第30話 宿
『カッコウのとまり木』はイダンセの街における中級の宿だ。庶民にとっては値段が少し高めなちょっといい宿。貴族にとっては他のホテルが埋まっていれば仕方なく使う格下の宿。そんな立ち位置として利用者には認識されている。
貴族にとって格下とはいえ内装は清潔に整えられており、マナーがなっていない客もいない、安心して泊まれる宿だ。
アイシスを落ち着けた後、リディたちは『カッコウのとまり木』に足を踏み入れる。
中は木目調のキレイな内装だった。一階には食堂が併設され、昼過ぎの今も数名が食事をしている姿が見える。
食堂のカウンターの奥に酒瓶が並んでいるところを見ると、夜には酒場になることが窺える。
宿の受付の方には女性が受付嬢として座っていて、入ってきたリディたちの動きを待っているようだった。食事をしに来たのか、宿に泊まりに来たのか様子を伺っているようだ。
「すみません」
「いらっしゃいませ、お泊りですか?」
リディの方から声をかけたので、すぐにリディは宿への客だと判断された
「あぁ、とりあえず10日ほど泊まりたいのだが、部屋は空いているだろうか?」
「確認しますのでちょっと待って下さいね。3名1室でよろしいですか?」
「いや泊まるのは私とこの子だけだ。2名1室でいい」
アイシスを連れていて、3人連れだと思われたので、2人だけだと修正する。
「2名1室で本日から10日ですと、12万ジルですね」
「先払いで構わないだろうか?」
「えぇ、むしろそちらの方がありがたいですね」
客商売にはつきものだが、世の中には一定数迷惑な者が存在する。宿で言えば、宿泊した後で難癖をつけて宿代を踏み倒そうとする者や、宿代を払わずに宿泊後に姿を消してしまう者などだ。
長期滞在となるとそのリスクも大きくなるため、基本は先払いというのはこの宿の方針でもあった。
リディはリトナで受け取った報酬の袋をカウンターに置き、中身のコインを必要な分取り出し始める。
「リディ、あれは?」
「アレ?」
金を出していたところで、ニケがつんつんとリディをつついて、話しかけてきた。
「あの、おじさんから貰ったやつ」
「あぁ、そういえば」
ニケに言われてリディはアグリカから紹介状を受け取っていたことを思い出した。
袋に入れていて少し皺のついた手紙を受付嬢に手渡す。
「リトナの町で知り合った人に書いてもらったのだが……」
受付嬢は渡された封筒を開き中の手紙を確認する。
「あぁ、アグリカさんですね。『作物を安く卸してやるから、いい部屋に安く泊めさせてやってくれ』ですって。随分と気に入られたんですね、アグリカさんに」
「知り合いがやっている宿と言っていたが、知り合いというのはあなたのことか」
「私も知り合いですけど、アグリカさんが言っているのは、たぶん父さんのことですね」
受付嬢の話によると、ここの店主であるゲハウトとアグリカは旧知の仲らしく、アグリカはこの宿に作った野菜などを卸しによく来ているとのことだった。
この受付嬢はゲハウトの娘のテルモ、そしてゲハウトの妻であるステルがいて、手伝いで人も雇っているが基本的にはこの3人で宿と食堂を切り盛りしている。
「じゃあおまけして宿代は10万ジルでいいですよ?」
「いいのか?勝手に決めてしまって」
「いいですいいです。どうせ父さんは金勘定のことを把握していないので」
経理的な部分は娘や妻に任せているのか、店主であるゲハウトの確認は不要と判断された。リディとしては負けてくれればどちらでも構わないのだが、店主の立場は大丈夫なのか少し気になった。
「部屋は2階の一番奥『206』の札がかかってますので、そちらをご利用ください。あんまり頑丈じゃないですけど、鍵もついてます。出かける時には私や両親など店の誰かに鍵を預けるようにしてください」
説明を続けながらテルモはリディに鍵を手渡す。
そこそこ値段の張る宿ということで、リディたちの専用部屋のようだった。
安宿だと相部屋の雑魚寝ということもあり、あまり落ち着かないのこれはありがたかった。
「あの、部屋で彼女と話をしたいのだが構わないだろうか?」
リディは側で経っていたアイシスに目を向けて、テルモに確認する。
「えぇ、そのまま泊まるわけでなければ別に構わないですよ」
「わかった。ありがとう」
手続きを終えて、リディはアイシスとニケを連れて2階の部屋へと向かった。
アグリカの手紙に書いてあったとおりに『いい部屋』を用意してくれたのか、『206』の札が書かれた部屋は思ったよりも広かった。
アサイクの宿の部屋の1.5倍ぐらいの広さがある。この規模の街でこの広さ、それであの値段ならかなり割安に思われた。
リディは荷物を適当な場所に置いて、ニケとアイシスに適当な場所に座るように促した。
宿の受付の時間を経てアイシスも冷静になったのか、まだリディたちを訝しげに見ているが今は落ち着いている。
リディも一息ついてから椅子に腰掛け、アイシスと話を始めた。
「それで、あなたたち一体何者なの?」
話を切り出したのはアイシスだった。
「それはこちらのセリフでもあるのだが……」
「茶化さないで!ダーロンとルナークに何をしにいくのよ」
アイシスは本題を早く話せと、その可愛い顔でリディに凄む。
貴族然としたその態度は、将来期待できそうな風格の片鱗が感じられた。
「それに答えることはできない」
「なんでよ」
「我々はとある人物に、とある事件の捜査協力の依頼を受けている。捜査に関する情報は機密にあたる。ゆえに、アイシスにおいそれと教えるわけにはいかない」
リディは固有名詞を避けながら、アイシスに話せない理由と自分が『事件を調べている側』の人間であることを伝える。
「それに情報を教えないのは、あなたの安全を守るためでもある。したがって先程ニケが漏らしてしまった二つの村の名前も聞かなかったことにしてもらえると助かる」
ニケが漏らした村の名前についても、聞かなかったことにしてもらう。
これが現時点でとれる最善の方法だった。ニケは何も漏らさなかったし、アイシスも何も聞かなかった。アイシスが事件に関わるとアイシスに危険が及ぶ可能性もある。これはアイシスを守るためでもあるのだ。
「……そちらの都合はなんとなくわかったわ。でもね、『はい、そうですか』と言うわけにはいかないのよ」
「なぜ?」
「あなた、もうわかってるわよね?私がダーロンとルナークに反応した時点であなたの言う『とある事件』に私が関わっていることは明白じゃない。慎重なのはわかるけど、試すようなのは気に入らないわ」
リディとの探り合いにアイシスが一歩踏み込む。私はもうあなたの言う『とある事件』について知っているのだ、と。
「事件に関わるのは危険が伴う、アイシスに危険が及ぶ可能性がある」
「構わないわ」
自らの危険は顧みないとアイシスは態度で、そして目で訴えた。
(構わない、……ね)
「そこまで言うなら……と言いたいが。私達はアイシスがどういう人なのか、なぜ事件について知っているのかを知らない。要はあなたが捜査情報を話しても良い人物だと判断する材料がないわけだ」
「つまり?」
「やっぱり話すことはできない」
リディの言葉にアイシスは苛立ちを隠さず表情を歪める。
「なら、私の身分がわかればいいのよね?」
「……まぁ、そうなる、かな?」
「私の名前はアイシス・アキュレティ。ここイダンセを含む領地を治める、アキュレティ辺境伯の嫡女よ」
(なるほど貴族は貴族でもここの領主、アキュレティ家のご令嬢か)
貴族のご令嬢というのはリディが思っていたとおりだが、領主の娘とは思っていなかった。だが、領主の娘であれば事件について知っているというのも納得がいく。
邸宅で父君が話しているのを聞いたか、あるいは直接話に加わっている可能性もある。
「ふむ、アイシスがアキュレティ伯の娘であることはわかった」
「そう、よかったわ。じゃあ、あなたのこと話してちょうだ――」
「じゃあ、それを証明してくれ」
「……えっ?」
リディの言葉にアイシスが固まるが、リディは至極当然なことを言っている。
領主の娘ということも、『アイシス・アキュレティ』という名前もアイシス本人の口から出た言葉であり、それが事実であるという証明が何一つなかった。
今のアイシスはただの『領主の娘アイシス・アキュレティと名乗る人物』である。
「アイシスが領主の娘で、すでに事件捜査に関わっているならたしかに話してもいいだろう。だが、それにはあなたがアイシス・アキュレティ本人であると証明してもらう必要がある」
「つまり?」
「やっぱり話すことはできない」
リディはニッコリと笑い、アイシスの口があんぐりと大きく開いた。




