黒嘴鳥《くろはしどり》
マルグリットの体に鱗が生え始めてから7日が経つ。
思った以上にその成長は早く、最初は豆でも撒いたようにぽつぽつと肌に現れていた鱗の先端は、今は互いに重なり合うようにして元の肌を覆っている。
だが、当初鱗が現れた右の首筋と左手首の甲の他に、鱗が現れる気配はなかった。
今のところ体の不調もなく、マルグリットは日のあるうちは岩穴に籠って、ホルトが用意してくれる食事を取って過ごしている。
だが、不調はなくとも、変化はあった。
最初のうちはうっかり鱗で指先を切ってしまうこともあったマルグリットだったが、いつのまにか触っても鱗で肌を切ることはなくなっていた。
見た目には変わったような気がしないのだが、以前より肌がしっとりと冷たく、竜の腹に近いような感触がある。
それから、音や気配に敏感になり、暗闇でも以前よりものが見えやすくなった。
体も感覚も、竜に近づいているのだろう。
その分、これまでもう少し御しやすかった人間の心が、ひどく不安定になっている。我慢が辛い。
鱗が完全に生えそろうまであと3、4日のことだと竜には言われているが、その数日が永遠のようにも思えた。
外に出て日の光を浴びたい。自由に駆け回り、竜の背中に乗って風を切りたい。
何より、ホルトに会いたい。だが、それは数日を我慢してもきっと果たされない望みだ。
ホルトは昼間ずっと、この岩屋の近くで竜と共にマルグリットを守ってくれている。
必要な食事や水を運んでくれ、岩屋の入り口に置いてくれる。
時には声をかけてはくれるが、顔を合わせるのはかなり距離を取ってのわずかな時間だけだ。
夜は少し離れた別の岩穴で寝起きしているらしい。
今、マルグリットが籠っている岩屋はホルトが十年以上暮らしながら整えてきた「家」なので、必要な物はなんでも揃っているし住み心地もいい。
それと同時に、全ての物にホルトの姿がちらついて、その度に辛さが押し寄せる。
もうここで、今までのように一緒に暮らすことはできないのだ。
この場所はホルトに返すべきだろう。
これまでホルトと竜から教わってきたように、狩りをし、木の実を集め、時々村に下りて暮らすのだろうか。
これからは、独りで。
暗い岩穴の中で夜も昼もなく寝たり起きたりを繰り返しているので、時間の感覚も狂ってくる。
胸苦しさに目を覚まして外を覗くと、空はまだ暗い。戸板の隙間から這い出すと、東の空が薄赤く染まり始めているのが見えた。
空気はまだひんやりと張りつめていて、鳥や獣の気配はない。
無性に、水浴びがしたくなった。これまでも水に浸かるのは好きだったが、それでもこんな朝早くに冷たい水を浴びようとは思わなかった。
これも変化の一つだ。
外に出てきたマルグリットに気付いて、数頭の竜がのそりと寄り添ってきた。
いつものように頭を掻いてやり、グゥゥという嬉し気な声を聞く。
「まだ夜は明けないし、ちょっと水浴びをしてこない?」
竜たちを誘い、マルグリットはまだ暗い沢へと駆け下りて行った。
木々の生い茂る沢はまだ暗く、水音と葉擦れの音だけが響く。
夜目が利かない頃なら薄気味悪く思っただろうが、今のマルグリットなら泳ぐに困らない程度に風景が見えている。
いつものように服を脱ぎ捨てると、淵へ身を投じた。
毎日、夕暮れのあとで水浴びにきていたが、朝の水浴びは別格だ。
眠っていた全身の感覚が一気に目を覚ます。
鱗は敏感に水流を感じ取り、その感覚に血が沸き立つ。水の中でも以前よりよく物が見え、隣を泳ぐ竜の背に手をかけながら共に流れに身を任せるのはこれまで知らなかった喜びだ。
もう皮の手袋をしなくても、竜の鱗にいつでも触れることができるし、息もずっと長く続く。
日一日と楽しさを増す竜との水浴びに、少し時間を過ごした。
竜に促されて見上げると、木々の間の空が白んでいた。
(いけない)
マルグリットは急いで服を着ると、竜の背に乗る。
今は自分で走るより、竜に乗って一刻も早く岩屋へ戻った方がいい。
竜はすぐに飛び立ち、木々の梢をかすめると切り立った岩肌を駆け上るようにまっすぐ上昇する。
マルグリットは垂直に登ってゆく竜の背から振り落とされないよう、両手で竜のたてがみを両手に巻き付けている。
竜の翼なら沢からいつもの岩屋まであっという間だ。岩屋前の平場に着く手前で、竜が速度を落とした。
その時だった。
すぐ近くで羽音がした。竜の物ではない。
振り向くと、ギャ、という声がして別の竜が声の主を弾き飛ばしたところだった。
青紫の羽根が幾枚か飛び散り、真っ黒なくちばしから威嚇の叫び声が上がる。
(黒嘴鳥!)
一度弾き飛ばされた黒嘴鳥だが、すぐに旋回してマルグリットめがけて降下してくる。
マルグリットを乗せた竜は、彼女を守ろうとして逃げまどう。
おかげでマルグリットは竜のたてがみから手が離せず、わが身の鱗を隠すこともできない。
「お願い、早く岩屋に運んで!」
他の竜たちも黒嘴鳥を追い払おうと躍起になっているが、体の大きい竜は小回りが利かない。
何度か青紫の翼がマルグリットの背や頭をかすめる。恐怖に身がすくんだ。
「マギー!」
呼ぶ声に、はっとして顔を上げる。
ホルトが外套を広げて岩屋の前に立っている。
マルグリットは竜の背中から飛び降りると、転げるようにホルトの腕の中に飛び込んだ。
すかさず外套で包まれる。外の様子は見えなくなったが、ホルトがしっかりと外套の外から抱き込んでくれているので、もう心配はない。
幾度か黒嘴鳥の不機嫌そうな鋭い鳴き声が響いていたが、竜たちにも威嚇され、ほどなく岩山は静けさを取り戻した。
それでも、マルグリットはしばらく動けなかった。恐怖に心臓の鼓動が鳴りやまない。
朝方に沢へ下りたのは迂闊だった。
あの、太く鋭いくちばしでつつかれていたら、病気を発症しないまでも怪我は免れなかっただろう。
浅く早い呼吸を繰り返していたが、ようやく「ホルト、ありがとう」と外套から顔を出した。
まだ恐怖に青白いマルグリットの顔と対照的に、ホルトの顔は上気していた。そして――
(何か、音がする)
『シャワシャワ』というそれが何の音なのか、マルグリットは一瞬理解できなかった。
だが、はっとしてホルトを突き飛ばした。
自分を守るためではない。ホルトを守るためだ。
ホルトの喉には、紅斑が出ている。
熱に浮かされたようにマルグリットに手を伸ばして一歩、二歩近づき、そこで足を止めて顔を覆った。
「連れていけ!」
ホルトの投げつけるような叫び声にマルグリットが何か答えるより早く、竜が鼻先でマルグリットの体を強く押した。
よろけて目の前のたてがみにつかまり、気が付いたときには上空高く竜の背にあった。
「待って、戻ってよ、お願い!」
だが、いつもなら『竜の愛し仔』の願いは何でも聞いてくれるはずの竜が、言うことを聞いてくれない。
「ねえってば!」
少し乱暴に竜の頭を叩く。
『雌ノ仔、デキルコトナイ。竜、一緒ニイル。』
「だけど――!」
竜の背でマルグリットは泣き伏した。
『雌ノ仔泣ク、竜、悲シイ。デモ、雌ノ仔危険ニ晒ス、竜モ、雄ノ仔モ、モット悲シイ。』
ホルトとマルグリットを引き離すことが二人の命を守るための竜の判断だとは判っている。
けれど、ホルトの体は明らかにつがいに向かおうとしていた。
あのままで大丈夫なわけがない。それでも、竜は頑固なまでに言う。
『竜、雌ノ仔、守ル。』
マルグリットはホルトの外套をかぶったまま、竜の背にすがるしかなかった。
竜は登り始めた陽を目指すように、東へ飛び続けた。




