ホルトと母
「まったく、あんたって仔は。」
丁寧に洗ったマルグリットの髪を毛先から少しずつ櫛で解きほぐしながら、ホルトの産みの母ティーナは、この日何度目か判らないため息と怒りを我が息子にぶつけた。
ホルトは頭をさすっている。
マルグリットを連れて村に下りてティーナに子細を話すと、間髪入れずに手に持っていた箒の柄でしたたかに頭をぶたれたのだ。
二十代も後半の男のされようではないが、ティーナは腹立たしくてつい手が出た。
竜の魂を身の内に持つホルトは、その体も普通の人間よりは頑丈にできている。
とはいえ、箒の柄でぶたれれば、それが小柄な母の繰り出したものであっても痛みは走る。
だが、体の痛みよりもマルグリットを正しく理解し守ってやれなかったことが辛かった。
誰にも理解されない『親無し卵の仔』。自分が理解してやれなくて、誰が理解してくれるというのか。
ティーナは今、ホルトの弟になる二番目の息子と共に小さな床屋を営んで暮らしている。この二番目の息子もはやり『竜の愛し仔』だ。
夫は下の息子がまだ小さい頃に家を出てしまった。
息子は二人ともティーナと同じ黒い髪で、瞳の色は卵の親である竜の色を受け継ぐ。
父親に似たところがないわけではないのだが、身ごもってからずっと竜と共に子育てにいそしむ妻を見て、妻を取られた思いに駆られる父親は少なくない。
『竜の愛し仔』には片親が多かった。
マルグリットは今は落ち着いて髪をティーナに預け、温かいお茶を飲んでいる。
ティーナの家に風呂はなかったが、湯で濡らした布で体も拭い、質素だが清潔な服に着替えていた。
「マルグリットさんは、どこから来られたんだね?」
ティーナが訊く。マルグリット、という彼女の名前すら尋ねていなかったことにホルトが気付いた時、ティーナからは二発目の箒の柄を喰らっていた。
「ダグラール領から。」
ティーナは首をかしげる。『竜の山塊』の東側らしいよ、とホルトが竜から聞いた話を伝えると、ティーナは目を丸くした。
「じゃ、お隣の国じゃないか。あの山塊を飛び越えてきたのかい?」
マルグリットはうなずく。
「私たちの国ではこの山々を、『西の端山地』と呼んでいました。反対側にも人が住んでいることも、私は知らずにいましたので。」
落ち着いて話す様子は、見た目以上に大人びて見える。
年を聞くと「16になったばかり」と言われ、その幼い見た目からどう理解してよいか判らずにホルトもティーナも顔を見合わせた。
だが、竜が人の許から離してもいい頃合いだと判断したなら、やはり本人が言う通りの歳なのだろう。
今はそのことを深追いするのはやめておく。
「君は竜のことや自分の生まれのことは、何も教わってこなかったのか?」
今度はホルトが訊いた。一番不思議に思っていたことだ。
「竜から聞いたこと以外は何も。――皆さんは竜と一緒に暮らしているのですか?」
ホルトとティーナは顔を見合わせた。
どこから話せばいいのか、少々途方に暮れた形だ。
しばし手を止めてしまったティーナだったが、再び櫛を動かすとともに「この村の暮らしのことから話そうかね」と話し出した。
それからティーナが話してくれたのは、マルグリットが全く知らない世界の話だった。
竜がいつも人の暮らしの傍にあり、人は竜の鱗で道具や装飾品を作り、竜は人の腹を借りて生まれてくる『竜の愛し仔』を守り愛する。
「『竜の――愛し仔』。」
それはまるで、マルグリットから愛する両親を奪った呪いの言葉のようだった。
頭がグラグラする。
そして母が、あの竜嫌いの母が、竜の卵を飲んで私を授かったというの?
だが、話を聞けば胸につかえていた謎がすとんと腹に落ちる気もする。
竜はいつも自分のことを『大切なこども』と呼んでいたように思う。
周りに竜の言葉を理解できる人が誰もいなかったので、人の言葉で正しく言い表せない感覚的なものも多かったが、あれは自分を『竜の愛し仔』と呼んでいたのだろう。
いつも自分の周りだけに竜がまとわりついていたのもこれで説明がつくし、母があれほど竜を恐れ、竜と娘の交流を嫌っていたのもうなずける。
そして、恐らくは竜を殺して奪った卵で生を受けた娘が、いつか竜に連れ去られることも両親は知っていたのではないか。
だから父も母も、総領娘であるはずの自分に、何も教えようとしなかった。
好きなことをさせてくれていたのも、その罪悪感からだったのか、それとも何を教えても無駄になることを知っていたからなのか。
そして当の私は、何も知らされなかった。
元々、捨てられる予定の子供だったのか。
そう思い至り、マルグリットがぽろぽろと涙をこぼした。
ティーナは黙って髪をとかし続けた。
マルグリットをしばらく村で育てるわけにはいかないのかとティーナは訊いたが、ホルトは「それは竜が許さないよ」と肩をすくめた。
竜は仔が親から離れても生きていける歳までは待ったのだ。
それに、竜がそう判断するからには、自分のような『親無し卵の仔』は人の世で暮らすより竜と暮らす方が心が自由でいられることを、ホルトは経験から知っている。
これまで身の回りのことを周りの者にさせてきたお嬢様だったとしても、それは変えられない。
ホルトは念のためマルグリットに「竜と暮らせそうか?」と聞くと、本人は思いのほか力強く、「暮らし方を教えてくれるなら」と答えた。
結局、この仔も魂の深い部分で、自分は竜の仔だと判っているのだ。
ホルトは「いい仔だ」とマルグリットの頭を撫でた。
ホルトが男でマルグリットが女だからと竜はいらない気を回しているが、どのみち生活の術を身に着けるまではホルトが面倒を見て色々なことを教えてやる必要があるだろう。
竜は優しいが、人間の生活は理解できないし手を貸してもらうこともできない。
食事の準備をすることも、生活に必要な道具を調達することも、自分の身を清潔に保つことも、すべて自分でやらねばならない。
「だとしたら、やはりこの髪をこのままにしておくのは難しいんだね。」
ティーナはもったいない、という思いを大きなため息にして、今とかし終えたばかりのマルグリットの白金の髪を撫でた。
マルグリットは口を引き結んで、何も言わない。仕方がないと理解はしているのだろう。
(嫌だ、とは言わないんだな。)
ホルトはそこに、マルグリットの心情を読み取る。
どうやら竜は二日ばかり前に、この少女を岩山に連れてきていたらしい。
その二日間、恐らく不自由な思いはしたに違いないが、竜との生活が自分に馴染むと悟ったのだろう。
それでも少女にとって髪は特別な思い入れがあるようだ。
「なら、切った髪を編んで、髪飾りのように作ってあげようか。それなら、毎日手をかけなくても済むからね。」
陰りがちだった赤褐色の瞳に光がともった。
ずっと伸ばしていたのかい?とティーナに訊かれ、マルグリットは「母と同じ髪型にしていたくて」と小さな声でつぶやいた。
「そう。お母上のことが好きなんだねぇ。」
「美しくて、気高くて、自慢の母です。でも――」
白金の髪をもてあそびながら、また表情が曇る。
「私は母の自慢にはなれなかった。」
だから切ってください、と、マルグリットは髪から手を離した。
ティーナは黙ってその髪を撫ぜ、ホルトは「切ってもまた伸びるだろう?」と言ってまた母の手元から飛んだ櫛を喰らった。
「あんたのそういうところだよ。竜は教えないのかね?」
竜に人の心の機微を教えろというのは無理な話だ。
ホルトは肩をすくめることしかできない。
いずれにしても、マルグリットの髪と心を解きほぐしてくれた母には感謝だ。
「大事な髪だからね、特別な刃物を使うよ。」
誰かさんは草刈り鎌で切ろうとしたらしいけどね、とギロリとホルトを睨んでから、ティーナは背伸びをして、棚の上から細長い布包みを手に取った。
布をほどくと、美しく蒼い輝きが姿を現す。
「鱗――」
マルグリットが魅入られたようにつぶやく。
それは竜の鱗だった。
「この仔の竜の親の鱗さ。ほら、目の色が同じだろう?」
そう言って、間近に鱗を見せてくれる。
濃い蒼でありながら、玻璃のような透明感のある、不思議な輝き。
同じ色の双眸に少し困惑の色を浮かべて、ホルトが母に問う。
「いいのか?今、こんな時に使って」
このときマルグリットは知らなかったが、鱗を乗せていた棚はこのあたりで神を祀るためのもので、どの家でも竜の鱗をその棚に載せている。
産まれた子供のへその緒を切る時に使ったり、嫁に行く前や死に際の人の髪を形見に残す時に使うという話は聞いたことがあったが、自分の家の祀り棚から竜の鱗を下ろしたのはホルトも初めて見る。
「この仔の生まれ変わりの儀式みたいなものじゃないか。これ以上ふさわしいものはないよ。」
ティーナはマルグリットの美しい髪を肩より少し下のあたりでしっかりと縛ると、その結び目のすぐ上に蒼い刃を当てる。
鋭利な竜の鱗はマルグリットの白金の髪をふつりとまっすぐに切り離した。
突然軽くなった頭に、マルグリットは思わず手をやる。
いつものように髪の上に指を滑らすと、あっという間に毛先まで届いてしまった。
(お母さまとは、お別れなのね。)
もうダグラールの領城へ帰ることはないのだと、その事実をあらためて突き付けられたような気がした。
だが、不思議と涙は出なかった。
ただ、髪と共に両親とのつながりもふつりと切れたのを感じた。
見守っていたホルトは、少女の表情から何かを読み取ったのだろうか、腰かけから立ち上がると手を差し伸べた。
「さあ、行こうか、マギー」
「――マギー?」
マルグリットは目を丸くした。ホルトも負けずに目を丸くする。
「マルグリットだからマギーじゃないのか?マリー?メグ?」
高貴な生まれと思しきお嬢さんを相手に、いきなり愛称呼びする空気の読めなさに、ティーナは四たび息子に投げつけるものを探したが、今は右手に竜の鱗と左手に白金の髪の束で、さすがにどちらも投げられない。
ため息をついて遠い目で天井を仰ぐ。
当のマルグリットは意表を突かれたように少したじろいだ表情になったが、照れ隠しなのか不機嫌に口をとがらせて「マギーでいいわよ」と答えた。
(案外、バカ息子のこういうところが、しんみりさせなくていいのかもしれないけど)
それにしても、人としての生活からだいぶ離れてしまった息子が、この少女の面倒をきちんと見られるのか心配でならない。
「困ったことがあったらいつでも来るんだよ。竜は『竜の愛し仔』が頼めば、いつでもその背を貸してくれるんだから。」
ティーナは別れ際に少女を抱きしめてやりたかったが、当の本人は家の外に竜の姿を見つけると、まるで友達を見つけたように駆け出していった。
ホルトも親しげにその頭を掻いてやると、慣れた様子で背に飛び乗る。
(そうだった)
こうやってホルトが竜に乗って山へ帰っていくのを見送るとき、ティーナはいつも思い知らされる。
自分が腹を痛めて産んだこどもではあるけれど、自分は決してホルトの「家族」にはなれないのだ。
あの仔の魂は竜でしかない。
(マルグリットさんも、そうなんだろうねぇ)
手元に残された美しい白金の髪を見下ろし、彼女の両親に思いを馳せる。
(自分で選んだこととはいえ、切ないもんだよ)
再び竜の鱗に布を巻きつけながら、ティーナは飛び去る二人を見送ることもなく、家の奥へと入っていった。
その日、マルグリットは岩山にうがたれた殺風景な岩屋で初めての夜を迎えた。
天敵もいない竜の仔でもあればこの岩屋には普段入り口をふさぐ扉も壁もない。
煌々と白い岩肌を照らす月の光に、マルグリットはなかなか寝付かれなかったが、そんな彼女にホルトは添い寝をするように傍に横たわり、優しく肩をたたいてくれていた。
マルグリットには、あまり大人に甘えた記憶がない。
父はもうずっと遠い存在であったし、美しくたおやかな母も、どこか自分を扱いあぐねているようなところがあり、また母自身が高貴な生まれでもあれば、自分の娘であっても親しく抱きしめてくれるようなことはなかった。
身の回りの世話をしてくれていた侍女も嫁入り前から母に仕えてきた人で、恐らくはマルグリットの生まれのことも知っていたのだろう、彼女はどこまでいっても母の侍女であり、マルグリットにとって竜以上に近しい存在ではありえなかった。
だからここへやってきたとき、あまりの心細さに年甲斐もなく泣き暮れている自分を迷わず抱き上げ、腕に抱いて慰めてくれたホルトの行動はマルグリットを驚かせた。
だが、それは一方で大きな慰めでもあった。
今も、見た目が幼いのをいいことに、少し子供じみた甘え方をしているのは否めない。
侍女にもしてもらったことのない添い寝を許し、そのうえ寝付くまで見守ってもらうなど、今日初めて会った人に頼んでいいことではないと思う。
思うが、ホルトにはそれを許してくれそうな空気があり、そのことが頭ではなく何か確信をもって知覚できることに、マルグリットはこれまで感じたことのない安らぎを感じていた。
(この人、竜なんだわ)
その『わかる』という感覚は、これまで竜に対してしか抱いたことがなかった。
人はいつも複雑で、表裏があって、判りにくい。
(もう少し、子供のふりをしていていいわよね)
自分の見た目の幼さに引かれてか、この大柄な男の手が甘やかすように優しいことには気付いている。
(少しだけ、子供からやり直させて。)
岩山を吹きすぎる風の音も、明るく照らす満月の光も、飾り一つない岩屋の住まいも、今はもう何も気にならなくなっていた。
ただ、ホルトの大きな手がマルグリットの小さな肩を包むように、時折とんとん、と優しく拍子を刻むのが心地よい。
初めて竜が自分の部屋を訪ねてきたあの幼い日の夜のように、マルグリットは慌ただしかった昼のできごとなど忘れたかのように、穏やかに眠りについた。




