愛し仔のつがい
雨の音に、二人はほぼ同時に目を覚ました。
外は薄明るいが、今が朝なのか夕方なのかも判らない。
ただはっきりしているのは、ホルトとマルグリットはつがい、それでもホルトとマルグリットの体はそれぞれ残ったらしい、ということだった。
まだ互いの腕を互いの体に巻き付けたままだが、二人ともしばらく動こうとしなかった。
つがいで体験した幸福感はまだ二人の魂を圧倒していて、ホルトはマルグリットの首筋に立てていた歯は外したものの、その首筋にしばらく顔をうずめていた。
マルグリットがダグラール領へ飛び去ってからずっと感じていた体の重さは消えていて、喉の奥の熱さも泡立ちも収まっている。
ただ、そこにあったはずの竜の魂が、今はマルグリットの中にあるのを感じることができた。
「俺の魂が、マギーの中に溶け込んだんだな。体は、大丈夫か?」
目を伏せたまま、マルグリットがうなずく。その気だるげな様子が艶っぽく、ホルトはマルグリットの唇にやさしく口づけた。
「――血の味がする」
マルグリットが眉をひそめてホルトの口元を覗き込むと、鱗で切ったのだろうか、唇に幾筋か血の跡が見えた。マルグリットはそれをぺろりとなめる。
「獣の仔みたいだな」
ホルトが笑うと、自分が無意識に何をしたのかに気付き、一気に顔を火照らせる。
だが、「獣の仔じゃないわ、竜の仔よ」と口をとがらすいつものマルグリットの反応に、ホルトは安堵する。
そして、瞳を見つめて言う。
「いや、立派なおとなの竜だ。俺の魂はもう、マルグリットの中にある。その証拠に――」
ホルトはマルグリットの頬に手をやり、目の下をそっと親指でなぞる。
マルグリットの瞳は、ホルトと同じ濃い蒼色に変わっていた。
◆
竜としてつがい、「竜の仔」ではなくなった二人を、竜はもはや世話を焼くことはしなくなった。
ただ、それでも時々様子を見に来ることに変わりはない。
頼めばいつでもその背を貸してくれるのも元のままだ。
つがった後のホルトとマルグリットの毎日は穏やかだ。
もう何も心配せずに近くにいることができるし、竜に引き離されることもない。
ただひとつ、おとなの竜になったマルグリットの体がこれからどうなるのかは判らないが、それでもつがったことを後悔する気持ちは毛ほども起きない。
それほどまでに、あの体験は圧倒的な幸福感をもって二人を包んでいた。
竜は、つがってなお、別々の体のままでいるホルトとマルグリットのことを気の毒がっていた。
ただ、ホルトはてらいもなく竜に言って聞かせる。
「自分の腕で抱きしめられる相手がいるっていうのも、いいものだよ」と。
「そんなこと、言う人じゃなかったと思うんだけど?」
少し前、マルグリットへの恋情に気付く前のホルトとは違いすぎて、おとなになりたての人型の竜は、まるで鱗の紅色が肌に移ったかのように紅潮しながら文句を言う。
でも、何でも正直に言葉にするホルトが、自分の気持ちに気づきさえすればこういうことになるのは、ある意味当然の成り行きだ。
だが、まだ慣れない。
宵闇が近づき、竜がそれぞれのねぐらへ帰ってゆくと、二人が住まう岩屋のあたりは一気に静かになる。
星がひとつ、ふたつと輝きだす。
「でも、こうしていられるのは、やっぱりいいものだと思うんだけどな?」
そう言いながら、空を見上げるマルグリットの後ろから包み込むようにホルトが腕を回す。
自分の中に長いことあった竜の魂がマルグリットの中に移ってしまったので、こうして体を寄せていると落ち着く。
もちろん、愛しい者の身に触れていることは、いつでも喜びに違いないけれど。
つがってから、マルグリットの鱗がホルトの肌を傷つけることはない。
不思議なもので、鱗の上からホルトに触れられると、鱗に覆われているはずの肌に直接触れられる感覚があってこそばゆい。
くすぐったいからと、口をとがらせてホルトの体を押し戻すマルグリットに、「鱗に触れないままの方が良かったかな?」問えば、「いちいち革の手袋をはめられるのも腹立たしいから」と少し赤い顔でマルグリットが返す。
ホルトは笑って、また後ろから抱きなおす。
二人はそのまま寄り添って眠る。
つがいは一度きり、あの狂おしいような鱗の香りも魂の溶ける感覚もあのとき限りのもので、けれど再び繰り返したいと思いもしないほどに、あの時間の濃く、深い幸福感は互いの心と体と魂とに刻み込まれている。
今はこうして互いに寄り添い、魂を感じ合う。
やがて来るその時を、心のうちから締め出すようにして。
◆
「痛い!」
マルグリットの悲鳴に、ホルトは飛び起きた。
すぐ隣で、マルグリットがお腹を抱えて「痛い、痛い」と絞り出すような声を出しながら丸くなっている。
どうした、とは聞かない。聞いたところで、マルグリット自身が答えようがないはずなのだ。
ついに来たか、というのがホルトの偽らざる胸の内だった。
近くにいた竜が、すぐに姿を現した。
ホルトは丸くなっているマルグリットの体を守るように腕に抱いたまま、問うように竜に視線を向けた。
『卵ノ匂イスル。デモ、マダ体ノ深イトコロニイル。』
おとなの竜になったとはいえ、マルグリットの姿は明らかに竜とは違う。
このまま卵が産まれなければこれまで通り二人で暮らしていけると思っていたが、そういうわけにはいかないらしい。
ホルトの腕の中で、マルグリットの体はじっとりと汗ばんでゆく。
だが、汗が出ているのに顔色は真っ青だ。
竜も初めての産卵は痛みを伴うというが、マルグリットの痛がり方が竜として普通なのかどうなのか比べようもなく、ホルトも竜もただ見守ることしかできない。
しばらくして、マルグリットの息が浅いながらもわずかに落ち着き、ホルトはその汗を拭いてやった。
「どうだ?水は飲めるか?」
マルグリットはうなずきながら、丸めていた体を少し開いた。鉢いっぱいの水を勢いよく飲み干すと、鉢を持っているのと反対の手で、お腹をさする。
「水が入ってきたから、卵が喜んでる。」
そう言って、笑みを浮かべた。
その微笑みは、これまでホルトが見てきたどんな表情より、大人びて包み込むような温かさに満ちていた。
「マギーは、親になろうとしているんだな」
空になった鉢を受け取り、額の汗を拭いてやると、マルグリットはホルトにも、少し照れたような微笑みを返した。
が、笑顔は長くは続かなかった。また痛みがぶり返してきたのだ。
つがってから今日まで、二人は竜から産卵のことを色々と聞いてきた。
もちろん、参考にならないことの方が多いだろうが、それでも何も知らずにその日を迎えられるほど、ホルトもマルグリットも自分たちの未来に無関心にはなれなかった。
できることならこれからも二人で生きてゆきたい。あの時は、命など惜しくはないと思っていたのに。
竜も一匹、二匹と集まってきて、みな心配そうにマルグリットを囲む。
守るべき『竜の仔』でなくなった今も、竜にとって二人は仲間だ。
すでに竜の魂をその身から失ったホルトのことも、竜は仲間だと言ってくれる。
だが、そんな仲間の輪の中にあっても、今マルグリットは独り、未知の痛みや恐怖と戦っている。
ホルトは再び、マルグリットを抱き寄せた。
(――卵)
その身を近く抱き寄せたせいだろうか、今まで感じられなかった卵の気配がホルトの知覚に流れ込んできた。
無意識に右手がマルグリットの腹部をさする。
「ここか」
真ん中より少し右寄り、臍の脇あたりで手を止めると、マルグリットは苦しそうにうなずきながら、自分の手を重ねてきた。
竜は腹の真ん中の卵管から卵を産むが、だとするなら当然、人の形をしたマルグリットの腹には卵の出口がない。
心配するうちにもマルグリットは痛みに身を固くし、卵の丸みが服の上からでも感じられるようになってきた。
卵が、出口を探している。
「ホルト、お腹切って、卵出してあげて」
マルグリットの絞り出すような懇願に、ホルトはありきたりな反応しかできない。
「何を、ばかな。死ぬぞ。」
竜の仔であるホルトもマルグリットも、人に比べればいくらか丈夫な体を持っている。
傷も治りやすいし、病気もあまりしない。
けれど、だからといって腹を切って無事でいられると思えるほど、ホルトも楽天家ではない。
それでも、マルグリットは必死に卵を生かそうとする。
ホルトがためらっていると見ると、マルグリットは自分で上衣をめくってわき腹を顕わにすると、耳飾りにしていた竜の親の紅い鱗を引きちぎるように外し、そこへ突き立てようとした。
慌ててホルトがその腕を抑える。
「やめろ、卵まで壊れるぞ」
『鱗、卵ハ傷ツケナイ』
「そうなのか?」
竜のつぶやきは、ホルトも知らなかったことだ。
それを無意識にマルグリットは行動に移したということなのか。
これまでずっと自分が守り導く存在だと思ってきた少女が、今や自分を追い越して立派な親になろうとしていることにある種の感動と、一抹の寂しさを感じた。
「見せてみろ」
物思いに沈んでいる時ではない、と、切り替えてマルグリットの腹を見る。
白く滑らかな肌に見とれている場合ではないと自らを叱咤して、卵に押し上げられている皮膚に触れる。
張りつめて、今にも破れそうだ。
卵の気配と親になろうとするマルグリットの気迫に押され、ホルトは自分と同じ色になった双眸を見つめ返す。
そこにはゆるぎのない決心が灯っている。
「わかった、手伝おう。だが、皮一枚切ってもダメなら、そのときはあきらめろ。」
ホルトは手近にあった布で鱗を包んで固定する。
痛みにこわばる腕を、なだめるように時折優しくたたきながら、切るべき場所を探る。
卵はますますせり上がり、白い皮膚は引き延ばされて痛々しい。
だが、ホルトはじっと見つめたまま待つ。
(どこを切ったらいい?)
物言わぬ卵に語りかける。
(教えてくれ)
その時、うっすらとだが一本の線が走った。
ここだ、と思ったときにはもうホルトの手は動いていた。
切り口に血が滲み、けれど思ったほどに出血はない。
そこから、青く半透明に輝く卵が転がり出てくるとすぐにマルグリットの右手がその卵を掬いあげ、大切そうに胸元に抱いた。
ホルトは卵が出てきた傷口を両手で押さえる。
あっという間のできごとで、マルグリットの傷口をくっつけるように押さえながら、ホルトは全身から汗が噴き出した。
なぜためらいもなくマルグリットの腹に鱗を立てることができたのか、今にしても判らない。
両手で傷口を押さえているホルトに代わって、今度はマルグリットがホルトの額から流れる汗を拭う。
腹を切ったはずなのにその傷の痛みもほとんどない。
「不思議ね。これが、竜の本能なのかもしれないけれど。」
「それでも、心臓に悪いよ。」
背を丸めて大きくため息をついてから、あらためて卵を覗き込む。
マルグリットの手のひらでちょうど握り込めるほどの卵は、これまで見てきたものと同じ、まごうことなき竜の卵だった。
◆
それからひと月ほど、マルグリットとホルトは代わる代わる卵を見守った。
仲間の竜に助けられながら卵の『子育て』をし、やがて――
「――本当に生まれたわね」
「――そうだな」
もちろん、竜の卵から竜が生まれるのは自明の理なのだが、無事に手のひらほどのちいさな竜が卵の膜を破って這い出てきたとき、二人の口からは喜びより驚きの声が先に出てしまった。
だがそのすぐあと、二人は抱き合って言葉にならない喜びを分かち合い、さらにその腕の中に小さな竜のこどもを優しく抱きいれた。
愛し気にこどもの頭をそっと指先で撫でてやりながら「なぁ、マギー」とホルトが声をかけ、マルグリットも小さな喉元を指の甲で撫でながら「なあに?」と答える。
「この仔も無事に生まれたし、今度は人としてつがってみないか?」
「は?!」
思いもよらない申し出につい大きな声が出て、生まれたての仔がびくりと身をすくめる。
ホルトが「ごめんごめん」と竜の赤子をあやすのを尻目に、マルグリットの顔はみるみる赤くなってゆく。
しばらく返す言葉もなく口を開け閉めしていたが、
「だ、だって私、竜なのよ?」
と、ようやく絞り出した。
マルグリットにとって、それが全てだ。
マルグリットの形がいかに人の形をしていようとも、マルグリットの体は鱗をよろい卵を産む竜であり、その魂も竜のそれだ。
だが、逆に気付く。
ホルトはマルグリットに竜の魂を受け渡して、その身も魂もほぼ、人のそれであるのだと。
マルグリットの心の動きを知ってか知らずか、ホルトは大きな体でマルグリットを包むように抱き寄せた。
「それは判ってる。でも、俺はどうしても人としてマギーとつがいたくてたまらない。」
「で、でも、でも私、卵産んだのよ?」
卵を産むなど、人の体でできることではない。
が、ホルトは軽く首をかしげてマルグリットに訊く。
「でも、月のものもあるだろう?」
今度こそ、マルグリットは余すところなく真っ赤になって、ホルトの胸を拳で思い切り叩いた。
一緒に暮らしていれば、それはもちろん気付くだろうけど!
「人の子だって、産まれるかもしれない。」
そう言われ、マルグリットの表情がふと翳る。
「でも、私みたいな異形の仔かもしれない。」
だが、ホルトは再びマルグリットと生まれたての竜の赤子を抱き寄せて、愛するつがいの白金の髪に額を寄せた。
「他と違って何が悪い。どんな姿でも、俺はマギーと家族になって、こどもたちと暮らしたい。」
そう言われてはそれ以上抗う言葉も出てこない。
「――竜の見てない時にして。」
赤い顔を隠すように肩口に顔をうずめるつがいに、ホルトはもちろんだ、と嬉しそうに答えてその白金の髪に唇を寄せた。
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