月白風清
~月白く風清し。此の良夜を如何せん~
「あら? 蘇軾ですこと?」
この地で詠まれた宋代の散文である。
揚子江は南西からの風で波立ち、月がそれに合わせて揺蕩っていた。
揚子江には一艘の船。
上を向き、或いは下を向き。
ぼんやりと明るい船の上には黒い服の女と従者がいる。
「そうでございます」
「ほう……其方に文の心得があったとはな」
赤い愛嬌紅は彼女の白磁のような肌で強調され、
月夜に照らされる彼女の顔は玉のようにも見える。
「なぁ、呉楓景よ」
船の舷に寄りかかり、座っていた彼女は優雅に立ち上がり、
持っていた笏で彼の頬をツーっ、と撫でていく。
楓景は彼女の橘の匂いを胸いっぱいにため込み、
何時も突拍子もないことを言うお嬢様の言葉を待っていた。
それはたった数秒の事だったが、
楓景にとってはまるで数分、いや数十分のように思えた。
「このまま……其方と江の導くままに逃げ出したい」
「蘭英蝶お嬢様?」
白磁が紅に染められていく。
熱くなった自分の体を冷ます為だろうか、それとも秋の残暑のせいか。
彼の肩に置いていた笏を開き、自らを扇いだ。
そして、体が熱いのは楓景も一緒の事だった。
「其方の恋心、わらわが気づいていないとでも?」
妖絶に、しかしどこか無邪気さをはらんだ笑みを私に向ける。
楓景は自分の心の内が見透かされたような気がして、
神や道士を前にしたような畏怖を覚える。
しかし平然と、彼女の顔を見つめていた。
英蝶は更に続ける。
「其方と私は相思相愛……
しかしだな。そうは父上が許してくださらないのだ」
「そうでしょうな。お嬢様は藩王の娘でございます。
臣は町人のせがれ。紫禁城が許さないでしょう」
船の中央にある灯りが消える。
楓景が慌てて他の火種から火をつけるために奥へ行くと、
彼女は楓景の体をすっ、と抱き寄せた。
「紫禁城は許さないようだが……
天は我らに味方しているようだぞ」
「……本当によろしいのですか?」
暗い中でも、彼女の頬は月光に照らされ妖しく輝いている。
「時に、楓景。徐福の逸話を知っているか?」
「えぇ。始皇帝の不老不死の薬、でしょう」
「その通り。……我らも彼の国を目指さないか?」
その時、楓景に一つの記憶が浮かび上がって来た。
『お嬢様!俺が大きくなったら、東方に旅に行く!
そして、徐福の国を目指すんだ!』
『素敵な夢ですこと。私もつれて行って』
少年は満面の笑みを浮かべる。
『うん!』
「…………えぇ。では、全ては長江と神の導きのままに」
船は夜の長江を滔滔と流れていく。
月は見守るように照らし続け、
どんどんそれなしでは船の存在は成り立たなくなっていく。
そして、長江の河口へと二人は姿を消していった。
翌日、上海の海岸で一本の簪と笏が見つかったそうな。




