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龍の騎士と獅子の王子 Ⅵ (59728文字)

レコンキスタの戦い Ⅱ


「裏切りか!?」

 軍勢の中盤にいたコヴァクスは、突然のことに驚き。その槍斧を振るう兵士を睨み。龍星号の手綱をはなし、剣を抜き駆け出す。他の兵士も同じように駆け、槍斧の兵士を取り囲み、討とうとする。

 だがその兵士の強さたるや、迫っても迫っても、弾き飛ばされるばかり。

「何事だ!」

 モーアもこれを目にし、信じられない思いだった。まさか裏切り者が軍勢の中に潜んでいようとは。

「モーアはどこだ、カンニバルカがその首を貰い受けるぞ!」

 槍斧を奮う兵士は、岩石を噛み砕きそうな顔で叫んだ。

「カンニバルカ!」

 コヴァクスは口から心臓が飛び出るかと思うほどの驚きを禁じ得なかった。まさか、敵軍の将軍がただひとり潜んでいようとは。どうして想像しえよう。

 すると、他の兵士までもが、突然刃をひるがえし、味方の兵士に斬りつけるではないか。

「これはどういうことだ!」

 たわいもない話しをしていた兵士が、裏切った兵士に討たれて。驚きと無念さをないまぜにした表情をして息絶えた。

 前後から迫られ、さらに裏切り者がいたことで、モーアの軍勢は大混乱に陥った。

 もちろん裏切り者の刃はモーアにも迫る。それを弾き返しながら、

「どういうことだ!」

 と叫んばずにはいられなかった。

「どうせこの世から差別はなくらなない。それなら、差別する側につけばいいんだ!」

「馬鹿な、何を言っているんだ!」

 モーアは驚く以上に、悲しさをおぼえた。黒人を自立させ、差別から解放するために戦ってきたというのに。

「まずいぞ」

 コヴァクスにも裏切り者の刃が迫る。馬鹿な真似はやめろと叫べば、どうせ差別はなくならないという無情の返事が跳ね返ってくる。

「まさか、カンニバルカか!」

「カンニバルカ様について手柄を立てれば、オレたちを白人と同等にしてくれるってよ。これに乗らない手はないからな!」

「……馬鹿野郎ッ!」

 コヴァクスは叫んだが。その叫びに応えるのは刃ばかり。

 どのようにしたのかわからないが、カンニバルカは自軍を撤退させながら身ひとつでモーアの軍勢の中に忍び込み、兵士をかどわかしたのだろう。

「やむをえん、ジーハナまで逃げろ!」

 モーアは無理をせず自分の命を第一に優先させて逃げるよう号令をくだし、ジーハナまでゆくよう叫んだ。


「ジーハナって?」

「ジーハナはこの先にあるオアシス都市のことだ。――うわっと!」

 軍勢は混乱し、後方の輜重隊の兵士も得物をもって戦わなけれなならなかった。大盾隊も後ろから斬りつけられ、崩れたところへカンニバルカの駱駝隊が砂嵐のように暴れまわり。

 駱駝隊に続く歩兵団が輜重隊の物資を強奪する。

「早く逃げろ、ここはオレが食い止める!」

 カンニバルカの軍勢の将兵は龍菲を認めた途端に目を血走らせる。その頭の中で何を考えているのか、想像もしたくないが、想像できてしまうほどに。

「私は大丈夫! 自分の身は自分で守れるわ。あなたこそ、早く逃げましょう!」

 輜重隊の兵士は龍菲をかばって槍を振るう。

「女を守れ、女を守れねえ奴ぁ、玉なしの意気地なし野郎だ!」

 下品な言葉づかいながら、輜重隊の兵士数名が龍菲をかばおうと身を乗り出す。そうするうちに、龍菲は得意の体術で迫る刃を弾き返し。高く跳躍し、駱駝隊の兵士を蹴り落とす。

「なんだ、強いんじゃないか」

「だから私を守ることはないわ、今は自分の身を一番に考えて!」

「お、おう。……ぐッ!」

 輜重隊の兵士の背から腹へと槍が貫通し。口から血を吐き出す。背後から歩兵の槍に突かれてしまったのだ。咄嗟に龍菲は駆けて、歩兵を蹴飛ばし。倒れそうな兵士の肩を支える。

「しっかりして!」

「いいってことよ、早く逃げろ、早く逃げろ!」

 兵士は覚悟を決め槍を握り直し、自分を支える細い手を振り払ってよろける足を踏ん張って自らの力で立ち上がる。

「おりゃあもうだめだ。こうなりゃあ、ひとりでも道連れにしてやるぜ。……死ぬ前にあんたみたいな美人に支えてもらって、いい土産ができたぜ。じゃあな!」

 そう言いながら後ろで龍菲が何か叫んでいるのを耳にしながら駆け出し、意気込みにもかかわらずひとりの道連れをつくることもままならず、槍で滅多刺しにされてしまった。

 膝をついて倒れ、前のめりに顔を砂にうずめて。兵士は息絶え。龍菲は「ごめんなさい、ありがとう!」と叫びながらコヴァクスを求めて乱戦の中を駆けた。

「龍菲!」

「コヴァクス!」

 乱戦の砂煙に、血煙が立ち込め飛び交う中。龍星号を駆けさせ龍菲の姿を求めるコヴァクスと出会えて、素早く跳躍し、互いに手を握り合い、その背中につかまった。

 周囲では味方の将兵が無残に討たれてゆく。が、どうしようもなく、ただただ、ひたすらに愛馬を駆けさせるしかなかった。

 砂漠で馬を走らせるのは難しいが、できないことはなかった。それでも、砂に脚をとられるため他の所よりも負担は大きそうで、心の中で「もってくれよ」と祈りながら駆けさせるしかなかった。


 モーアは駱駝のまま戦場から命からがら離脱し、同じように離脱できた将兵とともにジーハナを目指した。

 南へ向かったというカンニバルカの軍勢と戦うために、一旦ジーハナに移動しそれからどう戦うかと考えていたのだが。

 あまりにも意表をつくやり方にやられてしまった。

「無理に追うことはない。ジーハナに追い込んで、殲滅させてやるのだ!」

 カンニバルカは自身も得物の槍斧も返り血で真っ赤に染まって。深追いを避けさせ、態勢を整え直した。

「うまくいきましたな」

 黒人の、それなりに身分の高いであろうと思わせる豪華な甲冑を身にまとった者がカンニバルカに語りかける。

「カヴェラスモ殿の協力、感謝する」

「いえいえ」

 愛想よくカンニバルカに笑顔を向ける、カヴェラスモと呼ばれた黒人の将軍は、南方のオアシス都市のひとつハノヌの太守であった。

 シェロアにおけるレコンキスタ宣言を知り。南方の砂漠地帯の黒人部族に詳しい者を呼び、その中で、金で動く者を探させたのだが。ハノヌのカヴェラスモが、それに応じた。

 モーアは黒人部族に共戦を呼びかけ、それに応じる部族もいたが、応じない部族もあり。結束も一枚岩ではなかった。

「よし。ジーハナに向かうぞ!」

 軍勢をまとめ直して、一路ジーハナに向かう。

 モーアたちは駆け、ジーハナにようやくたどり着いて。その城壁を見て、コヴァクスは「砂漠の真ん中にこんな……」と呆気にとられた。

 砂漠にどこからか運んできたと思われるような岩石を盾と同じくらいの大きさの四角に切り、敷き詰めた城壁が現われた。それは長年砂を受けて、古びた色合いになっているが、よく補修されているのか崩れている様子はなく。

 長年耐えてきたことがうかがえる。

 その城門が開け放たれ、中から誰かが出てくる。

「モーア殿!」

 やはりそれは黒人の将軍と思しき装いの軍人であった。側近を引き連れ駱駝にまたがり、モーアのもとまで駆けよる。

「よくぞご無事で」

「このような無様さで、申し訳ない」

「話はあとだ、さあ」

 招き入れられるままに、モーアやコヴァクスたちは中に入ってゆき。それからも目を見張らされた。

 城壁の中は広く、一大都市国家が築き上げられていた。

「絹の道と同じね……」

 龍菲がぽそりとつぶやく。

 昴から西への旅路、絹の道と呼ばれる通商行路を進んで。砂漠の中に花咲くようなオアシス都市を何度も見てきたが、フィリケアにも同じような砂漠の中のオアシス都市があろうとは。


「同じ問いには、同じ答えを、かしら」

 地域は違っても、人が生きる上でやるべきことは同じなのかと、思いを巡らせる。

 石造りの家々が並び、人々は窓から、片隅から不安そうな目をコヴァクスたちに向ける。

 服装は布袋をかぶるような、あるいは長い布を体に巻くように、全身を覆うものが着用されていて。中には頭や顔まで布で覆っている者もいる。太陽の日差しが強い地域である。陽光から身を守る服装が根付いているのも、昴の西方の砂漠や草原地帯と同じだった。

 遠くには高い山々がそびえ立つのが見える。この都市の泉の水脈は、あの山々からつながっているようだ。

 ジグラタル海峡より南西からやや海沿いに沿って巨人山脈と呼ばれる山脈が走り。そこから地下水脈が通り、オアシスに水を提供していると言われている。

 古代グレース人は冒険者を多く生み、地中海マーレを西へ西へと航海し。ジグラタル海峡を見つけ。陸地においてはこの山脈を古代の神話に出る巨人のようだと形容し、巨人山脈と名付けた、という伝説があるのを聞いたことがある。

 このジーハナも、巨人山脈からの水脈による泉で栄えたのだろう。城壁も、山脈から岩を切りだしたのかもしれない。

 しかし、未知の世界であるフィリケアの南方砂漠地帯に、このような都市があったとは。

 いったい、世界はどこまで広いのか想像もつかず。それでいて人は尽きず。肌の色や髪の色、目の色がちがっていようとも、それぞれの生活を営んでいる。そこに、気の遠くなるような長い長い歴史も積み重ねられていることであろう。

 さすがの龍菲も、なにか広大深遠こうだいじんのんなものに呑まれそうなものをおぼえるのだった。

 三千ほどだった軍勢は混乱の末に、一千にも満たず。すべて城壁の都市の中に入れてしまった。しかも、多くの者の顔が沈み、士気の低さをうかがわせ。彼らもまた、何かに呑まれそうだった。

 都市の太守はジャアリエといい、モーアのレコンキスタの戦いに賛同した砂漠の部族の長であり。カンニバルカが西へ西へとゆくのをちょっかいを出して足止めした黒人勢力を率いていた。

 兵士には空き家や協力してくれる民家をあてがい、モーアは邸宅に招き入れ。敷地内の井戸からくみ上げた水を振る舞う。

「すまないな」

「困ったときはお互い様だ」

「戦争がなければ、ここでのんびり暮らすのもいいものだがな」

「まったくだ」

 お互いに笑えない冗談を言い合い。苦笑する。

 邸宅は白人の支配地域にあるような精巧なものではないものの、木材も使われ日当たりがよく、かつ風通しもよい。この木はポエニキア人が運んできた杉の木であるという。


 昔々から、白人は南方の砂漠地帯に足を運んで。中には定住する者もあった。カルトガやマーレも支配の手を伸ばしてきたが、頑強に抵抗し、独立を守り抜いてきた。

 一番広い泉は邸宅の中の敷地の中に組み入れられ。曲者が水を盗めぬよう高い壁で囲われている。

 水こそ命である。オアシス都市の人々は、独立と自由と、この水のために戦ってきた。というより、戦いを強いられたと言ってもいいかもしれない。

「カンニバルカは手強いのだな」

「手強い。知恵と勇気に、度胸もある」

 それまでのいきさつを話せば、ジャアリエは「ううむ」と唸る。

「思ったよりも被害が大きく、只者ではないと思っていたが。ほんとうに、恐ろしい奴だ」

「ここをなんとしても死守せねば、我ら黒人は支配、搾取される。……きんのことは、知られてはいまいな」

「幸い知られていない。が、守り通せねば……」

 最近のことであったが、ジーハナ郊外で金脈が発見された。この金脈から金をとり、それを財源に充てていた。

 突然黒人の勢力が力をつけ、カンニバルカのカルトガ復興を妨げようとし。おそらく、そのことに関し何か不審をおぼえていることも考えられる。

 何をするにも先立つものがいる。その先立つものを、どうやって用意したのか。鋭い男であろうから、疑惑の目をジーハナに向けていてもおかしくない。

 そしてその通り、

「ジーハナになにかあるな」

 と語っていた。

 行軍中の小休止、カヴェラスモを加えての短い軍議を開き。モーアら黒人蜂起勢力の財源に言及した。

「それなりに武装し軍隊をつくりあげている。これは下地となる社会があってこそだ。そして、財源」

「ジーハナがその役目を果たしていると」

かねはオアシスの泉のように湧いてでるものではあるまい。……まさか、金脈が近くにあったというのではあるまいな」

「そんなことは聞いたことがありません」

「確信はないが、それに等しいものがジーハナにあると見える。そうでなければ、我らの邪魔をすることはできぬ」

「あったとしても、隠すでしょうな」

「それよ」

 カンニバルカの目が鋭く光る。

「他を捨ておき、ジーハナを攻め落とす。徹底的に殲滅する!」

 他の砂漠地域の部族の動きを斥候をもってさぐれば、カンニバルカの軍勢のあまりの強さに腰が引けて、動けなくなっているという。南方の砂漠地帯の、それぞれの部族にも戦士はいるが。それは一対一の戦いにおいてで、集団戦である戦争となると勝手が違う。


 事実、西進する間カンニバルカの軍勢を攻めた者たちの中には、その強さに怖じてしまった者も多かった。

 そのおかげで、他の部族を気にすることなく、ジーハナ攻めに専念できる。

「ゆくぞッ!」

 カンニバルカの軍勢は、行軍を再開した。

 刻一刻と時間が過ぎるとともに、破壊の邪神が迫ってくることをジーハナの住人たちは肌で感じ取っていた。

 ジャアリエはモーアと協議の末、大胆な策をとることにし。そのことを将兵や住人に伝え広め。一部の住民を避難させた。

 コヴァクスと龍菲は策を聞いて、

「そこまでしないと駄目か」

 と、思わずつぶやいた。

 それとともに、駄目でもともとで、他の部族たちに援軍を乞う遣いを出した。

 南方の砂漠地帯にはまだ文字が使われておらず、使者は口頭で用件を伝えるのだ。

 使者は白駱駝を走らせた。砂漠は砂の丘が波打って。乾いた風が吹き、砂を吹き上げて。その間を縫うように、白駱駝は砂漠を駆けた。

「美味しいわね」

「うん、美味い」

 民家の好意で泊まらせてもらっていたコヴァクスと龍菲は、住人から菓子を振る舞われ。それに舌鼓を打っていた。

 テオスブロマと呼ばれる木からとった種を原材料にしたものを丸めた、黒く甘い、チョコレという菓子であった。

 テオスブロマは神の食べ物という意味のグレースの言葉であるという。太古の昔、冒険を好むグレース人はこの砂漠地帯にも来ていたことをうかがわせ。その菓子を食し、甘くとろける食感と、その美味しさからそのような名をつけたようだ。

 この菓子はジーハナでよく食べられているという。

 甘い口どけを感じながら、コヴァクスと龍菲は互いに微笑みあう。

「お前さんたち、仲がいいね」

 住人一家の母親にそう言われて、コヴァクスと龍菲は笑顔で頷いた。

「戦争がなければ、チョコレを食べながらのんびりしてもらうんだけどね」

「いえ、気を使わないでください」

 コヴァクスは一家の母親の言葉に恐縮した。母親の腰に、子供がふたりひっついている。父親はテオスブロマの畑へ種を獲りに行っている。ジーハナにおいてこの種の収穫は大事な産業のようだ。

「私にできることは、チョコレを振る舞うことだけ」

「そんな。美味しいお菓子をいただけて、とても嬉しいです」

 コヴァクスと龍菲はそろって恐縮しながら、母親に感謝の言葉を述べる。その腰にひっついている子供たちは、じっと、チョコレを見つめていた。

「もうおなかいっぱい。あなたたちが食べて」

 龍菲はそう言って微笑めば、子どもたちの顔がぱっと明るくなる。


 それを見たコヴァクスも同じように、「オレもはらいっぱいだ」と言って、チョコレの入った器を差し出す。

「わーい」

 子供たちは明るい顔で器を取り、チョコレを笑顔で頬張った。

 それを見るコヴァクスと龍菲の心はなごまされる。

 母親はふたりの心遣いに素直に感謝していた。

 戦争ともなれば、兵士や騎士に頼るしかなく。機嫌も取らなければいけないと思っていたが。

 このふたりに関しては、素直に感謝する気持ちになれたのだった。

 そんななごんでいるときに、集合の号令がかかり。コヴァクスと龍菲は頷き合い、母親にチョコレの礼を言って家を出る。

 騎士や将兵はジャアリエの邸宅前に集まり。白駱駝に乗るモーアがいかめしい顔をして、集まってくる面々に鋭い眼光を送る。

 その隣にはジャアリエ。

「物見の報告によれば、もうすぐカンニバルカどもが来る」

 緊張感が一気に走り抜いた。

「ここで敗れれば、すべてが終わる。決死の思いで戦わねばならん。心せよ!」

 モーアが檄を飛ばし、騎士や将兵の顔が引き締まる。

 コヴァクスと龍菲も、ともすれば故郷から遠く遠く離れたこの地で果てるかもしれない覚悟をもたされる。

「計画通り、配置につけ!」

 言われて騎士や将兵らは持ち場に着いた。城壁で弩弓を携える者や、そのそばには壺まであり。

 コヴァクスとロンフェイは家屋の屋根の上にのぼり、またそこにも砂を入れた壺があった。

「あちッ!」

「気をつけろ」

 というような声がする。

 日差しはとても強く、風が吹けども乾いて熱を帯びていた。

 コヴァクスは甲冑を身にまとわず、薄い革製の胸当てをするのみ。この砂漠地帯での暑さの中で、とても甲冑を身にまとう気にはなれなかった。

 思えば、故郷のオンガルリは寒冷地にあたり。冬は長く雪は深く積もる。そんなコヴァクスにとって、砂漠の熱さは尋常なものではなかった。

 龍菲もこの熱さにはまいっているようであり、額に汗がにじみ、深く呼吸し息を整えているようであった。

 強い日差しから肌を守るために顔にも薄布を巻いていた。

 外に出ていた人たちは、ジーハナの城壁の中に次々と入ってゆく。

 母親は帰ってきた父親と子どもたちと一緒になって、家の中にこもるしかなかった。

「……」

 母親は黙り込んで、黒人の中には差別はなくならないから差別する側につく、と言ってカンニバルカの側に着いた者もいるという話を思い出していた。


「来たぞ!」

 絶叫がこだまし。周囲から、「ああ」という恐れを多分に含んだ呻きが聞こえた。

 城壁の将兵らは固唾をのみ、身が硬くなるのをおぼえざるを得なかった。

 砂煙をあげて、カンニバルカの軍勢が迫ってくる。

 その数はいかほどか。数千はいようかという勢いであり、巻き上げられる砂煙も厚く、まるで砂嵐が迫ってきているようだった。

「構え!」

 指揮官は怒号をはなち、将兵は弩弓をかまえる。

 砂漠を駆ける白駱駝にまたがるカンニバルカ軍の騎士や将兵も弩弓を構えており。その目鼻が見えるようになるまで近づくとともに、

「撃て!」

 と双方から怒号がはなたれ。矢の雨が城壁から降りそそがれるとともに、砂嵐に巻き上げられるように矢が砂漠からはなたれる。

「ぎゃあ」

 という悲鳴が上がる。運の悪い者が矢の餌食になり、酷い者は顔面に突き刺さりのたうちまわる有様。

 城壁からの矢も白駱駝の将兵を突き落とすが、いかんせん数が多すぎ、運の悪い者が地に転んだとてそのまま踏みつけにされるだけのことであった。

 軍勢の先頭には長梯子がかかげられ、城壁に迫る。それをもつ将兵に向かい矢を放つも。それは想定済みであり、この暑さの中分厚い鉄の鎧を着こみ。ことごとく弾き返され。

 ついに、長梯子が城壁にかけられ。そこから将兵がよじのぼってくる。

 同時に城門にはそれを破壊するための、太い丸太の先をとがらせた破城鎚が迫る。破城鎚には三角屋根も取り付けられて、城壁からの矢の雨から兵士を防いでいた。

 鎚が城門にぶち当てられ、どおんという、耳障りな轟音がとどろく。

 長梯子からは兵士がよじのぼって城壁の兵士を見上げ、狂気に駆られた血走る目で睨む。

 それは黒人の兵士であった。

「どうせこの世から差別はなくならない。それなら、差別する側についた方がいい!」

 という無情の叫びが、その目から聞こえるようであった。

「馬鹿め……」

 城壁の兵士も黒人が多い。胸をかきむしられるような痛みをこらえて、厚手の皮手袋をはめて壺の中の砂を掴み、長梯子の兵士むけてかけた。

「うわあ、あちち!」

 砂は強い日差しによって熱せられ。砂を被った兵士は肌を焼かれるような熱さを感じ。あるいは目にも入り。悲鳴を上げ体勢を崩し、長梯子から落ちてゆく。

 矢もまだ残っており、焼けた砂とで長梯子をよじのぼる兵士を防ぐ。しかし、破城鎚は城門を打ち破り、勢いよく開いた城門からカンニバルカ軍の将兵が雪崩れ込む。


「砂をかけろ!」

 城門に近い家屋の屋根にのぼっていた将兵らは、壺をひっくり返して焼けた砂を雪崩れ込む将兵に思いっきりかけてやった。

「うおお!」

 という怒号が響き渡る。熱した砂をかけられ、カンニバルカの側の兵士たちは恐慌に陥る。

 そこへ弩弓によって容赦のない矢の雨があびせられ。

 兵士らは針鼠のような無残な姿で斃れた。

「下がれ! 役立たずどもめッ!」

 カンニバルカの怒号が轟く。

 黒人たちをそそのかして、先頭を切らせたのだが。戦争に慣れていない者も多く、出足をくじかれるばかり。それはカンニバルカにとって我慢ならぬことであった。

「やはり我らでなければならぬか」

 カンニバルカは号令を受けて逃げ帰る黒人兵士と入れ替わるように、馬を駆けさせ、黒軍フェケテシェレグを率いて進軍し、開け放たれた城門向かい突き進む。

 その間矢の雨も浴びせられたが、盾でもって防ぎ。少ない被害でジーハナ城壁内へとなだれ込んだ。 

 カンニバルカと黒軍もやはりこの砂漠の熱さには勝てぬようで、分厚い装甲の甲冑ではなく、革の鎧を身にまとっていた。

 さっきと同じように焼けた砂が浴びせかけられる。運の悪い者は鎧や下着の中や目に砂が入、少しばかり恐慌をきたすが。全体的にうろたえることはなく、下から逆に矢を射返し。

 守備兵の中には射抜かれて落ちたところを剣でとどめを刺される者が見受けられた。

「来たか」

 カンニバルカと黒軍の襲来に、コヴァクスは歯軋りした。屋根の上にのぼり、龍菲とともに砂をかけていたのだが。

 急いで下りて、カンニバルカと戦いたい衝動に駆られる。

 城壁の中ともなれば地面は平らに踏み固められて。カンニバルカらは馬蹄を響かせ中へ中へと突き進む。

 それと守備兵は対峙するが、まるで人形を倒すように吹き飛ばされるばかり。

 人々は恐慌をきたし、ところどころで悲鳴があがった。

 一旦なだれ込まれてしまえば、そのあとに続く者も絶え間なく。もう矢も焼けた砂も効き目はなく。

 城壁も突破され、カンニバルカの側の将兵は階段を足早に下り市街地に侵入する。

「お母さん、なにしてるの?」

 コヴァクスと龍菲を自宅に受け入れていた母親は、何を思ったのか鍋でチョコレを煮ていた。


 チョコレは溶けてぐつぐつと泡も立ち。甘い香りが鼻に触れる。

「これで、悪い奴らをやっつけるんだよ」

 恐怖におののいていてもおかしくないこの状況で、母親は動揺のひとつも見せず。つとめて優しい顔を子供らに向ける。父親も同じように動揺を見せず、「うん」と頷く。

「怖くないの?」

「そりゃあ、怖いよ。でも、怖さよりも、悲しさが大きいね」

 親子のそんなやりとりがなされていると知らず、コヴァクスと龍菲は龍星号にまたがり、屋根から下りてカンニバルカの将兵らとやり合いながら、世話になっている母親たちのもとへと向かっていた。

「せめて、お世話になったあの人たちだけでも……」

 カンニバルカの軍勢のほとんどが、ジーハナに雪崩れ込んで。ところどころで悲鳴もあがり、火の手も上がった。

 屋根の上や城壁の上の将兵も下りて、激しい市街地戦を繰り広げていた。

 中心にあるジャアリエの邸宅にあっては、モーアとジャアリエが、

「もはやこれまでか」

 と、覚悟を決めて打って出ようとした。

 できるだけのことはしたが、焼け石に水であったことを痛感する。

 住民には逃げるよううながした。が、どれだけの者が逃げられるのか。逃げたところで、行く先はあるのか。

 龍星号は混乱の中を駆け、ようやくにして受け入れ先の家が見えてくる。しかし、無情にも兵士が数名入ってゆくのも見えた。

「おばさん!」

 コヴァクスと龍菲は叫んで、龍星号から下馬して駆けた。同時に、

「ぎゃあ!」

 という悲鳴がしたかと思えば、なぜか兵士が転がりながら家から出た。それを蹴飛ばしながら家の中に入れば、

「ああ、そうか!」

 コヴァクスと龍菲は笑顔になった。

 だが龍菲が崩れるように倒れこむ。これはいけないと支えるが、顔が赤い。思った以上に、この熱さにやられているようだ。

「無理をしていたのか」

「ごめんなさい、肝心なところで役に立てそうにないわ」

「馬鹿なことを言うな。あとはオレがやる」

 コヴァクスは家族に龍菲を預けて外に出て、

「カンニバルカはどこだ! 小龍公はここだぞ!」

 などと叫ぶ。

「オレは絶対にお前につかぬぞ! 父の敵を、この手で討つ! 勇気があれば来い、無ければ立ち去れ!」

「小龍公か! お前などカンニバルカさまの手を煩わせるまでもない!」

 近くにいた黒軍の騎士が迫る。


龍の心 (シャルカーニュ・シーヴ)


 カンニバルカと同じように槍斧を振りかざす者もいた。それを見て、まずその者のもとへと駆ければ。脳天を叩き割ろうと槍斧が振り下ろされる。が、逃げずにそのまま距離をつめ、ふところに飛び込み体当たりを食らわせる。

「うお!」

 体当たりを食らわされて、騎士はよろけ。そこの腹に思いきり蹴りを入れれば、たまらず槍斧を手放し後ろに倒れる。

 素早く剣を鞘におさめて槍斧を拾い上げ、迫る敵兵をうまくかわす愛馬が近づき、素早く騎乗する。

「見ちゃだめよ」

 龍菲はよろけながらも、外の様子を見れぬよう、子どもたちを抱きしめる。

 母親と父親は、無言でことの成り行きを見守るしかなかった。

「おのれ!」

 コヴァクスを討とうと騎士や将兵が迫り、それを槍斧をもって弾き飛ばす。

 いつの間にか、味方の将兵が集まり。コヴァクスとともに勇戦する。

「かくなるうえは、恥ずかしくない死に様を!」

 そばにいた兵士がコヴァクスとともに戦いながら叫ぶ。彼らは最期をさとり、立派な討ち死にを遂げようとする。だが、

「馬鹿を言うな!」

 と言う。

「勝つんだ、何がなんでも勝利をもぎとるんだ」

「本気で言っているのか」

「本気だ。お前らも本気で、勝つために戦え」

 いつの間にかコヴァクスは一軍の将のように振る舞って。味方の兵士たちは呆気にとられ。

「気が狂ったか」

 数に勝る敵兵らは嘲笑う。だがコヴァクスは動じない。

「笑わば笑え、人としての誇りを失い、畜生に成り下がった前らにわからぬことだ!」

「なんだと、言わせておけば!」

 敵兵ら、主に黒軍の騎士らは一斉にコヴァクスに群がる。

「お前みたいな貴族のおぼっちゃまなど!」

 黒軍は身分を問わず、カンニバルカが選りすぐった戦士で結成された精鋭部隊であった。そんな彼らは、貴族を快く思わず、機会があればはずかしめ、ぶっ殺してやる、というような物騒なことを考えていた。

 その機会をカンニバルカから与えられ、狂喜乱舞し、我が世の春を謳歌していた。

 鋭い眼が黒軍の騎士らをとらえ、コヴァクスは槍斧を振るう。

 黒軍の騎士らは強かったが、コヴァクスの動きはよく訓練され、身のこなしも洗練されたもので。巧みに刃をかわしながら槍斧の斧を相手に叩きつける。

 相手が同胞であろうと、容赦はしなかった。

(異郷の地で同胞と戦うとは……)

 なんという運命であろうか、これを宿命というのだろうか。そう考えなくもない。


 だが、これは命を懸けた戦いであり、相手もそれは承知の上の事であろう。ならば、容赦することはないと自分に言い聞かせた。

 槍斧振るわれるたびに、黒軍の騎士たちは落馬し。そのまま動かぬ者も少なくなかった。

「どうしたんだ、あの時と別人のようだ」

 黒軍の騎士らは少しばかり怯みを見せた。それが他の兵士にもうつり、攻めの勢いが少しばかりそがれて、動きが止まった。

「こいつ、そんなに偉い奴だったのか」

 味方の兵士たちはコヴァクスの素性を知らない。それだけに、まさに将としての強さを見せるコヴァクスに敵兵と同じように舌を巻いていた。

「オレの心には紅の龍牙旗がある。お前らみたいなちんぴらに、それがわかるか!」

 黒軍の騎士たちも呆然としながら、あのとき、ドラヴリフトが死してなお地を踏みしめ立ち上がっていたことを思い出す。

 家の中で家族とともにいる龍菲は、子供たちを抱きしめながら微笑んだ。

「燕雀安知鴻鵠之志」(イァンチュアンチホンクゥチィチィ)

 燕や雀のような小鳥には、鴻鵠(白鳥)の志はわからない。古来より伝わる、そんな意味の言葉をつぶやく。

「え、なんて言ったの?」

 初めて聞く言葉に子供たちは不思議そうにしていた。恐怖におののいてふるえてもいた。しかし、龍菲の胸に抱かれ、恐怖はだいぶやわらいでいるようだ。

「うふふ、大丈夫よって言ったの」

 熱があり無理もできぬ身ながら龍菲は微笑みを絶やさず。子供たちに優しく語りかける。

 母親と父親は無言で、勝利を祈るしかなかった。鍋のチョコレは、ぐつぐつ煮えていた。

「なに、小龍公が!」

 モーアとジャアリエは打って出て、敵兵と渡り合っていたが。コヴァクス勇戦の報せが飛んできて、たいそう驚かされたものだった。

 カヴェラスモを従えるカンニバルカがふたりの首を獲ろうと目前まで迫ってきていたが、同じようにコヴァクス勇戦の報せを受け。

「しゃあッ!」

 と、言葉にならぬ忌々しい叫びをあげ。馬首を返し、場所を知る兵士に導かれて馬を駆けさせる。慌てたカヴェラスモは迷いながら後ろをついてゆく。

「来ないのか、オレの首が欲しくはないのか!」

 コヴァクスは槍斧を掲げて叫ぶ。黒軍の兵士は見えないなにかに圧されたように、動けなかった。

「これが龍公の子、小龍公か」

 あのとき、コヴァクスたちは真っ先に逃げたのは、ドラヴリフトの言いつけによるものだったとは知らないので。彼らのコヴァクスらを侮る気持ちは強かった。カンニバルカに捕えられたとき、侮る心は増長した。

 しかしどうだ、この、父にも劣らぬ威風堂々とした様は。何が小龍公をそうさせるのか。


(こんなとき、父上ならどうしただろうか)

 ふと、閃くものがあった。

「これまでのおこないを悔い改め、忠誠を誓うならば配下に加えよう。異議があるなら剣をもって訴えてもよいぞ!」

 激しい市街地戦が繰り広げられる中、なぜかこの場だけ硬直していた。黒軍の騎士の様子を見て他の兵士、特にカンニバルカの側についた黒人の兵士たちの動揺は大きかった。

「わあ!」

 この硬直状態の中、突然叫びが上がった。

 黒人の兵士が、あろうことか棒切れを持つ女性たちに打ちつけられているではないか。

「この馬鹿たれ、馬鹿たれ!」

 意表を突かれた黒人の兵士は女性たちに打たれるがままだった。

 コヴァクスの勇戦に勇気を得た女性たちは、手近にあった棒切れを握りしめ。かたまった兵士に襲いかかったのだ。

「これは」

 コヴァクスも驚きを禁じ得なかった。

「おのれ女!」

 気を取り直した兵士たちは女性たちに斬りかかる。いかんと、コヴァクスは馬を駆けさせ味方の兵士も駆けて、女性たちを助けにゆく。そこへ白い影が飛んできて、女性たちに襲いかかる兵士を弾き飛ばす。

 それは龍菲だった。顔を真っ赤にし、女性たちをかばって兵士の前に立ちはだかる。

 が、いかに眼光鋭くとも、衰弱はごまかせず。思わずよろけてしまう。それでもどうにか立ち、兵士と対峙する。

 後ろの女性たちは、涙を流していた。

「この馬鹿たれ、なんで黒人同士で戦わなきゃいけないのさ!」

 耳のみならず、心をも突く叫びだった。

 黒人の兵士たちは、立ちすくんだ。

 厳しい自然と向き合い、いかなる試練にも涙をこらえ家庭を切り盛りし、子どもたちを育てていた女たちが。この時ばかりは、こらえきれずにとめどもなく涙を流していた。

 コヴァクスと龍菲の受け入れ先の母親も、こらえきれずに涙を流していた。

「何を言っているのか知らんが、この黒人女どもを始末しろ!」

 黒軍の騎士は剣をかざし黒人兵士に命令する。

 言われて彼らは刃を振り上げ、味方のはずの兵士に襲いかかった。

「お前たち、狂ったか!」

「うるせえ、狂わせたんじゃないか!」

 硬直状態は解け、再び刃ひらめく戦いが再開された。しかし今度は、ジーハナを守ろうとする黒人兵士の数が一気に増えていた。

「ううむ、なんたることだ!」


 丁度その場に到着したカンニバルカは、歯も砕けんばかりに歯軋りした。少し後ろのカヴェラスモにモーア、ジャアリエもこの光景に驚き、何が起こったのかわからなかった。

「何があった」

 カンニバルカの側についたはずの黒人の兵士たちが、次々とこちらに寝返っている。

 モーアの姿をみとめた兵士はすぐに駆けより、事の次第を話す。

「小龍公の勇気、それに……」

 モーアは深く呼吸し、言葉を継いだ。

「母の心が、カンニバルカの軍人としての強さを凌いだというのか」

 カンニバルカのその強さを知れば、誰でもその側につかざるをえないと思っていたのが。このようなことでひっくり返されようとは。

「なんかえらいことになった」

 予想外の展開にコヴァクスも驚かされるが、驚きっぱなしというわけにもいかず、気を持ち直してこれを好機ととらえ。

「勇気ある者は我らにつけ!」

 叫びながら黒軍の騎士と渡り合った。一方、龍菲はついに立つこともままならず崩れ落ち膝と手を地につけてしまい。それを女性たちが介抱する。

 その女性たちを、こちらの側についた黒人の兵士が守った。

 あらぬことが起き、黒軍の騎士たちの心に動揺が芽生えた。数の上では黒人が多い。そのほとんどが寝返り、こちらに襲いかかってきているのだ。

 強さはたいしたことはないとはいえ、力量の差を数で押し返され。刃振るい危機を乗り越えようとするも、虚しく討たれる者も少なくない。

「ええい、忌々しい小龍公の小僧めッ!」

 炎でも吐き出すかと思われるほどの裂帛の気迫を込めて、カンニバルカは馬を駆けさせコヴァクスに迫った。

「来たか!」

 大将がやるとなればそれにまかせようと、コヴァクスと渡り合っていた黒軍の騎士はすぐに離れて、道を開けた。

 モーアとジャアリエは少しの間呆然とさせられたが、すぐに気を取り直し、ふたりでカヴェラスモに襲いかかる。

「待て、カンニバルカに脅されたのだ」

 腕に覚えがないわけではないが、カヴェラスモは話を聞いてくれと叫び許しを乞うた。

「問答無用! 共戦すべきを分断させた罪は重い」

 ふたりに迫られ、ふたつの刃に襲われ。かといって助けようとする者もない。カヴェラスモも抗うが、抗いきれず、ついにふたつの刃によって討たれてしまい。地に崩れ落ちてしまった。

「小龍公、助太刀いたす!」

「無用!」

 助太刀しようとする味方の将兵に「無用!」と叫び、コヴァクスはあくまでもカンニバルカとの一騎打ちを望んだ。


 そのカンニバルカは突如噴火した烈火山か嵐の怒涛の勢いで槍斧を振るい、コヴァクスと渡り合った。

 相手の事を考え、槍斧を奪い取ったわけだが。それでも、衝撃は強く上手く受け流さないと弾き飛ばされそうだった。

「これで助太刀を断るなんて、何を考えているんだ!」

 近くにいた将兵らは困惑をおぼえる。騎士同士の一騎打ち、邪魔をしてはならないし、向こうもそれを望んでいるのもわかるが。

「かっこつけてる場合か!」

 じれったい叫びが飛ぶ。

 カンニバルカの強さはコヴァクスとて身をもって知っているはずだ。モーアとジャアリエも固唾をのんで見守る。

 龍菲も女性たちに介抱されながら日陰にうつされ、一騎打ちを見守る。が、そこに不安はなかった。

 黒軍の騎士たちといえば、遠くにいる者は交戦すれども近くの者は思わず動きを止めて一騎打ちを眺めていた。

「これで小龍公が勝ったら、オレたちはどうなる」

「……、ありえぬことではない」

 そんなことを話す者も、ちらほらと見受けられた。

 それとは対照的に、にわかに寝返った者を含めて黒人の兵士たちは勝利をもぎとるために必死の思いで戦っていた。

 カンニバルカの槍斧が唸りを上げるたび、コヴァクスはじりじりと押されてゆく。やはり一対一での戦いとなれば、カンニバルカの戦士としての力が勝っていた。

 上から、下から、右から、左から。槍斧は変幻自在に向きを変え、打ち砕こうと迫り。

「あッ!」

 ついにこらえきれず、コヴァクスの手から槍斧が弾き飛ばされてしまった。

(ままよ!)

 槍斧は鈍い音を立てて落ちて。得物を弾き飛ばされたコヴァクスは無理に体勢を立て直そうとせず、身体を傾げてそのまま馬から落ちるようにして下り。

 自分の足で地を蹴り、剣を抜き、馬上のカンニバルカ向かって駆けた。

 その頭を砕こうと槍斧が迫る。それを、咄嗟に倒れこむほどに身をかがめながら跳躍し。

 馬脚を剣で叩き斬った。

 馬は悲痛な悲鳴を上げて暴れて、いかにカンニバルカとて馬の力には勝てずたまらず振り落とされてしまった。

 うまく受け身をとって着地したが、その顔は血と火をともに吹き出しそうなほどに真っ赤になっていた。

「小僧、オレを地に立たせるとは……」

 だがコヴァクスは聞かず、受け入れ先の家へと駆けた。

「いまさら怖じ気ついたか!」

 カンニバルカも後を追って駆けた、家に入ろうとした。


 その時。

 何かを顔にかけられ、それは熱く熱湯のようだった。が、ねばりがあり、しかも変に甘かった。それは煮えたぎったチョコレだった。

「うおおッ!」

 砕いても砕けぬ岩石のような顔面のカンニバルカだったが、さすがにこれには驚き。慌てて外に出た。それは熱をもち、こらえきれずに槍斧を落とし顔を手で多い、ぬぐおうとし。

 そこへ、コヴァクスが鋭い突きを喰らわせようとするが。

「しゃらくさいッ!」

 顔から手を離して素早く避けて、拳を握りしめ丸太のように太い二の腕をコヴァクスの顔面に叩きつける。

 コヴァクスもそれを避けようとしたが避けきれず、ひたいに強い衝撃を受けてたまらず倒れこむ。

 剣を落とし、頭もくらくらし立つこともままならない。「うう」とうめき、歯を食いしばり痛みをこらえるしかなかった。

「小僧……、いや、小龍公よ。オレをここまで怒らせたことは褒めてやろう。褒めればこそ、父のもとへ導いてやろう!」

 顔にチョコレがこびりつき、熱もまだ感じながら。うずくまるコヴァクスの首根っこを掴んで無理やり立たせ。

 両手で首を持ち上げる。

 コヴァクスも抗うが、頭がくらくらし、力が入らず。蹴りを入れようとしても、つま先はまるで柳のようにゆれるだけだった。

「ああ、コヴァクス……」

 龍菲は立ち上がろうとするが、

「無理しちゃだめだよ!」

 女性に止められるが。そうでなくても足に力が入らず、立ち上がれない。

 わずかながらも希望が見えてきたかと思ったが、甘かったか。それならせめて、コヴァクスと同じ時に死のう。そう覚悟を決めたが。この様では自決もままならないことが、悔まれた。

「その首をへし折ってくれる!」

 力が籠められ、コヴァクスの首の骨が砕かれようとしたが。同時にカンニバルカの顔に蠅などの小虫が群がってくる。それは目や鼻、口に耳にも入り込もうとする。

「ぬ、うおお!」

 最初は無視していたが、顔の穴に小虫が入りこもうとするのはいかんともしがたく。カンニバルカはたまらず手を離し。コヴァクスはどさりと地に落ちた。

 小虫らは顔にこびりついたチョコレを目当てに、カンニバルカの顔を真っ黒に染めるように群がってくる。

 手で小虫らを追い払おうとするが、払っても払ってもきりがなかった。

「水を、水をもってこい!」

 しまった、そのために顔にチョコレをかけたのか。そう気づいた時には遅く、せっかくの機会をみすみすと逃したことを悔いるがそれ以上に小虫の襲来がたまらず、

「うおお、来るな、来るな!」

 カンニバルカほどの剛の者が悲鳴を上げてしまった。皮肉にも、人間が相手ならば無敵にも近い力が、小虫には通じなかった。

「ああ……」

 コヴァクスはくらくらしながらもどうにか剣を拾い、カンニバルカのもとまで歩こうとする。

 そこへ女性たちが止めるのを振り切った龍菲がやってきて。ともに支え合い、剣を握り合って前に進んで。

「うおお!」

「やああ!」

 あらん限りの声で叫んで力を振り絞り、小虫に翻弄されるカンニバルカに剣を突き立てた。

 剣を突き立て、後ろに倒れこむように離れれば。

 カンニバルカは小虫に群がられながらふたりを鋭い眼光で睨み据え。突き立つ剣を抜き。

「無念」

 と叫んで、後ろに倒れて。天を仰ぐようにしながら、ぴくりとも動かなかった。

 カンニバルカ、ここに斃れる。

 黒軍の騎士らはどよめいて、信じられない気持ちだったが、目の前で起こったことは夢ではなく。現実なのだ。

「勝ったのか、オレたち?」

 黒人の兵士もにわかには信じられなかった。しかし、カンニバルカは斃れた。

「勝った、勝ったぞ! オレたちは勝ったぞ!」

 誰かがそう叫べば、次から次へと「勝った!」という叫びがこだました。


 モーアとジャアリエは、勝利の叫びに身を包まれながらも、呆然としてしまった。

 コヴァクスと龍菲はへたりこみながらも互いに肩を寄せ合い、もの言わぬカンニバルカを見据え、勝利の叫びに身を包まれていた。

 そのかたわらに龍星号が来て、心配そうに龍菲に鼻を近づける。

 そこで気が抜けたのか、龍菲は目を閉じコヴァクスの肩に頭を乗せた。

「まあ大変!」

 受け入れ先の母親をはじめ、女性たちは龍菲を家の中に運んで。ベッドに寝かせて、安静にさせる。

「よくチョコレのことに気付いてくれたわね。ああやって、悪いことをした奴をこらしめるんだよ」

 弱って何も言えないが、そんなえげつないこともこの地の果てとも思えるところにもあるのかと思うと苦笑いするのを禁じ得なかったが。

 この母親は自分たちが来るのを期待していたのかと思うと、改めてその心情に思いをはせた。

 その間、黒軍の騎士をはじめカンニバルカの側の将兵たちは、

「まいった、降参だ!」

 武器を捨てて戦意のないことを示して、戦いは沈静化していった。

 コヴァクスはどうにか立ち上がって、愛馬の手綱を握りしめ。目の前の黒軍の騎士を見据える。

 コヴァクス自身、消耗していて討とうと思えば討てそうだったが。大将が斃れたいま、それをすることの利点は見当たらなかった。

「お許しを、小龍公!」

 誰かが跪く。それから、黒軍の騎士らは次々と跪いていった。遠くの者も話を聞き、急いで駆けつけ跪く。

 それとは対照的に、黒人兵士を主にモーアの側の兵士は勝利の喜びを分かち合っていた。

「お前たちの事は追って沙汰する! ひとまずジーハナの城壁の外へ出よ!」

 モーアだった。黒軍の騎士をはじめカンニバルカの側の将兵を一喝するように叫べば、戸惑いながらもそうするしかないと、力なく城壁の外へ出た。

 ジャアリエは部下とともにジーハナの市街地の混乱を鎮めるために駆け回る。

 というとき、使いに出していた使者が、黒人の部族の戦士たちを率いてジーハナにやってきて。

「幸か不幸か、我らの出番はなかったのですな」

 笑顔でモーアと勝利を喜び合った。その中には、意外な人物がいた。

 バジオだった。

 武装し、白駱駝にまたがって、軍勢の中にいた。

「これで蹴球ができる」

 と、素直に喜んだ。

 彼も彼なりに考え、意を決し武器を手に取る決意をしたのだが。

「君の蹴球仲間はよく戦った」

 そうモーアが言えば、バジオの笑顔はさらに弾けた。


 それから、戦いの後、人々は後片付けに汗を流した。

 カンニバルカを討ち第一の戦功を立てたコヴァクスと龍菲はジャアリエの邸宅に招かれたが、居心地がいいからと、受け入れ先の家族と一夜を過ごした。

 朝が来れば、復興の槌音が響き渡り。それを耳にしながら、コヴァクスは愛馬・龍星号にまたがり、城壁の外へ出た。

 龍菲は受け入れ先の家で身体を休めていた。熱さにやられていたが、一晩休めば体調もだいぶよくなっていた。それでも、無理をせずに、一日休むことにした。

 子供たちはよくなつき、欲してもいないのにチョコレを差し出され。それをつまんだ。

「美味しいね」

 笑顔でそう言えば、子供たちも笑顔で頷いた。

 そんな風景を思い浮かべて、思わず笑顔になりそうになるコヴァクスだったが。黒軍の騎士たちと対峙すると、気を引き締め目つきも鋭くなる。

「小龍公、これからどうなさるのですか」

 誰かが不安そうに言った。頼みの綱のカンニバルカはなく、コヴァクスに見捨てられれば、この砂漠の大地に骨身を埋めなければならなかった。

「オンガルリに帰りたいか」

「はい、帰りたいです」

「そのオンガルリはな……」

 コヴァクスが逃亡してからのいきさつをはなし、黒軍の騎士らは騒然とする。

 国は亡んで、アラシアに征服されてしまったこと。旧ヴーゴスネアのリジェカ地域で暫定的に新オンガルリを建てたこと、などなど……。

 話を聞くにつれて、黒軍の騎士たちの顔は青ざめてゆく。まさか、そんな、という声も出た。コヴァクスは嘘をついているのではないか、という声もあった。

「信じる信じないは自由だ。今はどうなっているかわからん」

 遠く離れたフィリケアの地ではオンガルリの話を聞くことはなかった。

 黒軍の騎士らは国を捨て、新天地で自由気ままに生きられるというあらぬ希望をもっていたが。それは儚くも打ち砕かれ。しかも故国も亡んだと聞けば、どうして平常心でいられよう。

「馬鹿だった。いっときの欲望に取り憑かれて、帰る場所すら失うとは、ほんとうに馬鹿だった」

 数名崩れ落ちて、こらえきれずに涙を流す。

 コヴァクスの話がどこまでほんとうかわからない。しかし、ここでの戦いに敗れて、自分たちの行く末がわからず暗闇の中に閉じ込められた気持ちなのはほんとうだった。

「どうかお許しあれ、小龍公! これまでのことを悔い改め、忠誠を誓います!」

 それを見て、憐れみを思わずおぼえたが。自分もかつてはこんなだったと思うと、自身の胸の内に恥じらう心も芽生える。

(オレも同じだ。彼らと同じだった!)

 そう思うと、責めるに責められない。

「わかった、オンガルリに一緒に帰ろう」


 その声に、ほとんどの者が顔を上げた。

「ただし、今はどうなっているかわからん。ここでの戦い以上に、過酷な戦いが待っている。それでも戦えるか?」

「戦います、戦わせてください!」

 黒軍の騎士らは、たまらず跪いた。かつて抱いていた貴族への嫉妬交じりの蔑視なとにかまっていられなかった。

「よし。帰ろう。オンガルリに帰ろう、いや、オンガルリを取り戻そう。それができてこそ、ほんとうの勝利だ!」

「はい!」

「今すぐには無理だが、明日ここを発とう。オレはモーア殿と太守殿に話をしてくる」

 馬首を返しジーハナの城壁に入るコヴァクスの背中を、黒軍の騎士らは頼もしそうに見守り。

「なるほど、小龍公……」

 と、ぽそりとつぶやいた。

 ジャアリエの邸宅にゆき、両名と面会を求めて許されれば。バジオもおり。皆で円卓を囲んだ。

「いい蹴球仲間ができたと思ったのに、残念だ」

「すみません。素性を隠して」

 バジオとジャアリエはコヴァクスの素性を知り驚いたが。それ以上にここを離れることを惜しまれた。

「君はほんとうに立ち直ったな。父上も喜んでおられることだろう」

 モーアもコヴァクスに優しいまなざしで見つめる。

 これから、ジーハナは黒人たちのレコンキスタの戦いの本拠地として、旧マーレ人の子孫たちの勢力と戦い続けるが。カンニバルカが討たれたことで勢いも鈍り。

 もしかしたら、刃を交えずに和平交渉ができるかもしれないという。そこからさらに、秘密の金脈をもってして、ジーハナといわず周辺地域を発展させてゆきたかった。

「我らが望むのは、あくまでも日常の生活。バジオ風に言えば、蹴球を楽しめる日常とでも言おうかな」

 珍しくモーアは冗談を言い。それを聞くバジオは苦笑いをする。

 だがコヴァクスは苦笑いせず、素直な心でその言葉を受け取った。絶望から立ち直れたきっかけは、バジオが蹴球に誘ってくれたことだったから。

「僕も同じです。戦うのは、あくまでも、平穏な日常を取り戻したいからです。やっぱり、戦争より蹴球が楽しい」

「その通り。ゆきなさい。君は小龍公としての使命をまっとうするべきなのだ」

 話しはそこで終わり。コヴァクスとバジオは外に出て、人々とともに復興のために汗を流した。

 そして翌日。龍菲も体調を回復させ、コヴァクスとともに龍星号にまたがり。黒軍の騎士も整列し。

 その見送りにモーアにバジオ、ジャアリエのみならず。受け入れ先の家族や黒人の兵士たちがいた。


 その場で改めて、敵味方問わず死者への弔いのための祈りを皆で捧げた。

 カンニバルカは手ごわい敵であったが、その心情は今のコヴァクスと同じであったと思うと、いたましさも覚えるのであった。

 祈りを捧げ終われば、

「ねえ、チョコレいっぱいあげるから、ずっといてよ」

 子供たちはそう言って、コヴァクスと龍菲との別れを泣きながら惜しんだ。

「ごめんね。私たち、行かなきゃいけないの」

 龍菲も泣きそうだった。はるか遠い、大陸の東方の果ての昴から、この西の果てのフィリケアのジーハナまで長い旅をしたが。心安らぐ交流をもったことはなかった。

「あんまりわがまま言っちゃだめよ」

 と言いながら、母親も泣きそうだった。が、それをこらえて笑顔で、

「頑張るんだよ」 

 と言い、コヴァクスと龍菲は頷いた。

「生きていれば、また会える日も来るさ」

 無口な父親が、ぽそりとつぶやき。その言葉に、一同頷く。

「では……」

 コヴァクスは皆に一礼し、黒軍の騎士らに向き直れば。

「行軍開始!」

 よく透る声で号令をくだせば。「おお!」という勇ましい返事が返って。

 砂漠を踏みしめながら、行軍を開始した。

 それはもう、カンニバルカに率いられた荒くれ者の集団ではなく、小龍公率いるオンガルリの黒軍であった。

 人々は手を振って見送り。勝利を祈る。

 見送られるコヴァクスたちは、振り返りたい衝動をこらえながら。ほんとうの勝利のために、一歩一歩を踏みしめていた。


魔術師マギア、還る


 季節は初夏に入り、汗ばむ陽気が下界をつつむ。

 国王だったはずのコヴァクスが失踪し、代理として国を治めていたニコレットはイヴァンシムらの助けを得て自分の仕事をどうにかこなしていた。

 情報収集も怠らない。

 にっくきシァンドロスはグレース一帯の都市国家群を統一・支配し、ソケドキアに編入。

 トンディスタンブールでダライアスが挙兵したが、それは騙りで。ほんもののダライアスは、ジャルシードの杯を得て獅子王を名乗り。アラシアの新たな大王となったこと。

 それから、ロヒニに来た商人経由で、驚くべき話を聞いた。

「フィリケア大陸でのマーレ人の子孫とカルトガ人の子孫の争いに、終止符が打たれそうだ。小龍公コヴァクスなる者の働きによるところも大きい」

 その話はロヒニ中を駆けめぐった。

「小龍公はフィリケアにいただと!」

 人々の驚きは大きかった。

 もちろん、ニコレットたちの驚きも大きかった。

 すぐにその商人を議事堂に読んで、詳しい話を訊いた。

「はい。カンニバルカなる剛の者が突然現れ、それを小龍公コヴァクスなるお方が討ち。そのために戦局は大きく動き、決着がつきそうだと」

「それは、ほんとうですか? まるで夢か幻を見たという話のような」

 ニコレットは思わずそうつぶやいてしまい、人にものを訊きながらなんだと、商人は少し頬を膨らませた。

「失礼。お気を悪くせぬよう」

 同伴するイヴァンシムは丁重に礼を言い。商人は「私が知るのはそこまでです」と帰っていった。

「お兄さまが、フィリケアの地でカンニバルカを討った。どういうこと!?」

 ニコレットはやや恐慌気味になった。

「まあまあ落ち着いて。時間はかかるでしょうが、人をフィリケアに遣って詳しく調べましてはいかがかな」

 バリルがニコレットをなだめるように助言をする。

 近侍としてニコレットのそばに仕える騎士見習いのクネクトヴァとカトゥカも、「なにがどうなっているの?」

 と、ちんぷんかんぷんの体であった。 

 それから数日、気を取り直したニコレットは自分の仕事に打ち込んでいたが。港詰めの役人が、息を切らして議事堂に駆け込んでくる。

 なにごとかと、イヴァンシムとバリル、ダラガナが問えば。

「一軍を乗せた船団がロヒニに来ております! それも、小龍公とオンガルリの黒軍であると」

「なんと、それはまことか」

「は、はい。さきほど近海の警備に当たっていた警備船が、その船団と遭遇し。小龍公と会ったと」


「これは一大事。私は小龍公女にお知らせするゆえ、バリルとダラガナはすぐに港へ」

 バリルとダラガナは港へゆき、イヴァンシムは事の次第を報告すれば。

「なんですって!?」

 話を聞いたニコレットの驚きはどれほどのものであったろうか。


「あれは……」

 船団の先頭の船にて、コヴァクスは海を眺めていた。

 潮風が心地よく頬を撫でる。

 その隣には、龍菲。

 海には、八頭の鯱が背びれを見せて海面を泳いでいる。

「白と黒の……。あれが、ダラガナ殿が言ってた八頭の鯱か」

「あれが、鯱なのね。まるで熊猫パンダみたいね」

「熊猫って?」

「昴にも、あんな白と黒の熊のような獣がいるのよ」

「鯱のような、白と黒の熊? 珍しい獣がいるんだね」

 などなど、のんきなことを話していた。

 ジーハナの近くに金鉱が発見され、それを資金源にモーアたちはレコンキスタの戦いに挑んだのだが。

 その戦いにおいて功績の大きかったコヴァクスへの礼として、金脈からとれた金をもって、黒軍を海上輸送できるほどの船団を手配したのだ。

 輸送を受け持つのはポエニキア人の船乗りたち。彼らは、新たに上得意ができるとよく働き、船をそろえて。おかげでコヴァクスたちは海の行路で直接ロヒニに渡ることができた。

 ともあれ、コヴァクスが帰ってくるとの報せは新オンガルリ中を駆け廻り。

 難を逃れ亡命していたオンガルリ女王のヴァハルラと第一王女オレアに第二王女オラン、そして末っ子の王子カレルに。その護衛のマジャックマジルにアッティ。

 さらにソシエタスに、ラハマディとペロティアも知るところであった。

 ソシエタスはすぐに支度を整え、留守を部下に任せて馬を飛ばし。

 ラハマディとペロティアも同じように留守を仲間に任せてロヒニへと馬を飛ばした。そんなラハマディの背負う袋の中には、蹴球の球が入っていた。

「見えたぞ!」

 船団が姿を現し。港に詰めかけた人々は喚声をあげた。

 行方不明になったコヴァクスが帰ってくるのだ。もう帰ってこないだろうとあきらめていた人々もいた。それだけにこの急な、王の帰還は、国を上から下までゆさぶる一大事であった。

「関係者以外は港から出て!」

 兵士たちは大声を出して、港につめかける人々を散らす。しかし人々の心は王であり小龍公のコヴァクス帰還でいっぱいで、なかなか言う事を聞いてくれない。

 そこでやむなく、イヴァンシムはニコレットに助言し、厳戒令を布いた。


 無用な混雑を避けるためである。

「不便をかけるが、指示があるまで外出しないでほしい」

 破れば罰を受ける、ということで人々はしぶしぶ帰ってゆき。そのおかげで、港は落ち着きを取り戻し。

 船団の着岸の準備にとりかかった。ニコレットら主要な者たちは勢揃いで、着岸をじれったそうに待った。

 そうする間にも船団は近づいてきて。船の先端には、ふたりの男女の姿が見えた。

「おおーい!」

 男が手を挙げて声を上げた。目を凝らせば……。

「お兄さま!」 

 ニコレットは思わず叫んだ。突然失踪した兄が、帰ってきた。そのそばには龍菲がいる。フィリケアで何があったのか、ふたりから話を聞きたいと気持ちが急いでしまう。

 他の者たちも、その姿を認めた。コヴァクスの顔は明るく、溌剌としていた。

「あれ、誰?」

 龍菲を見て、第一王女オレアが不思議そうにし。ソシエタスが応える。

「彼女が話に聞く、龍菲という少女です」

「あの女の人が……」

 龍菲のことを知らない者たちは、コヴァクスがこんな美人と一緒にいたのかと思うと、どうにもあらぬ想像を巡らせてしまった。

 やがて船が着岸し、コヴァクスが龍菲をともなって下りてくる。

「お兄さま!」

 ニコレットは駆け足で兄のもとへと駆けた。それを追い越す影。

「おい小龍公! 借りを返させろ!」

 それは蹴球の球をもつラハマディであった。 


 下界の人間たちを笑うように空飛ぶ小鳥たちがさえずっている。

 コヴァクスは妹たちを目にして、大喜びするでもなかったが、微笑をたたえ。帰還の感慨にふけっているようであった。

 それに対する、思いもしなかった出迎え。

「また消えられちゃたまらんからな、今オレと勝負しろ!」

 ラハマディは目を点にするコヴァクスに蹴球の球を突き出し。「勝負しろ!」と迫る。

「ら、ラハマディ殿!」

 兄のもとへ駆けていたのを追い越されて、ニコレットは石のようにかたまって呆然として、ソシエタスが苦笑しながらたしなめる。

「あーもう、ラハマディさんったら、空気読みなって」

 ペロティアもさすがにあきれているようだ。

 龍菲もぽかんとしている。

 他の面々も、向こう見ずなラハマディに対して驚くやら呆れるやら。

「ラハマディ殿、今はそれどころでは」

「うるせえ、オレはやると言ったらやるんだ!」

 イヴァンシムもたしなめるが、ラハマディはやると言って聞かない。よほどコヴァクスにやられたことが心残りのようだ。

「見たい! コヴァクスの蹴球を見たい!」

 ぽかんとする面々の醸し出す言葉にできぬ空気を突きぬけるように、末っ子の王子カレルはもろ手を挙げて叫んだ。その笑顔は輝いていた。

「これ、カレル」

「このところ面白い事なんか、なーんにもなかったんだもん。コヴァクスが帰ってきたなら、蹴球してもらおうよ」

 まだ船にいる黒軍フェケテシェレグの騎士たちやポエニキア人の水夫たちは、何事が起こったのかわからず。これもまたぽかんとしている。

「ねえ、お母さまからも言ってよ。僕、コヴァクスの蹴球が見たい」

「……」

 ヴァハルラも何と言ってよいのかわからず、眉間にしわを寄せて渋い顔をする。

「そーだそーだ。その王子さまの言う通りだぜ」

 渡りに船とばかりにラハマディはカレルに同調する。出し抜かれて気持ちを吹き飛ばされたニコレットは、「はあ」とため息をつく。

「あっはっはっは!」

 突然の笑い声はバリルだった。皆の視線がバリルに集中する。それはとても鋭いものだったが、意に介する様子もない。

「いや失礼。面白い。ほんとうに面白く。実に愉快、愉快」

「バリル殿、それは」

 ダラガナは不思議そうに問い。イヴァンシムは咳払いをする。

「我らわずかばかりの国をつくり、その維持に汲々とせざるをえず。されども、それに圧し潰されることのない、このやんちゃっぷり。見ていて実に愉快でしてな」

「面白い、ですか?」


 ようやくにしてニコレットは言葉をひねり出す。バリルの言う通り、吹けば飛ぶような小国の維持に汲々としていて。圧し潰されそうなものを覚えた。

 カレルが「なーんにも楽しい事がない」と言うのも痛いほどわかる。

 他の面々も同じだった。

 しかし、ラハマディは、この通り。コヴァクスに借りを返すことで頭がいっぱいである。 

「真面目なことも大事ですが、真面目すぎるのも考え物ですぞ」

「でも、他の人たちの着岸もありますし。今は蹴球どころでは」

 ニコレットはバリルの言葉に戸惑う。そこへ、

「やらせておあげなさい」

 と言うイヴァンシムの言葉。

「え?」

「この様子であれば、言っても聞きますまい。それならば、必要な仕事は我らが引き受けますゆえ、小龍公とラハマディ殿は決着をつけるがよいかと」

「わかってくれるか。すまねえな、恩に着るぜ」

 ラハマディはイヴァンシムに素直に感謝する。

「ただし、いざとなればそれなりの働きを求めるぞ」

「わかった」

「おい、人を置き去りにして勝手に話しを進めるなよ!」

 コヴァクスは思わず頭を抱えた。

 ニコレットたちに何と言おうか、とあれこれ考えていたのだが。それもいっぺんに吹き飛ばされてしまった。

 龍菲といえば、可笑しそうにくすりと笑う。

(この前もそうだったけど、蹴球のことになると、どうしてこうも可笑しいことが起こるのかしら?)

 疑問ではあったが、それはとても楽しい疑問だった。

「では私とダラガナが、ふたりの勝負を見届けよう」

「え、私もですか?」

 バリルにいきなり肩をたたかれ、ダラガナは苦笑する。

 話が決まれば早かった。少々強引ではあるが、ニコレットたちは他の船の着岸、人員の下船のための作業にとりかかり。

 コヴァクスとラハマディはバリルとダラガナにともなわれて、あるいは龍菲と女王に王女ら、王子もついてゆき。

 街の広場の片隅にゆき。柱を二本立て網を張って。それぞれ競技服に着替えをすませて。

 網の前に、守備用の厚手の手袋をつけたラハマディが仁王立ちする。

 成り行きでこうなってしまったコヴァクスは、龍菲に見守られながら、バリルから蹴球の球を渡され、網から十五歩ほど離れたところで地面に置いて左足を乗せた。競技服はバジオに与えられたものだ。

「お前、魔術師マギアって呼ばれてるんだってなあ」

 ラハマディは拳を軽くぶつけ合って、気合を入れる。


 わけもわからぬうちに蹴球をすることになって、コヴァクスは少し混乱してしまったが。やるとなれば、やらねばなるまいと、気を引き締める。

「二度とオレとやりあおうなんて、思えないようにしてやる」

 混乱を避けるために厳戒令を布いているために、人の姿はなく。数名の兵士がいかめしく街を警備するのみである。

 しかしそこに寂しさはなく、むしろ集中できるとばかりにコヴァクスとラハマディは睨み合っていた。

 バリルは腕を組んで、ダラガナも腕を組みつつ苦笑いをしながら、ふたりを見据え。女王のヴァハルラは変な成り行きになったと思わずため息をつき。

 そんな女王の心を知らずか、龍菲と王子はおろか、王女のオレアとオランまでもが、思わずわくわくすることを覚えた。

「勝負の形式は、蹴る者と守る者の、一対一。先に三回勝った者の勝利とする」

 まるで審判のようにバリルはいかめしく言い。コヴァクスとラハマディは頷く。

「では……。はじめッ!」

 張のあるバリルの声が響き。コヴァクスは左足を球から離し、少し後ろに下がって。

 鋭い眼でラハマディと、その向こうの網を見据えて。助走をつけて、左足で球を蹴れば。弾けるような音を立てて、球は勢いよく飛んだ。

「よしこい!」

 球はラハマディに向かって真正面に飛んでくる。それを手を伸ばして受け止めようとしたが、あろうことか球はその直前で向きを変えて、左わきを飛び抜けていって。

 球は食い込むように網を揺らして、ぽとりと落ちた。途端に、王女と王子は「やったあ!」と歓声をあげた。

「ほう、さすが魔術師というだけあって」

 ぽそりと、ダラガナは感心するようにつぶやいた。

「くそ、まだまだ!」

 ラハマディは負け惜しみを叫び、拾った球をコヴァクス向けて放り投げた。

 球を受け止め、そのまま手を離せば。落ちる球をつま先で数度巧みに軽く蹴って軽く跳ねさせると。やや高めに上げ、頭で受け止めれば。球は額にすいつくように乗り。それから落として、手で受け止め。地面に置いた。

 龍菲も王女や王子と一緒に「やったわ」と拍手をし。ラハマディは舌打ちする。

(こいつ、球の制御が上手えな)

 前もそうだったが、球がまるで意志があるかのように守備の手を避けた。そのようにして蹴ることを、コヴァクスは得意とし。それゆえに魔術師というあだ名がつけられたのか。

「あと二回で終わらせてやる」

「ふん、言ってろ」

 言い終えて、コヴァクスは球を左足で蹴った。

 一瞬の中に永遠を凝縮するかのように集中すれば。球は左方向へと飛ぶのが見えると同時に、ラハマディは跳躍し、手を伸ばし拳を突き出し。

 球は拳に弾かれた。

 弾かれた球はダラガナの方へと飛んでゆく。

「む?」

 自分のもとに球が飛んでくるのに気付いて。間近にまで迫ってきて。思わず、咄嗟に足が動けば。球を蹴り。それが、あろうことか、蹴り上げられた球は美しい曲線を描き網に吸い込まれるよう落ちてゆき。


 受け身をとって地面に落ちてから立ち上がったラハマディはまさかと思ったか、やり過ごしてしまうその頭上を球が飛び抜け。網が揺れて、球は地面に落ちた。

「おい、鯱に食わせるぞ!」

 球を拾ってラハマディはダラガナに向かって吠えた。あまりのことに意表を突かれしまった。せっかくコヴァクスの攻めを防いだのに。

「いやあ、すまんすまん」

 ダラガナはまんざらでもなさそうに苦笑いしながら謝り。バリルは「わっはっは」と呵呵大笑していた。

 王女と王子も「あはは」と明るく笑い。龍菲もくすりと、笑いをこらえるのにひと苦労。

(ほんとうになんで、蹴球って、こんなに笑えるのかしら?)

 思えば、こんなに笑ったことはなかったのではないか。自分でも、こんなに笑えるものなのかと、驚きを禁じ得ない。

「まったく」

 眉をしかめながら球をコヴァクスに投げ渡し。構えをとる。

 一対一。コヴァクスは蹴りを防がれ、舌打ちし。次こそと網を見据えて、助走をつけて、球を蹴った。

 弾ける音がし、今度は右へと飛び。ラハマディは跳躍し手を伸ばし。さっきと同じように拳で弾き返そうとするが。球は途中で、まるで見えない手に操られるようにして左へと向きを変えて。

 跳躍したラハマディのつま先をかすめるようにして飛び抜け、網を揺らした。

「くそッ!」

 受け身をとって着地し、忌々しそうな顔をして球を拾う。

「あと一点!」

 コヴァクスは人差し指を立てて叫んだ。

 王女と王子、龍菲は拍手し声援を送る。バリルとダラガナは軍監になったように勝負を見届けようとする。

「頑張って、ラハマディさん!」

 思わぬ声援が飛んだ。王女のヴァハルラであった。龍菲と王女と王子は少しばかり驚いてヴァハルラを見つめ。バリルとダラガナは笑顔で頷く。

 謎の少女と自分の子供たちはコヴァクスばかり応援していて、少しばかり不公平感を持ち。思わずラハマディを応援してしまったのだった。

「お、おう。ありがとうよ、女王さま!」

 ラハマディは親指を立てて声援に応えた。

(女王さまいい人だなあ。こんないい人を粗末にする王様の気が知れねえぜ)

「いくぞッ!」

 これで終わらせてやると、コヴァクスは渾身の一撃を放つかのように、球を蹴った。

 しかし球は飛び上がらず、地面すれすれをかすめるように飛ぶ。ラハマディは咄嗟に身をかがめようとしたが、はっとして膝を折りそうなのをやめて立ったままでいれば。

 球はふわりと浮きあがるように上がって、ラハマディの胸に飛び込み。そのまま手で受け止められた。

「ぐッ……」

 コヴァクスは歯軋りし。龍菲と王女と王子は「わあ」と驚きのため息をつき。王女ヴァハルラは「やったわ」と拍手をする。


「あと一点!」

 ラハマディは人差し指を立てて不敵に笑い。コヴァクスのまなざしの鋭さが増した。

 球が投げ渡さ手それを受けて、地面に置いて。瞳を閉じて、しばし瞑想する。

 その真剣さたるや。命を懸けているかのようであった。

 ややあって目を開けて、大きく呼吸し。その間ラハマディはいつでも来いと身構え。見る者たちも、固唾をのんで、最後のひと試合を見届けようとする。

 意を決して助走し、左足は球を蹴った。

 ラハマディの真正面だった。

「!!」

 何の仕掛けもない、直球勝負。地を踏みしめ、ラハマディは迫る球を見据え。受け止める。

「おおッ!」

 球を両手で受け止めた。が、その勢い凄まじく、掌に挟まれながらもなおも回転はやまず。ラハマディは思わずよろけさせられてしまい。

 しかも、球は掌から逃れるようにして、上へと弾かれるように飛んで。

 ラハマディの頭越しに落下し、網を揺らした。

 それは一瞬であったが、まるで永遠に続くかのような不思議な感覚だった。それを、ぽとりという、球が落ちる音で。夢から覚めたように、皆の視線が球に集中する。

 勝負はあった。

「わあ、やっぱりコヴァクスはすごいや!」

 オランにオレラの王女らとカレル王子は歓声をあげ。龍菲はその球の動きを凝視して、はたして自分にあんな真似ができるかどうかと、コヴァクスの魔術師とあだ名される蹴技に感心することやまなかった。

「勝負ありッ!」

 決着がついたことをバリルが宣言し。コヴァクスは、

「よおっしゃあッ!」

 と叫ぶ一方で、

「くそッ!」

 と、ラハマディは仰向けに倒れて天を仰いだ。

「あーあ、勝てると思ったんだけどよお」

 王女と王子に龍菲はコヴァクスのもとへ駆け、ともに賛辞を惜しまなかった。その一方で、ヴァハルラは倒れるラハマディのもとへ歩み。

「いい勝負でした」

 と笑顔で手を差し伸べる。

 どれほど悔しがっているだろうかと思ったが、思いのほか吹っ切れた様子で悲壮感のかけらもなく。むしろ、戦いきったという達成感を感じた。

「ああ、すまねえ」

 差し伸べられた手を遠慮しながら、ラハマディは自分で立ち上がり。女王にうやうやしく跪いて、感謝を述べたあと。


 コヴァクスのもとまでゆき、悔しいながらも決着を受け入れる旨を伝えた。

「早く戦いを終わらせて、次やろうな」

 なんだかんだで楽しかったようで、コヴァクスは笑顔でそう言って。ラハマディも「おう」と不敵な笑みを浮かべ。互いに握手した。

「いい光景ですなあ」

 ダラガナは不覚にも心に感じ入るものがあり、少しばかり目が潤む。バリルもうんうんと得意に頷く。

「私が蹴球団を結成するなら、絶対にふたりを入れるぞ」 

「はは。指定席はないぞと、はっぱをかける甲斐がありそうですな」

「当然だ。蹴球は遊びではない」

「これはまた大真面目な。真面目すぎは……」

「人生全体で見ればな。しかし、その中にひとつくらい、大真面目に取り組むものがあってもいいだろう」

「そうですな。戦争なんぞにかまけるよりも、よっぽどいい」

 ふたりが目の前の光景を微笑ましい気持ちで眺めているとき、蹄の音がしたかと思えば。それは白龍号フェフィエシャルカーニュにまたがるニコレットだった。

 ニコレットはいつでも愛馬にまたがれるよう、女性もののドレスをやめて、男ものの服を着用し。色違いの瞳も手伝い、男装の麗人と言ってもいい凛々しさ。

「これは小龍公女」

 バリルとダラガナはうやうやしく跪く。コヴァクスたちもニコレットに気付く。

「勝負はどうなりました?」

「今ついたところだ」

「それならば、すぐに議事堂にお越しください」

「わかった」

 コヴァクスは皆と頷き合って、議事堂に向かって歩き出した。

 

母国との戦い


 港での着岸作業が全て終わったころには夜のとばりが落ち。黒軍フェケテシェレグの騎士たちには宿があてがわれた、と言いたいところだが。その数は一千にものぼり、ロヒニの宿だけでは足りず。

 やむなく郊外に幕舎を設営し、野営をしてもらわなければならなかった。

 もともとの兵数は二千であったが、クンリロガンハからフィリケアにゆく途中脱落した者、あるいはあらぬ心を抱いて逃走した者がおり。またマーレ人の子孫やモーアのレコンキスタの戦いの騒乱で戦死者や脱落者が多く出るのも免れえず。

 その数は半分の一千ほどにまで減ってしまっていた。

 それらの海上輸送を受け持ったポエニキア人水夫の頭領は、

「以後もよしなに」

 とコヴァクスとニコレットに愛想よく会釈し、船団を率いてロヒニを離れた。

 このポエニキア人たちの船団は、うまく付き合うことができれば海上における作戦などで、おおいに役に立ってくれるかもしれないと、ニコレットなりに考え。以後イヴァンシムらの助言を得ながら様々な想定を海に広げた。


 戒厳令が解かれるや、たくさんの人々がたくさんの松明をともして議事堂に集まり。

「小龍公、小龍公!」

 と、叫んでいた。逃げたことへの抗議ではない、戻ってきてくれたことへの安堵と感謝であった。

 ひととおりのことを、皆に話し。深く詫びたコヴァクスは、議事堂に押し寄せる人々の気持ちを痛いほど感じて。

 窓から身を乗り出し、顔を見せた。

 わあ、という歓声があがる。

 何かを言おうとするも、言葉が出ない。今の感情を言葉にできない。

「神の加護あってお兄さまが戻られました! 我々は、勝利に向かって歩き出します。皆さん、ついてきてきれますか!?」

 ニコレットが兄に代わって叫べば、うおお! というどよめきが夜の帳を揺らすように轟く。

 一緒だった龍菲も、少しばかり肩身の狭い思いをしながらも、整った口元を引き締め、他の皆とともにコヴァクスの背中を黙って見つめていた。

(それにしても、カンニバルカという男は……)

 マジャックマジルとアッティ、ソシエタスは、カンニバルカのことをコヴァクスから聞き、あらためて考え。彼も彼なりに、使命に生きて、使命に殉じたのだと思った。

 季節も初夏になり、夜でも冷え込むことはなく、適度に涼しく。人々はそれに甘んじて、熱することやむことはなかった。

 貿易で立ち寄った商人たちは、この喧騒を眺めて、したたかにも商機ありと睨む。

 どのような事が起こるかわからないが、ロヒニは、新たなことが起こる運気盛んなることを感じたのだ。

(お父さん、お母さんは、どうしているんだろう)

 騎士見習いのクネクトヴァとカトゥカは、ふるさとマーラニアの両親のことを思い起こし。にわかに起こる郷愁の念を禁じ得なかった。


「見たかったのう」

 コヴァクスの帰還を祝し、ひととおりの仕事が終わると皆で長卓を囲んで、ささやかな宴がもよおされて。

 マジャックマジルはコヴァクスとラハマディの勝負を見たかったと、何度もつぶやき。アッティに、

「マジャックマジル殿の蹴球好きには、困ったものです。作業中、コヴァクスとラハマディの勝負が気になって仕方ないとしきりにつぶやいて」

 と苦笑しながら言い、周囲に軽い笑いを誘った。

 議事堂前に集まっていた人々は、すでに帰宅し。さきほどとは打って変わった静けさが夜の帳をなでていた。

 壁に懸けられたランタンの灯火が人々を照らす。その顔は、新たな戦いに向けての戦意が込められていた。

 三つの街でにわかに建国された新オンガルリは、南北を敵国に囲まれている恰好だった。北はオンガルリ、南はソケドキアに編入された旧ヴーゴスネア地域。

 思えば今までよく侵略されなかったものだった。

 人を遣って様子を探らせたり、立ち寄った商人に情勢をうかがうなどして情報の収集につとめれば。

 南は旧リジェカ王族の幼い太守モルテンセンが旧ヴーゴスネア地域の統治を任されているという。

 モルテンセンは幼いながらも賢いお方であると評判で、戦争を好まず。軍備の拡大よりも、安定した統治を旨にまつりごとを執っているという。

 そのモルテンセンのおかげで旧ヴーゴスネア地域は緩衝地域となり、ソケドキアに攻め込まれることはなさそうである。

 ひるがえって、北はと言えば。

 心の病を患った国王レドカーン二世に代わり、愛妾のエリジェーベトが兄のバゾリーの助けを借りながら国を治めているという。

 エリジェーベトはしたたかなもので、まずは国を安定させることを優先し。民衆の生活に気を配った政を心掛け、評判はよいという。

 となれば、亡命した女王らの評判は落ちる一方だった。民衆は、

「女王さまは心を患われた国王を見捨てて。なんとひどいお方だろう」

 と、ヴァハルラのことを悪く言っているという。

「今は嵐の前の静けさ。いつかきっと、エリジェーベトは攻め入るでしょう」

 イヴァンシムはそう助言し。万一の備えはもちろん、最悪の事態を想定し海から脱出する備えをニコレットにさせていた。

 そして、何をするにもまず先立つものがいる。資金である。

 その資金の管理と運営を担当するのは、ラハマディら商人たちの仕事だった。

 ラハマディ自身は最初の街を任されて、そこに立ち寄る商団の商人と交流を持ち、商売もし。資金の管理と運営をするのみならず、必要な資材をそろえていた。

 他の商人たちはロヒニにあって資金の管理と運営のみならず、人や物、金銭の流れを監視し。逐一イヴァンシムらに報告していた。

 ソシエタスは中央にあるふたつめの街を任されていた。政治にも金にも疎い素朴な騎士だが、自分の任務に全力で取り組み、国に血を通わすように、ひとつ目の街とロヒニのつなぎ役をこなしていた。

 にわか造りの小さい国であるが、小さい国ゆえに適材適所の国造りが着実に行われていた。


 変な話、最悪の事態を想定していたのだから、コヴァクスがいなくても国はまわっていたのだ。

「話を聞くと、オレがいなくてもうまくやっていけそうだな」

「お兄さま、変な冗談はおやめになって」

 ニコレットはコヴァクスの冗談を聞いて頬を膨らませた。

「お兄さまは、国王であり、戦いの象徴なのです。そう、紅の龍牙旗と同じような。もう少し、ご自覚をおもちになってください」

「オレが、紅の龍牙旗と同じ……」

 言われてコヴァクスは、きょとんとし、はっとして、

「紅の龍牙旗は、ガッリアスネス殿が届けてくれたのだな。感謝してもしきれないな。ほんとうに、世話になって」

 しみじみとガッリアスネスのことを思い出し、感謝する。

 紅の龍牙旗は、本来ならばコヴァクスがいるべきであったのをニコレットが代わって政を執っていた執務室に飾られていた。

 宴の少し前、執務室に赴き紅の龍牙旗を目にして。コヴァクスは父母や国王を前にする思いで跪いた。その隣で龍菲も同じように跪いて、一同を驚かせた。

 つかみどころのない彼女がコヴァクスとともに紅の龍牙旗に跪くとは、どういう心境でのことだったのか。ただ、

「私も所詮は人間、大きな流れには逆らえなかったわ」

 とだけ言った。

 色々と問いただしたい気持ちもあるが。彼女に敵意はなく、フィリケアでコヴァクスを助けたことから、変な警戒心をもたなくてもよいだろうと皆は思った。

 それでも、ニコレットの気持ちは複雑だった。

(お兄さまと龍菲は、恋をしている!)

 互いを見つめ合うそのまなざし。そう思わせるに十分なものを感じさせた。

 ペロティアなどはませたもので、ラハマディに、

「あのふたり、行くところまで行ったかもしれないわ」

 と、こっそりとささやいた。

「かもしれねえが、帰ってきたんだからそれでいいじゃねえか」

 粗野なところもあるが、下世話な話は好きではないようで、ペロティアにそれ以上のことは言わせなかった。

 ともあれ、長卓を囲んで、質素ながらも並べられた料理や酒に舌鼓を打ち、皆で談笑する憩いのひと時を、コヴァクスはかけがえのないものだと思った。

「そういえば、フィリケアにはチョコレというお菓子があって、甘くて美味しかったな」

「そうね。また食べたいわね」

「そんなに美味しいの? 私も食べたいわ」

 王女のオレアとオランに、カレル王子はチョコレの話を聞き、好奇心をときめかせた。ちなみに王女と王子に、騎士見習いのふたりに、ニコレットも、柑橘類の果物の汁を砂糖で甘くしたものを飲んでいた。

 郊外の黒軍は野営をさせているが、蔵を開けて糧食を大判振る舞いに振る舞った。


 現在の黒軍を取り仕切っている者は、ヤノーシェといい。この男もカンニバルカと同じように各地を放浪しながらも、故国オンガルリに戻り、黒軍に入った。

 剣を取り戦場を駆け巡るのは、食ってゆくためであり。それ以上でもそれ以下でもなく。志を持って戦うなど、馬鹿げた王侯貴族の妄想だと内心軽蔑していた。

 それが、フィリケアの戦いて改心し、コヴァクスに仕え、黒軍を任されて取り仕切ることになった。

 いつ生まれたのかよくわからず、年のころはだいたい三十半ばだと思われる。

 よほど気に行ったのか戦争がない時でも支給された黒い鎧を身にまとい。

 カンニバルカに及ばぬものの針のように堅そうな強い髭をたくわえて、まさに放浪の傭兵然とした容貌であった。

 黒軍の騎士たちのほとんどがそのような容姿で、将軍のカンニバルカの容貌魁偉さもくわわり、故国オンガルリ内でも恐れられた存在であった。

 ヤノーシェはコヴァクスに宴に誘われたが、

「いや、オレはここで皆と一緒にいる」

 と、にべもなく断って。たき火を囲み、近しい者らと杯を傾け肉を噛み砕いて胃袋を満たしていた。

「母国、か」

 酒を喉に流し込んで、げっぷをしながら、夜空を見上げる。

「イカンシの野郎がぶっ殺された時は、ざまあ見ろと喜んだが。カンニバルカもオレたちを利用しやがったと思うと、今でもはらわたが煮えくり返りそうだ」

 煮えくり返る胃袋を冷ますように、ヤノーシェは酒を異に流し込んだ。

「皮肉な話だな、一番嫌いだった小龍公がオレたちを連れ戻してくれるなんてな」

 隣にいる騎士がつぶやき、ヤノーシェは「ふうー」と大きく息を吐いた。

 この黒軍、いつ生まれたのかすらよくわからないような、下層階級出身の者が多い。それが、騎士になれると望みをもって黒軍に入り。

 我が世の春を謳歌するはずだった。

「あの、エリジェーベトとバゾリーとかいう奴ら、あれは、オレに殺させる。これでもかというくらい、残酷に、地獄の苦しみを味あわせぬいて、殺してやる」

 自分たちをもてあそんだ王侯貴族への、復讐の念が、胸の中で燃えたぎっていいた。それはコヴァクスに対して感じる恩よりもはるかに大きく分厚く。

 それはそれとして。

 一千もの軍勢を乗せた船団が海を渡りロヒニに着岸することは隠しきれるものではなく。旅する商団や自由身分の者らを経て各地に伝え広められた。

 今ごろは、シァンドロスはおろかダライアスの耳にもそれは入っているかもしれないが。オンガルリとマーラニアにも、伝えられて。

 エリジェーベトとその兄バゾリー、マーラニア国王カラレ三世は、小龍公コヴァクスが消えた黒軍を引き連れてロヒニに帰還したことに、驚きを禁じ得なかった。

「なにがどうなっているのだ」

 と、事情をよく知らぬオンガルリとマーラニアのよからぬ貴族たちの動揺は大きかった。

 機を見て新オンガルリに攻め込もうと思っていたのだが。両国ともに、騒乱によって軍備の縮小を余儀なくされて。だからこそ、エリジェーベトは内政に力を入れていた。


 この膠着状態を打破せねばと思っているとき、エリジェーベトの身に変化が起こり。これを、神のおぼしめしととらえた。

 大事な報せがあると、エリジェーベトは貴族をルカベストの王城に集めた。

 国王レドカーン二世は心身ともにすぐれず、部屋で休んでいるという。そこで、空の王座の横の、女王の座に、座らずとも華美なドレスの装いで、女王のようなたたずまいで立ち。

 居並ぶ貴族たちを見つめて、くすりと笑い、

「国王陛下の子を、身ごもりました」

 と、言った。

 貴族たちはどよめき、そのあと、

「おめでとうございます」

 一様に喜びの色をあらわし、エリジェーベトの懐妊を祝福した。

 その様子は、まるで女王を祝福するが如しであった。

 特に兄であるバゾリーの喜びようは。

「これは、神がご降臨あそばされたのに等しい」

 もし腹の子が男の子であれば、世継ぎであり、バゾリーは国王の伯父になるのだ。亡命した女王のヴァハルラや王女、王子はその位を剥奪し、追放処分としたので、女王の座は空であった。

 そこに、エリジェーベトが居座り、子まで身ごもったのだ。

「こんなめでたいことはない。宴じゃ宴じゃ」

「このことを、オンガルリの内外にまで広めよ」

 貴族たちは懐妊をことほぎ、いそいそと動き回って。夜には、城内の大広間で華やかな宴がもよおされて。宮廷楽団による演奏、歌人による歌唱、詩人による詩の朗読が、美酒に酔い、踊る貴族たちに花を添えた。

 オンガルリ国内で最も大きいマーヴァーリュ教会でも、エリジェーベトの懐妊を喜び。筆頭神父シキズメントらは、神に祈りをささげた。

 その中に、尼僧の姿をしたソレアもいた。表向きは、暴虐の夫人に仕えたことによる心の傷のためとしているが。実際は違った。

 かつてエルゼヴァスに仕え、あらぬ暴虐のでっちあげの訴えを起こしたが。それはイカンシに脅されてのことであった。

 あの日以来、ソレアは煩悶し続け。ついにたまりかねて、マーヴァーリュ教会に駆け込み、シキズメントの慈悲を求めた。

「私はなんという恐ろしいことをしてしまったのでしょう」

 今もその悔恨の念は消えず、胸中に黒く大きいなにかがつまったような不快感がぬぐえない。

「いたいけな少女に一生の心の傷を負わすとは。イカンシはなんという罪深いことをしてしまったのか」

 シキズメントはソレアを見て、哀れに思わずにはいられなかった。かつて、動のドラヴリフト、静のシキズメントと呼ばれて、オンガルリを守ってきた、心ある人である。

 それだけに、気がかりになって仕方ないこともある。

「腹の子に罪はない。願わくば、無事に生まれ、心穢れた大人たちから、解き放たれんことを」

 そう、神に祈らずにはいられなかった。


 エリジェーベト懐妊の報せはオンガルリ国内外に広められて。同盟国マーラニアの国王カラレ三世は、祝福の言葉をつたえるための使者を送り。貴族たちも、同様に各自で祝福の言葉をつたえる使者を送った。

 豪華な馬車が出立した様子を思い浮かべながら、二組の夫婦は憂いを含んだ色をなしてつぶやいた。

「あれだけ愛していた夫の死から間もなく、国王の側室に進んでなり、子まで身ごもるとは。なんと恐ろしい女であろうか」

「同じ女とは思えぬことです」

 それは、騎士見習いとしてアルカードに仕えていたクネクトヴァとカトゥカの両親であった。

 クネクトヴァの父はワレキオ、母はリュシュカといい。カトゥカの父はドネル、母はヘレネといった。

 四人がいるのは、一本の蝋燭が細々と火をともす地下牢獄であった。

 屈強な獄卒が鋭く睨みを利かせている。そこに、誰かが来て話しをしたかと思えば。獄卒は頷き、柵の扉を開けて入ってきて。

 腰に佩く剣を抜いた。

 四人は己の運命を悟った。

「お前らの子は、国を裏切った。国王陛下およびエリジェーベトさまのお慈悲により、悔い改める時を待ったが。それはないと判断された」

「御託はいい。斬るなら、斬れ!」

 そう叫んだのは、カトゥカの父ドネルであった。四人は鋭いまなざしで、獄卒を見据えていて。そこに嘆きや怯えはなかった。

 剣が閃いた。

「たとえ肉体は死しても、魂は死なず! 我らは、我が子らを信ずる!」

 叫び声がこだまする。蝋燭の細々とした火が、岩壁に飛び散る血を寂しそうに闇からすくい出し。

 四人はもの言わぬむくろにされてしまった。

 だがその目は、狩られてもなお狩られていることに気付かずに死んだ狼のような、鋭さだった。

 やがて首が胴から離されて。まずはカラレ三世に見せられて。

 カラレ三世は眉をしかめ「もうよい」と蠅を払うように手を振り、エリジェーベトに送り届けるように命じた。

 胴は、郊外の、行き倒れの浮浪者などを埋める共同墓地に埋められた。


 腐敗を防ぐために塩漬けにされたワレキオとリュシュカ、ドネルとヘレネの首がエリジェーベトに届けられた。

 まさかこのようなものを自分の部屋にも入れる気にもならず。それならと、かつてヴァハルラのいた部屋にて、兄と少数の気の合う貴族のみで、使者のもってきた四つの首を眺めた。

「このことを、広く伝えるのです。そう、新オンガルリにいる小龍公どもも知るように」

 そう命じ。首はといえば、マーヴァーリュ教会に命じて弔わせるよう命じた。


 夜、エリジェーベトは自室にレドカーン二世を入れて。ふたりきりで、ベッドに腰掛けていた。

 レドカーン二世は、母に甘える子のように、エリジェーベトに抱きついていた。

「国王陛下、私のお腹には国王陛下の子がおります」

「我が子が。そうか。養生し、無事に元気な子を生んでくれ」

「子どもが男の子ならば、お世継ぎに……」

「男でも女でもかまわぬ。お前の産んだ子は、皆国王じゃ」

 自分が言っていることを理解しているのかどうか。レドカーン二世は優しくエリジェーベトの腹をなで。

 エリジェーベトはレドカーン二世の頬を優しくなでた。

 その視線の先には、壁に懸けられた剣。

 王家の宝剣である。エリジェーベトはそれを、自室に飾っていた。

(ヴラデ様。私たちの間に子ができなかったのは、この時のための、神のおぼしめしだったのかもしれません)

 亡き夫をしのびながら、ふたりベッドに横になり。子に添い寝する母のように、エリジェーベトはレドカーン二世と褥をともにした。

 エリジェーベトの懐妊、そして、クネクトヴァとカトゥカの両親の処刑が新オンガルリにも伝わった。

 クネクトヴァとカトゥカの嘆きはいかばかりであったろうか。

 主要な者が集まり、円卓を囲んだ。

 護衛として騎士見習いのふたりは、会議室の警護をせねばならないのだが。

「だめだ。騎士がやすやすと泣くなとアルカードさまに教えられたけど、こらえきれないよ」

「この無様さをお許しください。我が罪を知れども、泣かずにはいられません」

 天に昇った主に詫びながら、騎士見習いのふたりは、人目もはばからずに滂沱の涙を流して崩れ落ち。

 やむなく下がらせ、他の者に警護を任せた。

「恐れていたことが起こったか……」

 コヴァクスとニコレットたちもクネクトヴァとカトゥカの両親のことは気にかけていたが。

「かと言って、敵討ちと攻め込むこともできぬ」

 バリルは冷静に状況をまとめる。

「我が新オンガルリは所詮小国。他国に攻め入る力はない」

 貿易で財政こそ安定しているものの、それは小国としてであり。一国を攻め取るほどの軍備力を保持するほどではない。そのため軍備はもっぱら守りのためであった。

 旧ヴーゴスネア地域は、リジェカ王族のモルテンセンが太守としてよく治め。ソケドキア本国との緩衝地帯となっているので、大げさに心配する必要は、当面なさそうだ。

 そのモルテンセンを迎え、リジェカの復興もせねばならないが。それは後にまわさざるを得ない。


「このまま放っておけば、オンガルリもマーラニアもエリジェーベトの思うがまま。大衆を手なずけてはいますが、下心は見え見えだ」

 と、バリルは手厳しく。イヴァンシムとダラガナも同意見。

「腹に子を宿しながら、なんというおぞましい」

 コヴァクスは眉をしかめながらつぶやき。ニコレットは背筋に冷たさを感じる。

「残念ながら、女は、男のように強くないがゆえに、そのような残酷さを好むこともあります」

「この調子だと、すぐに攻め込まずとも、何かにつけてオレたちをいたぶるんだろうな」

 忌々しくコヴァクスはつぶやいた。女王と王女、王子の位を剥奪し追放処分としたことはもちろん伝わっている。そこに来て、エリジェーベトの懐妊に、クネクトヴァとカトゥカの両親の処刑。

「ヴァラトノの者らは、ようもちこたえております」

 マジャックマジルはぽそりとつぶやき。アッティも頷く。

 亡命の際、決して早まった真似はするなと釘を刺しておいたが。言いつけをよく守っているようだ。

 ソシエタスは黙っている。この素朴な騎士は、情けないと思いつつもいい考えが浮かばず。無理な考えはやめて、

「なにかいい方法はありませんか、イヴァンシム殿」

 と、素直に策を求めた。

「考えがないわけではありません」

「ほんとうですか?」

 ソシエタスはもちろん、コヴァクスらの顔が輝く。それを見て、イヴァンシムは咳払いをし、

「ただし、非常に危険を伴います。また、小龍公女の機嫌もそこねましょう」

 と言い。ニコレットは少しぽかんとしてしまった。

「それはどういう意味ですか?」

「私の考えはこうです」

 イヴァンシムは自分の考えを述べ。なるほど確かにニコレットは機嫌をそこねたような顔になってしまい。バリルはそれを可笑しく思い、ダラガナは苦笑した。

「おい、小龍公、いるんだろう」

 会議室に入ってきたのは、ヤノーシェだった。後ろにいる警備の兵は困った顔をしてる。

「なんだ、難しい話はいやだって言って会議に加わらなかったのに」

 コヴァクスは呆れながらヤノーシェを見据えた。ヤノーシェはコヴァクスを見据える。

「つべこべ言わず、オレたち黒軍を行かせればいいんだよ」

「いくらお前たちが強いと言っても、たった一千では国は落とせないぞ」

「馬鹿野郎。そこは気合と根性じゃねえか」

「ヤノーシェ、これはは遊びではありません」

「はいはい、小龍公女のお説教は聞き飽きたぜ」

 このヤノーシェ、何かにつけてオンガルリに攻め込ませろとせがみ。そのたびにコヴァクスはなだめながら、だめだと止めた。

 だがその目の充血具合はまるで吸血鬼ヴァンピール食屍鬼グールのようで。我慢の限界に達し、勝手に動き出す危険をはらんでいた。


 イヴァンシムはやれやれとため息をついた。イカンシという者は、まったくなんという厄介なものを作ってくれたのだろうか。

「仕方ありませんな。私に考えがありますから、ヤノーシェ殿は待機してくだされ」

「イヴァンシムさん、その言葉信じていいのか」

「はい。ひと月の猶予を」

「ひと月! そんなに長く待てねえよ」

「逆に言えば、ひと月以内に動けることを保証しましょう」

「ううむ、そこまで言うなら。だが、ひと月だぞ。それ以上は待てないからな!」

 そう言って、どかどかと足音も高らかに去ってゆき。一同はため息をついたり苦笑をしたり。

 それにしても、ヤノーシェのコヴァクスに対する態度は、親しみを込めこそすれ、国王、小龍公として畏敬の念など持ち合わせたものではない。

「なんという失礼な人でしょう」

 ニコレットは頬を膨らませるが、当のコヴァクスは苦笑しながら、

「でも、そういう感じの方が、オレはいい。国王だの小龍公だの、変にかしこまられても。オレはそういうのは苦手だ」

「まあ」

 兄の言葉に、ニコレットは色違いの瞳の目を見開いてまじまじと見やった。

 あの、クンリロガンハでの悲劇から、生活は一変した。それは貴族の世界から世俗の世界にくだることであったが。知らず知らずのうちに、コヴァクスには良くも悪くも世俗的なものが身についているようだった。

 それを聞く他の者らも、同じことを考えた。それが吉と出るか凶と出るか。

(まあ、小龍公なら大丈夫だろう)

 バリルは、そう気軽に考える。

「遅かれ早かれ、我らでも何等かの動きはせねばならぬもの。ならば、すぐにこの策を実行に移しましょう」

 イヴァンシムの言葉に、コヴァクスとニコレットは頷いた。


 さて、この会議に参加しなかったのは、ヤノーシェと龍菲はもちろん、本来は商人であるラハマディとペロティアも円卓の席に加わらなかった。

 赴任地でなく、今はロヒニに滞在し。仲間の商人とともに商売をしたり、資産の管理・運営のために港で働いていた。

「港は千客万来ね」

 港で潮風を受けながら、龍菲はぽそりとつぶやいた。 港で働く人々の休憩のための小屋があり、その小屋にある長椅子に腰かけていた。

 彼女は港で、髪の色や目の色、肌の色の違う、様々な人々が行き交う港の景色を興味深そうに眺めていた。

 青空が広がり、白い雲が気持ちよさそうに空を泳いでいる。

 そこにゆっくりと馬蹄の音がするので、音の方を見れば、コヴァクスとニコレットらが愛馬に乗って港にやってきたのだ。

「龍菲、いたんだね。丁度よかった」

 そうコヴァクスが言うので、なんだろうと思い。近づいてきて下馬し、ひそひそと、何かを耳打ちすれば。

「わかったわ」

 と、龍菲は端正な顔を引き締め頷いた。


(こいつは、たまげたなあ。両手に花じゃねえか)

 ラハマディは苦笑する思いだった。

 港にある建物でいろいろと指揮を執っているときに、コヴァクスとニコレットらが来たので、何事かと思えば。

 イヴァンシムが事の次第を説明し、それで、ラハマディは呆気にとられた。ペロティアも、

「ほんとにそんなことを、イヴァンシムさんが考えたんですか」

 などと言う。

「変なことを想像されては困る」

(それは無理というものだ)

 イヴァンシムは変な想像をするペロティアに苦笑しながら、他の者たちも同じであろうと思い。バリルはそれもやむを得ないと思っていた。

「小龍公と龍菲は長くフィリケアにいながら戻ってきた。それと同じことを、今度は小龍公女をくわえてしてもらおうと。そのために、あなた方の助けが必要だ」

「商団に紛れ込んで、オンガルリに入る。それはお安い御用だ。と言いたいが」

「何か?」

「万一のための保障をつけてくれ。商人は騎士のように志だけじゃ動かねえ」

「なるほど、もっともなことだ」

「そう言う以上は、信頼のおける商団を紹介してくれるのであろうな」

 イヴァンシムと違い、バリルはずけずけとものを言う。が、ラハマディにしても、そういった客は慣れたものだ。と言うか、商売はそんな客の方がやりやすかったりする。

 表裏があったり、やたら値下げをせがむ客に出くわすことは、商人にとって損失しかない。

「ああ、インダウリヤ商人のマハタラ爺さんを紹介しよう。信用できる人だ」

 そう言うラハマディに、ペロティアは頷き、駆け足で執務室を出て。しばらくして、頭に布を巻いた、浅黒い肌の老人を連れてきた。

「マハタラです。私に何かご用とか?」

 インダウリヤの老人、マハタラはうやうやしくお辞儀をし。一同も頭を下げて礼を返し。コヴァクスとニコレットは軽い自己紹介をし。

 イヴァンシムが話をし、マハタラはうんうんと頷く仕草をするが。

「難しいお仕事ですな。正直に申しまして」

「そう思われるのも無理はない。もちろん、無理強いはせぬ」

 イヴァンシムは考えるマハタラに静かに言いながら、相手の目の動きを注視すれば。その視線の先は、コヴァクスをとらえている。

「国王の身でありながら、一介の商人にも頭を下げられるとは」

「いや、本来ならばオレも、一介の騎士の身」

 コヴァクスは自分が王様と呼ばれることに、どうにも慣れない。

(あの御仁を思い出すのう)

 アラシアで出会った若者たちを思い出す。何か事情があって氏素性は隠していたが、好感のもてる若者たちだった。

 

故郷への旅立ち


 アラシアは獅子王子と称されるダライアスが大王の位につき、獅子王アスラーン・シャーとして大帝国を治めることになった。

 ダライアスは勇気と慈悲を兼ね備えた名君との評判が高い。あの若者たちは、ダライアスのもとに馳せ参じようとしていたのかもしれない。

 などと、考えていた。

 ふとふと、気になることがあった。

「王様は、ダライアス獅子王をどう思うかね?」

 その質問に、コヴァクスたちは驚き。突然何を言うんだと思わないでもなかった。つかみどころのないこのマハタラ爺さんの胸の内は、いかなるものなのか。

「戦場で一度刃を交えたのみで、よくわからないが。勇者だと、思っている」

「獅子王子、いや、獅子王と渡り合いながら命あること、不思議に思うこともありますわ」

 コヴァクスとニコレットがダライアスと戦ったことがあると聞き、マハタラは目を見張った。コヴァクスが直接刃を交えたのはイムプルーツァだが、ニコレットはダライアスと一騎打ちをしているのだ。

 商人として情勢を気にかけているとはいえ、完全に把握するのは難しいものだ。コヴァクスたちや新オンガルリに関しても大まかな予備知識を持っているに過ぎない。

「やはりお強いのですな」

「強いですし、なにより……」

 ニコレットは、あとになればなるほど、ダライアスには獅子王子や勇者といった言葉で表現できないものがあると、考えることがあった。

 故国オンガルリにてダライアスの評判を探れば。乱暴をされたという報告はなく、クンリロガンハにおいては、いっそこの地にとどまってほしかったなどと言う人まであり。

 たいそう驚かされたものだった。

「王子という宿命を使命に変えられたお人ではないかと」

 ぽそっとそんな言葉が出て。マハタラ爺さんは、相好を崩した。

「宿命を使命に変える。私の大好きな言葉だ」

「あ、和睦するか否かを問うているのですか。もちろん、和睦できるものなら、します!」

 コヴァクスはコヴァクスなりにマハタラ爺さんの聞きたいことを考えて、そんなことを言った。

「わっはっは!」

 コヴァクスの言葉を聞き、マハタラ爺さんは闊達に笑った。

「そこまで深く考えておらなんだが。王様は面白いお方だ」

「いやだから、オレは王様には向いてなくて」

「高貴の家に生まれるというのも、大変ですな」

「ええ、まあ……」

 マハタラの闊達さに対し、変に頭が低いコヴァクスに、一同は目が点になる思いだった。

(頼りないと思われたらどうするのよ!)

 ペロティアは呆れかえっていた。


「よし、お仕事、引き受けましょう」

「ほんとうですか! ありがとうございます!」

 コヴァクスはマハタラの手を握って喜ぶ。その様は難に遭って救出されたるがごとくであった。

「王様はごくごく普通の若者ですな」

「ああ、はい」

「だが、それがいい」

 ごくごく普通の若者という言葉が出て、一瞬緊張が走ったが。マハタラ爺さんの目は、好感に溢れたもので。その雰囲気もかもし出されて、知らないうちに解けていた。

「商団の旅で様々な人々に会ったが、最近アラシアでも好感の持てる若者たちに出会った。ほんとうにいい若者たちだった。それ以来、いい若者のお役にたてることが、余生の楽しみになりましてな」

「余生など、そう言わずに。マハタラ殿はまだまだお若うございます。このたびのこと、まことに感謝いたします」

 ニコレットも感謝の言葉を述べて。マハタラ爺さんは頷き。すぐに準備にとりかかった。

 翌日の朝、マハタラの商団はロヒニの街を出た。コヴァクスとニコレットは質素な服装でそれぞれの愛馬の手綱を取って歩いて。龍菲も質素な白い服で、商人たちの中に身を置いていた。

 龍星号と白龍号はドラヴリフトが自ら選んだ良馬だけあり、商人がまたがるには立派すぎるので。オンガルリのある富裕者に頼まれてアラシアで見つけてきたものだと、建前上はしている。

 アラシアは馬の名産地でもあり、西方エウロパやフィリケアでもそれを求める者は多い。

 龍星号と白龍号も、アラシア馬の血筋という。

(思えば、アラシアの馬にまたがって、アラシアと戦っていたとは)

 人間の都合で故郷と戦わされている馬を思うと、少し、気の毒に思った。

「故郷と戦うというのは、辛いものだ。今になって、アラシアの馬の気持ちがわかった気がする」

 道中、そんなことをコヴァクスがぽそっとつぶやけば。

「人の行いは、巡るものです」

 と、肩に杖を乗せて歩くマハタラ爺さんの応えがかえってきて。ニコレットは興味深そうに尋ねる。

「そういえば、マハタラ殿の故郷では、神のことを仏と呼んでいるとか。その言葉は、その仏の言葉ですか」

「はい、そうです。ご興味がおありなら、信仰をしてみてはいかがかな?」

「いえ、そこまでは……」

 ニコレットは苦笑するが、インダウリヤの仏なる神は、人の心の機微に触れる教えのようだと自分なりに考える。

 端で聞く龍菲は、くすりと微笑む。インダウリヤの仏の教えは西よりも東に広まり、昴でもよく信仰されている。その気になればマハタラと仏について語り合うこともできるが、でしゃばらずに控えている。

 ただ、マハタラは龍菲を見て。

「あんたはまあ。かなり東方の血を引いておるようじゃな。なに、昴! ほほう」

 と驚いていた。それもそうだろう、昴の者がいようなど、どうして想像しえようか。

 しかも、コヴァクスとともにフィリケアにいたという。

「フィリケアのジグラタル海峡といえば、西の地の果てと言われておる。昴からそこまで移動するとは、あんたさんはまた……」

 いくら地続きとはいえ、若い娘が東の果てから西の果てまで旅をするなど。まるで古来より語り継がれる神話のようだと、驚きを禁じ得なかった。


 ともあれ、幌付きの馬車一台と商品を積んだ荷車二台と、十数人の商人からなるマハタラの商団は、幸いにも着実に旅路を進み。

 オンガルリの国境地帯である、クンリロガンハの地に入った。

 進むたびにコヴァクスとニコレットの胸にこみ上げるものがあった。

 あれから十ヶ月。

「ここで、ダライアスと戦った。それから……」

 クンリロガンハの草原に立ち。戦いがあったとは思えぬ静寂の中。コヴァクスとニコレットは立ちつくしてしまい。言葉を出そうにも出せなかった。

 コヴァクスのそばの龍菲は、何も言わず黙って周囲を見渡している。

 草原のただ中に、大きく土が盛られている。

「あれは……?」

 故国の探りを入れたとき、ダライアスがクンリロガンハの地で死せるものを埋葬して弔ったという話を聞いたが。まさかあの盛り土がそうなのだろうか。

「あの下に、お父さまたちが……」

「ゆきましょう。下手に止まるとあやしまれる」

 そう言われて、我に返って、歩を進めて。最寄りの町に着いて宿を求めた。

 マハタラの商団を受け入れた宿を営む老夫婦は、十五歳の孫の男の子に手伝いをさせていた。マハタラはその男の子に気さくに声をかけた。

「よく働くね。えらいね」

 そう言えば、男の子はインダウリヤ人が珍しそうで、好奇心いっぱいに会話に花を咲かせた。インダウリヤとオンガルリでは言語が違うので、他の商人は雇っている通訳を通して人と話すのだが。マハタラはいつくかの言語に通じているので、会話にはさほど苦労しなかった。それでいて、人柄もよい。なるほどラハマディが信頼しただけのことはあった。

 男の子はマハタラをいたく信頼したようで、

「おじさんになら、見せてもいいかな」

 と、自室にマハタラを招いた。言葉に苦労している他の商人らはさっさと自室に引きこもってしまっていた。コヴァクスとニコレットも、顔を知る者に出くわすのはまずいと、自室に引きこもっていたのだが。

 龍菲は面が割れていないのをいいことに、宿の中にある食堂で飲み物を一杯所望し、一服して。コヴァクスとニコレットも、食堂で飲み物を所望し、一服していた。どうにも、喉が渇いて何か飲みたかった。


 顔を伏せ気味に声を発せず静かに、柑橘類の果物の汁を絞ったのを水で薄め、砂糖を混ぜた飲み物で喉を潤す。

 それを飲み終わり、マハタラが男の子の部屋に招かれているのを見て、「なんだろう」と好奇心から自分も入っていった。

 男の子の部屋には、絵描きのための絵描き台に乗せられた四角い画布があり、布がかけられている。男の子は布を取り外すと、画布には、ある人物の肖像画が描かれていたのだが。

 その人物を見て、マハタラとコヴァクス、ニコレットは息を呑んだ。

「……!!」

「これはあのときの若者ではないか」

 コヴァクスとニコレットは出そうな声を押し殺し。マハタラは思わず声を発した。龍菲はぽかんとしていたが。画布にダノウ河畔で見たダライアスが、肖像画として描かれていることに気付いた。

 夜を戴いたような艶のよい黒髪に、碧い瞳。その姿、忘れようにも忘れ得ぬ印象を心に残す。

「おいら、絵を描くのが得意なんだ。だから、忘れないうちにダライアス獅子王子を描いたんだ」

 男の子は自慢げに語る。

「ダライアス獅子王はいいお人だったよ。ずっとクンリロガンハにいてほしかったな」

 それを聞き、コヴァクスとニコレットはぐうの音も出ない。アラシアを敵国とし、ダライアスを敵将として戦ったのだが、クンリロガンハの人々には、名君であったと記憶されているのだ。

「ばれるとうるさいから、これ秘密な」

 男の子は片目を閉じ、約束を交わさせた。

 四人は頷き。そろってマハタラの部屋に入る。

「マハタラ殿、ダライアスを知っているのか?」

「あれは、ダライアス獅子王であったか……。アラシアでの道中、一緒になったことがあった。素性を隠していたのだが、まさか」

 悟った風のマハタラが、驚きを隠せず、引きずっている。

「アラシアで会った?」

「そうだ、商売の旅をしているときに、素性を隠して、しばらく一緒にいさせてほしいと。商売の手伝いもしてくれた」

「ダライアスが……」

 男の子はコヴァクスとニコレットの顔は知らないようである。しかし、ダライアスの顔ははっきりと覚えており、強く印象に残って、肖像画を描いたようだった。

「あれは、タフテ・ジャルシードへ向かうさなかであったのか。おお、なんという巡り会わせであろうか。これぞまさに、御仏のお導き」

「……」

 コヴァクスとニコレットは何も言えなかった。ダライアスは自分と同じように商団に紛れ込みタフテ・ジャルシードを目指し。そこで父王と戦い、獅子王になった。目の前の老商人が、それに一役買っていたとはどうして想像しえよう。


 マハタラは東の方角に向かい手を合わせ、頭を下げた。それが仏に対する礼であるという。

「オレたちの戦いは、なんだったのだろう」

 コヴァクスは、ぽそりとつぶやいた。

 アラシアは極悪非道の野蛮人であると聞いていた。確かにそういう者もいた。だが、そうでない者もいた。ダライアスなどは、一部とはいえ、敵国の住民に、去ってからもいまだ慕われていようとは。

 ダライアスがオンガルリに滞在した期間は短く、これといった業績は残せなかったが。乱暴を働くこともなく、女王や王女、王子も厚く保護し。正気を失ったレドカーン二世も隔離しながらも医師に看護させ、大事に扱ったという話しも聞いていたが。

 変な話、ダライアスが国を治めた方が、うまくいったのではないか?

「自国の王は君たる器なく、敵国の王子が君たる器大なり、とは。なんという、運命の悪戯でしょうか……」

 ニコレットは思わず嘆息する。奸臣にそそのかされて、功臣を討つような愚君である。ダライアスが去ってから、イカンシとつながりのあるよからぬ貴族と、エリジェーベトが国を治めて、一応の落ち着きを取り戻しているが。

 いずれ本性を現し、国を乱すであろう。彼ら、彼女らにとって、国とは、寄生するものなのだから。

「よろしいでしょうか?」

 ドアがノックされる。声からして通訳のようだ。

「入りなさい」

 とマハタラが言うと、静かにドアを開けておとなしそうな壮年の男性が入ってくる。

「気になって町の様子を見て回ったのですが。ダライアス獅子王はいまだ慕われており、逆に、いま国を治めているエリジェーベトに対する猜疑の心が大きいようです」

「ほう。とりあえずでも、いい政を執っているのだろう?」

「住民の人々は、ほんとうに、とりあえずと思っているようです。王をそそのかし、功臣で龍公と称されたドラヴリフトを討った貴族たちです」

 それを聞き、コヴァクスとニコレットは、思わず安堵のため息をついた。自分たちは必要と思われていないのではないかと思っていた。それどころか、父も同じように慕われていると聞き、感涙を抑えるのが大変だった。

「まだ喜ぶのは早いですぞ。ダライアスがいたからこそ、ここの人々はそう思っているが。他は事情が違うでしょう」

 言われてコヴァクスとニコレットは頷いた。龍菲は静かに話を聞くのみ。

「明日早く発ちましょう」

 その言葉を合図にそれぞれ自室に戻り。

 翌朝、日が昇る直前に町を発った。

 進むたび、懐かしい景色が目の前に広がって。数日の歩みののち、ついに、故郷のヴァラトノにたどり着いた時には。駆け足で屋敷にゆきたい衝動をこらえるのに必死だった。


 ロヒニからヴァラトノまで、高い山はなく、道路も整備されており。移動自体は容易だった。ただ、途中で警備兵にばれることには気を配った。

 幸いにも、ヴァラトノの街にたどり着けて。街の向こうにあるヴァラートネ湖を見にゆきたい衝動にも駆られ、それを抑えるのにも必死だった。

 顔もばれないように頭から垂らす布で隠して。マハタラが宿をとるのを外で待った。

 やがてマハタラがやってきて。皆で一緒に宿に入り、あてがわれた自室に入るや。

「帰ってきた……!」

 ぽそりと、小声でつぶやく。本当なら、大声で叫びたいのだが。そうもいかず。小声で、帰ってきたと何度も何度もつぶやいた。

 すぐにでも知っている者のもとへと駆けて、革命を起こしたいのだが。ここまでの道中、紛れ込ませてくれたマハタラを巻き添えにしてはいけないので、翌朝発ってからだ。

 龍菲はあてがわれた部屋で、ベッドで横になって休んでいる。これからが自分の出番なのだ。休めるうちに休もうと、呼吸を整えていた。

(それにしても、イヴァンシムさんに頼られるなんてね)

 てっきり自分に不信感を抱いていると思っていたが。フィリケアから黒軍を連れて一緒に帰ってきたことで、信頼してもらえたようだ。が、信頼して早々にこんな仕事を任されようとは。なかなかに人使いが荒い。

 

 さてロヒニだが。

 コヴァクスとニコレットは多忙で誰にも会えないと、面会の申し入れがあっても断っていた。

 オンガルリに行ったことは、身近にいる者だけの秘密なのだ。

 クネクトヴァとカトゥカは、いつでも出られるように準備と剣の稽古はおこたらなかった。

「お父さん、お母さん。そしてアルカードさま。天国から見守ってください!」

 強く強く、胸の中で祈りながら、来たるべき日にそなえていた。

 ヤノーシェは、じれったい気持ちを抱えながら、まだかまだかと、これも戦いの向けての準備を整え、稽古にも打ち込んだが。彼らは、何も知らされていない。

 イヴァンシムらは、オンガルリの様子を余念なく探る。

 ソシエタスとアッティも、いつでもゆけるように準備を整えていた。

 留守はマジャックマジルに任せ、女王と王女、王子を守ってもらう。

 ラハマディらは、いつも通りの仕事をこなして。国の財政に目を光らせていた。

 戦う準備はできている。

 あとは、コヴァクスとニコレットに懸かっていた。


「皆で盛大に、最後の夕食をともにしたいのですが、そうもいきませなんだでな。わずかばかりの心づくしですが」

 と、マハタラは、商品の中から「これを」と思うものを選び。コヴァクスとニコレットの部屋を訪れて、差し出し、手渡した。龍菲はすっかり寝入っており、ドアをノックしても反応がなかったので、コヴァクスに託すことにした。

 それこそ、

「礼をせねばならぬのはこちらの方なのに、余計な気を使わせて申し訳ない」

 と、遠慮したものの。

「前にも言いましたろう、若い人の役に立ちたいと」

 そう言って差し出したのは、短剣であった。柄の彫りも見た目より握り具合を重視したもので鞘などなんの装飾もない質素な装いだが、鞘から抜かれた白刃きらめき、斬れ味もよさそうな質実剛健なつくりをうかがわせた。

「使わぬに越したことはありませんが」

「いえ、このようなものをいただけ、恐縮です」

 兄妹そろって、マハタラの意志の強さに圧されて、ほんとうに恐縮して短剣を受け取り。

 深い感謝の意を述べた。

 ほんとうなら、宴でも開き、最後の晩餐を楽しみたいのだが。お忍びである以上そうもいかず。

 ヴァラトノを去り、ロヒニに立ち寄った際はラハマディと会って謝礼を受け取ってほしいと言ってはいたのだが。

 それよりも欲するものがあるという、マハタラの心遣いに感じ入った。

「ダライアス獅子王と知っておれば、何かお渡ししたものを。惜しいことをした。しかし、幸いにも、御仏は再びの機会をつくりたもうた」

「もったいないお言葉です」

 兄妹はそう言うしかなく、

(これは、革命を成功させ、人々に安穏を与えよというマハタラ殿の願いなのだ。短剣は、願いが忘れられずに聞き入れられるかどうか見ているぞ、という伝言でもあるのだ)

 また、兄妹はそう受け取った。

「では、これにて。我らは明日早くたちます」 

 マハタラはその言葉を最後に自室に戻った。

 コヴァクスとニコレットも、ベッドで横になり。明日にそなえ。

 翌朝、日の出の少し前に目が覚めると。外から、馬車や荷台の車輪の回る音がかすかに聞こえて。ベッドの中わずかに目を開けて、帰りの旅の無事を祈った。

 それからしばらくして、朝日も昇り。

 コヴァクスとニコレットは布を巻いて顔を隠して、足早に宿を出た。ニコレットは色違いの瞳なのを考慮し、利き目の碧い右目だけを出していた。

 宿の食堂にはすでに龍菲がいたが、顔も合わさなかった。

 ふたりが宿に出たのを見て、龍菲も少し遅れて宿を出て。見失わない程度に距離を開けて、後をつけた。

 巻いた布で顔を隠すふたりは、街の人々から「なにか悪い病にでも」と奇異の目で見られ。小さな子どもや女性などは、驚き、逃げるように距離を開けて足早にすれ違ってゆく。

 顔を隠しているのでやむをえないのだが。やっと帰ってきた故郷の街でそのような目に遭うのは、やはり辛かった。

 怪しむ人々は警護の兵にも声をかけたようで、駆け足の靴音がしたかと思えば、武装した警護の兵がやってくる。

 

「おい、お前たち!」

 三人の警護の兵がコヴァクスとニコレットの前に立ちふさがった。龍菲も歩みを止め、様子を見る。

「怪しい奴らだ。布で顔を隠すなど、人に見せられぬ顔なのか」

「……はい」

 か細い声でニコレットが応え。コヴァクスは無言で兵らを見据えるのみ。

 周囲はにわかに騒然とする。

「悪い病にかかってしまい。顔が醜くなってしまいまして」

「ほう、どのような病なのか見てやろう。来い!」

 兵は剣を抜いて切っ先を突きつけ、コヴァクスとニコレットを連行した。

 怪しまれないようにするため、剣は部屋に置いてきている。が、マハタラにもらった短剣をふところに忍ばせている。後で渡そうと、コヴァクスは龍菲の分も持っていた。

(コヴァクスの旧領は、近しい人が代理で治めていると聞いたけど)

 ばれないようについてゆきながら、どのような人物がヴァラトノ地域を治めているのか想像を巡らせる。

 コヴァクスたちに近しい者なら、心配はなさそうだと思いたかったが。神ならぬ人の身なれば、確信はもてない。

 やがて大きな建物が見えてくる。壁に囲まれた、丸い屋根の立派な三階建ての建物で、貴族の住まいにもふさわしいつくりだ。

(あれが、お屋敷なのかしら?)

 コヴァクスとニコレットは連行されて中に入ってゆき。龍菲は周囲を見回しながら、壁づたいに歩く。高さは彼女の手を上に伸ばしたところまでの高さ。

 屋敷は街中にあり、周囲も開けて人の通行もある。どうする、夜になるまで待つか、と思ったが。幸いに人通りが少なくなり、その人の目が自分からそれた一瞬の隙を突いて跳躍して壁に手をかけて飛び越え。軽やかに着地し、咄嗟に木の陰に身を隠しながら、壁の窓をうかがえば。

 召使いらしき初老の女性が窓を開けて、掃除をしていた。

 いい機会と窓に飛び込めば、初老の女性は驚きの声を発しようとするが。

「ごめんなさい」

 小声でつぶやきながら、手刀でうなじを叩けば。気を失い。それをささえて、ベッドに横たえる。

「あれは」

 ふと、目に飛び込む蹴球用の球。

 部屋は質素なものだがかと言って貧相でもなく。派手さはないが調度品もよくできたつくりで、身分卑しからざる者の部屋であることをうかがわせる。壁には本の並べられた本棚がひとつ立てかけられ。その横は、網に入れられている蹴球用の球がかけられていた。

「まさか、コヴァクスの……」

 一階とはいえ、日当たりもよい。

 初老の召使いの女性は、ベッドですやすや眠っている。それを起こして、部屋の主のことを聞いてみたいが、それどころではないと、外の様子を探り。誰もいないことを確認して、静かに部屋から出た。


 そのころ、コヴァクスとニコレットは、ヴァラトノの街を預かる領主代理の眼前に引き立てられていた。

 暴れたりせぬよう、縄で縛られていた。

 領主代理はゴグスといい、ドラヴリフトの側近であった少壮の男だ。

 クンリロガンハの戦いにおいて留守を預かり。マジャックマジルからも、くれぐれも頼むと言われていたのだが。

 そこは二階の広間だった。本来ドラヴリフトが座すべき領主の座にゴグスが座し、両側にはゴグスの側近らしき騎士が数人並んで控えて。あと十名ほどの護衛の兵士が槍を持って控えている。

「こいつらか、顔を隠した怪しい奴らというのは」

 ゴグスはやけににやついている。ドラヴリフトありし時は、そのような顔をする男ではなかったのだが。

(ほんとうに、ゴグスなの?)

 ニコレットもさすがにいぶかしむ。

「疫病で顔が醜くなったとな。しかし、目つきからして、若々しいな。これはますます怪しい」

 布を取れ、と命じて。護衛の兵士がふたりの顔の布を取れば。

「おお……!」

 驚愕のうめきが漏れる。

「小龍公、小龍公女!」

 あろうことか、怪しいと引き立てたのは、オンガルリにはいないはずのコヴァクスとニコレットであった。この予想もしなかったことに、一同はどよめいた。

 ゴグスもさすがに驚いていた。

「な、なぜ……」

「知れたこと、国を取り戻すためだ!」

 コヴァクスが叫べば、

「ゴグス、私たちに力を貸しなさい。オンガルリのために、ともに戦いましょう」

 とニコレットも言う。が、しかし、ゴグスは驚きはしたものの、

「ふ、ふふふ」

 と、不敵に笑う。他の者らも、気を取り直し、同じように不敵に笑う。

「飛んでランタンの火に飛び込む夏の虫というが、まさにその通りだな」

「ゴグス、様子がおかしいとは思ったが」

「まさか、あなたは……」

 ゴグスは座席から立ち上がり、ふたりに近寄り。護衛の兵は槍の穂先をふたりに近づける。

「お美しい」

 コヴァクスを無視し、ニコレットに近寄り、端正な顎を撫でる。

「さわらないで!」

 拒絶の言葉を叫ぶが、無視。

 その目はいやらしく、下心に溢れていて、嫌悪感を感じさせた。

「その色違いの瞳も、謎めいていて、いい。小龍公女を、できればオレのものにしたかった」

「ゴグス、お前血迷ったか!」

「うるさいぞ小僧!」

 強い蹴りがコヴァクスの脇腹に当たり。たまらずもんどり打って倒れる。

「オレが前のようにぺこぺこ頭を下げて、言いなりになると思ったか。甘いぞ餓鬼ども!」

 ゴグスの目は血走っていた。いくら欲望を満たそうとも満たせぬ、餓えた人間そのものの目だった。

 人目もはばからず、ゴグスはニコレットに抱きつき。鼻を金の髪につけ、匂いを嗅ぐ。

「少し汗臭いが、いい匂いだ。洗えばもっとよくなるだろう」

 まるで娼婦の品定めをするような物言いだった。ニコレットは身をよじらせて抵抗するが、縄で縛られていることもあり、ゴグスのいましめから逃れられない。

 コヴァクスは立ち上がろうとするが、他の者が背中と後頭部を踏みつけ立てないようにする。

「お前、まさか」

「そうさ、そのまさかさ。オレはエリジェーベトさまに仕えることにしたんだ。かのお方はお前の親父と違い太っ腹だ」

「父上は十分な給金を与えていたはずだ」

「ふん。それと引き換えに、規則規則とうるさい。エリジェーベトさまは、おおらかで寛大なお人。少々のことなど、黙ってくれる」

「そのような心変わり、哀れな」

「哀れなのはお前らだろうがあ!」

 ニコレットに抱きついていたのが、哀れと言われたことに腹を立て、肩を強く押して力任せに転倒させる。

 倒れて起き上がろうとしたが、ゴグス自身が肩を掴んで無理やり立たせて顔を近づける。

 息が臭く、思わず顔をしかめるが。ゴグスはお構いなさそうに、顔を快感でゆがませていて、それが口臭以上に不快感を感じさせた。

(エリジェーベトは人を下衆にして従わせるのね!)

「お前らをエリジェーベトさまに差し出せば、オレはもっと昇進できるだろう。その前に、小龍公女に楽しませてもらおうか。来い!」

 腕を首にまわして、力づくで自室に連れてゆこうとする。抵抗をするが、縛められてた身では逃げ出すことかなわず。コヴァクスも、倒されて背中と頭を踏まれて、さらに槍の穂先を突きつけられていかんともしがたい。

「なんだお前は!」

 そんな叫びがしたかと思えば、悲鳴が次々とあがる。

「曲者!」

 その叫びの直後にも、悲鳴があがり。大広間の扉が勢いよく開かれる。

「龍菲!」

 扉を開いたのが龍菲だと知り、コヴァクスとニコレットは安堵と歓喜をもってその名を呼んだ。

「誰だ!」

 ニコレットの首に腕を回すゴグスを見て、

「あなたに名乗る名はない!」

 風に乗るように、軽やかに駆け出す。


革命の時、来たれり


 その前に護衛の兵が槍を突き出すが、穂先は目にも止まらぬ動きによってことごとくかわされて。そのたびに、「ぐわッ!」という悲鳴とともに、兵は吹っ飛ばされては床に叩きつけられ、気を失った。

「な、なんという」

 見ればか細い丸腰の少女である。それが何をどうしたのか、掌で兵を吹っ飛ばしたので。ゴグスらは度胆を抜かれた。

「く、来るな!」

 龍菲の鋭いまなざしがこちらに向けられて、ゴグスは怖じてニコレットから腕をはなして、後ろへ後ずさりする。

 その間に、何事かと人が集まってくる。その中には、目を覚ました初老の召使いの女性がおり。コヴァクスとニコレットを見て、

「お坊ちゃま、お嬢さま!」

 口から心臓が飛び出るかというほどに驚きの声を上げた。

 あらぬことから国を出て、小さな国をつくったとか行方不明になったとか聞いていたが。それが、目の前にいるのだ。驚くなと言うのが無理なことだった。

「小龍公と小龍公女が、なぜここに!」

 他の人々も驚き、ざわめく。ゴグスは「ううむ」とうめく。

「エリジェーベトさまに逆らう反逆者だ! こやつらを捕えよ!」

 そう叫ぶや、気がつけば目の前には龍菲。腹に拳の一撃を喰らい、たまらずうずくまるところを、容赦のない手刀がうなじに当てられ。

 苦悶の表情を浮かべて、よだれを垂らしながら、気を失った。

 それからすぐに、倒れるゴグスの佩いている剣を抜き。足が離されて起き上がったコヴァクスと、ニコレットの縛めを切り解いた。

 自由の身になったコヴァクスとニコレットはふところからマハタラにもらった短剣を取り出し、身構える。

「小龍公と小龍公女がお戻りになられた!」

 ゴグスを気絶させた少女は何者だろうかと思いつつも、それ以上にコヴァクスとニコレットの存在は、大きかった。

 エリジェーベトにつき、甘い汁を吸った者もいたが。多くの者は、コヴァクスとニコレットの帰還を心から祈っていた。

 多くの人々が歓喜し、歓声をあげてコヴァクスとニコレットを取り囲み。その顔をまじまじと見やり、

「よくぞ戻られました」

 を連呼していた。

 屋敷は小龍公と小龍公女の帰還の歓喜一色に染まり。それはヴァラトノの街全体に広がってゆく。

 心根の悪い者は、自分の側につく者の少なさから、気まずい思いをしながら怖じて。急いで平伏し、

「お許しください!」

 を連発し、ひたすらに許しを乞うた。

「牢に入れておけ!」

 かわいそうと思わないでもないが、これから大きな勝負をしなければならないのだ。心を強く持ち、人々に命じ心根の悪い者たちを牢にぶちこんだ。


「お坊ちゃま、お嬢さま、よくぞご無事で」

 初老の召使いの女性は涙ながらにコヴァクスとニコレットによってくる。が、龍菲を見てぎくりとする。

 突然窓から入ってきたかと思えば。それからの記憶はなく。気がつけばベッドに横たわっていて。急いで起き上がれば、何やら騒ぎがして、大広間に駆け付けたという次第。

「レネおばさん、大丈夫だよ。この人は味方だ」

 コヴァクスは龍菲を警戒する召使いの女性、レネに優しく言った。

「ああ、それにしても。ほんとうにほんとうによかった。お部屋も整えて、いつ帰ってきてもいいようにしておりました。蹴球の球も」

「オレの部屋を守ってくれていたのかい?」

「はい。ゴグスさまは堕落してご主人さまと奥さまの部屋を自分のものにした挙句、お坊ちゃまとお嬢さまのお部屋もいらないと言っていましたが。私たち召使いどもは、どうにかして……」

 それから、こらえきれずに泣き出す。これまでの間、どのような気持ちでいたのかと思うと、コヴァクスとニコレットの胸は痛んだ。

「ありがとう、おばさん」 

 そう言うコヴァクスとニコレットの笑顔は、とても暖かだった。だが、いつまでもそうしていられなかった。すぐに気を引き締め直し。

「我らに逆らう者はいないのか。不満があるなら、剣をもって訴えてもよいぞ!」

 周囲に叫ぶ。しかし、逆らう者はいなかった。

 それを見るレネら召使いは、たくましくなったコヴァクスとニコレットに、感涙おさえがたかった。

(ご主人さまと奥さまがこのお姿を見られたら、どれほど喜ばれたことか)

 警護の兵が駆けつけ、群衆が集まってきている旨を、息を切らして告げた。

 コヴァクスとニコレットは、泊まった宿に剣や荷物、愛馬を置いてきていることを告げれば。誰かが急いで駆けて、とりにゆく。

「まずはお着替えを……」

 みすぼらしい服を着て、見ていていたたまれない。ふたりがどのような思いで故郷に向かって旅をし、たどり着いたのかと、想像を巡らせる。

 うながされてコヴァクスとニコレットは着替えのために自分の部屋にゆき。龍菲はコヴァクスの後ろにつける。

「しかし、とりあえずは、うまくいった」

 コヴァクスは久しぶりに入る自分の部屋に懐かしさを感じ、壁にかけられた蹴球用の球を撫で。ぽそりとつぶやいた。

 龍菲をいぶかんしんでいたイヴァンシムらであったが、フィリケアから無事帰ってきたことで信用をし。そこで、その力をコヴァクスのために使ってほしいと、直にお願いもしたものだった。

 龍菲は快く承諾した。おかげで、第一段階の、ヴァラトノ帰還は果たせた。

 さあ、次は第二段階だ。 

 着替えをすませれば、コヴァクスもニコレットも、凛々しい若い貴族の装いとなり。ことにニコレットは男ものの服を着用して、男装の麗人となり、多くの人々のため息を誘った。


「小龍公、小龍公女! お馬が到着いたしてございます!」

 言われてふたりは早足で外に出てみれば、屋敷は多くの群衆に取り囲まれていた。扉の前には、屋敷の者がそれぞれの愛馬の手綱を曳いて。それを受け取り、威勢よくまたがった。

 その動作に、人々の「おお」というどよめきが起こった。

 多くの人々の眼差しが全身を貫いている思いだった。喉がひりひりする緊張を覚えるのを禁じ得なかった。

「小龍公、小龍公女!」

 オンガルリを離れたコヴァクスとニコレットが、それぞれの愛馬にまたがり群衆の目の前にいる。

 人々の驚きは尋常なものではなかった。

 見れば、武装した騎士の集団が駆けつけてくる。エリジェーベト配下の騎士だろうか。

 コヴァクスとニコレット、龍菲は身構えた。だが、それらから、

「小龍公、小龍公女!」

 という声が飛ぶ。近づくにつれて、見知った顔が見えてくる。ドラヴリフト配下の騎士たちだった。

 コヴァクスとニコレットがいるという話を聞き、急いで武装し愛馬にまたがり、駆けつけてきたのだ。

(これは、まずい)

 遠くでは、エリジェーベトを支持する者や、その配下の者らが様子をうかがっていたのだが。

 不利の雰囲気をさとり、こそこそと、ヴァラトノの街を離れるしかなかった。

 誰も戦おうとしない。

「よくぞお戻りになられました!」

 騎士らは人々を掻き分けコヴァクスとニコレットの前まで来ると下馬して跪いた。

「マジャックマジル殿から、早まるなと言われ、悔しさを押し殺す日々を送っていましたが……。このような日が来るなど、まるで夢のようです」

 騎士は感激して顔が真っ赤だった。群衆も同じようだった。

 もしかしたら、刃を交えることになるのだろうか、と思ったが。誰も剣を抜かず、ヴァラトノの街はコヴァクスとニコレットの帰還への喜び一色だった。

「苦労を掛けてすまなかった」

「何を言われます。風の便りに聞く小龍公と小龍公女のご苦労、我らも我が事と思い、胸を痛めておりました」

「ゆっくりと故郷を懐かしみたいけれど、戦いにそなえねば。エリジェーベトも黙ってはいないでしょう」

 ニコレットは白馬の馬上、毅然と言い。すぐに結集の号令をかけ、守りを固めさせた。

「ニコレット、お前は街を頼む。オレは郊外に出る」

 コヴァクスは、いよいよ気持ちを抑えられず。「お兄さま、お待ちを!」の声を振り切り。数騎の騎士をともない、龍星号を駆けさせた。


 ヴァラトノの街はヴァラートネ湖のほとりにある。

 湖で漁をしている舟や対岸への連絡便の船の寄港する港もある。

 コヴァクスは真っ先にその港へ駆けた。

 オンガルリの国自体、高い山はなく全体的に高原地域の国であった。その中に、ヴァラートネ湖が高原大地の裂け目に溜まるように満々と水をたたえていた。

 各方面からの多くの川の水も流れ込み、その中のひとつの川はエウロパからカラデニズ海へと流れる大河のダノウ河にもつながっていた。

 コヴァクスは郊外に出て湖のほとりに来て、ヴァラートネ湖を見つめていた。

「よく湖のほとりで蹴球をされていましたな」

 誰がか言い、コヴァクスは頷く。

 ふと、遠くに馬を駆けさせる集団が見えた。

「あれはエリジェーベトの一味では」

 はるか遠く、今から追いかけても追いつけそうになかった。だが、このことが広く知れ渡りエリジェーベトの耳に入るのは想定内のことだったので、慌てることはなかった。

「ヴァラトノは、血を流さずに取り戻せたようだ。オンガルリそのものも、同じようにできればいいが」

 コヴァクスはぽそりとつぶやいた。同じ国の者と戦うことをフィリケアで強いられたから、なおさらその思いは強かった。

「これからどうなさいます」

「ニコレットの言った通り、まずは守りを固める。それからは、相手の出方次第だ」

「失礼ながら、勝算はおありですか?」

 そう問われるのも無理からぬことであった。

 革命を起こしたとて、火をつけただけでもみ消されてしまえば無駄な争いを引き起こしただけになる危険もあるからだ。

「エリジェーベトは人を欺くのが上手いようで、オンガルリの国民の多くが支持しています。しくじれば、ほんとうに反逆者になってしまいます」

「それはオレも聞いた。だが、エリジェーベトはともかく、近しい者らがどう出るか」

「そこに賭けるのですな」

「そうだ。小手先の善政は、いつかほころぶものだ」

 湖を目にしながら自分の考えを述べるコヴァクスを見て、騎士たちは頷いた。

(立派になられたものだ)

 貴族の長男として生まれはしたが、やんちゃっ気が多分にあり突っ走ることもあった小龍公が、先を見据えて行動を起こすようになるとは。

「ああ、でも、オレには難しい話だ。難しい事より、蹴球がしたい」

「それは、蹴球に失礼ですな。蹴球も難しいものですぞ」

 なんだかむずがゆいものを感じてそれをごまかすコヴァクスに、手厳しい突っ込みが入れられて。

「はっはっは!」

 と、笑いが起こった。


 郊外をひと通り駆け巡って、街に帰ってきたのは夕方になってからだった。

 ニコレットはうまくやっているようで、人々は普段通りの生活をし、少しばかり緊張感はあるものの、変な暗さはなかった。

 武装した騎士や兵士も各所に配置されていて、隙をうかがわせず。いつなんどきの有事にも対応できそうだった。

 これはロヒニを治めていて身に着けたことなのかもしれない。

 屋敷に戻れば、龍菲の出迎えを受けた。彼女屋敷に留まり帰りを待っていて、笑顔でコヴァクスを見つめていたが。その後ろから、人が来て、

「小龍公女がお待ちしております」

 と言う。

「何か小言を言われるのかな」

 苦笑しながら下馬し人に龍星号を預け、執務室に案内された。

 これは父が使っていた部屋だ。

 いかにも貴族だというような派手さはなく、必要な調度品のみでととのえられた簡素な部屋だった。

 中に入れば、ニコレットは背筋を伸ばし、腕を背中の後ろで組み。

「おかえりなさいませ」

 厳かに、静かに言った。

 外は暗くなりつつあり、夜の帳が周囲を覆うようになるが。母親譲りの金髪が、ランタンの火を受けてほのかに輝く。

 執務室の机の横には、紅の龍牙旗が立てかけられている。マハタラの商団のおかげで、ロヒニからヴァラトノへと運ぶことができた。

 龍菲は外で待っている。

 最初は多くの人にいぶかしがられたのだが、ニコレットが事情を話して味方である旨を語れば、とりあえずは納得してもらい。部屋も与えた。

「お兄さまはお変わりになられませんね。私は、変わってしまいました」

「……?」

 何か小言でも言われるのかと思えば。何を考えているのだろう。

 ぽかんとするコヴァクスを色違いの瞳で見つめ、

「気持ちを逸らせずにお願いいたします。私たちはもう、お父さまの子供ではなく、お父さまそのものにならなければいけません」

 と言う。

 それを聞き、コヴァクスははっとして。気持ちを引き締める。

 故郷に帰ってこれたせいか、ついつい、子息気分が出てしまったが。子として父に率いられるということは、もうない。ニコレットの言う通り、これからは父そのものになったものと思って、戦いを引っ張ってゆかねばならないのだ。

「わかった。気をつけよう」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 それから、主要な者たちは屋敷に来て、泊まり込みで働いてくれるという旨を告げられ。こまかな軍議など、常にこの屋敷を拠点にしておこなわれる。

「お兄さまがお出かけになられた間、街の人々への告知はしておきました。ただし、戦争になるかもしれない緊張感の中、一般の人々がどれだけ気持ちを固く持てるのかは未知数です」

 まるでイヴァンシムのような軍師にでもなったかのような口ぶり。コヴァクスは黙って聞いている。


「一番怖いのは、民衆。この民衆の支持を取り付けなければ、革命は失敗します。そのためにも、我らが強いところを見せねばなりません」

(ニコレットはそこまで考えていたのか。イヴァンシム殿と一緒に働いていたことで、頭がよくなったんだな)

 コヴァクスは、ニコレットの言ったことが少しわかったような気がした。

 フィリケアでは、気ままなどころか、生きるか死ぬかの傭兵暮らしの果てに自分そのものが崩壊しそうになった。結局、灯台を見失い暗夜の大海をさまよう小舟だったのだ。

 龍菲が支えてくれなければ、どうなっていただろうか。バジオとの出会いで立ち直れたとはいえ、それも彼女の未知の地での、心身ともに削る思いでの支えがあったればこそだった。

 あのとき抱きしめてもらえなければ、自分はどこへ行ってしまったのだろうか。

 その間、イヴァンシムたちの支えがあったとはいえ、国王代理として国を治めていたニコレットは、随分と成長したものだ。

 逃げた者と逃げなかった者との差を、ここで思い知るというか。

 コヴァクスはフィリケアでようやく自分というものを掴んだが、ニコレットはその先を行っているようだ。

「イヴァンシム殿みたいだな」

 と言おうとしたが、「おふざけにならないでください」と怒られそうなので、やめた。それくらいのことができる程度には、コヴァクスも成長しているつもりだ。

「これは私も戒めることですが、一番怖いのは民衆と言えども、一番の敵は私自身であることを、お兄さまも自戒くださいませ。革命精神は、まず己自身に勝つことからはじまります」

「それはイヴァンシム殿に教えてもらったのか」

「はい、そうです。己自身の臆病の心に打ち勝てと、何度もさとされました」

「じゃあ、バリル殿なんかは、もっと口うるさく言ったろうな」

 饒舌なバリルがあれやこれやと語る場面を思い浮かべ、可笑しそうに話せば、

「おふざけにならないでください」

 と、小言が返ってきて。コヴァクスははっとして、ニコレットの言う通り自分は変わっていないことを苦笑しながら思い知った。

「でもその通りバリル殿は、それはそれはもう、口を酸っぱくして言われましたわ。時に口角に泡を出すことも」

 その場面を思い出してか、ニコレットはくすりと笑う。

「ん?」

 と思ったが、どうにもバリルの饒舌っぷりが脳裏から消えなくなってしまったようで。

「うふふ。ああ、いけない……。うふふ、うふふふふ……」

「ニコレット……」

「ごめんなさいお兄さま、バリル殿のことを思い出してしまって、変な笑いが止まりませんの」

「それを聞いたら、怒りそうだな。『失敬な!』と」

「そうかもしれませんわね。うふふ……」


 うふふ、と笑いをこらえるニコレットだったが。色違いの瞳は潤んでゆき、ついにはひと雫の涙が、右の碧い目から零れ落ち。

 突然肩を震わせたと思えば、何を思ったかコヴァクスの胸元に駆け。

 驚き慌ててそれを両手で受け止めれば。気丈ななずの妹は、兄の胸元で肩を震わせて泣いていた。

「ごめんなさいお兄さま、私、自分の気持ちをどうしたらよいのか、わかりません……」

 まだうら若き乙女である。

 それが小ながら一国を背負い、さらに故国を取り戻すための革命を起こそうというのである。男でも背負うには重いものを、彼女は背負ってきたのだ。

 そんな彼女にとって、全身を預けられる存在は、コヴァクスをおいて他にいなかった。

 故郷に帰ってきて、ようやくにして、全身を預けられる安堵感を求める気持ちが胸を突いて出てしまったというか。

 廊下では、龍菲が召使いのように背筋を伸ばしてコヴァクスを待っている。

「……」

 兄と妹とはいえ、コヴァクスが他の女性と一緒にいることが気になる。ということは、さすがになかった。と言いたいが、変に時間が長く感じられるのは、なぜだろう。

(嫉妬……?)

 自分でも信じられなかったが、自分はニコレットに嫉妬していた。

 よもや肉親の情を越えた情愛におぼれることはいだろうが、血のつながった兄と妹だからこその絆を思うと、割り込めない自分が許せなくもあった。

 ここはコヴァクスとニコレットの故郷だが、龍菲にとっては遠い異郷の地。

(ああ、私も、人間だ……)

 暗殺者として育てられて、人としての感情などないと思っていたのが。

 背筋を伸ばし、廊下に立つ龍菲を見て召使いたちは気を使い、

「もうお休みになられては?」

 と言うが、彼女はにこりと微笑み。

「ありがとう。でも、ここでコヴァクスを待つわ」

 と言い、召使いを驚かせた。

(この人は、まさか?)

 人生経験を積んだレネおばさんなどは、そう思ってしまうものだった。

 やがてコヴァクスが出てきて、あとにニコレットも続き。

 コヴァクスと龍菲は互いに頷き合い、それぞれが自室で休んだ。

 翌朝、朝日が昇るとともに起き、身繕いをして朝食をとり、執務室へと兄と妹でゆき。寝ずの番をしていた者から状況報告を受けるが。

 まだ相手の動きはつかめていないという。

 寝ずの番をいたわり、次の者に引き継げと役目を解けば。寝ずの番は感謝の言葉を述べ、執務室をあとにする。

 龍菲も起きていて、召使いが運んできてくれた朝食をとったあと、椅子に座り瞑想にふける。


 呼吸を整え、気持ちを落ち着かせ。

 起きているのに眠っているように動かず。

 ただ時が過ぎるのに任せていた。

 遠く離れず、常にコヴァクスとニコレットのそばにいてその身を守れ、というのがイヴァンシムからの指示で。彼女はそれを忠実に守っていた。

 陽もだいぶ昇っている。

 執務室における事務的な仕事をひと通り終えて、コヴァクスとニコレットはそれぞれの愛馬で、数騎引き連れ街を巡回した。これには龍菲も付き従った。

 他人が見てわからぬよう、ほどよく距離を開けて。

 やはりというか、街は緊張感に包まれて。人々の顔はやや硬い。エリジェーベトが怒り狂い、大軍をよこすのではないか、と。さらに、隣国マーラニアからも攻められてしまえば、ひとたまりもなく、湖のほとりの街が火の海になるのは明らかだった。

 他の、理解ある貴族にも革命を呼びかけては、という進言もあったが。コヴァクスとニコレットは、首を横に振り。あくまでも相手の出方を待つ、と言った。

「ヴァラトノだけで、どうするつもりなのだ?」

 焦りや不安の声もささやかれた。

 これもイヴァンシムの策なのだが、それは他言せず、コヴァクスとニコレットの案によるものであるとするようにと言われてもいるので。その通り他言はしなかった。

 そんな調子で数日が過ぎ。王都ルカベストの王城はといえば、

「なに、小龍公と小龍公女が!」

「革命だと!?」

「ついに牙をむいたか、忌々しい龍の子どもめ!」

 と、心根のよからぬバゾリーをはじめとする貴族たちは蜂の巣をつついたよううな騒ぎだった。

 貴族たちが知っているのだから、当然ルカベストの民衆はおろか、全オンガルリに伝わっていることであろう。もしかしたら、マーラニアのカラレ三世の耳にも入っているかもしれなかった。

 ともあれ、報告を受けて、お腹がふくらみつつあるエリジェーベトは、顔色ひとつ変えず。

「わかりました。しばしお待ちを」

 と言い、奥に引っ込んだかと思えば、なんと心の病を患う、国王レドカーン二世を連れてきて。王座に座らせたではないか。

(頭のおかしくなった王など、どうするつもりだ)

 と貴族たちは思ったが。バゾリーは、

(そうか、国王に直接命令させて、我らの正当性を保とうというのか)

 そう考えた。

 王座に座すレドカーン二世は、ぽかーんとし、居並ぶ貴族たちが何なのか理解していない様子で。

「あー……、お前たちは誰じゃ?」

 などと言うではないか。これには貴族たちは、失望を禁じ得なかった。

 警護の近衛兵などは、久しぶりに見る王の耄碌ぶりに度胆も抜かれているようだった。


(我が妹も、よくこんな男に身も心も許したものだ……)

 バゾリーは、今更ながらエリジェーベトに戦慄すら覚えた。

 あれだけ愛し合っていたヴラデがダライアスとの戦いで死んで間もないというのに、いとも簡単にレドカーン二世に乗り換えたのだ。それだけでも恐ろしいというのに。しかも、三十半ばという年で、である。

「王様」

「おお、そうじゃ、そうじゃ」

 エリジェーベトに優しくうながされて、レドカーン二世は、

「この国を、浪漫で彩るのじゃ。それが予の命じゃ」

 それだけ言うと、よろりとよろけながら、エリジェーベトの助けを借りて立ち上がって。侍女に引き継がせて、そのまま、引き下がってゆく。

 それを、ぽかーんと、貴族たちは間の抜けた顔で見送った。

 エリジェーベトは微笑んでいて、貴族たちに、

「国王陛下の命が下りました。おのおの方、ぞんぶんに励んでくださいまし」

 と言う。要するに、軍勢を送り込んで討ち取れ、ということか。そう判断するしかなく、貴族たちは「はは!」と威勢よく返事をして、戦いのために散り。

 エリジェーベトはそれらを微笑んで見送った。

 マーヴァーリュ大教会において、筆頭神父シキズメントをはじめとする者たちが、この時がついに来たかと緊張を覚えていた。

「我らはどうすればよいのでしょう」

 主だったものが執務室に集まり。そう神弟子から問われて、シキズメントは思案を巡らせた。

 人々に心の平安をもたらすのが本来の役割の神父である。有事の際にできることなど、ないかのように思われた。

「私をヴァラトノに行かせてください!」

 そう言うのは、ソレアであった。

 危ないからだめだと、シキズメントは止めた。しかし、

「私のせいで、小龍公と小龍公女は……。罪償いがしたいのです」

「それならば、神への奉仕で十分しておる」

 ソレアは尼僧になり、シキズメントを師と仰ぎ。神への奉仕、人々の心に安寧をもたらすための教会活動に力を注いだ。

 病める人や貧しい人への施し。施しのための、貴族への寄付のお願い。孤児の世話など。ソレアは、どのような、常人ならば汚らしいと嫌がることも、ひるまずに挑んだ。

「そなたは、十分に償いをしておる」

 そう言ったとき、騒がしくなったと思えば、突然武装した兵士が扉を蹴破り突入してくる。

「神に仕えるふりをしながら叛逆を企てる者どもを成敗しに来たぞ!」

 必要以上にきらびやかな鎧に身を包んだ貴族風情の騎士が叫ぶ。その目はシキズメントに向けられていた。

 ソレアの言ったことは聞かれていないのか、あまり見られない。とはいえ、刃が向けられるのは、執務室に集まった神弟子すべて同じだった。


「何を言うのですか!」

「問答無用!」

 刃は閃き。

 神弟子らは、逃げ惑うも逃げ切れず、閃く刃にされるがまま。

「おやめください!」

 シキズメントは叫んだが。神弟子らは血を流し凶刃に倒れて、無念の表情で息絶える。その中には、ソレアの姿もあった。

 己の犯した罪に苦しみ、償いをすることかなわず果てた彼女の顔もまた、無念の色に染められていた。

 だが、凶刃はシキズメントには向けられなかった。

 屈強な騎士に捕えられて、羽交い絞めにされて。神弟子たちの無残なむくろを見せつけられる。

「なぜこのようなむごいことを」

 血を吐くような唸り声でシキズメントは抗議の声を上げたが、それは嘲笑をもって返される。

 マーヴァーリュ大教会は占拠された。

「ドラヴリフトと昵懇の間柄であったお前だ、どうせよからぬことを企んでいるであろうと先手を打ったまでよ」

 派手な鎧の貴族が言う。それはバゾリーであった。

「馬鹿な。我らは人のため、国のために尽くしてきた」

「ふん。落ちこぼれどもなどを助けたところで、なんになる。おかげで余計な出費がかさんだわ」

「余計な出費……!」

 それは教会への寄付のことだろう。悩める人々を救うために、貴族に寄付をお願いしたが。強引な取り立てなどしなかったし、出された寄付も少額であった。そんな中でドラヴリフトは惜しみない寄付をしてきたのだが。

 前々から教会もよからぬ目で見られていたのは知っていた。それでも手を出されなかったのは、レドカーン二世も教会のよき支持者だったからだ。

 浪漫に溺れる愚かな王ではあったろうが、厳しいドラヴリフトと違い温和なシキズメントには心を許していた。

 そのレドカーン二世は正気を失っている。よからぬ貴族にとっては、教会を潰す絶好の機会であった。

「あなたさまは理想ばかり見て現実を見なかった。これはあなたがまねいたことなのですよ」

 そんな無情な声がした。

 神父のひとり、ヴォーロムという者だった。

「お前は……」

 シキズメントはヴォーロムを鋭いまなざしで見据えた。

(聖職者としての自覚もなく、よからぬ貴族に媚びへつらっていたが)

「教会の孤児院も掃除をしました。親にも捨てられるような子供など、早く死なせてやる方が慈悲だと、私は思っていたのです」

「馬鹿なことを言うな! 人は、誰にでも生きる権利がある!」

 シキズメントは日頃の温厚さからは考えられぬような叫びをあげた。

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