第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 4 曽我フィオナ
* 4 *
照明ひとつ灯っていない教室内には、月明かりだけが差し込んできていた。
壁に掛けられた時計の針は二時を過ぎ、校舎の中は物音ひとつなく静まり返っている。
整然と並ぶ机の数は、三一。
廊下から二列目だけがひとつ後ろに飛び出す形で七席、他の列は六席になっていた。
月影に照らされている教室には人の姿はなく、翌朝生徒がやってくるまではそのままの状態にあるはずだった。
どこからともなく、廊下から二列目、後ろから三番目の席に触れる手が現れた。
そこは昼間、空席となっていた場所。
机を撫でるように触れた手の先にあったのは、学校指定のブレザーを身につけた男子生徒。
背は高校生としては高くも低くもなく、ブレザー越しの体型は痩せても太ってもいなかった。
表情に感情の色はなく、机をひと撫でした彼は、小さくつぶやく。
「こんな風に歪みが現れるとはね」
そう彼が言った途端、その机は椅子ごと消えてなくなった。
前触れもなく、痕跡も残さず、空席は一瞬にして何もない空間となった。
小さく息を吐いた後、彼は廊下に向かって踵を返す。
教室の扉を開けた彼が振り向いたとき、何もない空間となっていたはずの場所に、机と椅子が現れていた。
教室内の席は三〇。
ひとつだけ飛び出していた席が、誰かが動かしたわけでもなく、前に移動していた。
「でも何故、ここはこんなに歪んでいるんだろう?」
ため息のような言葉を漏らし、男子生徒は教室の扉を閉めた。
*
「あれ?」
いつも通り教室に入って自分の席に向かおうとした瞬間、ものすごい違和感に見舞われた。
教室内を見回してみると、席の数は三〇。
その数に間違いはないはず。
このクラスを含めて二年生はひとクラス三〇人で、人数の違うクラスはなかったはず、だった。
なのに席の並びがいつもと違う気がして、あたしは自分の席に向かう足が止まってしまっていた。
「おっはよー、アイ。どうしたの? そんなとこに突っ立って」
あたしの後ろから教室に入ってきた沙倉が、いつもの元気な声で挨拶してくるけど、あたしはそれに応えることができない。
「貧血? 顔色悪いように見えるけど。大丈夫?」
「何でもない、と、思うんだけど……」
呆然としてるあたしの脇をすり抜けて、不思議そうに首を傾げた沙倉が自分の席に向かっていく。
あたしもいつまでも扉の前に立ってたら邪魔だと思って、少しよろけそうになりながら自分の席に向かった。
鞄を机のフックに吊り下げて、右隣を見てみる。
後ろの席の男子と他愛のない話をしているクラスメイトの男子は、まだ二年になって席替えをしてないから、四月からずっとそこにいたはずなのに、そうじゃないような気がしてならなかった。
――何があったんだろう?
昨日も何か変な感じがしていた気がするのに、それが何だったのか思い出すことができない。
すごく不思議に感じてて、堪えられないくらい違和感があったはずなのに、寝て起きたらそれが何だったのか思い出すことができなくなっていた。
「おはよう、アイリス。どうしたの? 朝からヘンな顔になってるよ」
そう言ってやってきたのは、マリエちゃん。
あたしの顔を覗き込んで不思議そうな顔をしている彼女だけど、たぶんあたしはそれ以上に不思議そうな顔をしてるんだと思う。
何しろ何があったのかぜんぜんわからないのに、違和感ばっかりがものすごくあって、その原因自体ちっともわからないんだから。
騒がしかった男子が何か用事でもできたのか席を立つと、その向こうに座ってる曽我さんと目が合った。
やっぱりあたしのことを睨んでる彼女。
うぅん。昨日よりもさらに目が赤くて、まぶたの腫れも昨日以上になっていた。
まるでひと晩中泣いてたみたいに。
「あの、曽我さん?」
思い切って声をかけてみると、彼女は勢いよく立ち上がった。
何かをあたしに言おうとするように大きく息を吸い込んで、口を開いた彼女。
でもその口からは何も言葉が出てこなくて、口を閉じては開いて、開いては閉じて、一所懸命何かを言おうとしてるのはわかるのに、でも結局、彼女はあたしに何も言うことはなかった。
「どうしたの? ふたりとも」
まだそこにいたマリエちゃんが、あたしと曽我さんのことを交互に見て戸惑っていた。
「曽我さん……」
もう一度彼女に声をかけてみるけど、なんて言葉を続けたらいいのかわからない。
お互い言葉を失って、あたしと曽我さんは見つめ合う。
少しわかる気がした。
曽我さんがどんなことを言いたいのか、何となくあたしはわかってる気がする。でも、どんなことなのかと思っても、それが頭の中ではっきりすることがない。
近づこうと席を立ち上がると、いまにも泣きそうで、でも涙は出てなくて、あたしのことを睨んでいるようで、それとは何か違うような表情を浮かべた曽我さんは、あたしから目を逸らして教室から出て行ってしまった。
「どこ行くのー?」
マリエちゃんが扉のところまで追っていくけど、曽我さんが戻ってくることはなかった。
彼女があたしに言いたいことがあるのは、昨日からわかっていた。
でもそれが何なのか、わかる気がするけど、はっきり聞くことができなかった。
司馬遷が入ってきて、立っていた人たちが自分の席に戻って、騒がしかった教室が静かになる。
朝のホームルームが終わって、一時間目の授業が始まっても、曽我さんが教室に戻ってくることはなかった。
――戻ってこない。
昼休みになって、それでも戻ってこない曽我さんのことが気になっていた。
携帯端末も鞄も机に置きっ放しだから家には帰ってないと思うし、保健室にでも行ってるのかと思うけど、彼女が最後に見せた表情が頭の中から離れてくれなかった。
いつもは友達と食べるお母さんにつくってもらったお弁当を急いで食べて、教室を出る。
急いだと言っても食べるのはそんなに早くないから、もう昼休みは三分の一が過ぎてしまっていた。
とりあえずあたしは、はしゃいでる生徒の間を縫い廊下を通り抜けて、昇降口に向かった。
自分のクラスの下駄箱の中で、曽我さんのところを見てみる。
生徒手帳か携帯端末で認証しないと下駄箱の扉は開けることはできないけど、隙間から中を見ることはできる。覗いてみて中に入っていたのは、よく見えなかったけど上履きじゃなくて、外履きのように見えた。
――じゃあまだ学校にはいるんだ。
去り際泣きそうな顔をしてたから、上履きのまま外に出て行った可能性もある。でもそれだったらそれで、もういまさら追いかけることなんてできない。
曽我さんがまだ学校から出ていない可能性を考えて、あたしは彼女の姿を探して校内を歩き回ってみた。
保健室にも、図書室にも彼女はいなかった。
美化委員だったはずだから、美化委員が用具を仕舞うのに使ってる空き教室にも行ってみたけど、誰もいなかった。
クラスの人とか、彼女が一年のとき同じクラスだった子に聞いてみても、曽我さんを見た人はいなかった。
もう探すところが思いつかなくて、あたしは階段に腰掛けて歩き回って疲れた脚を休める。
「家に帰っちゃったのかなぁ」
携帯端末も鞄もそのままだから可能性は薄いと思ってたけど、見つからないことから考えると帰ったと考えた方がいいのかも知れない。
それだったら明日会ったときに訊いてみればいいか、とも思うけども、彼女の残した泣きそうな顔が脳裏に浮かんできて、残り少なくなった昼休みの間くらいは探してみようと立ち上がる。
ふと、風を感じた。
座っていた階段の上の方から、冷たい風が流れ込んできているような気がした。
「この上は屋上だよね?」
屋上は普段鍵がかけられていて、出られないようになってる。
屋上に出る階段室には不要な物が置いてあるくらいで、鍵がかかった扉の他は換気用の小さい窓が高いところにあるだけ。授業で使うとき以外には屋上に出たことはなかった。
換気用の窓を誰かが開けっ放しにしちゃってるんだろう、と思った。
この上に誰かがいるなんてことはないと思う。
諦めて教室に戻ろうと階段を下りようとする。
『上だよ』
誰かが、ささやいた気がした。
それは少し前にも聞いたことがある声。
探してほしいとあたしに訴えてきた声。
懐かしいような、いつも聞いていたような、耳に馴染むような気がするその声は、耳元とかではなくて、あたしの中からしたような気がした。
もう一度吹いてきた緩い風に外の空気の匂いを感じて、あたしは屋上に続く階段を上がっていく。
階段室には使っていないのとか古びて壊れた机や椅子が雑然と押し込められていて、灯りも点けられていないから、校舎の中で一番空に近い場所にあるのに、薄暗くて少しじめじめしていた。
階段を上がりきってすぐ右を見てみると、扉が開いてて微かに隙間があるのがわかった。
――誰か外に出たのかな?
先生でもいたらどうしようと思いつつ、あたしはそっと扉の向こうを窺う。
すぐ近くに人の気配はなくて、身体が通り抜けられるくらい扉を開いてあたしは外に滑り出た。
薄暗くて決して広いとはいえない階段室から屋上に出ると、青空が広がっていた。
校庭より狭いにしても、空に近い広々とした空間の屋上で、あたしは大きく息を吸って開放感を味わう。
見回してみても、人の姿はない。
転落とかしないように、屋上にはあたしの背丈の二倍くらいある金網のフェンスが張り巡らせてあって、返しもあるから登るのも難しいくらい。それでも他の学校で物を投げ落としたりする人が出たために、近くの学校では必要なとき以外、屋上は原則使用禁止になっていた。
そんなフェンスの向こう側にも、もちろん人が立っていたりすることはない。
誰かが開けたときに閉め忘れただけだろうかと思いながら、あたしは階段室の裏側にも回ってみることにした。
「なに?」
階段室の反対側は狭い空間があるだけで、見回す必要もなく誰もいないのはすぐわかった。
でも何か小さな物を蹴飛ばしたような感触があって、あたしは足下に目を向ける。
「鍵?」
蹴飛ばしちゃって少し遠くに転がっていたのは、電子認証じゃない鍵穴に差し込んで使う鍵だった。
たぶん屋上の鍵だと思うけど、何でこんなところに落ちてるんだろうと拾い上げて不思議に思ってると、微かに誰かの息づかいが聞こえてきていることに気がついた。
――上?
すぐ側にある、階段室の上に登るためのハシゴ。
半端な高さで途切れてるそれは、あたしじゃ台の上に乗るか飛びつかないと登れない。
そのハシゴを登ったところから、誰かの息づかいが聞こえてくるみたいだった。
狭い空間をフェンスぎりぎりまで下がってみると、人が立っているのが見えた。
――曽我さん?!
何でそんなところにいるんだろうと考えて思い出す。
美化委員は週に一回屋上の掃除もしてるから、曽我さんなら屋上の鍵を手に入れる方法があっても不思議じゃない。
でもなんで彼女がそんなところに登ってるのかは、ちっとも理由が思いつかない。
声をかけようと思って、ためらう。
赤いままの目で、何かを決めたような表情の曽我さん。
階段室の屋根の高さはフェンスよりも少し高いくらいで、次の瞬間曽我さんが何をするのか、予想をするまでもなくわかる。
――やっぱり、声をかけよう。
そう思い直して口を開いたとき、曽我さんは泣きそうな顔で強く目を閉じて、走り始めた。
「あ――」
かろうじて言葉が声になったとき、フェンス越しに曽我さんと目が合った。
彼女はあたしのことを責めるような、でもそれとは違う、自分を責めてるような、悲しそうな目をしていた。
それが見えていたのも一瞬の出来事。
すぐに曽我さんの姿は見えなくなった。
膝に力が入らなくなって、ぺたんとその場に座り込む。
頭の中が真っ白になっていた。
曽我さんが、階段室の上から校舎の下に飛び降りた。
そのことだけはわかってる。
わかってるのに、あたしは座り込んだまま動くことができなかった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴っても、あたしは立ち上がることができないままだった。