【短編】そして王后は四つの幸福を得る
その日、極東の王后は十六歳になった。
東洋の真珠とうたわれるこの国が、外交と貿易を開くようになり、五年の歳月が経つ。
その間、列強と渡り合う少年帝のとなりに、嫡妻の姿はなかった。幼さを理由に、公の場から遠ざけられていたのである。
年の初めに帝が二十歳を迎え、摂政から行政権の返還を受けた。彼は名実共に皇国の支配者となる。そして今日、王后の成年式が行われることとなった。
「王后陛下、お目をあけてよろしゅうございます」
と、化粧掛の女官が言った。王后──千花子はゆっくりと目蓋をあける。
千花子の身の丈よりも大きい鏡には、異国の盛装に身を包んだ少女が映っていた。
仮縫いで何度も袖を通してはいたが、こうして髪を結い上げ、宝飾品を身につけた姿を見るのは初めてだ。
「信じられない……」
と、思わず呟いてしまい、千花子は頬を染める。思ったままを言ってしまうなど、幼い子どものようだ。
けれど化粧掛の女官は聞こえぬふりをしてくれた。千花子は胸をなで下ろし、お礼を言った。
「新樹、ありがとう。すばらしいわ」
「もったいないお言葉にございます。王后陛下は肌が白うございますから、ファランドール風に白粉は少なく、紅は淡くさせて頂きました」
「これから、わたくしだけでなく女官達も洋装を着る機会が増えるわ。あなたの経験に期待しています」
新樹は洋装の裾をつまんで淑女の礼をとる。
「御意にございます。さっそくではございますが、女官長のお支度へ行くことをお許しください」
「もちろん。腕を振るってきて」
千花子から許しを得て、新樹は下仕えの針女を連れて退出した。少し一人になりたい、という千花子の気持ちを察してくれたのだろう。
化粧室から誰もいなくなったので、千花子はそろりと椅子から立ち上がった。
裾をつまんで、ゆっくり鏡に近づく。洋装──ドレスでの歩き方は袴とは勝手が違う。開国してから意識して袖を通すようにしてきたとはいえ、ここまで豪奢なドレスははじめてだ。
細い首には三連の真珠の首飾り、控えめに開いた胸元には新緑を宿す宝石がきらめいる。短い袖やふんわりと広がる裾には、たっぷりとひだ飾りがあしらわれている。
ドレスもヴェールも、すべて上等な白絹である。手袋の指先まで繊細な刺繍がほどこされていて、思わずうっとりしてしまう。
とても綺麗な衣装だが、はたしてこの装いは自分に似合っているのだろうか。そして。
(主上は、どう思われるかしら)
つい考えこんでしまい、叩扉音に気付くのが遅れた。
「千花子? 入っても構わないかな」
という青年の声で、はっと我に返る。
この奥宮殿で千花子を呼び捨てにできるのは一人だけだ。
「どうぞ、お入りくださいませ。──主上」
唐戸の向こうから、礼服姿の今上帝──春時が現れる。
千花子は裾をつまんで深くお辞儀をする。心臓がどきどきと高鳴り、胃がひっくり返りそうだった。
「千花子、顔をあげて」
と穏やかに促されて、千花子はぎくしゃくと姿勢を戻す。視線は繻子の靴に固定したまま。
そんな妻の様子に微笑した気配がつたわった。
結い上げた髪に、そっと何かが置かれる気配がした。ふわ、と柑橘の匂いが鼻腔をくすぐる。
顔を上げると、春時は千花子の手をとり、鏡の方へと誘う。白い花と蔓で作られた花冠が、千花子の黒髪に彩りを添えていた。
「庭の橘で作ったんだ。千花子のティアラにと思って。……どうだろう?」
千花子は懐かしさに顔をほころばせた。
「うれしい。花冠の作り方を覚えていてくださったんですね」
「忘れないさ。はじめて作った時から、たくさん練習したもの。昔はうまくできなくて千花子を泣かせてしまったよね」
千花子は十歳の時に入内した。春時は十四歳だった。二人の関係は、夫婦というより兄妹のような間柄から始まった。
旧宮殿の庭で花を摘み、千花子はよく花冠を作って欲しいと春時にねだった。しかし、花冠の作り方を十四歳の男の子が知っているわけもなく。
ところどころゆがんだ花冠を差し出されて、幼い千花子は泣いてしまったのだ。
それを思い出し、千花子は頬を真っ赤に染めてうつむく。
「あの時、本当は嬉しかったのに、わがままを言ってしまいました。ごめんなさい」
「実は、あのとき僕も悔しくてちょっと泣いたんだよね」
「えっ」
思わず、千花子は夫を見上げた。悪戯が成功した子どものように微笑む春時と目が合ってしまい、少し後悔した。
「やっとこっちを向いた」
繊細な顔立ちと神秘を宿した紫水晶の瞳に、魅入ってしまう。
千花子の頬を包む手のひらは骨ばっていて、唇から零れ落ちる声は低い。広い袖も長い袴もない軍の礼装は、青年らしい体格を意識せざるを得ない。
「すごく、きれいだ。ごめん、もう少し気の利いたことを言えたらいいのだけれど」
よく見ると、春時の頬も千花子に負けず劣らず真っ赤で、千花子は胸が熱くなる。
春時は常日頃から決して感情を露わにしない。他人とは一定の距離をとり、親密にならないようにしている。
──帝は万民を愛し慈しむ一方で、誰よりも孤独に耐えなければならない。
行政権の返還の儀で、春時を導いてきた叔父が二人に残した言葉だ。彼の忠誠心と真心は、どの臣下よりも勝る。
しかし、少年帝に近すぎた分、何者よりも遠ざからなくてはならない。
摂政がいなければ何も出来ない君主だと、思われないために。
叔父は摂政宮から王族公爵となり、近くアルビオン王国へと留学する。
『僕が傍に居て欲しいと願う人は、みんな遠くへ行ってしまうんだ』
返還の儀の夜、春時は千花子にだけ胸の内を明かした。
千花子の肩に額をあて、春時は震えていた。けれど、涙はこぼさなかった。
帝位に傅く者たちの頂に立つ重みを、千花子は噛みしめた。
春時に仕えるのではなく、隣に立ちその孤独を分かち合う妻でありたい。千花子がはっきりと自覚したのはその時だ。
「春時さまにそう言って頂けて、うれしいです。今日の皆様へのご挨拶も失敗しないよう頑張れます」
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ。無理はしないで欲しい」
と、春時が甘やかすようなことを言うがここは譲れない。
千花子は凜と背筋を伸ばして春時を見つめ返した。
「わたくしがそうしたいのです。至らない妻だと、夫が侮られるのは、絶対にいや」
薄い胸を張って主張すると、春時が黙り込む。しばらくして、意を決した様子で千花子の両手をとる。
「……ひとつだけ、確認したいことがある」
千花子は頷く。長い睫毛を伏せ、わずかにためらってから、春時は問いかけた。
「本当に、僕でいい?」
短い言葉が、静かに部屋に響く。千花子は確かに聞こえた言葉を理解するために胸の内で繰り返した。
僕でいい?
千花子の人生の伴侶は、ほんとうに春時で良いのか。それを、尋ねているのだ。
目を見開く千花子の手を握りながら、春時は続けた。彼の手は、わずかに震えていた。
「父上と宰相の約束で、僕らは小さな頃から互いを特別な存在として過ごしてきたね。君は物心つかないうちから、僕に嫁ぐことを決められた。……千花子が入内してきた時、僕はうれしかったよ。父を亡くして、不安に押し潰されそうだったから。小さな千花子が『家族』になってくれて、寂しくなくなったんだ。君と出逢えたことを、僕は本当に幸せだと思っている」
「春時さま……」
「千花子はどんどん綺麗になって、才を咲かせていく。誇らしく思うのと同時に、怖くなった。僕は君を奥宮殿に縛り付けて、沢山の出会いや可能性を奪ってしまったんじゃないかって。国のために、宰相の娘が帝の后になることが一番良い。その都合のいい建前に僕は甘えているんだ」
不安や後ろめたさがつまった声に、千花子は切なくなった。そして、ますます春時を愛おしく想った。
春時は、千花子の意志を無視して事を進めることはない。必ず、千花子はどうしたいのか、何を考えているのかを尋ねてくれる。
彼のこういう所に、自分は惹かれたのだ。
「どうか、それ以上は仰らないで。春時さま」
と言って、千花子は一歩距離を詰める。手袋に包まれた指先を伸ばし、春時の頬に触れる。
春時がわずかに身をかがめれば、額と額がふれあった。小さな頃、内緒話をした時のように。
「それ以上仰ったら、怒ります。わたくしは、早く大人になりたいと願ってきました。異国語やダンスを頑張って学んだのは、春時さまの隣に早く立ちたかったから。昔も今もこれからも、わたくしの夫は春時さまが良いです。春時さまは?」
春時でいいのではなく、春時が良い。
千花子は自分の気持ちが伝わるよう、じっと夫を見上げた。
春時の瞳から、迷いが消える。顔をほころばせて、千花子を優しく抱きしめる。
「うん。僕も妻は千花子がいい」
かろやかな抱擁のあと、二人は笑い合った。
「実はね、千花子とちゃんとした結婚式をしたいなと思って用意したものがあるんだ。聞いてくれる? ほら、六年前はお互いよく分からないままだったから」
「たしかに」
あの頃は、周囲の大人たちに言われるまま振る舞っていただけだ。
千花子は檜扇を、春時は牙笏を握りしめ、気を張り詰め通しだった。
二人が思いきりくつろげる場所は、陽が差し込む旧宮殿の庭だけだった。
千花子はふふっと笑みをこぼす。春時がそっと細い肩を抱いた。
「花嫁が身につけると、幸福になれる『四つのもの』を教えてもらったんだ。まず、何か一つ古いもの」
そうして触れたのは、真珠の首飾りだ。春時の母やその祖母が、嫁ぐ時に身につけたものだという。
「そして、何か一つ借りたもの」
と言いながら春時はヴェールをたぐりよせ、唇を落とす。このヴェールはアルビオン王国の女王が自身の結婚式で身につけたものだ。
王后の成年を祝い、両国の友好の証にと貸してくれたらしい。花嫁に幸福を呼ぶ『サムシングフォー』を春時に教えたのも、彼女だ。
「陛下にお礼のお手紙を書かないと」
「君の姿を見られないことを、残念がっておられたよ。あとで王太子殿下を紹介するね」
はにかむ千花子に春時は微笑んで、緑の宝石がはめこまれたブローチに触れた。
「そして、何か一つ新しいもの。シャラム帝国皇帝から贈られた、スルタナイト」
「スルタナイトは、昼と夜で色が変わると聞いたことがあります。夜は何色になるのですか?」
と、千花子が尋ねれば、春時は笑みを深くして答えた。
「陽光の下では緑、月明かりのなかでは紫に。僕らふたりの瞳の色だね」
今夜が楽しみだと囁かれ、千花子は頬をかっと赤らめる。
成年式のことで頭がいっぱいで、今夜が新枕だということをすっかり忘れていた。いや、意識しないようにしていたのだ。
とたんに緊張して身を固くする千花子に、春時は苦笑する。花冠がくずれないよう頭を撫でて、静かに言った。
「だいじょうぶ。まだ何もしないから」
「え……でも……」
千花子は安堵しかけるが、ためらいを隠せなかった。
千花子が月のものを迎えてから、乳母や女官たちは『お世継ぎを授かるように』と夜に関する知識をお妃教育に取り入れた。
こうして成年式を迎えるからには、春時だって侍従から何か言われているだろうに。まだしないと言う。
「母が僕を生んで亡くなっているから、あと三年ぐらいは待とうと思ってる」
春時の母は入内してすぐに懐妊したが、難産のすえに十七歳という若さで亡くなった。
春時は二十歳、千花子は十六歳。後継は必要だが、周囲に急かされるほどの年齢ではない。
「それに、たったいま夫婦になろうって確認しあったばかりだろう?」
その言葉と真摯なまなざしから、千花子を大事にしたいのだという気持ちが伝わってくる。
「はい。春時さま」
千花子が頷けば、春時はふんわり笑った。
「僕はね、君が奥さんになったら沢山甘やかそうと決めてるんだ。だからしばらく二人が良い」
「あまり、わたくしを甘やかさないでください。だめな人間になってしまいます」
頬を膨らませて抗議すると、春時は銀の懐中時計に視線を落とす。
「そろそろ正殿にいかないと」
その仕草がちょっとわざとらしいと思いつつ、千花子はドレスの裾をつまんだ。
「ありがとうございます。今日の装いに、自信が持てました」
花嫁が幸福になる『四つの何か(サムシングフォー)』、古いもの、借りたもの、新しいもの。
「……あら、四つ?」
「最後の一つは、正殿で渡すよ。楽しみにしていて」
千花子が慌てて身を起こすと、春時は既に唐戸の向こうへ消えていた。
※※※
王后の成年式には、国内だけでなく諸外国の大使たちも招かれている。招待状を受け取って、彼らは色めきだった。
ファランドール大使夫人エレオノール・リヴィエラ・ド・ナヴァールもその一人である。
南に面した正殿に足を踏み入れると、エレオノールは感嘆の溜息をついた。
「瞳が零れてしまいそうだよ。私の仔鹿」
と夫のナヴァール伯は微笑む。
「だって、あなた」
エレオノールの瞳が、あちらこちらと動く。
回廊にはくまなくガラスがはめ込まれ、光をたっぷり集めている。
初夏の日差しに照らされた天井の格子や、扉は漆がふんだんに塗られていた。
二人の立つ床は、いくつかの木を組み合わせ、それぞれ違う色合いを映し出し、模様を描いている。
「まるで千夜一夜物語のよう。乳母が読んでくれた、おとぎ話そのものよ」
と声を抑えながらもはしゃぐ妻に、ナヴァール伯は囁き返した。
「僕の奥さん。驚きをもって世界に触れる君は、永遠の冒険家だね」
「それは探究者の妻だからよ。愛しいあなた」
小鳥のようなキスを贈り合いながら、エレオノールは嬉しく思った。
やはり、自分たちには旅が似合う。
夫は床をしげしげと眺めて「これは黒檀と花梨かな」と推理をし始める。
その生き生きした眼差しがこんなにも愛しい。
病気で十年も大使からの任から遠ざかっていたとは、誰も思うまい。
子どもたちに反対されながらも極東の島国に来たおかげで、夫はかつての情熱を思い出したようだ。
「あなた、そろそろ陛下がメシマスルわ」
「おや、いつのまに御所ことばを習ったのだい」
「海軍卿夫人からよ。なかなかに面白いわ」
そんな会話を交わしながら、各国の大使達のもとへ向かう。
隣国のアルビオン王国やシュトルツ大公国の大使たちは、この国の滞在が長い。
それに比べ、この春に来たばかりの自分達は、まだまだ宮廷事情に疎い。
エレオノールは積極的に大使夫人たちとの噂話に混ざることにしていた。
「まあ、エレン。あなたたち夫妻は幸運よ。初の謁見が、王后陛下の成年式とあたるだなんて」
と皮肉気に声をかけるのは、アルビオン王国大使夫人のメアリーだ。
母同士が親戚で、幼い頃は姉妹同然で育ったものだから、エレオノールに遠慮がない。
「今上陛下はこれまでずっとお独りで謁見に出ていらしたの。あたくしたち、こんなに長くいるというのに、王后陛下のお姿をちらりとも見たことがないのよ」
メアリーの減らず口は、娘を嫁に出しても変わらないようだ。
エレオノールは肩をすくめる。
「もったいぶられると、意地でも見たくなるあなたには辛かったでしょうね。でも、あなただって自分の娘を十六歳になるまで人目にさらさなかったじゃないの。あの頃、あなたの手紙を読んでいるだけでヒステリーが移りそうだったわ。おお怖い」
「昔のことすぎて忘れたわ。それに、娘と王后陛下を同列に考えるなんて、おそれおおいことよ」
メアリーは扇を広げてツンと顎をそらす。
そして呆れているエレオノールに畳みかけた。
「言わせてもらいますけれど、我が偉大なる女王は十四歳から議会に出席していらしたわ」
「摂政付きでね」
「エレンッ」
「しっ。出御の笛よ」
奥宮殿と繋がる扉の両側で、習仕の少年が横笛を吹く。短い一節を奏でて、そのまま彼らは深くお辞儀をした。
「聖上陛下のお出ましです」
少年のよく通る声が正殿に満ち、ざわめきが静まる。
やがて扉が開き、侍従武官を従えた今上帝が姿を現した。
賓客たちは一斉に頭を垂れる。
ゆっくりと真紅の絨毯を進んでいく気配を、各国の大使だけでなく、国内の貴族までもが胸躍らせてうかがっている。
おしゃべりなメアリーは、ひっそりとエレオノールの腕を小突く。
「おひとりだわ」
足音も影もひとつだけだ。
許しを得て頭を上げれば、やはり玉座にいるのは青年王のみ。
彼の隣に、極東の王后を探したのはメアリーだけではなかったらしい。
賓客たちの視線を、今年二十歳になる青年王は澄んだ眼差しで受け止めた。
エレオノールは彼の瞳の美しさに、思わず溜息を漏らす。
極上の紫に金の虹彩が散る、この国の皇帝だけが持つ彩り。それは、星が降り注ぐ夜空を思わせた。
次に正殿に流れたのは、リュートの音色だった。
エレオノールだけでなく、西洋の者は一瞬皆そう思っただろう。そして、すぐにリュートではないと認識をあらためる。
先ほど習仕が居た場所に、二人の宮妓が控えていた。
彼女たちは、エンパイア・スタイルのドレスに長いショールを纏い、綴れ織りのカーペットの上に座っている。
その膝には、卵を縦に半分に割ったような形の楽器が置かれていた。
しかしリュートのように糸倉が直角に後ろに曲がった形ではない。
糸倉は真っすぐ伸び、弦は五本。紫檀に螺鈿細工が施され、草花が軽やかに咲き、駱駝の背でウードを弾く西胡人が描かれている。
宮妓たちは付け爪で弦を弾き、軽やかな音色を響かせる。その音律は甘く柔らかく天上に舞い上がっていく。
人がひしめく正殿に、たまゆらの風が吹き抜ける。
ふと、二人の宮妓の間を、ひとりの少女がゆったりとすり抜けた。
誰もが、楽の音に誘われて花の妖精が降り立ったのだと信じて疑わなかった。
ここは神秘に包まれた極東。言葉や舞楽でカミと交歓する国。
その稀なる術は、ファランドールやアルビオンで発達している魔法とは一線を画すものだ。
可憐な妖精は衆目をものともせず、純白の裾を揺らしながら真っ直ぐに玉座へ向かっていく。
一歩すすむたびに、長いヴェールがゆるやかに波打った。
結い上げた黒髪を飾るのは、オレンジブロッサムの花冠とそのヴェールのみ。
十八フィート(五メートル以上)はあろうか。かろやかで繊細な刺繍が咲いている。
長いながいトレーンを捧げ持つのは、これまた可愛らしい六人の子どもたちだ。
六歳から十歳ぐらいまでの天使たちの姿に、エレオノールは思わず頬を綻ばせる。
「ねえ、エレン。王后陛下のブローチを見た?」
と、メアリーがエレオノールの袖をひく。
王后が純白のドレスで現れたものだから、メアリーはすっかり娘気分に戻ってしまったらしい。
しかしそれはエレオノールも同じだ。
「見ましたとも。とても見事なスルタナイトね」
スルタナイトはシャラム帝国でしか採れない宝石だ。皇帝から王后へ贈られたものだろう。
確信をもって頷けば、メアリーがうっとりと溜息をつく。
「なんて美しいのかしら」
「母上すごいや。あれ一粒で最新の蒸気戦艦三百隻が買えるよ」
口笛を吹いて茶化しながら、メアリーのとなりに背の高い青年が並んだ。
「ピーター! あなた、また列を離れて!」
メアリーは必死に声をひそめて末息子を叱った。
「おば上、王后陛下のお顔はどんなだと思う?」
母の怒りなど、どこ吹く風のようだ。自由なピーターの問いかけに、エレオノールは苦笑した。
「きっとお美しいわ。まるで白藤の妖精のようだもの」
「どうかな。僕は絵でみたけど、ハミ瓜みたいな顔に鉤鼻がくっついていた」
とまじめな様子で返すので、エレオノールは笑ってしまう。
メアリーは自分の皮肉屋ぶりを棚に上げピーターの腕をつねった。
「それ以上お喋りしたら本国に帰しますよ。ええ、あなたの兄上にしっかりとお手紙を書いてね」
途端にピーターは黙り込む。彼が見たのはおそらく『物語絵巻』だろう。
この国の女性は、黒髪を身の丈より長くのばし、幾重も衣をかさねて奥向きから出ないことが殆どだという。夫以外には顔も見せないことが当たり前なのだ。
けれど、これからはそうはいかない。優れた外交をするためには、妻の存在が不可欠である。
王后はその魁となって、西洋列強と渡り合っていかなくてはならない。
さざ波が広がり、ついに大きな騒めきに変わる頃、王后は玉座の一歩手前で歩みを止めた。
ヴェールの内側から、手袋に包まれたたおやかな御手が伸ばされる。
この国独自の最高礼は、あたかも花神が舞い踊るようだ。
今上帝は満足げに王后の手をとり、唇を寄せる。優雅で洗練された身のこなしとは裏腹に、青年の目元はうっすら赤く染まっていた。
愛おしげに王后を見つめる眼差しから、彼がどれだけ今日という日を待ち望んだかが伝わってくる。
彼はそのまま促すように賓客へ目線を向けた。
ふうわりとヴェールが翻り、とうとう賓客と王后の視線が交わった。あらわれた花の顔に、エレオノールは魅入った。
十六歳の王后は初々しい煌きに満ちていた。
顔立ちはまだあどけなさがあるものの、浮かべる表情には知性と落ち着きがそなわっている。
異国の大人たちを、ゆっくりと見つめかえす余裕もあるようだ。
王后は裾をつまみ、淑女の礼をとった。それはとても優美な仕草で、彼女が異国のマナーを身につけるために、並々ならぬ努力を重ねていたことがうかがえた。
ゆったりと顔を上げた王后は賓客に微笑みかけ、その可憐な唇を開いた。
『ごきげんよう、みなさん。今日はどうぞ楽しんでください』
少女が口にしたのは、欧州宮廷の公用語であるファランドール語であった。
翠の瞳を輝かせながら、王后は賓客達を言祝ぐ。少したどたどしい発音ながらも、彼女の挨拶は胸に響くものがあった。
彼女の傍らに立った夫が、その細い肩を抱いた。青年の瞳が、悪戯をしかける子どものようにきらめいた。
『今日は私たちにとって新たなる船出となる。この場にいる者たちに、宣誓の証人となってもらいたい』
と、若き帝が流暢なファランドール語で話し出す。それまで穏やかに見守っていた大臣が目を見ひらいて固まった。
どうやら、彼らの主君は予定にない催しをするつもりのようだ。
帝は王后の左手を取り、その薬指に青くきらめく指輪をはめた。
繊細な台座の上にあるのは、切子細工が施された色硝子だ。ブルーダイヤモンドにも勝る艶と輝きである。
『今日この日より、私はこの王后を妻とし、生涯かけて守り幸せにすると誓う』
と言い、王后の耳元で何ごとかを囁く。すると、王后の頬が林檎のように真っ赤になった。
帝は妻の頬をやわらかく撫で、その額にキスを落とした。そして、彼女の手のひらに同じ切子細工の指輪を渡す。
王后は震える手で、夫の左手をとり、薬指にゆっくりと指輪をはめた。
若い夫婦の手に、二つの青いきらめきが灯る。
王后は、瞳をうるませながらもはっきりと微笑んだ。
『わたくしも、この方を夫と慕い、生涯かけてお支えすることを誓います』
次の瞬間、割れんばかりの拍手と歓声が、若い帝と后を包み込む。エレオノールもまた、涙を流しながら手を叩いた。
やがて王后の家庭教師となったエレオノールはこの日の感激を回顧録に残している。
はじまりは、政略で結ばれた帝と后であった。ままごとのような夫婦と揶揄されつつ、彼らは過ごした歳月のなかでお互いを知り、本気で愛し合うようになったのだ。
想い想われ、大切にし合う夫婦のもと、この国はあかるい未来を築いていくだろう。
何か一つ古いもの。何か一つ借りたもの。何か一つ新しいもの。そして、何か一つ青いもの。四つの幸福を、胸に抱いて。
※とある賞に公募用PNで応募した作品になります。(選考終了済)




