第一章 クジラと虎とフィルムカメラ 3 フィルムカメラ
* 3 *
鍵の機能をインストールしてある携帯端末で玄関のロックを解除して家に入る。
バラバラに脱ぎ捨てると後でお母さんに怒られるから、脱いだ靴はちゃんと揃えてからすぐそこの扉を開けてLDKに顔を突っ込んだ。
「ただいまー」
「お帰りなさい、アイリス。後でおソース買ってきてもらえる? 切らしてしまって」
まだ早い時間だけど、お母さんはキッチンで夕食の下ごしらえを始めてるらしい。
少しクセの強い栗色の髪を揺らしながらキッチンから出てきたお母さんが、海外映画の女優さんみたいな綺麗な顔に笑みを浮かべた。
どこの国の出身だったかあんまり詳しく聞いてないけど、お母さんは日本人じゃない。あたしと同じで背はあんまり高くないけど、大人の女性らしいプロポーションと、似てるってよく言われる日本人とは違う綺麗な顔は、あたしにとっても自慢だった。
曽我さんがクォーターなのに、ハーフのあたしの黒髪とか身体つきとかが凄く日本人っぽいのは、まだ成長が始まってないからだと信じたい。
あたしの顔を見て優しく笑むお母さんのお使いの頼みに、少し不満を感じながらも従わないわけにはいかない。
「トンカツソース?」
「えぇ。今日のコロッケ用なの」
「夕方でいい?」
「夜ご飯までには買ってきてくださいね」
元気よく「うん」と返事をしたあたしは、階段を上がって自分の部屋に入る。
鞄を机の横に引っかけてクローゼットを開ける。
提げられてる服をしばらく眺めて考えて、長袖のワンピースと丈の短いデニムのジャケットを引っ張り出して、制服から着替えた。
鏡の前に立っていまの格好を確認してみる。
沙倉やマリエちゃんと一緒に買いに行った薄ピンク色のワンピースは、前のボタンの辺りの造りが凝ってて、裾に刺繍なんかもあってけっこう可愛くてお気に入りだった。
丈の短い青いデニムのジャケットと合わせるとちょっと活発な感じがして、お出かけするときにはちょうどよい組み合わせ。
胸元の膨らみが足りなくて少し寂しい気がするけど、ベルトで締めた腰の細さでカバーってことで気にしないことにする。
試着もしたのに実際に着てみると思っていた以上に裾が短くて、太ももが寒いからいまの時期だとまだストッキングでも穿きたくなるけど、このワンピースに似合いそうなものは鋭意捜索中。今日はそんなには寒くないから、我慢するしかなかった。
帰ってくる間に少し乱れちゃった髪もブラシで整えてから、あたしは制服のポケットに入れておいた携帯端末を取り出して、タッチパネルを操作する。
立ち上げたメーラーのメニューから新規メールのボタンをタッチして、あたしは手を止めた。
「誰にメールするつもりだったんだっけ?」
当たり前のようにそこまで操作したのに、自分が誰にメールするつもりだったのかわからなくなっていた。
家に帰ったらいつもそんな風にしていた気がするのに、いつも誰にメールしていたのか思い出せない。
右側に感じてる違和感と同じで、当たり前のようにあったものがなくなってる感じがあって、あたしはその後どうすればいいのかわからなくなっていた。
とりあえずメールの履歴を呼び出してみるけど、学校の友達とお母さんとお父さんの他に、メールを出してる人は見当たらない。
頻繁にメールを出してる人がいたような気がするのに、お母さんと友達を除けば、毎日メールをやりとりしてるような人は、履歴の中にはいなかった。
「むむぅ」
うなり声を上げながら、あたしは思う。
――やっぱりヘンだ。
いつからだったのかわからないけど、いつもやってるはずのことに違和感を感じてる。
今日は早く帰ろうと思った理由も、出かける服に着替えた理由も、誰とどこに行くつもりだったのかも思い出せない。
あの空席を見てからだったのかも知れないし、そのずっと前からだったのかも知れない。とにかくあたしは、いまの自分の隣にあるはずだったものがないことを、不思議に思っていた。
ブラシで整えた髪をくしゃくしゃにかき回してからはっと気づいて、でもこの後は買い物に行くだけだったらどうでもいいか、と思い直す。
――何だったんだっけ。
思い出そうとしても、思い出せない。
隣にいたのが誰だったのか、わからない。
胸の中にあるように思える固く閉じた箱を開けることができないような感覚に、あたしはちょっと泣きそうになって、胸を両手で押さえていた。
「あれ? こんなものあったっけ?」
胸の痛みと気持ちが少し収まって顔を上げてみると、ヌイグルミとか小物とかを入れてある小さな棚の上に、カメラが鎮座してるのが目についた。
ずいぶん古いもののようで、でも使い込まれてるらしい質感のカメラは、何でか黒い液体か何かをぶちまけちゃったみたいに、右半分くらいに汚れがこびりついてしまっていた。
見た憶えはあるような、ないような。
写真は携帯端末で撮ってるからデジタルカメラなんて持ってないし、そのカメラは詳しいことはぜんぜんわからないけど、フィルムを入れて使うタイプのようだった。何しろ液晶画面がないし、ボタンとかレバーとかダイヤルとか用途がよくわからない部品がいっぱいある。
レンズまで黒いシミみたいなもので汚れてしまっているカメラが、どうしてあたしの部屋にあるのかは、よくわからなかった。
誰かにもらった物なのかも知れなかったけど、インテリアとして置くにしても、こんな汚れたものを選ぶ理由がない。
汚れてない部分を手にとってじっくり眺めてみても、やぱりこのフィルムカメラのことを思い出すことはできなかった。
「名前、かな? これ」
底の方にざらざらした感触があったからひっくり返してみると、文字が彫ってあるのを見つけた。
「禄蔵、かな?」
あんまり大きな文字ではなかったし、ずいぶん昔に彫ったものらしく判別が難しかったけど、その文字は「禄蔵」と彫ってあるように見えた。
その名前には記憶がある。
確か隣の佐々木さんの家のお爺ちゃんだ。
ご高齢でずいぶん前に病院に入院されてからは、すっかり会ってない気がする。いまどうされているのかはわからないし、その禄蔵お爺ちゃんのカメラがなんであたしの部屋にあるのかも憶えてない。
「本当に今日は、わからないことずくめだなぁ」
右側の空席、右側の違和感に、睨んでくる曽我さん。それから、禄蔵お爺ちゃんのフィルムカメラ。
何なのかわからないことばっかりで、頭がパンクしちゃいそうだった。
「もうひとつ、何か彫ってある?」
よく見てみると、禄蔵という文字の隣に二文字、文字が彫ってあるように見えた。
それは汚れの中に沈んでしまっていて読めないけど、微かな窪みの具合から二文字であることはわかる。
禄蔵お爺ちゃんの苗字は佐々木だから、苗字だとしたらおかしい。何の汚れかわからないから擦ってみるのもためらってるとき、一階のお母さんに呼ばれた。
「すぐ行くー」
と部屋から大きな声を出して、あたしはフィルムカメラをもとの場所に戻す。
すごく気になるような、すごくどうでもいいことのような気がした。
でもお母さんに呼ばれたなら最優先はそっちの方。
時計を見てみると、いつの間にか本格的に夕食の準備を始める時間になってきていた。
「今日はコロッケかぁ」
お母さんのつくる料理はどれもすごくおいしいけど、とくにポテトコロッケは洋食屋さんで食べるのよりおいしいくらいだった。
口の中にコロッケを入れたときのほくほくした感じを思い出して少し幸せな気分になりながら、あたしはクローゼットから薄手のコートを取り出す。
部屋を出るとき、棚の上のカメラに彫られた読めない文字のことがちょっと気になったけど、ひとつ息を吐き出してあきらめて、あたしは一階へと降りていった。