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竜の愛し仔  作者: miyabi
8/12

 岩山での竜とホルトとの暮らしは、基本的には単調だ。

 だが、街や里の人々のように生活に関わる作業を分業しているわけではないので、やることはたくさんある。

 山や川で食料を探し、調理し、時に加工して保存する。

 狩りや採集のための道具なども、作れるものは自分で作り、なるべく補修もして長く使う。

 村から持ち込むものも少なくはないが、自分たちで工夫して物を作ることが多いので、自然日々の作業は多い。


 そんな日々の中でも、竜は時々ホルトとマルグリットを誘って、様々なところへ連れて行ってくれる。

 残雪の峰に咲く花や湖に映る夕暮れ、大きな街や谷あいの細い街道。


 時に、戦を目にすることもある。


 高い山の上から見下ろす戦場は、本の挿絵のようにどこか実感を伴わない。

 だが、小さな点のように見える一人一人が、確かに命を持ち、夢を持ち、家族を持つ存在なのだ。


『人間、愚カ。同族同士デ殺シ合ウ。竜、決シテ竜ヲ殺サナイ。』


 竜は人間のように器用な手を持つわけではない。

 だから、道具を使うことも文字を使うこともないので、ほとんどの人間は竜を獣の一種だと捉えている。

 だが、竜はもっと豊かで知的な生き物だということをマルグリットは知っている。


「でも、竜だって喧嘩することはあるんじゃないの?」

『竜、喧嘩シナイ』


 竜は胸を張るが、マルグリットは食い下がる。


「でも、じゃあ、意見が分かれる時はどうするの?」

『嘆ク』


 思わず目が丸くなる。


「嘆く?泣くってこと?」


 竜はしつこく質問を繰り返すマルグリットにも、丁寧に答える。


『竜、泣カナイ。嘆ク。悲シム。嘆キノ大キイ方ニ、ソウデナイ方ガ譲ル。』


 何となく、判ったような判らないような。マルグリットは少し話題を逸らす。


「この戦は、何で始まったの?」


 眼下で砂煙をあげる大軍の動静を、竜と共に見守る。

 ホルトは少し離れた岩の上で、竜とマルグリットのやりとりを興味深そうに見つめている。


『王ノ子供、二人トモ王ニナリタガル。デモ、王ハ一人。戦ニナッタ。』

「竜はそういうことで喧嘩をしないの?誰が一番になるとか?」


 竜は、さも人を馬鹿にしたように戦から目をそらした。


『竜、大切ナモノ、仔ノ他ニハナイ。王ノ位、イラナイ。富、イラナイ。ダカラ、喧嘩シナイ。』


 マルグリットは、ぼんやりと自分の人間の両親を思い出す。

 私は二人の子供だったけれど、そんなに大切にされてこなかった。


「竜は、偉いね。」


 そして、にっこり笑ってこう続ける。


「私、竜の仔で良かった。」


 マルグリットの中で、ダグラール領に住む人間の両親は、もう遠い存在になりつつあった。



 そんな風にマルグリットが岩山で暮らすようになって、間もなく2年になる。

 ここに来て半年経った頃からマルグリットは急に背が伸び始めたが、結局竜はホルトとマルグリットをそのまま一緒に生活させている。

 急に成長を始めた『女の仔』の身に何が起きるか判らないので、ホルトという保護者のそばに置いておいた方がいい、と考えてもいる竜たちだったが、何より、マルグリットが当初幼い姿をしていたこともあって、ホルトはいつまでもたっても彼女を小さい子供扱いしているので、竜も静観しているようだ。

 そんな竜の態度に、そもそも「おじさん」と呼ばれる自分にどんな危険性があると見ているんだ、と、ホルトは竜に問いたい。


 正直、ホルトは今だにちょっとその件で傷ついている。



 マルグリットは18歳になった。

 今では小柄なティーナも追い越してしまい、少しはダグラールの城の美しい母に近づけたのではないかと時折水鏡を覗き込んだりもする。

 村で商品としては使えないような竜の鱗のかけらを器用につないで、耳飾りや首飾りも作ったりしたが、素朴ではあっても装飾品を身に着けてみると、自分が大人になったと実感できてどこか嬉しかった。

 急に背が伸びた時には関節が痛くてやりきれないこともあったが、子供の姿のまま、ついには大人になれないのではないかと心配していたマルグリットは、自分の成長に心底ほっとした。


 もしあのままダグラール領の領城にいたら、今頃どうしていただろうとふと思う。

 この年まで何事もなく生きていたら、『竜の愛し仔』だということは伏せたまま、どこかから婿を取って何食わぬ顔をして暮らしていただろうか。

 それとも、両親はあのままずっと、私を城に隠したままにしておいただろうか。


 ここへ来たばかりの時に作ってもらった長い編み下げの髪飾りは、今でもマルグリットの背中で揺れており、髪は結局長くなりかけるとホルトに切ってもらっている。

 今ではホルトの髪を切るのもマルグリットの仕事だ。


 かつて領主の一の姫であった頃の令嬢らしい雰囲気はすっかりなりをひそめ、家代わりの岩穴から沢まで急斜面を駆け下ってゆく姿は自然児としかいいようがない。

 竜の体の強さをその身に宿しているからだろうか、その身軽さはホルトでさえ舌を巻く。

 服もホルトと同じく男のようななりで、少し前までは長い髪がついていなければ少年と間違うほどほっそりとしていたが、体つきもだいぶ女性らしくなり、どうやら時々こっそり村に下りては、竜にもホルトにも相談できないような話をティーナのところへ持ち込んだりもしているようだ。

 近いうちには離れて暮らせと、竜から言われるのだろうとホルトもぼんやり思っていた。


「ホルト、ウサギ獲った!」


 竜の背中で弓矢を背負い、獲物のウサギの耳をつかんでみせるマルグリットは、ここへ来たばかりの時に泣いて震えていた少女と同一人物とは思えない。


「逞しくなったなぁ。」


 まるで父か兄のような気持ちになってしまう。

 そして、同時にホルトの中でマルグリットはまた小さな女の子に戻ってしまうのだ。


「俺がさばいておくからマギーは水浴びでもして来い。」


 そう言って、ホルトはまるで子供にするようにマルグリットの両脇に手を差し入れると、ひょいと竜から降ろしてやった。

 「ちょっと!」とマルグリットが少し不機嫌な声を出して、地面に降ろされると同時にホルトを押しやる。


「子供じゃないんだから!」

「ああ」


 そうだった。

 マルグリットがここへ来た頃の幼い姿が印象に強すぎて、ついつい竜と一緒に甘やかしてしまう。

 でも、そう言う割にはホルトがついつい伸ばしてしまう子ども扱いの手を、マルグリットはあからさまに避けることもしない。

 まあまあ、子ども扱いされるのが嫌な年ごろなんだろう。

 赤い顔のマルグリットを微笑ましく思いながら、ほら、とホルトが右手を差し出すと、口をとがらせたままで彼女はホルトに近づき、自身も右手を伸ばしてホルトの大きな体に回すと「ただいま」代わりの軽い抱擁をする。

 一拍遅れて背中をポンポンと叩かれ、「おかえり、偉かったな」といつも通り褒めてくれてから、また目の前に右手が差し出される。


「何よ?」


 マルグリットがまだ少し赤い顔でいぶかしげにホルトを見上げると。


「いや、ウサギ。さばくから。」




「ウサギ寄こせって言えばいいじゃない!」


 そのつもりで伸ばされた手にうっかり抱擁を返してしまったマルグリットは、獲物のウサギを乱暴にホルトに押し付けると何も言わずに踵を返し、沢へ駆け下ってきた。

 動悸がするのは走ってきたせいだ。


 乱暴に服を脱ぐと、流れのゆるやかな淵に飛び込む。

 肌から水が染み込むような感覚が、マルグリットのもやもやした気分を洗い流す。こんな時、自分は竜なのだと実感する。

 雨が降るとホルトはすぐに岩穴に入ってしまうが、マルグリットは雨に打たれて竜と一緒にはしゃぎたくなる。


 でも、心と魂は人に近いのだと思わざるを得ない。マルグリットの心を乱す相手は、人の形をしている。


 ここに来た頃、うっかり「おじさん」と言いかけてしまったことは認める。

 生まれ故郷のダグラール領城には同年代の話し相手は誰もおらず、物心ついてから言葉を交わすのは母と侍女、馬番の老爺と護衛の兵士くらいで、みな両親より年かさの者ばかりだった。

 だから、大人のホルトを見たときに年のころが判らず、しかも竜が「つがうかも」などと言うから思わず「おじさん」呼ばわりしてしまった。


 だが、一緒に暮らしてみるとホルトはおじさんというほどの年ではなかったし、物知りで頼りになり、何よりマルグリットに優しい。

 マルグリットが不機嫌でもわがままを言っても、仕方ないな、という困った笑顔で受け止めてくれる。

 そして「マギーと一緒だと毎日が楽しいよ」と、普通なら気恥ずかしいようなこともさらりと言ってくれる。

 両親からは一度も聞いたことのない言葉だ。


 城でも母はマルグリットがやりたいと言ったことはたいていかなえてくれたけれど、それはただ見知らぬ生き物に育っていこうとしている娘に対する無関心だったのだと、今にして思う。


 ホルトは違う。狩りを覚えたいと言えば一緒に弓矢の作り方から、獲物のさばき方まで教えてくれる。

 多少危ないことでも遠ざけたりせずに見守ってくれるその態度から、本当にマルグリットのことを尊重してくれていることがわかる。


 だからマルグリットも、感謝しているし信頼している。

 そう、感謝と信頼だ。最近ホルトに近づくたびに顔が赤くなったり動悸が早くなったり、なのに口実を見つけては近寄りたいと思ってしまうのは、きっと全部ホルトがいけないのだ。


 そう、ホルトはいつもずれている。

 ずれているというか、そもそも人としての感受性が欠落しているのか。

 年頃の女性に成長しつつあるマルグリットとの距離感は相変わらずおかしいし、いつだって無防備だし、正直すぎるほど正直だし。

 同じ岩穴で寝起きしている時点でホルトとマルグリットの関係は里のそれとは随分違うけれど、それでもホルトがこんなにとんちんかんだから、マルグリットもペースを乱されてしまうのだ。

 そう自分に言い聞かせているマルグリットを、竜はなんだか胡散臭そうな目で見ている。


 普段なら何でも包み隠さず伝える竜だが、こればかりはどうしたものかと様子を窺っている。

 ホルトは今のところ竜とも人ともつがう様子はないが、もし女の『竜の愛し仔』であるマルグリットがホルトとつがうことがあれば、マルグリットもホルトも体にどんな影響や変化が現れるかわからない。

 それに、竜は普通、つがえばそのあと卵を産むことになるが、今は人の姿をとっているマルグリットの体が壊れはしないか。

 竜はそれをとても心配している。

 それでも竜が強引にホルトと引き離そうとしないのは、今のところホルトがマルグリットのほのかな想いに一向に気づく様子もない鈍さゆえと、竜も初めて目にする女の仔を見守るのに、ホルトの手を借りるしかないと考えているからだ。



 マルグリットが竜のつがいについて聞かされたのは、いつの頃だったか。


 魚を獲ろうと沢へ下ってゆく途中で、竜のつがいに出くわした。

 雄が雌の首に噛みつき、互いの体を巻き付けたまま、じっと動かない。

 一瞬、死んでいるのかと驚いたマルグリットに、ホルトが雄の喉元を指し示した。

 そこには見たことのない紅斑が浮かんでいて、近づいてみるとそこから『シャワシャワ』という泡のはじけるような音がしていた。

 これが竜のつがいだ、と、その時教えられたのだ。

 泡立つような音は、雄の竜の魂と体が溶けてゆく音なのだという。

 そうやって雌の体とひとつになるのだ、と。


「竜のつがいはけっこう難しいんだ。相手は誰でもいいわけじゃない。そのうえ、いつでもいいわけじゃない。」


 お前たちは幸せだな、と、つがっている竜の頭を掻いてやっていたホルトを思い出す。

 あのときつがっていた二匹の竜が、それまでもよく一緒にいるのは記憶にあった。

 竜も恋をするのだ。

 だが、つがいのタイミングがいつやってくるのかは、竜自身にもわからないという。


「竜に言わせると、その時は突然来るらしいよ。だから、この状態で突然降ってきたりする。」


と、眼前の絡まり合った竜を見て肩をすくめたホルトを思い出す。

 


 あの時つがいの竜が横たわっていた沢沿いの木立の中に、今はゆったりと竜が飛び回っている。

 マルグリットは岸に上がり、手足から水滴を振るい落とすと服を着る。


 と、何かが襟元に引っかかった。


(あれ?)


 今日は首飾りも身に着けていない。

 枝でも引っかけただろうか。それとも、虫でも食いついている?

 首元に手をやり、瞬間、ピリッとした痛みを感じて手を引っ込めた。

 指先には、鋭利な刃物でついたような傷。


 マルグリットの目が泳ぐ。


「待って、これって――」


 同じような傷を負った日の記憶がよみがえる。

 初めて竜の身に触れ、その鱗で指先を切った、その記憶が。




『鱗――鱗ガ生エテキタ』


 竜が周りで騒いでいるのを、マルグリットはどこか遠いところで聞いていた。


(鱗?)


 今度はそっと、首筋を上から押さえるように触ってみる。

 薄く小さいが、その感触は鱗に似ている。


 そんなはずはない、と戸惑い否定する自分がいる一方で、女の『竜の愛し仔』の行く末はこういうことなのか、と、冷静に俯瞰している自分もいる。


 このまま、この鱗に体中を覆われるのか。

 それとも竜そのものに変化してゆくのか。

 だが、今は人の形をしている自分の体は、人ならぬ物に変っていくその過程を受け入れてゆけるのだろうか。


 首筋に手を当てたまま呆然と川べりに立ち尽くしていると、「マギー」と呼ぶ声が斜面の上から響いた。のろのろと顔を上げる。

 表情の抜け落ちたようなマルグリットの顔を見て、ホルトは急いで駆け寄ってきた。


「竜から聞いた。見せてみろ。」


 マルグリットは濡れたままの髪を右手でかき上げようとしたが、手が震える。

 ホルトが代わりに髪を束ねるように握り込んで首筋を覗き込む。

 何か、これまで嗅いだことのない匂いがした気がしてホルトは首をひねったが、すぐにマルグリットの首筋に視線を戻した。

 赤子の爪の先ほどだが、光る紅い欠片が滑らかな肌を割って現れている。


『親ト同ジ、紅イ鱗。』


 竜ははしゃいでいるようにみえる。

 これからマルグリットの身に何が起きるかもわからないのに、無責任な。

 ホルトは「静かにしろ」とはしゃぐ幼体をたしなめてから、マルグリットの顔をのぞきこむ。


「マギー、大丈夫か?」


 マルグリットは負けん気の強い方だ。

 ここに来たばかりの頃だって、人の世界から切り離された寂しさなど見せないように、いつも強がっていた。

 竜はいつもまっすぐで隠し事もしないし、虚勢を張ったりもしないから、そういうマルグリットを見るたびに「この仔の心は人間なんだな」と思ったりする。

 だが、今のマルグリットはこれまで見たことのない表情をしていた。

 未知のできごとにおびえ、心細さにホルトの服をつかんだ。


「私、どうなるの?」


 ホルトは答えられない。

 里の人ならきっとこんな時、口先だけの気休めの優しい言葉をかけたりするのだろうけれど、竜の心を持つホルトにはそれができない。

 できないから、マルグリットを抱き寄せて背中を撫でてやる。

 まだ濡れた髪がホルトの服の胸元に冷たいしみをつくる。

 マルグリットと身を寄せると、またあの匂いがした。


 いい匂いだ。どこから来る?


 マルグリットの背を撫でてやりながら、ホルトの心は甘いような魅惑的な匂いに気を取られ、どこかうつろになっていった。

 手は変わらず震える背にあったが、知らず知らず頭を垂れて背をかがめる。


 喉の奥が泡立つような感覚に我に返ったときには、マルグリットの首筋に触れそうなほど顔を寄せていただことに気づき、ホルトは慌ててその身を引きはがした。

 動悸が激しく、息苦しい。慌てて喉を手で押さえると、熱を持っているのがわかる。

 マルグリットが戸惑って顔を上げるが、ホルトはさきほどの匂いを締め出すように、自分の鼻と口をてのひらで覆って二歩、三歩と後ずさった。

 ホルトとの距離を詰めようとするマルグリットの前に、竜が割り込んで止めた。


『鱗ノ匂イ、雄ノ仔反応シテイル。危ナイ。離レテイタ方ガイイ。』


(これを放っておくと、そのうちつがうってことなのか?)


 自分を落ち着かせるように深呼吸を繰り返しながら、ホルトは声を出さずに自分に問うた。

 だが一方で、聞くまでもなく確信している自分もいた。

 あの紅く光る鱗に魅入られたように、ホルトの中の竜がマルグリットに引き寄せられてゆく。

 その白い首筋に浮かぶ紅いかけらを探して視線をさまよわせていることに気づいて、ホルトは目をつむり、マルグリットに背を向けた。


「すまない、少し落ち着くまで時間をくれ。」


 そう言うと、その場にあぐらをかき、両手で顔を覆った。

 マルグリットが竜に誘われるままにその背に乗って岩穴へ戻っていくのが気配で分かり、大きく息を吐きだす。

 まだ耳の奥で鼓動がうるさい。

 一度頭に上った血が醒めず、顔が火照って額も汗ばんでいるが、喉の奥が泡立つ感覚はもう収まっている。


「あれが、竜が恋慕の情を抱いたときの反応なのか?」


 ホルトを案じて集まってくる竜に聞くともなくつぶやく。


『人ノ体、竜ト違ウ。デモ、喉ノ奥ノ魂、溶ケル準備スル。泡ノ音聞コエル。』


 なるほど、そしてつがう段になれば、雄の魂と体は泡のように雌の体に溶け込んでゆくわけか。


 自分がマルグリットの鱗に溶け込んでゆく様を想像し、その幸福感に身震いがする。

 いかん、これではマルグリットの傍にいるわけにはいかない。


「俺はマギーからは離れた方がいいんだろうな。」


 自分に言い聞かせるように、声に出す。

 だが一方で、マルグリットの体に現れた鱗が、彼女自身を損なうものではないのか心配で、ずっと傍にいてやりたい気持ちも否めない。

 竜が女の『竜の愛し仔』のことを何も判らないのを承知で、あの鱗は大丈夫なのか、と問わずにはいられなかった。


『ワカラナイ。雌ノ仔、初メテ。竜、傍ニイル。デモ、デキルコトナイ。』


 それはホルトにしても同じだと思う。

 医者でもなければ竜の専門家でもない。

 だが、そもそも人の都合で生まれた『竜の愛し仔』なのだから、人が面倒を見るべきだろう。


「できるところまで、俺がマギーの傍にいる。ただ、もし俺が我を忘れるようなことがあったら」


 そんなことはないと、言いきれない自分がもどかしい。近くにいる竜たちはホルトの言葉をじっと聞いている。


「――マギーは元いた人の親のところへ戻してやってくれ。それより他、ないだろう。」


 独り、どこか岩山の奥に連れて行って、竜だけを供に過ごすのは、今のマルグリットには辛いだろう。

 せめて状況が落ち着くまで、頼れる人の傍にいた方がいい。

 彼女からあまり両親のことを聞いたことはないが、それでも16歳になるまで育った家だ。


『ワカッタ。デモ、雄ノ仔、ツガワナイヨウニ、気ヲツケル。魂、一度溶ケダシタラ、止メラレナイ。体、動カナイ、餌、食ベラレナイ、ソノママ、死ヌ。竜、助ケラレナイ。』


 それはホルトも知っている。

 つがいに向かった竜は、何が起きようとそのままつがい始め、終わるまでは食事どころか動きもしない。

 あのまま引きはがされれば、きっと竜は生きてゆけないだろう。


 とにかく、今はしばらくマギーの体がどうなるか、見守ることだけを考えよう。



「いつまで見守ればいいのか判らないのが辛いな。」


 だが、マルグリット本人こそが一番辛いはずだ。

 突然降って湧いたマルグリットの鱗に対する恋情を、振り払うように頭を振る。


『竜ナラ十日アレバ鱗、生エ揃ウ。ソノ間、デキレバ隠レテイタホウガイイ。黒嘴鳥(くろはしどり)、若イ鱗ツツキニ来ル。病、持ッテクル。ツツカレタ竜、シバラク元気。普通ニツガウ。卵産ム。突然、死ヌ。』


 卵を産んだ後、突然死んだ竜――聞いたことのある話だ。


「俺の親もそうだったのか。」


 産みの母であるティーナに卵を託し、すぐに病で死んだというホルトの竜の親。

 病の原因について聞いたのは初めてだった。気が紛れたせいか、少し頭がはっきりしてきた。


「なら、マギーはしばらく岩穴にいてもらおう。鳥のことは皆で見張っててくれ。」


 いつか誰かとつがって卵を産むことがあるとは思えない。

 ただ、生えたばかりのあの美しい鱗を鳥になぞつつかせたくはない。


 また鱗のことを思い出しそうになり、頭を振る。

 こんな時は何か作業をするに限る。さきほどさばきかけていたウサギの肉で、まずは食事を作ろう。



 マルグリットはその後数日を、ほぼ岩穴の中で過ごした。

 いつもならこんな風に閉じこもっているのは苦手なのだが、自分の肌から鱗が生えてくるという未知の体験に、ひどく臆病になっていた。

 もし自分が醜い何かになっていくのだとしたら、そんな姿を誰にも見られないようにここに隠れていたいと思う一方で、これが最期になるのだとしたらホルトと一緒にいたい、とも思う。

 鱗が生える途中の幼体を狙う「黒嘴鳥」のことも聞いた。またやっかいな鳥がいたものだ。

 だが、竜の守る岩屋にいる間は心配ないだろう。


 今は夜もおとなの竜が傍を離れずにいてくれるので、マルグリットも安心して眠れる。

 最初は小さなひとかけらだった鱗だったが、首の右側から頬の下まで、手のひらで隠れるほどの範囲に、春先の芽吹きのように一時に顔を出した。

 これがやがて長さを伸ばして竜らしい細長く鋭利な鱗に育ってゆくのだという。


 他にも、左手首の外側に、まるで手甲のように生えそろう。

 どちらもよく動かす場所だが、鱗は滑らかに連なり、首を回したり曲げたりしても不自由はなかった。

 だが、瓶の水面に映る姿は、異形の者だ。



「痛みはないか?苦しいところは?」


 少し距離を取ったままだが、ことあるごとにホルトは声をかけてくれる。

 万一ホルトが竜の本能に流されるようなことがあれば、ホルト自身も危険だということは、竜から聞いている。

 どうやら鱗に刺激を受けるらしいので、最初はホルトが顔をのぞかせるたび、マルグリットは鱗の肌を布で覆っていた。

 けれど、ホルトは困ったような顔でこう言うばかりだった。


「気遣いは嬉しいけど、実際は目で見るより匂いの方がきついんだ。隠す必要はないよ。折角、そんなに綺麗なんだし。」


 主語は「鱗が」なのだろうと思ってはいても、胸がもやもやして頬が赤くなる。

 綺麗だ、なんて言葉がホルトから出るなんて。


 これまでマルグリットのことなど親戚の子供くらいにしか思っていなかったはずのホルトが、一度鱗に反応してからはあまりに素直に好意を向けてくるものだから、マルグリットはどぎまぎしてしまう。

 だが、とにかくホルトに近寄れないのが寂しい。

 特に今は、自分の体がどうなるか判らず、心細いというのに。

 いつものように距離感の読めないホルトのままで、すぐに抱き上げたり抱きしめたりしてほしいのに。


 今のところ、マルグリットの体調に問題はない。

 最初は不気味に思った肌の上の鱗も、ホルトが褒めてくれることもあって、そう悪い気もしなくなってきた。

 母アレクシアが時折身に着けていた宝石にも似た紅い輝きが、わが身の物だと思うと誇らしくさえある。


 マルグリット自身には判らないが、この若い鱗には独特の匂いがあるらしく、ホルトを悩ませるばかりではなく、どこから嗅ぎつけたのか黒嘴鳥も姿を現しては竜たちに邪険な扱いを受けていた。

 それでも、鳥は夜には寝床に戻ってゆくので、陽が落ちたあとの薄闇の中を沢まで下り、水浴びをするのが、ここ最近のマルグリットの日課だ。

 以前から水浴びは好きだったが、鱗に水が当たるとこれまで感じたことのない爽快感が身の内に走る。

 特に、流れる水や風を受けると、空高く飛んでいきたいような高揚感が湧き上がる。


(そうか、竜なら空を飛んだり水の中を泳いだり、そういうことがどんどん好きになっていく時期ってことなのね。)


 マルグリットがいかに鱗をまとっても、翼はない。

 だが、竜の背に乗って鱗に風を感じたら、どんなに気分がいいだろう。



 マルグリットはいつしか不安などすっかり忘れて、鱗をよろうことになった新たなわが身を浮きたつような気持ちで眺めるのだった。

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