第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション 2 空椿
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家から逃げ出した後、あたしはどこをどう歩いたのか、憶えてなかった。
ネットが使えないから携帯端末で決済することもできず、ジュース一本買うことができなくなっていた。
ただいろんなところを歩き回って、自分と、禄朗の痕跡を探していたような気がする。
春にしては暑いくらいになった今日、脚が棒になるくらい歩き回って、下着の感触が気持ち悪くなるくらい汗をかいて、それから、涸れるほどたくさん泣いたことだけは、朧気ながら憶えてる。
気がつくとあたしは、いつも禄朗と歩いた川沿いの土手に座っていることに気がついた。
もう立ち上がることもできなくて、あたしは夕暮れが迫った川の煌めきを眺めながら、ただ座っていた。
川原には一面に赤い花が咲き乱れていた。
なんて名前の花だったのか、思い出すことができない。
本当に現実に存在してる花なのか、この世界の歪みが生み出した花なのか、それもわからなかった。
「こんなに、つらいものなんだ」
あたしはこの世界から、すっかり存在をなくしていた。
学校の先生もクラスメイトも、お母さんも、あたしのことを憶えてなかった。街の中にあったあたしの微かな痕跡も、すべて消えてしまっていた。
あたしはここにいながら、もうこの世界に存在しない人になっていた。
「禄朗も、そうだったのかな?」
気がついたときにはいなくなっていた禄朗。
もしかしたら禄朗も、あたしと同じように、あたしが彼のことを思い出せない間にどこかに消えてしまったのかも知れない。
――うぅん。たぶん違う。
何となくだけど、禄朗は違ってるような気がした。
曽我さんが消えてしまったように、禄朗もこの世界から消えてしまった存在だったような気がした。
いまだに胸の中にあるような気がする開きっぱなしの箱が、違うと言うみたいに震えてる気がした。
「これから、どうすればいいんだろう」
あたしには夜眠るベッドだってない。
誰にも憶えてもらうことができないんだとしたら、このまま消えてしまう以外、どうすることもできない。
風の音がした。
見てみると、遠くの川の上で、半透明の身体をした風の乙女たちがダンスをしていた。
風の乙女たちのダンスは優しく、でも荒々しくて、川面に大きな波を立てながら、すごい早さであたしの方に迫ってくる。
ダンスが巻き起こす風に煽られて、川原の花が激しく揺れた。
「さぁ行きましょう」
そんな乙女たちの響き渡る声と同時に、赤い花は四枚の花弁に風を受けて、次々と空へと舞い上がった。
視界が真っ赤に染まる。
風が立てるごぅごぅという音と、乙女たちの笑い声に、ぱたぱたと微かな羽ばたきの音が無数に混じる。
一瞬前までただの花でしかなかったそれは、蝶となって空に飛び立っていった。
「あぁ、そっか。あれは宙椿だ」
名前を思い出して、あたしは空を仰ぐ。
花弁を羽ばたかせる宙椿は、乙女たちとともに赤い塊となってアッという間に空高くに羽ばたいていってしまった。
いつか蓄えた力を失った宙椿たちは、運良く水辺にたどり着いたものだけが根付いて、また一年かけて花を咲かせる。そして受粉を終え、種をつくる準備を終えた頃、強い風に乗ってまたどこかに飛び立っていくんだ。
そう思えば聞いたことがある気がする。
風の王様に愛された宙椿の一部は宇宙にまで飛び出して行ってて、いまでは金星や火星にも自生しているんだという。
そしてちょうどいまの時期に花を咲かせている金星や火星の宙椿も、そのいくつかが宇宙へと飛び出し、長い時間をかけて太陽系の中に広がっていきつつあるんだ、って。
漂う小さな星の中には、宙椿の花畑になっている星もあるんだとか。
「あんな風に、あたしも空を飛んでいけたらいいのにな」
できたら禄朗のいる場所に。
この世界ではない、あたしの居場所がある世界に。
もう赤い点のようにしか見えなくなってしまった宙椿の群れを、あたしは目を細めながら見ているだけだった。
「人は、空を飛ぶことはできませんよ」
そんな言葉を背中からかけられて、あたしはビクリと肩を震わせる。
聞いたことがある声だった。
優しくて、包み込むような雰囲気のある女性の声だった。
でもたぶん、彼女もあたしのことを憶えてない。
この世界にとって歪みとなってしまったあたしのことは、誰ひとり憶えてはいない。
「ずいぶんひどい格好になってしまっていますね」
言われてあたしは振り向かないまま、自分の姿を見下ろす。
時折お母さんにアイロンを当ててもらったり、クリーニングに出してもらっていたりする制服は、今日一日で着古したみたいにくたびれてしまっていた。
何度か転けたりしたのか、汚れたところもいくつかあって、もう洗わないと学校に着ていけそうにはなかった。
――でもそんなこと、どうでもいいんだ。
もうどうせ、あたしは学校に行くことなんてない。制服を綺麗にしておく必要なんて、もうない。
「少し前にお会いしたばかりなのに、大冒険をしてきたみたいですね、アイリスさん」
「え?」
名前を呼ばれてみのりさんに振り向く。
柔らかい笑顔を浮かべている白いエプロンがついた深緑のワンピースを身につけたみのりさんは、確かにあたしのことを見ていた。
「あの、あたしのこと……」
「えぇ。憶えていますよ。何しろわたしは世界に横幅を持って存在する、未来予報士ですから」
自慢げに胸を張るみのりさんの姿に、あたしはまた泣きそうになっていた。
もうあたしの居場所なんてどこにもないと思っていた。
消えていくしかないと思っていた。
それがたったひとり、憶えてくれている人がいるだけで、こんなにも胸の中が暖かくなるなんて思わなかった。
「お店にいらしてください。歓迎しますよ」
「でもあたしは……」
世界で存在を失ってしまっているあたしは、お金だって持ってない。現金を引き出すことだってできない。
まだこの前のお返しもできてないのに、みのりさんのお世話になるのはためらわれた。
「いいんですよ、アイリスさん。気になさらなくて。それにちょっと、お手伝いしてほしいこともありますしね」
そう言って笑むみのりさんが差し出した手に、あたしはもうためらうことなく自分の手を伸ばしていた。