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第五章 アイリスと禄朗と幸夢 3 リアル



       * 3 *



 重い頭を持ち上げてみると、ベッドの隅っこでうずくまってる自分を発見した。

 ゴールデンウィークの間、あたしは泣いて過ごした。

 何度か警察に呼ばれて出かけたのは憶えてるけど、それ以外の時間は、ほとんど自分の部屋のベッドの上で、もういない禄朗のことを想って泣いていた。


 時計を見てみると、五月六日。

 今日から学校が始まる。

 怠くて重い身体を動かして、あたしはベッドから下りる。

 違和感を覚えて自分の身体を見下ろしてみると、制服を着ていることに気がついた。

 綺麗ではあったけどずいぶんシワができてしまっていたから、あたしはクローゼットから予備の制服を取り出して着替える。


 ポケットの中に何か忘れ物がないかと手を突っ込んでみると、スカートの中から鍵が出てきた。

 その鍵を握りしめて、あたしは新しいスカートのポケットにそれを突っ込んだ。


 腫れぼったいまぶたはもうどうにもならないと思いながらブラシで髪を整えて、ふと横を見てみる。

 小さい棚の上に鎮座しているのは、禄朗のフィルムカメラ。

 あの日も鞄の中に入れて持ち歩いていたカメラは、鞄に染み込んだ血がこびりついてしまっていた。

 元々は禄蔵お爺ちゃんが大切に使っていたカメラを、入院を機に禄朗が譲り受けた。譲り受けたそのすぐ後に形見となったカメラをとても大切に、いつも持ち歩いて使っていた。

 そのカメラはいま、あたしの部屋にある。

 禄朗が一番大切にしていたものを、彼のおばさんが形見として譲ってくれたのだった。


「使えるようになるかどうかわからないけど、今度綺麗にしてあげるね」


 カメラそのものは禄朗じゃない。でも、そこに禄朗が宿っているような気がして、あたしはカメラに向かって話しかける。

 こびりついてしまった血の跡を一度撫でてから、一階へと降りていく。


「おはよう、アイリス」

「うん、おはよう」


 LDKに入るとすぐにお母さんが声をかけてきた。

 ひどい顔になってるのはわかってるけど、それでもできるだけの笑顔を見せる。


「朝ご飯は食べますか?」

「うん、食べる」

「それじゃあ、顔を洗ってらっしゃい」

「はい」


 お母さんの言葉に従って洗面所に行って、顔を洗う。

 鏡に映っているのは、やっぱりひどい顔をしているあたし。

 まぶたはかなり腫れ上がっていて、目も赤いままで、涙の跡だけは洗い流したけど、ちゃんと食事もしていなかったから、整えた髪も荒れてる感じがあった。


 ――でも、泣いてばっかりはいられない。


 禄朗に会うことができないのは、もうわかってる。

 泣いててももうどうすることもできなくて、だからあたしは、そのことを受け入れて、生きていくしかない。

 いまできる精一杯の笑顔を、鏡の中のあたしに向けて、あたしは見せていた。



         *



「おはよう」


 挨拶をしながら入ると、騒がしかった教室が静まり返った。

 沙倉もマリエちゃんも教室の中にはいたけど、遠巻きにしていてあたしの側にやってこない。

 自分の机に行く途中、禄朗の机を見てみる。

 禄朗の机の上には菊の花が生けられた、花瓶が置かれていた。

 教室の中を見回してみると、クラスメイトの何人かは、あたしと同じように目を赤くしていた。


 釣られて泣きそうになるけど、ぐっと飲み込む。

 自分の席に座って、花瓶越しに曽我さんのことを窺う。

 涙こそ流していなかったけど、曽我さんはやっぱり、目を赤く充血させて、まぶたを腫れさせて、あたしのことを睨んできてるような、でも自分のことを責めてるような、そんな視線をあたしに向けてきていた。


 ――いまなら、何となくわかる。


 曽我さんが、何を言いたかったのかが。

 あの世界の曽我さんと同じ想いを抱いているのか、そうじゃないのかは、わからない。


 ――でもいまは、あたしにはやることがある。


 ポケットの中の鍵を握りしめて、あたしは自分がやるべきことを想っていた。





 屋上へと続く階段を上る。

 今日は五月七日。

 曽我さんは、一時間目の前にあたしのことを睨みつけた後、教室から出て行って帰ってこなかった。

 昼休みになって、あたしは彼女がいる場所に向かって歩く。

 階段を上りきると、しきりにポケットの中を探っている曽我さんを見つけた。


「……どうして?」


 あたしが取り出した鍵を示すと、曽我さんは目を丸くした。


「なんででしょうね?」


 そう言ってごまかして、あたしは曽我さんを脇に追いやって鍵を開ける。

 息が詰まるような狭い階段室から屋上に出ると、晴れ渡った空が気持ちよかった。

 空には雲が浮かんでるだけで、空髭クジラは泳いでない。まだ早い夏を感じさせる澄み切った空が、ただ広がっているだけだった。

 あたしは後ろに着いて出てきた曽我さんに振り返る。


「訊いてみたかったんだ。曽我さんが、あたしに言いたかったこと」


 泣きすぎたあたしの目は、まだ今日も赤いままだった。

 曽我さんの目は、昨日よりもさらに赤くなって、まぶたも見る影もないくらい腫れ上がっていた。

 そんな彼女に、あたしは微笑みかける。

 まだあたしだってつらいし、悲しいけど、たぶん曽我さんは、あたしよりも重い何かを抱えて、ここまで来たんだと思う。


「それは、その……」


 言い淀む曽我さんに、あたしはずばりと言う。


「禄朗に告白したんだ? あの日」


 ゴールデンウィークの前日のあの日、禄朗が車にはねられて死んでしまったあの日、たぶん彼女は告白したんだと思う。

 禄朗にいつもと少し違う感じがあったのは、たぶんそういうことだったんだと思う。


「……あの日、ワタシが佐々木君のことを呼び出さなければ、あんなことにはならなかったかも知れない」


 曽我さんは、そう言って目を伏せる。

 確かに、あと十秒、五秒でもズレていれば、禄朗は車に轢かれずに済んだかも知れないと思う。

 そんなことを思っても、禄朗はもういない。

 死んでしまった。

 そのことを覆すことも、なかったことにすることもできない。

 曽我さんがあたしに何を言いたくて、どんなことで自分を責めていたのか、やっとあたしは聞くことができた。


「そうかも知れない。でも、ダメだよ。禄朗のために死ぬなんてこと、あたしが許さない」

「だってワタシは!」

「絶対ダメ。どんな理由でも、どんなに自分を責めても、それだけは絶対ダメ」


 一歩彼女に近づいて、少し背の高い彼女の顔を覗き込むようにして見る。


「だって禄朗は、あたしの禄朗だもん。あたしの禄朗のために曽我さんが死ぬなんて、許してあげない」


 ずいぶん自分勝手な理由のような気がした。

 でもそう思う。思わずにはいられない。

 痛みに耐えるように顔を歪ませた曽我さんが大きな声を上げる。


「ワタシだって佐々木君のことが好きだったんだからっ。一年のときからずっと好きだったんだから!」

「一年くらいじゃ足りないよ。あたしは禄朗と一緒に生まれて、一緒に過ごしてきて、死ぬまで一緒にいるって誓ったんだから」

「ワタシだって――」


 言い返そうとした曽我さんの頭に手を伸ばして、胸元に抱き寄せた。


「でももう禄朗は死んじゃったよ。いないんだよ。会うことはできないんだよ。でも、でもね? あいつのこと、忘れないでいてあげよう? だって好きだったんだもん。いまでも好きなんだもん。もしこの先、他の誰かを好きになることがあったとしても、あいつのことを好きだったことを、忘れないでいよう?」


 死ぬほど自分を責めて、それくらい禄朗のことを想っていた曽我さん。

 あたしの身体に手を回してきた彼女は、あたしの胸の中で肩を震わせ始めた。

 あたしもまた、涙が出てきて止まらなくなっていた。


「この涙が涸れて、もう泣けなくなっても、ずっとずっと、禄朗のことを忘れないでいてあげよう?」

「うん……」


 あたしの胸の中で頷く曽我さんに、あたしは空を仰いでいた。




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