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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 4 さようなら



       * 4 *



 寝転がって空を見ていると、このまま飛んでいけそうな気がした。

 もちろんそんなことはできないんだけど、屋上でずっと寝転がっていると、そんなことくらいできそうな気がしていた。

 曽我さんはたぶん、六時間目の授業を受けることができたと思う。

 後で一緒に行きたい場所があると言って別れてから、ずいぶん時間が経っていた。

 あたしは教室に戻る気になれなくって、六時間目もサボって、こうして決して綺麗とはいえない屋上に寝転がって、少しずつ色を変えていく空を眺め続けていた。


 ――あぁ、駅前のケーキを買っていかないと。


 それが約束だったから、行くときにはちゃんと買っていかないといけない。

 現金も下ろさないと、あのときの支払いもすることができない。


「ねぇ幸夢。貴方も一緒に行く?」


 おもむろにどこでもない方向に話しかけてみる。


「どこに行くつもりだい?」

「喫茶店。不思議なお店、だと思う。こっちだと普通かも知れないけど」

「遠慮しておくよ。あまりおかしなところには足を踏み入れたくはない。どんな影響があるのかわからないからね」

「というか、やっぱりいたんだ」


 近づいてきた幸夢を、寝転がったまま見上げる。

 何となく、そんな気はしていた。

 あの世界とこの世界はつながっていて、幸夢もこっちにいるんじゃないかと、漠然と感じていた。


「君の思いを受けて僕は目覚めたからね。君に名前と姿を与えられて、相変わらず曖昧なところはあるけれど、この世界にも存在できるだけの格好は整っているよ」

「ふぅん」


 身体を起こして、幸夢に向き直る。


「ひとつ訊きたいんだけどさ」

「何かな?」


 あたしのことを見下ろしてくる幸夢には、やっぱり表情があるのかどうかよくわからない。


「あの世界で、曽我さんが禄朗のことを知ってそうな感じがあったけど、あれはどうしてなの?」

「あの世界は君の望みで生まれた世界だ。でも彼女にも強い想いがあった。たぶんだが、彼女もまた僕を目覚めさせる要因になったんだと思う」

「そうなんだ」


 立ち上がって、スカートについた埃を払い落とす。

 幸夢に背を向けて、あたしは空を仰いだ。


「もうひとつ、訊いてもいい?」

「あまり、良い答えにはならないと思うよ」

「うん……」


 目をつむって、さやさやと微かにそよぐ風を感じる。

 通り過ぎていく春。

 逝ってしまった人。

 壊れてしまった世界。

 あたしはたぶん、諦めの悪い性格をしてるんだと思う。

 受け止めたなんて自分に言い聞かせながら、あたしの中にはまだ、想いが残り続けてる。


「もし、もしもだよ? もう一度、あたしが強く幸夢に願ったら、もう一度世界を生み出すことは、できるのかな?」

「不可能とは言わない。それだけの強い想いがいまもあるならば、おそらく可能だ」


 胸の前で右手を左手で握り込むようにして、願うように言葉を解き放つ。


「禄朗が死んでいなかった世界を生み出すことは、できるのかな?」

「可能だ」

「可能、なんだ」


 振り向いて幸夢の顔を見る。

 表情のない彼が嘘を言ってるのか、本当のことを言ってるのかは、わからない。

 でも彼のそんな在り方が、空気に消えてしまいそうな彼の存在が、言葉の意味を教えてくれる。


「けれどできないことがある」

「それは何?」

「一度結ばれた要素をほどくこと。過去を改変すること。時間軸上の過去方向への分岐は可能だ。しかしアイリスはすでに彼の死を知ってしまっている。分岐世界の発生はいまの君を起点とする。忘れることくらいはできても、過去を変更することは、なかったことにすることはできない。すでに結ばれた要素をほどいて、過去を改変することは不可能だ。忘れたことにしても、なかったつもりになっても、君の得た時間は確実に世界の歪みとなり、崩壊の道を辿る。それに彼という要素は死という結末によって世界に拡散してしまっている。新たな世界にいる彼は、君の記憶にある彼であって、彼そのものではなくなってしまう」

「……そっか」


 そんな気はしていた。

 あの世界で最初、あたしは禄朗の存在そのものを忘れていた。

 それでも残っていた。

 禄朗への想いが。禄朗の死が。

 そして禄朗の、あたしへの想いが。


 たくさんの想いがあの世界を歪ませ、崩壊へと導いた。

 もし新たに禄朗のいる世界ができたとしても、また世界を歪ませる結果になるんじゃないかと。

 例えもう消えてしまった禄朗の想いがなくても、長い時間がかかるとしても、あたしはいつか世界の歪みをつくってしまうのかも知れない、と。


「そっかぁ」


 あふれてきそうになる涙を、空を仰いでやり過ごす。

 六時間目の授業の終わりを告げる鐘が鳴った。

 今日の授業は終わり。

 あたしは今日、禄朗と帰ることはなく、約束をした曽我さんと帰ることになる。


 ――さようなら、禄朗。


 ひとつも納得なんてできてないけど、そのことはどうやっても覆ることはない。

 たぶんまだまだ泣いちゃうことがあるんだと思うけど、あたしはあたしの心の中で、禄朗に別れを告げる。


 生まれてからずっと一緒に過ごしてきた禄朗。

 あたしにとって半身と言ってもいいくらいの彼。

 誰よりもあたしのことを好きだと言ってくれて、あたしが誰よりも好きだった人。


 それが禄朗。佐々木禄朗という、あたしの愛した人。


 ――さようなら、禄朗。さようなら……。


 強く目を閉じて、漏れてきそうになる嗚咽を飲み込む。

 しばらくは飲み込みきれなかった気持ちを、それでも胸の中まで抑え込んで、あたしはいまできる精一杯の笑顔をつくる。


「ねぇ幸夢」

「なんだい?」


 やっと目を開けられるようになって幸夢のことを見てみると、少し目を細めてあたしのことを見つめてきていた。


「この後、幸夢はどうなるの?」

「さぁ? 誰かの強い想いに惹かれれば、たぶんそこに行ってしまうと思う」

「そっか」

「でもいまは、いましばらくは、君の側にいることになるんだと思う」

 表情から考えてることが読み取れない幸夢がどんな想いでその言葉を口にしているのかは、わからない。

「どれくらいの間なの?」

「それもわからない。でも人の命は長くない。もしかしたら君が死ぬまでは、ずっと一緒にいることになるかも知れない」

「そうなんだ」


 どれくらいの間、幸夢は存在し続けていたんだろう。どれくらいの人の想いを受け止めて、世界を生み出してきたんだろう。

 わからない。

 だから聞いてみたかった。


「じゃあ、しばらくはよろしくね」


 右手を差し出すと、幸夢は少し考え込むようにその手を見つめていた。

 でも同じように右手を伸ばして、握り返してくれた。

 幸夢の手は暖かくて、優しくて、あたしは禄朗の手を少し思い出していた。




          「ワンダリングワンダーランド クランベリーダイアリー」 了

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