帰郷
薄暗い部屋の中に、半透明の白いものがただよっている。
竜のこどもだ。
悲し気に羽根を震わせるその声は、初めてここで聞いた時よりずっと多くを語っていたと今ならわかる。
『竜、飛ブ、楽シイ。雌ノ仔、ココカラ出ラレナイ、飛ベナイ、カワイソウ。竜モ悲シイ。』
「違うよ、飛べないから悲しいんじゃない。」
床に座ったまま、ぼんやりと寝台によりかかってマルグリットはつぶやく。
「飛んで行きたいところはあるのに今は行けないのが悲しい。それに、自分を望まない人たちのところにいるのは、とてもつらい。」
悲しくつらいのに、マルグリットはもう涙も出ない。
竜の背で泣きすぎてしまったのか、あまりに多くのことが起こりすぎて、自分を守ろうと心が蓋をしてしまったのか。
竜はマルグリットを、生まれ故郷であるダグラール領へ運んできた。
そして、城の裏手の岩山に隠れるようにして建てられた小屋の近くへ放り出すと、そのあと城を何度も旋回して巨大な喇叭のような咆哮をあげた。
異変に気付き、隠し通路の先にある小屋にやってきた騎士が、そこで呆然としているマルグリットを見つけ、領主と夫人の元へと連れて行ったのだった。
だが、夫人は鱗をまとった娘の姿にへたりこんで魔よけの印を切り、領主である父もその姿に息を飲んだだけで、特に会話もないままマルグリットは以前と同じように、昼間から窓幕を下ろした薄暗い子供部屋に放り込まれていた。
当然のように、入り口には騎士が立ち、部屋から出ることは禁じられた。
(お母さまは、魔よけの印を切った)
それは、何か穢れを持つものからわが身を守るとき、神の加護を願う仕草だ。
(お母さまにとって、私は穢れた存在なのか)
父は何も言わず、ただ難しい顔をしてマルグリットを見つめるばかりだった。
そこには親子の感動の再会どころか「おかえり」の声ひとつない。
左手を見下ろし、鱗をそっと撫でる。
(ホルトは、綺麗だって言ってくれたのに)
竜の背に乗っても、ホルトと暮らした岩山からダグラール領までは半日かかる。
今はもう陽も傾こうとしているが、それでも昨日の今頃はまだ、しばらく岩山での暮らしが続くのだと疑いもしなかった。
(今朝、沢になんて下りなければ)
無論、今朝でなくとも、早晩ホルトからは引き離されることになっていたはずだ。
だが、ホルトの身を危険にさらすことは避けられたはずなのだ。
ホルトがマルグリットを黒嘴鳥から守ろうと、強く抱きしめてくれた腕の強さがまだその身に残っている。
今、マルグリットは母の服を着ている。
岩山で着ていた服は貧しい村人のそれと変わらないものだったから、誰に姿を見られるわけでなくとも、領主の娘がそんな服をまとうことは許されなかった。
以前ならマルグリットは襟元も袖もしっかりと覆う服でないと嫌だったが、これも成長の証なのか、逆に鱗を何かで覆われるのは不快なので、えりぐりも大きく袖も肘までの服をそのまま着ている。
ホルトの外套も着替えの時に侍女から取り上げられそうになったが、これだけは手元に残っている。
土ぼこりまみれで繕い跡もある外套を見て侍女は渋い顔をしたが、城についてからずっとぼんやり無表情だったマルグリットが、これだけは必死の形相で手放そうとしなかったので、しぶしぶ許すことにしたらしい。
――雌ノ仔、デキルコトナイ――
竜はそう言った。
本当に何かできることはなかったのか、そう考えることを、今のマルグリットの心は拒否している。
竜に引き離されたマルグリットが、一人でホルトの許に戻る術はない。
そもそも、生きづらい『親無し卵の仔』なのだ。
どう頑張っても、ホルトも自分も長く幸せに暮らすことなどできはしなかったのだ。
そう考えると、今生きていることが虚しくなってくる。
寝台に背を預けていたマルグリットは、そのままズルズルと床に横たわるとホルトの外套を引きかぶり、瞳と心を閉じて殻にこもった。
◆
いつの間にか眠っていたのだろう、何度か「マルグリット」と呼びかけられて、ようやく目を覚ました。
最近は「マギー」としか呼ばれていなかったから、それ以外の呼び名が自分のことだと認識するのに、時間がかかる。
部屋の中も暗く、灯心の短くなったランプがひとつ、弱い光を放っているだけだった。
薄暗い部屋の中でも、マルグリットの目には戸口から様子を窺うようにたたずんでいる母の姿がはっきり見えた。
「――お母さま。」
身を起こしながらそう呼ぶと、母であるアレクシアは息を飲んだようだった。
「母と――そう呼んでくれるのですか?」
一瞬、母と呼んだことを責められるかと思ったが、そうではなかった。
マルグリットは一瞬虚を突かれ、それからゆっくり立ち上がって静かに答えた。
「他に何とお呼びすればよいか、知りませんもの。」
自然と、ここで暮らしていた頃の言葉遣いに戻る。
「お母さまの方こそ、私を娘と思ってくださらないのかと。」
魔よけの印を切られたことに、マルグリットは少なからず傷ついていた。
だが、母は「何を馬鹿なことを」とでも言いたげに小さく首を振りながら、マルグリットに歩み寄った。
「その――鱗は、痛まないのですか?体を損ねたりはしていないのですか?」
恐る恐る伸ばされる手を、マルグリットは慌てて止めた。
「とても鋭いのです。怪我をされます。」
「怪我などしてもよい。そなたには済まぬことを――」
そう泣き崩れる母を見て、マルグリットは気付いた。
あの魔よけの印はマルグリットに向けたものではなく、娘の中に巣くう何かから、マルグリットの身を守ろうとしたものだったのだ。
鱗は彼女自身にとっては魔物でも穢れでもなかったが、母にとっては自分から娘を奪った、何か恐ろしいものなのだろう。
きっと母は竜のことを断片的にしか知らないのだ。竜もこの土地のことをほとんど知らなかったように。
母が落ち着くのを待って、マルグリットは声をかけた。
「もう今日は遅いですから、お母さまもお寝みください。もしよろしければ、明日、私の話を聞いていただけますか?竜との誤解を、解いていきたいのです。」
きっとここにそう長くはいられない、とは、まだ母には告げなかった。
今日のところはできるだけ穏やかな気持ちで眠りについてほしい。
そう思えることに、マルグリットは自分でも驚いた。
(きっとそれは、大切にされていると思えているから)
竜に、そしてホルトに。
◆
部屋に一人になると、どこからともなく竜のこどもが姿を現した。
そのうち何頭かは半日遅れほどでマルグリットを追いかけてきた竜で、その後ホルトは少し落ち着いたようだ、と教えてくれた。深く安堵の息をつく。
これから、私はどうするのだろう。
でも、このままこの城で、あるいは他の場所で、人に立ち混じって暮らしていく、という選択肢はない。
鱗の生えたこの体を他人はどういう目で見るか、両親や侍女、騎士の態度を見れば明かだ。
今は鱗が生えかけの不安定な時期だったから竜もマルグリットを一人で岩山に残してはおけなかったのだろうが、このままマルグリットの体が落ち着くようなら、きっとまたあの岩山に戻って暮らすことになるだろう。
これからは、ホルトと離れて。
そう、それが一番正解に近いのは判っている。
けれど、マルグリットの奥底から、ホルトと共にありたい、という強い願いが首をもたげてくる。
元々、長く生きられる体かどうかも判らない。
ならば、この身が壊れることになっても思いを遂げたい。そんな激情がくすぶっている。
「――いずれにしても、また岩山に帰るんだわ。」
そうつぶやき、帰る場所は結局、竜の住むあの岩山でしかないということを再認識する。
この城は自分にとって帰るべき場所ではなく、ほんの一時的な宿りでしかないのだ。
だから、今日母と話せて良かった。
できれば父とも話をしておきたい。
もし判りあえなかったとしても、もう会わない人ならば、そのうちきっと忘れられる。
ホルトとティーナの関係のようにはなれなくても、それでも言っておきたいこと、聞いておきたいことを語りあえるのは今しかない。
明日はホルトのことも話そう。
何を話そうかと思い出を手繰る。
初めて会ったときに髪を鎌で切られそうになったこと、人の常識がたまに通じないところ、狩りがうまいこと、竜の言葉をよく理解していること――そして、マルグリットを「マギー」と呼んで、大切にしてくれること。
思わず笑顔になり、そしてこれからの独りの暮らしを思って胸がずきりと痛んだ。
でも、今夜はその痛みを無視して、楽しかった思い出だけを抱えて眠ろう。マルグリットはホルトの笑顔やあたたかな手を思い出しながら寝台に横になった。願わくは、ホルトも穏やかな夜を迎えているようにと祈りながら。
その頃、溶け始めた魂を必死につなぎとめようと、ホルトが独りもがき苦しんでいることなど、マルグリットは知りようもなかった。
◆
翌日、マルグリットは昼食を共にするよう、両親から誘いを受けた。
大きな紗の布をかぶって顔を隠し、食堂ではなく夫妻の私室に通される。
幼い頃には時折こうした昼食もあったが、見知らぬ老人がマルグリットを『竜の愛し仔』と呼んだあの日からは、父と食事を共にすることはなくなっていた。
給仕やその他の召使を出入りさせないためだろう、マルグリットが部屋に入る前に食事はすべて運び込まれており、以前マルグリットの世話をしてくれていた侍女が紗の布をマルグリットの頭から外して、部屋から退がった。
こうしてあらためて相まみえるのはいつぶりだろう。
「ご連絡もできず、ご心配をおかけしておりました。急な来訪でお騒がせし、申し訳ございません。」
元々、両親と話す時にはこういう口調だった。
何か見えない壁に隔てられているような、親子の関係。
ホルトとその母ティーナの距離感もまた普通の親子とは違うのかもしれないが、それでもこの領城の主の親子関係が、希薄というのもおこがましいほど冷えたものだということは、今のマルグリットになら判る。
父はうなるように「うむ」と言っただけで黙ってしまう。
母はそんな父に少し遠慮しているようではあったが、それよりマルグリットの「来訪」という言い方が気になったようだった。
「帰ってきたわけではないのですか?」
産んだ者は親という生き物になるのだな、と、いつも自分たちに甘い竜を思い出す。
卵を産み、その卵とそこから生まれる仔を慈しむ竜。
今の母にはどこか、それに似通った感情がうっすらと透けて見えるような気がした。
「私はここでは暮らせません。竜が認めないでしょう。こう申し上げてはご不快かもしれませんが、お父さまとお母さまは、竜にとっては『卵泥棒』なのです。竜がその手元に、『竜の愛し仔』を託すことは、恐らくありません。」
「わたくしたちは、竜から嫌われているのですね。けれど、竜は人の子につらくは当たらないのですか?」
マルグリットは心配そうに自分を見る母の目を見返す。
ああ、この人はやはり何もわかっていないのだ。これほど恐れる竜の卵を飲んでまで授かろうとしたそのこどもが、どんな存在であるのかを。
「私は人の子ではありません。竜の仔です。」
母アレクシアは喉を詰まらせたように何も言えなかった。言葉を繋いだのは父の方だ。
「やはりそなたは、私の血は引いていないということなのだな。」
父を見やって思う。この人も、やはり何もわかっていない。
ただ、これは『竜の愛し仔』の父親にはままあることだ。
竜と共に仔を育てる自分の妻を見て、まるで竜と自分の妻が不義を犯したかのような妄執に囚われる。
実際、ホルトの母ティーナの夫も、妻と子を置いて家を出てしまっている。
マルグリットは目の前に手を広げて見せた。
「私の手。指は長いのですが、小指だけがとても短いのです。お父さまに似て。」
父ファビアンの手はマルグリットのものよりずっと肉付きが良く分厚いが、その指の形は二人ともそっくりだ。幼い頃から、侍女がよくそう言っていた。
「竜の卵がどう干渉して仔を孕みやすくするのかは知りません。けれど、女性が一人で竜の卵を飲んでも、仔は授からないのです。私は間違いなく、お父さまとお母さまと――そして竜の仔です。」
そこまで言って、少しすっきりした。
急に父が母と自分に対して冷たくなった理由を、マルグリットはホルトと竜との生活の中で何となく想像するようになっていたから、できることなら両親の間に横たわる誤解をいつか解きたいと思っていた。
父はどこか憑き物が落ちたような、しかしこれまで信じてきたことにどこかでまだしがみついているような複雑な表情をしていたが、正直ここから先は娘に頼らず自分で何とかしてほしい。
それほどの義理はないのだ。
あとは、両親の中にある罪悪感を軽くするためと好奇心を満たすために、岩山での暮らしについて少し話せばいいだろう。
張りつめてしまった部屋の空気を和ませるように、少々行儀は悪いが幼い子供のように父にねだった。
「お父さま、お腹がすいてしまいましたわ。温かいうちにいただきましょう。」
マルグリットは食事をしながら竜との暮らしを両親に話して聞かせた。話の中に頻繁に出てくる「ホルト」の名に、先に反応したのは母だった。
「そのホルトというのは――どういった方なのですか?」
マルグリットの口元に、自然と笑みが浮かぶ。ホルトのことを想うのは、いつでもマルグリットにとって喜びだ。
「私と同じ『竜の愛し仔』です。竜のことを色々と教えてくれました。竜のことばや、竜と飛ぶことも。それに、『竜の愛し仔』や『親無し卵の仔』のことも。」
そう言ってから、両親の表情が硬いことに気づく。
マルグリットに何も教えてこなかったことをやんわりと非難されているとでも思ったのだろうか。
マルグリットは小さくため息をつく。
(こういうところが、人間はめんどくさい)
あえて気付かぬふりをして、話を続ける。
「料理や繕い物、狩りの仕方も教えてもらいました。人里からは離れて暮らしていますが、必要な物はいつでも村で分けてもらえます。村の人々も竜をよく理解していますし、村には『竜の愛し仔』も何人もいるのです。最初は寂しいと思うこともありましたが、幸せに暮らしています。」
マルグリットは首筋の鱗に手をやった。
「この鱗が生え始めたのは十日ほど前です。間もなく生え揃いますが、そうしたら元の岩山へ戻ります。竜が迎えに来るでしょう。」
でも、ホルトのところへは戻れない。
少し寂しい顔になったのを、父は誤解したようだ。
「この城に留まることはないのか?」
「留まって、どう生きるというのです?」
少し困ったような表情で父に問い返す。
決して反発心や怒りから出た言葉ではなかったが、それでも以前のマルグリットであれば、父にこのような口の利き方はしなかっただろう。
だが、すでに遠い存在になってしまった両親には、今や嫌われることを恐れて口をつぐむ必要すら感じなくなってしまった。
ファビアンは眉間に皺を寄せたまま黙り込んだ。
父をやりこめるつもりもなかったマルグリットは、一つ息を吐くと左手甲の鱗を撫でた。
「ここにいたら、鱗を隠し、わが身を隠して生きてゆかねばなりません。でも、ホルトも竜もこの鱗を美しいと言ってくれます。私に竜の体をくれた卵の親は、同じ紅の鱗を持っていたそうです。私はこの身を誇って生きてゆきたい。」
母アレクシアは思い出していた。
竜の卵を探しにやった兵のうち、戻ってきたのはほんのわずかな人数で、彼らが口々に「まがまがしい紅の鱗を持った竜」について話をしていたこと。
だが、その紅の竜は、我が娘マルグリットのもうひとりの母であったのだ。
初めて、アレクシアの中に竜を殺めた罪悪感が生まれた。
アレクシアは手に持っていた銀器をそっと下ろした。
「マルグリット。そなたを授かり、産み育てたことを後悔したことは一度もありません。けれど、そなたのもうひとりの親でもあった竜を殺めたこと、無知でしたこととはいえ済まぬことをしました。」
母が竜に対して頭を下げるのを、マルグリットは感動にも似た気持ちで眺めていた。
両親は決して、竜を理解しないと思い込んでいた。
「竜たちにも伝えます。謝罪を受け入れるかどうかは判りませんが、お母さまが理解をしめしてくれたこと、私もとても嬉しく思います。」
そして、この城にいるうちに是非、伝えておかねばならないと思っていたことを告げる。
「どうか、私はいなかったものとして、領主の後継者には養子をお迎えください。私はもう、総領娘に戻ることはありません。」
小さく、安堵の息をつく。この一言を告げるためだけでも、ここへ戻ってこられて良かった。
◆
その日の晩、再び母アレクシアはマルグリットの部屋を訪れた。
短い滞在であることを改めて知り、せめて公務のない時間は共に過ごしたいとのことだった。
「そなたをいなかったことになどできぬ。跡継ぎは他から迎えるが、そなたはいつまでも私の娘であることに変わりはないのだから。いつまでも健やかで。」
そう、短くなった髪を撫でる母に、さすがにこの身がいつまで生きられるか判らないと告げることはできない。ただ、小さくうなずいた。
小さな部屋の中の小さな椅子に腰かけると、アレクシアは手元の包みをマルグリットに差し出した。
「どうしてよいか判らず、ずっと仕舞ってあったのです。」
古ぼけた皮の包みを開くと、見慣れた細長い輝きが現れた。紅い、竜の鱗だ。
「これ――」
息を飲んだマルグリットに、母は黙ってうなずいた。
「竜の卵を持ち帰った兵が、確かに竜のものだと証しするために持ち帰ったのです。あなたの、もうひとりの母のものでしょう。あなたが持っていらっしゃい。」
部屋のほの暗い灯りの中でも強く輝く鱗。
自身のそれととても良く似た輝きを手にして、マルグリットは身の内から溢れてくる強烈な懐かしさと切なさに泣きたくなった。
(この鱗、見せたかったな)
毎日竜たちを見ていれば、きっと娘である自分に同じ色の鱗が生えてきたと知ったら喜んだに違いないと確信できる。
だが、人としての母であるアレクシアの前でその思いに暮れるのは、母を悲しませるだろうと思う。
ぎゅっと目をつぶり、鱗を握りしめて、「ありがとうございます、大切にします。」と笑顔をつくった。
アレクシアも娘の複雑な気持ちに気付いたのだろう。
しばし黙っていたが、空気を換えるようににこりと笑った。
「そなたがホルトについて語るとき、随分と嬉しそうに笑うものだから、少しその者の話を聞いておきたくなりました。」
「嬉しそうだなんて」
子供っぽく頬を赤くしてふくれるのは、岩山で見せていた表情に近い。
アレクシアは今まで見たことのなかった娘の一面を愛しいと思う一方、これまで向き合ってこなかった後悔と、またすぐに手放さねばならない苦悩に胸がつぶれるようだった。
だがそれは、上手に穏やかな笑顔で隠す。
「どんな方なのです?」
改めて笑顔で問われ、マルグリットは少しぶっきらぼうな言い方になりながらも思い出をたぐる。
「ずっと竜と一緒に暮らしているから、少し変わっているのです。いつまでも私のことをこどもみたいに扱うし、世の中のことは全然知らないし。そう、最初に会ったとき、私の髪を草刈り鎌で切ろうとしたの。ひどく絡まってしまって切るのは仕方なかったのだけど、でもひどいでしょう?」
文句を言いたげに口をとがらせているが、そこにはホルトへの甘えがにじみ出ていて、アレクシアは嫉妬に近い感情を抱いた。
(甘えさせてやれなかったのは私の罪だけれど――)
こんな風に感情を露わにする娘ともっと親しく語り合う母であれたなら、今胸に抱える後悔はもう少し小さなものであったかもしれない。
ホルトから教えてもらったあれやこれやを語る娘はいつの間にかホルトへの不平顔を繕うのを忘れてしまったようで、わずかに頬を上気させて思い出を語っている。
「――そう。マルグリットは、ホルトのことを慕っているのですね。」
「慕ってなんて――!」
母の指摘に、マルグリットは今度こそ本格的に赤面して否定する。
「そんなわけないわ、ホルトはずっと年上なのよ。もちろん、お父さまよりは若いけれど、でも」
そう言い募る娘を、母は微笑ましげに見つめる。
「優しくされても素直になれなくて。傍にいると心が騒いで言いたいことも言えなくて。なのに、少し離れるだけでつまらなくて、寂しくて。」
違う?と母に問われると、紅い頬のまま床に視線を逃がすことしかできない。
「それを恋というのです。そなたには思うに任せぬ人生を背負わせてしまった。だから、その想いくらいは大切になさい。後悔のないように。」
その母の瞳がわずかに寂しく陰ったのを、マルグリットは見逃さなかった。
「お母さまも、恋をしたことがあるのですか?」
父と母は領主とその夫人として支え合ってはいるが、それは恋慕の情とは違う気がする。
それに、恐らくはマルグリットの誕生の理由が、二人の間のしこりになっているようでもある。
母はしばらく黙っていたが、やがていつもの穏やかな笑顔を浮かべて答えた。
「マルグリットも聞いたことがあるでしょう。母が最初、他の貴族に嫁ぐ予定だったことを。幼い頃から懇意だった公爵家の嫡男で、体は弱かったけれど優しく、頭の良い人でした。」
けれど、婚約してわずか3日で、その相手は身罷ったという話も有名で、もちろんマルグリットも知っている。
「お父さまには、内緒ですよ。やっと誤解が解けて、やり直せそうなのですから。」
全ての感情を穏やかな笑みの後ろに隠して、母はもう一度マルグリットの白金の髪を撫で、部屋を出て行った。
静かになった部屋に、灯心がじりりと鳴る音だけが響く。
ややあって、マルグリットはぽつりとつぶやいた。
「私――ずっと前からホルトに恋してたんだわ。」
そう言葉にした途端、様々な想いと共に涙があふれて止まらなくなった。
「そうか――俺はずっと、マギーに恋していたんだな。」
そうつぶやくホルトは、岩穴の寝床にうずくまったまま、苦し気に息をついていた。
竜は右往左往しているが、何もできない。
マルグリットの身を損なうかもしれない――そう考えただけでホルトの嘆きはわが身の苦しさを忘れるほどだった。
ホルトの身を案じる竜の嘆きも、今はそれに届かない。
だからホルトの思いに背いてマルグリットの許へ飛んで行くこともできず、竜も身をくねらせて苦悩していた。
竜がマルグリットを連れ去った後、ホルトは深呼吸を繰り返し、何とか喉の奥で泡立とうとする竜の魂を抑え込もうと自分の体と格闘した。
結果、完全に抑え込むことはできなかったけれど、竜がつがったときのように体が動かなくなるという程のことはなかった。
力ないながら立ち上がる頃にはだいぶ陽も高くなっていたが、竜に「大丈夫だから、マギーにもそう伝えてやってくれ」と伝言を頼んで送り出す。
それでも、喉の奥の違和感と、強烈にマルグリットを求める想いが止まない。
何で突然。マルグリットは可愛い妹分だったじゃないか。
とにかく、頭の中からマルグリットとあの魅惑的な赤い鱗の影を追い払う。
よろめきながらも瓶から水を飲み、とりあえずそのまま齧れるパンや木の実を手に取り、岩穴の壁に寄りかかる。
これまで風邪もひいたことがなかったが、体が熱く呼吸が浅く早い。
それでもこの日は一日、だるい体を引きずりながらも、なるべくいつもと同じように過ごした。
沢へ下りたり森へ狩りに行くことはできなかったけれど、マルグリットのいなくなった岩穴で矢を作ったり、道具を直したり、減ってしまった食料や身の回りの物を確認し、次に村へ行くときのために書きつけておく。
そしてはたと、それが当たり前のように二人分の量で数えていたことに苦く笑い、また喉の奥の何かを押し戻す。
平静を装っているホルトのことなど、きっと竜はお見通しなのだろうが、今日のところは何か言いたげにしながら、そのままそれぞれの寝ぐらへ帰っていく。
気を張る必要がなくなって、ホルトは大きく息を吐き、岩壁に寄りかかる。
朝から、食欲がない。パンを一口かじってみたが、喉が詰まったように飲み込めない。
かろうじて水は少し喉を通ったが、それでも恐らく、体が必要としている量には足りていないのではないかと思う。
恐らく、これが竜が危惧していた状況なのだろう。
つがいかけて、途中でやめる。それは、こういうことなのだ。
そして、朝より昼、昼より今の方がだるさが増している。
このまま夜寝てしまえば、明日の朝どうなっているか判らない。
それでも、起きているのが億劫で、そのまま床に寝転がる。
昼の間は竜たちの手前、なるべく普通に振舞おうとして、マルグリットのこともなるべく頭から締め出して過ごした。
だが、どうせ今は心配性の竜もいないのだし、どのみちこのまま生き延びる術もないなら、ただ、マルグリットのことを考えていたかった。
最後に外套越しではあったがマルグリットを抱きしめ、若い鱗の匂いを間近にしたときの情景を思い出し、ホルトの喉の奥が『シャワシャワ』と小さく泡立つ。
でももう、それを抑え込もうとは思わない。
無駄な足掻きをやめ、マルグリットのことを考えていると、体は重く熱っぽいのに、これまで感じたことのない幸福感に満たされてくる。
ああ、これが竜が言っていた、つがう時の気持ちなのかもしれない。
そうやって、雄の竜のこどもは、幸福感に包まれて雌の体に溶けてゆくのだという。
雄も姿が消えるだけで雌の体と共に新たな成体の竜に生まれ変わるのだから、それは決して雄のこどもの「死」ではないのだけれど、目で見たものに重きを置いてしまうホルトとしては、そんな雄の竜の姿と今の自分を重ね合わせずにはいられない。
こうして、愛しい者のことを考えながら、そのために消えてゆくのだとしたら、幸せな生の終わりといえるだろうな。
だが、いつからマルグリットを愛しいと思い始めたのか。
マルグリットの鱗を目にした時から、自分がおかしくなっているのは判っている。
けれど、これまではどうだ?
「なあ、お前たちは、慕う相手のことを、どう思ってるんだ?」
ホルトの身を案じて傍を離れない竜に問うてみる。
「会ウト嬉シイ。離レルト寂シイ。傍ニイタイ。触レテイタイ。傷ツクト悲シイ。笑エバ楽シイ。世界デ一番美シイ。命デ、誇リ。」
その全てに、マルグリットが当てはまるのだと、改めて思う。
笑顔を作ることもままならなくなってきた顔が、それでもゆるむ。
「そうか――俺はずっと、マギーに恋していたんだな。」
そっと目を閉じる。初めて会ったときの泣いているマギー、狩られる動物が可哀そうだと弓を引けなかったマギー、やがて竜に乗るのも川で泳ぐのもどんどん上手くなり、朗らかな笑顔を見せてくれるようになったマギー――
ホルトはそのまま動かなくなり、喉元から聞こえる『シャワシャワ』という音だけが、暗い岩穴に響いていた。




