていく。おそらく、普通の人の何倍よりも早く。
いつか、カールに告白することができたなら、みんなでこの酒場にまた集まろう。その時、わたしはまた分け身を使って、より多くの立場を有するようになっているかもしれない。
みんなでせーのと言いあって、だれが一番好みなのかと、そんな意地悪な質問でカールを困らせてみたい。
今のカールを見る限り、きっと大真面目に全員だとでも言うかもしれないけれど、その答えはぜったいにゆるすつもりはない。
女の子は自分こそ一番だと言ってほしいのだ。
この瞬間、この時で。