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龍の騎士と獅子の王子 Ⅳ (55123文字)

寒風吹けども、動乱は凍らず


 翌朝、安堵しながらも不安をぬぐいきれない夜を過ごしたヴァハルラ女王らはソシエタスにともなわれてロヒニに向かい。その翌朝到着した。

「ほんとうに小さな国ですね」

 アッティは「新オンガルリ」に入ってわずかな時間で「都」に来れたことに、すこし拍子抜けしながらも、安堵の表情を浮かべていた。

 街の様子を見てみれば、オンガルリの都ルカベストほどではないが、賑わいを見せ。ルカベスト以上に様々な民族や人種が混在して、ほんとうに異国風情を漂わせていた。

「わあ、すごーい」

 第一王女オレアと第二王女オランに、末っ子の王子カレルは好奇心いっぱいに周囲を見渡していた。

「港町だけあって、いろんなところから人が行き来していますからな。私も最初は驚いたものです」

「海というものは、まるで大きな扉というか、不思議なものじゃのう」

 長年オンガルリ人として生きて、海を知らないマジャックマジルは年に合わず王女と王子のように好奇心に満ちた目で街を見渡して、

「この者らを集めて蹴球をすれば、面白そうじゃのう」

 などと、ひとりごちた。それを聞き、ソシエタスはいたたまれなかった。

 かつてコヴァクスも同じことを言い、いつの日か思う存分蹴球を楽しめる日を楽しみに頑張っていたのだが……。

 蹴球はいつの間にか広い地域に伝わっていた。太古の昔、討ち取った敵将の首を勝利祝いに蹴った風習から始まっただの、どこかの国王が賞金を懸けてひとつの球をめぐって人々を競わせただのと言う話があるが。

(そういえば、マオにも鞠と呼ばれる球を蹴る、蹴鞠遊びがあると、ロンフェイは言っていたな)

 その起源にはさまざまな経緯がありそうだが、古代マーレ帝国時代には多くの人々が蹴球に興じるようになり。そのときに統一した規則がもうけられた。

 アラシアでも、西からの移民が伝えて広まっていると聞いた。たしかにラハマディもよくたしなみ、コヴァクスに借りを返してやると息巻いていたものだ。

「戦争なんかより、蹴球の方がずっと楽しいのにね」

 ふと、カレルがそうつぶやいた。

 各地で戦争が起き、人々の心も乱れ。ついには国を出なければならなくなって。幼心に戦争というものの馬鹿馬鹿しさが深く刻み込まれているようだ。

 ヴァハルラもそれを聞き、いたたまれなかった。カレルは特に深くものを考えて言ったわけでないのだろうが。

 やがてロヒニの議事堂に着けば。いつもよりも華やかな赤いドレス姿のニコレットとクネクトヴァ、カトゥカ。さらにイヴァンシムにバリル、ダラガナがうやうやしく一行を出迎えた。

「女王様……」

 先頭に立つヴァハルラを見て、ニコレットの涙腺は崩壊しそうだった。

「ニコレット、苦労をかけて、申し訳ない」

「もったいないお言葉でございます。さあ、どうぞ中へ」

 一行を中へ導く。

(小龍公がいなくなったというのに、落ち着いたものじゃな)

 ニコレットのみならず、ロヒニ、ひいては新オンガルリ全体が混乱の様子を見せず落ち着いている様子に、マジャックマジルは感心していた。

 議事堂の中へ入るや、ヴァハルラは足をもつれさせて、倒れこんでしまった。

「女王様!」

 ニコレットはすぐさまかがみこみ、手を差し伸べる。

「ごめんなさい」

 ヴァハルラは力なくつぶやき、召使いの女性もかけつけて、それに助け起こされる。三人の子も、母の足にすがりつく。

「だいぶお疲れの様子、無理をせずにお休みになられたがよいでしょう」

 イヴァンシムらも心配そうにし、ヴァハルラは力なくうなずき、召使いに導かれてあてがわれた一室へとゆき。寝間着に着替えるや、窓から太陽の光が差し込む中、泥のように眠りについた。

 

 ところはかわり、トンディスタンブールにおいてダライアスが挙兵し。都市はものものしい雰囲気につつまれていた。

 トンディスタンブールはヴァラカナ半島のすぐ東にあり。半島とは狭い海峡で隔てられており、すぐ北にはカラデニズ内海と、南も海と、海に囲まれた海洋都市でもあり。古代から海を通じて様々な地域から様々な人々の往来する国際都市でもあった。

 トンディスタンブールの港には、各地から交易のための船が多く。そこらら、多くの傭兵が船を降り立っていた。

「獅子王子が挙兵だと? 馬鹿な」

 路地裏の安宿の酒場で不機嫌につぶやく者がある。安宿には浮浪者ややくざ者、娼婦がたむろし、まずい安酒をちびちびと舐め、口を慰めている。

 だがその者は、まずい安酒だろうとおかまいなく、ぐいっと一気に飲み干した。

「おいおやじ、酒を持ってこい!」

 と杯を掲げて叫んだ。

「よく飲みますわね」

 その者はひとりではなかった。ほかに三人。男ひとりに女ふたり。

「へい。どうぞ」

 おやじは愛想も悪く、卓に酒の入った杯を置いた。

「もうよせ」

「いや、飲ませてくだされ」

 その者は杯を手に取る。髪は黒い中に銀の入り混じっていた。連れ合いの者といえば、男は夜を戴いたかのような美しい黒髪で、碧い目をしており。女のひとりは美しい金髪で黒い目をもち、残るひとりは髪も瞳も黒い。

 その顔立ちは凛々しく、路地裏の安宿の酒場にはにつかわしくない。その様子のおかしさは他の客たちも気づいていて、じろじろと視線が集中していた。


アルタイルの称号が泣きますよ」

 パルヴィーンはあきれたようにイムプルーツァに、小声でたしなめた。その隣のヤースミーンは、縮こまって声も出ない。

 そう、これなんは獅子王子アスラーンダライアスらであった。

 ダライアスは腕を組み、イムプルーツァが安酒を飲み干すのと見ると立ち上がった。

「ゆくぞ」

「ほんとうにゆかれるのですか」

 ヤースミーンはか細い声を出し、ダライアスを見つめた。

(試練につぐ試練だというのに、獅子王子はまだ試練をおもとめになられるのですか……)

 ダノウ河畔で多くの犠牲を払いながらもどうにかヴラデの軍勢をどうにか退け、一路故国を求めたダライアスたちであったが。

 もうすぐ海峡というところで一旦止まり。そこで、解散を宣言した。

「お前たちに命ずる。予から離れよ。以後、予に忠誠を尽くすなど世迷言をほざくな!」

 これに将兵たちが動揺したのは言うまでもなかった。

「もうよい。お前たちは、家に帰れ」

 ダライアスはそう言うと、愛馬アジ・ダハーカとともに皆から離れてゆく。イムプルーツァとパルヴィーン、ヤースミーンはそのあとをついてゆく。他の者も、同じようにする。

「ついてくるな!」

 イムプルーツァが一喝すれば、皆はひるみを見せ。その隙にアジ・ダハーカは地を蹴り駆け出した。

 それから、ダライアスはわずか三名の共のみになり。途中出会った商団に、正体をかくし行動をともにし、何食わぬ顔でトンディスタンブールに入り。商団と別れて、路地裏の安宿に飛び込んだ。

 それからろくに外も出ず、日々をむさぼり時が経つに任せていた。ついてきたイムプルーツァとパルヴィーン、ヤースミーンはそんなダライアスが気が気でなかった。

 何を思っての事なのか。まさかこの期に及んでなにもかもに嫌気がさしてしまい、投げやりになってしまったのではあるまいか。

 だが、運命はダライアスが惰眠をむさぼることを許さなかった。

 突然兵士たちが街中にあふれてきたかと思えば、あろうことか、ダライアスがトンディスタンブールを占拠したというではないか。

「にせものか……」

 イムプルーツァはうめいた。誰かは知らぬが、ダライアスが行方不明であるのをよいことに、その名を騙り反乱を起こしたようである。

 無理に版図を広げようとし、無理な拡大戦争のため、人心の乱れは上下万民にまで広がっていたようであり。そのつけが、このようなかたちで出たのだと思わざるを得なかった。


 そこで、ダライアスは怒り、にせものを戦うのかと思われたが。

「タフテ・ジャルシードへゆく」

 などと言いだしたものだから、イムプルーツァらは驚かされた。

「なんにために? ……まさか、杯を」

 その問いに、ダライアスは頷いた。

「そ、そんな畏れ多いことはなりません!」

 とうろたえるイムプルーツァではなかった。

「獅子王子から獅子王になられるご決意をされましたか。このイムプルーツァ、歓喜でふるえてなりませぬ!」

 そう言って、景気づけであると、安酒をまずいのもおかまいなくぐびぐび飲むのであった。

 そんなに飲んだら悪酔いするのではないかと、パルヴィーンとヤースミーンは気になったものだった。

 一同立ち上がり、金を払い安宿を出れば。路地裏にたむろするやくざ者や娼婦、薄汚れた子供たちがもの珍しそうに視線を投げかけ。ヤースミーンはうつむき、目を合わせないようにダライアスの後ろをついてゆきながら、パルヴィーンに支えてもらっていた。

 その目つきの悪さ。宮廷の人間たちとはまた違ったたぐいの悪さだった。ヤースミーンにしてみれば、どちらも見ていてつらいものだが、路地裏の者たちの目の方がこたえる。

 路地裏を出て、警戒されないよう騎乗せず手綱を引いて街を歩く。

「この世に、あのような場所があったのですね」

「そうだな」

「なんの罪あって、あの人たちは、あのような目をしなければならなくなったのでしょう」

「……」

 ダライアスにもわからず、何も言わなかった。

「獅子王子が獅子王になれば、なんとかしてくれるわよ。そのために、わたしたちも、頑張らなきゃ」

 パルヴィーンはそっとヤースミーンに耳打ちする。

 トンディスタンブールはアラシアから見れば辺境の街であるが、古来より大陸の文明交差点のど真ん中にある街でもあり、各地より人々がつどい、百花繚乱の賑わいを見せている。

 その中に、武装をした兵士が多く混ざっている。ダライアスを騙る者は自らをアラシア大王と名乗っている。ということは、西方とも刃を交えることになるだろう

 西と東と対峙するのだから、必要とされる軍事力は半端なものではない。

「所詮、獅子王子も、ただの権力者か!」

 そんな愚痴が、一行の耳に飛び込む。


 文明交差点は人のみならず刃も行き交い、戦火も絶えなかった。それがアラシア統治でようやくなくなったと思っていたのに。

 ダライアスが東から来たときは、その公正な人柄を多くの人々が慕ったものだが。それを裏切られた気持ちは、どのようなものだろうか。

「それは違うぞ!」

 イムプルーツァは咄嗟に叫びたいのをこらえて、声をやり過ごした。

 郊外に出て騎乗し、一路東へと、タフテ・ジャルシードへと向かう。

 そんなことがあるとも知らず、ダライアス挙兵を知ったシァンドロスは、

「これは面白いことになったものだ」

 まるで童子のように胸を弾ませた。

 ひとまず手に入れた旧リジェカ王都ザブラグを本拠地とし。事の次第を父王フェレッポスに報告し。

 他の、旧ヴーゴスネア地域の動向を探れば。アラシアへの怨み深く、自らソケドキアに組する者が多かった。

「シァンドロスこそ希望の太陽!」

 ところどころで、そのような大合唱が起こり。またたく間に旧ヴーゴスネア地域はソケドキアに編入されてゆき。騒乱もそれにともないおさまってゆき。人心は一応の安定を得ることになった。

 だが、ガッリアスネスは憂う。

「アラシアへの憎しみを支えにした安定など、いつまで続くのか」

 ただでさえ憎しみが渦巻いていたというのに、さらに憎しみを積み重ねるのか。

 いや、そもそも、シァンドロスはそのようなことをする人間だったのだろうか。

獅子王子リオンターリはどうなってしまわれるのか」

 一体なにがシァンドロスをそうさせるのか。ガッリアスネスにははかりかねた。

 シァンドロスおよび神獅子軍テオスリオンターリのいるザブラグには、各地より忠誠を誓う使者が訪れては、シァンドロスはそれと会い。新たな王のごとく振る舞うのであった。

 だがあれから、コヴァクスの逃走からしばらくして、太陽もめったに姿をあらわさず、鉛色の雲が空を覆う日も多くなり。

 寒さが身を刺し。雪も降ってくるようになると、人の動きはどうしても鈍らざるを得なかった。

 それにともない、状況も次第に落ち着き、争乱の報せもなく。ヴァラカナ半島には、とりあえずの平和が訪れた。

 さすがのシァンドロスも、しばらくは落ち着くだろうか、と思ったが。そうは問屋がおろさなかった。

 よくザブラグの街を視察にゆき、民衆は顔をほころばせて、

「アラシア滅ぶべし」

 と唱えれば、手を挙げてそれに応えて。下馬し、厳重に護衛されながも、市場の品物に興味を示し。美味そうだと売り物の果物を頬張るなどし、積極的に民衆の中に飛び込み、溶け込んでゆく。

 旧リジェカの王族をザブラグに招き入れたときも、まだ幼い王族のモルテンセン十二歳と妹のマイア十歳をともなって、市中を練り歩き。

 その時もまた、シァンドロス入都の時に匹敵するような熱狂ぶりであった。

 王族が入都したとて、旧リジェカ国が蘇るでもなく、あくまでもソケドキアの一郡であり、王族は太守扱いなのだが。それを保護しザブラグに置くことで、民衆の心を掴むことができた。

「……!」

 モルテンセンとマイア兄妹は民衆の熱狂に最初驚き、目を見張り。言葉もなかった。アラシアから隠れるようにひっそりと暮らしていた。闇しかない地下から陽のあたる地上に出た思いだった。

 その両親は、すでに他界していた。突然病に倒れて、そのまま……。

 孤児となったモルテンセンとマイアは途方に暮れた。しかし、

「僕が、マイアを守らなければ」

 自身もまだ幼いというのに、その幼さに合わぬ試練に立ち向かう決意を固めた。シァンドロスに招かれたのは、その直後であった。

 ある日、かろうじて雨露をしのいでいるぼろ小屋に、突然訪れたシァンドロスと、神獅子軍。

「怖い、お兄さま」

 マイアは怖がってモルテンセンにしがみついた。それをなだめ、何事かと思えば。

「リジェカの王族を、お迎えに上がりました」

 シァンドロスと神獅子軍はうやうやしく跪き。素性を知らなかったを近所の人々は唖然とさせられて。小さな集落はちょっとした騒ぎになった。

「外では失礼ですので、どうぞ中へ」

 モルテンセンはシァンドロスを中へ招き入れ。ペーハスティルオーンとガッリアスネスもともに入っていった。

(おお……!)

 ガッリアスネスは心の中でうなった。

 かろうじて雨露をしのぐぼろ小屋の中に、似つかわしくない大きな本棚があり、そこに書籍がびっしりと並べられていて。そのどれもがよく読み込まれていた。

「王族の誇りを忘れず、日々勉学にはげまれているのですか。このシァンドロス、感服のいたり」

 これにはさすがのシァンドロスも、世辞ではなく本心から感服した。

「あなたのことは、風の噂で聞いています」

「これはまいりましたな」

「切れ者だとの評判ですが、僕たちの事を探し当てられたとは」

「ならば、ご観念ください」

 まだ幼く力のないモルテンセンにマイアとしては、シァンドロスの誘いに乗るしかなかった。

(王家の血が流れているというのは、呪いなのか)

 モルテンセンの本心においては、自身の素性を呪った。王族である素性をかくし、ひっそりとしながらも、両親とともにする日々の生活は楽しかった。

 その日々に、終止符が打たれたのだ。


(どうしてお父さんやお母さんが勉学に励みなさいと言っていたのか、わかる気がする)

 様々な思いが交差する中、モルテンセンとマイアはザブラグに入都し。シァンドロスより太守に任じられた。

 ぼろ小屋の本棚の書籍も、一緒に。

 ともあれ、新オンガルリをのぞく旧ヴーゴスネア地域の支配体制が固められつつあった。

 そこに、忍び寄る影。

 シァンドロスは寝室に誰も入れず、ひとりで寝ていた。女を自由に扱える立場なのだが、不思議と興味を示さなかった。

「もし」

 燭台の火を消そうという時である。

「……」

 声が聞こえた。そんな気がして、耳をすませたが、何も聞こえない。

 そら耳であったか、そう思ったが、

「シァンドロス様」

 今度は確かに聞こえた。誰かいるのか。燭台の細い火がすくい出すほの暗さ。

 そこにあるのは……。

「そなたは」

 シァンドロスは目を見張った。ほの暗い部屋に浮かび上がる、白い肌。

「はい、サロメでございます」

 耳をなでるような声。その瞬間、シァンドロスはベッドから飛び起き。

 白い肌を抱きしめた。

 

 旧リジェカ地域の太守に任じられたモルテンセンが最初に命じられたことは、シァンドロスおよびソケドキア、フェレッポスの正当性を認めることであった。

 どのようなかたちであれ、アラシアを追い払い王族を探し出しこれを保護したことで、民衆の支持は確固たるものになった。

 これにより、後顧の憂いなく、シァンドロスの目は南方のグレース地域に向けられるようになった。

 父フェレッポスは挙兵をした当時から、その野心に燃える目を南のグレースに向けていた。

 ソケドキアが都とさだめるユコピレに、男女合わせて十数名が入都する。その中のひとりの女性は、華美な白装束に身を包み。顔は白いベールで覆っていたが、そのしなやかな所作から、気品と美しさを感じ取るのであった。

 それらは、グレースの都市国家ポリスのひとつ、デヴァイから来た花嫁であった。

「よう来た」

 王城にて花嫁と面会したフェレッポスはご満悦だった。ひげを蓄え、熊のような風貌は幾多もの戦場を駆け巡った戦士そのものであり。国王の威厳としては、なかなか立派なものを感じさせはした。


 フェレッポスは一番近いデヴァイに使者を送り、服従を求めた。グレース入りするときの足掛かりにするのだ。その服従の証として、デヴァイからフェレッポスの妻となる女性を求めたのだ。

 フェレッポスの妻は、これで十人目となる。

 妻となる女性は顔を上げ、フェレッポスを見つめ、にっこりと微笑んだ。

 艶のよい黒髪に黒真珠を思わせる黒い瞳の、美しい女だった。

「美しい女だ。もっと、ちこうよれ」

 手招きすれば、妻となる女性は「はい」と返事をし、身をかがめ気味に近寄れば。フェレッポスは手を差し伸べ、その頬に触れようとする。

 その時であった。

 女性の目がかっと見開かれて、突然右手がフェレッポスの首を掴む。

「なんの真似だ」

 一瞬驚いたのもつかの間、どのような力の入れようか、指先はその骨を掴み。そこから少しひねれば、骨が砕け。

「お、ご……」

 フェレッポスは声にならぬ声をあげ、天と地がひっくりかえったかのように目を見開き。それから、女性を押しのけようと手を振り上げるも。その前に飛びのかれた。

 臣下たちや衛兵も突然のことに声を荒げ慌てふためいた。

 フェレッポスは立ち上がったものの、

「お、ご、ご……」

 声も満足に出せず、息すらもできぬようで。見開かれた目はうつろになり、

「は、あ!」

 自分でも何を言っているのかわからぬ様子で、どおっと倒れこんで。ぴくりとも動かなかった。

「あっははははは!」

 女性は高笑いをする。臣下はうろたえ、衛兵も半狂乱状態で取り囲むも。どのようにしたのか、王の有様を見て、人ならぬ術を使ったのかと底なしの不安と恐怖に駆られていた。

 女性についてきたデヴァイの者たちの中から、数名立ち上がり、

「よくやった二虎アルフー!」

 と喝采を送る。これらは言うまでもない、サロメが金で買ったマオの暗殺者たちだった。

「大変でございます、デヴァイの花嫁の無残な死体が郊外に! ……これは!」

 衛兵が息を切らせて駆けつけて、王のあらぬ様に絶句する。

「ああ、デヴァイの花嫁は、殺してやったわ」

 二虎はけたたましく笑った。


「教えてやろう……」

 頭領格の一虎イーフーは口元をゆがませた。その一方でデヴァイの者たちは、

「お許しください!」

 と涙と鼻水を垂れ流しながら許しを乞うていた。

 フェレッポスの求めでデヴァイの王族から娘をひとり差し出すことになり、ユコピレにゆかせた。しかしその道中、突然曲者に襲われ、護衛の兵の奮戦むなしく、花嫁は殺されてしまった。

 五人の五本の剣で、めった刺しにされて。

 他の者たちは恐慌をきたし逃げ出そうとするも、五人は立ちふさがり。二虎を花嫁として、ユコピレに連れてゆくことを血濡れた剣を突き出し要求し。恐ろしさのあまり逆らうことができず……。

 というようなことを、一虎が語った。

 周囲の者たちはにわかには信じがたい話だった。が、王が殺されたのは事実だった。ゆえに、容赦をするいわれはなかった。

「曲者どもを殺せ!」

 衛兵は抜剣しデヴァイの者たちを殺そうとする。が、その前に暗殺者たちが素早い動作でデヴァイの者たちを、拳や掌で胸を打ち、あるいは顔面を足で蹴り。その動作ひとつでデヴァイの者たちは吹っ飛ばされ、床に落ちてからぴくりとも動かなかった。

「な、なんだこやつらは!?」

「アラシアの貴族たちが暗殺されていたというが、まさか」

「その、まさかだ!」

 暗殺者たちはけたたましく笑いながら、ほんとうに楽しそうに殺戮を楽しみ。さらに、これからの動乱を考えると胸を弾ませる。

 この騒ぎは一気に城外にも広まって、ユコピレの王都そのものが騒然となった。

 暗殺者らは満面の笑顔をたたえながら迫り来る衛兵らを弾き飛ばしながら駆け、城外に出れば。そこには、王が殺されたと聞き狼狽する群衆の弱々しい姿があった。

「所詮は野蛮人が腕っぷしで無理やりつくった国だからな」

 一虎はしてやったりとさらに高らかに笑い、他の者たちも一緒になって笑う。

 暗殺者どもが太陽の下で堂々と姿をあらわしたうえに、何の遠慮もなく高らかに笑い。それがどういうことか。

 太陽が昇っているとはいえ、外に出れば強い寒風が吹きつけ、人々の身を叩き。その身を凍らせるかのように動きを鈍らせる。

 だが暗殺者らは寒風もいとわず、ざわめく人々の間をすり抜けながらユコピレの街を駆け抜け、そのまま姿をくらましてしまった。

 

夢の中に


 ソケドキア王フェレッポス暗殺される!

 その報せは四方を駆け巡った。

 ダライアスの挙兵に続いての、大事件である。

 冬を迎え、さらに新年を迎えようとする中。年は入れ替わろうとも、争乱絶えぬことは、変わることはなさそうで。人々の心に暗雲がたちこめていた。

 このことは南方のグレース地域の、各都市国家にも伝わった。

 ことにデヴァイの狼狽ぶりは目を覆うばかりであった。

 フェレッポスの求めに応じ王族から花嫁を出したのが、その花嫁が王を殺したというではないか!

「いったい何がどうなっておるのだ」

 デヴァイの王、トロアは恐れおののいた。

 他の都市国家との同盟もうまくいかず。すぐ北にソケドキア興りその脅威にさらされ。さらに名ばかりの同盟を求められ、それを受け入れることになったのだが。

「ああ、オレンファスの神々は我らを捨てたのか」

 ソケドキアとグレース地域の間に、天高くそびえるオレンファス山があり。そこに神々が宿るとグレース人たちは信じていた。

 長年外からの侵攻を受けながらもそれを退け、独立をたもてているのも、神々の加護があったからと信じていたが。トロアは何のとがあって神々に見捨てられたのかと、その嘆きは大きかった。

「やむをえぬ、他の都市国家に助けてもらおう」

 急ぎ、各都市国家に使者を送った。

 その中で特に規模も大きく強い軍隊を持つアタナイとスパルタンには、どのような見返りを求められても応じる覚悟で使者を送った。

 ――しかし。

「弱く愚かな王と組んだとて、なんの得にもならぬ」

 スパルタンの王レオニゲルはそうそっけなく言いはなち、使者を追い返した。

 アタナイは王を持たず、数十名の、民衆から選ばれた議員と呼ばれる者たちがまつりごとを執り行っていた。

 そこで、

「デヴァイの災厄は自己責任である」

 という結論に達した。

「デヴァイは自らの落ち度でソケドキアを敵に回した。その責任を他人に背負わせようなど、これこそまさに無責任である」

「もうどうにもならぬというなら、潔く滅ぶべきである。それこそ人の道というものだ」

「自己責任こそ、民主主義の根幹をなす。デヴァイは自己責任をまっとうすべし」

 などなど、デヴァイがソケドキアに滅ぼされるのはやむを得ないことであり、アタナイは一切関与しないことを表明し、使者にお引き取り願った。

 その他の都市国家ポリスもだいたい同じようなことを言い、デヴァイは孤立させられてしまった。

 帰ってきた使者から話を聞いたデヴァイ王トロアは、恐怖におびえた。


「……かくなるうえは、やむを得ぬ」

 不本意ながら、挙兵したダライアスの救援を乞うことにし、トンディスタンブールに使者を派遣した。

 古来よりグレース地域はアラシアと攻防を繰り広げていた。デヴァイもアラシアと戦ってきたのだが。もう背に腹は代えられなかった。

 ソケドキアは強く、フェレッポスが死んだとてその子シァンドロスは自らを獅子王子リオンターリと称するほどの剛の者であり。直属の神獅子軍テオス・リオンターリは一騎当千のつわものぞろいであるという。

 それが、南下を狙い、まずデヴァイを手中におさめようとして。それぞれの軍事力を試算して、トロアはやむなくその軍門に降ることにしたのだが。

 その懸念通り、ソケドキアでは、

「デヴァイ滅ぶべし」

 という報復論が巻き上がって。それは北上し、シァンドロスの耳に入ることになった。

 野心燃え盛る獅子王子の行動は素早かった。

 何の迷いもなく、話を聞くや、

「すぐにユコピレに帰るぞ!」

 とすぐに支度をととのえ、冬の寒風をすら払いのける勢いでユコピレに帰還したのだった。

「母上!」

 ユコピレの王城にて、王に代わって国を治める王女エレンフェレスはシァンドロスと面会し、我が子をいとおしく抱きしめた。

「いとおしいシァンドロスや、父王は……」

「わかっております。必ずやデヴァイを滅ぼしてみせます!」

 我が子の胸にすがる母に、シァンドロスは断言した。

 エレンフェレスは王に代わって国を治める一方で葬儀の支度も整えており。シァンドロスが帰還して、すぐに葬儀が執り行われた。

 首の骨を砕かれたフェレッポスは苦悶の表情を浮かべていた。それを火葬し、グレースより取り寄せた壺に骨を治めて。城外の教会の祭壇に飾った。

「父王の望みはグレースの腐敗をただすことであった!」

 シァンドロスは、祭壇の壺の中の父の遺骨に宣言する。

「腐りきったグレースを刷新し、我らの手で、新世界に新たな秩序と繁栄をもたらさんことを誓う」

 葬儀は王のためのものであり、国葬ではあったのだが。少ない人数で短時間で終わらせ。

 すぐに、戦争の支度の触れを出した。

 そうすれば、ユコピレ郊外に数千の兵士が集い。シァンドロスを待っていた。

 王の訃報を聞き、これは戦争になると予感し、すぐにでも出られるよう構えていたのだ。

 フェレッポスはただ腕っぷしだけで王にのし上がったのではない。

 軍隊を訓練し、とくに迅速さを重視した。それゆえに、挙兵に際して支配するアラシア人貴族たちとの戦いにおいては常に相手の一手先をゆき、勝利をもぎ取ってきた。

 この一連の行動の素早さも、訓練のたまものであった。


 結集した軍勢は神獅子軍を中心に七千になり。デヴァイ向けて進軍を開始した。

「ついに来たか」

 報せを聞いたトロアは、許しを乞う使者を送った。しかし、使者は帰ってこなかった。

 デヴァイは混乱に陥って。家も家財もそのままに、着の身着のまま逃げ出す人々が我先にと、家族や恋人の手を引いて、必死の思いで逃げ出していた。

 どこにもゆくあてはない。しかし、とどまれば殺される。冬の寒風に身をさらしながらも、一縷の望みにすべてを託して、人々は逃げるしかなかった。

 そうするうちに、軍靴馬蹄の音を響かせ。シァンドロス率いるソケドキア軍がデヴァイに迫った。

 先頭には、使者の首が槍の穂先に突き刺されて。「どうだ」と言わんがばかりに見せつけられていた。そればかりか、不幸にも、逃げ出しながらつかまった人々もおり。縄で縛られ槍の穂先を突きつけられている。

 その目に映る、怒涛のソケドキア軍。神獅子軍を先頭に、喚声をあげてデヴァイの街へ駆け。

 またたく間に悲鳴があがり、続いて火の手があがり、煙が天高くのぼる。

 兵士たちがデヴァイの議事堂に足を踏み込めば、そこには毒を飲んで自殺して横たわるトロアら王族のなきがらがよこたわり。

 それらを外に運び出し、勝利を確信しデヴァイに踏み込んだシァンドロスに差し出された。

「あらぬ野心に取り憑かれた愚かな王よ。グレースの腐りきった民主主義は、このシァンドロスがただしてくれよう。冥界からよく見ておるがよい」

 それだけを言うと、他の、住民のなきがらと一緒に片付けさせた。

 捕えられた人々は、デヴァイの滅びを見せられて。奴隷として売られることを告げられ。悲嘆にくれた。

 デヴァイでも多くの人々がとらえられ、殺戮を免れても奴隷として売られるという。そこに慈悲はなかった。

 国王が殺されるなど、大恥どころの話ではない。デヴァイは破壊しつくされて、無人の廃墟にされてしまった。それが、ソケドキアに仇なした報いであった。

 デヴァイに上がった火の手は幾日経っても消えることなく。太陽と月は入れ替わりながら、無慈悲にそれを見下ろすのみ。

 そうするうちに、年が明けた。

 新年の太陽と月も、やはり同じように破壊され廃墟と化したデヴァイを見下ろすのみだった。

 その郊外で、戦勝祝いと新年祝いの宴がもよおされた。

 あらたに手に入れた奴隷どもを鞭打ちながら多くの幕舎を建てさせ。それが完成すれば酒を片手に奴隷女をひっぱりこみ、悲鳴と喜悦の声入り混じる乱痴気騒ぎが繰り広げられる。

獅子王子リオンターリ! どうかデヴァイの人々にお慈悲を。あなたはそのようなことをなさるお人であったか」

 ガッリアスネスは強く訴えた。王子のための一番大きな幕舎で、戦勝祝いと新年祝いを兼ねた宴の真っ最中であった。

 ペーハスティルオーンをはじめとする諸将居並ぶ中、ガッリアスネスは勇を鼓して声をあげた。

 だが、己に賛同する者はなかった。

「ガッリアスネスどの、空気を読まれよ」

 という、冷たい声が飛ぶ。

「馬鹿な。我々は何のために戦っているのでござる。これでは、アラシアとなにもかわらぬではありませんか」

「貴様、獅子王子をあのダライアスごときと一緒にするのか!」

 数名が立ち上がり、ガッリアスネスを睨みつける。シァンドロスは水を差され機嫌も悪いはずだが、冷たくも落ち着いた目をしていた。

「ガッリアスネスの言うことも、よくわかる。しかし、鉄槌をくだすときは、徹してくださねばならぬ。王者の辛いところだ」

「聞いたか。獅子王子には獅子王子のお考えがあってのことなのだ!」

 諸将たちは一斉にガッリアスネスを批判する。

「お前は疲れているようだ。少し休め」

 これ以上言っても無駄のようで。ガッリアスネスはシァンドロスの言葉に従い引っ込んで幕舎を出て、自分用に造られた幕舎に入った。

 そこには、あてがわれた奴隷が数名いた。卓の上の燭台に細々と火がともり、寂しそうに夜のとばりから奴隷たちをうっすらとすくいだす。

「お前たちには、辛い思いをさせて。すまない」

 ふと、いくらかの金を渡して逃がしてやろうかと思ったが、もし捕まったらと思うと思いとどまり。自分の身近に置くことにした。

「もったいないお言葉でございます」

 夜伽のための奴隷女がひざまずき、感謝の言葉を述べる。

 その女は東方の血が濃いようで、髪も瞳も黒かった。その女はおもむろに立ち上がり、服を脱ぎ捨て裸になった。

「これ、なにをしている。オレはそんなつもりは」

「いえ、お優しくしていただいた、せめてものお礼を」

 他の奴隷たちはそそくさと幕舎を出て。ガッリアスネスとどの奴隷女のふたりきりになった。

「来るな!」

 何を思ったか、ガッリアスネスは短剣を己の喉元に突きつけた。

「服を着て離れろ! そうしないと、オレが死ぬぞ!」

 女は呆気にとられて、うつむき、

「はい」

 と、離れて服を着る。

(この男は、馬鹿なの)

 服を着ながら、女は忌々しく考える。この女は、二虎アルフーであった。仲間らとともに奴隷たちの中に忍び込み。そこで、ガッリアスネスを暗殺するつもりであった。

 ところが、これはどうしたことであろう。


「カーペットをつかっていいから、そこらへんで、背中を向けて寝てろ」

 言われてやむなく、丸められて柱に吊られていたカーペットを使い、二虎はそこらへんに寝転がった。ガッリアスネスに背中を見せて。

(女がそうするのはわかるけど、男が女にせまられてそうするなんて)

 いかに暗殺の術にたけた二虎もこれには意表を突かれてしまった。

 多くの死を見てきたからわかる。ガッリアスネスは本気だった。

(あ、別に死なれてもよかったんだ)

 暗殺をするつもりだったのだから、別に自殺してもらってもかまわなかったのではないか。あまりに意表を突かれて、思わずガッリアスネスに従ってしまった。

(それにしても……)

 この世にそのような人物がいようとは。この世は、インダウリヤに伝わる修羅スラのような自分勝手な業突く張りばかりだと思っていたのに。

 ふと、気がつけば、目に涙がにじんでいるではないか。

 これに二虎はおおいに戸惑った。

(なぜ私が……)

 涙など、あくびをしたときや大笑いをしたときにしか出なかったものだ。それが、それ以外で出るとは。

 ふと、指で地の土をなぞって字を書いた。そこには「龍菲ロンフェイ」と書かれていた。

 龍は姓で、菲は名であり。菲はかぶの一種の名でもあり、可愛らしくもしとやかな花を咲かせる。また謙遜する時に用いられる謙譲語でもありながら、花が咲き乱れ芳しい様をあらわす意味と。マオはひとつの言葉に様々な意味を持たせるが。女性の名としては、花が咲き乱れて芳しい方の意味を込めてにつかわれる。

 龍菲の名を字面で考えれば、龍の花が咲き乱れて芳しい、ということになるだろうか。

(龍菲、いまあんたは、いい人とどこでなにしてんの?)

「私たちは、人として扱われずに、もの扱いされて、サロメに売られてしまったわ。わかる? サロメにとっても、私たちは人でなく、ものなのよ!」

 ふと、龍菲が言ったことを思い出した。

 人、人とは、なんだろう。

 あの、小龍公と呼ばれるコヴァクスは、龍菲を人として扱っているのだろうか。そう思うと、途端にうらやましさが胸の内に芽生えた。

 指でその名をなぞったのも、名前を付けてもらったうらやましさからだった。

「私も、人になりたい」

「今何と言った?」

 しまった、つい口を突いて出た言葉が、ガッリアスネスに聞こえたようだ。しかし二虎は無視して、そのまま瞳を閉じ寝たふりを決め込み。ガッリアスネスも、それ以上は聞かず。なにやら執筆活動にいそしんでいた。

 それからしばらくして、夜も深まり、ガッリアスネスもベッドで寝たころ。

 暗闇覆い目を開けても真っ暗な中を、二虎は起き上がってこっそりと幕舎を出た。


「なにをしているのだ」

 頭領格の一虎イーフーから冷たい言葉が投げかけられる。

「シァンドロスが暴君になるのを邪魔するガッリアスネスとやらを、なぜ殺さぬ」

「……」

 夜目が利く二虎の視界には仲間たちの姿はないが、かまわず、ありのままを語った。

「……ほう、そのような偽善者がおったのか」

 くっくっく、と嘲笑が夜闇の中を泳ぐ。

「おもしろい。その調子であやつを挑発してみろ。偽善者が壊れるさまを見るのもまた一興」

「ところで、サロメさまは」

「シァンドロスに甘い夢を見せてやっているさ」

 サロメは夜闇にまぎれてシァンドロスの部屋に忍び込み。指一本触れることすらかなわず発狂させた男どもを多く生み出したその肌身をもって、シァンドロスとしとねをともにした。

 シァンドロスが夜眠りに着くころ、まるで闇から浮かび上がるようにあらわれては、甘い夢の世界へといざない。

 その甘い夢を見せるだけ見せて。朝目覚めるころには、その姿はなくなっていた。

 といったことが繰り返されてきた。

 シァンドロスは彼女の謎に何の疑問ももたず、持ちうる情熱をその肌身にそそぐ。

 サロメは甘い吐息を吐くばかり。これといった言葉もない。

 このふたりには、言葉など必要なかった。

 それから、朝夢から覚めたとき、いつも通りサロメの姿はなかった。

「トンディスタンブールより、軍勢が!」

 デヴァイ王はトンディスタンブールに援軍を要請していたのだが。それが今頃になって、のこのことやってきて。

「寝坊助どもをたたき起こせ。朝の運動だぞ、と」

 軽く言い放ちながら愛馬・ゴッズにまたがれば、喚声あがり刃陽光に閃き。軍靴馬蹄の音も高らかに、迎撃にゆく。

 太陽が中天にのぼること、両軍は接近し。かかれ、の掛け声のもと、将兵らは雄叫び上げて刃を振りかざし駆けだした。

 なんの恐れもない。トンディスタンブールから派遣された兵は、わずか三千というではないか。

「小勢ではないか」

 ソケドキアの将兵らは、のんびり眠りたいのを邪魔されて機嫌も悪く。その機嫌の悪さを思い切り敵軍にぶつけた。

「逃げろ!」

 ところどころで、そんな不甲斐無い叫びがあがり。開戦間もないというのに、アラシア軍のほとんどが背中を向けて逃走し。勝負はあっさりついた。

「口ほどにもない」

 ソケドキア軍の将兵らはこの楽勝を素直に喜び。シァンドロスもまんざらではなさそうだった。

 しかし、ガッリアスネスは違和感をおぼえていた。


「トンディスタンブールはダライアスが占拠している。ということは、あれはダライアスの兵士たちのはずだが……」

 勇猛果敢で知られるダライアスが派遣した軍勢にしては、あまりにも手ごたえがなかったのだ。

(ほんとうに、トンディスタンブールは、ダライアスが治めているのか)

 わずか三千ばかりの寡兵の援軍。そんな中途半端なことをする人物であったのだろうか。

 疑問は深まるばかり。

 どうも、嫌な予感がする。

「獅子王子、混乱に秩序をもたらさんとするその道半ばで死せる父王の仇を討ち。獅子王への大道を歩まんとする」

 宿営地へ帰り着いてから、そのようなことを書きとめていたが。書きながらも、違和感を感じてやまなかった。

 後ろには二虎が控えている。ガッリアスネスの背中を眺めている。いつでも殺そうと思えば殺せるのだが、この偽善者が自分の色香にどこまで耐えられるのか試すために、殺さないでいる。

「あの」

「なんだ」

 ふと、口が開きガッリアスネスの執筆の手を止めてしまった。

「わたしには、名前がありません。よければ、名前をつけてもらえませんか?」

「なに、そなたは名がないというのか」

「はい。悪い親のもとで、粗末に育てられて……」

「そうだったのか」

 話を聞き、ガッリアスネスは二虎に同情するようなまなざしを向けた。

「さてさて。オレは武骨な物書き。女性に喜んでもらえるような名前を考えるのは、難しい」

 どこか照れくさそうに言うガッリアスネスに、二虎はくすりと笑いかける。それに対し、さらに照れくさそうに視線をそらす。

「そうだな……。クロエペトナはどうだ。これはソケドキアの女性名でもあるが、古代の、イギィプトを治めていた女王の名でもある」

「イギィプトといえば、フィリケア大陸の?」

「そうだ、グレース人を祖とする我らソケドキア人は各地を旅し、旅先で土着する者もいたが。その中には、イギィプトに土着し王族と結ばれた者もいた。そこでソケドキアの名が伝わった」

 なにやら長くなりそうだが、にわかに興味をおぼえて、話を聞くことにする。

「クロエぺトナはその血を引く女王なのですか」

「そうだ。イギィプトでは伝説的な女王だ。かの古代マーレ帝国の侵攻の際にも、矢面に立ちイギィプトを守ったというし。なかなかの美貌だったそうだ」

「そのような女王が戦に?」

「いや、彼女は戦はできぬが、折衝をもって独立を守ろうとしたそうだ。マーレの指揮官どもは彼女の美貌に心を奪われ、結婚を申し込んだ者も多かった」

「それで、結婚したんですか?」

「そうだ、折衝を有利にするためにな。一番有能な指揮官と結婚した。しかしその指揮官は早死にしてしまった。すると、待ってましたとばかりに、また求婚が相次いだそうだ」

 ガッリアスネスの語り口に熱がこもり。どこか子供が親に自慢話をするような無邪気さもあった。馬鹿馬鹿しい、と言いたくなりもするが、話をまだ聞きたいような気持もあった。

「それで、また結婚を?」

「そうだ。うんざりもしただろうが、断れば侵攻される。彼女はふたたび、マーレ人の指揮官と結婚する」

「まあ」

 国の独立を守るためとはいえ、女王が我が身を娼婦のように敵国の男にささげるなど、どうであろう。とはいえ、それはよほどの事である。おのれの操よりも、それだけ国の独立が大事であったのだろう。

「それで、イギィプトはどうなったのですか」

「それだ。むごいことに、滅亡は避けられなかった。いかに現場の指揮官を懐柔しようとも、帝都の皇帝までは懐柔できなかった。母国でも、無節操の批判もあり、混乱の度合いは増した」

「女王はどうなりました?」

「うむ、これもむごい話だが。いよいよ大戦避けられぬ状況になり。クロエぺトナは、悲嘆して乳を毒蛇に噛ませて自害したという」

「毒蛇に乳を」

 自分にそんな真似はできないが、今度女を殺すときがあれば試してみようという、変な好奇心が湧く。

「イギィプトは滅びマーレが支配したが、そのマーレも滅び。それ以後、フィリケアは国が建たず、各都市国家が割拠している状況だそうだ」

「なんだか、むなしい話ですね」

「そうだな。つわものどもの夢のあと、とでもいおうか」

 当時の人々は、大帝国が滅びの日を迎えるなど夢にも思わなかっただろう。それはどのような心境だったのだろうか。

「で、その名をわたしに?」

「そうだ。いろいろ歴史の本を読んで、様々な人物を学んだが。どうにも、クロエぺトナが一番印象に残っていてな」

 なんだか照れくさそうにガッリアスネスは言う。

「まさか、そのクロエぺトナに惚れて?」

「ああ、そうかもしれん」

「で、その名をわたしに?」

「いやか? だから言っただろう。オレは武骨な物書き。女性に喜んでもらえるような名前がつけられるかどうか、わからないと」

「……」

 二虎はやや呆気にとられもした。この男はなんと、現世の女性ではなく、歴史上の女性に惚れている。そんな男は初めて見た。


(どこまで夢見がちな男なのかしら)

 だが、嫌な感じはしなかった。胸の中で、言葉にできない気持ちが芽生えて。それは、とても心地よいものだった。

「それで、いいです」

「いいのか? 嫌なら無理しなくてもいいんだぞ」

「いえ、わたしも、そのクロエぺトナが気に入りました」

「そうか」

 ガッリアスネスは照れくさそうに笑みをこぼす。

「あの」

「ん?」

「わたしの名を、呼んでもらえませんか?」

「ん、うん……。クロエぺトナ。そうだな、喉が渇いたな、水をもってきてくれ」

「はい」

 ぎこちなさそうに名を呼びながら頼みごとをするガッリアスネスの様子がおかしく、こちらまで笑みがこぼれる。

 幕舎のベッドのわきに水筒が置かれて。それを取って渡せば。

「ありがとう、クレオぺトナ」

 ガッリアスネスは気を利かせて、名を呼びながら礼を言い。二虎、いやクレオぺトナは、どういたしまして、と笑顔で応えるのであった。


 シァンドロスが出征している間、その母で女王の位につくエレンフェレスは留守居の兵をにわかに集め出したかと思えば。

 側室たちを捕えさせて、王の間にて女王の座に居座り、連行された八人の側室たちと、その子らを高いところから見下ろしていた。

「こ、これはなんの真似ですか!」

 側室たちは声を荒げて抗議する。いずれもフェレッポスが自ら選んだ選りすぐりの美女たちであり、それらが一堂に会する様は、並みの男ならその場で昇天しそうであった。

 しかし、彼女らの顔は怒りと恐怖とに彩られていた。その子らともなれば、哀れなものでひたすらにおびえていた。

「お前たち、畏れ多くもアラシアと結び反乱を起こそうと企てておるそうじゃな」

「そんな馬鹿な」

「馬鹿なものか。実際、デヴァイはかのダライアスに救援を乞うたではないか。そのデヴァイの女に、王は殺された……」

 二虎によりほんとうのデヴァイの花嫁が殺されてしまったことは、エレンフェレスも知っている。だが、それは秘密にした。だから、いま、側室とその子らを連行したのである。

 どこの誰か知らぬが、感謝しているほどである。

(王はもう私に見向きもせず、女漁りをなされて……。憎い。愛あればこそ、王が憎い……!)

 エレンフェレスの口元がゆがんだ。


「この者どもを、斬首せよ!」

 問答無用であった。

 側室とその子らは、兵に連行されてゆく。

 怒号と嗚咽がいりまじり、思わず耳をふさぎたくなる有様であるが。エレンフェレスは、どす黒い嫉妬の炎を燃え上がらせて、憎悪にそまった残忍な笑みを浮かべていた。

 兵は側室の言い分など聞かなかった。そうなるように、褒美を前もってたんまりと渡してあるのだ。

 側室とその子らは、街の広場に引っ立てられた。すでに民衆が集まっていた。

 反逆者どもを処刑するので、その哀れな最期を見届けよ、と触れてまわったのだ。無論、そのような悪趣味なものを見にゆきたくないという者もいたが、兵は刃を突きだし、問答無用で連れ出した。

 連行され、力ずくで跪かされた哀れな側室とその子らは、

「濡れ衣です、私は無罪です!」

「いやだ、死ぬのはいやー!」

 などなど、悲痛な叫びを上げながら。閃く刃は容赦なく、その首を刎ねて。血は飛び散り、首はごろりところがった。

 あっという間の事であった。

 民衆の中には、あまりのことに嘔吐する者、失神する者が相次いだほどであった。

「女王様は、恐ろしいお方だ……」

 民衆は恐怖した。

 フェレッポスは剛腕ながら気風もよく、アラシアから解放されたと民衆は喜んでいたものだった。しかし、その王が突然死に、女王は側室とその子らを無残に殺した。

 いかに頭が鈍い者でも、彼女の恐ろしさに身震いするのであった。

 獅子王子を称するシァンドロスはデヴァイを無慈悲に攻め滅ぼしたという。

 この母と子により、ソケドキアは恐怖政治が跋扈するのであろうか。

 哀れな女子供のむくろを見て、民衆は不安を掻き立てられ。

 そんな雰囲気を感じ取って、エレンフェレスは会心の笑みを浮かべていた。

「王都はわらわがしっかりと治めるゆえ、シァンドロスは安心して戦争をせよと、遣いを出せ」

 女王から派遣された使者は馬を飛ばした。

 それから、女王の座のすわり心地のなんとよいことかと、エレンフェレスは夢心地であった。


力の果てに


 シァンドロスはデヴァイを滅ぼした後、その支配地域にあった大き目の集落に入り。そこを拠点に、グレースへの侵攻を推し進めようとしていた。

 デヴァイの無残さは四方を駆け巡り、特に有力な二つの都市国家、アタナイとスパルタンをおおいに恐怖した。

 かに思えたが、

「若造め、来るなら来い!」

 スパルタン王レオニゲルはソケドキアとの戦いにそなえて、軍備を固め、兵をよく訓練し、意気軒昂であり。さらに支配地域からの搾取も苛烈に行った。

 スパルタンの軍は強い。一国皆兵の徹底した軍国主義を推し進め、グレース地域の中で最強の都市国家である。

 シァンドロスもそれはよく心得ている。

 軍議の席、シァンドロスはスパルタンを、

「乞食ども」

 と呼ばわっていた。

「他から奪うための強さなど。その乞食としての根性だけは、見上げたものだ。しかし、乞食はどこまでゆこうと、乞食だ」

 スパルタンの軍を強くしたのは、他地域との覇権を競うためというだけではなく。支配地域の支配を強固なものにするためであった。

「コヴァクス、お前は今どこでなにをしている。見せてやりたかったぞ、人類の代表ぶり、名ばかりの民主主義を振りかざす腐敗したグレースをな」

 斥候を送り込み、グレース地域各地の情勢を探らせて。シァンドロスは臣下らとほくそ笑んだ。

「メッサレナ人のスパルタンを憎む心の強きこと、千の風をもってしても吹き消せぬほどです」

 そんな斥候の報告を聞いて、シァンドロスは得意にうなずいたものだった。

 グレースは南の海に向かって指を突き出す手のような地形であり。その海をつたい、古来から入植する者が多く。スパルタン人もそうだった。

 スパルタンは、入植すると同時に武器を手にし、先住民であったメッサレナ人を征服し、これを奴隷として支配、搾取した。

 もちろんメッサレナ人が黙っているわけもなく。反乱もたびたび起き。これをどうにか鎮圧しながら、支配の堅持に頭を痛めたものだった。

 そこで編み出されたのが、一国皆兵制度の軍国主義であった。

 スパルタンの男子はことごとく兵役についた。中には体も弱く兵役に向かぬ者もいたが、それらは容赦なく切り捨てられた。

 スパルタンにおいては、弱いことは罪であり、生きる資格がないということであった。

 また女には子供を産むことを奨励し、褒美も出た。しかし、その子が兵役に適していれば、の場合である。

 そのため、女は夫以外の、もっと強そうな男を漁って。そのためにスパルタンには、家族という概念などないに等しかった。

 ただ、メッサレナ人への支配と搾取のみがあった。


 他の都市国家やアラシアからの侵攻を追い払い、独立を保っている。という副産物もあり。その勇名はおおいにとどろいてはいたが。

 その内情は……。

 軍議で皆が集まっているとき、壺がふたつ並べられていた。

 ひとつは、古びてはいるが美しい漆黒の壺で、滑らかな曲線をえがき。その表面には、弦楽器を奏でる女性の、赤銅色の壺絵が鮮やかに描かれ。芸術品としての値打ちもありそうだった。

 もうひとつは、新しいが、そっけない、ただの黒い壺である。

「見ろ」

 ふたつの壺をみて、シァンドロスは言う。

「グレースには優れた文化・芸術がある。その文化・芸術の質は高く、古代マーレにも影響を及ぼし。それが滅んだあとも、朽ち果てることなく連綿と受け継がれ。それが、エウロパはグレースから始まったとされているゆえんだ」 

 壺に描かれる壺絵も、そのひとつであった。だが、そっけない壺と並べることになんの意味があるのかと言えば。

「ともに、スパルタンでつくられた壺だ」

 ふふふ、という笑いが起こる。

「この、なんの味わいもないただの壺。これこそ、今のスパルタンでありますな」

「そうだペーハスティルオーン。昔はスパルタンにも文化はあり、芸術的な壺もつくられていた。だが、今はどうだ。文化のかけらもなく、ただの乞食国家に成り下がってしまった」

「強い戦士はどこででもつくれます。しかし、文化・芸術は、人々の生活において、心の糧であり、潤いであり。同時にその地域色が色濃く表れるものです。それがなくなってしまうというのは、おそろしいことです」 

 ガッリアスネスはしみじみと言った。

「その通りだ。スパルタンの戦士がいかに強いといえども、所詮は心の干からびた乞食どもだ」

 シァンドロスはガッリアスネスをまじまじと見やった。最近、よく自分に意見する。彼が自分のやり方に反発を覚えているのは、よくわかっている。

 あれこれ因縁をつけて処分しようと思えばできるのだが、敢えてそれはしなかった。それがシァンドロスの獅子王子リオンターリとしての矜持であった。

「四方に触れてまわれ。物獲りに明け暮れる乞食どもを討つ、とな」

 その指示通り、スパルタンは乞食であるという話が広められる。

「我らを乞食と呼ばわるのか!」

 スパルタン王レオニゲルはたいそう怒り狂い、怒髪天を突いた。

 四十になったばかり。スパルタンを統べる王だけあって、精悍な王ではあり。その目は怒りに燃え盛って、血走ってさえいた。

 小振りながら三角屋根の白い白亜の石造りの王宮にスパルタンの要人が集い、目前まで迫ったソケドキア軍といかに戦うかの軍議が開かれていた。

 アラシアからエウロパの東は丸い屋根の建築様式が広まっていたが、ここグレースでは独自の建築文化が残っていた。


 スパルタンは乞食国家、スパルタンの戦士は心の干からびた乞食、という中傷は広まって。皆憤りを感じていた。

 しかも、物獲りに明け暮れるとまできたものだ。それはメッサレナ人への支配と搾取のことを言っているのであろうが。スパルタンにとっては、当然の権利であった。

「待つ必要などない。我らから出向いて、小生意気なシァンドロスとかいう子猫の首をひねってやれ!」

「お待ちを!」

 出撃をすると息巻くレオニゲルを止めようとする者がいた。ケレトイスという者だった。

「ソケドキアは北方旧ヴーゴスネア地域を手中にし、その支配を固め、兵も多く動員しております。都市国家が出せる兵員など知れたもの、真向からぶつかれば、衆寡敵せず……」

「だまれ! うぬは臆病風に吹かれたのか」

「まさか。私は現状に応じた戦い方をした方がよいと、ご進言申し上げたのです」

「あそこまで愚弄されて、亀のように頭をひっこめて戦えというのか!」

「そこまでは言っておりませぬ。兵数を考え、守りに徹した方がよいと考えておるのでございます」 

「……うぬは、ここをどこと心得る」

「それはどういう意味でございますか?」

「返事に応えろ。ここはどこだ」

「王よ、どうか冷静に」

 ケレトイスはレオニゲルが熱に侵され冷静さを失っていることを憂いた。

「そうだな。井戸までゆき、水を飲もうか」

 それを聞いて、ほっとして。王とともに臣下らは王宮内の井戸までゆけば。

 メッサレナ人の奴隷に水をくみ上げさせて、杯に入れ。それぞれ、のどを潤して。それから、

「ケレイトス、ここはどこだ」

 ということを、また言いだし。ケレイトスは嫌な予感がした。

「王よ」

「ここは、スパルタンだ!」

 レオニゲルは太い腕でケレイトスを掴みあげ、高々と掲げた。

「そしてこれが、スパルタンだ!」

 有無を言わせず井戸に放り込めば、悲鳴がしばらく響きわたって。水音がし。それから悲鳴が消えた。

 深い井戸である。水深がどれほどあるか知らぬが、落とされれば命はあるまい。

 臣下らは呆然とするどころか、よくやったと喝采を送り。さらに、身近にいた数名のメッサレナ人の奴隷を睨みつけるや、剣を抜き放ち容赦なくめった切りにし。

 さらに、井戸に放り込んだ。

 哀れなメッサレナ人の奴隷たちは、わけもわからぬまま理不尽な死を強いられたのだ。


「いやあ、すっきりした」

 臣下らは、かっかっか、と高笑いする。シァンドロスによる中傷に腹を立てていたこともあり、少しばかり憂さ晴らしができたようだった。

「ゆくぞ、子猫狩りだ!」

「応!」

 スパルタンの戦士三百は、意気揚々とシァンドロスとの戦いにゆく。

 兵数こそわずか三百ばかりであるが、いずれも死を恐れぬ一騎当千の戦士であった。そこに、メッサレナ人の奴隷兵士一千がくわわり、合わせて一千三百。

 それでもソケドキア軍の七千には遠く及ばない。

「我らの先祖はわずか三百の兵でアラシア軍百万と戦い、見事玉砕してみせ、アラシアの蛮族どもを撤退させた。ソケドキアの七千など、なにほどのことがある」

 そう叫んでレオニゲルは兵士らを鼓舞した。

 今からさかのぼることおよそ百年前、アラシアはグレースを征服せんと百万の大軍を送り込んだが。勇敢なスパルタンの戦士は狭隘なテルモペライ渓谷に陣取り、地形を生かし、わずか三百ながらこれとよく戦い。

 ついには玉砕したが、アラシア軍も大損害を受け、撤退を余儀なくされた。

 その玉砕した戦士たちの物語はスパルタンの誇りであった。

 騎兵はおらず、皆徒歩立ちの歩兵であった。

 レオニゲル出撃の報せを聞き、シァンドロスも出撃した。

 旧ヴーゴスネアは平地が多く山もさほど高くないが、グレースからは山が多くなり高さも増してくる。

 それも峠を過ぎれば、なだらかな丘陵地帯が広がり。古来海よりこの肥沃な大地を求めて多くの入植者があり、先住民と交わりあるいは征服、支配し。マーレ、アラシアの二大帝国から独立を守り続けていた。

 この自主独立、そして民衆を礎とする民主主義を帝政から守り続けたことが、グレース人の誇りである。

 その中でスパルタンは特異な存在として、異端の存在でもあったが。グレースの都市国家共同体と民主主義王が守られたのはスパルタンの軍事力によるところが大きく。

 レオニゲルにも、その誇りがあり。スパルタンの戦士たちも同様に誇りを胸に、戦場におもむき。

 ついに、スパルタンとソケドキアは対峙した。そこで、レオニゲルらは拍子抜けする思いであった。

 一月の冷たい空気があたりをつつみ、太陽の恵みの光も冷たい風がさらってゆく。しかし、双方から発せられる殺気は熱気を含んで、朝に地の草を凍らせていた朝露や霜柱は踏みしだかれながら溶けて、地に沁みこんでゆき。あるいは戦士たちの足に吸い取られてゆく。

「数だけは一丁前だな」

 七千のソケドキア軍は整然とならんで、スパルタン軍と対峙している。その先頭に、黒く大きな馬に乗る若き将がいる。それがシァンドロスであった。


「戦争は数ではないことを若造に教えてやる……、かまえ!」

 レオニゲルが叫べば、スパルタンの戦士たちは左手に丸盾を構えながら右手で槍を突きだし。足を踏ん張り、いつでも駆け出せるよう身構えた。

「者ども、あれがスパルタンの、心の干からびた乞食どもだ。物獲りをせねば生きてゆけぬ、哀れな乞食どもだ!」

 シァンドロスの叫びとともに、大きな笑い声がこだまする。

 その言葉と笑い声に、スパルタンの誇りは傷つけられ怒りも大きかった。しかし、メッサレナ人の奴隷兵士たちは、そうだ! と声を大にして叫んで同意したかった。

 兵士として戦場におもむいたところで、手柄を立ててもメッサレナ人だからと何の褒美もなく、危機に陥れば簡単に見捨てられていたのだった。


 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 我らのゆくところ、いかなる強敵ごうてきも、

 風に揺れる草花のごとし!


 突然の唱和がはじまる。

 シァンドロス直属の神獅子軍の戦士たちは、戦いの場において、声も高らかに戦意を鼓舞する。

 音に聞こえしスパルタンの戦士と戦うことは、神獅子軍の騎士たちにしても、望むところであった。

 すると、それまで騎乗していたシァンドロスら神獅子軍は、下馬しはじめ。これを見たレオニゲルらは、ぽかんとした。

「何を考えているのか知らんが、逃げ足を捨てるとは愚かな」

「ゆくぞ!」

 シァンドロスは剣を掲げ、地を蹴り駆け出す。それから、神獅子軍五百も続く。それから後ろは、微動だにせず大将の背中を見送る。

「なに、わずかばかりの数でくるのか」

 せっかく七千もの兵員をそろえているというのに。シァンドロスが何を考えているのか、ますますわからない。まるで、自ら殺してくれと言っているようなものではないか。

「かまわん、我らもゆくぞ!」

 レオニゲル以下三百の戦士たちは雄叫びを上げ、地を蹴り駆け出し。メッサレナ人の奴隷兵士も続く。

 陽光に盾、刃光り。怒号につつまれて。双方激しくぶつかった。

 シァンドロスは目前まで迫った槍の穂先をすんででかわし、素早く身をかかめざまに足を斬った。

 ペーハスティルオーンにガッリアスネスらも同じようにすんでで槍を交わし、身をかがめ、滑り込み。足を斬り、あるいは足を蹴り転倒させた。

 しかし、ひと塊になり盾を構え槍を突き出すスパルタン三百の衝撃は大きく、シァンドロスはうまく初撃をかわしたものの、多くの神獅子軍が槍の餌食となり串刺しにされた。

「シァンドロスら子猫どもを肉塊にしてやれ!」

 自らも盾を構え槍を突き出しレオニゲルは叫んだ。神獅子軍の騎士が雄叫び上げて迫り来るのをことごとく返り討ちにする。

 槍で胴を貫き、薙ぎ払い、あるいは盾で顔面を打ち付け。返り血を浴び、真っ赤になった顔をさらに真っ赤にしてゆく。

「さすがはスパルタンだ!」

 スパルタン軍の中に滑り込むように混戦の中に身を投じ、迫り来る戦士を剣で薙ぎ払いながら。シァンドロスはその強さには感心した。

 神獅子軍は五百ばかりでスパルタン軍一千三百と真っ向からぶつかり、取り囲まれてしまった。


「心根がどうであろうと、スパルタンの強さはほんものだな」

 ガッリアスネスは舌打ちし、剣を振るう。盾と槍をうまく使い分けた攻め方を得意とするスパルタンの戦い方は、アラシアとは違う手ごわさがある。

 突き出された槍を剣で弾き、脚で盾を蹴り。体勢を崩したところで、顔面に刃を叩きこむ。

「だが、我らには大志がある。獅子王子とともに、世に秩序と平穏をもたらす大志があるのだ!」

 ほんとうは剣よりも文筆を手にしたいガッリアスネスは、自分なりに戦争の多いこの世の中を憂いていた。シァンドロスについてゆくのも、もしかしたら、という期待があってのことである。

(思えば小龍公は、蹴球を存分に楽しめる日を待ちながら戦っていたのだな)

 あのことさえなければ、いまも一緒に戦っていたろうに。

 コヴァクスのことは気の毒に思うが、いまはそれどころではない。

 自分の持てる力で、少しでも変えてゆくのだ。そう言い聞かせて、危険に身をさらすこともいとわなかった。

「お前は奴隷だな。奴隷は殺さぬ!」

 刃を振りかざすメッサレナ人の奴隷兵士を、シァンドロスは蹴り倒すにとどめ。自らスパルタンの戦士を求める。他も同じように、メッサレナ人の奴隷は極力殺さないようにしていた。

「我らが敵はスパルタンだ、メッサレナではない!」 

 ペーハスティルオーンが叫んだ。それを聞くスパルタンの戦士は、

「笑止!」

 と笑い飛ばした。奴隷に情けをかけるなど、ありえぬことである。

「レオニゲル、レオニゲルはどこだ! 乞食王レオニゲルはどこだ!」

 混戦の中、シァンドロスは叫んだ。迫り来るスパルタンの戦士たちを討ち払い、獅子王子を称すること伊達ではないことをよく見せていた。

「これはよい盾だな!」

 いつの間にか盾を奪い取って、見よう見まねで刃を防ぎ、あるいは相手に打ちつけ。うまく盾を使いこなしていた。

 盾は軽く丈夫につくられており、徹底した軍国主義を推し進めたスパルタンは、文化的な創造こそおおいに後退したものの、戦争のための武具だけはよく進化させているようだ。

 これもすべて、支配と搾取のために。

「乞食王レオニゲル、勇気があればシァンドロスと刃をまじえよ!」

「おう、言われいでか!」

 シァンドロスをはじめとして、ソケドキアの神獅子軍の騎士たちは、ひたすらにスパルタンを乞食乞食と罵って。討たれてさえも、血を吐きながら「スパルタンの乞食!」と叫んで。これに戦士たちの怒りが沸騰したのは言うまでもない。

 神獅子軍に選ばれた騎士たちも、厳選された戦士でもあり、死を恐れていなかった。それと同時に、シァンドロスは彼らに「奴らを乞食と、徹底的に呼ばわれ!」と厳命していた。

 シァンドロスのスパルタンを軽蔑する心は、そうとうな強さだった。

「お前か、シァンドロスなる子猫は!」

 レオニゲルは返り血を浴び顔が真っ赤だった。その下はもっと真っ赤になっていた。

 その真っ赤な顔で、碧い左目、栗色の右目の虹彩異色症ヘテロクロミアのシァンドロスを睨みつける。

 その両眼は、この地域の多民族性を象徴するものだった。シァンドロスは色違いの目で、何を見据えているのか。

 レオニゲルを映すシァンドロスの色違い目は、微動だにしない。

「くらえッ!」

 レオニゲルは猛烈な勢いで槍を突き出す。


 それをシァンドロスは盾で弾く。そうすればすかさず、レオニゲルの盾が迫り。ふところに入られた。

 盾をかざし体当たりを食らわそうというのだ。それを、シァンドロスは不敵な笑みを浮かべて一瞥し。剣をと捨てた。

 かと思えば、右掌で盾を受け。うまい具合に力を逃がしながら後ろに下がる。

(何を考えている!)

 まさかの、予想外の動きにレオニゲルはやや驚き。離れようとする。相手のふところに入っているので、槍は使えず、距離を置いてあらためて槍で突く算段であったが。

 離れようとするレオニゲルをシァンドロスは逃がさず、距離を広げることを許さなかった。

「小癪な!」

 突くことはできずとも、柄で殴り倒そうと頭めがけて振り下ろす。その柄を、咄嗟に剣を捨て両手で受け止める。

 さすがに衝撃は強く少し顔をしかめるが、しっかとつかんで離さない。だがそこは歴戦の戦士レオニゲルであった。咄嗟に槍を手放し後ろに下がり、腰に佩く剣を抜こうとする。

「!!」

 突然目の前になにかがあらわれ迫ってくる。それはシァンドロスの盾であった。

「うおッ!」

 盾は顔面に当たり、レオニゲルは思わずよろけてしまう。盾が地に落ちるまでの間、続いて猛烈な蹴りが顔面に食らわされた。

 たまらずレオニゲルは尻もちをついてしまい。スパルタンの戦士たちは「まさか」とうめき声を上げる。

 距離をとり剣を抜こうとする一瞬の隙を突いて、シァンドロスは盾を飛ばし。頑丈につくられているそのスパルタンの盾は、スパルタンの王の顔面を打ち、よろけさせ。

 そこに蹴りが続き。さしものレオニゲルも、尻もちをつかざるをえなかった。

 さらに、尻もちをつきよろめきながらも立ち上がろうとするレオニゲルの目前に、シァンドロスが咄嗟に拾った己の槍が突き出される。

 穂先は鼻先に少し触れ、冷たい痛覚を感じさせる。

「よくできた槍だな」

 シァンドロスは不敵な笑みをこぼしレオニゲルを見下ろす。これで顔を貫こうと思えば、簡単にできそうである。

 咄嗟に捨てた剣はペーハスティルオーンが拾い、そばに控えている。

「なんという無様さだ!」 

 スパルタンの戦士たちは叫んだ。尻もちをつき槍を突き出されている王の姿を、冷たいまなざしで睨んでいる。

「王は弱くなった。こんな王のために戦ういわれはない!」

「帰るぞ!」

 スパルタンの戦士たちは踵を返し、戦場から離脱する。王のために戦う、というよりも、王が強いからともに戦い、その王が弱いために敗れてしまえば、ともに戦う理由がなくなってしまった。


 中には腹いせにメッサレナ人の奴隷兵士を刃にかける者まであった。

 シァンドロスは追わず、逃げるにまかせれば。それまで怒号と血風吹き荒んでいたのが嘘のように、静寂があたりをつつんだ。

「なるほど、これがスパルタンか」

 レオニゲルは見捨てられ。戦士たちは都市国家ポリスに帰れば、新たな王を擁立するのであろう。

「殺せ!」

 レオニゲルも見苦しいまねはせず、潔く死んでみせようとする。

「ああ、殺してやるさ。……連れて来い」

 命じられて、捕えられていたメッサレナ人の奴隷兵士が連れてこられ。それに槍が渡される。

 メッサレナ人の奴隷兵士らの目は、捕えられた屈辱よりも、レオニゲルへの憎悪に燃えているようであった。

「憎いであろう。やるか?」

 鼻先に穂先を突きつけながら言えば、メッサレナ人の奴隷兵士らは「応!」と叫んで。一斉に槍を突き出し、レオニゲルをめった刺しにした。

「ど、奴隷に殺されるなど……、……なんたる恥辱」

 全身槍でめった刺しにされ、レオニゲルは血と恥辱にまみれて。無念のうちに死した。

 その無念の死に対し、歓喜の轟きが湧きおこる。


 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 我らのゆくところ、いかなる強敵ごうてきも、

 風に揺れる草花のごとし!


 戦いに勝利した神獅子軍の騎士らも、歓喜の唱和をはじめ。後方に控えていた将兵らも、刃をかざし戦勝を祝った。

 負傷し動けず置き去りにされたスパルタンの戦士はこれを唖然としながら見届け、そのまま息を引き取るのはまだいい方で、死にきれなかった者は後片付けととどめをさされてゆく。メッサレナ人の奴隷兵士らによって。


 同じように負傷し動けない奴隷兵士は、保護され手当てを受けた。

「あんたたちは、オレらを助けてくれるのか?」

 てっきり殺されるものだと思っていただけに、安堵とともに驚きをおぼえる。

「そうだ。お前たちを助けるのも、覇道のひとつだと思っている。オレはスパルタンのような、物獲り乞食のようなまねはせぬ」

 力を欲するのはシァンドロスとて同じであったが、その力の使い方においては違った。

「お前たち、オレに力を貸せ。束縛からの解放を約束しよう」

 いつの間にか糧食が用意されて、「遠慮するな」と差し出される。その料理は肉や野菜をオリーブ油で炒めたものだった。


「冷めると味が落ちる。これを食いながら、ゆっくり考えればよい」

 少々強引に、オリーブオイルの炒め物を手渡し。不敵な笑みを浮かべて、シァンドロスは腰かけ、炒め物を従者から受け取れば。

「戦いの後は腹がへるな」

 言いながら、オリーブ油で炒めた肉や野菜を口に放り込み、うまそうに頬張る。それを見るメッサレナ人の奴隷兵士らは目を丸くする。

「この世に、あんたのような人がいるとは」

「世の中は広い。人も色々といる。世の広さを知るというのは、なかなか面白いものだぞ」

 気がつけば明るいざわめき声がして。神獅子軍の騎士や後方で控えていた将兵らも地に腰かけ、飯を食っているではないか。


 戦場がいつの間にかいこいの場に早替わりだ。

 奴隷兵士らはオリーブ油の炒め物を見やった。食事と言えば、スパルタン人の残飯ばかりだった。なかには一旦口にし歯形が残っているものまであった。物心ついたころからそのような食事ばかり与えられて、それが当たり前だと思っていた。

 だから、できたての、オリーブ油の炒め物を手にし、目にして。まるで夢想の中に放り込まれたようだった。

 ひとり、勇気を出して口にすれば、

「うまい」

 と言い。それをきっかけに奴隷兵士らは次々と炒め物を食しはじめた。

 オリーブはグレース地域の特産品で、太古の昔女神が人間に与えたという伝承がある。食用としてだけではなく、薬用としても使え、人々の暮らしに欠かせないものである。

 それだけに重宝され、オリーブの木を盗んだ者は財産没収のうえ流罪という重い罰が与えられた。

 それだけに、奴隷には縁のないものでもあった。

 縁があったとしても、栽培に従事させられ、分け前などあるはずもない。

 奴隷兵士らも、戦いに敗れ死を覚悟していたのが、まさかオリーブ油の炒め物を食えるなど夢にも思わなかった。

「あんたにつけば、オリーブ油の炒め物を食わせてくれるのか」

「ああ、食わせてやる」

「よし、オレたちはあんたにつこう!」

 奴隷兵士たちは歓声を上げた。戦いのとき、奴隷兵士らはなるべく殺さず、捕えていたが。その数は一千人中、百ほどであろうか。

 ソケドキアはスパルタンに勝利し、レオニゲルは死んだ、と報せは四方を駆け巡った。奴隷兵士にオリーブオイルの炒め物をふるまったことも。

 スパルタン王宮において、新王に誰を擁立するかの論議が繰り広げられていた。

 王制とはいえ、王はスパルタンの戦士の、強い者の中から選ばれるところが、グレースの都市国家としての民主主義の名残であった。

「レオニゲルはシァンドロスの若造ごときに敗れるような、弱い男であった!」

「我らはレオニゲルのはったりに騙されたのだ!」

 といったことが叫ばれていた。

 で、王を擁立しようとするが、彼がよいのではと使命をすれば、

「私は、王になれるほどの力がありませんから……」

 と、変に謙遜して引き下がる者ばかりなので、王は決まらず。論議は堂々巡りで、決着を見ない。そんな中、

「申し上げます!」

 下僕が息せき切って王宮に飛び込んできたかと思えば、

「ソケドキアが攻めてきました。奴隷どもがそれに呼応し、蜂起を!」

「なんと!」

 王宮は騒然となった。

 そこは戦いなれたスパルタンの戦士たちであった。すぐに武装をととのえ、迎撃態勢に入る。


 だが、勢いに乗るソケドキア軍と、呼応し蜂起したメッサレナ人の奴隷たちの数は勇敢なスパルタンの戦士たちの数を大きく上回り。

 怒涛が小石を飲み込むようなものだった。

 都市国家は城壁に囲まれていなかった。

 ソケドキア軍は矢を放ち迫り来るスパルタンの戦士を射止め、ただでさえ手薄な抵抗がさらに薄くなる。

「ゆくぞ、オリーブのために!」

 シァンドロスは自ら先頭に立って愛馬・ゴッズを駆けさせる。後方でのんびり見物できるような男ではなかった。

 神獅子軍の騎士たちやペーハスティルオーンにガッリアスネスといった、近しい臣下も勇を鼓してつづく。

 スパルタンは海に突き出された手のような半島の中央南岸にあった。ということは、そこまでソケドキア軍は来たということである。それまで、抵抗もなく……。

 シァンドロス、ソケドキアをあらわす獅子の旗、黄金の太陽の旗も立ちなびき、スパルタンの都市国家に侵入してゆく。

「オリーブを!」

「我らにもオリーブを!」

 シァンドロスがレオニゲルとの一騎打ちに勝ち、さらにとらえた奴隷兵士を保護し、オリーブ油の炒め物を食わせた、という話は広まり。内に怨嗟の念を抱き続けていた奴隷たちは立ち上がり、シァンドロスを迎え入れ、スパルタンまでの道案内まで買って出た。

 オリーブを! と叫びながら――

「おのれ、かくなるうえは……!」

 内情がどうあれ、座して滅びを迎えるようなスパルタンの戦士たちではなかった。大口を開け獣のように叫びながら、刃を振りかざす。

「さながら殺人機械だ!」

 ガッリアスネスは叫んだ。兵士として幼少より徹底的に訓練をされたスパルタンの兵士たちには、人間らしさがなく、ただ人を殺す殺人機械として仕込まれている印象を、強く受けた。

 これもすべて、支配と搾取のために。支配と搾取のために、人間らしさを犠牲にし。スパルタンはいびつな軍事都市国家となってしまい。

「軍事力だけでは、時の流れに、時代の変化に飲み込まれてしまう」

 ソケドキア軍や蜂起した奴隷たちは都市国家内に踏み込み、ところどころで火の手も上がって。かつてのデヴァイのような有様になってしまっていた。

 それを見ながら、ガッリアスネスは、ふと、スパルタンに対してわずかながらも憐れみをおぼえた。

 勇敢なスパルタンの戦士たちは大勢の道連れをつくりながら、たおれてゆく。

 逃げようと思えば逃げられないこともないが、生よりも名誉の戦死を選んだ。そうするように、芯まで仕込まれていた。

 その中には、まだ十四、五ほどの少年の姿も見受けられれば、六十過ぎの老年の戦士の姿もあった。


 男という男は、皆死んでゆき。それを見る女子供たちも、

「さあ、お父さんのところへゆきましょう」

 と、我が子を道連れに自害する。

 もう滅びをまぬがれることができないとなり、スパルタンの都市国家の市民たちは、一斉に集団自殺をはじめた。

「こやつらは、いよいよ、狂っている!」

 戦勝に気をよくしていたペーハスティルオーンや神獅子軍といったソケドキアの将兵らも、さすがに肝を冷やす思いだった。

 力こそすべて。勝つか、死ぬか。それしかない軍事都市国家として身に着けた力の行く末。

「無益な殺生はするな。保護できる者は保護せよ!」

 シァンドロスは素早く判断し、助けられる者は助けた。デヴァイと違い、ほとんどの者が自ら死を選び自殺をしてゆくのを見て、さすがのシァンドロスも滅ぼしきる気は起きなかった。

 激しくぶつかり合ったのは最初だけで、それからは一方的なものだった。

 気がつけばスパルタンの都市国家はソケドキア軍が占領し、獅子や黄金の太陽の旗が立ち並んでいた。

 それを、龍の舌のように燃え盛る炎は、まるで灼熱の中に目でもあるかのように眺めながら家屋を飲み込んでゆき、消されていった。

  

市民たち


 スパルタンはソケドキアに敗れ、滅んだ。

 グレース地域最強の軍事都市国家として勇名をとどろかせていたのが、あっけなく。

 策に飲み込まれたのではない。シァンドロスは一騎打ちでレオニゲルに勝ち、それをきっかけにあとは積み木を崩すようなもろさであった。

「どのような力を誇ろうとも、己より強い者はごまんといる。それと巡り会ったとき、力のみの者のもろさは、見るに堪えぬものがあるものだ」

 ガッリアスネスは戦いの傷跡残るスパルタンの都市国家をクロエぺトナと名付けた二虎アルフーと歩きながら、しみじみと語った。

 聞く二虎は、龍菲のことを思い出す。孤児が集められ、暗殺者としてつくられ、才能のあった者七名が選ばれ。特に一番秀でていた少女には、「龍菲」(ロンフェイ)という名がつけられた。他は区別をつけるために数字が与えられただけだった。

 それらは一龍六虎イーロンリゥフーという暗殺者集団として結成され。マオ各地で金のために暗殺を繰り返し。

 やがて七名はるか西方に売られたが。龍菲は離反。それに対し、何もできない無力さを思い知らされた。

「そうですね……」

 応える声に変な実感がこもってしまう。それにはっとしたが、ガッリアスネスは気付いていないようだった。

(それにしても、鈍い男)

 ザブラグの王城でガッリアスネスは二虎の顔を見ているはずなのだが。忘れているのか、名もなき奴隷女が二虎であることにも気付いていない。

 あの時は返り血を浴びていたうえに、暗殺直後で顔もかなり禍々しくなっていた。奴隷女を装う今はしとやかにしているのだが、その落差のせいだろうか。

 そんな二虎に手を出さず。歴史上の伝説的女王クロエぺトナの名を与え、そばに置いていた。

 そんなガッリアスネスは自ら望んで、攻められ廃墟も同然となったスパルタンの都市国家にとどまり。生き残った者らの保護につとめた。

 力こそ正義、力こそすべて。そういう教えを骨の髄までたたきこまれ、いざ己より強い者と遭遇し、進退窮まり自害するしかなかったスパルタンの人々のむくろを目にし。

 憐れみをおさえがたかった。

 百名ほどの人員を借り受け、死せるスパルタン人を郊外にて丁重に葬り。生き残り捕えられた者には、これからの生き方を改める必要性を、粘り強く説く。

 だが、中には体が弱かったり障害がある我が子を隠して育てていた家族もいた。

「もう隠さなくてもよいのですね」

「そうです、大手を振って太陽の下に出てもよいのです」

 ガッリアスネスは征服者として傲慢にならず、丁寧に接して。その言葉を受けて、身体の弱い我が子、障害のある我が子を、血を吐く思いで隠して育てていた両親の顔が明るくなり。


「ああ、地獄の苦しみがぱっと消えた」

 と、たいそう喜んだ。

 それらと面会したガッリアスネスは、我が子を隠して育てねばならなかった者らの肩身の狭さや辛さを思うと、あらためて力に依存する軍国主義の人間性のなさと、その恐ろしさを感じるのであった。

 同時に、いかに厳しい掟をつくろうと、人の心、特に家族をいつくしむ心を消し去ることはできないのだということも学んだ。

 ガッリアスネスは王宮には入らず、あまり損傷がなく、かろうじて雨露のしのげる家屋を選んで入居した。

「なぜスパルタンにこだわるのだ」

 そうシァンドロスに問われる。スパルタンの次は、アタナイである。これを制すれば、グレース地域の制覇が果たされる。一刻でも早く行動したいシァンドロスであったが、ガッリアスネスは歩調を合わせなかった。

「この、力の果ての哀れさを書きとどめたいと思いまして。後世に教訓として残さねばならないと、私は考えます」

「なるほど。もっともなことだ」

 本来武人としてより文人としての要素を持ち合わせるガッリアスネスである。彼をそばに置くのも、その要素あったればこそであった。

「そなたはほんとうに文人だな」

「ありがとうございます」

 シァンドロスに文人であると言われ、ガッリアスネスはまんざらでもなさそうだった。

「法は、文化や文明は何のためにあるのか。これについても、書き残す所存でございます」

「大著になりそうだな」

「どのような分量になるかわかりませんが、読みやすいように心がけます」

「できたら、読ませてくれよ」

「はい」

 廃墟となったスパルタンの都市国家の視察をしていたシァンドロスは、ガッリアスネスの住居を直すよう命じた。

 スパルタンの都市国家自体は戦争で破壊され、大勢の人が住むことができず。シァンドロスは支配地域であったメッサリナ人の集落に拠点を起いた。

 解放を喜ぶメッサレナ人たちは、歓喜し。ところどころで、

獅子王子リオンターリ万歳!」

 という、万歳の大合唱が叫ばれた。

 幕舎には、あとからあとから、ひっきりなしに感謝の貢ぎ物が寄せられていたばかりか。選りすぐりの娘たちまでがシァンドロスに捧げられたのであった。

「礼にはおよばぬ」

 シァンドロスは丁重にそれらを丁重に辞して返した。


「シァンドロス獅子王子は強さと人の心を併せ持つ、稀有な王者だ」

 メッサレナ人たちはシァンドロスの無欲さにも感服し。あらためて解放を喜び、一同に会し、今後のまつりごとについての協議を行った結果。

 公平な税制、公平な裁判が約束され。同時に、生き残ったスパルタン人に対して無用の復讐心を抱かないことも、言い含められた。

「様々な事情で税を納められぬ者もおります。その者はどうなりますか」

 という質問があり、シァンドロスは頷き応える。

「税を納められぬ者は、代わりに何らかの奉仕活動をしてもらおう。身体の強い者は兵役に就き、そうでない者はオリーブ畑の栽培や清掃など」

「税を納められぬ以前に、病などで働けぬ者もおりますが、それらはどうなりますか」

「それらの者らは、税をもって助けよう」

 その場にいた者らががざわめく。これなら病を装ってでも働かぬ方が得ではないか、と。それは不公平ではないか、と。

「国は人あってこそ。国があって人がいるのではない。人を生かすことは、国を生かすことにつながる。無論、病で働けぬことが偽りであらば、それなりの罰を受ける」

「はあ……」

 聞く人々の多くが、ぴんと来ていないようであった。

(無理もない、満足な教育を受けることができず。目先の事しか考えられぬ、短絡的になってしまった人々が多い)

 その場に居合わせるガッリアスネスは、無知と貧困により心の荒むことの怖さを思った。

 かといって、裕福で教育を受けたとしても、そこに人の心はあるのかどうか、ということも見聞きしてきた。

(貧しいために荒む者もあらば、裕福なために傲慢になる者もいる。人心はどのような境遇においても、悪い方向へとゆくようになっているものだ。恐ろしいことだ)

 何度も心の中で恐ろしいことだとつぶやくが。これをおおげさとは思わなかった。実際この世の騒乱は、すべて荒む心と傲慢な心が引き寄せた悲劇ではないか!

 生活環境の改善はもちろんだが、悪しき誘惑に負けない人の心を育てることが急務であると、ガッリアスネスは感じてやまなかった。

(それを思えば、モルテンセンさまは、よきお方だ)

 貧しいながらも勉学に励んだリジェカ王族のモルテンセンに期待するところは大きかった。

「よくわかりませんが、要は我らは解放されたということですね」

「そうだ。自分でオリーブを育てて、それで利益を得ることもできるのだ」

 難しい話でよく分からないな、という顔をしていた人々だったが、最期は喜色を浮かべて、頷く。

 協議が終わりメッサレナ人たちが帰路についたあと、ガッリアスネスは進み出て、シァンドロスに気になることを訊いてみた。


「デヴァイの人々はどうなりますか?」

「デヴァイの者たちは、一生奴隷だ。絶対に許さぬ」

「それは……、えこひいきではありませんか」

 シァンドロスの色違いの目が鋭く光る。

「父王を殺した者らを、許すことはできぬ」

「それはデヴァイの王族がしたこと。市民は関係ありません。どうかお慈悲を」

「考えを改める気はない」

「慈悲も王者の素質のひとつ。一方を優遇し一方を冷遇するのは、統治として片手落ちです」

「言うものだな」

 シァンドロスの怒りを買うことも恐れず、ガッリアスネスは主君をまじまじと見据えている。

 ペーハスティルオーンら他の臣下らは、固唾を飲んで成り行きを見守っている。

(ガッリアスネスの頑固者め)

 剣よりも文筆をもつ方が性に合っているというが、もの書きとはかくも頑固で融通が利かないものなのか。

「考えは改めぬ。それよりも、次はアタナイだ。そのことを考えろ」

「……」

 ガッリアスネスは進言を聞き入れそうにないシァンドロスを見て、無理に押すことはしなかったが。かといって、あきらめたわけでもなかった。

 軽く会釈をし、臣下の列に戻る。

 自分たちも戦いを推し進め、もう後戻りはできないのだ。まずは目の前の戦いに勝たねば。

「さてアタナイだが……」

 軍議が開かれ。アタナイの情勢とその対策が協議された。

 ソケドキアの快進撃はアタナイも知るところであった。そこでは市民たちがソケドキアの脅威について話し合われては……、いなかった。

「蛮族アラシアはいずれ崩壊する! トンディスタンブールにおいてかの獅子王子ダライアスが挙兵し、それをきっかけに分裂し、自滅するであろう!」

 立派なひげをたくわえた知識人風の男が、大勢の市民を前にアラシアは自滅することを力強く説き。

「そうだ、文化のぶの字もないアラシアになにができる!」

 と、市民たちは同調して、その男、ヒテクテスに喝采を送っていた。

 アタナイにおいて学問が奨励され、人々は様々な考えをもち、広場に集まっては論議を繰り返していた。

「人は食うために生きるのではない、生きるために食うのだ」

 といったような、人はなぜ生きるのかという哲学的問答から、木や石は何でできているのかや、宇宙と地上のつながりなど、科学的なことまで、さまざまななことが論議されていた。

「ソケドキアがスパルタンを滅ぼし、目前まで迫っている! なんとかせねば」

 市民たちとは違い、細かな情勢を知る議員たちは白亜の議事堂において、目前まで迫った脅威について喧々諤々の論議を繰り広げていた。


「多少厳しい条件をつけられるだろうが、和睦をしないといけないのではないか」

「馬鹿なことを言うな、民主主義が帝国主義に頭を下げられるか」

「ではどうするのだ」

「徹底抗戦だ」

「デヴァイやスパルタンのように、無残なことになってしまうかもしれないぞ」

「民主主義を貫き通し、民主主義に殉ずるのだ」

「それは帝国主義的な考えではないか」

「なんだと、私を帝国主義者呼ばわりするのか。民主主義支持者だからこそ、帝国主義と戦おうと言うのだ!」

「否! なによりも市民の安全を優先するべきだ」

「市民の安全! それがどうした。民主主義が帝国主義に膝を屈することだけは、絶対に反対だ」

 その他云々かんぬん……。

 議事堂において論議は繰り広げられているが、このように堂々巡りで結論を見ることはなく、ただ時間だけが過ぎてゆく。

 スパルタンが滅ぼされたことは衝撃は大きかった。しかし、長年独立を守ってきたという自負が、その衝撃を緩めていた。とりあえず、近隣の他の都市国家に使者を派遣し、共戦を呼びかけた。

 だがその他の都市国家の反応といえば、

「戦争だけは避けたいのだが……」

 というような、鈍いものだった。

「度し難し」

 この鈍さに、アタナイの一部の議員たちは頭を抱えた。中にはもうソケドキアに服従を決めた都市国家もあった。

 デヴァイはおろか、かのスパルタンまでもがあんな様になろうとはと、他の都市国家は心から恐れていた。

「民主主義に殉じようとする勇士はいないのか!」

 議員のひとり、アトモケネの嘆きは大きかった。それに従う若い弟子たちも同じように嘆く。

「アトモケネさま、ここは、我らだけでも立ち上がりましょう!」

「クレナスよ、……そうしてくれ!」

 年老いたアトモケネは若いクレナスに懇願するように言い。若き弟子は、それにいたく感銘した。

 アトモケネの邸宅にいて、一緒にいた者らと現状を嘆いていたが。クレナスは仲間たちと邸宅を後にし、自分の邸宅に招き入れた。

 そこで、

「……やろう!」

 と、決意をこめれば、仲間たちも頷く。

 ところかわって、アタナイ議事堂に近いアカデメイナ。ここも議事堂に負けず劣らず立派な白亜の殿堂づくりの建物であり、書物もたくさん保管され、様々な人々が学問に打ち込む学び舎であった。


 ここでも様々な議論が繰り広げられる。ここでは主に、ソケドキアについてが議論されていた。

「ソケドキアは目の前まで迫ってきているのに、どうするのかが全然決まらないのは、嘆かわし事だ」

「それどころか、市民たちはソケドキアよりもアラシアの話ばかり聞きたがりましてな」

「ヒテクテスどもか。売名行為のために、ソケドキアのことよりもアラシアをこきおろすことばかり説いておる」

「心無い知識人たちは、現実逃避を市民に説いているのだ。売名行為のために」

「市民もまんまと乗せられてしまっている。まさかあそこまで乗せられやすいとは」

 アタナイをはじめとするグレース地域の人々は、アラシアを脅威と思う一方で、これまで独立を守れたことで、なんとかなるだろうと思ってもいた。

 そこにヒテクテスをはじめとする、心無い知識人たちが乗じたのだ。

 心ある知識人たちは、現実を見ようと説くが、現実逃避の夢の誘惑はなかなかに強かった。

 今も市民の広場でヒテクテスは、

「アラシアはもうだめだ。滅ぶ。我らは怨敵アラシアの滅びを、のんびり見物していようではないか」

 というようなことを語り。市民たちも、「そうだ、そうだ」と相槌を打って。そこに、目前まで迫ったソケドキアのソの字もなかった。

「なぜ我らは独立を守り続けられ、アラシアは滅びの道をたどるのか。それは、民族的に我らが優れ、アラシアは劣っているからである」

「そうだ、マーレの侵攻も防いだ我らに勝る者などいない」

「オレたちアタナイの市民は、世界で一番優秀な民族なんだ」

 ヒテクテスに同調する市民たちは、ひたすらに自分たちを自画自賛することに浸りきっていた。

 それを遠目に眺める人々は、眉をひそめていた。

 アカデメイナの学者はその光景を目にし、首を横に振った。かつて「そのような妄言に乗ってはならぬ」と指摘をしたことがあるのだが、

「うるせえ。アタナイが嫌いならアタナイから出てゆけ!」

 と、いかに理をつくりして説こうとも聞き入れられず、返ってくるのは反発ばかりだった。

 もちろん、ヒテクテス本人にも、

「そのような妄言で人を乗せるのは、自身のためにもならぬぞ」

 と言ったが、本人はひたすらアカデメイナから逃げ回り、受け狙いの言説をひたすら説くばかりだった。

「私はアタナイ人である。アタナイ人としての誇りがある。ならばこそ、アタナイを褒めちぎりたくて仕方ないのだ」

 と、本人の言。

 そこにアラシアこきおろしも加わり、市民から絶大な人気を博していた。


(なんという、恍惚として見苦しい顔だ)

 アタナイの栄光とアラシアの滅びを解くヒテクテスの顔は恍惚として、快楽に溺れているとしか言いようがなかった。話を聞く市民たちも同様だった。

 ソケドキアの脅威が目の前まで迫ってきているというのに。

 スパルタンからアタナイに少数ながら避難した者がいて、話を聞けばシァンドロスは一騎打ちでレオニゲルを打ち負かしたという。その勇敢さと強さは、自ら称する獅子王子にふさわしいものであろう。

 それゆえ、市民たちにとっても今一番議題に挙げなければならないことなのだが……。

「不本意ではあるが、私はシァンドロス獅子王子に面会を求めようと思う」

 アカデメイナの一室で、ピタゴロシなる老いた数学者はそう言った。

「本気か」

「本気だ。アタナイを攻めないでくれと、話し合うつもりだ」

「命の危険があるのではないか」

「それは考えぬでもないが、議員らは口ばかり動かし身体はちっとも動かぬのを見ておるとな」

 アカデメイナには議員を兼任する学者もおり、顔を赤らめ恥じ入った。

「そもそもあなたは数学者。本来の仕事ではない」

「そうではあるが、この際そんなことは言っておられぬ」

 そう言って、引き留める者もいたが、ピタゴロシはわずかな供を伴いシァンドロスに会いに慣れぬ馬車に乗って、気晴らしの旅行であると偽り、アタナイを発った。

 その直後のことであった。

 十名ほどの武装した兵士がアカデメイナに乗り込んだかと思えば、そこに居合わせた学者たちを剣や槍などの刃閃かせて殺してゆき。白亜の学び舎は一瞬にして血の海となった。

「これは何事だ!」

「アタナイのために!」

 悲鳴が響き渡り。兵士たちは「アタナイのために!」と叫んで刃を振るう。

「待て、話せばわかる!」

「問答無用!」

 学者らは兵士をさとそうとするが、聞く耳も持たず、兵士らは学者と見れば有無を言わせず刃にかけた。

(終わった! 長きにわたるアタナイの歴史に幕が閉じられるのだ! さながら、今の私のようになって……)

 声も出せず自ら流す血だまりの中でのたうちながら、学者らは息を引き取った。

 犠牲になった学者の中には、議員を兼任する者もおり。それらの多くは和平案論者だった。

「我らはアタナイのために立ち上がった義士である!」

 和平案の砦でもあったアカデメイナは、武装勢力に占拠された。それらはアトモケネを慕うクレナスら若者たちであった。


「アタナイ人としての自覚もない腰抜けどもは成敗してやった。我ら民主主義者は、断じて戦うぞ!」

 白亜の学び舎アカデメイナは無残なことになり。そこでクレナスらは「勝利宣言」をした。

 そこに広場で自説を説き恍惚としていたヒテクテスらは駆けつけ、「アタナイ万歳!」の大合唱が巻き起こった。

「ざまあみろ、反アタナイ人どもめ!」

 むくろが運び出されて、それに罵声と石とがぶつけられる。

 あとから騒ぎを聞いて駆け付けたアトモケネも、

「よくやった!」

 と賛辞を惜しまなかった。

 クレナスらは誇らしげに大衆の前に出て、

「アタナイ民主主義守護義士団」

 の結成を声高に宣言した。

「我らは、民主主義のために生き、民主主義のために死ぬ覚悟である! 同じ覚悟の義士あらば、同列に加わらんことを!」

 その叫びに、熱に打たれた若者たちは馳せ参じ。最初十人ほどからはじまった蜂起は、アタナイ全体を巻き込んだ。

 議事堂からも多くの人々が何事かと駆けつけ、惨状を目の当たりにする。

「もはや戦いは避けられぬ」

 こうして、アタナイはソケドキアとの徹底抗戦を貫くかまえとなった。

 そんなことがあったとは知らぬピタゴロシは馬車に揺られ腰が痛いのもこらえて、どうにか旅をつづけ、ようやくシァンドロスが拠点をかまえるメッサレナの集落まで来て。

獅子王子リオンターリに面会を求めたいのじゃが」

 と、たまたま用事で来ていたガッリアスネスをつかまえて面会したい旨を伝えた。

「失礼ですが、どちらさまで」

「私はアタナイの数学者、ピタゴロシでござる」

「なんと、ピタゴロシ先生ですか! ご高名はお伺いしております」

「私を知っておるのか」

「はい、先生の著作『定理』、読ませてもらいました」

 数学者であるピタゴロシは数学書を著わしていたのだが、まさかソケドキア人が読んでいたとは思わず。驚きは大きく、思わず目を丸くしてしまった。

「あ、失礼しました。私は獅子王子に仕えるガッリアスネスという者です」

「ガッリアスネスどのか……。あなたは、本好きの匂いがする」

 著作『定理』を口にするとともに、まるで子供のようにに目が輝くのを、ピタゴロシは見逃さなかった。

 しかしその身体はたくましく鎧を身にまとい、腰に剣を佩く勇ましい姿を見て、悲しさもおぼえた。

「間もなくご出陣ですかな」

「……はい」

 スパルタンの廃墟で執筆活動にいそしんでいたガッリアスネスであったが、急きょ呼び出されたのだった。


 おそらく出陣であろうと思っていたのだが、まさかあらぬところでピタゴロシと出会おうとは。

「獅子王子にお会いになるのなら、お取次ぎいたしますが」

「そうしてくれるとありがたい。ことは一刻を争うのじゃ」

 周囲はものものしかった。

 集落に近づくにつれて、武装した兵士たちを目にして、嫌な予感はしていたのだが……。

 周りにいる者たちは、何事かとガッリアスネスとピタゴロシを眺めている。

「どうぞ」

 ガッリアスネスはピタゴロシの案内をする。集落で一番大きな二階建ての木造の建物があった。それはかつてスパルタン人がメッサレナ人を監視するための詰所であったが、今は接収されてシァンドロスが使っている。

 ガッリアスネスは奴隷から市民へと解放され、門番をしているメッサレナ人の兵士に、事の次第を伝え。ピタゴロシとともに中に入る。

「アタナイの数学者とな」

 面会を許可し、詰所で一番広い場所、食堂兼会議室。部屋の北側は床が一段高くされ、そこの椅子を王座にし、シァンドロスはピタゴロシを見据え。臣下らが居並ぶ中、相手が跪かないことも気にかけずもの珍しそうにしていた。

「これ、跪かぬか!」

「アタナイ人は神に跪こうとも、人間には跪かぬ。皆同じ人間ではないか」

「それもそうだな」

 ペーハスティルオーンらが怒りを見せるのに対し、シァンドロスは不敵な笑みを浮かべてピタゴロシを眺めている。ガッリアスネスは、はらはらしている。

 アタナイの作法は、グレース人の遠縁にあたるソケドキア人も知らぬわけではないが。他の地域と溶け合いながら生きてきたため、上下の間柄の作法が身についていたのだった。

「この者は賓客である。無礼は許さん」

 その言葉にガッリアスネスはほっとしたが、次の瞬間、

「数学がなんの役に立つのか、予に説くことができればだ」

 そんな続きを聞き、肝を冷やした。シァンドロスはピタゴロシを試しているのだ。

「ほう」

 ピタゴロシは微笑んだ。

「数を知るは道理を知るにつながります。いまあなたは兵士を集められておりますが、数を用いずして兵を集めて、動かせておりますかな?」

 それを聞くシァンドロスは不敵に微笑み返し、「面白い。続けよ」と言う。

「この世の森羅万象、すべて数字で表すことができます。森羅万象が大げさなら、私たちの生活と言い換えてもよいでしょう」

 ピタゴロシが跪かぬことに怒りを覚えていたペーハスティルオーンら臣下たちも、黙って話に聞き入っている。

「それはすなわち……」

「数学こそ真理の学問!」

 ピタゴロシは厳しい視線を向けられながらも、威風も堂々と叫び。数学に疎い臣下たちも、その堂々とした様に圧されたようで眉や肩をぴくりと動かす。

「そもそも、数字と生活は密接にかかわっております。いわんや戦争においても。再び問います、数を用いずして戦争をしたことがありますかな?

「よい。数学を用いれば、様々な仕事を効率化できるしな」

「そのとおりです」

 言っていることは当たり前だが、当たり前すぎて意識したことはなく。生活と数字、数学の関係性の近さをあらためて知り、目の覚める思いだった。

「もし、数字がなくとも生活ができる自信があるなら、私を殺してもよい」

 おう、殺してやる! と言いたかった臣下たちであったが、さすがに数学を用いずに生活することは、どう考えても不可能であった。その便利さを知ってしまえば、手放すことはできない。

 なにより挑発に乗って殺してしまえば、野蛮人の誹りはまぬがれまい。死を恐れずとも、不名誉な誹りは恐れた。

「よくわかった。そなたほどの学者ならば、本も著わしているであろう。ガッリアスネスよ、お前は読んでいるであろうな」

「わかりますか」

 言われてガッリアスネスは苦笑い。ピタゴロシはただ数字に強いだけでなく機知に富んでいるようで、面白い文章も書けそうであり。本の虫であるガッリアスネスなら読んでいそうだと思うのであった。

「政治家でも軍人でもなく、数学者のそなたがなぜ予に面会を求めるのか。その意図は、戦争を回避するためであろう」

「お察しの通り。愛するアタナイのために、分をわきまえず馳せ参じました」

「その勇気には敬意を払うが。戦争は避けられぬ」

「なぜでございます」

 いい感じになり、戦争を回避できそうだと期待していたが、なぜだ、と驚愕と疑問が渦巻く。

「アタナイで暴動が起こり、アカデメイナは占拠され学者たちは殺された、そんな報せがもたらされてな」

「暴動!」

「クレナスなる者を中心に、民主主義守護義士団なる者らが政治の中枢を牛耳り、ソケドキアと徹底抗戦をすると唱えている」

「まさか」

 ピタゴロシの膝が震えている。信じたくないが、ありえぬことでもなかった。


かくて獅子は新世界を目指す


「報せを聞いただけなので確たるものがあるわけでもないが。クレナスなる者はアトモケネなる者を師と仰いでいるそうだが、知っているか」

「ああ……」

 クレナスのことは知らぬが、アトモケネのことは知っている。強硬に徹底抗戦を唱えていた議員のひとりだ。アカデメイナに対しても敵意をむき出しにしていたが、まさかそんな暴挙に出ようとは。

「我らが戦争を望まなくても、向こうが戦争を望んでいては、避けようもない」

「……」

「申し上げます!」

 ピタゴロシが絶句し、重い沈黙が垂れこめる中、続報があった。

「クレナスなる者を大将とし、民主主義守護義士団を中心とした武装勢力がアタナイを発ち、こちらに向かっております」

 シァンドロスは斥候を放ちアタナイの情勢をさぐっていたのは言うまでもなかった。

「途中、追い越されたりはしなかったか?」

 そう言われてはっとする。やけに馬を飛ばす者に追い越されたのを見送ったが、あれは斥候の早馬であったか。しかもこの様子からだと、ひとりやふたりではない。

「数はいかほどか調べているか」

「はッ。こちらと同数の七千ほどかと。暴動の直後、傭兵を雇い、また義士団に加わる者も多くいるそうです」

「ご苦労であった、さがってよい」

 言われて斥候は引き下がる。

 ピタゴロシは絶句したままかたまり、尊敬する数学者のそんな姿を見てガッリアスネスはいたたまれなかった。シァンドロスの言う通り、こちらが戦争を避けようとしても、向こうが望むのであれば、避けようもない。

「ピタゴロシどのはお疲れのようだ。一室を用意するゆえ、休まれよ」

 詰所づとめの召使いがピタゴロシを部屋に案内する。その背中を見れば、力なく猫のように曲がっている。

「おそらく、出立の直後に暴動が起こったのであろうな」

 殺された学者はおそらく和平を唱えていたのであろうし、ピタゴロシも同じように唱え、勇を鼓してシァンドロスに面会を求めた。その勇気のおかげで暴動に巻き込まれずに済んだことを思えば、運が良かったかもしれないが。そう言いきれないものもある。

「民主主義か」

 シァンドロスは不敵に笑う。

「人民を第一とする政治体制のはずの民主主義も、なぜか多くの血を求めるものだ」

 憂うでもなく、そうでなくては困ると言いたげに、シァンドロスは不敵に笑う。

「我らも出るぞ」

 こうして、シァンドロス率いるソケドキア軍は出立し。それをメッサレナの人々は歓声をもって見送るのであった。

 スパルタン支配地域は比較的平野も多く肥沃で、なるほど入植者であるスパルタン人からしたらどんな手段をとってでも確保したい大地であった。しかしアタナイを目指して歩くにつれて、山多くして平野は少なくなる。


 これでは農をもって都市国家を支えることは無理になる。そこでアタナイは貨幣経済をもって発展し、必要なものはすべて貨幣で手に入れる生活を送っていた。

 農を発展させられぬ、海と山に囲まれたアタナイは軍事においては陸は傭兵でまかない、海軍を正規の主力として発展させた歴史がある。

 だが最近海軍の出番もなく、飾りに成り果てているとの話だった。

「ほんとうならば、その方がよいのだがな」

 休憩中の食事のおり、斥候からもたらされたアタナイ情勢をまとめながら、シァンドロスはつぶやいた。

 アラシアはグレースを支配しようと激しい戦争を繰り広げたが、頑強な抵抗に遭い。直接支配をあきらめて、裏で手を回して都市国家同士を反目させる策をもちいたという。

 これに一番ひっかかったのが、皮肉にも学問を発展させたアタナイであった。

 多民族地域である。アラシアにもグレース系の者がおり、それをアタナイに送り込んで、学問の発展に寄与させた。同時に貨幣経済も発展させた。他の都市国家にはしなかった。

 そうなればどうなるか。アタナイと他の都市国家との間に格差ができる。スパルタンをはじめとする他の都市国家はアタナイに嫉妬し、煙たがるようになる。それに対して、アタナイは他の都市国家を見下すようになる。

 それで十分であった。

 アラシアと戦うために各都市国家間で同盟を結び。四年に一度、都市国家間で協力して知力・体力・時の運を競うオリンピアーネなる競技会であり祭典も催し団結を確認しあった。

 しかし、それはいまはもうない。

 それどろこか、有力なポリスのひとつであったスパルタンも、もうなく。それを滅ぼしたソケドキアがアタナイの目前まで迫り、刃を交えようとしていた。

「オレがグレースを統一したあかつきには、オリンピアーネを復活させようと思う」

「それは素晴らしいことです。是非、そうなされませ」

 シァンドロスの考えにガッリアスネスは強く賛同した。運動競技もまた文化である。世に秩序と平穏をもたらし、文化の花を咲かせたいと願っていた。

「蹴球も取り入れ。コヴァクスがいれば、出してやるのだがな」

「……」

 それを聞き、複雑な思いになる。あの時、なぜシァンドロスは突発的に湧き起った嘘を食い止めようとしなかったのか。

「小龍公は、いまどこでなにをしているのでしょう」

 ふと、そんなことを言ってみた。

「さて。彼が勇士であるなら、しぶとく生きているであろうな。オレはそれに期待している」

「期待?」

「そうだ、期待すればこそだ」

 試しているのか。あんなくだらない嘘という泥を塗られて、失意に沈んでいるであろうに。かつては友と呼んだというのに。


(何が獅子王子にそうさせるのか)

 イヴァンシムは、シァンドロスが女性に溺れることに気をつけろと言ったが。シァンドロスは相変わらず女性を寄せ付けない。男色の気もないので男性も寄せ付けず。王子という身分にかかわらず、夜を平然とひとりで過ごす。

(わからない。獅子王子のことがわからない)

 あるいは、偉人と呼ばれる人物はそんなところがあるのだろうか。それゆえに偉人と呼ばれるのか。

 どうにも、おかしな方向へ言っているような気がしてならなかった。

 しかし、今は目の前の戦いに勝たねば。

 ソケドキア軍は小高い山と山の谷間を縫うように進軍し。途中で止まり、シァンドロスは周囲の地形を見回した。

 草木少なく岩肌さらけ出す、殺風景な谷間であった。

「ほう」

 何かを見て、感心したように頷く。

 斥候からの報告によれば、そろそろ出くわしてもおかしくない。

 そこで、シァンドロスは臨戦態勢をとらせて、ある指示を出した。

 帝国主義を撃破し、民主主義を死守しようと意気も盛んなクレナスは急きょ集めた七千の軍勢を押し進めていた。

「シァンドロスの息の根を止めてやる」

 ことあるごとにクレナスはつぶやいていた。

 谷間の道を進んでいるときだった。

「落石だ!」

 そんな声がところどころでし、上を見れば。急な斜面から、大小さまざまな石が自分たち目がけて転がり落ちてくるではないか。

「いかん、避難しろ!」

 軍勢は混乱し、石から逃れようと右往左往するが。狭い谷間の道で七千もの人数が押し合いへし合いする格好になり、身動きもとれず。そうするうちに石は迫り、

「ぎゃあ!」

 という悲鳴があちらこちらで響いた。

 やがて落石が終わり、態勢を整えなおし被害を把握しようとするとき。


 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 我らのゆくところ、いかなる強敵ごうてきも、

 風に揺れる草花のごとし!

  

 突然の合唱が響き渡り、クレナスらは度胆を抜かれた。

「な、なに。やつら上にいるのか!」

 合唱に続いて今度は矢が雨のように降りそそぎ。身動きままならぬ兵士らはいいように針鼠にされてゆく。

 その矢の雨がやみ、多くの者が犠牲になった。かといってそれで終わりではなく、今度は「わあ」という怒号や馬のいななきがし。シァンドロス率いる神獅子軍の騎士らが、なんと急な斜面を馬で駆け下りてくるではないか。


 一旦止まった時、鹿が山の斜面を駆け下るのを見た。それを見て、鹿が駆けることができるなら、馬でもできるだろうと軍勢を二手に分け人は斜面をのぼらせ馬は回り道をさせて谷の上にのぼらせ、大小さまざまな石を用意し、弩弓を構えて、待機していたのだった。

 その行動は素早かった。皆声を掛け合って叱咤激励しあい、互いに手を差し伸べあって谷の上にのぼって。

 ソケドキア軍は、ひとつにまとまっていた。

 そんなソケドキア軍の騎馬隊が斜面を駆け下ってくる様は、太陽を背に、天上の悪魔たちが降臨したかのようだった。

 特に、黒く大きい愛馬・ゴッスにまたがるシァンドロスの雄姿は、アタナイ人らにはそう見えた。

 怒号と馬蹄轟きくうと地を揺るがし。次いで叫喚が響き渡り。

 混乱したアタナイの軍勢は、一方的に踏みしだかれてゆく。それもソケドキア全軍にされるのではない、今回も神獅子軍のみであった。

 残りは谷の上から喚声を轟かせている。

 スパルタンと戦ったときは、いちかばちかの、命を懸けた賭けであったが。今回は、狭い谷間の道で大勢を動かすことは難しく、意表を突き動揺させたところを少数精鋭をもって叩く、純粋な戦法上のことであった。

「くそ、卑怯だぞ。戦士ならば平野で堂々と真正面から来い!」

 クレナスは叫んだ。しかし、

「素人め!」

 と言う罵声が返ってくる。

 多くの者が動揺し、戦うどころではなく。人数においてはるかにまさるはずのアタナイの軍勢はまとまりなく、いいように蹴散らされるのみ。

「だから言ったんだ、海軍をつかえと!」

 そんな悲鳴のような叫びを上げるのは傭兵たちだった。傭兵らはクレナスが真正直に陸路をたどってスパルタンを目指すと言うのを聞き、

「海軍を使い、海と陸から挟撃したらどうか」

 と進言したのだが。クレナスは聞き入れず、海軍なしで戦うことを強引に押し進めた。

 蜂起し政治の中枢を牛耳ったとはいえ、それに対し海軍は無視を決め込み。クレナスはおろかアトモケネにも従おうとはしなかった。

 アタナイの軍勢は、動揺が狼狽を呼び、さらに恐慌を呼び込み。岩肌さらけ出す谷間の風景とあいまって、地獄で獄卒が哀れな罪人をいたぶっているような地獄絵図が現出したようであった。

「わかってたんだよ、こりゃだめだってな!」

 別の傭兵が叫んだ。

 傭兵らは、我先にと一目散に逃げ出した。そこは現場慣れしたもので、刃の間をうまくくぐり抜けて真っ先に離脱してゆき、クレナスら民主主義守護義士団は置き去りにされる。

「クレナスはどこだ。帝国主義者のシァンドロスであるぞ。勇気があれば我が首を獲ってみよ!」

 愛馬・ゴッズの馬上、剣を閃かせ、あるいはゴッズの太い馬脚をもって敵兵を蹴飛ばし。シァンドロスは己の強さを見せつけた。

「お、おのれ。うぬがシァンドロスか!」

 有利な状況にもかかわらず、総大将自ら名乗りを上げ首をさらすとはなんと大胆不敵な。

 あのレオニゲルを一騎打ちで打ち負かせるほどの戦士である。その姿を見て、クレナスは歯を食いしばり、

「オレがクレナスだ。シァンドロスよ、勇気があればレオニゲルと同じようにオレと一騎打ちせよ!」

 シァンドロスめがけて馬を駆けさせた。

「お前がクレナスか。その勇気は称賛に値する」

 シァンドロスは余裕を見せ、それがクレナスを激情させた。

「でやあッ!」

 大口を開けて大喝一声、クレナスは剣を振りかざしシァンドロスに叩きこもうとするが。――

 次の瞬間にはクレナスの首が飛び。鈍い音を立てて地に落ち、「痛い」と言いたそうに顔をゆがませる。


「口ほどにもない!」

 血濡れた剣をかかげ、クレナスを討ち取ったことを高らかに宣言すれば、

「かくなるうえは……。民主主義に殉じよう!」

 大勢の者が逃げ惑う中、残りの勇気を振り絞ってクレナスに近しい者たちは「潔く」戦死しようとする。

「愚かな。ならば望みどおりにしてくれよう」

 内情はどうあれ、彼らの戦意はほんとうだ。生かして説得もならないだろう。

 彼らは彼らなりに、民主主義の根幹をなすと信ずる自己責任をまっとうしようとし。

 みんな、死んでいった。

 抵抗する者はいない。

「手柄を独り占めにしているな。皆に詫びよう」

 レオニゲル、クレナスと、自ら打ち負かし。臣下が手柄を立てる機会を与えられなかったことをシァンドロスは詫びた。

「何を言われます。強き者が手柄を獲るのは当然のこと。それよりも、アタナイへゆきましょう!」

 ペーハスティルオーンら臣下たちは詫びるシァンドロスに畏れ入り、アタナイへと向かおうと叫んで。

 その通りソケドキア軍は一路アタナイを目指した。

 ソケドキア軍にこてんぱんにされ、命からがらアタナイへ逃げ帰った者たちは、恐慌をもろ出しにして、

「来る、悪魔が来る。太陽を背負った悪魔が来る!」

 などと、意味のよくわからぬことを口走っていた。谷間の道で、太陽を背に黒馬にまたがり斜面を駆け下るシァンドロスは、彼らにとってまさに太陽を背負った悪魔であったろう。

 このことは議事堂のアトモケネの耳にも入った。

「クレナスの役立たずめ!」

 民主主義に殉じた若者たちを、役立たずと罵り。歯軋りし。周囲を見渡し。

「民主主義のために戦う勇者はおらんのか!」

 と怒鳴り散らした。

「この責任を、どう取られますか。アトモケネどの!」

 他の議員が、クレナスを一斉に睨みつけた。

 若い弟子をそそのかし、武力蜂起させて、政治の中枢をのっとったまではよかったが。

「なに、責任じゃと」

「自己責任こそ、民主主義の根幹をなすものとあなたは常々言っておられた。ソケドキアとの徹底抗戦も一番に唱えられた。しかし結果は無残なもの。こうなった責任をどう取るおつもりか」

「責任はクレナスにある。クレナスは責任を果たした」

「で、あたなの責任は?」

「私の役目は、立案である。私は責任をもって立案をした。私の考えは間違っていなかったが、それを実行し成果を出すべき責任を負うクレナスは……」

「情けない!」

 責任を放棄するばかりか、死人に責任を押し付けて責任逃れをしようとするアトモケネの姿は、老醜そのものであった。

「兵士よ、こやつは私を侮辱している。民主主義を貶めようとしておる!」

 アトモケネは議事堂詰めの兵士に叫んだが、その反応は冷たくも無視を決め込む。

 外では、財産を背負って逃げようとするヒテクテスら知識人たちが市民たちにつかまり広場に引き出されていた。

「お前たち、私の話を聞いて喜んでいたではないか」

「ふざけるな、うそばかりだったじゃないか」

「だけど、喜んでいただろう? お前たちが喜ぶから……」

「オレたちのせいにするのか。この、えせ学者野郎!」

 市民たちはヒテクテスらに殴る蹴るなどして、私刑し。

 涙と鼻水を流して許しを乞うも、市民たちは聞かず。背負っていた袋からは金貨や宝石がこぼれ落ちて。一緒に踏みしだかれて。

 気がつけば、ぼろ布のようになって、ヒテクテスらはうつろな目をして死んでいた。

「ざまあみろ! オレたちをだました報いだ!」

 市民たちはヒテクテスらえせ学者のむくろに石を投げつけ唾を吐きかけた。

「これが、民主主義を旨として発展してきたアタナイの姿か……」

 心ある者たちは、今の惨状に涙した。

 そこに大勢の兵士があらわれたかと思えば、議事堂に乗り込み。アタナイそのものを占拠してしまった。

「我らはアタナイ海軍である!」

 議事堂詰めの兵士は抵抗をせず海軍の兵士を通し。アトモケネや思想を同じくする議員は捕縛されてしまう。

 他の議員も驚きはしたが、無理に止めようともしない。

 捕縛され膝をつかされるアトモケネのそばにより、じっと見下ろす巨躯の軍人と、神官。

「これはエシノガイアスどの、ゼアスどの」

 アトモケネは見下ろすふたりを見上げて歯軋りする。その目にはあきらかな敵意があった。

 エシノガイアスはアタナイ海軍を率いる主将であり、ゼアスはアタナイの精神支柱でマクレポリスの丘にあるマクレポリス神殿を統べる神官の筆頭であった。

「いつかはこうなると思っていましたがな」

 栗色の目は鋭く。栗色の髪と、同じ栗色のたくましい髭をたくわえたエシノガイアスは言う。

「あなたは、軍隊をおもちゃと、戦争を遊びと思っている。そんな者のために、我ら海軍は決して動かない」

「エシノガイアスどのの言う通り、マクレポリス神殿も権力者の身を飾る道具ではない。あなたは、調子に乗りすぎた」


 金の髪と碧い瞳の、まだ若そうながらも聡明そうで美形といってもよい顔立ちの、神官の筆頭を務めるゼアスも冷たく言い放つ。

「お、お前たち、民主主義のために戦う我らを愚弄するか」

「民主主義のため? 自分のためだろう」

 もはやエシノガイアスは敬語をもちいず、虜囚に対する態度をとっている。

「あなたは己の傲慢な心を満たすために、民主主義を利用したにすぎない」

「何を言う」

「まあ、御託はいい。来い!」

 アトモケネはエシノガイアスの太い腕につかまれてかつがれ、他の議員も兵士に連行される。

 外に出れば、民衆が緊張の面持ちで議事堂の前に集まっていた。

 心ない知識人を私刑し興奮も頂点に達していた民衆たちであったが、海軍の兵士がアタナイの都市国家を占拠して我に返り、そして現実を思い出し、これからどうなるのだろうと不安でいっぱいだった。

「アタナイ海軍主将のエシノガイアスである! 民衆よ聞け!」

 図太い声が響く。

「我ら海軍はマクレポリス神殿と協議の結果、ソケドキアの傘下に収まることを決めた!」

 民衆はざわめく。ソケドキアと戦うと思っていた者もいた。

 捕縛されたアトモケネらが民衆の前にひっぱり出される。

「若者をそそのかし蜂起させ、アタナイを占拠したアトモケネらのやり方は民主主義にのっとっているかどうか、どう思われる!」

 澄んでよく通る声でゼアスは訴えた。

「わ、私はアタナイのためを思っ……」

 弁解をしようとするが、頭をつかまれ、そのまま地面に押しつけられ。言葉を発することができないようにされる。

 民衆は何も言わない。

「何も言わないのですか。ここは民主主義の都市国家、主権は民衆にあるのですよ」

 ゼアスも民衆に訴えるが、何も言えないようである。

(悲しいかな。これが現実か)

 ゼアスは胸中でため息をついた。

「何も言わぬなら、我らでこれからを決めてよいのだな」

 エシノガイアスは叫んだ。それに圧されるように民衆は沈黙した。

「これで最後です。民衆に問う。これからのことを我らで決めてよいか、否か」

 ゼアスの最期の訴え。しかし、しーん、と重い沈黙が垂れこめ。時折小さなざわめきがまじるのみ。

「では、以後の事は我らで決める。以上だ!」

 エシノガイアスの最後の一喝ですべてが決まった。

 早速、和睦のための使者が早馬に乗って発った。厳しい条件をつけられようとも、アタナイの独立を許してほしい旨が書かれた書簡をもって。


 アトモケネら徹底抗戦派の議員たちは牢獄に入れられた。シァンドロスに引き渡し、その身の処分を任せることとなった。

 アタナイに向けて進軍していたソケドキア軍であったが、早馬の使者が来たことで一旦停止し。

 シァンドロスは使者と会い書簡に目を通す。そこにはアタナイ海軍主将エシノガイアスとファルテナン神殿神官筆頭ゼアスの書名もあった。

「答えはアタナイで出そう」

 そう言い、進軍を再開し。やがて、アタナイに到着した。

 ソケドキアの将兵らは、アタナイの街並みを目にし、息を呑んだ。

 小規模ながらも整備された区画わりで、街並みは整い。白亜の石造りの建物も多く、都市というよりはどこか街全体が宮殿のようであった。

 そんなアタナイが騒然とした。

 ソケドキア軍がついにアタナイに入ったのだ。軍隊も抵抗をせず、それを受け入れた。

 馬車まで用意された。しかし、

「そこまで気を使わずともよい」

 と、愛馬・ゴッズにまたがり。それを近習たち、さらにそれをアタナイ海軍の兵士が付き添って。さながら賓客扱いであった。

 人々はそれを、どう言ってよいのかわからぬような、唖然とした様で見送る。

「あれが、シァンドロスか……」

 アタナイ海軍がマクレポリス宮殿とともにアタナイを掌握して、それからソケドキアのことを多くの市民が知ることになった。なにより、スパルタンのレオニゲルを一騎打ちで打ち負かしたことを知り、

「それほどの強敵のことを、どうして教えてくれなかったのか」

 と、えせ知識人らに乗せられたことを今さらながら恥じていた。

 議事堂入りしたシァンドロスは下馬した。エシノガイアスとゼアスの両名が出迎えていた。

「ここはアタナイ。王座というものはありませぬ」

「休める椅子さえあれば、それでよい」

 中に入りエシノガイアスとゼアスに案内される。中は簡素ながらも美しい白亜の石造りの議事堂は、壮麗さと威厳を兼ね備えていた。

 だがシァンドロスはきょろきょろせず、まっすぐに前を見据えて歩く。不意打ちを気にする様子もない。

 それどころか、従者をつれずひとりで乗り込んだ。

 神獅子軍は議事堂を包囲し。ペーハスティルオーンにガッリアスネスらは、外で待機。

 議事堂の大広間に出れば、広い空間の中で議員たちが思い思いの姿でシァンドロスを待ちわびていた。慌ててひれ伏す様子もない。

 壁は幅の広い階段のようになっており、そこに議員は腰かけ。なんらかの主張をする際には中央に立ち、たくさんの目に囲まれて演説をするのだ。

「ここは民主主義の都市国家。絶対君主はおりませぬ」


 エシノガイアスはそう言う。

「この世に絶対君主と言うものがあれば、とっくに予が従っている」

 諧謔をこめた返事をして余裕を見せるシァンドロス。

「お待ちしておりました」

 議員たちは総立ちになり、とりあえず、シァンドロスを出迎えた。

 強硬な心根の者らは牢獄にぶち込まれて。その場にいるのは和平論を唱えていた議員たちであった。

 アタナイはグレース第一の都市国家と言われる。それは戦争に強いことで手に入れたことではなく、高い文化性と生産性とともに花開いた民主主義政治。

 高い文化性と生産性を持ち合わせた知識人や学者らが、民衆から選ばれ議員となり、話し合いによってまつりごとが執り行われたことであった。

 議員らを見て、シァンドロスは不敵な笑みを浮かべる。

 グレース第一と言われるアタナイにアラシアからの間者が入り込み、他の都市国家との格差を広げることにより都市国家間の確執を生みだしていたことは、旧ヴーゴスネアをおさえると同時にアラシア人から聞いていたが。

 当のグレース人はそのことを知らないようである。

「繁栄により自惚れ傲慢になったアタナイ人も多く増え。そこから衰退の下り坂を自ら転がっております」

 アタナイ人がアラシアの策略により、かつての自分たちと同じようになっているとアラシア人は語った。

 人間、人にしていることはわかっても、自分が自分にしていることはなかなかわからないものだ。

 繁栄により自分たちはそのままでも優れていると錯覚し 自惚れ傲慢になったアタナイ人は、まず努力をしなくなった。また他を侮る心も芽生え、警戒や自衛がおろそかになったり人任せになったりと。

 何もかもが緩み切っていた。

 だから、現実逃避にふけったり、無謀な戦いを起こして自らを死に追いやることになってしまった。

「意外にあっけないものであったな」

 議事堂にて議員らに囲まれ、ふてぶてしく放った第一声であった。

「お前たちは我らに何を望む。言ってみろ」

 絶対君主はいないというのに、絶対君主然と振る舞うシァンドロスに、議員らは歯噛みするばかり。卒倒しメッサレナ人集落で休養しているピタゴロシがこの光景を見たら、何と思うか。

 エシノガイアスとゼアスは敢えて無言。何を言ったところで、負け犬の遠吠えでしかない。

「これより、予がグレース地域を納める王となる! 異議ある者は、剣をもって訴えてもよいぞ」

「異議なし!」

「我ら潔くソケドキア獅子王子シァンドロスを王として戴くものなり!」

 エシノガイアスとゼアスは敢えて跪いて、服従を宣言した。そうすれば、議員たちもやむなくながら、同じように跪いた。


 民主主義政治を布き、神以外には跪かぬ自由人として生きたアタナイ人が、シァンドロスに跪いたのだ。

 かつて地中海マーレ沿岸を支配し絶対的な力を誇っていた古代マーレ帝国や、現在のアラシアからの侵攻を凌ぎ自主独立を守ってきたグレース地域の、その独立の歴史は。

 シァンドロスにより、幕を閉じた。

 エシノガイアスとゼアスを引き連れ、議事堂前に出てきたシァンドロスを神獅子軍の騎士たちが歓声をもって迎えた。

「歴史が大きく動いている」

 ガッリアスネスは感慨をこめてつぶやいた。その内情は未知数なことが多いとはいえ、シァンドロスが歴史を大きく動かしたことは、否定しようのない事実だった。

「新たな戦いがはじまる。それは新たなる世界にゆくことを意味する。あらためて訊こう、諸君は、シァンドロスに着いてきてくれるか!」

 その問いかけに、天地を揺るがすような歓声轟き。もろ手を挙げて神獅子軍の騎士やペーハスティルオーンはあらためて従順の意を示した。

 ガッリアスネスは、周囲が熱狂すればするほど、落ち着いていっていた。落ち着きながら、グレース地域に伝わる「すべての贈り物の箱」という寓話を思い起こした。


 ――かつて天上の神がつくりし箱は、開けてはならぬと言い含められて人間の世界に落された。

 人間は神からの言いつけを守り、箱を開けなかった。

 神の言いつけを守りながら、人間の世界は繁栄していった。

 しかし、中に何が入っているのであろうという好奇心は押さえがたく。ついに箱を開けてしまった。

 箱からは様々なもの、災厄や不幸が飛び出し、人間たちは苦境にあえぐことになってしまった。

 人間たちは箱を開けたことを悔い、慌てて箱を閉じた。

 空っぽになったかと思われた箱の中に、たったひとつのものを残して。

 それは、希望エルピスと呼ばれた。――

 

 かくて神の御心からは逃れがたし。

 そんな難解な言葉で寓話はしめくくられていた。

 ガッリアスネスはそんな「すべての贈り物の箱」の寓話を、胸中何度も繰り返し、思い起こしていた。

 また、それとは別に、遠くからシァンドロスを見つめる視線があった。

 それは艶めかしく微笑んでいた。


憩いのひととき


 トンディスタンブールの路地裏を出たダライアス一行は、東へ、タフテ・ジャルシードへと向かい馬を走らせていた。

 王子である。かつてきらびやかな甲冑を身にまとっていたのだが、正体を隠すために甲冑をなんの迷いもなく打ち捨て、敢えて庶民の着るような平服を今は着ていた。槍も邪魔になると捨てた。

 だが、剣だけは捨てなかった。

 母バビロナの家に代々伝わる宝剣である。こればかりは捨てられぬと、ぼろ布を巻き宝剣であるとわからぬようにしていた。

 イムプルーツァにパルヴィーン、ヤースミーンも同じようにして、愛馬を駆けさせていた。

 と言いたかったが、人気のない峠道ならまだしも、通行が多く関所もあり監視の目も厳しい大帝国の街道を馬で飛ばせるわけもなく。

 みすぼらしい恰好になり、馬を降り。旅の商団を見つけて、仲間に加えてもらった。

「あんたは、いい顔をしておる。とても浪人をするようなお人には見えんがね」

 頭に布を巻いた褐色のインダウリヤ人の商団の長はいぶかしがったが。

「まあ、何かの事情があるんだろう。そのいい顔に免じて、仲間に加えてやろう。これも御仏のご縁かな」

 商団の長、マハタラは闊達に笑って、ダライアスらとともに旅をする。

 愛馬アジ・ダハーカの手綱を曳きながらダライアスは品物を積んだ商団の馬車の後ろをついてゆき、イムプルーツァらはその後ろに控える。

 マハタラは杖を肩に乗せ、ダライアスの横に着けている。

 何も知らぬ者が見れば、のどかな旅をしているように見えるだろう。

「インダウリヤでは神の事を御仏というのだったな」

「そうだよ。なんだいあんた、インダウリヤに詳しいな」

「少し、旅をしたことがある」

「ほう、それはそれは。やはり縁があるのだな。どうだね、御仏を信仰してみないかね? あんたみたいないい人が信仰すれば、御仏も『善き哉善き哉』と喜ばれるだろうて」

「申し出はありがたいが、オレはアラシアの神々を信仰している」

 まさか愛馬の名を言えぬが、苦笑しながらマハタラの申し出をやんわり断る。イムプルーツァとパルヴィーン、ヤースミーンらはそのやり取りを微笑ましく眺めていた。

 インダウリヤは現在ラジョーカ三世大王の治世である。

 建国の祖とされるラジョーカ一世は好戦的で各地で戦争を繰り広げていた。強敵と遭遇すれば、その戦争の規模も大きくなった。そうなれば、悲惨の度合いも増す……。

 戦争には勝ったが、多くの人命が失われたその悲惨さを目の当たりにし。

「我、誤れり!」

 と、地に伏し、おおいに自らのそれまでの過ちを嘆いたという。

 その嘆きは大きく。苦心の末に、太古の昔に悟りを開いた者、御仏の教えを信仰するようになり。御仏の教えをもとに国を治めるようになり。


 インダウリヤはおおいに栄えた。

 マハタラはそんな話をダライアスに語った。

(この老人は、オレがかつてラジョーカ三世と戦ったことがあると知れば、どう思うだろう)

 ダライアスはかつて父王クゼラクセラ大王の命でインダウリヤと刃を交えたことがあった。

 国境をめぐる争いである。

 アラシアとインダウリヤの国境にはシンドガという大河が流れている。国境を東岸にするか、西岸にするか。その交渉が決裂し、クゼラクセラ大王は武力をもって解決しようとした。

 これがダライアスの初陣であった。その時、まだ十五である。

 しかし初陣と思えぬほどの勇敢な戦いぶりにイムプルーツァをはじめとする将兵おおいに奮い、ラジョーカ三世の軍勢を散々に悩ませ。ついに、国境を東岸にすることを承諾させた。

 これで終わればクゼラクセラ大王も喜んだかもしれなかった。

 ダライアスはラジョーカ三世を招いた交渉の席で、

「国境こそ東岸だが、インダウリヤの漁師がシンドガで漁をすることを許そう」

 と言ったのだ。このことはクゼラクセラ大王の耳に入り。それからだった、冷たくなったのは。

 しばらくアラシアとインダウリヤの国境地帯に据え置かれ、それから、真逆の西の端、オンガルリ遠征を命じられ。今に至る……。

 年は明けたばかり。季節はまだ冬であり、商団はなるだけ標高の低い道を通っているのだが。夜ともなれば身を切るような寒さのため動くことができず。やはり冬という季節のため、動きは遅かった。

 そうなれば、監視の目への警戒もそうとうしなければいけなくなる。

 街に立ち寄ったときは、と言えば。――

 役人の許可をもらい市場で商売をするマハタラは、

「……許してくれよ」

 そう小声で言うと、

「おい、ぐずぐずするなこの役立たずども!」

 と、ダライアスらを怒鳴った。さとい王子である。その意図を汲み取り、命じられた通りに荷を運ぶ。イムプルーツァらも同じように、率先して商団の荷を運ぶ。

 立ち寄る街にはもちろん役人や兵士がいる。だが、まさかダライアスらが商人にまぎれて、怒鳴られながら仕事をしているとは思わず。その光景を目にしても、

「きつい爺さんだな」

 と、すぐにそっぽを向いて警備の仕事に戻る。

「また飯抜きにされたくなきゃ、働け働け!」

 マハタラの爺さんは、ダライアスの背中にひと通り怒鳴り終えれば。馬車や荷車の品物は整然とならべられていた。しかも、

「さあ、よってらっしゃい見てらっしゃい、古今東西の名品珍品そろい踏みだよ!」

 パルヴィーンはよく透る声で客引きをする。

 ヤースミーンはいつの間にか弦楽器のバルバットを構えて、その白く細い指先で絃を引けば。優しい音色が周囲を包み込み。そのに惹かれて、多くの人々がやってくる。

 そうかと思えば、いつの間にか上半身裸になっているダライアスとイムプルーツァが、なんと真剣で戦いだす。

 それに合わせるように、ヤースミーンの引くバルバットの曲調も速くなり、音色も甲高くなる。

 交わる剣は火花を散らし、

「えやあッ!」

「とおッ!」

 ダライアスとイムプルーツァも実戦さながらに叫んで、たくましい肉体で剣を振るう。


「わあ、すごーい」

 子供たち、特に男の子たちは、ウードの疾風を思わせる戦慄に合わせて剣を交えるダライアスとイムプルーツァにやんやの歓声を送り。無論大人たちの心も打ち、特にご婦人の熱狂たるや、

「ああ、あの夜を戴くようなきれいな黒髪の貴公子が、そのように勇ましく戦うなんて」

「いいえ、銀糸をおりなすような髪の戦士の男らしさと来たら」

 などなど、黄色い声を上げ胸も張り裂けんがばかりなほどだった。

 気がつけば老若男女が、盛り上がり。

「これをただで見せてもらっては申し訳ない」

 と、アラシア銅貨をふところから出せば。

「ありがとうござーい!」

 パルヴィーンはのりのりで素早い動きで盆を差し出して、アラシア銅貨を乗せてもらう。

 そうするうちに、バルバットの曲が終わりに近づき。徐々に音色が低くなり、消え入りそうになる。 

 それに合わせて、ダライアスとイムプルーツァの動きもゆっくりになってゆき。

 音色が消え入ると同時に、頭上高々とかざした剣を交差させて。戦いが終わった。

「いよー、いいもん見せてもらった!」

 拍手と喝采が惜しみなく送られる。それがひと通り済めば、入れ替わるようにヤースミーンはバルバットを再び奏でる。

 今度は落ち着くような、優しい音色だった。

「いいもん見せてもらって嬉しいなら、何か買ってってよ!」

 アラシア銅貨をもらいながらも、ちゃっかりとパルヴィーンは品物の瓶を手に取ってかざす。

「これはオンガルリの、ズスキン地方のワインだよ!」

 パルヴィーンが衆目を集める間、ダライアスとイムプルーツァは素早く服を着替えて、馬車の中に逃げ込む。

「ねえちゃん、この白い皿はどこのなんだい?」

「あ、これね。これはオンガルリのホロハザでつくられたお皿だよ」

(あれ、なんだかオンガルリのが多いな)

 ふと、クンリロガンハの人々の事が思い出されて。涙腺がゆるみそうになる。

「いい皿だな。もらっていくよ」

「ありがとうございます!」

 パルヴィーンは皿を優しく紙で包んで差し出し。代金を受け取る。その間も、ヤースミーンの奏でるバルバットは優しい音色を紡ぎだす。

 そうこうしているうちに、陽は沈み市場はお開きとなった。

 片づけをして宿にゆけば。

「あんなにひどいことを言ったのに、よく働いてくれて。すまないね」

 マハタラは申し訳なさそうにしている。商団長として下僕扱いをせねば怪しまれるだろうと、やむなくのことだったが。


 ダライアスらは恨みに思わず、よく働いてくれて。おかげで商売ができた。

「いや、とても楽しかった。むしろ礼を言わねばならぬのは、こっちだ」

「ほんとうに楽しそうに……。私をどさくさに紛れて斬ろうとなされたでしょう」

「何を言う。お前こそ」

「もう、あんまり本気を出さないでくださいね。冷や冷やしながらバルバットを奏でるのは大変なんですから」

「でもほんと、今日も楽しかったねー」

 四人はにこやかに、市場での「商売」は楽しかった! と、ぱっと顔を輝かせて言う。

 マハタラや商人たちは、そんな四人を不思議そうにしながらも、微笑ましく思った。

「御仏は、ほんとうによき出会いを与えてくださった。善き人との出会いこそ、今生人界最高の宝であると説かれるが。まさにその通りだ」

「まあ、そんなに私たちのことを」

「そなた風に言えば、ゾオム・マヅダのお導きになるであろうか」

「そんなところですな、黒髪の王子さま」

 ゾオム・マヅダはアラシアで信仰される神々の中で最高位の神とされる。

 マハタラの言葉を受けて、ダライアスらはなんだかむずがゆいものを禁じ得なかった。

 ちなみに、ダライアスらは名前をあかしてはいないし。偽名すら使っていない。そのため、マハタラらはダライアスのことを黒髪の王子さまと呼び。以下、銀糸の髪さん、金髪のお嬢さん、そしてお転婆娘さん、であった。

「いっそのこと、ずっと、わしらと一緒に商団をやらんかね?」

 冗談まじりに言うが、無論ダライアスは首を縦に振らない。

「気持ちだけ、いただこう」

「そう言うと思った。何があるのか知らんが、あんたは高貴の家の出じゃろう。高貴の家に生まれるというのも、大変なものだな」

「そうだな。宿命とでも言おうか」

「じゃが、同時に使命でもあるようじゃな。ゾオム・マヅダの神様は、あんたに使命をお与えなさったようじゃな」

「かもしれぬな」

 長い人生の旅路を生きたマハタラであるが。苦しい宿命を乗り越え使命に転じる生き方を、ダライアスならできるであろうと、信じてやまなかった。

(インダウリヤと戦う理由など、どこにあるというのであろう)

 武骨なイムプルーツァであったが、マハタラの爺さんの人情に知らずに惚れ込んでしまったようだった。

 国境をめぐる争いで刃を交えたが、こうして接してみれば、オンガルリの時もそうだった、争う理由など見つからなかった。

 それを思えば、ダライアスの判断は正しかったのだと改めて思い。臣下として、いや、ひとりの男としてダライアスに仕えきってゆこうと、決意を新たにするのであった。


 翌朝、街を出てしばらゆけば。道が二手に分かれている。

「じゃあ、わしらは南へゆく。どこへゆくのか知らんが、御仏の加護があらんことを」

 マハタラの爺さんが笑顔で言えば、ダライアスらは笑顔で「ありがとう」とうなずき。東への道をゆく。この先は通行量の少ない峠道、馬を飛ばせると皆騎乗する。

「さようなら、おじさんたちのこと忘れないよ!」

 パルヴィーンは振り返って大きく手を振る。商団の商人たちも手を振りながら、南への道をゆく。

 ダライアスは振り返らずに、愛馬アジ・ダハーカを走らせる。

 笑顔で二手に分かれて、それぞれがそれぞれの道をゆく。

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