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第二章 日記とイーリスと未来予報士 2 未来予報士



       * 2 *



 五時間目と六時間目の授業は少しも頭の中に入ってこなかった。

 いつの間にか授業が終わっていて、下校の時間になってて、沙倉とマリエちゃんが心配してくれてた気がするのに、なんて返事したのかも憶えてなかった。

 そんな呆然としてるあたしのことを心配してくれる人は、たぶん何人かいた。


 でも曽我さんのことや、昨日まであったあたしの隣の空席のことを気にしてる様子のある人は、ひとりもいなかったと思う。

 世界が歪んでるように思えたけど、本当はあたしがおかしくなっただけなんじゃないかと思っていたりもした。

 学校を出てどこをどう歩いたんだろう。

 いつの間にか学校に一番近い駅の商店街まで来ていた。

 そろそろ夕食の材料の買い出しの時間なんだろう。商店街にはたくさんの人が行き交っている。

 買い物かごをくちばしに咥えたまま器用に井戸端会議を繰り広げる主婦ダチョウの群れを避けて、道を縦横無尽に走り回ってる長靴を履いた子猫たちにぶつからないように気をつけながら、あたしは目的もなく商店街を歩いていく。


 家から遠ざかっているのはわかっていた。

 行きたいお店があるわけでもなかった。

 ただ、立ち止まっているのはイヤだった。


 立ち止まってしまうと、曽我さんのことを、あのとき彼女が見せた目を思い出してしまいそうで、怖くて仕方がなかった。


「ここって?」


 ふと立ち止まってしまった商店街の外れの行き止まり。

 T字路になってるそこにあったのは、一軒の喫茶店。

 何も考えずに歩いてきたと思ったのに、あたしは何でかここに来なくちゃいけないような気がしていた。

 聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、あたしは誘導されてきたような気がした。

 木をふんだんに使った古風な造りの店構えをして、少しかすれた文字で「喫茶ジャンクション」と看板が掲げられたそのお店は、確か昨日沙倉とマリエちゃんが話していた占い師っぽい人がいるというところだったはずだ。


 昨日の話を聞いてる限りおもしろそうだと思ったし、今日はふたりの報告を聞いてる余裕はなかったけど、来てみたいと思っていたお店だった。

 チェーン店のような気軽さじゃなくて、落ち着いた雰囲気があって、ひとりで入るのはちょっとためらっちゃうような喫茶店。

 でも近づいてガラス張りのところから中を覗くと、優しそうな女の人が微笑んであたしに手招きしてることに気がついて、思い切って扉に手をかけた。


「いらっしゃいませ」


 よく通る澄んだ声は元気も良かったけど、それよりも優しさを感じる声で、頭も身体も疲れていたあたしは、微笑む女性に手で勧められるままにテーブル席のひとつに着いた。

 照明は暗めで、しっかり使い込まれたテーブルや椅子は、古びているようにも見えるのに、汚れているわけじゃなく時間を経た重厚な質感の壁や床と一緒に、ここにあるべき物として馴染んで見えた。

 お店の中を見回してみると、あたしの他にお客さんはいないようだった。


 微かにクラシックらしい音楽が流れている店内は、外から見たときよりも広くて、一番奥はわずかにテーブルと椅子があるのがわかるくらいに暗くなってる。

 カウンターの方を見ると、奥手の棚に並んだ食器たちは使い込まれてるみたいなのに、みんなぴかぴかに輝いているようだった。

 それから、カウンターの内側に男の人がいることに気がつく。

 白が混じる口ひげの男の人は、手元で忙しく作業をしてるというのに、まるでインテリアかお店の一部みたいに存在感が薄かった。

 二脚ずつの椅子がある四人用のテーブル席に座るあたしは、肩から提げていた通学用の鞄を隣の席に下ろして、ほっと息を吐く。

 あたしがいるのは場違いなような気がするのに、何故かこのお店は落ち着くことができた。


 外から切り離されたような静寂の空間。

 時間が止まってるような穏やかな世界。

 不思議なことが一度にありすぎて、昨日から混乱しっ放しだったあたしは、いまやっと本当に落ち着くことができたような気がしていた。


「どうぞ」


 制服なんだろう、ふくよかな胸までを覆う白いエプロンと、黒に近い深い緑色のワンピースを身につけた二〇歳かそれくらいの女性は、背の半ばまでの長さがある、お店の照明の光を吸い込んでるような黒髪を揺らしながら、水の入ったコップを持ってきてくれた。

 少し丸顔の彼女が優しい笑みとともにメニューを差し出してくれる。

 微かにレモンの香りがついた水に口をつけて、もう一度息を吐く。

 開いてみたメニューは流れるような筆記体の英語で書かれていて、それぞれの商品には小さめのカタカナで読みが書かれてあった。

 値段は普通の喫茶店並み。

 高いわけじゃないけど、チェーン店のメニューみたいに安いわけじゃないから、アルバイトもしていないあたしの懐には決して安い値段じゃなかった。


「可愛い制服ですね」


 注文を待っているのかテーブルの隣に立ってる女性が、あたしの制服を見て柔らかく笑む。

 学校の近くに住んでるデザイナーの人がデザインしたといううちの高校の制服は、チェックのスカートと凝ったデザインのジャケットが特徴的で、ほとんどそのままのデザインでアニメとかに使われることもあるくらい有名だった。

 あたしは家の近くだからということで受験したのもあるけど、制服目当てに遠くから受験する人もいると聞いたことがあるくらいで、あたしも気に入っていた。


「昨日もいらっしゃってましたね、貴女と同じ制服の方が」

「あ、たぶん友達だと思います。昨日行くって言ってましたから」

「そうだったんですね」


 結局ふたりは占い師みたいな人には会えたんだろうか。

 見てみた限り、マスターとこの女の人の他に人はいなくて、占い師っぽい人は見あたらない。

 いつもいるわけじゃないんだとしたら、今日はいない日なのかも知れなかった。


 ――そもそも、その人に会ってどうにかなることじゃないかも。


 別に今日は占い師っぽい人に会いに来たわけじゃない。たまたまこのお店の前を通りがかって、興味があったから入ってみたってだけ。

 話をしたくてお店に立ち寄ったわけじゃない、はずだった。

 そうは思うけど、せっかくだと思って、あたしは女性に訊いてみることにした。


「あの、ここにはその、占い師みたいな人がいるって聞いたので来てみたんですけど……」

「そうなんですね。それでしたらまずはご注文をどうぞ。疲れたときにはココアがお勧めですよ。マスターお手製のココアは、疲れた身体と頭に染みてきます」


 柔らかい笑みはそのままに、女性はメニューをめくって一番最初のページを見せてくれる。


「今日は特別価格でご提供中です」


 趣のあるメニューと違って、そこだけ丸っこい手書きの文字で書かれた紙が挟んであるページには、ココアが三分の二の価格だとなっていた。


「それからクランベリーの焼きケーキはいかがですか? 少し酸味を強めにしてありますので、ココアにはぴったりです」


 女性が手で示してくれたお店の入り口に近い場所の木製の台の上には、いくつものホールケーキ用のお皿がガラスのカバーを掛けられて置かれていた。切り分けて出しているらしいケーキはどれもあとひと切れかふた切れしかなかったけど、ひとつだけ半分ほど残ってるケーキがあった。


「実は今日はお客さんの入りがこんななので、ケーキはサービス、無料でおつけします」


 確かにいまはお客さんはあたしの他にいないけど、夕方くらいになったらそんなこともないんじゃないかなと思う。

 でも無料でケーキがつくと聞いたら、頼まない理由は見つからない。


「それじゃあココアとクランベリーの焼きケーキをお願いします」

「はいっ」


 にっこりと笑んだ女性は、手書きの伝票に鉛筆で注文を書きつける。

 もう一度あたしの方を見た彼女は、言った。


「それから、貴女の探してるのは、たぶんわたしです。わたしは未来予報士。お店のウェイトレスもしていますが、貴女がここに会いに来たのは、未来予報士のみのり、わたしのことだと思います」


 ただのウェイトレスにしか見えなそのい女性、みのりさんは、そう言ってちょっといたずらな笑みを浮かべた。





「おいしい……」


 甘みが強めのココアはただ甘いだけじゃなくって、喉を通るときの微かな苦みと合わさって嫌な味を残すことはなかった。

 言ってたとおり酸味のあるクランベリーの焼きケーキは、単品だと添えられた生クリームと一緒に食べてちょうどくらいの感じ。でも生クリームをつけずに食べて、口の中に酸っぱさを残した状態でココアを飲むと、それぞれ別に食べるのとは違うすっきりとした味わいを楽しむことができた。

 マグカップと呼ぶにもあまりに大きいカップと、夕食に響きそうなサイズのクランベリーの焼きケーキは、安心するだけでは回復しなかったあたしの元気を、充分に取り戻してくれた。


「それで、わたしにご用ということでしたね」


 わずかにでも残すのが惜しくて、ケーキの小さな欠片まで食べ終えた頃、未来予報士だと言ったみのりさんが、マスターにひとつ目配せをしてからあたしの正面の席に座った。


「えぇっと、占いをしている、んですか?」

「いいえ。占いはどうもダメで……。タロットカードとかホロスコープとか、細かいことを憶えるのは苦手なんですよー」


 マリエちゃんが「占い師っぽい人」って言ってた意味がわかった気がした。

 でもじゃあ「未来予報士」っていったい何なんだろう? と疑問が湧く。

 目の前でにこにこと笑ってる女性の正体に、あたしは頭の中にぎっしりと疑問符が浮かんできていた。


「それではまず、ここに貴女のお名前を書いていただけますか? えぇっと、たぶんいまは、アルファベットで書いていただいた方がいいのかな? うん、たぶんそうだと思います」


 誰に話しかけているのか、ひとりで何かを納得しながら、みのりさんが裏にした伝票と鉛筆を差し出してくる。

 スタイラスペンだったらよく使うけど、ボールペンでも最近はそんなによくは使わない。鉛筆を持つのは小学生以来だっけ、と思いながら、言われた通り「アイリス立花」をアルファベットで伝票の裏に書いた。


「イーリスさん、でよいですか?」

「え? あたしの名前は、アイリス、で……」


 アルファベットにするとあたしの名前は「Iris Tachibana」。

 確かにイーリスとも読めるけど、お母さんがつけてくれた名前はアイリスで、アイと略して呼ばれることはあっても、イーリスと呼ぶ人はいままでいなかった。


 ――そのはず、だよね?


 みのりさんにイーリスと呼ばれてから、何かヘンな感じがした。

 ただ読み方が違っただけのことのはずなのに、胸を締めつけられたみたいな痛みを感じた。

 なんで痛みを感じてるのかもよくわからないのに、痛みだけはすごく激しくて、胸の中に仕舞い込まれて取り出すことができない箱が微かに開いたような気がして、さらにそこからこみ上げてくる気持ちを抑えきれなくなっていた。

 目を細めて柔らかく笑むみのりさんの姿が揺らめいたと思ったら、あっという間にテーブルの上に組んだ手の上に滴が零れ落ちてきた。

 抑えられない気持ちが涙となって、次々とこぼれ落ちていく。


 胸が痛くて、締めつけられるようで、緩んだ涙腺を締め直すことができない。

 悲しいのか、つらいのか、苦しいのかすらわからない涙は、でも次々とあふれ出してきて、テーブルに突っ伏したあたしはしばらくそれを止めることができなかった。


「とても大切なものをなくしてしまったのですね」


 刺繍のついた薄ピンク色のハンカチで涙を拭ってくれたみのりさんは、微笑んでいたりはしないのに、その瞳に浮かんだ優しい色が、あたしのことを包み込んでくれた。


「あたしまだ、何にも言ってないのに……」


 やっと涙が収まってきたのに、まだ少し喉が詰まって、ちゃんとしゃべることができない。


「そんな感じがしたんです。アイリスさんはもう何日も、その大切なものをなくしてしまってからずっと、探し続けてるような、そんな感じが」


 黒い髪よりもさらに深い黒さを持った瞳の中に、小さくあたしの姿が映っていた。

 みのりさんの深いところに、どこまでもどこまでも吸い込まれてしまっているような、そんな錯覚を覚える。


「でも、その探しものを見つけることは、この世界ではできません」


 少し悲しそうにわずかに目を伏せるみのりさん。


「どうしてですか?」

「アイリスさんが探しているひとつ目のものも、ふたつ目のものも、もうこの世界には存在していないからです」


 意味がわからなかった。

 あたしが見つけたいと思ってるもののひとつは、もうなくなってしまった右隣の空席の主。右側にいてくれたはずの誰か。

 それからもうひとつは、曽我フィオナ。

 少なくとも曽我さんは、今日のお昼まで確かにいたんだから、世界には存在していないという言葉の意味を、理解することができなかった。


「ここはとても強い、ひとつの願いによって生まれた世界です。本来世界には相容れることのない、たったひとつの願いだけを実現したがために、歪んでしまっています。歪みのある世界は、歪みがいつか何らかの形で定着して安定するか、歪みが広がって崩壊に至るかのどちらかの道を辿ります。アイリスさんの探しているものは、歪みの向こう側にある、この世界の根幹である願いの向こう側にあるものです。ですからいまこの世界で見つけ出すことは、不可能です」


 やっぱりみのりさんの言ってることがよくわからない。

 世界の歪みとか、願いで生まれたとか言われても、わかるわけがない。

 でも、あたしをじっと見つめてくる彼女の瞳には、少しも揺らぎはなかった。

 嘘を吐いてるとか、冗談を言ってるとかじゃなくて、みのりさんにとって見えてる世界は、そういうものなのかも知れない、と思えた。


「じゃああたしは、どうすればいいんですか?」

「逆にお訊きしますが、なぜ探しているんですか?」


 問われて「別に探してない」と答えようとして、その言葉が口から出てこなかった。

 真っ直ぐな視線であたしのことを見つめているみのりさんの瞳に、飲み込まれてしまう。

 探したい、という気持ちがないわけじゃなかった。

 でも、とくに探しているというほど、何かをしてるつもりもなかった。

 違和感があって、不思議な感じがして、消えてしまった曽我さんのことは気になってるけど、具体的に何かをしたいわけじゃない、と思っていた。

 改めて問われて、あたしは自分がその違和感を、不思議な感覚の正体を、知りたいと思ってることに気がついた。


 ――うぅん。それどころじゃないんだ。


 見つけたいと思ってる。

 知りたいと、願ってる。


 あのときあたしはあたしの中から聞こえた気がした声に、「探すよ」と応えた。

 それは「探して」と言われたからそう応えたんじゃない。あたしが、あたし自身が探したいと思ってるからそう応えたんだって、いまになって気がついた。

 胸の中にあるような気がしてる固く口を閉ざした箱。それに触れてはいけないような気がしてるのに、もう放っておくことはできないんだと気がついた。


「どうしても見つけたいんです。どうしても探したいんです。それが何なのかも、わからないんですけど……」


 泣きそうだった。

 さっきみのりさんにイーリスと呼ばれたときも不思議だったけど、あたしには泣く理由も、泣くための想いもない。自分でわかってない。

 それなのに右側にある空白が、そこにいつもあったはずの何かが、あたしの胸を締めつける。

 あたしの中のあたしが、探してくれと訴えてくるように、まだまだ固く閉じているままの胸の中の箱を、強く意識させる。

 我慢することができなかった。

 ついさっき泣きやんだばかりなのに、あたしの目に熱いものがこみ上げてくるのを感じていた。

 そんなあたしを見て柔らかく笑むみのりさんは言う。


「だったら、探してみてください。この世界にいる限り、探しているものそのものを見つけることはできません。でも、痕跡はあります。それを見つけることができれば、アイリスさんは歪みの向こう側にあるものを、この世界の外にあるものを、知ることができます。それが世界にどんな影響を及ぼすことになるのか、この世界を生み出すことに至った存在にどんな影響を与えるのかはわかりません。それでも、探すしかないのであれば、探してください」


 真っ直ぐな視線を向けてきてくれているみのりさんに、あたしは問う。


「どうやって探したらいいんですか? その痕跡って、いったいどんなものなんですか? どうやって何を探したらいいかなんて、あたし、わかんないですよ――」


 あふれてきた涙は、もう止めることができなかった。

 胸の中にある箱が、暴れてちくちくと心を責め立てる。

 痛くて、苦しくて、でも、やっぱりあたしは諦めることができそうにない。

 気づいてしまった自分のやるべきことを、放っておくことはもうできない。


「信じて、ください。必ず見つけると、必ず見つかると、信じてください。それから想ってください。願いによって生まれ、歪みをはらんだこの世界は、強い想いがすべてに勝ります。わかることをわかる限り想って、そしてたとえ同じ場所でも、何度も探してみてください」

「そんなことで――」

「大丈夫です」


 あたしが言いかけた言葉を遮って、みのりさんはあたしの右手をつかんで両手で包み込む。

 少しひんやりしていて、気持ちよかった。

 胸の中にある痛みが、ほんの少しだけ和らいだような気がした。


「信じてください、自分自身を。だってアイリスさんはいま、こんなにも強く想ってるじゃないですか」

「はい……」


 そう言って優しく笑むみのりさんの前で、あたしはしばらく泣き続けていた。




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