僕と彼女は月に住む
『やっほー、ノブくん。元気?』
画面の向こうから、彼女の声が聞こえる。この声を聞くと、僕はいつでもあの頃に戻ってしまう。
彼女──せれなは、僕の友人だ。まだ僕らが幼い子供だった頃、彼女は僕の隣にいた。当然のように僕らは親しくなり、よく一緒に遊んだり勉強したりしていたものだ。
今は遠く離れてしまっているけど、こうやって時々画面越しに声を聞いている。いくつになっても「ノブくん」「せれな」と呼び合う、気のおけない友人。少なくとも、彼女は今でもそう思ってるんじゃないかと信じたい。時が経って、僕がどんなに変わってしまっても。
「せれな、今、何処にいるの?」
せれなは微笑む。画面の中で。
『月だよ』
と、せれなは答えた。
『わたしは今、月に住んでるの』
せれなはよくこんなことを言う。彼女のいる白っぽい部屋の、その隅に写り込んでいる窓の外は明らかに地球の空なんだけど。
「月なんて、何もないところだろ」
重力も低くて空気もほとんどない、ゴツゴツした岩場ばかりの場所。僕らが習ってきた月とは、そんな所だ。
『そんなことないよ』
せれなは何故か自信満々だ。
『ここにはウサギ達がいっぱいいて、お餅をついてくれるの。とっても美味しいんだよ。かぐや姫がいるとっても大きい宮殿があったり、ヒキガエルになれる美人の仙女さんがいたり、桂の木をひたすら切ってる人がいたりするの』
それは単なる伝承だ。日本とか中国とかに伝わる、おとぎ話や伝説だ。でもせれなは胸を張って、彼らと会ったと言い張る。
せれな、せれな。月にはウサギはいないんだよ。だけど僕は、すんでのところでその言葉を飲み込む。そんな言葉は、全くの無意味だとわかっているから。彼女にも──恐らくは、僕にも。
『地球ではお月見をするけど、こっちでは地球見をするの。ウサギ達や、よその星から来た宇宙人さん達と一緒にね。意外とね、宇宙人さんとかいるのよ。みんな地球の人達に見つからないように隠れてるの』
彼女は夢見る瞳で言葉を続けた。
『知ってる? 地球から見た月は太陽の光を浴びて光ってるけど、月から見た地球も太陽の光で光ってるのよ。青くてとても綺麗なの。わたし達は、それをみんなで見るの。ウサギのお餅を食べながらね』
ああ、せれな。地球の美しさを語る君の瞳も笑顔も、多分それ以上に輝いてるよ。でもね、せれな、地球は多分、月から見るほど綺麗ではないんだよ。
僕は映像を停止させ、モニターのスイッチを切った。空を見上げる。目の前にあるのは透明なドーム、その向こうにあるのは無機質な星空と──地球。
そう、今僕のいるここは、月面だ。
戦争や環境破壊などによって荒廃した地球からの移住先として、人々は宇宙に新天地を求めた。
手始めに選ばれたのは、月だった。月面にドームを建設し、水や空気の循環システム、発電システムなどの生活に必要な機材を設置して人が住める環境を整える。
僕は月面ドームに住み、人がここでちゃんと生きられるのかを調査する実験移民の一人だ。僕らの実験が無事に終われば、もっと大規模なドームが作られ、もっと多くの人がやって来るだろう。そして月も、地球にあるのと同じような街が出来て行くのだろう。
持ち込める物は限られていたが、僕はあえてこの録画データの入ったタブレットをここに持って来た。
せれな。子供の頃に入院した病院で隣のベッドにいた、僕の友人。病弱で、青白い顔をして、細い腕には常に点滴の痕があって、でも笑顔は常に輝いていた彼女。
僕はすぐに退院出来たけど、せれなは家よりも病室にいる方が多かった。僕はそんなせれなが気になって、退院した後も見舞いに行ったりリモートで話をしたりしていたものだ。
初恋だったのかと言われれば、そうだったようにもそうではなかったようにも思う。とにかく、僕にとってせれなは何か特別な存在だった。今までも、これからも。
外にも自由に出られないせれなは、本を読むこと、動画を見ること、空想をすることが娯楽だった。だからネットを介した僕との会話でも、あんな突拍子もないことを平気で語った。どこにも行けないせれなが、どこかに行く唯一の方法だった。
せれなとの会話を録画していたのは、彼女の人生があまり長くないことを無意識のうちに気づいていたからかも知れない。事実、彼女は子供のうちにこの世を去った。彼女を遠くに連れて来たくて、僕はこのデータをここへ持って来たのだ。
だけどね、せれな。ここへ来て、改めてよくわかった。君がいたのは、幻想の月だよ。
現実の月には、本当に何もない。ウサギもいないし、かぐや姫もいない。あるのは岩と砂だけ。
そんなところで僕がやっているのは、毎日単調なシステム整備とバイタル検査、地球への活動報告だ。環境が違うせいか、僕が管理を担当している植物育成プラントはうまく稼働していない。未だに芽すら出ていない。
その調整に忙しいので、ドームの外に探検に行くようなことはない。そもそも月は、地球ほど人や動物が生きて行けるようには出来ていない。気軽には出て行けない。
それに……もしウサギ達がいたとしても、地球から人が来るようになれば、人々は彼らの場所を我が物顔で踏み荒らすようになるだろう。それは何だか嫌だった。
「せれな。君はまだ月にいるのかい?」
『いるよ』
僕の独り言に、誰かが答えた。
空に浮かぶ地球が、太陽の光を受けて輝く。ドームの向こうの地面に地球の光が差した。
その、場所に。
まだ十歳をわずかに過ぎた年頃の少女がいた。
レモンイエローのワンピースを着て、少し茶色っぽい髪をなびかせて。ほっそりはしているけれど、傷一つない手足。まさか……でも、確かに、彼女は。
「……せれな!」
僕は彼女の名を呼んだ。
『久しぶりだね、ノブくん』
あの頃とは見違えるように健康で元気そうで、だけどあの頃と全く変わらない笑顔で。彼女は僕に微笑みかける。
「なんで……君が、ここに……?」
『言ったでしょ。わたしは月に住んでるって』
彼女は答えた。
『ノブくんがここに来てるから、会いに来たの。ほら、みんな、この人がノブくんだよ。ご挨拶して』
見ると、せれなの足元には真っ白いウサギが何匹もいる。ドームの外に。空気なんてほとんどない場所に。ウサギ達は僕を見て、ぴょこりと頭を下げた。
『心配しないでね、ノブくん。わたし達は、誰が来たってここでちゃんと暮らして行けるわ。……わたし達、隠れるのは得意なのよ』
ねー、とウサギ達と笑い合うせれなを見ていると、何だか涙がこぼれそうになる。僕はそれをなんとかこらえた。せれなの前では涙なんて見せたくない。
「……せれな」
その代わりに、僕は尋ねた。
「ここの暮らしは、楽しい?」
『楽しいよ』
せれなは即答した。
『ここでは、地球から来た人も宇宙から来た人もいて色んな人と友達になれるし、どこまでも走り回ることも出来るし、うんと高く跳べたりもするの。とっても楽しい』
ああ、それは楽しいよね。人生の半分以上を病室で過ごしたせれなにとって、望んでも得られなかったものばかりだから。
『ノブくんにも遊びに来てもらいたいけど……今は無理ね』
「そうだね」
今はまだ、せれな達のところには行けない。行けるのは、まだまだずっと先のことだろう。
「でもね、せれな。例え会えなくても、僕はせれなをずっと友達だと思ってるから。せれなが今、楽しそうに暮らしているのが、僕はとても嬉しいよ」
『うん。ありがと』
「今は行けないけど……いつか必ず、また会いに行くから」
僕の言葉を聞いて。
せれなは、煌めくような笑顔になった。
月の輝きより、地球の輝きより、太陽の輝きよりも、それは眩しい笑顔だった。
『忘れないで、ノブくん。顔を合わせることは出来なくても、わたし達はいつだってここにいるのよ』
気がつくと、ドームの外にはせれなの姿もウサギ達の姿もなかった。幻だったのだろうか? 常識で考えればそうなんだろうが、僕にはそうは思えなかった。
と、僕のつけている腕時計型の携帯端末が鳴り始めた。植物育成ユニットからの通知だ。僕は慌ててユニットへ向かった。
「……発芽してる!」
芽が出ている。ここへ来てから、何をやっても変化がなかったユニット内の植物が。
植物が育てられれば、食料や燃料を作ることだって出来る。これは、まさしく地球人が月へ移民することへの芽生えでもあった。
それは僕には、せれな達月の住人が、地球人がここに住むのを受け入れてくれた証のように思えた。さっき我慢していた涙が、こらえきれずに流れ始めた。生命力を誇示するような新芽を前に、僕はひたすら泣き続けていた。
僕は今も月に住んでいる。
そして、きっと、彼女達も。