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第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション 1 トランプ



第四章 トランプと空椿と喫茶ジャンクション



       * 1 *



 目が覚めると、昨日の服のまま寝ていたことに気がついた。

 布団も被らずに膝を抱えた格好で、カーテンが引かれた暗い中、部屋の隅に置いてあるベッドの端っこでうずくまっていた。

 何となくこんなことが少し前にもあった気がした。


 ――いつのことだったっけ。


 家に帰ってきてからはいっぱい泣いて、泣きすぎて、ボォッとする頭を膝から持ち上げて机の時計を見てみる。

 もう登校の時間まであんまり余裕がなかった。


「はぁ……」


 ため息をひとつ漏らして、あたしはベッドから下りる。

 遮光カーテンを開けて、でも爽やかな朝日に伸びをする気にもなれなくって、シャワーを浴びてる時間もなかったから、疲れた身体を引きずって制服に着替えた。

 鏡台の前に座ってブラシを手に取ると、鏡の中にひどい顔をしてる自分が映ってる。

 何時に寝たのか憶えてないくらい泣いてて、目は真っ赤になっちゃってて、まぶたも腫れて、すごい不細工な顔になってた。


 ――曽我さんもそうだったな……。


 消えてしまう前の曽我さんもこんな顔になってたことを思い出す。

 もう一度ため息を漏らしたあたしは、昨日のことを振り返る。


 ――もしかしたら勘違いだったのかも知れない。


 禄朗があたしのことをイーリスじゃなくって、アイリスと呼んだのは、何か彼の中でそう呼ぶ理由があったのかも知れない。

 高校に入って、恋人同士になって、あたしたちはもう子供じゃないってことだったのかも知れない。


 ――禄朗と会って、訊いてみよう。


 胸の中の箱が小さく震えるのを感じながら、髪を整え終えたあたしは一階へと下りていく。


「あれ? お母さん?」


 一階には人の気配がしなくって、探してみたけどお母さんの姿はなかった。

 朝からどこかに出かけたのかも知れないと思ったけど、そういうときはいつもLDKのテーブルに書き置きがあるか、携帯にメールが来てるはずなのに今日はなかった。

 突然朝から出かけないといけないことは前にもあったけど、そんなときでも朝ご飯の準備くらいはしてくれてたのに、それもなかった。

 家の中は、まるで誰も住んでない空き家のように、しんとしていた。


「どうしたんだろう?」


 何か大変なことでもあったんじゃないかと不安になりながらも、どちらにせよ朝ご飯をゆっくり食べてる時間もなかったから、歯磨きと洗顔だけ済ませてあたしは家を出た。

 家を出たすぐ隣は禄朗の家。

 もう登校しちゃってるかも知れないけど、ひと声かけてから行こうかと思うのに、ためらう。


 ――昨日の禄朗は、禄朗に見えなかったな。


 少しもあたしの記憶の中の彼と違わないはずなのに、どうしても昨日の彼は、あたしの知ってる禄朗には見えなかった。

 どうしてなのかわからないけど、そんなことないはずだけど、あれは禄朗じゃないようにしか、あのときには思えなかった。


「たぶん気のせいだよね、禄朗」


 口に出してまた泣きそうになった気持ちを飲み込んで、あたしは学校へと急いだ。





「あれ?」


 昇降口に入っていつも通り携帯端末を使って下駄箱を開けようとしたけど、開かなかった。

 何度やってもエラーの音がするばっかりで、認証が通らない。


「壊れちゃったのかな?」


 校舎はあたしが入学する前の年に建て直したものだから新しかったけど、下駄箱は前の校舎から移したもので、たまに調子が悪くなって開かなくなることがあった。

 修理してもらうまでは開けることができないから、仕方なくあたしは昇降口の隅の下駄箱から来客用のスリッパを取り出して履いて、教室に向かう。


 朝のホームルーム前の廊下には、元気な生徒がたくさんいた。

 天井も床もなくふざけ回ってる猿たちの攻撃にも近い動きに注意しながら廊下を抜けて、言い争いをしているドレス姿の小母さんたちの呼び声に耳を貸さずに階段を一気に駆け上がる。

 謎かけをしてくるスフィンクスの声を聞こえない振りして乗り越えたどり着いた教室の扉を、一瞬迷ってから思い切って大きく開けた。

 その瞬間、言葉にできない違和感を感じた。


 一斉にあたしのことを見る頭と手足を生やした、トランプのクラスメイトたち。

 注目されてることに少し居心地の悪さを感じながら、吐き気がするほどの違和感を和らげたくって、教室の中を見回して禄朗の姿を探す。


 ――どうしたんだろう。


 まだ来ていないのか、禄朗の姿を見つけられなくて、自分の席に向かおうとそっちの方を見ると、そこにはすでにハートのクイーンが座って、ダイヤの三と話し込んでいた。


「あの、ここはあたしの席で……」


 近づいてそう声をかけてみるけど、ハートのクイーンは首を傾げるばかりで、席を空けてはくれない。

 どうしたのかと集まってくるクラスメイトのことを見回してみると、二年生になってから一緒のクラスで過ごしてきた彼らの顔に、ひとつも見覚えがなかった。誰ひとり名前を思い出すことができなかった。

 机の数を数えてみると、二八。

 机の数に間違いはない。A組の生徒は二八人で……。


 ――違うっ。違う!


 感じていた違和感が爆発するようにはじけて、あたしの中であたしが否定する。

 A組の生徒は三一人だったはずだ。

 三つも席が減ってる。

 減ったのは禄朗と曽我さんと、それからあたしの席。


「そこは本当はあたしの席の、はずで……」


 胸の奥からこみ上げてくるものに言葉が出なくなりそうになりながら、それでもあたしはそう主張する。

 クラブの五がスペードのエースにひそひそと話しかけ、ダイヤの八がハートの一四と一緒に身体をゆがめながら肩をすくめる。

 顔も名前もわからないクラスメイトたちは、あたしのことを場違いな存在であるかのような顔で迫ってきて、身体を寄せ合い隙間のない円陣で追い立ててくる。後退るしかないあたしは、教室の中にいることができなくって、外に追い出されてしまう。


 ――絶対おかしいよっ。


 教室の中が歪んでる。

 世界が歪んでしまっている。

 何がどうなってるのかぜんぜんわからないけど、この教室にあたしの居場所がなくなってしまっていることだけは確かだった。

 出席簿を咥えて四つ足で歩いてくるライオンに気がついて、あたしは側に駆け寄る。


「がおーーーっ」


 耳が痛くなるほどの叫び声で威嚇してくるけど、そのとき口から落ちた出席簿を手に取って、あたしはそれを開く。

 佐々木禄朗という名前も、曽我フィオナという名前も、それから立花アイリスという名前も、そこにはなかった。


「がーおーうっ」


 逆モヒカンのように頭頂部だけが薄いたてがみをしたライオンにもう一度威嚇されて、出席簿を取り落としたあたしは後退る。


 ――何が起こったの?


 ぜんぜんわからなかった。

 教室から出てきたトランプのクラスメイトたちが、異物を見るような目を向けてきていた。

 その中には沙倉も、マリエちゃんもいるんじゃないかと思うのに、あたしはふたりのことを見つけることもできなかった。

 わからなかったけど、あたしはもうここにはいられない。

 夜の間ずっと泣いてた気がするのに、また涙があふれてきて、ここにいられなくなったあたしは廊下を走って逃げ出した。



         *



 ピアノの鍵盤になってる階段を三段抜かしで駆け下りて、昇降口で靴に履き替えたあたしは、学校から飛び出す。

 アメ細工のカラフルなブロックがはめ込まれた道路を通り、綿菓子でできた雲をおいしそうに食べてる空髭クジラのつくる影の下を駆け抜ける。

 子泣き爺のおんぶを求める声を聞こえないことにして、砂かけ婆の投げつけてくる砂を鞄で防ぎながら、見下ろし入道の股の下をパスして、あたしはこぼれてくる涙を拭いながら走り続けた。


 首長竜とローレライが巣くう小川の脇を通って、勇者と魔王がコサックダンスで競ってるところを飛び越えて自分の家に急ぐ。

 目に見えてるもののすべてが、現実に存在しているものなのか、世界の歪みから生まれた物なのか、もうよくわからない。判別することがいまのあたしにはできない。

 線路のない道路の上を暴走する幽霊電車にぶつかりそうになりながらも家の門の前にたどり着いて、あたしはやっとひと息つくことができた。


 布団に潜り込んで、とにかく眠りたかった。

 起きたらお母さんに相談して、わかってもらえないかも知れないけど、いま思ってることを全部、いま起こってることを全部、話してしまいたかった。

 門を開けて玄関に近づく。

 玄関の脇にある認証パネルに携帯端末を近づけて鍵を開けようとする。


『ピーッ。認証された鍵ではありません』


 無機質な声が、そう言った。

 もう一度近づけてみるけど、返答は同じ。

 携帯端末を操作して何か間違いがあるんじゃないかと思って確認してみるけど、ネットにリンクすることもできなくなってて、確認するどころの状態じゃなくなってしまっていた。


「何が、起こったの?」


 玄関の前で、あたしはただ呆然と立ちつくす。

 今朝、あたしはこの家から出て学校に行った。

 少なくとも昨日禄朗の家から戻ったときは、携帯端末を使って鍵を開けて家に入った。

 それなのに、なんで鍵が開かないのか、理由がぜんぜんわからなかった。

 壊れてしまったのかもと思うけど、思い出してみれば、学校の下駄箱も開けることができなかった。

 それに今時、ネットにリンクできなくなるなんてこと、あり得ない。そんなことになった端末は、スタンドアローン用の設定を充実させてでもいない限り、役にも立たないんだから。


「どちら様?」


 どうすることもできずに立ちつくしていると、玄関が開いた。

 顔を出したのは、お出かけから帰ってきたのか、あたしのお母さん。


「あの……」


 すがるように一歩近づいて、いつも見ている顔に泣きそうになりながら、でもあたしは玄関から姿を見せたお母さんにできるだけ笑顔を見せる。


「ただい――」

「貴女はだぁれ? 可愛い制服を着てるけど、近くの子?」


 お母さんの笑みは、あたしへの笑みじゃなくって、知らない子に見せる笑みだった。


 ――あぁ、そういうことなんだ。


 もう、あたしは理解していた。

 昨日禄朗の姿をしていた何かが、世界が壊れてしまうと言っていた。

 つまりはこういうことなんだ。

 世界から、あたしが存在しなくなっていた。

 世界にとって歪みとなったあたしは、この世界の人々の記憶から消えてしまった。

 禄朗と同じように、曽我さんと同じように。

 あたしはもう、この世界の住人ではなくなってしまった。


「大丈夫ですか? 貴女。何か飲み物でも持ってきましょうか?」


 あくまで優しいお母さんは、目に涙を溜めているあたしのことを見てそう言ってくれる。

 でももう、あたしはここにいられなかった。いたくなかった。あたしの居場所は、なくなってしまった。


「ありがとう、ございます」


 あふれてこぼれてきた涙を隠そうとしてうつむき、あたしは踵を返す。


「あの、本当に大丈夫ですか?」


 背中を追ってきた心配する声に応じず、あたしはあたしの家だった場所から逃げ出した。




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