竜、嘆く
夢の中のできごとですが、ちょっと痛い表現があります。
早暁のダグラールの領城に、人々が聞いたこともない叫び声が響き渡った。
千の喇叭をいちどきに鳴らしたようなその音に、マルグリットは飛び起き、同時に身震いした。
(竜の嘆く声――)
竜の言葉を理解する『竜の愛し仔』なら、この声を聞くだけでその深い嘆きに魂が共鳴してしまう。
マルグリットも両手でわが身を抱きしめたまま、しばらく動けなかった。
頭の芯まで竜の嘆きが響き渡って、ものを考えることもできない。
ようやく息をついて、はっとする。
竜がわざわざこのダグラール領城まで来て嘆く理由に思い当たったからだ。
(ホルトに、何かあったんだ――)
急に血の気が引いて体が冷たくなる。
急いで窓際に駆け寄り、窓幕を引くのももどかしく窓を乱暴に押し開き、その勢いのまま上半身を窓の外へ乗り出す。
城の塔や胸壁に数頭の竜が貼りつき、守衛の兵が遠巻きに槍を向けているのが見えた。
竜たちはすぐにマルグリットを見つけ、窓辺に飛んでくる。
嘆きと迷いと、様々な思いに竜の翼や鱗が震えて声が聞き取りづらい。
いち早く窓辺に前足を掛けた竜が目を細めながらマルグリットに声を伝えた。
『雄ノ仔、動カナイ』
マルグリットの息が止まる。
ようやく絞り出した声は、自分のものではないようにか細く震えていた。
「まさか――死んだわけじゃないわよね?」
『マダ息シテル。デモ、長クハモタナイ。』
マルグリットの喉に何かがせり上がってきてうまく声が出ない。
「落ち着いたって言っていたのに――」
最後に小さく見えた、ホルトの姿を思い出す。
紅斑の出た喉を押さえ、苦しそうに膝をついていた。
あれから何日経った?ホルトはずっと、苦しんでいたの?
溢れそうになる涙を追いやるように強く目元をこすり、マルグリットは夜着を脱ぎ捨て、部屋に置いてあった乗馬服を手早く身に着けると、椅子に掛けてあったホルトの外套をその上に羽織る。
昨日母から受け取った紅い鱗も外套に入っている。
その間も竜はホルトとマルグリットを思いながら、『雄の仔』と『雌の仔』の身の安全をどうしたら両立させることができるのか、判らずに身もだえていた。
だが、マルグリットの気持ちは固まっていた。
どうせいつまで生きられるか判らないこの身だ。ホルトもこのままではきっと死んでしまう。
つがえば二人とも無事でいられるかどうかなど判らないが、後悔しない方法は一つしかない。
マルグリットは身軽に窓枠に飛び乗った。
「マルグリット!」
その時、部屋の扉が開いて、侍女と共に母アレクシアが転がり込んできた。
いつもしとやかに振舞う母がこんなに慌てた姿は見たことがない。
マルグリットは母を振り向いたが、窓枠の上からは動かなかった。
ただ、ようやく判りあえそうだと思った母とは、もう少しゆっくり話をしてみたかった、と思う。
「もうお会いすることは叶わないかもしれません。ホルトが死にかけているというので、私は行きます。さようなら、お元気で。」
そのまま窓の外へ身をひるがえすと、竜の背に飛び乗った。
「ホルトのところへ連れてって!」
あっという間に遠ざかっていく娘と竜を、アレクシアは呆然と窓から見送った。
竜と暮らした岩山までの道のりは遠かった。
数日前に同じ距離を飛んでいたときは、混乱と感情の渦の中にあって、気付いたときにはダグラール領城に着いていた。
だが、今はいくつ白い岩肌の峰を越えても、なかなかあの岩屋にたどり着かない。
竜のたてがみにしがみつきながら、マルグリットは幾度も考える。
(本当に、これからやろうとしていることは正しいことなの?)
誰にも問うことができない。
竜さえもかつて知らない、ただ一人の『雌の仔』として、どうすることが正解なのか、誰にも判らないのだ。
ホルトに相談できない今、マルグリットが自分で決めるしかない。
その責任の重さに、このまま竜の背から飛び降りてしまいたい衝動にさえ駆られる。
だが、そんなことをしても自分の命を無駄にした挙句、ホルトをこのまま見捨てることにしかならない。
ホルトは、ついに助けることはできないのかもしれない――その考えは、マルグリットをひどく怯えさせた。
だが、それならばなおのこと、ホルトの最期の望みをかなえてやりたいとも思う。
鱗の生えたこの身も、今のところは痛みも不具合もないが、このまま人並みに生き永らえることができるのかも判らないし、そもそも生き永らえたとして人の世に戻ることもできず、かといって竜にもなりきれない。
だとするならば、その命の使い道として、ただ一人想う人の望みをかなえるというのは、悪くない生き方ではないかと思う。
母の言葉を思い出す。『その想いを大切になさい。後悔のないように』と。
つがえば、ホルトの姿がこの世から消えるのかもしれない。
あるいは、そのことが元でホルトの命を縮めることになるのかもしれない。
それでも、何もしなければホルトが死んでしまうと判っている今なら、その選択はた易い。
マルグリットは風に暴れる外套をその身に引き寄せて、まだ見えぬ岩屋の中のホルトを思い、行く先に目を凝らした。
◆
悪い夢を見ていた。
若い鱗の匂いに魅き寄せられた何十羽もの黒嘴鳥が、マルグリットに群がっている。
無残に剥ぎ取られた鱗のかけらが舞い散り、凄惨な景色の中できらめいている。
『ホルト、ホルト!』
助けを呼ぶ声がする。
黒嘴鳥の青紫の羽根に埋もれて姿も見えないが、時に垣間見える細い手は血に濡れている。
その手の甲の若い鱗を、また黒嘴鳥がつつく。
やめろ、と叫ぼうとするが声が出ない。
すぐに飛び出して行っていまいましい鳥どもを蹴散らしてやりたいが、体が動かない。
ああ、自分の身より大切なものが傷つけられているのに、どうしてこの体は動かないのか。
焦燥の中、泣きそうなマルグリットの呼ぶ声が響く。
『ホルト、ホルト――!』
「ホルトってば、起きて、起きてよ!」
ゆさゆさと体を揺すぶられる感覚に、朦朧とした意識がゆっくりと焦点を結ぶ。
そこに黒嘴鳥はおらず、ただ泣きながら自分を見下ろすマルグリットがいた。
暮れゆく空を背景にその姿は暗く沈んで見えるが、それでも首筋の紅い鱗は夕日を受けて輝いて見えた。
鱗が発するかぐわしい匂いに、もう動かないと思っていた体の中で血が沸き立ち、指先がぴくりと反応する。
「無事――だったか。」
ささやくような声しか出ないが、まずは安堵のため息が出る。
だが、ホルトがさきほどまで見ていた悪夢など知りようもないマルグリットは、「人の心配している場合じゃないでしょ!」と泣きながら体を揺すってくる。
泣くな、と言いたかったが、のどがかさついて弱い咳が出ただけだった。
マルグリットは瓶から水を汲んでくるとホルトの体を抱き起した。
マルグリットの小さな体では、力の入らないホルトの上半身を起こすだけでも一苦労だったが、ホルトの腕を首に回し両手でホルトの上衣をつかむと、自分の足を軸にして体重をかけて引き起こす。
そのやり方も、大きな獲物を扱いあぐねていたときにホルトが教えたことだ。
何をしてもホルトとの思い出につながっていて、その人を失うかもしれない恐怖に涙が止まらない。
水の入った鉢を口元に当てても、水は口の脇から胸元へこぼれてゆくばかりだ。
(ずっと、水だって飲んでないはずなのに。)
食べ物はまだいい。食べなくても1日や2日何とかなる。
だが、水はいけない。
マルグリットは乱暴に袖で涙を拭うと、迷わず自身の口に水を含んだ。
そのまま乾いたホルトの唇に自分の唇を押し当てるが、なかなかうまく口の中へ流し込めない。
半分以上がこぼれてしまったが、それでも何度かのどが鳴って飲み込むのを確認できた。続けて二口目、三口目と流し込む。
間近に鱗の香りが濃く漂い、久々にのどを潤す水の甘さと唇の柔らかな感触に、ホルトの体温が上がる。
無意識にマルグリットの唇を味わうように食み返すと、マルグリットがびくりとして水の入った鉢を取り落とし、ホルトは我に返る。
「すまない」
そう短く詫びて、マルグリットの腰に両手を当て、自分から離そうとする。
その腕の弱さに、一度おさまった涙がまたこぼれそうだった。
いつも自分を軽々と抱き上げていたその腕が、今では自身の腕の重さを支えることもできないように、ようやくマルグリットの上衣の裾をつかんでいる。
マルグリットは意を決したようにその力ない腕を引き離すと、自らの腕をホルトの首に回して強く抱きついた。
「ホルト、私、あなたとつがいたい。そう決めて、戻ってきたの。」
きっとそれが、ホルトの最期の望みであり、そして、ホルトを救う一縷の望みでもあるから。
自分に居場所をくれ、自由をくれ、生きる喜びをくれたホルトのためなら、自分の身がどうなっても構わなかった。
だから迷わず、鱗に覆われた右の首筋を、ホルトの鼻先にさらす。
ホルトはこれまでにない誘惑にめまいがしそうになりながら、必死にマルグリットの体を引きはがそうと、彼女の服をつかんで押しやろうとする。
だが、マルグリットは手をゆるめない。
「ホルト。私、ホルトのことが好き。多分、ずっと前から。だから――」
かすれた、羞恥をにじませた声でそう言われたとき、それまでマルグリットの体を押し戻そうとしていたホルトの手が震えた。
流されてはいけない、そう理性は警鐘を鳴らしているのに、気がつけば腕を彼女の背に回し、体を強く引き寄せていた。
のどの奥で魂が『シャワシャワ』と音を立て、目の前の鱗とひとつになりたいと叫んでいる。
それまで死にかけていた人とは思えないほどの力でマルグリットの細い体を掻き抱き、首筋に唇を寄せる。
「マギー――俺もそうみたいだ」
そうささやくと、マルグリットの右首筋に美しく並ぶ鱗に歯を立てた。
鋭利な鱗が唇を切るが、ホルトの噛みつく力は強くなるばかりだ。
歯か、鱗かがぱきりと欠ける音がしてもなお、竜の本能に支配された体は噛みつくことをやめない。
一方のマルグリットは、首筋に歯を立てられた瞬間に緊張にこわばっていた体から力が抜け、何かに操られるようにホルトの首に回していた手で頭を抱き寄せる。
マルグリットを抱きしめる腕の力は痛いほどだったが、抱かれている方も苦しいとは感じない。
むしろ、自らの腕でもホルトを引き寄せ、首筋の鱗を通して愛する者が自分の体の中に流れ込んでくる幸福感を全身で受け止めようとしているようだった。
頭の中がしびれたようにその幸福感に浸され、もうホルトが死にかけていることも、自分の体のことも、ダグラール領の両親や竜のことさえ、今はひとかけらも浮かばない。
『シャワシャワ』というホルトの魂が泡立つ音を聞きながら、二人は抱き合ったまま倒れ込み、そのまま動かなくなった。




