龍の騎士と獅子の王子 Ⅷ (54008文字)
さあ、冒険に――
「もし、獅子王に万が一のことがあれば……」
ダライアスはいまだ独り身、世継ぎもない。アラシアは空中分解してしまう。そう考えただけで恐ろしい。
ヤースミーンと言えば、ダライアスお気に入りの侍女だが。悪手はつけず、清い身のまま。
「心配ない」
と、ダライアスは言う。
「予のほかに王子王女がある。その中から良い者を選べばよい」
「縁起でもない」
「万一のことがあればと問うたのはそなたではないか」
「そうですが」
臣下は気まずそうにする。確かにアケネスとサーサヌはクゼラクセラについていったが、他の王子や王女は残っている。ダライアスとも会って、良い国づくりのために協力をしあうことも話し合った。
「とにかく、決めた。これでゆくぞ」
「はい!」
イムプルーツァとガアグルグは勢いよく返事をし。もう遅い時間なので一晩寝て、その翌朝。支度にとりかかった。
一方、ロヒニにおいて情報収集につとめるコヴァクスたちであったが。不穏な報せがもたらされた。
ある日議事堂の前をみすぼらしい者が通りかかろうとして、倒れこんだ。
それがなかなか動かない。
「どうしたのだ」
気になった門番が声をかければ、そのみすぼらしい者は、
「私は、モルテンセン様から遣わされた密使です」
そう小声で言う。
なんだと! と驚いた門番はみすぼらしいなりをした密使を助け起こせば、懐から精巧な蝋印で閉じられた封書を取り出して渡され、どこそこの宿にいます、と言って立ち去って行った。
大変なことなのだろうか、門番はやや恐慌をきたしながら慌てて議事堂内に駆け込み事の次第を報告した。
「すぐに行こう!」
封書を解いて読んだコヴァクスとニコレットは指定された宿へと向かおうとしたが、異変を民衆に悟られてはいけないとバリルに諭され。まず騎士見習いのクネクトヴァとカトゥカのふたりが向かい、密使に会った。
宿は路地裏の安宿で、客の柄も悪い。不安を覚えたが、幸いに、見習いとはいえ騎士を相手に喧嘩を売る馬鹿はおらず。宿の主に部屋に案内してもらった。
密使は四十そこそこの男で、格好も門番の報告通りのみすぼらしさで。これがほんとうにモルテンセンからの密使なのか疑ったが。
「普通にゆくと怪しまれるかもしれませんから、私を捕縛し連行してください」
「え、なぜ?」
「罪人を連行するという風に建前をつくっておけば、人々の疑いはそこで終わるでしょう。とにもかくにも、私が使命を帯びて来ていることを、知られたくないのです」
「わかりました……」
「では……」
密使はすうと息を吸い込むと、
「ああ、とうとう来やがったなこの野郎! 捕まってたまるか!」
突然大声を出し、ふたりは面食らった。しかし、これは演技だと悟り、
「無駄な抵抗はやめろ!」
とふたりで組み伏せる動作をとり。両手を、ゆるく、縄で縛って。ふたりで両脇をおさえて、外に出た。
宿にいた者たちは驚いたが、罪人が捕まったのを見て、
「どじなやつだぜ」
とつぶやいたきり、そっぽを向いて安酒を喉に流し込むのみ。主は何も言わずに睨み付けるのみ。
そのまま議事堂までゆき、いましめを解いたが。
「ここでもそのような格好をする必要はあるまい」
ダラガナの助言により、湯で身体を拭き、身繕いをすれば。立派な貴族風の男性がそこにいた。
「お手紙をお読みいただき、ありがとうございます」
密使は丁重に礼を述べる。一同会議室に集まり、詳しい話を聞こうとする。
手紙によればモルテンセンとその妹マイアは殺される危機にあると書かれ、助けてほしい旨したためられていた。
「誰が殺すのだ?」
と問えば、ソケドキア女王のエレンフェレスであるという。
「女王は権力欲が強いうえに嫉妬深く、善政を布き民衆の人気を集めているモルテンセン様を取り除こうとしているようです」
「ふむ、ありそうな話だが。根拠となることがあったのかな?」
バリルは丸々信じていないようで、疑いの目を向ける。
(これがソケドキアの罠であれば、危ういことだ)
モルテンセン救出のための戦争を仕掛けさせ、伏兵で迎撃し殲滅させ。ロヒニを奪いに来る。そんな想像を巡らせる。
ロヒニは古来より栄えた港町。喉から手が出るほど欲しがる者は多かった。さらに言えば、そこをとっかかりにオンガルリへも侵略の手を伸ばされてはかなわぬ。
「ここ数か月、モルテンセン様やマイア様と親しい配下や召使いがことごとく役職をやめていっています。そうでない者は、行方不明になり。ある召使いの少女などは、明らかに強姦されてから殺された無残な遺体で発見されました」
「そんなひどいことが……」
コヴァクスとニコレットは眉をひそめる。
「で、辞めた者のあとには?」
「女王に近しい者が後任に来ていますが、ご兄妹にとても冷たく接しております。その様は、とても見ていられるものではありません」
「食事の方は?」
「それも、あきらかに味が落ちるものばかりがつくられて。改善を申し出れば、贅沢を言うなと料理長はあからさまに言う有様」
「料理長も?」
「はい、女王に近しい者です」
「露骨なことだ」
バリルも眉をひそめて腕を組んで言うが、まだ疑いを晴らしたわけではない。
なにより、軍を出してくれと言われてもそんなゆとりはないのだ。どうやって救出をさせるつもりなのだろう。
「先に断っておくが、我が国の軍は他国へ赴かせるような余裕はない。マーラニアも落ち着いてはいるが、戦争を要請できる状態ではないぞ」
「それは、百も承知。なにより、モルテンセン様は戦争を嫌っております。いかなる理由であれ、己のために戦争をさせるようなことは、絶対に、ありません」
密使は厳しい口調で言う。バリルに疑われていることに、腹立たしさを覚えているようだ。
「モルテンセン様はロヒニへと逃げられるお覚悟を決めました。そこで、腕の立つ方を護衛につけていただきたいのです。ここにおられる方々は歴戦のつわものぞろい。わがままは百も承知で、お願いに上がった次第です」
「なんと、護衛を」
声を上げたのはソシエタスだった。実直なこの騎士は、話を聞き目を潤ませていた。
ほんとうなら自分たちが先にモルテンセンを見つけなければならなかったのだ。それができなかったばかりに、苦労を掛けさせていると思うと……。
「それならオレたちの出番だな」
と言うのはラハマディだった。隣のペロティアも頷く。彼らの本職は商人である。旅の商人ならば、比較的自由に様々な地域を移動できる。
「モルテンセン様は幼いながらも聡明なお方とうかがっておりますが、大胆なことも考えるものですな」
ダラガナは笑みを浮かべて言う。ここにいる者たちはそれなりの立場の者だ。それらに対し、護衛を頼むなど。しかし苦難を乗り越えたのは確かであり、確かな力量もついている。
モルテンセンはそれに期待をしたのだろう。
「うーむ」
バリルは腕を組んで考え込む。
シァンドロス・ソケドキアのこともあり、要人が留守にするのはまずい。かと言って、モルテンセンとマイアに危機が迫るのを手をこまねいて傍観するわけにもいかない。
おそらく、ソケドキアが北方へ野望の手を伸ばすのを堰き止める防波堤の役割を果たしてくれていたのかもしれないが。
波は容赦なく押し寄せ、防波堤も決壊寸前のところまで来ている。
「僕らが行きます」
そう言うのはクネクトヴァとカトゥカであった。
「危険すぎる」
そう言おうとしたニコレットだったが。ふたりの真剣なまなざしを見て、
「わかりました。おゆきなさい」
と言った。
意外にもコヴァクスが心配そうにしていたが、ニコレットの言葉を聞き、「うん」と頷いた。
「年も近く、モルテンセン様にマイア様も安心なさるでしょう」
しかし密使は、眉を落とし気味にしていた。こんな若いふたりで大丈夫か? と思った。
「商団としてラハマディにペロティアもいっしょに行く。それに任せよう」
密使の心配を見抜いてバリルがもう一言を添える。
心の中で事案を整理する。
ラハマディとペロティアら商人たちが商団を組み、クネクトヴァとカトゥカも同行する。さてそれから、どうやってモルテンセンとマイアと落ち合おうか。
「外出もままならぬかな?」
「そんなこともありませんが、監視が必ずつきます」
「ならばこそ、ふたりの若さが役に立つやもしれぬ」
「と言いますと?」
「その若さゆえに、監視役も侮るであろう。そこに賭ける」
「……」
そういうこともあるかもしれないが、それでも心配の種は尽きない密使だった。
「それに、エレンフェレスに近しい者なら、賄賂も簡単に受け取るでしょうな。こう言っては何だが、金ならある程度はある」
ラハマディが得意な顔をして言う。彼は経済に強く、新オンガルリの国庫にも入り経済が回るためにも働いた。金に近づくのは、ある意味では悪魔に近づくことに似ているかもしれない。
一見真面目そうな者でも、まとまった金を見れば目の色を変えるものだった。
「何の因果か、金に強くなるような人生を歩んできたもんだな。マハタラ爺さん風に言えば、このことに会うためだ、といったところかな」
「天国で、違うよって言ってるかもしれないよ」
ペロティアの突っ込みに、一同笑みがこぼれる。
「ともあれ、これでゆこう。頼むぞ」
ラハマディにペロティア、クネクトヴァとカトゥカは頼もしく返事をして頷いて。さっそく準備が進められ。
翌早朝、密かにラハマディたちは出発した。
商品を積む荷車を二頭の馬に曳かせ。数人の商人もともなっての旅で。はたから見れば確かに小さいながらも旅の商団であった。
見送りはない。暗いうちからラハマディの仲間の商人の借家に移り、そこからこともなげに出発であった。
朝もやの中を歩む商団を見守る目がある。龍菲であった。彼女は物陰に隠れながら一行を見て、祈りを込めて手を合わせた。
モルテンセン救出隊が出発したのとは別に、コヴァクスらにはやることがたくさんあった。
おかげで、
「蹴球がしたい」
と知らないうちにぼやくのが癖になってしまった。
たまの、少しばかりの時間を見つけて少ない仲間との、少人数で短い時間での球の蹴り合いはしているが。
やはり、本来の形式にのっとっての試合をしたいコヴァクスとアッティであった。
一応とはいえ王である。ニコレットとともに統治に関する仕事をこなすのはもちろん、情報を収集し近隣の情勢を探り。さらにフィリケアの動向もうかがった。
以前フィリケアから使者がやってきて、手を組みたい旨伝えられたが、コヴァクス不在のため話を保留し。
ロヒニに戻ってから改めて使者を送った。その使者が、フィリケアの黒人の使者をともなって帰ってきたのだ。
報せを受けたコヴァクスは早足で門まで出向き、両手を握りしめて黒人の使者を歓迎した。
その黒い肌を見ると、フィリケアで出会った人々や、チョコレの味を思い出さずにはいられず。それは少なからぬ懐かしさと感傷を誘った。
龍菲も同じだった。
「あのご家族は元気にしてるかしら?」
「申し訳ありませぬ。そこまでは……」
「そう……」
コヴァクスと龍菲がジーハナにいたことは知っているが、その時に出会った家族のことまではさすがに使者とて知ってはいない。
少し考えればわかりそうなことを、迂闊にも龍菲は訪ねてしまい、やや落ち込んだ。が、コヴァクスはそれを笑えなかった。それこそ、彼女が訪ねなければ自分が訪ねたであろうから。
議事堂に入らない龍菲が珍しくも、主要な者たちとともに会議室で使者と向き合い。フィリケアの話を聞き入った。
「そうそう。バジオ殿から伝言を預かっております。蹴球をしているか、と」
「もちろん! と言いたいが、なかなかそんな時間が取れず。たまに球を蹴るくらいです」
「ご苦労お察しいたします。このことバジオ殿にしかとお伝えいたします」
「よろしく頼みます」
「お兄さま……」
この兄は隙を見せれば蹴球蹴球である。が、それに乗る使者も使者である。
「私もバジオ殿の影響で蹴球をたしなむようになったのですが。ソケドキア情勢が目を離せぬようになってから忙しく……」
などと言う。アッティも「わかります、わかります」と頷く。バリルとダラガナ、ソシエタスは苦笑しながら聞き流し。
ニコレットは「はあ」とため息をつきたいのをこらえて、咳払いをして本来の話を進める。
「これは極秘のことですが、ジーハナには大きな金鉱があり。それを資金として地域を治めております。ただ、戦う力は、それだけではすぐに身に着けることはできません」
「まだ始まったばかりですからね」
「そうです。ジーハナ、ひいては旧カルトガやイギィプトを主とする北フィリケア地域は始まったばかり。まずは土台づくりからですが、いたずらにことを急げば失敗します。それゆえ、防衛面ですぐにまとまった力をつけることができませぬ」
「軍容は?」
「傭兵を雇い入れる一方、志願者を募り兵士として訓練をしているのですが……」
いずれは傭兵を少なくし、正規軍で防御力をつけたいが、いつになることやらと使者は悩みを含んだ色で語る。
何事もなければよいのだが。西の方でシァンドロスがハルシテミアとともに怪しい動きを見せている。何かの拍子に、西方の混乱が東の地の果てのジグラタル海峡まで来かねない。そのために緊張感が解けない。
「モーアさまたちは大変悩まれました」
との言葉から、使者は言葉をつづけた。
聞き入るコヴァクスたちは、少し耳を疑った。
曰く、資金を提供するので、コヴァクスたちにシァンドロスと戦ってほしいと願い出たのだ。
少しとはいえ耳を疑ったのは、モーアがコヴァクスたちに戦ってほしいと懇願することよりも、資金を提供するから、ということであった。
シァンドロスとの戦いは避けられず、遅かれ早かれ雌雄を決せねばなるまいが、様々な制約からこちらからなんらかの行動をとれない。制約のひとつに、資金もあった。
他へ攻め出るとなると、莫大な資金が必要となる。新オンガルリが安定しているとはいえ、あくまでも専守防衛の小国としてである。
もし資金提供がほんとうなら、動きやすくなるのは確かだ。
「ジーハナの金鉱は、そんなに金が取れるのか!」
一同驚きを隠せない。他からの資金提供も、初めてのことである。嬉しいというよりも、実感がわかない。
聞けばある程度のまとまった資金はすでに持ってきているという。
「だが、どのように動く? しくじれば、すべては水泡に帰す」
資金に任せて無暗に動くことはできない。有効に使ってこそ、資金は生きる。
「旧カルトガ地域を拠点とするポエニキア人の船団があります。いざとなれば、海軍としてともに戦ってくれます」
「船団か」
その船団で龍菲や黒軍の一千の騎士や兵士ともに帰ってきた。おかげでオンガルリの革命を果たせた。
使者と資金を乗せた船団の長の船がロヒニの港に停泊し、残りは少し沖合に出て待機している。
「まるで夢の中に放り込まれたようですわ」
男装の麗人ニコレットは頭がくらくらする。
ないない尽くしの中のぎりぎりのところで戦い続けた。それが、資金の心配はないとなり。展開の変わりように少しばかりついていけないものを覚えた。
「最初モーア殿に出会ったときは、頼りないと思われていた。オレも、変われたってことかな?」
コヴァクスは当時のことを思い出す。龍菲も同じように思い出す。
ふたりに厳しい目を向け、厳しい言葉も投げかけた。
小龍公と言っても、フィリケアでは全然通用しなかった。それが広い世界に出るということだった。
成り行きとはいえ、コヴァクスは世界の広さを知った。
「その話も聞きました。あなたは小龍公と呼ぶにふさわしいお方です」
「でも、一人じゃ何もできなかった。支えてくれる人がいたから、戦えた。それがなかったら、どうなっていたことか」
「申し訳ありませぬが、今は思い出に浸っている場合ではござらんぞ」
バリルがちくりと刺すように言い。コヴァクスは苦笑し頷く。
「資金の心配はなくなったが、さて人をどうするか。急づくりの軍勢で戦えるほどソケドキア・カリアルソナスは甘くはござるまい」
ダラガナが言えば、コヴァクスとニコレットは思わず考え込む。
「人か、そうだ、人だ。すべては人で決まる」
ソシエタスはうめくようにつぶやく。
勝利をつかみながら同胞の妬みを買ったがために苦難を強いられた苦い経験がある。そんな馬鹿げたことはもう御免だった。
それだけに、どのようにして人を集めるか。
船団で運べる人数は一千まで。
龍菲は黙って下手に割り込まないようにしていたが、不意に。
「無理に増やさなくても、今いる人で事を進められないかしら?」
と言い。コヴァクスは一瞬意味を呑みこめなかった。
「それはどういう意味だい?」
「どうしても、正面切っての戦争をしなければいけないの? 少数で要塞島に忍び込んで、シァンドロスを討つというやり方はいけないかしら?」
「少数で忍び込むか」
なるほど、その発想はなかった。ニコレットは、
「暗殺など、騎士にあるまじきこと」
と言った。さすがのバリルとダラガナ、ソシエタスにアッティも苦笑する。
それに対し龍菲は柳眉を動かすことなく、
「必要なら、私ひとりで行くわ」
と言ってのける。暗殺ならお手の物である。さらに、
「サロメもきっといるわ」
その言葉にコヴァクスとニコレット、ソシエタスは一瞬時が止まったような感じになった。
特にコヴァクスは、血にまみれたサロメの非道さを見ている。降伏したアラシア人を無慈悲に惨殺し。今思い出しても、その酷さに怒りを覚える。
サロメやあの暗殺者たちは、何を思ってか世の中を混乱させようとしている。
正気の沙汰ではない。
使者は話が呑みこめずぽかんとしている。そう言えばサロメの話をしていなかたかと、簡潔にだが説明をすれば、
「妖女ですな」
とバリルはつぶやく。
「まあ、暗殺は騎士にあるまじきこととは思いますが。誇りにとらわれすぎてもいけませんな。東方の兵法書に、兵は詭道なりと」
それを聞いて龍菲はくすりと微笑む。兵は詭道なりとは、戦いは所詮は騙し合いである、という意味である。
「大きな戦争になってしまったら、勝ってもどこかに火種を残す。そうならないようにするのも、大事なことじゃないかな?」
コヴァクスはしみじみと言う。
ニコレットもそれを聞き、暗殺に反対しきれなくなった。
(お兄さまも、思慮深くなられた)
やんちゃ坊主が抜けないと思っていたが、なかなかどうして、そんなことも考えていたとは。
「オレは蹴球がしたいんだ。そのためには、混乱を早く鎮めないと」
「そうだな。もうほんとうに、それに尽きる」
「だろう。そう思うだろう」
「思う、思う」
「結局はそこにゆくのですね」
コヴァクスとアッティの間に入るようにニコレットは突っ込みを入れる。
「これでゆくと、決めたのですな。ならば、行動に移しましょう。兵は迅速を貴ぶとも」
こうして、段取りが進められて。
翌日、コヴァクスたちは港にいた。
「ごめんな、お前は連れてゆけないんだ」
つぶらな瞳を見つめ、愛馬の頬をなでる。
面積も少ない島での戦いになれば、馬の出番はない。ごめんな、と言いつつ。連れていけない方がいいような気もした。
船に乗れば、威勢のいい海の男たちの掛け声が響く。
「帆を張れ!」
いい風が吹いていると船団の長も上機嫌だ。
コヴァクスとニコレットは船から、見送る人々や、愛馬の龍星号、白龍号に向かい手を振る。
ロヒニを出港するのはわずか数隻。主な人員はコヴァクスとニコレットに龍菲、ソシエタス、アッティにヤノーシェら黒軍の騎士に、オンガルリからついてきた龍の騎士団。
総勢で百名ほどである。
これが正体を隠して海洋民族を装い要塞島に向かうのである。
ほかの船たちは帰ることになり。その中の一隻に使者も乗っている。
「ご武運を!」
統治のためにバリルとダラガナは留守を守り。船に向かって大きく手を振る。
ポエニキア人の船団は沖合で二手に分かれ、一方は要塞島を、一方はフィリケア大陸を目指した。
「モーア殿やバジオ殿によろしくお伝えください!」
離れてゆく船たちの中の一隻に使者がおり、それに向かいコヴァクスと龍菲は叫んで手を振った。
「わかりました、しかとお伝えいたします。ご武運を!」
コヴァクスと龍菲には、使者の向こうにあの家族も見えた気がして。それにも手を振った。
かすみがかった雲の多い空の下、一見穏やかながら地中海は潮の流れが速い。うまく潮流に乗り、船は要塞島を目指して波を蹴った。
一方、モルテンセン救出に向かったクネクトヴァら偽装商団はとっくに国境を越え、モルテン船がいる都市に向かった。
荷車を曳く馬の手綱を握り、クネクトヴァとカトゥカはまっすぐに前を見据えて歩く。服装は身分を偽るために平民がよく着る平服だ。
「もっと気を緩めて。怪しまれるわ」
ペロティアがふたりにささやく。年も近いので気が合って――、というわけにはいかず。年が近いゆえに、よく衝突しちょっとした冷戦状態になっていた。
「僕らは騎士だぞ」
「もう、そればっかり。知らない」
ペロティアはそっぽを向いた。カトゥカも目を合わせないようにしている。
ラハマディはいささかの不安を覚えざるを得なかった。
(ふたりがどじしてやばくなったら、ひとりでも逃げてやるわ)
そんなことをペロティアは考えていた。
(やれやれ、どうなることやら)
一番の年長者のラハマディは、この三人の仲の悪さをどうにかしなければいけないが。下手なことをしたところで火に油なので静観するしかなかった。
途中立ち寄った町で、役人の許可を受けて商売をする。商団が商売をしなければ怪しまれる。
クネクトヴァとカトゥカはその商売から外されて、町の商店などを歩き回り情報収集だ。
これはあらかじめ決まっていたことではない。
「一度の失敗で商売から外すなんて。ちょっとひどいと思うわ」
カトゥカは不満げにつぶやく。ふたりは前に立ち寄った村で商売をするとき、あろうことか商品の皿を落として割ってしまったのだ。
幸いにも安価なものだからよかったものの、高価な商品もある。商団を装うために。
「また壊されちゃたまらん……」
ラハマディは頬をぴくぴくさせながら怒りを抑え、商売の間はふたりに情報収集をするように指示した。
「ここで見返してやろう」
「そうだね」
ふたりは若い旅人を装い、商店で手ごろなものを買いながら情勢をそれとなく尋ねていった。
「モルテンセン様がマイア様とともに国境のロゲッジという街に来られるそうだ」
そんな話を仕入れて、ふたりの驚きは大きかった。ロゲッジは国境の街で、とっくに通り過ぎている。そこにモルテンセンは来るのだと言う。
「ふーん。物見遊山かな」
「さあねえ。年に合わず真面目なお方だから、新オンガルリの様子を探りたいんじゃないかねえ」
「戦争をする気なの?」
少し怖そうなそぶりを見せながらカトゥカが問えば、
「かもしれないなあ。小龍公に小龍公女とやらは、悪逆非道な独裁者兄妹というし」
「……!」
思わず、「そんなことないよ!」と大声を出しそうになったのをこらえて。
「ふーん……」
とだけ言い、品物をもって商店を出て。ラハマディらと合流した。
人通りのある大通りで他の商団と品物を並べて商売をしているので、それが終わるのを待った。商売の手伝いはさせられなかったが、やきもきしながら終わるのを待つのは、とても長く感じた。
そんなふたりを見て、ラハマディはやり方を教えて呼び込みをさせれば、
「らっしゃいらっしゃい! あると便利な日常雑貨が安いよ!」
と、ふたりは元気な声を出して呼び込みをする。話したいことがあるのだが話せないもどかしさを、呼び込みで紛らわせていた。
「ふーん、まあまあね」
ペロティアは冷ややかにふたりを眺め客の対応をする。密使や他の商人は微笑ましい思いで眺めていた。
やがて陽も傾き、商売を終え片づけをして宿に戻り。そこでようやく、これこれじかじかの話ができた。
「なんだと、そんな話があったのか」
ラハマディは腕を組み、ふうと大きく息を吐きだす。密使も考え込む。
「モルテンセン様が戦争をするなど、考えられません」
ペロティアはモルテンセンの真意を考えあぐねて密使に問う。
「じゃあなんでわざわざ国境の町に?」
「おそらく、逃げ出すためでは……」
「あたしらが来るのを見越して?」
「でしょうね。もったいなくも、私を信じてくれたのかも」
「なかなか大胆なお人だな」
年に合わぬ冒険家のようで。将来は大物になると、ふとふと思った。
「どうします、ロゲッジまで戻って待ちますか?」
「うーん……」
ラハマディは金の扱いに長けてはいても、軍略・武略の類には詳しくない。だが、長年商団として各地を渡り歩いた経験があった。
「冒険にお付き合いしますか」
密使に向かって、ラハマディはにっと笑みをこぼした。
脱出劇
「それにしても、あたしたちって相当悪く言われているみたいね」
「面目ないことです」
ペロティアは頬を膨らまし気味に言い。密使は申し訳なさそうにする。ソケドキア領内では、主にエレンフェレスが中心になって敵とされる者たちをこきおろす言説が流布さ人心れて。
よく事情を知らぬ者は素直に信じてしまっていた。
「小龍公と小龍公女が独裁者兄妹とはな」
「おふたりが人物なればこそです。まだ不安定な地域ですから、人心を獲られるのを恐れているのです」
「ふん」
ラハマディは勝機を見た。
「ソケドキアでできるのは、シァンドロスだけで、他はたいしたことはないな」
「で、どうするんですかい?」
他の商人が言えばラハマディは自分の考えを述べ。クネクトヴァとカトゥカは心得たと頷いた。
一行は翌日に街を出た。
目的はモルテンセン一行。ロゲッジに戻って待つという悠長なことはしない。
そのモルテンセンといえば、二十名ほどの騎士と兵士の護衛に伴われて出発していた。
妹のマイアとともに、馬車に乗せられ。ロゲッジを目指す。
痛いほどの視線がふたりに刺さる。
護衛のほとんど、御者もエレンフェレスに近しい者だった。
国境の視察をするに当たりエレンフェレスから許可はもらったのだが、思ったよりも簡単にもらえたものだった。
(道中僕らを暗殺するつもりか……)
いつ、どのようにして暗殺するのか。
モルテンセンは旧ヴーゴスネア地域をよく治め人民の人気も高い。突然の死によって混乱が起こる可能性もある。それくらいはエレンフェレスもわかる。
だが、その人民の目と怒りが他に向けられれば、問題はない。
緊張しながらも、出発して数日が経ったある日。平原の道でのことだ。
「助けてください!」
そんな叫びがしたかと思えば、若い男女がこちら向かって駆けてくる。何事かとモルテンセンとマイアは馬車の窓から顔を出す。
「待ちやがれこの野郎!」
若い男女を、荒々しい盗賊らしき者たちが追う。
「いかん、助けてあげろ!」
モルテンセンは声を上げたが――。護衛たちは「逃げろ!」と、脱兎のごとく逃げ出した。御者もである。
「これは……」
モルテンセンもマイアも、唖然とするしかなかった。あろうことか護衛たちは盗賊を見るや否や、である。
後には幼いふたりが乗る馬車の身が残された。
「ああ、僕らの運命もついに尽きるか……!」
マイアと身を寄せ合い、王族として生まれた身を呪った。
(もし生まれ変わることがあれば、平民の子として自由に生きたい)
マイアは怖くて泣いている。自分たちがなんの悪いことをしたというのだろう。
覚悟を決め、ふたり抱き合い。目を閉じて。最期の時を待った。
……だが。
「あ、あれ。みんな逃げちゃった」
「ど、どういうことなの!」
そんな声がしたかと思えば、
「モルテンセン様! マイア様!」
聞き覚えのある声がする。
はっとして目を開けて外を覗けば、ロヒニに遣わした密使が馬車を覗こうとしているではないか。
ということは……。
モルテンセンは気を取り直して立ち上がって、マイアの手を引いて、馬車のドアを開けば。密使は顔を弾けさせるような笑顔になり、馬車の上のモルテンセンとマイアに跪いた。
他は見ない顔である。密使に続いて若い男女が、さらに盗賊までが慌てて跪こうとして。
ある者などは無作法にも前のめりに転んでしまい。
「いったあ~」
と、間抜けな声をあげてしまった。それも若い娘の声で。
「……?」
モルテンセンは今度は呆気にとられて。マイアはそれがおかしくて、「うふふ」と笑った。
「モルテンセン様、マイア様!」
聞き覚えのある声で呼ばれる。それは、ロヒニに遣わした密使であった。ということは……。
「お前だったのか!」
「はい、このお方たちはロヒニの人たちです」
跪く盗賊たちはそれぞれ自己紹介をし、モルテンセンとマイアは安堵した。
曰く、クネクトヴァとカトゥカはラハマディら扮する盗賊に追われるふりをしてモルテンセンらに助けをもとめ、かくまってもらい同行するつもりだったと。
だが、なぜか、護衛は逃げ出してしまって。置き去りだ。
「こりゃあ、うさんくせえな」
「だよね、やけに手際よく逃げたもんね」
商人たちは何かを感づいたようだ。
「とにかく、ここを離れましょう。謀略のにおいがします」
クネクトヴァはそううながし、モルテンセンは頷き。マイアの手を引いて馬車を下りる。
馬車を置いて、素早くその場を離れて。森の中へゆき。そこで、モルテンセンとマイアは良い服を着ていたのを、ラハマディが用意していた質素な平民服に着替えて。ラハマディらも平服に着替える。
森の中には商人が付いた馬と荷車が置かれて、それを前後に挟んで道に戻り、商団を装いロヒニ方面、西へ向かって歩き出す。
速く駆けてゆきたいが、怪しまれないためにも、余裕をもってゆかねばならない。
「ラハマディ殿、お聞きしたいことが」
「ん、なんだ?」
「あなたは、うさんくさいと言われたが、それはどうして?」
「ああ、あれか」
道中説明しようとしてすっかり忘れていたと、ラハマディは苦笑する。
「他に盗賊を装った連中がモルテンセン様を襲って、そこで殺すつもりだったんじゃねえかと」
「そう思われますか」
「まあな。オレたちをそれだと思って、さっさと逃げていったんだろうなあ」
「でもさ、考えてみれば間抜けな話だよね。盗賊が味方かどうかも確認しないで」
「まったくだ」
ラハマディは「わはは」と本当におかしそうに高笑いする。それにつられて他の者たちも笑い。マイアも、朗らかな気持ちになって笑顔が絶えない。
(これが、ロヒニの、新オンガルリの人たちか)
クネクトヴァとカトゥカはモルテンセンとマイアに寄り添い。それをラハマディとペロティアら商人たちが力を合わせて商団を装い、護衛する。
頼もしさと同時に、心が明るくなるのを感じてやまなかった。
しばらく歩けば、幼いマイアは疲れてよろけだす。それを、「ご免」と、密使はラハマディの許しを得て、抱き上げて荷車に乗せる。
荷車の角に、蝶が止まっている。マイアはそれをじっと見ている。
マイアを乗せて、荷車が進みだして揺れると、蝶は飛び去ってゆく。
「お父さまとお母さまに、アルカード様は、喜んでくれているかな?」
カトゥカがひとりごちる。
もしかしたら、クンリロガンハで一緒に死んでいてもおかしくなかった。それがこうして生き延びているのだ。
「私たちがこうして生きているのは、このことのためだよね」
「そうだね。がんばろう」
若い騎士見習いのふたりは、互いに頷きあって。モルテンセンとマイアに寄り添って、皆と一緒に歩いていた。
その一方で、暗殺が失敗したとわかったエレンフェレスの手の者たちは、置き去りにされた馬車で地団駄を踏んでいた。
「くそッ! これはいったいどうしたことだ!」
盗賊役の者たちが一行を襲うのは、もっと後の手筈だった。やけに早いなとは思ったが、もしかしたら本当の盗賊かもしれず。それなら逃げていた若いふたりともども、モルテンセンとマイアを殺してくれるかもしれないと思ったのだが。
死体はなく。それどころか、馬車が置き去りにされ。しかも、少し離れた森の中では、モルテンセンとマイアの服が打ち捨てられているではないか。
どこにも血の跡はない。
「森の精に連れ去られたか」
それを聞き、信じ込む者もいたが。頭領格の騎士は、「ううむ」と呻いて。とにもかくにもと最寄りの町へ馬を駆けさせ、そこの役人に、
「国境の視察に行く途中、ならず者にモルテンセン様とマイア様を誘拐された」
そう伝えれば。役人たちは目が飛び出るかと思うほどに驚き、
「おお、なんとおかわいそうに」
と涙を流す者までおり。それを忌々しく、苦々しい思いに駆られた。エレンフェレスがモルテンセンを邪険に扱うのは、まさにそれだからだ。
役人は兵士を投じて捜索に当たると言い。それに対して、「頼む」としか言うしかないのが歯がゆかった。
しかしこれはえらいことになった。このことがエレンフェレスに知られれば、自分たちもただでは済まない。
(なんとしてもモルテンセンを殺さねば)
しかし町の兵士とともに行動するわけにもいかず。
「我らは次の町に行く」
と言い、外に出て。馬を買い求めた。
郊外に出れば盗賊役の者たちと落ち合い、事情を話し。自分たちでなんとしてもモルテンセンを見つけ出すのだと語り。
馬を駆けさせた。
「まさかとは思うが」
モルテンセンは年に合わず聡明である。自分たちの知らないところで、逃亡を企てていたとしてもおかしくない。
「まさかとは思うが!」
思わず叫び、驚く部下に自分の考えを語れば。
「ありうることです」
と同意する。
まさかふたりだけで行動するとは考えにくい。集団で、新オンガルリを目指しているだろう。怪しくないように、一般的な旅の集団を装っているかもしれぬ。
そう考えているうちに、マントフード姿の旅の巡礼者の集団に追いつき。
「待て!」
道をふさぎ、驚く巡礼者一行を見据えるが。その中に子供はおらず、ちっと舌打ちし、そのまま馬で駆けてゆく。
巡礼者一行は呆気に取られて、見送るしかなかった。
そうやって追いかけてきているだろうと予想しながら、ラハマディは用心深く、余裕をもって歩を進めていた。
陽も暮れてきたので、ある村の宿で一泊し。翌朝あくびを噛み殺しながら出発した。
国境の町ロゲッジまではそんなに離れてはいないが、休まずに歩いても、二日はかかる。
それまでに追っ手に追いつかれずに済めばよいのだが。
「領土が少ないおかげで、最短の距離で行こうと思えば、国境の町がロゲッジしかないのは少々つらいな」
「そうですね。他にたどれる道筋があればよいのですが」
ラハマディのぼやきにモルテンセンが同意する。
「いたずらに遠回りして旧ヴーゴスネア地域にとどまるのも危ないしなあ。まあ、何事も完璧はないとはいえ。もし追いつかれたら、クネクトヴァとカトゥカの出番だぞ」
「ラハマディさんも腕に覚えがあるでしょうに」
クネクトヴァは苦笑しながら応えるが、ラハマディとモルテンセンはまるで参謀ふたりと言わんがばかりによく話し合う。
年の近いクネクトヴァとカトゥカ、ペロティアとはあまり話をすることはなかった。
「何を言う。オレの武術の腕は蹴球ほどじゃないんでね」
「蹴球をたしなんでいるのですか」
「ああ、守備でな」
「小龍公も大の蹴球好きとお伺いしますが」
「悔しいが、あいつは魔術師と言うだけあってなかなかの得点力だ。まるで球に魔法がかかったような動きを見せる」
「その言い方、小龍公と?」
「ああ、やられた。だがやられっぱなしはオレの趣味じゃねえ。また仕返しをしてやろうかと思っている」
「その時は、僕にも見せてくださいね」
モルテンセンにそう言われ、ラハマディはふっと笑みを浮かべて「ああ」と頷いた。
マイアは荷車に乗せられて、のんびり空を眺めて。そのそばにカトゥカとペロティアが寄り添うが。ふたりは目を合わせようともしなかった。
商人のひとりに馬を買い与え、先に新オンガルリに帰らせている。モルテンセンとマイアと合流したことを報せ、国境で出迎えをさせるためだ。
「しかしまあ」
ラハマディはぽそりとつぶやいた。
「政治なんて面倒くせえことがなけりゃ、このままのんびり旅をするんだがな」
気ままに旅と商売をしながら一生を終えられたマハタラの爺さんが、今になってうらやましくなってくる。
「でも、誰かがやらねば、秩序のない無法地帯になってしまいます」
「その誰かになるつもりか」
「……はい」
若いどころか幼いモルテンセンのしっかりした姿に、ラハマディは、
「たいしたもんだな。悪ぃが、頼んだぜ」
と言い。モルテンセンはふたたび「はい」と頷いた。
(ってゆーか、ラハマディさんったらモルテンセン様とため口でえらそーに……)
さすがのペロティアも敬語を使っているのだが、ラハマディは誰に対しても下手に出ることはなかった。
密使も世話になっている身ながら苦笑するしかなかった。ただ、そんなラハマディだからこそ、信用もできた。
表面上は礼儀正しくとも、心の中で舌を出していた者のなんと多かったことか。それらがついに、ほんとうに舌を出して、害そうとしている。
クネクトヴァとカトゥカは、真面目にやっているのだが、真面目にやりすぎてかえって空気をこわばらせてしまっていた。もし商人たちがいなければ、窮屈な逃避行になってしまっていただろう。
モルテンセンとマイアは、クネクトヴァとカトゥカと話すことはなく。従者として黙って寄り添う。
大人ならばそれでよいのだが……、正直、ふたりのこわばった様を見てモルテンセンは苦笑し、マイアはとっつきにくそうにしていた。
(まだ子供だからな)
やれやれと思いつつ、ラハマディはむしろ好意的に見ていた。この年から王侯貴族に取り入ろうとおべっかを使いご機嫌取りをするクネクトヴァとカトゥカこそ想像もできなかった。
ともあれ、その日は無事に宿で休めて。翌日、もうひと頑張りでロゲッジということで、皆気合を入れて、歩いた。と言いたかったが。
商人の中には、
「もう大丈夫だろう」
と鼻歌を歌う者まであった。
「でも最後まで油断はできません」
クネクトヴァは言い、カトゥカは頷き。商人はあくびをしながら、「考えすぎだよ」と軽く流す。
(あ、なんか嫌な予感……)
もうすぐで国境を抜けられるということのせいか、商団に緊張感が欠けるところが出てきた。ペロティアは気を引き締め、周囲への警戒を怠らない。
「おおーい」
何かに呼び掛けるような声がする。
おや? と越えの方を向けば、後ろから農夫らしい中年の男が手を振って追いかけて来る。
「あんたら商団じゃろう? ちと売ってほしいもんがあるんじゃがのう」
「へいへい。何が欲しいんだい?」
手綱を持つ商人は荷車を曳く馬を停める。乗っていたマイアは、ぽかんとしている。
「おい」
「いいじゃありやせんか。客がいりゃ商売をするのが商人でしょう」
商人は駆けてくる農夫に愛想笑いをする。しかし、荷車のマイアはその顔を見てとたんに顔をこわばらせた。
「あ、意地悪のポレスカル!」
声を張り上げて指さしたその瞬間、農夫はにやりと笑って荷車に飛び乗り、マイアを捕まえてしまった。
「あ、なにをする!」
「へっへへへ。ざまあねえな!」
嫌がってじたばたするマイアを太い腕で羽交い絞めにし、農夫、ポレスカルはにやける。
「マイア様!」
クネクトヴァとカトゥカはすぐに剣を抜き、対峙する。モルテンセンも目をいからしてポレスカルを睨み据える。
「しまった、向こうも変装をしてくるなんて……」
若い騎士見習いは歯噛みする。だがペロティアは冷静だった。懐からナイフを取り出すや、素早く投げ。
切っ先はポレスカルの眉間に突き刺さり。
「……!」
声にもならぬ声を発して、力が抜けたところをラハマディが荷車に素早く飛び乗ってマイアを奪い返して。
地面に飛び降りたと同時に、ポレスカルは倒れた。荷車の中でなので、商品を下敷きにし、物によっては壊れてしまったものもあった。だがそれを惜しむどころではない。
突然のことに道ゆく他の人々は驚き、悲鳴を上げて逃げ出す。
「人殺し!」
誰かが叫べば、丁度うまい具合に十名ほどの兵士が駆けて来る。
「やけに段取りがいいじゃないか」
ラハマディは眉をひそめる。誰かに農夫の格好をさせて近づけさせて、害を加えようとする。それが防がれて、返り討ちにされても――。
はた目には、先に農夫が手を出したとはいえ、過剰防衛にも映るだろう。実際、事情を知らぬ兵士は、「やりすぎだ!」と声を荒げた。
「違うんです、これこれしかじかの理由がありまして……」
などと説明できるわけもない。モルテンセンは顔を背け、マイアもラハマディに言われて兵士から顔を背ける。
密使も同じように顔を背ける。
その間に立つようにクネクトヴァとカトゥカ、ラハマディにペロティアが立つ。商人たちはモルテンセンらのそばに寄り添う。
「お前たち旅の商団か」
「はい」
「何ゆえ農夫に襲われたのか知らぬが、殺すことはなかっただろう」
「突然ことで、必死になって」
ペロティアは言うが、「ふん」と鼻で笑う者がいる。
「言い訳は役場で聞こうか。連行しろ!」
その声を聞いてモルテンセンとマイア、密使は不快な表情になる。護衛の隊長のバルカチラスだ。得意な顔をして、馬上から兄と妹を見据える。
彼はポレスカルと同じく、エレンフェレスの命で遣わされた者だった。
――話は少しさかのぼる。
バルカチラスは考えた。馬鹿正直に皆で追いかけずとも、一計を案じて兵士も同行させようと。
残りの者は帰して、腹心のポレスカルに農夫の変装をさせて先に行かせて、モルテンセンらを見つけさせる。
顔は知られているが農夫に変装しているので、すぐには気づかれないだろうという目論見は当たった。
それを兵士たちに秘密にして、少しあとからついてゆく。
実は同じ宿にいて、商団を見かけていたのだが。まさかそうとまでは気付かず。
役人の協力を仰いで、歩兵だが兵士を同行させ、ポレスカルの少し後を着いていった。
ポレスカルは、商団の荷車に女の子が乗っているのを見て。それと気付いて、農夫のふりをして近づいた。それからバルカチラスも「あいつらがそうだったのか」と気付いた……。
(まあしかし、我ながらうまくいった)
兵士は槍の穂先を突き出し、商団を包囲する。
「エレンフェレス様の側近・バルカチラス様のご命令である。来い」
マイアは怖がるあまり、こらえきれずに泣き出してしまった。それをモルテンセンが抱きしめる。
(妹か。優しいのだな)
兵士たちはモルテンセンとマイアのことは知っているが、顔は知らない。
腹心が犠牲になっても動じないバルカチラスはほくそ笑む。腹心ひとりでモルテンセンとマイアを捕らえられたのなら安いものだ。
「お待ちください」
クネクトヴァだった。跪いて、懇願するように言う。
「このふたりは怖がるあまり足が動きません。馬に乗せてよろしいでしょうか」
(何を馬鹿なことを言う!)
バルカチラスは「ならぬ」と言おうとしたが、事情を知らない兵士は兄と妹の様子を見て少しかわいそうな気もしていたので、
「いいだろう」
と、馬に乗ることを許した。
「ならぬ。自分の足で歩け」
許されて馬に乗ろうとする兄と妹を見てバルカチラスは慌てて言うが、兵士の壮年の隊長は、
「いいではありませんか。これくらい許してあげましょう」
そう言って、馬を荷車から放し、マイアを支えて馬に乗せてやるではないか。しかも、モルテンセンが乗るのまで手伝ってやった。
バルカチラスの顔は真っ赤だ。
「ありがとう」
マイアは涙声で礼を言い、隊長は笑顔で「なんの」と応える。
(良い人だ……)
「ごめんなさい! わああー!」
クネクトヴァは叫んで隊長に体当たりすれば。ふたりの乗る馬から離れて。その隙に、モルテンセンは手綱を握って、
「はいやー!」
と、馬を駆けさせた。
「や、や、これは!」
突然のことに兵士たちは茫然とする。異変を察した隊長は体当たりをしたクネクトヴァを蹴飛ばす。
怒号が響く。
空飛ぶ小鳥が少しばかり羽休めに地面に降りていたのが、驚いて羽ばたいてゆく。
ぶうん、と槍が、剣がうなる。
「モルテンセン様、ご無事で!」
ここは自分が命に代えても! 壮絶なる悲壮感をもって、クネクトヴァとカトゥカは剣を振るった。
ラハマディとペロティアら商人たちも、「ああ、もう。仕方ねえな!」と言いながら剣を振るった。
だが兵士も訓練を受けた戦いの玄人だ、そうやすやすとやられはしなかった。ことに隊長ともなれば、クネクトヴァとカトゥカのふたりがかりで襲われても、刃を巧みにかわして。斬撃を食わらそうとする。
刃が閃き、火花を散らす戦いがはじまり、繰り広げられた。
「馬鹿め、言わんことではない!」
バルカチラスは怒りで真っ赤な顔をし、自分の馬を駆けさせモルテンセンを追おうとしたが、密使は腕を広げてその前に立ちはだかる。
「邪魔だ、どけ!」
バルかチラスはかまわず駆けさせ。強い衝撃がして、密使は跳ね飛ばされてしまった。かと思われたが、すんでのところでかわして、騎乗の足を掴んで引きずられていた。
「モルテンセン様は殺させん!」
密使は血を吐きそうなほど叫んだ。
「ええい、小癪な!」
やむなく馬を止め、切っ先を下に、脳天めがけて剣を突き落せば。
とっさに逃げようとするが、密使は足にしがみついたまま、大口を開けたかと思えば。がぶりと、太ももにかみついた。
同時に剣が首の付け根に突き刺さる。
「うおお!」
激痛でうめくバルカチラスだが、相手はもっとひどい激痛に襲われて。噛む力が弱まって、ついに力なく倒れこんでしまった。
しかし、噛まれた太ももは肉をかみちぎられたようで。うまく力を入れて動かすことができず、馬を駆けさせられない。
「なんというやつだ!」
密使は多量の血を流して動かない。首の動脈を切られたようだが、それ以上に痛みから気を失ったようだった。
「モルテンセン様だと! どういうことだ!」
密使の叫びを聞いた兵士たちは、あらぬ名が出たことに驚き。相手と距離を取って、「待った」と言って一時休戦する。
「騙りだ、騙りだ! とっさの嘘だ!」
なるべくなら秘密にしておきたかったのは双方一緒だったが、密使は必死になるあまり名を出してしまった。
「そういえば、モルテンセン様とマイア様は国境の視察に行く途中でならず者に誘拐されて、行方不明になったと……。まさか、あれがそうなのか!?」
「そうだよ、あれがモルテンセン様にマイア様だよ!」
もうやけくそだとペロティアは大声で正体をばらした。
「騙されるな、こやつらは商団を装ったならず者だ。アラシアの手の者かもしれぬぞ」
「なんだこれは、わけがわからん……」
兵士たちは呆気に取られて、戦意を失ってしまったようだ。
(そもそも、バルカチラスはどうにも好きになれん!)
エレンフェレスに近しい者だが、それゆえに傲慢な振る舞いも多く、何かあれば「エレンフェレス様に言うぞ!」とご機嫌取りを要求するものだから、内心では舌を出している者が多かった。
なによりも、彼らはモルテンセンを慕っていた。ソケドキアの代官という立場だが、混乱の続いた旧ヴーゴスネア地域をよく治めていたのだ。
隊長も、国境の視察でモルテンセンに会えることを楽しみにしていた。
「ふむ……。しかし、今から追っても追いつけぬでしょう。とりあえず、死んだ農夫のことを調べてみましょう。あとは、それからということで」
そう隊長が言うが、バルカチラスは顔を真っ赤にしたままだ。なにより、足が不自由になってしまった。
密使は動かぬまま。息もしていない。
駆け寄りたいが、兵士と対峙もしているためそれもできない。クネクトヴァとカトゥカも、金縛りにあったように固まったまま、密使に目をやり、助かることを祈るしかなかった。
バルかチラスは眉をしかめた。足の怪我もある。ここは一旦引いて、まず治療すべきであろう。
腹心のことは、たとえばれてもエレンフェレスに言えばなんとかしてもらえるであろうし。
「やむをえぬ」
うめくように言ったとき、蹄の音がする。見れば、逃げたはずの兄と妹が馬首を返して帰ってきているではないか。
「この、糞馬鹿! なんで帰ってくんのよ!」
ペロティアはたまらず罵声を交えて叫んだ。せっかくの機会をみすみす逃すなんて。
ラハマディや商人たち、クネクトヴァとカトゥカも同じだった。あのまま馬を駆けさせて国境を超えると思っていたのに。
「私はモルテンセンだ! 殺すなら私ひとりだけ殺してくれ!」
見ればマイアはいない。
(この少し先に教会がある。そこに妹を預けたか)
隊長は察してモルテンセンを見据えた。幼さに合わぬ凛々しい顔つきで、自らをモルテンセンと名乗った。兵士たちの驚きは尋常なものではなかった。
「も、モルテンセン様だって!? ほんとうにか」
「偽物ではないのか? しかし、あの凛々しい顔。立派なたたずまい、身分卑しからざるものを感じるが……」
兵士たちの戸惑いも大きかった。
辿り着いた地で見るもの
バルカチラスはしてやったりとほくそ笑み、足の痛みをこらえて、渾身の力をこめて馬を駆けさせて。剣を閃かせた。
もうなにがどうなってもかまわなかった。モルテンセンさえ殺すことができれば。
密使は動かないままだ。どうやらこと切れてしまったようだ。
「危ない!」
クネクトヴァとカトゥカ、ラハマディは駆け出し。ペロティアはとっさにナイフを投げれば。
切っ先は馬の尻に突き刺さり。驚いて、前足を上げた。
「うおお!」
たまらず振り落とされて、地面にたたきつけられてしまった。だがそこで終わらず、剣を杖代わりに起き上がった。
とはいえその間にクネクトヴァたちは追いついて、バルカチラスを取り囲んだ。兵士までもが一緒になって。
「これはどういうことでござるか。納得のゆく答えをいただけるのですかな!?」
いかに怪しいとはいえ少年に向かいいきなり斬りかかるなど尋常ではない。よほどこの少年に生きられるのが不都合のようだ。
それがアラシアの手の者ならばよいのだが、名乗った通りのモルテンセンであれば……。
「ああ、くそ。もう終わった。エレンフェレスの命令をしくじってしまえば、生きておられぬわ!」
バルカチラスは血を吐くように叫んだかと思うと、杖代わりにしていた剣を振り上げて。瞬時に脳天めがけて振り下ろした。
「いかん!」
とっさに止めようとしたが、時すでに遅く。刃は持ち主の脳天をたたき割り。血と脳症が飛び散って。
自嘲と絶望をないまぜにした面持ちをして倒れこんで、ぴくりと痙攣してから、動かなくなった。
馬は薄情にもどこかへと駆けさっていった。
「なんなんだ、これは」
にわかに招集されたかと思えば、わけもわからぬうちにこの有様である。
モルテンセンは青い顔をして顔を背けていた。それに向かい、隊長はおずおずとたずねた。
「……あなた様は、ほんとうに、モルテンセン様なのですか?」
「そうだ……、モルテンセンだ。信じてくれるのか?」
「ならず者にさらわれたと」
「……、ここでは話もままならぬ。教会で話そう」
「はい」
部下の兵士に命じて死体を片付けさせるが、密使は、丁重に弔いたいと荷車で教会まで運ぶことにし。そのためにポレスカルと入れ替えられた。
少し行ったところに木造の簡素な教会があった。人里離れたところで修業をする修道士のための教会であった。
そこを預かる修道士と一緒に、マイアが出迎えて、モルテンセンに抱きついた。
「お兄さま、もう会えないかと……」
マイアは兄の胸で泣きじゃくった。その頭をやさしくなでる。
「ご遺体は我らがお預かりしましょう」
密使を修道士に預け、一同はあてがわれた部屋にあつまり。事の次第を語れば、兵士や隊長は目を見開いて驚くばかりだった。
「よもやそのようなこととは、露ほどにも思わず……」
隊長は申し訳なさそうにするが、秘密裡に事を運んでいたので、やむを得ないとモルテンセンは言った。
「バルカチラスが女王を呼び捨てにし、自害したとなれば、お話し疑いようもありません」
「皮肉なものだ。役目を励んだがゆえに妬まれ。かと言って、愚鈍ならばそれを理由に排除するであろう」
「恐ろしいお方であると思っておりましたが、なにもかもを、己の手で掴みたいのですな」
「あのシァンドロスの母らしいと言えば母らしいがな。……ただ」
モルテンセンは大きくため息をついた。
「密使を頼んだ彼は、残念だった。私のために……」
(ほんとに十とちょっとなのかこの人……)
壮年の隊長を相手に大人のようにふるまって話すモルテンセンを見て、ラハマディたち商人はぽかんとしてしまった。
マイアは安堵感ゆえに眠気に襲われ、頭を揺らして舟をこいでいる。
修道士は気を利かして、マイアを別の部屋に移して休ませた。
クネクトヴァとカトゥカは、じっと話を聞くのみだった。自分たちは、十分に働けただろうかと自問すれば、否であったような気がしてならない。
「クネクトヴァ、カトゥカ。このたびは私のために苦労を掛けた。感謝している」
「いえ、私たちは……」
どうにも、中途半端な感じがして、達成感がない。それを察して、モルテンセンは微笑んだ。
「そなたたちは来てくれると信じた。だからこそ、国境視察をでっち上げ外に出られたのだ」
「もったいないお言葉です」
「ふわあ」
空気を読まぬペロティアのあくび。彼女も安堵感から眠気に襲われてしまったのだ。
「あ、ごめんなさい……」
いいところでしでかしてしまって、気まずそうに謝る。ラハマディはたまらず「ぷっ」と吹き出しそうになったのをこらえた。が、ついに破裂して。
「わっはははは!」
と笑いだす。
「あはは!」
モルテンセンもつられて笑った。年相応の弾けた笑いで、ここだけ見ればやはりまだ幼かった。
明るい雰囲気になり、クネクトヴァとカトゥカも、中途半端感がいくらかほぐれて、気が楽になる。
だが、
「ゆかれるのですか」
そう言って、兵士たちは寂しそうだ。
彼らもモルテンセンを慕っていた。
長く混乱が続いたのがようやく終わると、希望を抱いていた。
「きっと、帰る。それまで待ってほしい」
「お待ちしております。もしお帰りにならなければ、新オンガルリに攻め入ってでも、連れて帰ります」
冗談めいていうが、その目は本気そうだった。
また追手が来ては面倒なので、少し休んで支度を整えなおして、教会を出た。
兵士たちは国境を越えるまで護衛すると言うが、モルテンセンは断る。
「逃げる私をお前たちが守ったなどエレンフェレスに知られれば、ただでは済むまい。追ったが逃げられてしまったと、報告するのだ」
「はい。……お帰りをお待ちしております」
「うん。それでは、しばしの別れだ」
クネクトヴァとカトゥカはモルテンセンに寄り添い。マイアは眠気のため力が抜けて、それを荷車に乗せて。ラハマディが手綱を引いて馬に曳かせて。
一同は国境をめざして、再出発した。
兵士たちはそれらの背中をしばし見送り、任地の町へと戻り。言われた通りに報告をした。
モルテンセンの預かっていた旧ヴーゴスネア地域は大騒ぎになるだろう。それを思うと心が痛かったが、無理に踏みとどまったところで、蛇のように執念深くエレンフェレスは害そうとするだろう。
「王族に生まれると言うのは、一種の呪いのようなものだ」
しみじみと言えば、クネクトヴァとカトゥカは、「いいえ」と言う。
「我らが命に代えてもモルテンセン様とマイア様をお守りし、呪いを祝福に代えてみせます!」
マーラニア出身の若い騎士見習いを見て、モルテンセンは少し不思議な気持ちに駆られた。
商人たちも出身地はばらばらだという。そういった者たちが、一緒になってことをなしたのである。
それがどういうことなのか。
「そうだな。あなたたちには無茶なお願いをしたが、それを果たしてくれた。呪われている者に、そのようなことは起こらないな」
笑顔で言えば、ふたりも笑顔になり。雰囲気が朗らかになる。
「カトゥカの取り合いにならなきゃいいけどね」
ペロティアはぽそりとつぶやき、ラハマディは苦笑しながらたしなめる。
そんなこんなで旅を続けて、ついに、国境を越えて新オンガルリに入った。
旅の商団を装い、旧ヴーゴスネア側の国境警備の兵士らはころりと騙されて。まんまと通してしまった。
ここら一帯は平地が多く、高い山はなくせいぜい丘陵地帯のなだらかな地形である。それは移動のしやすさであり、人の動きも促したが、ある意味では戦争にしやすさでもあった。
荷車に揺られるマイアだったが、安全地帯に入ったことを知り。笑顔を弾かせる。
「なにあれ?」
最初の町の手前で、人が集まっていて。それを指さす。
「あれは……」
モルテンセンも何事かと思って見れば。ラハマディは、うずうずして、
「悪ぃ、ちょっくらいってくらあ!」
そう言って駆けだし、人の集まりの中へと飛び込んでゆく。
「ああ、蹴球をしているんですね」
見れば人々が集まり、ひとつの球を巡って駆けまわっている。
「あれが蹴球か。話には聞いていたが、見るのは初めてだ」
「みんな楽しそう」
興味をそそられてモルテンセンとマイアも見たいと言うので、ラハマディに着いていった。
「おらあ、もっと気合入れて打ってこいや!」
迫る球を拳で弾いて、ラハマディは気合を込めて叫ぶ。突然来て、驚かれたが、しっかり混ぜてもらっているようだ。
わいわいがやがやと集まった人たちは好きなように騒ぎながら蹴球を楽しんでいた。見物人の中には、酒を喉に流し込みながら、あるいは子供はお菓子を食べながら、「いけいけー」と上機嫌に囃し立てる者もあった。
そこには邪気も瘴気もない。
「こんなにたくさんの人たちが、楽しそうに……」
それはモルテンセンに少なからぬ衝撃を与えた。それまで生きてゆくのに必死で、人生に楽しみなど感じる余裕はなかった。
だがここはどうか。多くの人たちが、ほんとうに楽しそうに、顔をほころばせている。この世にそんな場所があるなど、にわかには信じられなかった。
「いいなあ」
ぽそっとつぶやけば、近くにいた子供たちが、脇に球をもち、
「ちょっと人数が足りないんだ、おまえたちも一緒にどうだ!」
などと言ってくる。モルテンセンやクネクトヴァにカトゥカは平民の服を着ているので、その正体を想像することもなかった。
「え、でもやったことない……」
「いいじゃねーか、こまけえことは言いっこなしだ!」
子供たちは少々強引にモルテンセンやクネクトヴァ、カトゥカの腕を引っ張る。人に命令されるのが嫌いなペロティアはそっぽを向いている。そのそばでマイアは、幼すぎるとさすがに遠慮されたが、引っ張られてゆく兄の困ったような笑顔を見て、
「私も!」
そう言って駆け出し。
無視を決め込んでいたペロティアだったが、マイアが駆けてゆくのを見て、
「もう、誰がお守りするのよ」
ぶつぶつ言いながらついてゆき。成り行きで子供たちの蹴球遊びに付き合うことになってしまった。
蹴球など初めてのモルテンセンは戸惑いながら球を追いかけようとして、転んでしまった。マイアも同じようによく転び。それをはらはらしながらクネクトヴァとカトゥカが寄り添うが。
「お前、下手だなあ。こうするんだよ」
蹴球は中断されて、子供たちはモルテンセンとマイアに手ほどきしてやる。
「ちょっと、どこ触ってんのよ!」
「別にそんなつもりじゃねーよ!」
マイアの指導を巡り、ある子供とペロティアが衝突する。もうなにがなんだかで、しっちゃかめっちゃかだ。
だが、兄と妹は楽しそうだった。その顔には笑顔が絶えなかった。
他の商人たちも楽しそうに見物を決め込んで、いつの間にかのんきに酒を飲んでいる。
「決めた」
モルテンセンは球を追って駆けながら閃いた。
「僕は、こんな風に好きなことに夢中になれる世の中をつくるんだ。大人たちの争いなんか、糞食らえだー!」
思い切って蹴れば、球は太陽に向かって勢いよく飛び上がっていった。
章要塞島にて
船は波を蹴って進む。
海洋民族としての身軽な装いをしたコヴァクスとニコレットたちを乗せた船団は、カリアルソナスの要塞島に近づいていった。
「なんて島だ」
思わず唸った。
石を積んだ城壁が囲む様相に、思わず息を飲む。こんな島を力で攻めれば、返り討ちに遭いかねず。よしんば勝っても損害は大きいだろう。
「確かに、鼠のように忍び込んで、シァンドロスを討つしかないな」
いい加減大陸の文明交差点は戦争が多い。これ以上の大きな戦争は避けなければいけなかった。
「何があっても驚かねえでくだせえよ」
船団の長が言う。
船団はだいぶ島に近づき、もうすぐ着岸する。
この船団とシァンドロス側の海洋民族の間ですでに話はついており。そのおかげで手際よく着岸し、主要な者たちは上陸し城門をくぐる。
コヴァクスとニコレット、ソシエタスに龍菲はシァンドロスらに顔を知られている。そのため敢えて船に残り、その他の者、ヤノーシェとアッティが長についてゆく。
要塞島だけあり、島全体に張り詰めた緊張感が漂っている。
城壁の中は城塞都市として、簡素ながら石造りの建物が整然と並んでいる。
案内の者にある建物に連れてゆかれる。そこは広い建物で、中に入れば長いテーブルがならびその上に様々な料理が置かれていた。
窓も大きめで陽光がよく差し込み、明るい雰囲気を醸し出している。
そこで海洋民族の主要な者たちで酒宴を催すという。
「いよ、待ってました」
ヤノーシェは素直に喜び、アッティは苦笑する。
「失礼」
ある者の隣に腰を掛ける。
ふと見れば、隣の者は黒髪に碧い瞳の若者だった。旅のアラシア人商人たちだといい、銀糸を織り込んだような頭髪の男もいれば、いかめしい壮年の男に、美しい金髪の少女にお転婆そうな少女もいる。
アッティは思い切って声をかけた。なんらかの情報が得られればと。
「私はシァンドロス様に資金の提供のために来ました」
「ほう、それはそれは……。アラシア人のあなたが」
しかもまだ若い。どこかの大商人の御曹司だろうか。
「シァンドロス様こそ、新たな世界を切り開かれる先駆者とお見受けして」
「なるほど……」
「して、あなたはなんのために?」
「私ですか」
問い返されて、思わず答えに詰まった。
「決まってるじゃねえか、美味い酒に美味い食いもんのためよ」
もう杯をもってヤノーシェは言う。若者は愛想のよい笑顔を作り、かるく会釈をする。
「皆さま、ようこそおいでくださいました! ささやかながら、御礼の酒宴を開きますので、ここで英気を養ってくだされ」
誰かがそう言えば、言われるまでもないと、並べられた酒や食事があっという間に消費されてゆく。
「毎日こんな様子なのか」
「私も先ほど来たばかりですが、そのようです」
「なんという大盤振る舞い」
アッティは圧倒されてしまっていた。隣のヤノーシェはひたすら飲み食いして場になじんでいた。
(同じオンガルリ人とはいえ)
船団の長は、このふたりには生い立ちに大きな違いがあることがよくわかった。それが一緒になってことをなそうというのである。
大盤振る舞いは島を囲む船にもであり、小舟で酒や糧食が運ばれてきて、
「さあ、飲め、食え」
と放り込まれる。
「私たちは乞食ではない!」
ニコレットは思わずそう叫びそうになった。シァンドロスにハルシテミアは、このような大盤振る舞いで人心をとらえているようだった。
「オレたちは貴族として、騎士として育てられたが。多くの人々はそうではないんだな」
運ばれる飲食物と、素直に喜ぶ兵士や船員を目にしながら、コヴァクスはぽそりとつぶやいた。
「難しいことを考えずに、飲み食いした方がいいんじゃないかしら。しかめっ面して真面目ぶったら疑われるかもしれないわ」
龍菲は言いながら兵士や船員に交じって飲み食いを始める。
「見破られないためには、仕方ないな」
コヴァクスも飲み食いの列に連なり。
「やむをえん」
ソシエタスも列に連なり。
「……。お父さま、お母さま、お許しください」
ついにニコレットも陥落して、列に加わった。
船団の船員は機嫌よく飲み食いしている。それを見て、
(まさか、シァンドロスの側につこうという気になるのではないかしら?)
ニコレットはそんな不安に襲われたが。
「安心してください、裏切りませんよ」
と、一緒に残った船団の副長が言う。
「こんな大盤振る舞いをする者は、人をよく見ぬものです。所詮は乞食と、どこかで馬鹿にしています」
「目先の欲求に負けて、道を誤りたくないものね」
龍菲がぽそりとつぶやけば、副長はにこりと微笑んで頷いた。
それを聞き、コヴァクスも強い実感をもって頷いた。
さて、島に上陸したアッティたちといえば、隣の青年がよく気をかけて話しかけてくれたものだった。
「あなたは、海の人ではありませんね」
そう言われてぎくりとして、それを顔に出してしまった。船団の長は、
「こいつぁ新入りですからなあ」
酒をごくごく喉に流し込み、げっぷをしながら言う。
「ははは。心配ない、我らも陸の者。船は苦手だ」
銀糸を織り込んだような頭髪の者と、その隣のいかつい壮年も酒を喉に流し込みながら、がははと笑いながら言う。
ふたりの少女はおしとやかにして、黙っている。が、黒髪の少女は、銀糸を織り込んだような頭髪の男をきっと睨み付けて、
「飲みすぎではありませんか」
などと突っ込むが、いいじゃないかと流され。頬を膨らませる。
(なんだか不思議な人たちだな)
アッティは強い興味を覚え、
「これも何かの縁、友人になりませんか」
そう言えば、黒髪碧眼の青年はにこりと微笑み。
「いいですね。友人になりましょう」
と言い、杯を掲げ立ち上がれば。残りの者も続く。
「新たな絆に、乾杯!」
そう言い合い。互いに杯を触れ合わせ、相好を崩した。
この酒宴の席はいつ入るも出るも自由なようで、様々な人々が出入りしている。黒髪碧眼の青年は、自らをムスタファと名乗り。
「続きは私の部屋でゆっくりと」
そう言うので、酒宴の席を離れてムスタファの部屋に向かった。
一旦「町」に出て、あらためて要塞島の城塞都市を見回せば、強固な城壁に屈強な兵士が立ち。さらに「町」の中にも兵士が立ち、周囲ににらみを利かせている。
(シァンドロスも馬鹿じゃないだろうから、この中に怪しい者がいることもわかっているだろう)
しかしわからないものだ。コヴァクスが失踪したときはまさかと思ったが、その失踪のおかげで、こうしてカルトガのポエニキア人船団と組めて、要塞島に入り込めたのだ。
それがなければ、いまだにロヒニで悩みあぐねていただろう。
アラシアのダライアスの軍勢が海を前に立ち往生している。そんな報せが駆け巡り、一同の耳にも入り。
「わはは!」
と、ムスタファの連れの男ふたりは豪快に笑った。
(ううむ)
船団の長はムスタファたちを不思議そうに見る。ムスタファは好んで乱に飛び込むような人相ではなさそうだった。
その目つきは鋭くも人情味を帯びて、卑しい性格ではなさそうで。道理をわきまえてもいそうにも見え。
シァンドロスやハルシテミアに賛同しそうには、見えなかった。
シァンドロスとハルシテミアは常にふたり一緒にいて、夫婦仲の良さを見せつけていた。
軍議の際には、強気なはずのハルシテミアはシァンドロスに意見せず、常に三歩後ろに下がるようなしとやかさを見せた。
ハルシテミアを知る者は、この変わりように度肝を抜かれたものだった。
軍備は着々と整い、いつでも来いと、兵士や海洋民族たちは戦いを心待ちにしていた。
シァンドロスとハルシテミアはもったいぶることをせず、「町」へもよく顔を出し。ともに酒を飲み、激励をし。要塞島をひとつにしようとつとめた。
その甲斐あり、士気は高い。
そんな時にダライアスの立ち往生の報せ。海を前に立ち往生しているという。
「猫は泳げぬからな」
そう笑う者もあった。
クゼラクセラたちも、
「そうだ、あれは猫だ」
と、一緒に笑った。
中には、
「いっそ大陸へ打って出よう」
そんな意見も出た。
さすが獅子王、諸王の王と称されるだけあり、動きは早かったが。それと引き換えのように、動きが止まると、岩のように動かなくなった。
そこに勝機を見出す者がいたとて、不思議ではない。
「ダライアスがな」
シァンドロスは報せを受けしばし考え、
「怪しい」
ハルシテミアはそうぽそりとつぶやいた。
丁度城壁に上がり、騎士や兵士に接し、中の「町」を、そとの海を見下ろしていたところだった。
「町」はにぎやかになり、海は船が増えた。
臣下や海洋民族はどうするのだろうと思ったが。
「だが、もうよい頃合いではないか」
ハルシテミアはそう進言する。
さらに聞けばアラシアの海軍も結集しているという。だがダライアスは船に乗り込もうとしないのだそうだ。
「相手に合わせてこちらも動きを止める必要もあるまい。初めの挨拶をしようではないか」
端正な顔を少しばかり上気させて言う。戦いを思い浮かべて高揚感を覚えたようだ。
積極的な妻の進言にシァンドロスは「うむ」と頷き。船に指令を飛ばした。
海上の船団は一気に慌ただしくなった。
「アラシア海軍と戦う!?」
そんな指令がコヴァクスのもとに来て、戸惑いを覚えたが。
「今日来たばかりの船は休んでもよいということです。ただし、明日からは働いてもらいますぞ」
「心得た」
龍の騎士団と黒軍の騎士や兵士に、カルトガのポエニキア人たちとともに飲み食いしているさなかに指令が飛んできて。一気に緊張が走ったのだが、休んでよいと聞き、ほっとした。
が、ゆっくりはできない。
うかうかしていれば、アラシアと戦わされてしまう。もちろん断ることはできない。
指令が去ったあと、主だったものが集まり。
「明日の夜明けまでには何らかの行動を起こさなければ」
と話し合った。
「船が動く。まずはそれを見てみましょう」
船団の副長は言い、それに従い外の様子を眺めた。
大小さまざまな船があり。船員が威勢の良い掛け声を上げながら持ち場でよく働くさまが見受けられる。
船のほとんどは横っ腹から多くの櫂が突き出ており、それが前後に動いて海を進む様は、まるで木でできた虫が海の上を這うようでもあった。
地中海は一見波も低く穏やかそうだが、潮流は早く陸地に囲まれた関係で風も不安定で、帆の出番は少ない。ロヒニを出発するときに帆を張れたのは奇跡のようなもので、
「こりゃあ幸先がいいぜ」
と顔をほころばす船員もいたくらいだった。
コヴァクスとニコレット、陸の者たちは固唾をのんで船の動きを見送った。
島はここだけではなく、他にも飛び石のように海に浮かんでいるのが見えるが、小さな無人島で。それを改修し港にして、波に揺られた身体を休める場所にもしていた。
そこにも集まっていた船が、櫂を動かし波を蹴って動き出す。
「それにしても……」
副長はぽそりとつぶやく。
「誇り高い海の者たちが、こうも多く釣られてしまうとは。シァンドロスにハルシテミアとは、どれほどの者なのか」
そんな海洋民族の船が、ひときわ豪華なつくりの船たちを囲んで護衛している。あの船はと問われて、
「あれはアタナイ海軍の軍船ですな」
答えを聞いて、驚かずにはいられなかった。シァンドロスはアタナイを掌握しているので、海軍も動員できるだろうか。実際に目にしてみれば、その威容に威圧感を覚えずにはいられなかった。
「西と東が衝突する、いや、させられようとしている……!」
コヴァクスは歯噛みしてつぶやいた。
要塞島では、ムスタファの部屋に招かれてアッティたちは歓待を受けていた。
部屋は大きな四角い建物で、その中に複数の部屋がつくられて、その一室をあてがわれていた。
外から見れば何の変哲もない石造りの四角い建物だが、中は絨毯も布かれてまるで城の中にいるようであった。
その絨毯の上に座り、一同円になり盆の上の酒や食い物を囲む。
島の建物はほとんどがそんな造りであるという。
(まあ狭い島だしな)
酒はさっきよく飲んだので、それ以外の、果物の汁を絞り水と混ぜた軽い飲み物が出された。
にわかに騒がしくなったことは一同も察するところであり。
軽い挨拶代わりにダライアスのもとに向かうという報せを受けて、
「なるほど」
と軽く受け流す。
「いよいよ始まるのですな」
「時代は大きく動き出そうとしていますね」
「恐ろしくは感じませんか」
ムスタファはそう聞かれて、にこりと微笑んだ。
「恐ろしくは感じません」
「左様で」
「おい、なにしみったれていやがるんだ。せっかくの美味い食いもんに酒がまずくなるだろう」
ヤノーシェは少し機嫌を損ねたように言う。彼にとって時代の変化よりも酒や食い物が大事なようであった。
アッティもはっとして、気をとりなおして飲み食いをすることにした。怪しまれないように、遠慮をするなと言われているので、いかにも嬉しそうに手を付ける。
ふたりの少女は互いに目配せし、アッティを挟むように座った。
「ああ、お気遣いなく」
やや照れくさそうにアッティが言うやいなや、黒髪の少女と金髪の少女は短剣を素早く取り出しアッティの首に突きつける。
「てめッ!」
ヤノーシェと長はとっさのことに飛び上がろうとしたが、こちらは男ふたりがたちはだかった。かと思えば、ムスタファも素早く剣を持ち、臨戦態勢だ。
「ええい、だらしのねえ!」
長とヤノーシェはアッティを睨み付け。内心で船に置いていけばよかったとうめいた。
「お前たち、何かたくらみがあって島に乗り込んだのではないか」
「ちぇ、ばれちまったか」
「馬鹿、とりあえずでもすっとぼけるもんだ」
ヤノーシェは素直にばれたと言い、長はまゆをしかめた。アッティは両手に花どころか刃を突きつけられて動くに動けない。
(まさか……)
気になることがあった。
「オンガルリにゆかりある者か」
試しにそう言ってみれば、アッティの眉がぴくりと動いた。
「言葉遣いこそグレース語を話しているが、言葉の響きがオンガルリで聞いたことがあるようなものだったので、不思議に思ったが」
島では母語を伏せグレース語を使うように打ち合わせていたが、微妙な韻まではごまかせなかったか。
いや、それよりも。
「なぜオンガルリとわかる? オンガルリにいたことがあるのか」
「ある」
アッティの問いにムスタファは答えた。
「ずいぶんと見聞を広めているものだな」
「……。そういうそなたも、身分卑しからぬものであろう。騎士か。勇敢そうだが小細工は下手と見える」
長は人選に失敗したと悔いた。
(終わった)
この潜入作戦は失敗したと、暗澹たる気分になる。ヤノーシェなどは顔を真っ赤にして、いつやけのやんぱちの爆発を起こすとも知れなかった。
「小龍公と小龍公女に近しい者か」
「言わぬぞ。これ以上余計なことをしゃべってたまるか」
「彼は小龍公と蹴球で手合わせしたいと思っているのだが、受けてくれるか」
「はあ?」
ムスタファは銀糸を織り込んだような頭髪の男を指さし、蹴球でコヴァクスと手合わせしたいと思っていると言う。
これにはアッティたちは呆気にとられた。この者たちは何者で何を考えているのか。
「な、なんだ、お前たち。何者なんだ」
「アッティさんよ、そんなことを言って素直にしゃべってくれるわけねえだろう」
「……我こそ、アラシアの王ダライアスである」
「ほら見ろ、派手な嘘ではぐらかそうとしたぜ」
長がアッティに突っ込むのを見て、ダライアスと名乗ったムスタファは苦笑するが。銀糸を織り込んだような頭髪の男は、ぷっ、と笑うのをこらえていたがついに辛抱たまらず、
「わはは! もうだめだ、わっはははは!」
大声をあげて爆笑する始末。それを、
「もう、はしたないわねえ」
と、黒髪の少女が呆れたように言うが、金髪の少女は、
「ふふ、うふふ……。申し訳ありません、私も、もうだめです。うふふふふ」
つられて一緒に笑いだし。刃が光る光景の中、なんだか間の抜けた笑いが広がる不思議な空間ができあがった。
「ええ~? ヤースミーンまで一緒に笑うことないでしょう」
「ごめんなさいパルヴィーン。でも、ほんとうにおかしくて」
ヤースミーンは笑いがとまらず、刃を持つ手も揺れて。切っ先がアッティの喉元をつっつく。
「え、あ、危ない!」
「あ、ごめんなさい! そんなつもりは」
さっと短剣を引くヤースミーン。その代りのように、パルヴィーンが短剣をしっかり突きつける。
「ん……、待てよ。ダライアスのことを風のうわさで聞いたことがあるが。夜をいただくような黒髪に碧い眼とかじゃなかったか?」
ヤノーシェは記憶の糸を手繰り寄せるように、聞いた話を思い出そうとする。
「そんなやつぁアラシアじゃなくてもいくらでもいるさ」
「でも長さんよお、副将もたしか、銀糸みたいなのが頭にあるって聞いたぜ」
「ん、そうだったかな?」
ムスタファ=ダライアスの目が光る。
「よく知っているな」
「前の大将はよく情報を仕入れていたからな。アッティさんよ、お前さんもそうじゃないのか」
「ううむ、言われてみれば」
アッティとヤノーシェはまじまじと相手を見据えた。
ダライアスたちを直に見たことはないが、その容貌がいかなるものかに関しての情報収集には気を配った。
「お気に入りの侍女は、金髪に黒い瞳……」
アッティの目がヤースミーンにゆけば、恥ずかしそうにうつむかれる。
「そこまで探っているの?」
そりゃまあそうだろうと思いながらも、実際に聞けばいい気分はしないものだった。
「聞いた話と一致する。ほんとうに、獅子王子、いや獅子王ダライアスなのか」
「そうだ。信じてくれるか」
アッティを見据える碧い瞳には寸分もおふざけはない、真剣そのものの目をして、輝いている。
「よし、なら副将もほんものかどうか腕比べだ!」
ヤノーシェが突然駆け出したかと思えば、
「面白い、このイムプルーツァ、受けて立とう!」
「きゃあ!」
あまりのことに驚いてふたりの少女は飛びのき。その直後に男ふたりが組み合った。
「オレはクシュティーも強いぞ」
「抜かせ、オレだってマストゥオーキラ強いぜ!」
互いの方を掴み合い、それぞれ足を踏ん張り。力を込めて後ろへ押し出そうとする。
古来より伝わる伝統武術というか、グレースのパンクラチオンのような無手の格闘術は各地に存在するが。アラシアではクシュティーと呼ばれ、オンガルリではマストゥオーキラと呼ばれていた。
狭い部屋で飲み物や食べ物を置いた盆もひっくり返り。ふたりの少女は口を手で覆って。ムスタファ、いやダライアスともうひとりガアグルグは、
「まったくもう」
と言いたそうに苦笑している。
「何事だ!」
どかどかと軍靴の音を立てて兵士が数名駆けつけて来る。騒ぎを聞きつけたのだろう。
「やあッ!」
互いの肩を掴んでいたのが、イムプルーツァは素早い動きを見せて懐に飛び込んだかと思えば、ヤノーシェを持ち上げそのまま床にたたきつけて。
肩を押して床につけた。
これに驚いて兵士は固まってしまった。
勝負は一瞬でついてしまった。
「ふん」
鼻で大きく息を吐きだすと、ヤノーシェから離れてダライアスの前まで来て跪いて、
「お見苦しいところを……」
と詫びた。
倒れたままヤノーシェは茫然として天井を眺めていた。
「よい」
ダライアスは兵士のもとまで来ると、
「申し訳ありません。酒の席での喧嘩です」
そう言いながら、貨幣の入った袋を兵士に手渡す。
それなら仕方ないが、以後気を付けるように。と言って、兵士は袋を大事そうに持って離れていった。
「ああ、くそ、やられた」
ヤノーシェは半身を起こし、頭をかきかき、面目なさそうにつぶやいた。
「兵士に気をつられたのか」
「そんなへまはしねえよ長さん。ほんとうに隙を突かれちまったんだ」
「なんとまあ」
アッティはあまりのことにため息をついてしまった。突きつけられる刃もなく安堵をするよりも、こんな展開になったことへの驚きが大きかった。
「これで信じてくれるか?」
「ああ、信じるぜ」
ダライアスの問いかけにヤノーシェは憮然としながらも答えた。
「それにしてもたいしたものだな。顔を隠さずに島に入ったが、誰も我らに気づかなかった。それを、そなたは気づくとはな」
「聞いた情報は忘れるなって言われてたんでね」
「前の大将とやらは、よく部下を訓練しているものだな」
(カンニバルカはほんとうに有能な将軍だったのだな……)
アッティは茫然とする。
流浪の身から一軍を、黒軍を預けられる将軍の身にまで出世したのは伊達ではなかったということか。
「それより、飲みなおして落ち着こうではないか」
ガアグルグが言い、ダライアスは「そうだな」と頷き。他の使用人を呼んで部屋を片付けてもらった後、改めて飲み物や食い物を出してもらって。
それらを中心にして、ふたたび円になって座った。
それから隠し事なく、ほんとうのことを話し合い。
話を聞けば聞くほど、アッティたちは圧倒されてゆくのを禁じ得なかった。
目の前に、ダライアスがいるという事実。
あれだけ敵視し、首を取ってやると思っていたダライアスがいるのだ。
夢の中に放り込まれたのではないかと思っても、無理もないことだった。
「まさかこんなことがあるとは」
アッティはそう思わずにはいられなかった。が、そこは騎士である。気を取り直し。
「それで、どうします」
丁寧な口調ながら、ダライアスを見据えた。
目的は同じだった。大きな戦争になるのを避けるために、隠密に忍び込んでシァンドロスを討つ。まさかダライアスがそんな大胆なことをするとは思わなかったが、味方が増えればそれだけやりやすくなるというもの。
「ことを急がねばならん。ついに海軍が動き出した」
沿岸のアラシア海軍とぶつかるのまでに一日。その間に決着をつけたいという。
それまでに、どうやってシァンドロスに近づくのか。
「……」
ダライアスはしばし考えを巡らせ、アッティたちを見据えて。
閃くものがあった。
「こうしてはどうか――」
「本気ですか……!」
ダライアスの出した案に、アッティたちは驚かずにはいられなかった。
(このお方は獅子王、諸王の王のみならず、冒険王であるな)
長もヤノーシェもそう思わずにはいられなかった。
ところかわって、船上のコヴァクスたちはといえば。じっとしているしかなかった。
いっそ今ここで戦いを始めようという気持ちもあるが。混戦になればシァンドロスに近づく機会を逃してしまうかもしれないし、ともすれば海洋民族に囲まれて殲滅させられかねない。
神が船を砂のように海にばらまいたかと思うほどに船は多い。海洋民族のことはよく知らないが、陸の政権に対していい印象を持っていないどころか憎悪すら覚えているようだった。
「陸を追われて海に出た者が、それだけ多かったということか」
「そうです。故地を追われ、海に出て、新天地を求め……。新天地を見つけられた者はよかった。しかし、海にとどまった者もまた多く」
コヴァクスは副長から話を聞き。感慨ぶかげに船たちを見回した。
なんらかの機会を掴むまでは待機ではあったのだが、敵地にいる緊張感と、なみもかもが初めて見るものばかりの新鮮さのおかげで退屈することはなかった。
要塞島は狂気に溺れる
島の外周を城壁が走り、その中に城塞都市が築かれ。その中央にひときわ堅固な二階建ての建物があり。それが本拠地とされ、シァンドロスたちが滞在していた。 シァンドロスとハルシテミアはよく要塞島の各所を回り、将兵や使用人、海洋民族を激励して回った。
その時も城壁を回って下りたところだった。
「なに……」
報せがあると兵士が駆けつけて、聞いてみれば。
「アラシアから忍び込んだ隠密の者……。どれ、ひと目見てくれようか」
早速本拠地に戻り、将兵の迎えを受けて一階の大広間へゆく。
大広間の床は平ら。椅子が十数脚置かれている。シァンドロスとハルシテミアの配慮で要塞島に集まる者たちに上下の別はないという意思を示すため、上座はもうけられていない。
椅子もだれがどこに座るという決まりはなく、シァンドロスとハルシテミアこそ一番奥の椅子に座り皆を見渡せる位置にいるが。その他の者たちは空いているところに好きなように座る。
海洋民族は奔放に生きてきた。そのため礼節に疎いところもあった。そんな彼らも、このおかげで苦労せずに済んで。それがシァンドロスへの忠誠を誓わせてもいた。
「やはりここの雰囲気は良い」
「我らは陸の者、とくに王侯貴族から野蛮人と見下され、冷遇されてきた」
「犠牲を払いながらそれらのために戦っても、野蛮人だからと、冷たくされたもんだったなあ」
そこに集った海洋民族の者たちは嬉しそうにそう語り合った。
気前もよく、楽しく飲み食いできる日々を送れて士気も高く。仲間たちがアタナイ海軍とともに意気揚々と出撃をしたばかりだ。
主要な者が集まったところで、兵士に言って。連れてこさせれば。
三人の男が縄で縛られたひとりの青年を曳いてくる。
「跪け!」
言われて青年は無理やり膝をつけられ。シァンドロスを睨み据える。
艶のよい黒髪に碧い眼の青年であった。
「ほう」
隠密の者というからどんな者かと思えば。陰のあるみすぼらしい者と思っていたが、なかなかどうして凛々しい美青年ではないか。
「この者、アラシアの豪商の御曹司を装い、島に侵入しておりました」
そう言われて、シァンドロスとハルシテミアはじっと青年を見据える。
「なに見てやがる!」
粗暴そうな男が青年の頭を掴んで力づくでうつむかせる。
「お前は、新たな時代を見たいと来ていたのだな。あれは嘘か」
ハルシテミアは問うが、青年は無言で応えない。
「こんなやつ、殺してしまえ!」
そんな声も上がるが、シァンドロスはそれを制し、ふたたび問う。
「ダライアスの手の者か。と問うたところで、何も答えまいな。さて、どうしてくれようか」
「他の仲間もおったであろう、逃したのか」
「申し訳ありません。その通りで」
「抜かったな。人相は覚えているであろう。すぐに人相書きを書かせよう」
ハルシテミアの鋭い視線が、縄を曳く三人に突き刺さる。
(なんと美しい。それだけに、恐ろしい)
なるほどシァンドロスでなければ、夫になれないだろう。ついそんなことを考えてしまった。
「しかし」
シァンドロスは青年を見据える。
「隠密の者にしては、いい顔をしている。いや、よすぎるな」
立ち上がり、青年のもとまでゆき、身をかがめて顔を近づける。その瞬間、青年の頭がシァンドロスに迫る。
頭突きを食らわせようというのか。シァンドロスは素早く立ち上がって避けた。しかし、こんどは腕を掴もうと青年の手が迫る。
「何ッ!」
縄はほどけ、青年は自由の身になっていた。いかにシァンドロスとて意表を突かれて、動きが鈍り。二の腕を掴まれてしまった。
「曲者じゃ!」
ハルシテミアも立ち上がり、そばの小姓から剣をぶんどり、青年に斬りかかる。
縄を曳いていた三人は、他の者たちに襲い掛かり。剣を奪い、ハルシテミアに斬りかかる。
「はかったな!」
三本の剣に襲われてとっさに後ろに飛び下がり、一振り弾き返す。
おのれ! という怒号が響き、刃が閃く。
そこは戦場に変わった。
シァンドロスは二の腕をつかまれはしたが、素早く蹴りを繰り出す。だがそれを膝で受けられて、投げ飛ばされようとする。
「獅子王子から離れろ!」
後ろから剣を振るうのはガッリアスネスであった。その斬撃鋭く、隠密の者はやむなく手を放して剣を避けたが、鋭い斬撃は二度、三度と迫ってくる。
外では、中の騒ぎを聞きつけ何事かと皆驚いたが。同時に「わあ」という鬨の声がし、瞬時にして刃が閃き林立する。
「反乱か!」
人々は心臓が口から飛び出そうなほど驚き、逃げ惑い。それを尻目に、蜂起した反乱軍は本拠地へ駆けた。
島を囲む船の者たちも異変に気付き、何事かと縁に駆け寄って城壁を眺める。
怒号や悲鳴、人が獣と化したような感じ。
それは、城塞都市が戦場と化したことを意味していた。
「何事だ」
城壁内の異変に気付いてコヴァクスたちも船の縁で様子をうかがった。それを見て龍菲は言う。
「島へ上がりましょう」
「もしかしたら、私たちの他にも、忍び込んで事を起こす者が?」
「かもしれないわ」
珍しく龍菲とニコレットの意見が一致し。それを聞いたソシエタスも、そうかもしれないと頷き。島に上陸することにした。
城門は開かれている。
「反乱が起こった、鎮圧してくれ!」
門番は必死の思いで叫んでいる。
しかし、上陸する者は意外と少ない。想定外のことが起こり、気が動転しているか、抜けてしまったのか。
ともあれ、それらを押しのけるようにコヴァクスたちの船は波を蹴って着岸し、港に飛び降りるような勢いで上陸し城門をくぐった。
そこで目に飛び込むのは、殺気立った者たちが目をいからし刃を閃かせているところだった。
「……あいつらはッ!」
見覚えのある顔が、禍々しく顔を血で赤く染めて。さも気持ちよさそうに殺生を繰り広げていた。
五人一塊になり、迫りくる刃を涼しげな顔をしてかわしながら、返す刃で斬りつけ血煙が上がる。
これなんはるか東の帝国・昴より買われてやってきた暗殺者たちと、それを買ったサロメたちだった。
「な、なんだこいつらは!」
そう叫びながらも龍の騎士団や黒軍の騎士たちは剣を振りかざし戦おうとするが、
「だめ、私に任せて!」
龍菲はとっさに止めて、五人のもとへ駆けた。
五人の中に異様な妖艶さをはなつ女がいる。
「サロメ!」
コヴァクスニコレットも思わずその名を叫んだ。
呼ばれたサロメはすでに気付いているが、軽く笑みをこぼすのみで無視を決め込み反応はないどころか。
駆けて来る龍菲を見て、さっとばらけて逃げ出してしまった。いちいち相手にしていられないとばかりに。
「くそ、こいつらは混乱をさせるのが目的なんだな!」
せっかくうまくいきそうだった統治を、流血を引き起こすことによって混乱に貶めようとする。なぜそんなことをするのかわからないが、そんな目的があるのはいやでも痛感するところだ。
「とにかく行くぞ!」
だが暗殺者たちにばかり気を取られるわけにもいかず、コヴァクスたちはシァンドロスの姿を求めて駆け出した。
「我はダライアス!」
「面白くない冗談だな!」
腕を掴まれたシァンドロスはガッリアスネスのおかげで離れることができたが。
その剣はかろやかにかわされ。しかも名乗りまで上げて。
だがその名乗りを聞いても、さすがに信じられなかった。
確かに風聞で聞く通りの黒髪に碧い眼をしているが、まさかアラシアの大王が隠密として忍び込むなど、想像もしえないことだった。
ハルシテミアには三人が襲い掛かったが、ペーハスティルオーンら臣下の者たちが助太刀に入り、難を逃れ。
すぐにシァンドロスに寄り添った。
そうかと思えば外からも鬨の声が耳に飛び込み。武装した騎士や兵士たちがなだれ込もうとする。それらはイムプルーツァやガアグルグたちであった。
豪商の御曹司を装って侵入したダライアスたちだったが、他にも数組に分かれてアラシアの騎士や兵士が何者かを装い侵入し。立つは今この時とばかりに事を起こしたのだ。
「ここは我らが防ぎます。お逃げを!」
ガッリアスネスは叫ぶ。ダライアスは無手ながら反撃の機会をうかがうが、なかなか剣さばきも達者なもので逃げるのが精いっぱいだった。
臣下から剣を手渡されて、本拠地から出ようとするが。その前にアラシアの騎士たちが立ちはだかる。
その装いに鷹の紋章もあしらわれて。それを目にして、アラシア人が多数乗り込んでいたことを悟った。悟りながら迫る刃をかわし、あるいははじき返して血路を切り開き、そとに出てみれば。
要塞島に集った海洋民族同士で渡り合う信じがたい光景が目に飛び込んだ。
「……これは!」
シァンドロスにハルシテミアは知る由もない。サロメら暗殺者が手当たり次第に殺戮を繰り広げて、味方同士であるはずの者たちが猜疑心を引き起こし、自己防衛のために殺し合うようになってしまったのを。
ガッリアスネスも頃合いを見計らい、ダライアスを相手にせずシァンドロスを追い、ペーハスティルオーンらも同じように追い。血路を開いて外に出れば。
主とともに、目に飛び込む光景に度肝を抜かれてしまう有様だった。
「こいつは様子がおかしいぞ!」
異変を察したのはイムプルーツァやガアグルグも同じだった。
「私から離れちゃだめよ!」
パルヴィーンもヤースミーンを守りながら、神経をとがらせる。
ガッリアスネスははっとして、あてがわれた家屋の方向に目を向ける。そこには召使いのクロエペトナがひとりで留守を守っている。
「我が身は己で守れる。お前は女を守ってやれ!」
「獅子王子……、かたじけない!」
シァンドロスに言われて、ガッリアスネスは剣を握りしめて駆け出した。
(優しいのだな)
あらぬ事に一瞬動きを止めてしまったのはダライアスたちも同じだったが、シァンドロスとガッリアスネスのやりとりに、何か感じさせられるものがあった。
「静まれ、静まらぬか!」
「アラシアとの戦いを控えて、見苦しいぞ!
あらぬ同士討ちが勃発し、止めようとする者もいるが。耳を貸す者はほとんどいなかった。
中には口から泡を吹きだしながら刃を振りかざして、仲間であるはずの者に襲い掛かっている者もあり。
その目は正気の沙汰ではなかった。
「これは……!」
少しばかり知識のある者は、これが毒によるものであることをさとった。しかもそれは命を奪う類のものでなく、正気を失くさせる類のものによるものだと。
誰かが飲食物に毒を仕込んだのだろうか。
ハルシテミアは拳を握り締め、この混乱の有様を睨んでいたが。剣を掲げ、
「反逆者に制裁を! 我に続け!」
なんら戸惑うことなく、手近な者を斬り払った。
これを目にしていくらかでも正気を取り戻し、ハルシテミアの側に着く者もあらわれた。しかし、完全に正気を失くしている者も少なくなかった。
「どこかの井戸に毒を仕込んだのではないか」
誰かが言う。ありうることだ。問題はどこの井戸に毒が投げ込まれ、どれだけの者が毒にかかってしまったかだった。
「わあ!」
ペーハスティルオーンは目を疑った。あろうことか、人が獣のように人にかみつくではないか。毒で完全におかしくなったようだ。
「ああ、くそ。これからというときに!」
シァンドロスとともに新たな国、新たな世界を切り拓くという希望をもって戦ってきたが。一大決戦を目の前にしてこのざまとは、なんということであろう。
「獅子王子、ここは島からお逃げになった方がよいと思います
臣下の誰かが言い。シァンドロスは歯噛みする。誰も見たことがないような無念の面持ちである。
追いつけるかどうかわからないが、アラシアに向かった船団に向けて作戦中止を伝えなくてもならない。
「やむを得ぬ!」
誇りを引き裂かれそうな屈辱感をこれでもかと食らいながら、アタナイへの退却を決意せざるを得なかった。
そうしている間に、誰かが誰かに喉笛をかみ千切られてしまい。血を吹き出しながらのたうちまわる。
その様は島に突如として食屍鬼か吸血鬼があらわれたかのようであった。
ダライアスたちといえば、シァンドロスを討つどころではない。混乱を起こす手筈であったが、予想以上の混乱になって。
「おかしいぞ」
と呻かされた。
明らかに狂気に取りつかれたものが、白目を剥いて襲い掛かってくる。
ヤースミーンやパルヴィーンのような少女の存在を覚知しようものなら、獣性の本能を丸出しに襲い掛かってくる。
「汚いのを見せるんじゃないわよ!」
自分たちに襲い掛かる被毒者を剣で払いのけながら、イムプルーツァやガアグルグたちから離れないように踏ん張る。そこにいつの間にか、ダライアスたちもやってきて合流する。
「誰もおかしくなっていないな!」
蜂起した人数は百名ほど。シァンドロスに近づき意表を突いて討つ手筈であった。海洋民族も忠誠心の危うい者もおり、シァンドロスが死ねばもう戦う理由はないと武器を捨てる者もあろうかと思ったが。
「はい、大丈夫です」
幸いダライアスの側の者たちは毒にかかってはいないようだったが、無傷とはいかず。数名凶刃によって傷ついた者があった。
この混乱により、シァンドロスたちもダライアスたちも、己の身を守るのが精いっぱいで、雌雄を決するどころではなかった。
「見つけたぞ、シァンドロス!」
混乱のさなかに聞き覚えのある声がする。見れば、そこには己が失踪に追い込んだコヴァクスの姿があった。
「お前、来ていたのか」
「ああ、来たさ。だが来てみればなんだこの有様は! これがお前が望んだものなのか!」
人と人とが相食むむごい有様である。なにかしらの仕掛けのよるものにしても、ひどすぎではないか。
「ぎゃあ!」
そうこうしているうちに、誰かが頬を食い破られて顔を血で真っ赤にしてのたうちまわっている。
それが何かしらの毒を飲んだことによるのは、龍菲も気付くところだった。
「もうこやつらは人ではない。斬れ!」
相手が誰なのかすらわからなくなったようで、シァンドロスやハルシテミアたちにも容赦なく襲い掛かる。
気の確かな者はおかしくなった者たちの襲撃を払いのけようと必死だった。だが狂気は伝染するのか、さっきまで気は確かなものが恐怖に耐えかねてか悲鳴を上げてやたらめったら刃を振りかざすこともあり。
事態は簡単には収拾しそうになかった。
この中で動かずにおれるものはなく、皆得物を手にして身を守るために戦わされていた。
「奴隷どもか!」
はたと気付く。おかしくなったのは要塞島でこき使っている奴隷たちがほとんどだった。奴隷は他の者と同じ食料を与えられることはなく、井戸も奴隷用の水の汚いもしか使ってはいけない。
それらの奴隷用の食料や井戸に、誰かが気の触れる毒を投げ込んだとしたら。
「ダライアス、まさかそのようなことはするまいな!」
「見損なうな、毒を用いるような卑怯はせぬ!」
「オレたちだってそうだぞ!」
シァンドロスとハルシテミアは侵入者らを睨み据える。だが確かに、ダライアスやコヴァクスが毒を奴隷の井戸に投げ込むようなことをするとは考えづらい。
「サロメか……!」
やるとしたら、そいつだと、コヴァクスは妖艶な邪悪な笑みを浮かべるサロメを思い浮かべた。そうかもしれないわと龍菲とニコレット、ソシエタスも同意する。
「時が経つにつれて、ひどくなっております。島から退避した方がいいのではいでしょうか」
ソシエタスは襲撃を剣で払いながら叫ぶ。ひとりひとりはさほど強くはないが、そこは労働と搾取をされていた奴隷である。斬ったところで名誉を感じるでもない、むしろ無駄な殺生を強いられる不快感しかない。
それらにつられるように、気が確かだった者すら刃を振りかざし。要塞島は人と人とが相食むむごい有様であった。
「クロエペトナ、無事でいてくれ!」
シァンドロスの許しを得て、混乱を避け、あるいは剣で払いながら、あてがわれた家屋へと駆けたガッリアスネスはそのドアの前まで来て。一瞬の迷いも惜しいとドアを力強く開ければ。
そこには、子猫のように震えるクロエペトナがうずくまっていた。
「無事だったか!」
ガッリアスネスはすぐに駆け寄り、肩に触れて。
「オレが守ってやる」
と、優しく言った。
(男の守りなどなくても……)
そう思わないわけではないが、ガッリアスネスに言われるとなぜか心に素直に入ってゆくのを抗えなかった。
子猫のように震えていたのは演技で、ドアが開かれるまで平然と外の様子をうかがっていた。
ガッリアスネスはクロエペトナ=二虎の手を取り、外に出ようとする。
「あの、書き物は?」
「命には代えられぬ」
惜しいが、それにこだわって逃げる機会を逃すことはできず。断腸の思いで置いて逃げるしかなかった。
「少しですが、持っています」
そう言うと、懐から巻物を一巻取り出した。それはスパルタンを平定した直後に書きあらわしたものだ。内容は、力に奢った者が力の果てに滅ぶというものであった。しかし、それは最初の一巻である。
それから、法は、文化は何のためにあり、人の心にどういった影響を及ぼすのかを、思索を重ねながら書いてきたのだが。
それを見て、ガッリアスネスはぱっと顔をほころばせた。
「よくやった! 最初の一巻があれば、あとで書き直すにも書き直しやすいからな。ありがとう、ありがとう!」
手を引きながら、何度もありがとうと言う。
「いえ……」
何度もありがとうと礼を言われるのは初めてのことだった。
儲けになることをしてやったわけでも、肉体をもって快楽を与えたわけでもない。たった一巻の書き物を持ってきたことを、この男は天から神が降臨したがごとくに喜ぶ。
とても不思議な感じがした。
だが不思議に浸っている暇はない。
狂人は凶刃を振りかざして、次々と襲い掛かって。ガッリアスネスはそれを弾きかえしながら召使いの手を引く。
(この男は、ほんとうに私を守ってくれているのか)
ふと、コヴァクスと仲睦まじい龍菲に嫉妬していたのを思い出した。それから、嫉妬していた龍菲と同じになれたという気持ちが胸の中で芽吹いた。
「もうこれは、島から逃げるしかないな」
あまりにも混乱し、いたずらに粘ったところで身を危険にさらすだけだ。悔しいが、一旦退却し、アタナイからやり直すしかないだろう。
「待て!」
確かな人間の声と言葉で呼び止められて。何事かと思えば。目の前に立ちふさがる者たち。
近くにいた者たちを問答無用で刃で斬り払い、邪魔者を追い払う。
それは暗殺者たちだった。サロメはいないが、四人、禍々しいまなざしでふたりを見据えていた。
「何者だ!」
「二虎、これはどういうことだ?」
「……」
「答えろ二虎! この男を籠絡し堕落させるのではなかったか!」
ガッリアスネスは無視されて、男四人はクロエペトナを睨み付けていた。
「アルフーだと?」
ガッリアスネスは手を掴みながら、あらぬ名を聞き茫然とする。
いったいこれはどういうことなのか、軽く混乱をしてしまう。
クロエペトナは手を掴まれたまま、四人を睨み返している。
「お前たちなんかに、話すことはないよ!」
ガッリアスネスの手を払いのけ、クロエペトナ=二虎はだっと駆け出した。
「裏切ったか。ならば、死ね!」
四振りの刃が駆ける二虎に襲い掛かる。
「いかん!」
ガッリアスネスも少し遅れて駆けて追ったが。その頃にはクロエペトナは四振りの刃をひらりひらりとわかしながら、掌を、蹴り技を繰り出して四人の謎の者たちと渡り合っていた。
(なんだとッ!)
相手に間近まで迫り、刃が襲い掛かってくる。それを我が剣で受け、跳ね返しながら。あらぬ強さを見せる召使いに驚きを禁じ得なかった。
「ええい、やむを得ぬ。島から退避するぞ!」
シァンドロスはその混乱具合を見て、歯噛みしながら号令を下した。
正気の者は船で島から出ようと必死の思いで駆けた。
毒に侵されて正気を失った者は恐怖心も苦痛も失い、いかに刃を閃かそうともものともせずに、獣となって人に襲い掛かってきた。
胴を貫かれようが、手足を斬り落とされようが、おかまいなしである。
あるのは、殺戮本能のみの、肉塊ですらあった。
それを見て、己の身を守るためとはいえ、防衛本能の命じるままに自分以外の者を手にかける者も多く。
阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられている。
「サロメは地獄をつくろうとしているのか」
コヴァクスはうめいた。
ダライアスたちももう手の付けようがないほどで。ついにアラシア人の犠牲が出て。無残に殺されてしまった。
「このままでは犠牲が増えるばかりです!」
イムプルーツァやガアグルグの剣がうなれど、狂人を恐れさせることはできなかった。
剣で弾きかえされて、吹き飛ばされようとも。それでなおさら狂気を昂らせているかのように、大口開けて襲い掛かってくる。
「これでは雌雄を決するどころではない。やむを得ん、島から出るぞ!」
シァンドロスやハルシテミアも避難を開始した。ダライアスも同じように退避する。
「私はここに残るわ。コヴァクスたちは逃げて!」
龍菲は周囲に気を配り、サロメを見つけようとする。
「馬鹿を言うな。逃げるなら君もいっしょに」
「サロメを置いて逃げられないわ」
「龍菲」
「ここで仕留めなければ、どこかで乱を引き起こして、地獄をつくろうとするわ」
言い終えて、龍菲は駆け出そうとするが。
「私ならここにいるわ」
どこからか女の声がしたと思えば、騎士がひとり血しぶきをあげて倒れる。
そばにはジャマダハルを備えたサロメの姿があった。
ジャマダハルについた血を、ぺろりとひとなめして、うっとりとする表情をつくる。
その邪悪な美貌に、ニコレットやソシエタスはぞっとする寒気を覚えた。
「あなたの言う通り、私は地獄をつくるわ」
「毒を仕込んだのはお前か!」
「あら……、小龍公のおぼっちゃまに小龍公女のおじょうちゃま。お久しぶりですわね」
「あなたは何を考えているの! なぜこんなことを!」
「地獄でこそ、人の真実の姿が暴かれるから……。私は人を真実の世界に導いてあげているのよ。感謝されてもいいと思うわね」
「狂っている!」
そんなことのために、はるばる昴から暗殺者を買ったのか。
「賢い者が欲しいと頼んだから、一龍六虎を勧められたのだけれど。龍菲、あなたは本当に賢いわね」
そんなことを気取って言っている間にも、毒に侵された狂人どもが襲い掛かってくる。
自由を奪われ、搾取された果てに、毒によって狂気の淵に落とし込まれてしまう奴隷に憐憫の情が湧かぬわけもないが。それにこだわっていては、自分が殺されてしまう。
サロメは容赦なくジャマダハルで斬り。コヴァクスたちは、
「すまない!」
叫んで詫びながら斬らざるを得なかった。
「よく効く毒だこと。ほほほ……」
サロメは己が涌現させた地獄にご満悦のようだった。
「さあいらっしゃい。私が憎いのでしょう」
龍菲は駆け出す。
コヴァクスも続きたかったが、ひっきりなしに狂人や狂気・恐怖に突き動かされた者たちに襲い掛かられ、身動きもままならない。
オンガルリから連れてきた龍の騎士団や黒軍の騎士の中にも犠牲になる者が出てきた。
「逃げろ。自分の命を一番に考えて、船に戻るんだ!」
コヴァクスは叫びながら、どうにかサロメの方へと駆ける。
龍菲とサロメはすでに渡り合っていた。
ジャマダハルの斬撃が襲い掛かり。それをひらりと交わして、顔面に掌打を繰り出すが。さっと後ろに離れられて。
後ろに下がりざまに、鋭い蹴りを繰り出す。
龍菲は後ろに跳躍してかわせば、サロメの蹴りは風の破片をその足に当てる。
風の破片に吹かれるように、やや後ろに下がって着地し。足を踏みしめ武功の構えをとる。
しなやかな指がぴんと伸ばされる。
その時にコヴァクスは龍菲の隣に立った。
「馬鹿野郎、置いていくぜ!」
そう叫ぶのはヤノーシェだった。仲間たちを引き連れて、港へ駆けてゆく。
「皆を頼む!」
「この大馬鹿野郎! 本当に置いていかれてどうするんだよ。もうおりゃあ知らねえからな!」
知らないうちにヤノーシェはコヴァクスに代わって指揮を執るようになっていた。
コヴァクスのみならず、ニコレットにソシエタス、アッティといった主要な者たちが、龍菲と一緒に残り。肩を並べていた。
「まったくもうあきれてものも言えねえぜ、てめえらはかっこつけやがって、オレにはこんなことをしっかり押し付けやがって!」
狂気の、乱世の果て――
騎士たちの指揮は誰かがやらねばならないことだ。どさくさに紛れてとはいえ、ヤノーシェが指揮の役目を果たすことになってしまった。
そうでなければ統率なく散らばり、分散したところを各個やられて犠牲はさらに増えてしまうだろう。
「貸しとくからなあ、覚えていやがれ!」
なんだかんだと言いながら、ヤノーシェはよく騎士たちをまとめて、退却してゆく。
同じようにシァンドロスやハルシテミアに、ダライアスたちも退却してゆく。
と言いたかったが。
シァンドロスは立ちどまり。コヴァクスや龍菲たちがサロメと対峙するのを眺めていた。
「そなたは……!」
夢のサロメではないか!
だがサロメはシァンドロスには興味を示さず、目も向けない。それにじれてか、周囲が止めるのも聞かずに、駆け出す。
「サロメ、オレだ。シァンドロスだ。夢で逢っていた!」
その言葉を聞いて、皆唖然とさせられる。この期に及んで突然何を言い出すのかと。
狂気を撒き散らし地獄を湧現させた女に対し、夢で逢っていたなど。
「シァンドロスまで狂気に飲まれてしもうたのか!」
ハルシテミアは怒りを覚え、追いかけてその手を掴む。
「そんな女にかまうな、ゆくぞ!」
「いやだ、オレはあの女が欲しいのだ!」
「わがままを言うな!」
その頬に平手打ちを食らわす。
「まるで親子だ」
やや呆れながらイムプルーツァは突っ込み。
「そんなものだ」
とガアグルグはかばうように言う。
その間にヤノーシェは騎士たちをまとめて、城門をくぐり港まで来たが。船に乗ろうとして多くの者たちが押し合い圧し合いで、やはりそこも混乱していた。
海に突き落とされて溺れる者、自ら海に飛び込み船まで泳ぐ者もいる。
ガッリアスネスといえば、召使いの女をつれて逃げようとしていたのだが。どうしてかその召使いとともに謎の暗殺者どもと戦っていた。
暗殺者たちは剣を閃かせて、ふたり二手に分かれてそれぞれの相手をする。
ガッリアスネスも文人であると同時に歴戦の勇士という文武両道の騎士であったが。奴隷の身分から解放してやったデヴァイの名もなきこの女は……!
無手ながら身のこなしも軽やかに、舞うように刃を避けながら。掌や蹴りを繰り出し、互角に渡り合っているではないか。
渡り合いつつ、体勢を立て直すために間合いを開けたその時。
「クロエペトナ、お前は……」
そう聞かずにはいられなかった。
「デヴァイ人なのは嘘です。私は、ある者に買われて昴からやって来た暗殺者……。あなたを堕落させるのが私の役目でした」
「デヴァイ人というには、顔立ちがなめらかだと思っていたが。そうだったのか……!」
ガッリアスネスの衝撃は小さくなかった。
かわいそうに思い、奴隷から解放してやったのだが。奴隷に紛れ込んで自分に近づいて、堕落させようと思っていたなど。
あの時服を脱いで身を差し出したのは、そのためだったのか。
「そして、我らの仲間なのだ。だが、裏切った。なぜだ、なぜ裏切った!」
暗殺者たちは怒りを突き抜け悪魔のような禍々しい形相だった。
「私は人というものを知った。龍菲の言うことは本当だったわ。今からでも遅くないわ、あなたたちも、改心しなさい!」
二虎は呼び掛けるが。それに応じる暗殺者ではなかった。
「ほざけ!」
もう人ならぬ形相になり、襲い掛かったのが答えだった。
二虎、クロエペトナはガッリアスネスの前に立ってかばい。四人を引き受けようとする。
「お前ひとりじゃ無理だ!」
回り込むように追い越し、四人と対峙し、ふたりで渡り合う。
「ここは私が……」
「ソケドキアの騎士を見損なうな!」
だが多勢に無勢。防戦一方となってしまう。
(まともにやりあっていては勝ち目はない、どうすれば)
二虎は我武者羅になっているが、やがて精も根も尽き果てやられてしまう。
周囲は死体であふれている。空白地帯なのか、狂気に取りつかれた者たちはここにはおらず他で獲物を求めているようだ。
(……そうだ!)
「うわあ!」
蹴りが繰り出されて。ガッリアスネスは吹き飛ばされてしまった。
「ガッリアスネス様!」
主が背中から落ちて、気絶をしたのかそのまま動かないのを見て、動揺は大きく。刃を交わしながら間を開けて駆け寄る。
「待て」
頭領格の一虎はひとまず動きを止めて様子を見る。
「ガッリアスネス様、ガッリアスネス様!」
倒れた主に呼び掛けるが、返事がない。しかも目を閉じ、息をしていない。
「死んだのか。そうでなくとも、気を失ったのか」
なんにしても、情勢は有利である。四人は気をよくして二虎を囲んだ。
四人してあからさまな嘲笑を浮かべている。
「愛しい男のそばで、お前を輪姦してやるのもまた一興だと思わぬか」
殺すのはもちろんだが、ただでは殺さぬ。人としての屈辱も存分に味あわせて、嬲り殺す。
二虎も暗殺者の男どもが女をいたぶり殺すのを目にしたことはある。柔肌をむさぼり歯を立て肉を噛み千切り、肉体を心とともに破壊し、死ぬまで犯し。死体になってもなお、犯す。
「さあ、誰が一番槍だ?」
そう言ってにやけるや、胸に短剣が突き刺さった。それを見逃す二虎ではなく、素早く短剣を抜き。驚き動きの固まる別の者の心臓部に短剣を突き立てる。
四人のうちふたりが瞬時に深手を負い。驚愕して後ろに飛びのき間を開けるが。ひとりはやはり心臓に短剣を突き立てられたために倒れて。ぴくりと痙攣しながら息絶えた。
「貴様、はかったな!」
「これしきのことに引っかかるとは、たわいもないな!」
ガッリアスネスは立ち上がった。
蹴りを受けたことは受けたが、先に跳躍して衝撃を和らげていたので打撃はさほど感じなかった。だが気絶した振りをすることで相手を油断させた。それがうまくゆき、隙があるのを察して素早く短剣を投げつけ。ひとりをしとめ、ひとりに深手を負わせた。
「……うっ!」
深手を負った者が突然血の泡を吹き、膝をついて倒れて。白目を剥き、そのまま息絶えた。
短剣には毒が塗られていた。
「毒を用いるのは不本意だが、やむを得ぬ」
これで四人からふたりに減った。
ガッリアスネスは短剣に毒を塗っていたが。これは相手を確実に仕留めるためだけでなく、万が一に確実に自殺するためでもあった。
今回は確実に相手を仕留めるために毒が役に立った。
「おのれ……」
残りふたりになり、一対一で戦うことになる。だが、
「うわあ……」
という呻きが聞こえる。ここは空白地帯だったが、毒にかかった狂人どもがついに来てしまった。
「むごい」
ガッリアスネスも呻く。井戸に毒でも仕込んだか、その水を飲んだ奴隷たちは気が触れて人を襲う獣になってしまった。
暗殺者も戦うどころではないと逃げようとするが、そうは問屋が卸さぬと二虎は素早く駆け、ふたりの退路に立ちふさがる。落ちていた剣を拾い、閃かせる。
一虎らはそれどころではないとまともに相手せずに逃げようとするが、二虎もまともに相手にせずに逃げるのを邪魔する程度にとどめる。
「お逃げを、ここは私が防ぎます!」
このままでは狂人どもに囲まれて三人してやられてしまう。それを見過ごせるガッリアスネスではなかった。
「何を言う。ソケドキアの騎士を見損なうなと言ったであろう!」
ガッリアスネスは逃げず、二虎とともに暗殺者と戦おうとする。そうする間に狂人どもが取り囲んでしまった。
「おのれ、かくなるうえは、お前たちを道連れにしてやる!」
暗殺者も自暴自棄になり、目を充血させる。
嘲笑で染められていただけに、そこにはどす黒い絶望と怒りが代わってないまぜになっていた。
暗殺者は狂人をそれぞれで捕まえると、まるで石でも投げつけるように二虎とガッリアスネスに投げつけた。
意表を突かれて慌てて逃げようとするが、おかげで動きが鈍ったのは否めず。それを見逃す暗殺者ではなく。素早く駆け寄りまず二虎の腕を掴んだ。
すると、さっき狂人を投げつけたように、二虎を放り投げようとする。狂人に向かって。
「ああ!」
「いかん!」
宙に浮く二虎。追いかけるガッリアスネス。その背後に暗殺者どもは着いて、刃を閃かす。
「うッ!」
殺気を感じ、よけようとしたものの背中に刃が触れる感触がする。
「はっはははは! 食われてしまえ!」
そう馬鹿笑いする暗殺者に狂人が群がり。一応の抵抗を試みるも恐怖や苦痛から解放された者たちに抵抗など意味をなさず。とめどもない狂気にも圧されて。暗殺者たちは狂人に爪や歯を好きなように立てられて。
獣に食われる小動物さながらに、瞬く間に肉片にされていってしまった。
暗殺者たちも狂気に身を売った。それゆえに狂気に敏感であり、狂気と狂気が感応しあって。自ら闇に飛び込むようにして狂気に取りつかれて、絶望を抱きしめ。
己たちが狂わせた者たちに食われて、死んだ。
それを眺めるような余裕などなく、深手を負いつつガッリアスネスは剣を振るって狂人どもを追い払い。うまく隙間を空けて、落下する二虎を受け止める。
背中の傷から血があふれる。
二虎はすぐに地に足をつけて剣を振るって、血路を開こうとする。
「オレはもうだめだ。お前だけでも逃げろ!」
「昴の女を見損なわないでください!」
「……言うわ!」
二虎はガッリアスネスの二の腕を掴んで支えて、共に逃げようとする。
これらは命を懸けて正気を保ち、人間としての尊厳を抱きしめ。希望を抱いて、狂人たちの囲みから逃れようとする。
痛みをこらえて剣を振るいながら、どれほど駆けたろうか。
無我夢中だった。
「ガッリアスネス殿!」
混乱の中、自分の名を呼ぶ声がする。その方を見れば、見覚えのある顔が。
「小龍公、小龍公女!」
なぜここに? 自分は夢か幻でも見ているのか。ということは、もしかしたら、自分たちはすでに死んでいて夢幻の世界に迷い込んでしまったのか。
その一方で二虎は、目を見開き、龍菲がサロメと渡り合っているのをしっかと目に焼き付けた。
狂人たちは数を減らしつつあるとはいえ、正気の者さえ狂気に取りつかれて相食む有様。
それをソケドキア、アラシアの騎士らが防ぎ。主要な者たちが刃を交えて渡り合っている。
オンガルリの騎士らはヤノーシェに託して引き上げさせている。やいのやいのと言っていたが、それでもコヴァクスらは引き上げさせた。
コヴァクスとニコレット、ダライアスは共同でシァンドロスやハルシテミアを取り囲んで、一見優勢に見えないこともない。
コヴァクスとニコレットは無論ダライアスたちのことを知らない。紹介しあう暇もないまま、なし崩し的に共闘していた。
龍菲はサロメを引き受けている。
そんな中、ガッリアスネスが女に支えられながら姿を現したものだから、コヴァクスも驚いたものだった。
「獅子王子!」
シァンドロスは囲まれれおり、絶体絶命の危機にあるようだった。助太刀に行きたいが、
「無理です!」
と、二虎は腕を掴んで離さない。
背中に傷を負って、女に支えられてようやく動ける者がこの混戦で何の役に立とうか。
「よもやこのようなことになろうとは」
ハルシテミアは歯噛みする。
あらぬ混乱を目にし、体勢を立て直そうと島から出ようにも。肝心のシァンドロスがそれを拒む。
なんでも、
「夢の女がいる」
と言って。
「獅子王子まで狂気に取り憑かれてしまったか!」
ペーハスティルオーンら臣下たちも歯噛みする。
ハルシテミアがそばにいるのもおかまいなく。
「オレは夢の女のもとにゆく」
と、駆けようとするのを必死に止めて。退却もままならぬ。
サロメはそんなシァンドロスを無視し、龍菲と渡り合っている。
腕から刃が突き出るようなジャマダハルを振るい。それで龍菲の黒髪が数本切られ、風に乗って飛んで行った。
その一方で、ハルシテミアは再度シァンドロスの頬に平手を飛ばす。
臣下らはその様に目を丸くする。
「この馬鹿者! ……ゆくぞ!」
有無を言わせず、ハルシテミアはシァンドロスの手を引いて島を出ようとする。だがその手は振りほどかれる。
「いやだ、オレは夢の女のもとにゆくのだ!」
そう言って駆け出す。
ジャマダハル閃いて、それをかわして。いずれも舞うような軽やかな動作。髪がなびき、輝く瞳は相手を見据えて映し出し。
ジャマダハルが脳天に振り下ろされるのを、瞬時にて両掌で挟み込み。しかしその圧す力強く。
龍菲はたまらず膝を曲げるが。咄嗟に脚を前後に平らに開いて、太ももまで地面につけた。
その間に、シァンドロスは迫る。
サロメの口元がゆがむ。
「おお、なんという……」
ガッリアスネスは二虎に支えられながら、主のあらぬ姿を目にして嘆くこときりがない。
ハルシテミアはシァンドロスを追い、臣下も同じように追う。その周囲で騎士や兵士らが狂人ともと渡り合っていた。
「待て、お前の相手はオレだ!」
コヴァクスはシァンドロスの前に立ちはだかり、ニコレットはハルシテミアに剣を振りかざす。
「邪魔するな!」
双方の間でも刃が交えられる。
それを見て、島から出ようとしたダライアスたちだったが。踵を返してコヴァクスらとともに踏みとどまり、シァンドロスの臣下たちと渡り合った。
「ダライアスを騙る若造が、たいがいにせい!」
ペーハスティルオーンがダライアスに飛びかかる。いまだ本人であるとは認めていないが、そんなことはどうでもよかった。
彼もまた歴戦の勇士ではあったが、その力量には開きがあり。二、三合渡り合ったところで隙を突かれて、ダライアスの剣は相手の胸板を貫いた。
そこでようやく、
「まさか、本物!?」
口から血を吹きながら呻いたが。返事はなく、碧い眼で見据えられるのみのまま。倒れて、息絶えた。
ガッリアスネスのもとにはソシエタスが駆け寄り、狂人を防ぐ。
「かたじけない」
同僚の死を目にし悲痛な面持ちになるも、傷を負って満足に動けない。ソシエタスが駆け寄ったことでアッティも一緒にいる。船団の長はヤノーシェとともに港を目指した。
「ここはそなたらに任せてよいか」
「ああ、いいぞ!」
ダライアスはコヴァクスと一言そう言い交わして、港を目指した。
港に行けば船に乗れて、島から脱出できる。
とは思わなかった。
「やはりな」
忌々しく呻く。
城壁をくぐり港に出てみれば、そこも血で血を洗う戦場と化していた。
恐怖と狂気が伝染し、ついには島を囲む船の者たちすらじっとしていられなくなってしまった。
船同士にわかに海戦をはじめたり、着岸して港に降り立ち島の中へとゆこうとする者、それを防ごうとする者とが渡り合っていた。
「あれは!」
ガアグルグが叫ぶ。港で渡り合う者たちの中に、先の王でありダライアスの父であるクゼラクセラがおり、第二王子であったサーサヌもいる。
「父上……」
ダライアスは歯噛みして呻き。剣を握りしめて駆け出す。
「この混乱に乗じて、要塞島を乗っ取るのだ!」
クゼラクセラはそう叫んでいた。ダライアスには好もしく聞こえることではなかった。
「や、おぬしは、魔女の子ではないか!」
その名を口にもせず、魔女の子と言う。
サーサヌが立ちはだかるが、ダライアスの敵ではなく。その剣風の前には、風に揺らされる草のように揺れて、倒されて。
(今度生まれ変わるときは、平民の子として生まれたい)
そんな悲痛なことを考えながら、息絶えた。
アケネスの姿は見えないが、誰も気にも留めない。皆、目の前のことで精いっぱいだった。
「父上、お覚悟!」
ダライアスの剣が閃き、クゼラクセラはとっさに受け止めて、弾きかえす。
それから数合渡り合ったが、クゼラクセラはダライアスと互角の強さを見せたのだった。
「え、そんなに強かったの!?」
パルヴィーンは驚かされ、ヤースミーンは唖然とする。
イムプルーツァとガアグルグは助太刀に行きたいが、これはアラシアの王者を決める戦いでもあり。歯がゆいと思いつつ、そこに割って入ることは許されないことだった。
だがのんびり見物をすることも許されなかった。
「ぐわあああー!」
獣のような咆哮がしたかと思えば、人間離れした筋肉質の兵士が大斧を振りかざして、どかどかと駆けて来る。
護衛の騎士にパルヴィーンとヤースミーンを託し、ガアグルグとイムプルーツァはそれに当たった。
大斧は空を裂き、風の破片をぶつける。その刃こぼれもある鉄の塊をぶち当てられれば、肉片にされてしまうであろう。
「ガアグルグ、こいつも様子がおかしいぞ!」
「毒だ、毒で獣をつくりあげたのだ!」
その筋肉の盛り上がり方も尋常ではなく。人間の素質を超えている。おそらく何らかの薬物によって、そうなったことは想像に難くなかった。
その「獣」は片手で大斧を持ち、空いた片手で身近にいた者を掴んで、まるで石のように放り投げた。放り投げられた者は「わあ」と悲鳴を上げる。
「そこらのにわか狂人とは違うな! あ、イムプルーツァ!」
クゼラクセラに厚い忠誠を誓っているのか。兵士がひとり倒れこんだ状態でイムプルーツァの足を掴んだ。意表を突かれて、石礫ならぬ人礫に当てられてしまった。
さすがにイムプルーツァも倒れこんだが、パルヴィーンがすぐに助太刀に駆け付け足を掴む者を倒す。
「ありがとうな!」
「お互い様ですよ!」
いつもはわがまま問答をしているがこの時は素直な反応を見せた。クゼラクセラ側の兵士は邪魔者のほとんどを片付け港を占拠していた。あとは要塞島になだれこむばかりだが。
総大将のクゼラクセラがダライアスと一騎打ちをしているので、邪魔が入らぬように周囲を囲む。
船は危険を避けるため皆遠ざかり、何事かと要塞島を眺めている。
中には離れてゆく船もある。事情は知らぬが、こんな混乱に陥ってはとても戦いどころではないと。
先に港に着いたヤノーシェと言えば、クゼラクセラが港で挙兵したのにぶち当たってしまったのが運の尽きだった。
オンガルリの騎士らしき遺体も少なくない。ヤノーシェといえば、深手を負い、虫の息だ。
うつぶせに倒れて、ダライアスとクゼラクセラの勢力がぶつかり合っているのを察し。どうにか気力を振り絞って動こうとするが、動けない。
(畜生、肝心なときに!)
クゼラクセラは意外に手強く、ヤノーシェらも奮闘するが。ばたばたと倒されてゆく。それを遠目に見る船団も援護に行きたいが、他の船が邪魔でゆけず。
ヤノーシェは深手を負うことになってしまった。
(ほとんどやられちまった。これじゃ小龍公に合わす顔がないぜ!)
だが意識ももうろうとして、もうだめかと思われた。
ダライアスも先に港に行ったオンガルリの者たちがほとんどやられてしまったのは見て分かった。だが今は同情するような余裕はなかった。
クゼラクセラの剣は激しく迫り。獣人は牙をむく。
「やあ!」
一瞬の隙を突いてイムプルーツァの剣が獣人の胸板に切り傷を入れ、血がほとばしるが。気に留める様子もない。痛みを感じていないようだ。
「完全に頭がおかしくなっている!」
ガアグルグは迫る大斧をやっとの思いで弾きかえすが、あまりの力によろけさせられてしまう。
パルヴィーンはヤースミーンのそばに戻っている。
「傷口から血があふれて、失血すれば!」
思わずそう叫んでしまった。
「ぐわああ!」
応えるように獣人は叫び、大斧をやたらめったら振り回し。たとえ近くにいた見方を巻き込み頭を吹っ飛ばしてしまってもおかまいない。
ヤースミーンは顔を青くして目を背ける。
「失血死するまでオレたちがもつかどうかわからんな!」
傷を負って弱まるどころかかえって凶暴になったような獣人にイムプルーツァとガアグルグは歯噛みする。
恐怖も痛みも感じない狂人・獣人ほどやっかいなものはない。周囲をうろつきながら隙をうかがうが、なかなか近づけない。
ただ体力や反射神経に優れているだけかと思ったが、大斧の振るい方や力加減からして、それなりの技量をうかがわせ。もとは優秀な戦士であったのだろうが。忠誠を尽くしすぎてか、獣人になってしまったというかされたというか。
「しょうがねえなあ」
ぽそっと、ヤノーシェの口から声が漏れて。傷だらけの体でよっこらせと起き上がると、獣人のそばまでゆく。
「危ないぞ!」
イムプルーツァは言うが、聞こえていないのかのこのこと近づき。そこへ大斧が横から迫るが。
ヤノーシェは避けず、腹で斧を受け止め、両腕で斧を握る腕を掴んだ。
「……あ!」
「今だッ!」
獣人の動きが鈍り、イムプルーツァとガアグルグは前後から剣を突き出して、左胸とその背に突き立てた。
二振りの剣は心臓を破壊して突き破る。
獣人はたまらず吠えたが。それが断末魔の叫びとなって。
どさりと倒れて、動かなくなった。ヤノーシェも一緒になって倒れる。
「わあ」
と、兵士たちは逃げ出す。無敵と思われた獣人が倒され、恐慌をきたしたのだ。
「何事だ!」
ダライアスと一騎打ちをするクゼラクセラであったが、あらぬ事態に驚き動きが鈍って。それを見過ごしてもらえるわけもなかった。
「お覚悟!」
ダライアスの剣はクゼラクセラの左胸を突き、切っ先は背まで出た。
獣人に連動するように心臓を突かれて。クゼラクセラはたまらず血を吐き出し。声にならぬ声で呻いて、口をぱくぱくさせて。
倒れて、動かなかった。
ここに、クゼラクセラは倒れた。
「やった……」
パルヴィーンは、勝利したと一瞬は喜んだが。肝心のダライアスは無表情のまま、剣をクゼラクセラの遺体から抜くと、駆けて城門をくぐった。
「まだ終わりではない」
イムプルーツァとガアグルグも同じように駆けて城門をくぐり。パルヴィーンとヤースミーン、アラシアの騎士らも続く。
ヤノーシェはすでにこと切れていたが、仕事を終えたというほっとした面持ちで静かに眠っていた。
狂人たちもさすがに数を減らし。あとは片付けられるだけとなり。狂気に取りつかれて同士討ちをしていた者らも落ち着きを取り戻し、刃を引いた。
それらの視線は、龍菲とサロメ、コヴァクスとシァンドロス、ハルシテミアとニコレットに注がれた。
ガッリアスネスは二虎に支えられ、ソシエタスとアッティに守られながら、その一騎打ちを見守ることしかできなかった。
「小龍公と獅子王子がこうして刃を交えるとは……」
ほんとうなら共闘し、乱世を鎮めるはずだった。それが、どうしてこうなってしまったのであろうか。
ダライアスらが戻ってきたのは、シァンドロスらの目に入った。
様々な目が自分たちをとらえているのも感じられた。
「なにが新たな時代を築くだ」
そんな軽蔑の念を、痛いほど感じる。それはシァンドロスにとって我慢のならぬことであった。
「待てッ!」
「どうした、今さら怖気づいたのか!」
「そうではない、現状を受け入れ、敗北を認めよう」
素早く後ろへ跳躍し、間を開けてそう語る。聞くコヴァクスはかえって耳を疑ってしまった。
その時に、様々な目が自分たちを取り囲んでいることを察した。おそらく、シァンドロスがコヴァクスに勝ったとて。次はその目が襲い掛かってくることは想像に難くなかった。
ハルシテミアも「待った」と言い、ニコレットと間を開ける。
それはサロメの目にも入り。
「終わったわ」
そう言うと、動きを止めた。瞬時にして、龍菲の掌打が胸板を打ち。後ろに吹き飛ばされて。
口から真っ赤な血を吐きながらも不気味な笑みをこぼして、仰向けに倒れて。
息絶えて、動かなくなった。
「サロメあなた……」
龍菲はサロメが自ら打たれたのを察した。
目は見開かれたままで、シァンドロスをとらえていた。シァンドロスの色違いの瞳も、見返していた。
「夢の女は、死んだか。ならば、オレの生きる理由もなくなった」
「私より、その女を最後に選ぶか」
「ああ、すまぬな」
「謝ることはない。私も、結局は最後は夫のことを思い出す」
「お互い、肌を触れ合いながら、他の者を思い浮かべていたのだな」
「己は騙せぬ」
「だが、気づくのが遅すぎたな」
「さらばだ」
その言葉が終わるや、それぞれの剣で胸を、心臓を突き。血を吐き、天を仰ぎながら仰向けに倒れて。息絶えた。
これもあっけない最期であった。
ほんとうにあっけなかった。
エピローグ
誰かが馬を曳いてくる。それはシァンドロスの愛馬・ゴッズであった。コヴァクスたちにダライアスたちは愛馬を置いてきたが、この馬は要塞島に連れてこられていた。
「ご主人さまは死んでしまった。お前も取り残されてかわいそうに」
少し離れたところでゴッズは曳かれながら主の亡骸を見つめた。
この黒い駿馬が主を乗せて戦場を駆けることは、もうないのだ。
「シァンドロスの馬か。馬に罪はない。我らが引き受けよう」
ガアグルグは言いながら手綱を取った。
曳いていた者は抵抗もせず「お願いします」と言うのみ。
「シァンドロスが死んだ!」
「ハルシテミアも死んだ!」
「港でクゼラクセラが死んでいるぞ!」
はっとしたように声が響く。
「静まれ!」
ダライアスの叫び。大王の叫びは周囲を圧して、押し黙らせる。
「余計なことをしゃべらず、おのおの故郷に帰れ! アラシアの大王として命ずる!」
堂々とした素振りに、人々は素直に感心し。帰り支度をする。
ポエニキア人の船団も船を着岸させ、コヴァクスたちもそれに乗り込む。ダライアスの命令は彼らの心にも響き、余計なことは言わずに迅速に帰り支度が進められた。
ヤノーシェらの遺体といえば。乗せはしたが、ロヒニまでもたぬと、やむなく途中で海葬にした。
「戦いは終わり、乱世は鎮まったんだろうけど。なんだか、虚しい」
「それが、乱世というものよ」
「……そうだね」
龍菲にさとされて、コヴァクスは頷き。沈みゆくヤノーシェらに敬礼をする。ニコレットたちも同じように敬礼をしていた。
ダライアスらは残って要塞島をまとめ、海洋民族が皆引き上げるまで実務に当たった。
シァンドロスら死者の遺体の弔いも怠らず。薪を大陸から手配したうえで、城塞都市の各所で火葬に処した。
その火はゆらゆらと揺れる。
まだやりのことしたことがある、とも感じられるし。もうこりごりだと肩をすくめているようにも見えるし。そう言いつつ、やっとゆっくりできるとばかりに煙が、天に昇ってゆく。
ガッリアスネスはダライアスに保護され。二虎に付き添われて、養生していた。
「そなたは文筆の才があるのだな。どうだ、予に仕えぬか」
「ありがたきお言葉なれど、宮仕えはもう……」
ガッリアスネスは申し出を断った。ダライアスも無理強いはせず、その意思を尊重した。
旧がつくようになるソケドキアの勢力圏では、各地でエレンフェレスの圧政に抗する蜂起・革命が相次ぎ。
兵を出しはしたが、シァンドロスなきソケドキアなどに力なく。
鎮圧ままならず。
アタナイの館から、革命の民衆の前に引き摺り出されたエレンフェレスは、石打の刑を受けて、死んだ。
エシノガイアスにゼアスらは、要塞島での混乱と終局を使いの小舟がもたらした報せで知り、途中で引き返した。
帰り着いた時には、民衆はソケドキアからアタナイは取り戻していて。エシノガイアスとゼアスの両名が協力してアタナイといわずグレース地域一帯をまとめ、落ち着かせた。
ロヒニやオンガルリにも事の次第は伝えられて、いざという時に備えて守りを固めていたが。
そうしている間にポエニキア人の船団がロヒニに帰り着き。
コヴァクスらが港に降りる。
バリルとダラガナ、無事脱出できたモルテンセンとマイアたちの出迎えを受けて、コヴァクスは微笑んで。
「これでやっと、蹴球が思う存分にできる」
そう言って、一同の笑いを誘った。
完