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龍の騎士と獅子の王子 Ⅲ (56652文字)

ダノウの大河にそそがれる血


 雨が降れば地面はぬかるみ足も取られ、雨に打たれることで心身ともに進軍の負担は大きくなる。

「ん?」

 雷鳴にまじって何かが聞こえたような気がした。

 自分たちはダノウの大河沿いに東進している。河沿いの道は整備され、船も見える。その船に乗る人々のみならず、道中で出くわす人々の驚愕たるや、まるで世界の終わりのようである。

 だが抵抗はなく、そのおかげで徐々にでも心に余裕が出来て、驚く人々の顔を面白がれるようになってきていた。

「何かが聞こえたような気がするが」

「そら耳だろう。雷もうるさいしな」

「それもそうだな」

 将兵は軽口を叩いて笑いあう。だがその笑いはすぐに、かたまった。

「敵襲!」

 軍勢に先立ち、進路の確認のために先行していた早馬が叫びながら帰ってくる。

「敵襲! ヴラデ軍だ!」

 早馬の騎士は張り裂けそうなほどに大声を出し、その顔は必死の形相になっていた。

「敵襲だと、そんな馬鹿な!」

 ヴラデ軍はヴェアクラーデにいるはずだ。まさか。誰しもがそう思った。そう、思いたかった。

 だが雷鳴とともにとどろく軍鼓管楽に、鬨の声。

「構え!」

 ダライアスは咄嗟に叫び、近習から槍をぶんどり。同時にイムプルーツァも近習から大剣をぶんどる。

「裏をかいたつもりだったが、裏の裏をかかれた!」

 血を吐く思いでダライアスは悔し紛れの叫びをあげた。

 それに応えるわけでもあるまいが、ヴラデは馬上剣をかかげ高笑い。

「ゆけ! ダノウの大河を奴らの血で真っ赤にしてやれ!」

 五万の軍勢に対しダライアスのアラシア軍は三万ほどである。数の有利さもあり、余裕綽々でヴラデもマーラニア軍も殲滅をさせんと吠え猛った。

「はっははは! 獅子王子アスラーンといえども所詮は若造よ!」

 ヴラデはヴェアクラーデでまで進み、そこで待機しアラシア軍を待つと見せかけながら、マーラニアに引き返し。その読みは的中した。

 意表を突かれたアラシア軍の騎士や将兵らの驚きは大きかった。しかしそこは百戦錬磨のつわものどもであった。

「ひるむな! 押し返せ!」

 まず矢の応酬があった。双方盾を構えるなどしたが事前に構えていたマーラニア軍の方からの方が多く、アラシア軍の多くの将兵が餌食になった。それでもひるまずに突っ走り、次の矢が間に合わぬところまで迫る。


「おおおッ!」

 大喝一声。イムプルーツァは大剣を力の限り振るってマーラニア軍を蹴散らしてゆき、血風を吹かす。これに触発されて、アラシア軍の騎士や将兵は相手に噛みつかんがばかりに大口を開けて吠え猛り、真っ向からぶつかった。

 雷鳴が轟く。だが下界はそれすらも掻き消す咆哮が轟き、刃はぶつかり合って激しく火花を散らす。

 パルヴィーンも女ながらイムプルーツァに付き従いよく戦った。

 とは言え、マーラニア軍もさるもの。

「さあ、ゆけ! 双龍の子たちよ!」

 馬上のヴラデから叱咤され、さらに武将たちも同じように、「我らは双龍の子であるぞ!」と叱咤する。

 ヴラデの家の紋章は首が二つある龍の双龍。騎士や将兵らは常日頃、双龍の子であると叩き込まれて。双龍の軍旗の下、まるで己の身が双龍になったかのように勇敢に、いや、獰猛に戦った。

 腕に覚えのあるアラシア軍の騎士も、捨て身で戦うマーラニア軍によって討たれる者が多く。またアラシア軍もひるまずに戦うもので、ダノウの大河の河畔はあっという間にところどころに屍積み重なり、それに伴い血だまりもでき。

 流れる血はダノウの大河にそそがれてゆくのであった。

 ダノウは大河だけあり、河幅もあり、向こう岸が曇り空のせいもあってややかすんで見え家屋も小さく見える。深さもそれなりにあり。そこには個人所有の小舟や幾人かを乗せた大き目の船も航行している。

 アラシア軍の出現に驚いていた船の人々は、突如はじまったこの戦いに驚くとともに、巻き込まれまいと急いで向こう岸に寄せるのであった。

「お前は下がっていろ!」

「でも……!」

 ヤースミーンはゆくというダライアスを制止しようとするが、聞かずに槍を握りしめて駆け出す。

「心配するな、お前を必ず還してみせる!」

 と言うが、

「私は死にません! 獅子王子もそうなのでしょう」

 などと叫び返した。

「みんなと一緒に、アラシアに還るんですよね!」

「その通りだ!」

 ダライアスもこれ以上は言わず、混戦の中に突っ込んでゆく。この獅子王子が戦場において黙っていられるわけがなかった。

「血路を切り開け! なんとしてもアラシアに還るのだ!」

 イムプルーツァは眼前のマーラニアの騎士に大剣をぶつけながら近くの味方を叱咤する。

「イムプルーツァ、お前にばかりいい恰好はさせぬぞ!」

 ダライアスは迫るマーラニア軍の騎士や将兵を槍で薙ぎ払い、あるいはアジ・ダハーカの馬脚で蹴散らせながら突き進んだ。ヤースミーンも軽い身のこなしを見せて乱戦の中を駆け抜けた。


「おお、獅子が強いか鷲が強いか、力比べだ!」

「こんな時にまで何を張り合っているんですか!」

 パルヴィーンはやや呆れながらイムプルーツァに突っ込んだ。この主従、戦場となるとなにかにつけて手柄を争いお互いに一歩も退かぬが、この緊急時においても張り合うとは、どうであろう。

(獅子王子は己の命に代えても、私たちを還らせてくれようとしているんだ!)

 イムプルーツァは気付いていないようだが、なぜダライアスが戦いの中に身を投じるのかを察し、パルヴィーンは胸が痛んだ。下々のために命を懸ける王子など、前代未聞ではないか。

 ともあれ、最初意表を突かれたアラシア軍であったが、獅子と鷲の勇戦の甲斐あって徐々にでも押し返すようになった。

「小癪なアラシアの蛮族めッ!」

 すこし離れた軍勢の後方で戦いの様子を見ていたヴラデは忌々しく舌打ちする。

「やはりこれしきのことでひるまぬか」

 その強さ、やはりアラシア軍、というよりも獅子王子の軍勢であった。だがこれも想定内のことであった。

 ヴラデは近習に「火矢を放て!」と言えば、天に向かって火矢が放たれた。

「火矢、なにかあるぞ!」

 それを見逃すダライアスではなかった。そして案の定、と言うべきか、北から鬨の声があがった。

「挟み撃ちか!」

 イムプルーツァは忌々しくつぶやいた。

 北からマーラニアの別働隊ともいうべき軍勢が迫り。ヴラデの本隊とでアラシア軍を挟み撃ちにする。火矢はその合図だった。マーラニア軍は数の有利を生かして、あらかじめ軍を二手にわけていたのだ。

「奴らは引き受けた! イムプルーツァどのは獅子王子を!」

「おう、まかせた!」

 武将がひとり機転を利かせて反転し、手勢を引き連れて後方から迫る別働隊向かって駆け出した。

「突破せよ! なんとしても獅子王子をお守りせよ!」

 イムプルーツァらはひと塊になって敵兵を打ち倒し血路をひらこうとする。だがそれに甘えるダライアスではない。血路をひらこうとする騎士らを追い越し、自らを先頭に立って敵を薙ぎ倒してゆくではないか。

「我こそは獅子王子ダライアス! 我が首獲って手柄にする勇士はいないのか!」

「言ってくれるではないか。討て、獅子王子を討て!」

 ダライアスのもとにマーラニア軍の騎士や将兵が群がる。それを何ら臆することなく、槍でひたすらに薙ぎ倒してゆく。

 戦いは凄惨さを増し、ダライアスもイムプルーツァも顔は返り血で真っ赤になっていた。

 その様を遠くから見据える十二の目。

「さすがは獅子王子である」


 ひとりぽそりとつぶやいた。

 これなんは、あの六人。ロンフェイと合わせて「一龍六虎イーロンリゥフー」と呼ばれた暗殺者たちだった。

「ゆくか」

「いや、どれほどの戦いぶりか、まだ見ていたい」

「あなたも好きね」

 そんなたわいもない会話をしながら、マーラニア軍の軍装で身を装い、アラシア軍の兵士を討ち殺してゆく。

 そうしているうちに北から迫った別働隊がアラシア軍とぶつかった。

「奴らをダノウに沈めて、魚の餌にしてやれ!」

 北から迫った別働隊は大きな盾を持っており、これで刃を防ぎながら力任せに敵軍兵士を押しに押し。その言葉の通り、アラシア軍を河に沈めようとする。

 別働隊を引き受けたアラシアの武将らも押し返そうとするが、刃ことごとく大盾に弾かれ。また波のように押し寄せるのをいかんともしがたく、馬すら倒されてその勢いのまま踏みしだかれてしまう。どうにか倒れずに踏ん張ったところで、大河へ大河へと押される一方で。

 ついには、端の数名が大河へと突き落とされてしまったのを皮切りに、大勢が大河へと押し込まれ、突き落とされていった。

「うおおッ!」

 別働隊を引き受けた武将も、馬もろとも大河へ押し込まれてそのまま倒され、水しぶきを上げて突き落とされてしまった。

「おのれ!」

 濡れ鼠になりながらも半身を起こした途端、「がッ!」という断末魔の叫び。眉間に矢が突き刺さって。再び水しぶきを上げて倒れて、起き上がることはなかった。

 大盾の後ろに 弩弓隊どきゅうたいが控え、大河目がけて多くの矢を放った。狙いなど定めずとも、手足をばたつかせて身動きままならぬアラシアの将兵らは格好の標的となり、次から次へと針鼠のような無残さで大河の中に身を沈めてゆく。

 この、ダノウの大河へと追い込むことに割り切られた大盾の波状攻勢は思いのほか効果を発揮し、アラシア軍の後方は大混乱に陥った。

 後方にて従軍の文官や神官とともにいたヤースミーンはどうにか大河に突き落とされてはいないが、護衛の少数の兵士とともにこの盾の波から逃げ惑う。

「女だ! 女がいるぞ!」

 その叫びがヤースミーンの耳に飛び込み、得体の知れぬ不快感と恐怖が駆け巡る。盾と盾の隙間からの血走った目がヤースミーンをとらえていた。

「おのれヤースミーンどのには指一本触れさせぬ!」

 護衛の兵士はヤースミーンをかばってその周囲に立つ。彼女が獅子王子のお気に入りの侍女であることは知っているが、それ以上に、相手の身分にこだわらず誰であれ分け隔てなく優しく接する彼女を慕う兵士は多かった。


 それをよそに、このような乱戦が繰り広げられているというのに、小舟が一艘、河畔に着いた。小舟には人がひとりで、やや灰色がかったマントフードを羽織って、頭をフードで覆って顔を隠していた。

 それが、河畔に着くや足取りも軽やかに、まるで風に乗るように、戦場目がけて駆け出すではないか。

 しかしそれは存在感がないのか、誰も気づく様子はなかったが。その者の目は、雷光閃き雷鳴轟く曇り空を見上げた。曇り空は雷鳴を掻き消すかのごとき戦場を煽るように見下ろし。閃く雷光の中に、見えざる目が見えるようであった。

「ヤースミーン!」

 思わずダライアスは振り返って叫んでしまった。別働隊はアラシア軍の後方を混乱に陥れ、そこにいるはずのヤースミーンの安否が気遣われた。

 パルヴィーンは武芸に優れ主とともに戦場を駆け巡れるが、ヤースミーンはそれができず、常に後方にあってダライアスの戦勝を祈ることをもっぱらとしていた。

「ヤースミーンのことは私に任せて、獅子王子はお逃げください!」

 ダライアスの焦りを感じたパルヴィーンは馬を反転させ、混乱する後方へと駆けていった。それと同時にイムプルーツァがいつの間にかダライアスの前におり、

「獅子王子の凱旋をお前たちの血で彩ってくれよう!」

 と大喝し、迫り来るマーラニア軍将兵を蹴散らしてゆく。他の者たちも同じように、いかに己が負傷してもひるまず、ひたすらに相手につかみかかっていった。

 アラシア軍は勇戦するも、相手は数に勝るうえにうまい具合に策に乗せられ、これまでに経験したことがないような苦戦を強いられていた。

 ダライアスの目の前で、戦いをともにしてきた騎士や将兵たちが、ひとり、またひとりと倒れてゆく。

「みんな……」

 大王から疎まれていた自分に忠誠を尽くしてくれた、大切な戦友たちであった。それを、このような異郷の地で果てさせてしまうとは。

「お前たちだけ死なせるようなことはしない。オレもともに死のう!」

 マーラニア軍の攻勢とどまることを知らず、アラシア軍を包囲し、殲滅させようとする。

 ヴラデは馬上で高笑いである。

「いいぞ、いいぞ。獅子の首を我が槍で串刺しにしてくれようぞ」

 戦いは優勢なり。得意になったヴラデは歓喜し、雷鳴とともに、あらん限りの声で笑った。

 遠くに槍を振るう豪奢な甲冑姿が見え、周囲はそれをかばって戦い。その者がダライアスであることはすぐにわかった。

 包囲を突破しようとするも、ままならず。周囲の者は倒れてゆくばかり。

 ヴラデは勝利を確信した。

 アラシア軍後方は特にひどく、もはや軍隊の体をなさず。ヤースミーンらはひたすらに逃げ惑っていた。そこに、パルヴィーンが駆けつける。

「ヤースミーン、助太刀に来たわ!」

 馬蹄の音で誰か来ていると振り向いた大盾らは、盾と盾の間から長槍を突き出した。


「ええい!」

 馬の速度を緩め、咄嗟に跳躍すれば。長槍と盾を飛び越え、着地と同時にその背中に斬りつける。

 これが功を奏し、大盾らはひるみと隙を見せた。

「パルヴィーンどのにつづけ!」

 護衛の兵士たちも必死の思いで大盾向かって刃を振るう。

「逃げるのよヤースミーン!」

 返り血を浴びた顔で叫び、西を指さす。東と北はマーラニア軍、南はダノウの大河となれば、西に逃げるしかない。 

「ああッ!」

 逃げろと叫ぶパルヴィーンに向けられていくつもの大盾が放たれれば。まるで押し倒されるように、その華奢な身体にいくつもの大盾が覆いかぶさり、身動きもままならない。

「パルヴィーン!」

 僚友の危機にヤースミーンはひどく動揺し、身体がこわばり手綱も満足に握れない有様。その隙に大盾らは態勢を立て直し包囲する。

「ああ……」

 思わず遠くに見えるダライアスに目をやる。

(もはやこれまで……)

 ヤースミーンは覚悟を決めて、ふところから短剣を取り出し。切っ先を喉に向けた。

「獅子王子と巡り会えて、私は幸せ者でした」

 との、最後の言葉をつぶやこうとしたときである。

「な、なんだお前は!」

 大盾らから驚愕の声が上がった。なにごとだと見てみれば、灰色がかったマントフードを羽織った何者かが、いつに間にかいて。

 見事な体さばきを見せて、掌で、脚で大盾らを薙ぎ倒してゆく。

「誰!?」

 これには盾に押し倒されたパルヴィーンも驚いた。しかしそこは戦場慣れした彼女だった、すぐさま大盾を払いのけ、立ち上がるとひとつ拾いパルヴィーンのもとまで駆け。護衛の兵士らは勢いを盛り返し、突然現れた者に倒された大盾の兵士にとどめを刺す。

 そのマントフードの者は河畔の小舟を指さし。ヤースミーンの馬に飛び乗ったパルヴィーンはうなずき、手綱を奪って小舟まで駆けさせ。その間迫る矢を大盾で防いで、河畔の小舟にたどり着いて。

 強引にヤースミーンを馬から降ろして、小舟に乗せ。櫂で河底を突いて流れに乗せた。

「やった、でかしたパルヴィーンどの!」

「これで心置きなく戦い抜けるというもの!」

 護衛の兵士や従軍の文官や神官は歓声をあげ、大口開けて大盾に立ち向かった。彼らは最後まで戦おうというのだ。


「……」

 このどさくさに紛れて逃げようと思えば逃げられるものを、最後まで戦い抜くことを選ぶとは。マントフードの者は感慨深げに彼らを見つめた。

「みなさん!」

 ヤースミーンは彼らに向かって叫んだ。みんな、恐れなどなく必死だった。

 目から、とめどもなく涙が流れ出て。とてもではないが、目を開けていられなかった。

 護衛の兵士はもちろん、武器を持ちなれぬ文官、神官らでさえ、

「獅子王子万歳!」

 と、まさに血を吐きながら叫んで。戦い抜き、死んでいった。その顔は、戦い抜いた充実感にあふれるという以上に必死の形相をとどめ、狩られてもなお死んでいることに気付かぬような狼を思わせるものがあった。

 その死に顔が示すように、大盾の別働隊も打撃を受け、攻勢が弱まったのを否めなかった。

「ヤースミーン!」

 ダライアスの目に、小舟に揺られるヤースミーンの姿が見えた。

「おお、でかしたパルヴィーン。オレも負けれはいられぬぞ!」

 イムプルーツァも小舟を目にし、歓喜をおさえられなかった。

 小舟は大河の真ん中あたりまで流れ、パルヴィーンは戦場を見据えていた。ヤースミーンは、目を閉じ。閉じられた目から滂沱の涙が流れていた。

(なぜ人は争うの?)

 ダライアスの無事を祈りながら、そんな疑問が、悲しみとともに胸中を駆け巡った。

「……そろそろ、やるか」

 ダライアスは死を決意したようだが、なかなかにしぶとく。いい加減六人もしびれを切らし。

 アラシア軍の兵士を討ちながらダライアスに迫る。

 いかにダライアスが剛の者であろうと、六人同時に攻められてはひとたまりもあるまい。

 だが。――

我尋到了ウォシンダオラ!」

 との鋭い声が響いた。それはマオの言葉で「見つけた!」との叫びであった。

「何ッ!」

 六人は足を止め、驚き、声の方を向いた。そこには、灰色がかったマントフードの者がいた。フードで顔を覆ってはいるが、その者が誰かはすぐにわかった。

 袖から細い手がのぞき、フードから顔を出せば、案の定であった。

「ロンフェイ……。貴様!」

 この乱戦の中を、刃を交える兵士らの間を、まるで風に乗り、舞うように避けながら六人に迫る。


 ところかわって、ロヒニ。

 コヴァクスはにわかながらも王として、イヴァンシムらの助言を得ながら、守りを固め生産力を上げてゆく政策のために懸命に働いていた。

 ただ、ニコレットはそんな兄を見て、気になることがあった。

「ここしばらく、ロンフェイの姿が見えないけど……。どこに行ったのかしら」

 いつの間にか、ロンフェイの姿が見えなくなっていた。もともと気まぐれな性格をしているので、どこかへふらりと旅に出たのかもしれない。それだけならいいのだが、

「はあ……」

 コヴァクスは、ふと、大きなため息をつき、

「ロンフェイは、どこに行ったんだろう」

 と、とてもとても寂しそうに言うのである。

(やっぱりあのとき、ふたりは……)

 考えたくはないが、コヴァクスがロンフェイに心奪われ、恋い焦がれているのは、どう見ても間違いなかった。

 それはイヴァンシムらも気づいているようで、

「時々、魂が抜けたようになるが……。あんまりひどいようなら、沖のシャチに食わせてやろうか。特に獰猛なのが八匹いるんだ、そいつらに」

 などと、ダラガナは冗談半分で言うのであった。


 ヴラデの軍配は巧みなもので、マーラニア軍はよく動きダライアスを包囲しようとしていた。しかし大河へ押し込む大盾隊が、最後の力を振り絞って戦ったアラシア軍後方により壊滅的な打撃を受け、包囲殲滅が難しくなった。が、それでも有利な戦況に変わりはなかった。

「ええい、ダライアスひとりなら包囲できるだろう!」

 ダライアスを相手に、マーラニア軍の騎士や将兵は一騎で向かわず複数で討とうと襲い掛かる。それを、「させるか!」とアラシアの騎士や将兵が身を挺して防ぐのであった。

「獅子王子、お逃げを!」

「ここは我らが命に代えても防ぎます!」

「どうか、我らに代わって、アラシアにお帰りください!」

 無傷な者などほとんどいなかった。酷い者になると、全身傷だらけで手も満足に動かず、脚も引きずる有様であった。にもかかわらず、全身に力をこめ、マーラニア軍騎士や将兵の前に立ちふさがり。

 さながら人間の盾のように、ダライアスをかばうのであった。

「お前たちを残しておめおめと生きることはせぬ、ここで一緒に死のう!」

 小舟のヤースミーンにすこしばかり目くばせして、ダライアスは吠えた。しかし、アラシアの騎士や将兵は、ひたすらに、必死に、

「どうかお逃げを!」

 と叫ぶのみ。

 それを聞き、イムプルーツァは舌打ちし黒ぶち模様の愛馬をアジ・ダハーカに並べると大剣を捨て、強引に手綱を取るのであった。


「なにをする!」

「獅子王子のお命は、獅子王子のもののみにあらず!」

「いやだ、オレもここで皆と一緒に死ぬのだ!」

「馬鹿め、まだわからぬか!」

「なんだと!」

 ダライアスに厳しい言葉をぶつける鷲の勇士は、その目をしっかと見据える。

「なぜこの者たちが命を投げ出すのか、その心情を汲み取るのも王者のつとめであるぞ!」

「イムプルーツァどの、獅子王子をお頼みしますぞ!」

 とめどもなく、四方八方から迫りくるマーラニア軍だったが、アラシア軍の方でも同じように命をもってダライアスをかばう者も、とめどもなかった。

「どうか、どうか、お逃げくだされ獅子王子!」

 まだ十五ほどであろうか。若い兵士がマーラニアの兵士にしがみつきながら、血と涙で顔を汚しながら必死に叫んでいた。

 ダライアスは瞬時に助けにゆこうとしそうになったが、それより先にイムプルーツァは足でアジ・ダハーカの尻を叩き、駆けさせた。

 それを見て、その若い兵士はさらに必死になって、最後の命を燃え尽きさせ。これもまた、狩られた狼のごとく死んでいることに気付かぬかのような、必死の形相をとどめていた。

「主君のために兵士が次々と死んでゆくのか」

 ヴラデは忌々しく吐き捨てた。これではアラシア軍を壊滅させても、ダライアスは取り逃がしてしまうかもしれなかった。それでは意味がない。

 ダライアスは臣下の導きにより、まるで無人の野をゆくがごときである。

「ええい、討て! なんとしても獅子王子を討て!」

 ヴラデは叫んで、将兵らを叱咤する。その顔はこれでもかと言うくらいに、真っ赤であった。

 それとは別に、ダライアスを討とうとしていた六人は、あらぬ邪魔者のためにそれどころではなかった。

「な、なんだ!」

 この乱戦のまっただなかに、突然の戦いがはじまり。近くにいた者は驚き、思わず戦いの手を休めてしまった。

 六人は皆剣を持っていた。マーラニア軍に紛れ込む際、兵士を殺してその軍装を奪ったのだ。

 対してロンフェイは無手。何も持たず、六人を見据えている。

「あくまでも我らにたてつく気か」

「あくまでも業を重ねるというのなら、仕方がないわ」

 六人は目くばせし、素早い動きでロンフェイを囲み、一斉に剣を閃かせて襲い掛かった。誰しも、六つの剣でロンフェイが串刺しか滅多斬りにされると思った。しかし次の瞬間だった。


 ロンフェイはマントフードを脱ぐや、まるで帯でも振るうようにマントフードを振るい。身をひるがえしながら襲い来る六つの剣をマントフードに当てれば、それはまるで剣で剣を弾くように、剣先の方向をずらし。突進を止めた。

 それだけではない、ひとりの剣にマントフードが絡みつき。その手からもぎ取り、そのままロンフェイのもとまで戻れば、マントフードを捨てるのと同時に、柄はその白い手に握られ。

 ひと振り、ふた振りし、右手を横にまっすぐ伸ばし。同じく剣を真横にまっすぐに横たえ。

 その華麗な動き、まるで舞を舞うようであり。剣を手にする白い衣の少女はまるで、乱戦の中に降り立った戦女神を思わせるのであった。

「小癪な!」

 ひとり無手になったとはいえ、六対一である。五振りの剣と突き出された拳がふたたびロンフェイに襲い掛かる。

「まだやるというの」

 少しさびしそうにつぶやき。黒い瞳は鋭く光り、四方八方から襲い掛かる剣と拳に、脚を、剣で弾き返しながら、見事な体さばきでかわす。六人の動きは目にも止まらぬほどの早さであったが、ロンフェイのそれは完全に六人を上回っていた。

 それだけではない、五振りの剣をかわしざまに、相手の手首を素早く握りしめ。

「げえ!」

 やられた方は驚き力を緩めてしまい、その隙に剣を奪い取られてしまった。

 これにてロンフェイはもろ手でふた振りの剣を操ることになり、素早く後ろに跳躍し六人と距離をとり、地を踏みしめ、ふた振りの剣を十字に交差させて威嚇の構えを取った。

「すごい、あの人、なんなの……」

 小舟から戦場を眺めるパルヴィーンとヤースミーンにも、ロンフェイの姿がみとめられて。その戦いぶりに唖然とする。

「アナーヒターが守ってくださったのでしょうか」

 ヤースミーンはぽそりとつぶやいた。アナーヒターとは「水を持つ者、湿潤にして力強き者」と呼ばれ、水や川の女神といにしえよりアラシアで信仰されている女神である。

 どういう風にやってきたのかわからぬが、この大河のほとりで、危機をすくってくれ、そのおかげで小舟に乗れた。アラシア人として、彼女が自然とアナーヒターの化身であると思われるのであった。

 このことはダライアスとイムプルーツァ、さらにヴラデの目にも止まることとなった。

「な、なんじゃあやつは!」

 マーラニア軍の兵士を相手取り、たったひとりで渡り合っている。ヴラデはまさに目玉が飛び出すほどに驚かされたものだった。

 周囲の者らも、驚いて戦いの手を休める有様。それは徐々に戦場に広がってゆき、それはダライアスらに襲い掛かる敵兵が減ることを意味していた。

「止まるな! アジ・ダハーカを走らせよ!」

 イムプルーツァは叱咤し、ダライアスも意を決して駆け出した。


獅子はゆき、また獅子はきたる 


「おのれ、ロンフェイ……!」

 六人はみたび襲い掛かった。ロンフェイは何も言わず、鋭いまなざしでふた振りの剣を握りしめ。四振りの剣と拳や脚の波状の攻めをかわす。

「おお!」

 ひとり、雄叫びを上げてロンフェイに突っ込んでゆく。剣を取られたひとりだ。

 ロンフェイの剣は、その者の胸を貫いた。しかし、苦痛どころかしてやったりの得意な顔をし、ロンフェイの手首をつかんだ。

「でかした三虎サーフー!」

 五人はとどめと五方から襲い掛かった。捕まったロンフェイは動けない。今度こそやられた、誰しもがそう思った。

 だがあにはからんや、ロンフェイはもう片方の剣を捨てるや両手で三虎の手首を掴んで。さきほどのフードマントのように、振るうではないか。

「なんだと!」

 思わず驚きの声を発した三虎だったが、味方の剣に斬られ、あるいは拳で突かれ、たまらず血を吐き出すと同時に力が緩みロンフェイの手首を放してしまった。 

「くそ!」

 五人は咄嗟に距離をとり。自由の身となったロンフェイは三虎を脚で蹴って突き飛ばしざまに跳躍し、着地し両手をぶら下げて六人を見据える。

 背中から落ちた三虎は、落ちたままぴくりとも動かなかった。どうやら死んでしまったようだ。

「な、なんという女だ!」

 周囲の兵士たち、特にマーラニア軍の兵士たちは突如現れたロンフェイの強さに舌を巻きながら動きを止めてしまい。アラシア軍の兵士は「はっ」として、この隙に駆け出す。

「おのれ……。退け!」

 整った顔立ちも無になるほどに顔をゆがめ、五人は逃げ出した。

 内情を知らぬ者たちには、何者か知らぬが、ダライアスをすくうためにアラシアに味方したと、周囲の者はロンフェイをそう見た。

 そのため、にわかにマーラニア軍の兵士は恐怖を抱いた。六人を相手に一歩も引かず、それどころかひとりをしとめ、敗走させたのだ。

「うわあ!」

 今度は自分がやられるかもしれない。ふと、そう思った途端に駆け出す者があり。それが周囲に恐怖を広げ、マーラニア軍は内から崩れていった。

 ロンフェイは動かない。じっと、様子を見ている。誰も、ロンフェイに近づこうとしない。

「なにごとだ!」

 せっかくの有利な戦況であったのが、一転し。ヴラデは気分を害し、声を荒げ。飛んでくるように駆けつけた兵士が、何が起こったのかを話せば、

「なんじゃそれは!」

 まるで顔面から血でも噴き出しそうに顔を真っ赤にするヴラデ。だが切れてばかりもいられなかった。

 ダライアスは事の次第はよくわからぬものの、マーラニア軍に崩れが生じたのを察し、心を決めて愛馬アジ・ダハーカに鞭をくれた。

「おのれ、ゆかせるか!」

 ダライアスの疾走にいっそうの力がこもったのはヴラデも見て。愛馬を駆けさせる。

「どうなさるのですか!」

「あの獅子をなんとしても、討つ!」

 ヴラデはいつの間にか槍を握りしめ、臣下や近習が止めるのも聞かずに、ダライアスめがけてまっしぐらに駆けた。

 このことはダライアスはもちろん、イムプルーツァからも見えた。顔こそ知らぬが、精悍な口髭の武将、それも多くの護衛付き、となれば敵大将のヴラデに間違いあるまい。

 イムプルーツァはヴラデの相手をしようとするが、

「あいつはオレがやる!」

 ダライアスはイムプルーツァを制止し、槍を握りなおしてヴラデめがけて駆ける。

「お前が大将か。獅子王子ダライアスである!」

 そう叫べば、間近に迫るヴラデは悪魔のような禍々しい形相を見せる。

「アラシアの蛮族めッ、貴様の首を神にささげてやろうぞ!」

 叫び終わると同時に互いの槍がぶつかり合い、またたく間に十合に達しようとする。

「ええい、やむをえん。逃げたい者は逃げろ! オレは一騎打ちの邪魔が入らぬようにする!」

 部下にそう言って一騎打ちのそばにいようとするイムプルーツァだったが、部下たちも一緒になって周囲を取り囲もうとする。

(馬鹿め、逃げようと思えば逃げられるものを!)

 どこまでも獅子王子アスラーンと運命をともにしたがる連中だ、と自分のことを棚に上げてあきれる。だがあきれてばかりもいられない、周囲に注意を払い、一騎打ちを見守る。

「!!」

 黙って一騎打ちを見守る「双龍の子」らではなかった。遠くで弩弓がかまえられ、ダライアスに狙いを定めている。

 イムプルーツァは気付いたが、遠く間に合いそうもない。

「獅子王子、お気をつけあそばれよ!」

 遠くで弩弓が狙いを定めていることを叫び、注意を促す。ヴラデはにやりと笑う。己の一騎打ちに配下が割って入ることなど、恥ずかしいなどと微塵にも感じる性質ではないようだ。

「うわッ!」

 悲鳴があがった。それは弩弓をかまえる弩弓兵からだった。

 見れば、灰色がかったマントフードの者が弩弓兵を槍で薙ぎ倒しているではないか。


「なんだと!」

 これに驚いたのはヴラデであった。一騎打ちで押され気味だったが、弩弓兵がいたので戦えていた。それが一転し動揺をきたす有様。

「隙あり!」

 もともと優勢であったので心に余裕があった。そこに隙を見せられて、仕留めぬ馬鹿がいようか。

 ダライアスの槍はまっすぐにヴラデの喉を突き刺し、穂先はうなじをも貫いて。その口から、とめどもなく血が吐き出される。

「あ、あ、あ……」

 喉を突き刺された苦痛で言葉が出ない。槍が抜かれて、それに続いて身体から力が抜け、槍を落としてしまい。さらに槍に続いて己自身が落ちてしまった。

「あ、あ、アル……、カード……」

 地に背中をつけ、天に向かって腕を伸ばせば。目の前に現れた愛する弟・アルカードに届きそうであった。しかし、手には何の感触もなく。糸が切れた操り人形のように、腕は倒れて。ぴくりとも動かなかった。

「駆けろ、駆けて駆けて、駆けまくれ!」

 ダライアスの叫びに呼応するように雷光が閃き、雷鳴が轟けば、一気に叩きつけるような豪雨が降りだした。

 小舟のパルヴィーンは機転を利かせて盾を傘のように掲げて自分とともにヤースミーンを雨からかばう。

 マーラニア軍といえば総崩れであった。勝てるはずの戦いで、あろうことか総大将ヴラデが討たれ、敗れてしまった。これに狼狽せぬ者はいなかった。

 そのおかげで、どうにか命のあるアラシアの将兵らはひたすら駆けることができた。

 そのどさくさに紛れて、マントフードの者ことロンフェイは、遠くにかすむダライアスの背中を見送る。

「士は己を知る者のために死す」

 いにしえより伝わる言葉を思い出して、ぽそりとつぶやく。命すら惜しくない人、それは獅子王子。アラシア軍の将兵の戦いぶりを見て、おおいに感じ入るところがあった。 

 ちらりと小舟に目をやる。小舟はダノウの大河の流れに乗っている。

「さあ、私も帰りましょう」

 そう言うと、小走りに駆けだして、戦場から姿を消し。

 ヴラデの屍は、雨に打たれるがままであった。

 

 ヴラデ、獅子王子に敗れる!

 その報せは四方を駆け巡った。

 妻のエリジェーベトの嘆きはいかばかりであったか。

「お前は、悲しみに暮れる私に追い打ちをかけるのか!」

「お、お許しください!」

「私の心をもてあそぶ罪、命をもってつぐなえ!」

 些細な粗相にすら血相を変えて、激しく、死ぬまで召使いを鞭打ち。夫の訃報を聞いて、葬儀をすませてから、もう五人の召使いが死んだ。

 これを国王のカラレ三世は、

「エリジェーベトの悲しみを思えば、もっともである」

 と、止めようともしない。それが、何を意味するのか。

 さらに、旧をつけるべきかどうかのあやふやなことになったオンガルリにおいても、バゾリーら心の腐った王侯貴族たちは、

「忌々しいアラシアの蛮族めッ!」 

 と、拳を握りしめ、歯軋りしながら、これからどうするかの策謀を練り。練りながら、憂さ晴らしのために無用の宴をひらくことが多くなった。

 ロヒニにおけるコヴァクスらも無論このことを知る。

「さすが獅子王子だ」

 ただただ、その強さに感服し。いまさらながら、それと渡り合いながら命があることを神に感謝するのであった。

 しばらくしてロンフェイも帰ってきて、コヴァクスはほっと胸をなでおろしたのは言うまでもない。

 ともあれ、獅子王子は多大な犠牲を払いながらも、ヴラデを倒した。しかしそれからのことは、まだ何の情報もなかったが。大きな動きがあったのは間違いがなく。

 それに乗じる者がいた。

 旧ヴーゴスネア南方にて蜂起し、ソケドキアを独立させたフェレッポスとその子、シァンドロスであった。

 ソケドキアは王都とさだめるユコピレにて、それまでアラシア人が支配のための支城としていた城をぶんどって王城とし、フェレッポスはこれからを考えていた。

 旧ヴーゴスネア南方で蜂起し、ソケドキアを独立させたフェレッポスは、いまや「英雄」であり。得意の絶頂にいた。

 その子であるシァンドロスといえば、フェレッポスとともにユコピレの王城にいるのかと思いきや……。突如としてロヒニに現れて、コヴァクスらを大変驚かせた。

 それはある日の朝だった。

 十人ほどの集団がロヒニに入り、丸い屋根の議事堂と改まった庁舎にやってきた。

「小龍公にお会いしたい!」

 ひとり、若い男が門番にそう言うと。門番はその顔を見て、呆気にとられた。

(なんと、小龍公女と同じ、色違いの目をしておる)

 その男は左は碧く、右は栗色の目をしていた虹彩異色症ヘテロクロミアだった。

「どうした、まさかオレのことを小龍公女だと思っているのではあるまいな」

 内心を察せられた門番は焦って、心を持ち直し来客の素性を確かめる。

「いえそんな。どことで、どなたでござろうか」

「ソケドキアの王子、シァンドロスである。小龍公とお会いしたいのだが、取り次いでくれるかな」


「そ、ソケドキア……!」

 門番の驚きは大きかった。まさか騙りではあるまいか、と思ったが。そのシァンドロスをはじめ、後ろに控える者たちの眼力に圧されて、「少しお待ちを」と言いながら奥へとゆこうとし、それを、

「待て、王からの国書もある。慌てるな」

 と止められ、ふところから取り出した封書を差し出される始末であった。その封書は、獅子のしるしの蝋印でとめられていた。

 門番は眉をしかめながらそれを、じっと見て、次第にわなわなとふるえてくる。

「こ、これは……」

 このロヒニの港町には、人や物資のほか、さまざまな情報が入ってきて。その中には、ソケドキアは獅子のしるしを紋章にしている、というものもあった。

 その実物が、目の前にある。蝋印に刻まれた獅子の紋章から、印璽いんじは精巧なもので、腕のいい職人の手によるものだとひと目でわかり。

 騙りの者が持てる代物ではない、ということもわかり。

「少々お待ちを」

 門番は今度こそ奥にゆき、このことを詰めていた役人に告げ、さらにその役人がコヴァクスに客人の来訪を伝えた。

 このときコヴァクスはイヴァンシムをまじえロヒニの要人と面談をしていたところだった。

「なに、ソケドキアのシァンドロス?」

 寝耳に水の話であり、コヴァクスとて咄嗟に信じがたかった。要人はもちろん、イヴァンシムも驚いているようだった。

「……ともあれ、会ってみましょう」

 無論コヴァクスひとりではない、ニコレットにイヴァンシムも同席してのうえでである。要人には、詫びて面談は後日あらためてとなった。

 外で待たされていたシァンドロスは、役人に「お会いなさるそうです」と導かれて議事堂へと入っていったが。供の者らは、だめだという。

「我らは怪しい者ではないぞ!」

 皆怒りを示すが、シァンドロスは涼しい顔をして、

「お前たちは宿に帰っていろ」

 などと言うので、しぶしぶと宿へと歩いていき。シァンドロスひとり、議事堂の中へ入った。

 腰には剣を帯びている。それを、言われもしないのに役人に預けようと差し出すものだから。かえって役人が驚き、すこし慌てたしぐさで剣を預かった。

 それから、一室に案内され、扉を開ければ。部屋には円卓があり、そこにはすでにコヴァクスとニコレットに、イヴァンシムがいた。

(私と同じだ……)

 ニコレットは自分と同じ虹彩異色症の目を見て、多少の驚きを禁じ得なかった。混血から生じる色違いの瞳は珍しくないが、稀なことではある。

 色白く手背は高く、ややくせがかった栗色の髪に、深い彫りに高い鼻。整った顔立ちで、美丈夫といってもいい。なるほど一国の王子を名乗っても、まず疑われまい。

「どうぞ」

 とイヴァンシムが言おうとする直前に、

「座ってもよいかな?」

 などと、ずけずけと言う。なかなか尊大な男であり、それは余裕のあらわれであった。

「どうぞ」

 気を構えなおしてイヴァンシムはそう言い。シァンドロスは円卓の椅子に座す。

 コヴァクスと正面に向き合い。右手にイヴァンシム、左手にニコレット。

 座すのと同時にシァンドロスは封書を円卓の上に置き、口を開いた。

「同盟を結んでほしい」

 その態度は、結んでほしいというよりも、結んでやろうと言わんがばかりの尊大さであった。

「これは、唐突なことですな」

 その尊大さに、コヴァクスとニコレットはやや圧されているようであり、咄嗟の言葉が出ず、イヴァンシムが代わってとりなす。

 シァンドロスは、じっとコヴァクスを色違いの瞳で見据えていた。その尊大さは、まさに不敵な面構えとなってあらわれていて。

 コヴァクスは目をそらさずに見返すのがやっとのようだった。

(獅子王子ダライアスとは違う種類の人物だ)

 かつて戦場で見た獅子王子アスラーン・ダライアスも王子らしい威厳と風格を持っていた。このシァンドロスは、そこに尊大さが加わっている。

(これは危険な人物だ!)

 イヴァンシムはシァンドロスをそう見た。一方、コヴァクスといえば、

「その同盟の内容を聞こう」

 背筋を伸ばし、シァンドロスの色違いの目を見据えながら、声に張らせる。威圧を感じてやまなかった。といって、ひるむわけにはいかなかった。円卓に置かれた封書にも手を出さない。

「同盟の内容か」

 ふっ、と不敵な笑みを浮かべ。「もっともなことだ」と内容を語り出す。

「それは、その書簡に書いている。読んでみろ」

「なんだと!」 

 コヴァクスは思わず立ち上がって、上段からふてぶてしく座るシァンドロスを見下ろす。 

「まるで君主が臣下に言うような。我ら新オンガルリはソケドキアの属国ではないぞ!」

「そうだ、属国ではない。同じ独立国だ。だからこそだ」

「この同盟はお受けできません!」

 ニコレットも兄につづいて立ち上がり、シァンドロスを見据える。

 イヴァンシムも立ち上がりこそしなかったが、じっとシァンドロスを見据える。

 しかし三人の鋭いまなざしを受けても、シァンドロスは微動だにしない。それどころか、

「怒ったか。いいぞ。ならばこそ、なおのこと、同盟を結びたい」

 などと、ずけずけと言ってのける。


 まだはたちごろの若いこの男のどこから、そのような図太さがあるというのか。

 その様子を見て、イヴァンシムは、はっと閃くものがあった。

「シァンドロスどのは、手勢をつれてきておりますかな?」

「連れてきている」

 コヴァクスとニコレットは固まった。十人ほど供の者がいたと聞いたが。それどころではないというのか。

 ちらりと、シァンドロスは窓を見やって。立ち上がったかと思えば、窓を開けて、ふところから笛を取り出し。口に含んで、高く鳴らした。

 往来を行き交う人々は不思議そうにしていたが、それから、次第に人数が集まってくる。

「これは……!」

 コヴァクスもニコレットも、老練なイヴァンシムでさえも、驚きを禁じ得なかった。

 議事堂前に集まる人々は無手で平服ではあるが、その目つきは誰もが鋭く。玄人の戦闘集団であることは、同じ玄人であるコヴァクスらも察せられた。

「エミス、テオスリオンターリ!」

 その人数は五百ほどであろうか。それが一斉に叫んだ。

「我ら、神獅子軍テオスリオンターリ……。これが噂に聞く王子の直属の手勢でございますか」

「左様。いずれも百戦錬磨のつわものぞろいだ」

 勝ち誇るようにシァンドロスは窓を背にし、不敵な笑みでコヴァクスらを見据える。

 いつの間に忍び込んだものか。万が一にそなえて、警備は厳重にしている。それをあざむくとは。

「一切の武器を持たず、旅人に扮してロヒニに入ったのか」

「そうだ、我ら神獅子軍テオスリオンターリ、武器がなくとも戦える」

 コヴァクスは「やられた!」と衝撃を受けながら、シァンドロスを睨み据える。

 窓を背にするシァンドロスは陽光も受け、さながら後光を発しているようだ。

「どうする、望むなら一戦まじえてもよい」

 なんとも挑発的な言いぐさである。もし実際に一戦をまじえても、負ければ無論のこと、勝っても損害は大きくなるだろう。そうなれば、せっかく独立をした国が一気に弱体化し、アラシア、それどころかオンガルリのよからぬ勢力につけこまれるかもしれなかった。

「お前たち何をしている!」

 警備に街をまわっていたバリルとダラガナが手勢を率いて議事堂前の神獅子軍と対峙し。人々はこの緊急時に恐慌をきたし。ロヒニの空気は喉がひりひりするような緊張感に包まれた。

「その書簡を読め」

「なに」

「読めと言っている」

 コヴァクスは拳を握りしめ、動かない。ニコレットも口をつぐんでいる。

「読むのです」

「しかし」

「ここは、一時の恥を忍び、読んだ方がよいでしょう」

 イヴァンシムはコヴァクスをなだめ、円卓の封書を取り、丁寧に封を開け。中の書簡を取り出す。

 やむなく書簡を受け取り、読んでみれば。新オンガルリと同盟を希望する旨が書かれ。さらに……。

「同盟をせねば、リジェカの王族を……」

「そうだ。リジェカの王族は我らソケドキアが保護している」

「お兄さま……」

 今にも書簡を握り潰しそうなコヴァクスだった。ニコレットは気が気でない。

「同盟を受けねば、リジェカの王族を、帰さないだと。これは脅迫ではないか」

「そう受け取ったか。まあ、受け取り方は自由だ」

 ニコレットもイヴァンシムも絶句する。行方の知れなかったリジェカの王族がソケドキアにいようとは。

「リジェカの王族はその昔、ソケドキア地域に流され、土着を余儀なくされた。それを父が蜂起の際に手中におさめた」

「それで、オレたちに取引を持ちかけたわけか」

「取り引きとは人聞きの悪いことだ」

「目当ては、このロヒニか」

「ほう」

 実直だが単純そうなコヴァクスが、ソケドキアの目的を察して、シァンドロスは少し感心する。

「おそらく悪い方に考えるだろうが、我らもこのロヒニを必要としている」

「我らがロヒニを治めるのは、我欲のためでは……」

「大義のためだろう。小龍公には感謝している。もし革命なくば、こうしてロヒニに足を踏み入れることもなかったからな」

 外の喧噪がいちだんと騒がしくなった。神獅子軍が威嚇の雄叫びをあげているのだ。

「待て、挑発に乗るな」

 警備兵たちは突然集まった神獅子軍がなんなのか知らないまま、対峙していた。

 相手の殺気を感じ、バリルとダラガナは相手がただの暴徒ではないどころか、戦争を知る玄人の軍人や兵士であることを察していた。


 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 エミス、テオスリオンターリ! (我ら、神獅子軍!)

 我らのゆくところ、いかなる強敵ごうてきも、

 風に揺れる草花のごとし!


 突然の唱和がはじまり、聞く者の度胆を抜いた。

「困ったものだ。彼らは敵を求めてやまぬ」

 その言いぐさは、武力の行使も辞さぬことをしめしていた。

 新オンガルリは独立まもなく勢力としては小さい。もし武力がぶつかり合えば損害は大きい。

(どうすればいいんだ……)

 コヴァクスは迷った。あまりに屈辱的であった。しかし、ここで自分に負けて、切れてしまっては、元も子もなかった。


(父上、オレはどうすればよいのですか)

 この時ほど、王位の重さを感じたことはない。

 それと同時に、やはり自分は王位につくよりも、一平卒として戦場を駆け巡る方が似合っている凡庸な人間なのだと痛感する。

 イヴァンシムは様子を黙って見ている。試練に見舞われたコヴァクスがどう出るのか、見守るつもりだった。また、余計なことを言う必要はない、とも思っていた。

「……。ソケドキアの要求を、呑もう」

「それでよい。我らが望むのは同盟。敵ではない」

 シァンドロスはつかつかとコヴァクスのもとまで歩み寄り、右手を差し出す。それを、じっと一瞬見据えて。

 コヴァクスも右手を差し出して、握り返し。互いの目をじっと見据える。

 涼やかながらも不敵な色違いの瞳に対し、実直そのもののまっすぐな瞳。視線が交わり火花が散るようであった。

 やがて手が離れ、シァンドロスは三人を交互に見据える。

「それでは、書簡に書かれている通り、ともに革命のために戦おうぞ」

「え、革命?」

「同盟を結び、革命のために共戦し、新オンガルリとソケドキアを隣接させるのだ。それと同時に、リジェカの王族が王位に就き、リジェカの復興がなる」

「そこまで……」

 ニコレットは唖然とする。書簡にはそこまで書かれていたとは。ということは、結局兵力を出さねばならず、消耗せねばならないのか。

「案ずるな。兵力は我ら神獅子軍のみ。新オンガルリには守りに徹してもらう」

「なんですと」

 イヴァンシムもさすがに不審なものを覚える。ニコレットと同じく、兵力と消耗は避けられないのか、と思っていた。

「戦いにゆくのは、新オンガルリからは、オレひとり。オレとシァンドロスの手勢で、革命を起こす」

「そんな、無謀な」

 ニコレットはもちろん、イヴァンシムも驚きを禁じ得ない。それをよそに、シァンドロスはコヴァクスが自分をさっそく呼び捨てにしたことに気付いた。同盟である以上、立場は対等、ならそうしてもよいではないかとコヴァクスは考えて、シァンドロスを呼び捨てにしたのだろう。

(なかなかいいやつだ)

 少し、シァンドロスはコヴァクスに感心する。

(オレはもっと強くなる。そうなれば、媚びる奴らが出てくるだろうが、そんなのは邪魔なだけだ。敵になろうと味方になろうと、勇者と呼べる者と交わりたいものだ)

 シァンドロスは常々そう考えていた。コヴァクスはその考えに当てはまる勇者であろうと思った。

「大事なことは、あとであらためて話し合おう。まず、神獅子軍を退かせろ」

「こころえた」

 シァンドロスは不敵な笑みを浮かべて、外に出れば。

「我らが獅子王子リオンターリ!」

 と、神獅子軍はどよめく。

「話し合いは、合意にいたった。諸君らの仕事も決まった。今は、ゆっくりと休むがいい」

 わあ、と歓声があがると、集まっていた神獅子軍はたちまちのうちにばらけてゆく。

 素早くバリルとダラガナのもとに来ていたイヴァンシムは事の次第を話し、決して神獅子軍を挑発しないよう告げる。

「なんとも屈辱的な同盟ですな。イヴァンシムどのがついていながら」

「やむをえぬことだ。私とて、神ではない」

 ともに吐き捨てるように言い。ダラガナも黙っているが同意のようだ。

 喉のひりひりするような緊張感は、徐々にほぐれて。コヴァクスやニコレットは何事もない旨をロヒニの人々に告げた。

 人々は不審はぬぐえないが、王がそう言うならと、非日常的から日常に戻った。

「我らは警備を続けましょう」

 バリルとダラガナはそう申し出て、警備の見回りを続けた。これからどうなるのかわからないが、緊張感はたもちつづけねばならぬであろうから、警備を申し出たのだった。 

「頼む。守りはまかせた」

 イヴァンシムはそう言うのが精一杯であった。

 それから議事堂に戻った。

 コヴァクスらは神獅子軍の戦意の高さ、シァンドロスへの忠誠に、驚くとともに。気になることがあった。

 神獅子軍テオスリオンターリ獅子王子リオンターリと、その言葉はグレースの言葉であった。

「まさか、グレース人なのか」

「そうだ。我が一族はグレースの出だ。グレース人として、グレースを統べるのが、我らの悲願だ」

「なんと」

 さまざまな人種や民族がゆききする大陸の文明交差点である。流浪のグレース人が、志を抱き国を建てても不思議はなかった。

 不思議はなかったが、それは……。

「侵略だと言いたいのだろう」

「違うと言うのか」

「そうだ、違う。今のグレースは、腐っている!」

 不敵なシァンドロスが、怒気を含んで吐き捨てた。

「誰が仕組んだ退廃やら。民主主義が嗤わせる」

「どういうことだ」

「いずれわかる」

 不敵で雄弁を旨としていながら、無駄話は嫌いなようで。それ以上は語らなかった。

「……」

 議事堂の丸い屋根の上、秋の日差しを受ける一羽の白い鳥が下界を見下ろす、と見えたのはロンフェイであった。

 身軽にも屋根の上にのぼり、羽を休める鳥とともに下界の様子を見つめていた。

「神話の時代から、人は変わらないものね」 

 そう、寂しそうに、ぽそっとつぶやいた。


親征、そして革命ふたたび

 

 翌日、ソケドキアと同盟の旨が、「国中」に伝えられた。ひとつ目の街のラハマディにペロティア、ふたつ目の街のソシエタスには、寝耳に水の話だった。

「持ち場を離れず、任務をまっとうすべし、か。小龍公は、やっはりお人好しのぼっちゃんだなあ」

 ラハマディはやれやれと言いながらつぶやき。ペロティアは「けッ」と、けったくそ悪そうにしている。

「言ってくれりゃあ、そのソケドキアの連中を叩き出してやるのに」

「め、めったなことをお言いでないですぞ」

 伝令の兵士は焦ってラハマディをたしなめた。

「仕方ないね。言われた通りにするしかないね」

 意外にもペロティアは不満たっぷりながらも、従順だった。

 まあそうだなあ、と思わずつぶやくラハマディは、コヴァクスがひとりでソケドキアと行動をともにするのを伝令の書簡で見て、またつぶやく。

「水臭いやつだよ」

 ふたつ目の街のソシエタスも、驚きを隠せない。ロヒニでそんなことがあったなど。

「できればオレもともにゆきたい」

 伝令の書簡を目にし、強くうめいた。しかし、任務をまっとうすべしということで、動くことはできない。

 ロヒニをはじめとする新オンガルリは落ち着いているものの、他では、革命と鎮圧で混乱しており、さらにヴェアクラーデにおいては、ヴラデが少し「ちょっかい」を出してくれたのが拍車をかけ、無政府状態と言ってもいい。

 そのため、各地からの難民が新オンガルリに流れて保護を求める、ということが続いていた。

 その難民らはもちろん保護する。しかし保護するといっても衣食住をかまえてやらねばならず、それは天から降りてくるなどないので、消費を強いられそれのために頭を酷使せざるをえなかった。

「一兵卒として戦争に行った方がまだましだ」

 らしくもなく、そんな愚痴が出てしまう。ドラヴリフトありしときには、頼りになる龍公からの指示に従えばそれでよかった。だがいまは自分が主体になって任された街を治めねばならないのだ。

 ロヒニにいるイヴァンシムらの助言をもらえてはいるが、それでも統治の仕事は難しい。さらに、北への備えも怠れず、とにかく神経を使わされ。ソシエタスといえども、思わず音を上げてしまった。

 それはラハマディも同じだったが、彼の場合は雑草育ちのたくましさというか、商団の者たちと協力し、街に立ち寄った旅の商団と商売をしながらも連携を取り、それによっていくらかでも利益を出し、その利益を「国」の財源として国庫に納めていた。

 これにはイヴァンシムらも感心し、国の財源はロヒニとひとつ目の街でまかなわれていた。

 それに対して、真面目一辺倒のソシエタスは金銭のやりとりにうとい。「あなたはあなたのままでよいのです」とイヴァンシムは言ってくれたが、慣れぬ仕事に苦戦することへのうしろめたさは、どうしてもぬぐえなかった。

 とはいえ、そこはやはり騎士であった。緊急時であることをさとり、気を引き締め、動揺する各部署をまわって、今まで通り仕事に励むよう激励し、気持ちも落ち着けた。

「それにしても、シァンドロス王子はなんと大胆な」

 統治の仕事をこなしながら、シァンドロスのことが気になり、コヴァクスのことを憂うのであった。


 ロヒニにおいてはすでに出征の準備は整えられ、いつでも出られるようになっていた。無手で来ていた兵士たちだったが、軍備はロヒニで買いそろえられており。神獅子軍テオスリオンターリの兵士は号令通り郊外に結集していた。

 このにわかな売り上げに、ロヒニの商人たちはほくほく顔だった。

 ただそうでない、一般の市民たちの心情は複雑なものだった。

 この出征は、にわかながら国王であるコヴァクスもゆくことで、親征と銘打たれた。

 その親征が決まったいきさつを考えると、とくに実際に神獅子軍を見た者は、その大胆さに度胆を抜かれたこともあって一抹の不安をどうしても覚える。

 ともあれ、この時のロヒニの人々の心情は一言で言い表せるものではなかった。

 地域的に人の行き来が多いどころか、人種民族の行き来も多く国も変わる不安定さがある。そんな中で人々はそれに適応しながら、安定と国を欲してやまぬ者、国という概念を持たず自分が生きることを優先する者に分かれるのはやむを得ないのかもしれない。

 その話はコヴァクスらもイヴァンシムから聞いていたが、実際に目にするとその複雑な事情を改めて思い知るのであった。

「オレは、どうにも平凡な男で、王どころか騎士にも向いているのかどうか、悩みます」

 親征前夜、コヴァクスは自室にイヴァンシムを呼び、悩みを打ち明けた。ダライアスにシァンドロスと、自分を比べて、知らず知らずのうちに自分を卑下するようになってしまったようだった。

 黙って話を聞いていたイヴァンシムは、コヴァクスの悩みようを見て、安易な慰めはかえって傷つけることを覚った。

 小龍公と言えども、こうして見ればふつうの若者であり、これが平時であれば蹴球なり恋なりに夢中になっていたことであろうし。本来ならそうあるべきだった。しかし、時代がそれを許さなかった。

 だが人の本性はいざという時に出る。この時に悩むコヴァクスを、イヴァンシムは好もしく思った。

「それでいいのです」

「いいのですか?」

 いいと言われても、どうにもぴんと来ない。いったい自分のなにがいいのだろうか。 

「この乱世は、人を狂わせます。しかしあなたは狂わなかった。それが、なによりも大事なのです」

「オレは、狂ってないと」

「はい。自分の力量を素直に受け入れる。そういったことは、なかなかできることではないのです。ことに人を狂わせる乱世にあってはなおさらに」

「普通の人ならそれでいいかもしれませんが、国を治める統治者や騎士としは、どうなのでしょう」

「統治者や騎士ならばこそ、その普通が求められるのです。己の弱さを認めるのも、また勇気です。お父上から、そう教えられませんでしたか?」

「ああ……」

 そう言えば、父も、マジャックマジルのじいさんも言っていた。

 勇気とは何か、常に問い続けよ、と。

「わかりました」

 そう言うコヴァクスのまなざしからは、迷いが、すべてではないがなくなっており。イヴァンシムは微笑んだ。

「もうお休みなされ。明日から忙しくなるのでしょう」

「ありがとうございます」

 イヴァンシムはコヴァクスと笑顔を交わして、部屋を出ていった。


 ロヒニは沸いていた。

 ソケドキアとの同盟に国王の親征、そして王族の帰還。

 リジェカ人として、国の復興が成るかどうかの勝負時である。その内情は色々あるので、皆が一色に染まって、ということはないが。とにもかくにも大きな動きが起ころうとして、人々の心も様々に動くのであった。

 郊外には神獅子軍がすでに結集し進軍を待っていたが、それとは別に議事堂に数百名の武装した兵士が集まっており。彼らは口々に、

「小龍公……、国王と一緒に行かせてほしい」

 と懇願するのであった。

 議事堂の大広間で顔を合わせていたコヴァクスとニコレットらにシァンドロスは、外の騒ぎを聞きつけ。

 コヴァクスは困惑しながらも、

「だめだ」

 と言った。

「新オンガルリからゆくのは、オレひとりなのだな」

「そうだ。下手に兵力を動かせば守りが薄くなろう。オレなりの配慮というものだ」

(配慮? お兄さまを人質に取るのでしょう)

 ニコレットの色違いの瞳は不安に濡れているように兄を見つめながら、紅の龍牙旗のおさまる長箱を渡していた。

 この紅の龍牙旗はコヴァクスたちにとって命に等しいものである。親征ならばもちろん持ってゆかねばならぬ。

 同盟、そして革命行動の内容を聞いたときはあまりにも理不尽だと思ったものだった。なにもかもが新オンガルリに不利なのだから。

 ことにコヴァクスひとりシァンドロスらと同行するというものは、実質的な人質以外なにがあろう。それでも親征である、不本意でも、紅の龍牙旗は持ってゆかねばならぬ。

 呑まざるを得なかった。呑まなければ、神獅子軍の兵士らがどのようなことをするのか。万が一のことがあれば、それこそせっかく建てた国が弱体化し、どうなるかわかったものではない。

(ソケドキアも馬鹿ではない、ということか)

 イヴァンシムは考える。ソケドキアの野心が旧ヴーゴスネアをも見据えているが、そのまま征服すればあとあと面倒なことになろう。そこで、革命と独立の支援をしたうえで属国にし、実質的なソケドキアの勢力範囲圏に組み込む魂胆なのであろう。

 大広間にはロヒニの要人も詰めかけて、コヴァクスを見送る。

 クネクトヴァとカトゥカも、心配そうだ。できればついてゆきたいだろうが、それができないのがなんとも歯がゆい。

 バリルとダラガナも、同じだった。

「留守を頼みます」

 コヴァクスはイヴァンシムとバリルにダラガナ、そして要人らに向かい会釈する。

(相変わらず、王様らしくないお人だ)

 要人らはコヴァクスの腰の低さがなんだかおかしそうだ。

「お任せあれ。革命の成就をお祈りいたしますぞ」

 バリルとダラガナはそう強く言い、コヴァクスを激励する。

「では……」

 コヴァクスは意を決し、外に出る。

 兵士たちはその姿を見て一斉に、

「オレたちも!」 

 と叫んだ。だがコヴァクスは毅然と言った。

「お前たちは連れて行けないんだ! だから、留守を頼む!」

「足手まといにならず、懸命に戦いますから、どうか」

「だめだ。聞き分けがない者は、命令違反として罰する!」

 そこまで言われて兵士たちは、しーんと、静かになった。

 シァンドロスはこれを見てもなんとも思わず、あくまでコヴァクスひとりを連れてゆこうとする考えをあらためなかった。

(たいしたものだ。さすがは小龍公よ)

 ただ、その人望の厚さは認めていた。 

 それを陰から見守るものがあった。ロンフェイであった。

 ロンフェイは帰ってからしばらく姿をあらわさなかった。いや、コヴァクスの前に、といおうか。他の者はロンフェイを見かけるのに、コヴァクスだけは見かけることがなかった。

「この戦いはオレひとりしか行けないから、着いてきちゃだめだ」

 と言いたかったのに、言えないもどかしさを会えないもどかしさ以上に感じていた。しかしその悩みばかりは誰にも言えなかった。

 コヴァクスとシァンドロス、そして兵士の間を掻き分けてきた近習の者たちがそろって騎乗し。

 郊外へとゆこうとすれば、

「勝利を!」

 ニコレットが窓から身を乗り出し、そう叫んで、続いてクネクトヴァとカトゥカも別の窓から「勝利を!」と叫べば。兵士たちも、

「勝利を!」

 と剣を掲げて叫んで、コヴァクスらを見送る。

 それをシァンドロスは鋭いまなざしと不敵な笑みをもって見据えていた。


 神獅子軍テオスリオンターリゆくところ、いかなる強敵ごうてきも、風に揺れる草花のごとし。

 新オンガルリから旧リジェカ地域内に入ってから、新獅子軍は怒涛の快進撃を続けていた。

 季節は冬になろうとし、空気は肌を刺すような冷たさを持つようになっていた。しかし、シァンドロスおよび新獅子軍の熱気は冷ませなかった。

 民衆が蜂起し、アラシアの貴族たちはこれを鎮圧しようとし。泥沼の争いが各地で続いていた。そこに、シァンドロスらが雪崩れ込んできたのである。

 神獅子軍の数そのものはわずか五百ばかりだが、民衆という味方を得てその数は一気に膨れ上がった。

 民衆といっても様々であるが、アラシアに徴兵された兵士がいれば、元兵士もおり、それが蜂起の主戦力となっていた。

「こんなにあっけないものか」

 たったひとり、シァンドロスら神獅子軍についていって、名ばかりの親征をするにわかの王、コヴァクスは、あまりの手ごたえの無さに肩透かしを食らっていた。

 新オンガルリの「親征」の報せは四方に広がり、このことはやはり四方に広がって、

「もうだめだ」

 と、支配層のアラシアの貴族たちはいよいよ観念して逃げ出さざるを得ず。旧リジェカでの革命において、攻略すべきはかつての王都であったザブラグを残すのみとなった。

 それまでの間、シァンドロスは軍旗をつくらせていた。ソケドキアの象徴とされるのは獅子であり、獅子があしらわれた軍旗はもちろんのことだが、それとは他に、黄金の太陽が描かれた軍旗もつくられた。

「新しい夜明けがはじまるのだ」

 シァンドロスはそう言い。その夜明けの太陽こそ、シァンドロスなのだ、というとてつもない自負を持っており。同時にこの太陽こそが、ソケドキアの新たな象徴

になるという。

「彼はもうすでに王のつもりでいるのか」

「そうです。ソケドキアの実質的な王は、シァンドロスさまにおいて他にはおりません」

 そう応えるのはシァンドロスの側近でコヴァクスの身の回りの世話を任されたガッリアスネスという者であった。

 たくましい身体つきをし戦場において勇敢に戦う戦士であり、コヴァクスのそばにいて、紅の龍牙旗を掲げていた。

 同時に文士の才も持ち合わせ、常に筆記用具を持ち、この「革命の旅」を細かに記録していた。

 ガッリアスネスは記す。

「太陽の旗を掲げる獅子王子は紅の龍牙旗を掲げる小龍公を友とし、蛮族からヴァラカナ半島の民草を救う」

 その草稿を見せてもらったコヴァクスは、苦笑いするやら呆気にとられるやら、どうしてよいのかわからなかった。

 やはりこの戦いの主役はシァンドロスで、自分は引き立て役なのだ。

 旧王都ザブラグの郊外には、蜂起した民衆数万が結集し、包囲網を固めていた。

 民衆は意気も高く、いまかいまかと突撃の時を待っていた。しかし、

「これは報復にあらず、革命である」

 と、シァンドロスは民衆をさとし、無暗に血気にはやらぬよう注意をうながしていた。このことに、コヴァクスは意外な思いもしたが、安堵もした。

 まず使者を送り、ザブラグを治めるアラシア人に降伏とアラシアへの帰還をうながした。

「かえってシァンドロスの若造にこう伝えよ。この、たわけめ!」

 対応をしたアラシア人貴族は使者を鞭打ち、尻を蹴って使者を叩き出した。

 幕舎にて傷だらけの使者に会ったシァンドロスは、

「ご苦労であった、さがって休むがよい」

 労をねぎらい金貨の入った袋をわたした。ひどい対応をされるのは承知の上だったのか、使者は鋭い目をしていたものの落ち着いたものだった。

 コヴァクスはシァンドロスと肩を並べて幕舎を出る使者を見送る。

 並ぶ臣下たちは一斉に

「総攻撃をかけましょう」

 と叫んだ。アラシア人は死ぬ気である。ならば死なせてやろう、と。だがシァンドロスは首を縦に振らなかった。

「奴らが死ぬのは勝手だが、そうなれば住民の巻き添えがあろう。しばらく、様子を見る」

獅子王子リオンターリの慈悲は見上げたもの。ですが、そのために敵に侮られては元も子もない」

「ペーハスティルオーンよ、オレに敵などない」

「……?」

 血気にはやる臣下のペーハスティルオーンに、シァンドロスは不敵な笑みで応えた。

 ペーハスティルオーンは不思議そうな顔をしている。コヴァクスは黙って様子を見ている。同じようにガッリアスネスも様子を見ながら、文章の構想を練っている。

「そうだな、様子を見るだけではつまらないな」

 何かをひらめいたシァンドロスは、そのひらめきをコヴァクスと臣下たちに言った。


「本気か」

「ああ、オレは本気だ」

 発想に驚かされたコヴァクスは思わず目を丸くし、シァンドロスに問いただしたが、かれはあくまでも不敵な笑みで、どこまでも本気のようだった。

 秋から冬へとうつりゆく肌寒い空でも、太陽は強く光り輝いている。

 ザブラグを包囲する民衆はシァンドロスの指示で待機していたが、伝令が駆け回るや隊列をととのえ。

「雨は降る。草は伸びて、松は青々と茂れり……」

 声を大にして、リジェカの民謡を歌い始めた。

 季節外れではあるが、シァンドロス曰く、心を春から夏にせよ、との指示でこの民謡が選ばれた。

 数万の民衆による民謡の大合唱が突如始まり、ザブラグの人々は度胆を抜かれ。支配層のアラシア人たちも言うに及ばず、コヴァクスも口をつぐんでもの言わずに、人々の歌声を身に受けていた。

 歌われる民謡はかろやかで、季節は春から夏へとうつりゆき。それにともない人々の心も軽やかになるようであった。

 重い緊張が降り立っていたザブラグの人々も突然聞こえるこの民謡を聴き入り、最初度胆を抜かれたが、心が軽くなってゆくのを感じて。一緒に歌いだす者まであった。

 それとは逆に、支配層のアラシア人たちは民謡を聴くにつれ、心が重くなってゆくのを禁じ得ず。

「もう、アラシアに帰ろうではないか」

 とまで言いだす者まであった。それと時を同じくして、ザブラグの民衆が立ち上がった。

「故郷を取り戻そう!」

 その掛け声のもと、多くの人々がリジェカ統治の象徴であった旧王城に詰めかけた。

 多様な人種民族の行きかい文化も多様だったヴァラカナ半島地域であったが、旧ヴーゴスネア時代に建物の統一化が図られ、ロヒニの議事堂と同じように、大きな建物の屋根は円形にされていた。

 その様をガッリアスネスは、

「多くの民衆は革命に歓喜を覚え、奮う心おさえがたく歓喜の歌をうたう」

 と記している。

 コヴァクスは愛馬・龍星号シャルカーニュチーラグの馬上、ただただ唖然とするばかりであった。

「なんという発想力だ」

 戦いに臨んで戦意高揚のために歌をうたう、ということはコヴァクスもした。父ありし時、声を張り上げ、皆と一緒にうたいはしたが。それは軍歌ともいうべき曲調の激しいものであった。

 だが今うたわれている民謡はどうか。

 ザブラグ周辺は民衆の歌につつまれ、ここがアラシアの支配地域であるなどにわかには信じられなかったが、アラシアの支配地域であるからこそ、民衆が民謡をうたうことになったのだった。

 そんなザブラグの様をひっそりと見守る者があった。その者は灰色がかったマントフードを羽織り、人目につかぬよう路地裏に潜んでいた。

 路地裏には浮浪者にやくざ者、娼婦や孤児がたむろしていたが、その者たちまでが歌につられて大通りに出て、旧王城を取り囲みに行ってしまった。

「今ここにいるのをコヴァクスが見たら……、彼は真面目だから怒るかもしれないわね」

 苦笑まじりにそう言うマントフードの者は、ロンフェイであった。

 同盟の事は知っている。コヴァクスは着いてくるなと言うかもしれなかったから、敢えて会わずに、こっそり後をつけてきて。今ザブラグにいる。

「こんな状況の中で、彼が無事でいるとは思えないし」

 民衆は民謡をうたいながら、旧王城に集まっている。警備のアラシア兵は最初威嚇して止めようとしたが、その警備兵のほとんどは徴兵された者で、人の波に押されるにつれて身をひるがえしてともに旧王城を取り囲むにいたっていた。

「我々はここまで憎まれていたのか」

 大帝国アラシアに生まれて、世界中がアラシアにひれ伏すと思っていた。しかし現実はどうか。

 旧王城の高級アラシア人たちは、多くの人々の憎しみを受けて、立ちすくむしかなかった。

「負けを認め、アラシアに帰ろうではないか」

 そんな意見も多く出て。貴族たちはさらに動揺した。

 旧ヴーゴスネアのさらに旧リジェカ地域はあのヒュカンテスが治めていた。しかしヒュカンテスは蜂起の犠牲となり、今は別の貴族が代理で治めていた。

 相次ぐ暗殺事件に民衆蜂起に、アラシア人たちの心は荒んでいた。暗殺こそ今は収まっていたが、蜂起は鎮圧しようとするも止むことなく果てがなく。

 長い長い暗闇の洞窟の中に放り込まれたような不安をどうしても禁じ得なかった。

「アラシアに帰ろう」

 旧王城に集うアラシア人たちは口々にそう言うようになっていた。

 朗らかな民謡のしらべが、異郷人であるアラシア人の心をも動かしたのだ。

「そうだな……、帰ろうか」

 使者を追い払った代理の代官サトラプも、首を縦に振らざるを得ず。降伏の使者を送るとともに、人を遣って民衆に対してここを去ることを告げさせた。

「民衆よ、我々はここを去りアラシアに帰るものなり」

 アラシアの役人たちがそう告げると、民衆の歓喜は爆発した。

 この様子をロンフェイは路地裏から静かに見守っている。

 使者を出迎えたシァンドロスはコヴァクスと並び馬上から使者を見下ろし、アラシア人たちが帰郷する旨を聞き、

「無用の殺生なく無血入都することを成就できたことは、そなたたちのおかげでもある。こちらも礼を言おう」

 と、丁寧な返礼をした。


(無血革命……、無血入都)

 憂えていた無用の殺生や流血が避けられて、安堵してもよいはずなのだが。なぜか喉に何かが引っ掛かるようなものを覚えていた。

 丁寧な対応に安堵した使者は涙さえ浮かべていた。

 事の次第を知った民衆は歓喜し、民謡はもう歌い終えて代わりに歓声があがって。アラシアの使者は歓声に包まれて、いたたまれない思いだった。

(栄光というのは、なんと儚いものか)

 支配者として君臨していたのが一転し、この様である。なにもかもが、自分自身さえ崩れ落ちるのを禁じ得ない。

「民衆よ!」

 シァンドロスは自ら民衆の中に馬を進めた。これにコヴァクスも同行する。

「革命はなった。民衆のふるさとが戻ってきたのだ!」

 天地を揺るがすような、歓喜のどよめきが起こり。コヴァクスの身体を揺さぶった。

 成り行きであったとはいえ、自分たちの革命では三つの街をおさえるのがやっとだったのに。シァンドロスはわずかな期間で旧王都をおさえ、旧リジェカ地域そのものをアラシアから解放したのだ。

「王者の才は間違いなくある」

 認めざるを得ない。

「さあ、ゆこう」

 シァンドロスにうながされ、民衆は歩を進め。ザブラグに入った。

 老若男女といわず、民衆たちは互いに手を握り合い抱擁し。故郷を取り戻した喜びをなんのはばかることなく表現していた。

 コヴァクスもそれを見ながら、喉に引っかかるような違和感は杞憂ではないかと思うようになっていった。

 使者はシァンドロスのそばにいさせられて、やはりいたたまれなかった。

 やがて王城に入り、用意されていた王座にシァンドロスは腰かけ。アラシアの貴族たちは皆ひれ伏していた。

「そなたらの心遣いに感謝しよう」

 王座に座しながらも、シァンドロスは貴族たちを丁重に扱い。これまでの行いをなんら咎めることもなく、別室にて休ませた。

 それから、アラシア人に危害を加えることを禁じるとの触れを出した。

 民衆の中には「アラシア人を殺せ!」と息巻く者もいる。だが憎悪の連鎖は混乱を呼ぶだけである。

「これは革命であることを徹底せよ!」

 シァンドロスは厳命し、いたずらな復讐に逸る者に罰をあたえることをためらわなかった。

 実際に「殺せ殺せ」と吼え暴れる者らがいたが、それらは捕えられて。刑場へ連行された。

「シァンドロスの裏切り者め、アラシアからどれほどの金をもらったというのか!」

「我々には復讐する権利がある!」

 などなど、ひたすらに叫びまくる者がいたがその一方で、

「これは本心からではなく、はずみで言ってしまったんです」

 涙と鼻水を垂れ流しながら命乞いをする者もいた。しかし、そこに一切の慈悲はなかった。

 刃が振り下ろされて、首が刎ねられ、地に落ちた。

 このことに対して当然不満も出たが、

「復讐の犬の言葉など聞く耳も持たぬ」

 と取り合わなかった。

 いまは何よりも秩序と安定が最優先である。その一言に尽きた。

 なによりも、解放の日を迎えられて歓喜を爆発させる民衆の方が圧倒的に多かった。

 ところどころで、

「リジェカ万歳!」

 の歓声が響き渡っていた。

 一旦は王城に入ったコヴァクスであったが、紅の龍牙旗を掲げるガッリアスネスを共として民衆の前に姿をあらわせば、

「ここにリジェカの独立を宣言する!」

 歓喜する民衆に向かい、独立宣言が行われた。

 その熱狂、言葉で言い表せないほどに、凄まじかった。それはアラシアの支配がいかに強かったのかということの裏返しであった。

「すごい……」

 ぽそりと、思わずつぶやいてしまうほどに、コヴァクスは圧倒されていた。

 ともあれ、革命はなり、リジェカは独立を果たした。

 だがこれはまだ通過点である。まだまだなさねばならぬことはあった。

 いつしかコヴァクスは民衆に囲まれて、万歳の嵐の直撃を受けていた。若い女性の中には、リジェカの解放と独立に尽力した若い小龍公に熱を上げていると見受けられる者まであり。近くまで寄ってきては「きゃあ」と黄色い声を上げ。

 コヴァクスは顔を赤くしてひたすらに照れ。それがさらに女性を熱くさせ。

「今夜小龍公の夜伽をさせて!」

 とまで言う者まであり。コヴァクスは非常に困りに困った。

 それを遠くで見つめる黒い瞳。ロンフェイは、くすりと可笑しそうに微笑んでいた。

 それとは別に、どす黒い炎を巻き上げるようにぎらつく目が、コヴァクスを見据えていた。


みじかい春


「ねえ、小龍公には恋人はいるの?」

 そんな声がして、どっと笑い声があがった。

「いや、いない」

「まだおひとり?」

「う、うん」

「それなら、私を恋人にして!」

 数人の若い女性が一斉に叫んで、さらに、

「小龍公の子を生ませて!」

 などと言う声が歓声交じりにコヴァクスの耳を突いた。

「いや、オレは、革命のために戦っているから……」

 照れて慌てるそぶりも可愛い小龍公に若い女性らは好ましい感情を深めて。ガッリアスネスは馬鹿にするでもなく、好印象を持ってこの様子を眺めていた。

「と、とにかく、オレはそれどころじゃないから」

「小龍公は今後の事を協議するため、王城にお戻りだ!」

 ガッリアスネスは人だかりを散らして助け舟を出し。コヴァクスは「ありがとう」と早口に礼を言って、そそくさと王城へと駆けこんだ。

 その背中を民衆は歓声をぶつけながら見送るのであった。

 事の次第はシァンドロスの耳にも入っており、

「せっかく選り取り見取りだったのにな」

 などとおどけて出迎えた。

「くだらん冗談はよせ」

「冗談なものか。お前はそれをしてもかまわないくらいの働きをしている」

「私欲のために戦っているのではない!」

「あの……」

 王城詰めの使用人が、話に割って入る。何事かと聞けば、

「我が主が、お礼を申したいと」

「礼だと」

「はい」

 使用人の後ろには、数組の家族連れがいる。その服装の華やかさ、アラシア人貴族たちであった。

 シァンドロスは不敵な笑みを浮かべ、つかつかと靴音も高らかに貴族たちに近づく。

(なんと不用心な)

 ペーハスティルオーンをはじめとする側近らは慌てて後ろに付き従い。コヴァクスも一応続いて、シァンドロスの横に並んだ。

 一番前にいたのは召使いに支えられた老婆だった。同じ年頃の老爺がいないところを見るとすでに未亡人のようだが。貴族たちの一番前にいたところを見ると、それなりの位に位置しているのであろう。

 老婆は、感極まったような面持ちで、コヴァクスの手を握った。

「シァンドロスさまのお慈悲に感謝いたします」

「や、おばあさま、私は小龍公コヴァクスでございます」

「そ、それは、申し訳ございません」

 老婆は畏れてひれ伏した。後ろにいるアラシア人貴族たちも顔面蒼白である。この無礼によりシァンドロスが怒り、慈悲を捨てるのではないかと恐れた。

 だが当のシァンドロスは悠然としたもので、

「ご心配召されるな。友である小龍公もまた、もうひとりのシァンドロスなのです」

 床に膝をつき、ひれ伏す老婆を支えながら起こす。

(オレがもうひとりのシァンドロスだと?)

 どういう意味があるのか知らぬが、シァンドロスがそう言うとなにかあるのだろうかと思うのは考えすぎなのだろうか。

 そもそも、独立宣言もコヴァクスにさせて、自分は表に出ることを避けた。

 いや、今はそれどころではない。コヴァクスも老婆を支えて起き上がるのを助けた。

 ガッリアスネスその様を眺めながら、

「慈悲深き獅子王子シァンドロス、友である小龍公を助けリジェカの革命をなして人民おおいに歓喜し。憎きはずのアラシア人には、広大無辺の慈悲をほどこし。これぞ革命なりという模範を自らしめしたもう……」

 といったような文章が浮かぶのであった。

 老婆が起きるのと入れ違いに貴族たちは皆ひれ伏し、真剣な目つきでシァンドロスらを見据えていたが、

「どうか、我らをこのままリジェカにいさせていただきたい」

 その申し出に、シァンドロスは不敵な目を光らせた。

「このままおめおめとアラシアに帰っても、クゼラクセラ大王から、なんらかの罰をたまわるかもしれません」

「大王はそのように恐ろしいのか」

「はい。大王は偉大ではありますが、シァンドロスさまのようなお慈悲に欠けるところがあります」

「なるほど。ならば、望み通りにしてやろう」

「あ、ありがとうございます!」

「今宵宴をひらく。お前たちも来るがよい」

「重ね重ね、痛み入ります」

 老婆や貴族たちは喜色を浮かべ、心が軽くなり。礼を述べながら自室へと帰っていった。

 コヴァクスは何も言わずに、貴族たちを見つめていたが、

「ゆこう」

 とシァンドロスにうながされて、踵を返した。

(宴か、面倒くさいな……)

 なにやらいろいろあり、どうにも、心はそれどころではなかった。

「オレは宴には出ない」

「なぜだ?」

「そんな気分になれなくてな」


 宴に出ぬと言うコヴァクスに、シァンドロスの側近は冷たい視線を送る。

「まあ、そう言わずに出るだけ出ろ。小龍公がいなければ、宴の席も引き締まらぬ」

「……仕方がないな」

 観念したようにコヴァクスは頷く。

(ロンフェイはいまなにをしているんだろう)

 ふと、そんなことを考えてしまったことに気づき、自分に対しても気まずい思いをする。

(しっかりしろ、オレ)

「少し疲れているようだな。宴まで休め。まつりごとについては、明日協議しよう」

 そう言ってシァンドロスはコヴァクスの肩を叩く。ずいぶん気安い男だ、と思いつつ、

「そうしよう」

 そう応えれば、城詰めの召使いに案内されて、あてがわれた個室に入っていって。鎧を脱ぎ、ベッドに横になった。

 それから、ノックの音がして目をひらけば、窓から光が差し込んでいたのがいまは真っ暗になっていて。

「入ってもよろしいでしょうか」

 との声がする。

「ああ、どうぞ……」

 ドアが開けられ、外の廊下の蝋燭と手燭の蝋燭のぼやけた薄い灯りにふわりと救い出されて見えるのは、黒く長い髪の白い衣の少女。

「……!」

 思わず声が出そうになり、少女、ロンフェイは唇の前に人差し指を立てて、声を出さぬよう仕草で訴え。

 コヴァクスは出そうな声を口をつぐんで抑えた。

 ドアを閉め、コヴァクスを見据えるロンフェイの黒い瞳は、どこか鋭く光っていた。

「鎧を着て、剣を帯びて」

「え、なんで?」

「奴らがいるわ」

「奴ら……」

 その奴らは、まさか、と思うとひどく緊張を覚えるのだった。

 ところかわって、刑場。

 柵に囲まれた刑場では怨み深きゆえに処刑されて、首を刎ねられた者たちの首がさらされていた。

 趣味のよくない好奇心に駆られて、柵越しに首の見物に来る者も何人かいた。それを厳しい視線で見据える見張りの兵が数人。

「おれが兵士だったころ、剣を一振りするたびに首を飛ばしてやったもんだぜ」

 などと、連れに過去の栄光をにやけ顔でくどくどと語る老年の男もいた。

「首が飛ぶとは、このようにか?」

「ああん?」

 どこからともなく声がして、不思議そうに老年の男や連れたちはきょろきょろしてしまう。

 下らぬ話をするものだと見張りの兵士は呆れながら聞いていた。

 すると、さらされている首がひとつ、ふわりと浮きあがり、宙を舞った。

「ぎゃあ!」

「首が飛んでいる!」

 あらぬものを見て、人々は恐慌をきたした。見張りの兵士もそれを見て、唖然とする。

 宙に浮く首は表情を変えず、うつろな目で向こうに見える市街地の灯りを見据えていた。

「怨めしやアラシア。我怨霊となりてアラシアを呪い殺さん」

 どこからともなくそんな声がし、見物に来た者はおろか、兵士さえ腰が抜けて尻もちをつく始末だった。

 そうかと思えば、なんと首のない胴の腕が動き。掌を地に着けたかと思えば、ゆっくりと起き上がろうとするではないか。

「怨めしやアラシア。奴らの首筋に噛みつき、血をすすり飲み干してやりたい」

「怨めしやアラシア。食屍鬼グールとなって奴らを食い殺してやりたい」

 うわあ、ヴァンピールだあ、という悲鳴があがり。恐怖に耐えられず見物人たちはおろか見張りの兵士まで一斉に逃げ出した。

 その悲鳴が城内にまで響き渡ったわけでもあるまいに、アラシアの貴族たちのひかえる部屋からも惨たらしい悲鳴が響いた。

「何事だ!」

 城詰めの兵士が驚き駆けつけてみれば、召使いの女ふたりが血まみれの刃を提げているではないか。その女ら自身も返り血を多く浴びて、白い顔がところどころ真っ赤になっているにもかかわらず、どこか恍惚とした表情を浮かべていた。

 そしてその足元には、アラシア人貴族の惨たらしくも斬殺された屍がならんでいた。老若男女問わず、あの老婆までもが、合わせて十七名、うつろな目をして息絶えていた。

「こ、これはお前たちの仕業か!」

「そうよ、楽しかったわ」

 返り血にうっとりするように、艶めかしい声で応える。

 ともに黒髪に黒い瞳で、美女といってもいい。しかし顔立ちは違い、ひとりは彫りが深めで鼻も高いが、もうひとりは彫りも浅くすっきりとした顔立ちであった。同じとすれば、殺戮を楽しむ残忍な目の輝きであろうか。

 堀の深い方の女の右手には、変わった短剣が握られている。その握りは刀身とは垂直に、鍔とは平行になっており、手に持つと拳の先に刀身が来る様な造りになっていた。

 それはアラシアからさらに東方の、インダウリヤのもので、ジャマダハルといった。


 恰好こそ召使いの姿だが、どうやら忍び込んだものらしい。それと同時に、一時、アラシア人たちを震撼させた連続暗殺事件を思い出させた。

「ま、まさか」

「なにがまさかなのかしら?」

 ジャマダハルの女が兵士の方へと歩み寄ろうとし、もうひとりの方も続く。ともにその顔は美しくも冷たく、残忍の色を強く滲ませていた。

「おのれ!」

 兵士らは剣を掲げ女らに一斉に飛び掛かった。しかし振るう剣ことごとく舞うように軽やかにかわされ、かわされながら刃が兵士を襲い。血が噴き出すとともに先に息絶えた貴族たちに転んで並ぶありさまだった。

 兵士を始末しながら部屋を出れば、騒動を聞きつけた兵士らが集まってきて、また逃げ惑う者たちの悲鳴も響き渡る。

「これは!」

 集まってくる者らの中にシァンドロスの側近ペーハスティルオーンにガッリアスネスもいた。

「すぐに獅子王子リオンターリにお知らせせよ!」

 ペーハスティルオーンにガッリアスネスはそばにいた者にそう叫びながら抜剣して構えたのは、さすが勇をもって鳴るソケドキアの戦士であった。が、心意気だけで戦いに勝てるものではない。

(なんという殺気だ)

 ペーハスティルオーンにガッリアスネスは女らから湿り気のある殺気が醸し出されるのを感じ取って、ひどい緊張を覚えざるを得なかった。

「ペーハスティルオーンどの、この女ども、かなりの手練れのようですぞ」

「ガッリアスネスどのもそう思うか」

 思わず歯を食いしばり、しばらくしてシァンドロスがやってくる。

「これは」

 命を助けてやったアラシアの貴族たちの無残な姿を見て、さすがのシァンドロスも驚かざるを得なかった。しかしそれ以上に、女らの美しさに目を惹かれた。

(なんという美しい女たちだ。この女を、オレのものにしたい)

 胸を突いて出る欲情。

(オレはいままで、男にすり寄り、何かあればすぐ泣くような女などに興味はなかったが。この女どもは、違う。この女どもこそ、オレがそばに置くにふさわしい!)

 特にジャマダハルの女には、いたくそそられるものを覚えた。血に濡れたその恍惚とした白い顔に、怜悧な目。

「サロメ!」

 突然の叫び。ジャマダハルの女、サロメは自分の名を呼ばれ声の方に振り向けば。ロンフェイと並んでこちらへ駆けてくるコヴァクスの姿を見た。

「いらっしゃいましたか、小龍公、ロンフェイ」

 ふてぶてしく、ぬめり気のある声で応えるサロメ。コヴァクスとサロメが知り合いであることを知って、ペーハスティルオーンとガッリアスネスはもちろん、シァンドロスの驚きは尋常なものではなかった。

 ことに、サロメが自分よりもコヴァクスを見ているのが気に入らず。胸の中で嫉妬の炎が燃え上がるのを禁じ得なかった。

 廊下から部屋の中の惨たらしい様子が見えて、コヴァクスはとめどもない怒りを覚えた。

 それにしても、コヴァクスのそばにいる少女は何者なのだろうか。なにより彼女もまた美しかった。

 その少女は止まらずに、一直線に女めがけて駆けた。コヴァクスもともに駆けた。

「あとでね」

 コヴァクスとロンフェイに冷たい視線を送り、女どもは逃げ出した。その逃げ出す直前、サロメはシァンドロスを見つめた。

「追え、逃がすな!」

 城詰めの兵士が集まり、女らを捕えようとする。だが女らに恐れる色はなかった。それどころか、妖艶にして冷たい笑みを浮かべていた。

 閃く刃が幾重にも重なり襲い掛かるが、女らはひょいひょいと身軽にかわしながら刃を振るい。そのたびに血が舞った。

「殺すな、生け捕りにせよ!」

 とは、シァンドロスは言わなかった。女たちがどのように強さを発揮し、兵士らから逃げ出すのかがいたく気になっていた。

「申し上げます!」

 ひとりの兵士が息せき切ってシァンドロスのもとに駆けてくる、何事かと思えば。

「刑場にて異変起こり、それを機に民衆が暴動を起こしました!」

「なんだと!」

 聞けば、刑場のさらし首が宙に浮き。それをアラシアへの呪いだと思った民衆が、蜂起したという。

「民衆が城に押し寄せてきます!」

「民衆はアラシアの貴族を殺すよう我らに要求してきております」

 などなど、次々とよからぬ報告がもたらされる。

 女らといえば兵士らがいかに襲いかかろうとも歯牙にもかけず逃げおおせようとし、誰にも止められそうもなかった。兵士はその強さに怖じて、身を引き包囲を緩める始末。

 シァンドロス直属の神獅子軍は特別なはからいによりこの夜だけ任務を解かれ、それぞれ思いのままに夜を楽しんで、城にはいない。

「下手に手を出してはだめ、私に任せて!」

 追いながら兵士たちにロンフェイは叫んだ。

「これは大変なことになったぞ」

 状況を把握しながら、コヴァクスの憂いは深まった。リジェカの復興がなるかと思われたが、また混乱に突き落とされるのであろうか。

「女はオレに任せて、お前たちは民衆を落ち着かせてくれ!」

 コヴァクスは駆けながらシァンドロスらに叫んだ。


 シァンドロスは不敵な笑みを浮かべている。

「是非もない」

 どうにも、自分を乱世へと送り出そうと見えざる力が働いているのを感じる。

 コヴァクスが謎の少女と女らを追うのを見送ると、歩きだす。城の中は混乱に陥っていた。

「どうなさるのですか」

「計画は変更だ」

「と、申されますと?」

「旧ヴーゴスネアの各地域で革命を起こし独立させるはずだったが、こうなれば、いっそソケドキアに編入しよう」

「まことでございますか」

「所詮、兎どもはどこまで行っても兎だ。やはり獅子が上に立たねばならぬ」

 愛馬にまたがり城外に出れば、民衆は集まり。

「アラシア滅ぶべし」

 の大合唱だった。異変に気付いた神獅子軍の兵士たちは武装し、城の前に集まって。民衆が城になだれ込まぬようにらみを利かせていた。

 滅ぶべしの大合唱を全身で受けながら、シァンドロスは叫んだ。

「我がソケドキアがアラシアを滅ぼしてくれよう。民衆よ、お前たちはソケドキアの民になるか!」

「ソケドキアを滅ぼしてくれるのか!」

「おう、滅ぼしてくれようぞ」

 民衆はどよめいた。ソケドキアの民になるということは、リジェカがソケドキアに編入されるということだ。せっかく独立を果たし、ふるさとを取り戻したのだが……。

「アラシアを滅ぼしてくれるのなら……!」

「シァンドロス王万歳!」

 どよめきを突き破るようにあちらこちらからそんな声があがり、それはどよめきそのものを飲み込んだ。

「シァンドロス王万歳!」

 民衆はたくましい黒馬に乗る若き王子を、せっかちなのかもう王と呼んでいた。

「ソケドキア万歳!」

「シァンドロス王万歳!」

 意気も盛んな万歳の大合唱が轟く。

 城外へ逃れたサロメたちを追い、路地裏に入り込んだロンフェイにコヴァクスはその万歳の合唱を聞き、思わず足を止めてしまった。

「これはどういうことなんだ!」

 万歳の合唱がぶつけられ、コヴァクスは叫んだ。

 いったい何が民衆を変えてしまったのか。

「はっはははは……」

 不気味な笑い声が万歳の轟きをすり抜けてコヴァクスとロンフェイの耳に入り込んでくる。

 いつの間にいたのか、あの六虎の男どもだった。ただし、人数はひとり少なくなっていた。

「お前ら……。そうか、お前ら刑場でなにかして、民衆を焚きつけたのか」

「ご名答だな、小龍公」

 刑場の首が宙を舞ったのは、闇にまぎれて首を持ち上げたからだった。怨みの言葉も無論別の場所で言ったものだ。

 見物人も見張りの兵士もまんまと騙されてしまい。その騒ぎが広まり、民衆は一気にアラシアへの憎しみを増した。

「所詮人間なんてそんなもの。小龍公もいい加減にわかったら?」

 と言うのは、サロメであった。

 ロンフェイの目つきの鋭さが増す。

 いつの間にか、自分たちは六人に囲まれてしまった。

「ロンフェイ……」

 憎々しげにその名をつぶやくのは、六虎の一味の女の、二虎アルフーであった。

「お前だけ、まともな名をもらい、特別扱いされてきた。なのに、裏切った」

「何度も言ったわ、もう私は暗殺なんかしたくないって」

「ほんとにお前の聖人気取りには、虫唾が走るわ……」

「私たちは、人として扱われずに、もの扱いされて、サロメに売られてしまったわ。わかる? サロメにとっても、私たちは人でなく、ものなのよ!」

 静かな印象のロンフェイが、珍しく声を張り上げた。もの扱いされてきたことが、よほど許せなかったのを物語っていた。

「うるさい! それがどうした!」

 二虎の反応は極めて冷たいものだった。 

「いまさら人になりたいなんて思わないね!」

 その言葉を聞くコヴァクスは、なぜか心臓をえぐられそうな不快感を禁じ得なかった。

 暗殺者として育てられた、と言うよりも、製造されたとも言うべき人生だったのだろう。

(かわいそうな奴らだったのか)

 サロメが何を考えているのかわからないが、心の奥底に埋め込まれた憎しみのままに殺戮を繰り広げ、世の中を混乱に陥れようとすることが、この者たちの生き甲斐であるようだ。

 サロメは黙って様子を見ていたが、コヴァクスとロンフェイの近い距離感を見て、くすりと、不敵にかつ妖艶に微笑んだ。

三虎サーフーを殺しておいて、よく言う」

 憎しみのこもった重い声がする。それを聞き、ロンフェイは口をつぐむ。

「所詮はお前も暗殺者なのだ」

 彼ら六虎の名は数字しか与えられなかった。人として扱われず暗殺者として「つくられた」。


「小龍公が裏切った!」

 突然そんなことを叫びだす者がいた。ひとりそう叫ぶと、サロメを除く五人は一斉に散り、

「小龍公が裏切った!」

 と叫んでまわった。

「何を言うんだ!」

 今民衆は熱狂的陶酔の最中にある。そんなときに、水を差すようなことを言えば気分を害されたでは済まず、瞬時にして怒りが沸騰するものだ。

「狂っている!」

 どこまでも世を乱したいのを痛感し、コヴァクスは歯軋りする。

「小龍公が裏切った」

 ということは、民衆の間で一気に広がっていった。

 サロメは面白そうに、無邪気に微笑んでいる。

「小龍公が裏切っただと?」

 そのことはシァンドロスらにも伝わった。

「まさか、何かの間違いでしょう」

 常にコヴァクスのそばにいたガッリアスネスには信じがたいことだ。なぜそんな話が出たのか知らぬが、ありえないと彼はきっぱりと否定した。

「うふふ……」

 五人が散り、サロメは笑みをこぼしながら闇の中に溶けるように、どこかへと行ってしまった。ロンフェイも追おうとしなかった。

「裏切り者死すべし!」

 恐れていた通り、出まかせの嘘を信じ込んだ者がコヴァクスの死を求めた。

「城に戻ろう」

 コヴァクスはロンフェイに呼びかけたが、その反応はやや遅く。一瞬の間、ぼうとしてから、

「え、ええ」

 と、歯切れの悪い返事をしたものだった。

「ロンフェイ、しっかりするんだ!」

 コヴァクスはその手を握り、城に向かってともに駆けた。まだ民衆とは遭遇していない。路地裏を隠れるように駆けて、どうにか城に入らねば。

獅子王子リオンターリ、小龍公の裏切りは嘘です。嘘に惑わされぬよう民衆をさとさねば、統治に支障が出ます」

 ガッリアスネスは訴えたが、シァンドロスは、

「捨ておけ」

 と言うではないか。

「もしこれでコヴァクスが害されれば、それまでのことだ」

「何を言われますか」

 同盟者を見捨てるなど、信義にもとる。

「敵であれ味方であれ、オレは勇士と交わりたい。コヴァクスが勇士か否か、見極めるときなのだ、今は」

「馬鹿な」

 ガッリアスネスはシァンドロスの冷淡さに驚きを禁じ得なかった。

 熱狂の陶酔の渦の中にいる民衆はことの真偽を見極めることもなく、ただひたすらに、コヴァクスの裏切りを信じて、衝撃を受けあるいは憤慨し、多くの者がコヴァクスを自分たちの前に引きずり出すことを求めた。

「コヴァクスは城から出てしまった。ここにはいない」

「獅子王子!」

 ガッリアスネスはコヴァクスを熱狂の民衆に売り渡そうとするシァンドロスに深い失望を覚えざるを得なかった。それでも、臣下として主君に忠言するしかなかった。

「どうかお考え直しを」

「矢は放たれた。矢面に立つな」

「直言こそ臣下の誇り、なんで主君の誤りを見過ごせましょう」

「だまれ!」

「だまりませぬ!」

 シァンドロスとガッリアスネスは視線を交え、視線ぶつかるところ火花が散るようであった。

 民衆を焚きつけ、さらに同盟者まで見捨てようとして。愛馬の大きな黒馬・ゴッズにまたがるシァンドロスは、さながら天上界から降臨した大魔王のように思われた。

「城に帰るぞ」

 シァンドロスはゴッズの踵を返させて、城に戻る。ガッリアスネスはおおいに戸惑いをおぼえながら、それに続くしかなかったが。城の敷地内に入るや、ひとりになりたいと言ってシァンドロスから離れて、どこかへと行ってしまった。その方角は、厩の方角だった。

 コヴァクスとロンフェイと言えば、民衆の目を逃れながら城に戻りたいところだったが、果たせなかった。

「小龍公よ!」

 けたたましい女の声がした。路地裏に民衆が雪崩れ込んでコヴァクスを探し求めていた。ただし、英雄として讃えるためではなく、裏切り者として制裁を加えるために。

 そして、ついに見つかってしまったのだ。


失踪


「小龍公を捕えろ!」

「なんだって!」

 六人はコヴァクスが裏切ったという嘘を広めてまわり。それにまんまと引っかかってしまった民衆はこぞってコヴァクスを捕えようと襲い掛かった。

「シァンドロス王子は助けてくれないの?」

「そういえば……!」

 さといシァンドロスである。裏切りが嘘であることを民衆に伝えて落ち着かせることもできたであろうに、どうもそれをしていないようである。

「何を考えているかしらんが、君の危惧する通りのようだ」

 苦虫を噛みつぶしたように苦しそうな面持ちで、現状を把握しなければいけなかった。

 咄嗟に剣を抜きたくなったが、いかなることがあろうと、民衆に手をかけたくないコヴァクスであった。ロンフェイもそれを察し、めざとく自分の身長と同じくらいの長さの棒切れを見つけると、握られている手を優しくほどいて棒切れを拾い。

「ついてきて!」

 逆にコヴァクスの手を握って、駆け出した。

「民衆を……」

「殺さないわ!」

 民衆は「この裏切り者め!」と吠えてふたりに襲いかかった。それをロンフェイが棒を巧みにあやつり、まるで路傍の小石を弾き飛ばすように、民衆を弾き飛ばしてゆく。

「いってえ!」

 弾き飛ばされたものことごとく、そんなうめき声は上げるが、転倒するにとどまり、命までは取られなかった。

「な、なんだこの女!」

 命を取られないとはいえ、ロンフェイの強さに民衆はおののき、思わず道を開けてしまった。そこらへんはやはり、素人の民衆であった。

 さらに、

「暴れ馬だあ!」

 不意にそんな叫び声がしたかと思えば、路地裏から出たふたりの目にその通り暴れ馬が飛び込んだ。

龍星号シャルカーニュチーラグ!」

 なぜ愛馬が、と思わぬでもないが、神の助けとコヴァクスはロンフェイの手を引いて必死の思いで駆け。龍星号の方でも主を見つけ、けたたましくいなないて全力で駆け。

 目と鼻の先まで来たところで龍星号は速度を落とし、コヴァクスはしがみつくように飛び上がり愛馬にまたがり、ロンフェイは軽やかに跳躍してその背につかまった。

 それまで、ふたりは手を握りあっていたのだが、コヴァクスは必死のあまりそれに気づかなかった。しかしロンフェイはそのことを今この状況にもかかわらず意識していた。

(男の人と手を握りあうのは、はじめてね……)

 手を握るコヴァクスに無論なんの下心もなかったが、熱さは伝わった。

 自分に対し何の敵意もない。自分と同じ人間であるという思いも伝わって。心なしか、ロンフェイの瞳になにやら潤むものがあった。

「どけどけ!」

 いななく龍星号に驚き民衆は慌てて道を開ける。振り返ることもなく、コヴァクスは必死に愛馬を駆けさせた。

「恋人はいないと言ってたのに、やっぱり小龍公は嘘つきなのね!」

 そんな女性の叫びが耳に飛び込む。

 それこそ「誤解だ!」と叫びたかったが、それどころではないのでひたすら愛馬を駆けさせるしかなかった。

 そのことは城にも伝わって。うまく逃れられるかもしれないと、ガッリアスネスは心の中で安堵した。シァンドロスも不敵な笑みを浮かべ、

「運のいいやつだ」

 と言うに済ませた。

 龍星号がなぜ厩から逃げ出したのか、見当はついているのだが。不問にした。

 馬はガッリアスネスが逃がしたのであり。これがせめてもの、ソケドキア人としての、ガッリアスネスの償いであった。

 ただ、紅の龍牙旗は残されていた。そのことについて、

「ガッリアスネスよ、新オンガルリに、旗を戻しに行ってくれ」

「それはかまいませんが、小龍公女らには何と言えば……」

「ありのままを話せばよい。同盟を破棄するとな」

「さぞお怒りになることでしょう」

「かまわぬ、どうせ新オンガルリはヴァラカナ半島のための足掛かりでしかなかったからな」

「……」

 ガッリアスネスは何も言えなかった。すべてわかったうえでシァンドロスに仕えていると思っていたが、この時に妙な違和感を覚えてしまった。

「仰せのままに」

 命の危険があるだろうが、君命とあらばいたしかたない。しかし、いかなる理由があろうとも、無暗な殺生はすまいと心のどこかで思っている。これは慢心なのか、信頼なのか……。

 ともあれ、ガッリアスネスは残された紅の龍牙旗のもとにゆき、旅支度をするのであった。

 コヴァクスは愛馬・龍星号をひたすらに駆けさせていた。後ろにロンフェイを乗せて。

 民衆は裏切り者を取り囲もうとし、後ろからも追いかけてきて、四方を囲まれそうになりながらもかろうじて振り切りザブラグ郊外までようやく出た。

 しかし、郊外に出ると同時にあたりは闇だった。

 闇、圧倒的な闇。

 闇が世界に降り、包み込んで。目を覆う。


「くそ、何も見えない!」

 これでは逃げようもない。コヴァクスの胴に回される手に力が込められた。

(ロンフェイも怖いのか?)

 気まぐれで飄々とし、怖いもの知らずのように見えたが。彼女でも闇を恐れるのだろうか。

 民衆はたいまつを手に、追ってくる。

 万事休すか。

 何度危機を乗り越えようとも、後から後からと果てがない。自分たちは迷宮にさまよいこんでしまったのだろうか。

 そしてその迷宮の中で、果ててしまうのだろうか。

 愛馬の龍星号も闇の中、脚の動きが鈍っていた。

「ゆくぞ」

 コヴァクスは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。力をこめて。

「いきましょう」

 ロンフェイも、耳元でささやく。

 龍星号は力強く地を蹴り駆けだした。闇に向かって。

 果てしのない闇の中を、手探りで駆けるとき、ふっと少しばかり闇の中から道がすくい出された。

 空には雲が覆い、月や星々を隠していたのだが。それが途切れて、月明かりが闇夜を照らしだしたのだ。月は満月だった。

 満月は煌々と輝く、闇夜に開かれた目のように下界を見下ろす。

「運のいいやつね」

 忌々しくつぶやく声があった。それは闇夜に紛れて、コヴァクスとロンフェイの無残な最期を見物しようとしていたサロメらであった。

 満月によって闇夜から救い出され、駆け去ってゆくコヴァクスとロンフェイはまるで、神の寵愛を受けているかのようだ。

 六人はそれぞれ苦虫をかみつぶしたような顔をして、民衆のもとへと駆ければ。満月見下ろす下界に血の風を吹かせるかのごとく、刃を振るいながら駆けた。

 突然闇の中から凶刃が血の風を吹かせて、民衆は驚き。恐慌をきたして逃げ惑った。

 それまで嵐のように猛り狂っていたのが嘘のように、まるで引き潮のように退いてゆく。

 たった六人の狂人の刃を恐れて。

 民衆は完全に恐れおののいて逃げ惑うしかできなくなったのを見て、頃合いを見て六人も離脱し、どこかへと去っていった。

 そんなことがあると知らぬコヴァクスとロンフェイであったが、民衆が追ってこないとわかると速度を緩め後ろを振り返った。

 満月の照らす薄闇の中、それまで駆けてきた道が闇夜から浮かび上がり、その向こうの闇の中へ続いて、溶け込んでいた。

 ふと見れば廃屋があり、愛馬をそこへゆかせた。

 下馬しあたりを見渡しても、誰もいない。誰か、浮浪者の類が住み込んでいることもない。それを確認して、コヴァクスはここで休むことにした。

 ロンフェイも下馬し、コヴァクスにつきそっている。

 しかし、いかに満月が下界を照らすといえども、やはり暗く。中は満足に見えなかった。手さぐりで壁に触れ、次いで床に触れる。ふと手にかたいものが触れて、それが火打石らしいと思うとすぐさま石を打った。

 石からは火花が出て、あたりを一瞬明るくする。その一瞬の間に目を凝らし、何か火のつけられるものがないかと探し。

 ロンフェイはめざとく松明を見つけたが、それは古いもので火がつくかどうかわからなかった。

「つけるだけ、つけてみよう」

 コヴァクスは石を打ちロンフェイの持つ松明に火をつけようとする。最初はなかなかつかなかったが、しばらくしてようやく火花が松明に飛んで、そこから小さな火が着いて、燃え広がってゆく。

「やっと着いてくれた」

 火が燃え広がるにつれ、あたりも明るくなってゆく。コヴァクスは安堵し、ロンフェイも微笑む。

 廃屋の中はやはり荒れており、窓も枠がなく四角い穴が壁にぽっこりと空いた状態だった。

 耳をすませて、もっと遠くに気を配ってみれば。民衆は追いかけてきていないようで、ここで少し休むことができるかもしれなかった。

 コヴァクスは壁に背をもたれかけさせて腰かければ、壁の松明かけに松明をかけてロンフェイがその隣に腰かける。

 空気が冷たい。それもそうだ、季節は秋から冬に移ろうとしている。

「どうして、こんなことになるんだろう」

 思わず、ぽそっとつぶやく。

「……」

 ロンフェイは黙して語らず。

 聡明な彼女なら何か応えてくれるかもしれないと思ったが、当てが外れた。と思うと同時に鎧がずしりと重く感じられる。

 身も心も相当に疲れていた。

「逃げようか」

 コヴァクスはぽそりとつぶやき、ロンフェイは耳を疑った。

「なんかオレ、もう疲れたよ」

 いつ果てるともしれない争いにつぐ争いに、コヴァクスはうんざりしていた。

「それは、本気で言っているの?」

「うん」

 壁に背を持たれかけさせ、うつむく若者の横顔を松明の火が照らす。深い疲労がたまっていた。

「オレのこと、軽蔑してもいい」

 そう言うコヴァクスの手に、ロンフェイの手が重ねられた。

「私も一緒にいくわ」

 言いながら、肩に頭を乗せ。コヴァクスの鼻を甘いにおいがなでる。

 手の上に重ねた手に、涙のつぶが落ちては、はじけてゆく。コヴァクスは泣いていた。

 ただただ、コヴァクスは泣いた。泣きに泣いて、泣きまくった。

 父ドラヴリフトはよく「男が涙を見せるな」と教えてきたが、いかに厳しい父の教えであろうと、涙をおさえられなかった。

 ロンフェイも何も言わずに、寄り添うのみ。

 そうしているうちにいつの間にか眠ってしまい。松明の火も消えて、世界は闇に包まれた。

 やがて昇る太陽が闇を払ったころ、廃屋からふたりのすがたはなかった。

 

「……!」

 ニコレットは絶句するしかなかった。

 赤いドレス姿のニコレットとともに円卓を囲むイヴァンシムにバリル、ダラガナ。ふたりの若い騎士見習いのクネクトヴァとカトゥカも、ただ呆然とするしかなかった。

 ガッリアスネスが紅の龍牙旗をたずさえてやってきたかと思えば、コヴァクスがいなくなった、などと言うではないか。ついで、同盟を破棄する旨も伝えられた。

「最後に、白い衣の少女とともに愛馬でどこかへ駆け去ったと」

「白い衣の少女……!」

 ロンフェイのことだと、ニコレットは確信した。コヴァクスが出立すると同時に姿が見えなくなったのだが、やはりついていってたのか。

「ともあれ、……これは重大な盟約違反。シァンドロス獅子王子も大変お怒りでございますが、かろうじてお怒りを抑えられて、御旗をお返しなされるのです……」

 言いながらも、使者の役目をおおせつかったガッリアスネスもどこか言い淀んで頭をきょろきょろとさせ、イヴァンシムと目が合ったとき、とっさに片目をつむった。

(なにかあるな)

 ガッリアスネスの様子から何かを察したイヴァンシムは知らん顔をしながらも、

「よくわかりました。ご使者のお役目ご苦労様でございます」

 と言うが。あまりのことに何を言ってよいのかわからぬニコレットは絶句するばかり。

 円卓を囲む面々は重苦しい空気にのしかかられて、咳も出さぬ有様。

「同盟は破棄されましたが、攻め込むことはせぬとのこと。どうかご安心を」

 それを言うのが精一杯のガッリアスネスだったが。安心などできる一同ではなかった。

 シァンドロスが攻め込まずとも、オンガルリやマーラニアが何をするのかわかったものではない。実際不穏な情勢が伝えられているのだ。

「私のお伝えすることは以上です」

 紅の龍牙旗は返却され、ガッリアスネスは立ち上がった。続きイヴァンシムも立ち上がって、そこでようやくニコレットも立ち上がった。

 諸問題を抱えながらイヴァンシムらに支えられて、王である兄に代わって国を統治していたのだが。

「なにもかも、水の泡……」

 コヴァクスがロンフェイとともに失踪など。あってはならぬことである。愚かにも兄は、ロンフェイの色香に惑わされてしまったのだろうか。

 饒舌なバリルでさえ、眉をしかめてだんまりだ。ダラガナも言うに及ばず。若い騎士見習いともなればなおさらだった。

 しかしイヴァンシムは冷静で、ガッリアスネスの肩を叩いて、

「あなたも辛い役目を背負わされましたな」

 と、その労をねぎらう。

 周囲から冷たい視線を受け、ガッリアスネスは居心地の悪さを感じて仕方なかった。

(これを言うべきかどうか。言うにしても、誰に話せばよいのやら)

 いかに誤りを犯す主君といえども、その恥を広めるようなまねはしたくなかった。しかし、真実は話さねばならないという葛藤に襲われていた。

「いかに悔しいことであろうと、この者は貴賓でもあります。イヴァンシムどの、ひとつ美味い酒でも飲ませてあげたらどうかな」

 バリルもなにか勘づく。ダラガナもガッリアスネスを見る目こそ厳しいが、同意と頷く。

「小龍公女、よろしいですな」

「はい、お願いします……」

 ニコレットは倒れそうなのをこらえ、若いふたりとともに足早に退席して。そのまま自室に引きこもってしまった。

 イヴァンシムは自慢の美味い酒があると言い、議事堂の中にある自室にガッリアスネスを招き入れる。

 バリルとダラガナはしかめっ面をし、そのまま会議室に残り。議事堂詰めの役人に頼んで水を持ってきてもらったが、バリルはコップを手にして揺れる水を忌々しそうにながめて、

「くそ!」

 コップを床に叩きつけ、コップの転がるのと水の散るのを忌々しく睨みつけた。

「よかったのは最初だけで、後は現実が押し寄せるばかりだ!」

「バリルどの……」

「ああわかっている、茨の道であることは。しかしこれは、あんまりだ!」

「まさか小龍公が?」

「お前さん本気でそう思っているのか」

「いえいえ、まさか」

 バリルと対照的にダラガナはコップの水を一気に飲み干した。

「私もなんだか危ないと思っていましたがな、あのシァンドロス獅子王子には」

「まったくだ。私は反対だったんだ。しかしイヴァンシムどのは行かせた」

「あの白い衣の少女がついているならば、大丈夫ではないかと」

「ううむ、あの、ロンフェイという、マオの少女か」

 思えば不思議な少女だが。コヴァクスの出立に際し誰も来てはならぬと言ったにもかかわらず、彼女は言いつけを守らずついていっていたのだ。


「聞けば彼女のおかげで危機を乗り越えたそうだがな」

「それに賭けるしかないでしょう。……しかし」

「しかし、なんだね?」

「三本足の鴉など、ほんとにいるんでしょうかね?」

「さあな。お前さんの好きな八匹のしゃちに食わせるつもりか?」

「はは……」

 こんなときに何を気にしているのだ、とバリルは厳しい目をダラガナに向け。向けられるダラガナは苦笑いをするしかなかった。

 そんなやりとりなど知らず。イヴァンシムは自ら酒を振る舞い、ガッリアスネスの話を聞いていた。

「やはりそんなところでしたか」

 真実を聞き、思わず深いため息をつく。

「人の心は恐ろしいものですな」

「私もなぜ獅子王子があのようなことをと、悩んでおります」

「君、君たらずとも、臣、臣たるべし。宮仕えの辛いところですな」

「はい……」

 ガッリアスネスはつがれた酒を一気に飲み干した。

(同じ獅子王子でも、ダライアスとは大違いだ)

 いまは行方知れずとなっているアラシアの獅子王子アスラーン・ダライアスは王者の素質ありと聞き及ぶ。同じ獅子王子リオンターリを称するシァンドロスは、どうなってしまうのだろうか。

「ともあれ、主君の誤りをただすのは臣下の役目。なんとしても、暴君となるのは避けねば」

「失礼なことを聞きますが、シァンドロス獅子王子には、お気に入りの女性はおりますかな?」

「いえ、まだ」

「そうですか……。お気をつけくだされ、男の心は、女性によって大きく左右されることもあります」

「はい。……そういえば、小龍公には、恋人がおられるのですか? いや、白い衣の少女とともに消えたと聞いたのですが」

 それを聞き、イヴァンシムは苦笑いする思いだった。コヴァクスに限ってまさかと思いたいが……。

「恋人かどうか。その少女のことは知っていますが、つかみどころがなく、まるで雲のような存在でございましてな」

「どういうことですか?」

「うむ、いつの間にか我らのそばにいついていたのですが、小龍公の危機を救ってくれた恩人でもあるそうです」

「恩人……」

「小龍公に限って、と思いたいですが。我らとしては、その、恩人であるところに賭けるしかありませぬ」

「ご心労、お察しいたします」


 ガッリアスネスはどうにもいたたまれぬ気持になり。それは酒でごまかせそうになかった。なにより、ともすれば命の危険もあるかもしれないと思っていたが、それとは逆にこのように丁寧に接してもらい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

「それでは、私はこれにて」

 外に従者を控えさせている。供はそれひとりである。

「ご苦労さまでございます。お帰りもお気をつけて」

 イヴァンシムはガッリアスネスを外まで見送った。

 まだ事の次第は人々に伝えられていないので、街は落ち着いたものだが。ガッリアスネスは愛馬に乗り、従者ととも街を出てゆく。

 このロヒニの街が混乱するであろうことを想像し、眉をしかめる。

「こんなことをして何になるというのか」

 その憂いは深い。

「獅子王子は自ら闇の中へ入りて闇の眷属ならんか。光に包まれる身ながら闇に惹かれてる夜の子供ならんか」

 と、下手だと思いつつ、詩風の言葉を思い浮かべるのであった。

 憂い深きはニコレットも同じであり、

「国民にどう伝えたら」

 ニコレットは自室で涙ながらに思い悩んでいた。

 コヴァクスが行方不明になり、ソケドキアとの同盟は破棄されたことを伝えれば、混乱するのは火を見るよりも明らかである。

 それにしても、後から後から困難や争いが絶え間なくやってくる。いったい人の世はどうなっているのか。どうして人は争いを好み自らを困難に追いやるようなことをするのか。

 勇敢ながら純朴なところがある兄は、それに嫌気がさしてロンフェイとともに逃げてしまったのだろうか。ふと、ありうることだと思う自分に嫌気がさす。

「私だって逃げたい」

 色違いの瞳は涙に濡れ。とめどなく溢れはこぼれ落ちて、抱きしめる枕を濡らすのであった。

 部屋の外にはクネクトヴァとカトゥカが控えている。以後の事を他の者らと話し合わねばならぬのだが、ニコレットのまいっている様を見て、心を痛めていた。

 部屋にどうにか紅の龍牙旗を飾ったが、それをするとともに精も根も尽き果てたように、ドレス姿のままベッドに倒れこんでしまった。

「こんなときこそ、僕らがしっかりしてなきゃ」

「うん。アルカード様に恥ずかしくないように、がんばろうね」

 そう言い合って、お互いを励まし合うのであった。

 そこへイヴァンシムら重役らが来てニコレットの様子を聞いて、互いに顔を見合わせ、

「やむを得ん。以後は我らにお任せあり、小龍公女はお休みくだされと、伝えてくれ」

 そう言われて、ふたりは顔つきも凛々しく、「はい」とよい返事をするのであった。


 そんなことがあるとも知らず、コヴァクスは愛馬とロンフェイとともに船上の人となって、波に揺られていた。

「これが海か……」

 揺られながら、初めての船に何らかの感慨を覚えるでもなく。遠ざかる港をしばし眺めたあと、南にうっすらと見えるフィリケア大陸の北岸を眺めていた。

 ロヒニにいるころ、海は見たが、船で航海をすることはなかった。それが、あらぬことをきっかけに、船に乗り海を渡っている。

 大きな船だった。船には大勢の人々が乗って、談笑にふけったり海を眺めたりして。船員たちは忙しく甲板を駆けまわっている。

 船員たちはよく働き船内を走り回っている。彼らは自らをポエニキア人の子孫であると自負していた。

 大陸に囲まれた地中海マーレのもっとも東岸は、今はアラシア圏内となっているが太古の昔セリアと呼ばれる地域があった。ポエニキア人はそのセリアの出とされ、陸地よりも海を駆け巡ることを選んだ海洋民族だった。

 海を住処に選ぶだけあり、高い造船技術を持ち。また故地でとれる良質な杉の木を主な商品として貿易をおこない財をなし。

 そればかりか、彼らは知的な素質ももちあわせ、自らの文字を持つのみならず。交易各地に広め、その文字はさらに広がり、主にオンガルリを含めるエウロパ諸国の諸文字はこのポエニキア人のつくった文字をもとにしているという。 

 この船の行き先は、フィリケア大陸の北岸の都市、チェニス。

 当てもなくさまよううちある港町にたどりついて、チェニスが傭兵を募集しているということを聞いた。

 かつてフィリケア大陸の西北岸にはカルトガという国があった。

 海を住処に選んだポエニキア人たちの中から陸を住処に選ぶものがあり、まだ真空状態にあったフィリケア大陸の西北岸に定住し国をつくった。名は、ポエニキア人の言葉で、新しい街を意味するという。

 フィリケア大陸の北岸を東のイギィプトと二分しながら繁栄するも、エウロパを統一していたマーレ帝国は先にイギィプトと争い、次いでカルトガと争い、激しく抵抗をするもついには滅ぼされた。それとともに、ポエニキア人も滅んだとされる。

 そのマーレ帝国ものちになって滅亡し、エウロパには大小さまざまな国が割拠するようになったが。フィリケア大陸の方と言えば、イギィプトやカルトガが再興されるでもなく、国すらもなく。都市や街ごとが独立して、都市国家が割拠している状態だった。それにともない、各都市国家の人々は自らをポエニキア人の子孫であると称し、また海の人々も同じようにポエニキア人の子孫であると名乗るようになった。

 その真偽のほどはともかく。フィリケア大陸のことはよくわからず、チェニスも聞いたことがある程度。ロンフェイともなれば、さっぱりわからない。

 だが、コヴァクスはこの船に乗ることを選んだ。

「どこでもいい、遠いところへゆこう」

 気ままな傭兵稼業で日銭を稼ぎながら、のんびり暮らそうか。そんな誘惑がコヴァクスの胸の中にあった。

 それ以上に、とにかく遠い所へ行きたかった。自分を知る者のいない、遠い遠いところへ。

 

冬を迎えて


 ダノウの河畔において、ヴラデ率いるマーラニア軍と激しく戦い、これを退けるも、ダライアスは勝者たらず。

 その行方は依然として知れなかった。

 そのことは、アラシアにも伝わり。ダライアスを慕う者たちは、ひどく不安をおぼえて、その安否を気遣うのであった。

 しかし、それは公然とできなかった。

獅子王子アスラーンは大王の意図を無視し、勝手な真似をするから罰が当たったのだ」

 そういったことが、公然とささやかれていた。もしダライアスを気遣うものなら、

「お前はあの『ぼんくら』を心配するのか」

 と、責められるからだった。

 ことに、四つある都のひとつ、ルサにおいては、ダライアスへの批判は相当なものだった。それもそうだった、父であり大王であるクゼラクセラ自らが我が子を

「あれは本当に『ぼんくら』だった」

 と嘆いたからだった。

 頭髪を剃り上げたくましい肉体をもつクゼラクセラ大王は、金や宝石の輝きで我が身を飾り、ルサの王宮内の庭園におわし。

 その王宮の庭園、冬を迎えつつも太陽の恵みの光の祝福を受け、緑の木々生い茂り、鳥はうたい、地より泉水湧きながらも。それは広い王宮に無数とある大理石造りの壮麗な建物の屋上にあった。

 神話の時代の昔から、古代の王が造ったとされる空中庭園を、大王の力で再現したものだった。

 高山より水を引き王宮に流し込む「水道」の技術は、この地域においては太古の昔から受け継がれた知恵の結晶であった。

 水は命なり。水を制す者は世界を制す。

 そこに数十はいようかという美女をはべらせ。美酒に酔い酔い、アラシアの歴史に思いをはせる。

 アラシアはその版図を東はインダウリヤ、西はフィリケア大陸の北東岸からヴァラカナ半島を越えマーラニア・オンガルリにまで迫り。

 その広さ、いかに全力で駆け巡ろうとも一年はかかるであろう空前の大帝国であった。

 ルサはそのほぼ中央に位置し。他の三つの都もこのルサの近くにあり、季節や統治により大王やその一族は都を移動していた。

 広いアラシアは同じ国の中でも、その気候はずいぶんと違う。北は高い山がそびえる極寒であり、南に降れば灼熱の砂漠地帯があり、多くの人々はそれらを避けて、住みよい平野部に、特に川のそばを住処に選んでいた。

 水は生命の源であり、古来より人々は川辺を住処とし。ゆえに、水を制する者が世界を制するのだ。

 その世界を制したのが、彼方にある大草原ステップより来たるアラシアの王たちであった。

 かつて悪逆のバブルニア王あり。大草原より来たる偉大なるジャルシード王は悪逆のバブルニア王を討ちて、民を解放し。

 民はジャルシードを王と戴き、ジャルシードは王冠タージを戴き。はじめにさだめた都は、王座タフテが置かれ。タフテ・ジャルシードと呼ばれ。

 勇者たちは王座のもとにつどいて。真の勇者には、ジャルシードよりさかずきをたまわった。


 今その杯をもつものはなく、タフテ・ジャルシードの神殿に保管されて。新たな持ち主を待っている。

 最初の都タフテ・ジャルシードにおいては大王よりも神官の権限強く、ジャルシードの杯は厳重に守られ。クゼラクセラ大王といえども目にすることはかなわなかった。

「我がアラシアを世界の盟主とし、ジャルシードの杯を我が手にするのが、夢であるが。ダライアスは我が夢を壊そうとするのか」

 事の次第を聞いて、クゼラクセラ大王は人目をはばからずに叫んだ。

 それに同調する臣下たちに、王子たち。

「ダライアスは我が弟ながら、その不知恩、目に余るものがあります」

 そう言うのは、王位継承権を持つ第一王子アケネスであった。

「大王のお慈悲により戦功を立てる機会をいただきながら、勝手に軍を動かし、支配地域を離れたその罪、万死に値します」

 そう言うのは第二王子サーサヌであった。

 ところはかわり、大王の間に王子や臣下たちがつどい、今後の事が話し合われていた。

 ルサの人口は小国と同じくして、東西から様々な人々や物品が行きかい。まさに、文明交差点の様相を呈していた。 人々の目の色、髪の色、肌の色も様々それに伴い服装も言葉も様々であり、一見、ここがどこの国かわからないと思わせるものがあった。

 母国がアラシアと戦火を交えているという者もあるが。それはそれ、これはこれであった。

 戦火絶えぬ世界であるが、少なくともアラシア国内において乱はない。またアラシアは来る者は拒まず。戦火を逃れた難民にも居場所があたえられ、それらが民として住み着き、国を下支えしていた。

 それを強く推し進めたのが、ダライアスの母であった。そんな母を見てダライアスは育った。

 ともあれ、その繁栄の上にアラシアは成り立っていた。そこで、西方への支配をいかに強めるかが課題となっていた。

 西方には海があり、海を通じて外界とのつながりを持てる。今そのつながりがたたれようとしていた。

 グレース地域においては都市国家ポリスらが抵抗をあきらめず。その北にある旧ヴーゴスネア地域において反乱が起こり、新興勢力が台頭してきている。

 せっかく支配したオンガルリはダライアスが離れたことにより半空白地のようになったが、同盟する隣国マーラニアがなんらかの援助をして独立するであろう。

 それが東へと波及するかもしれない。それはなんとしても防がねばならなかった。

「かくなるうえは、予自ら西方へ赴こう」

 眼光鋭くクゼラクセラ大王は宣言した。

「ご親征でございますか」

 王子や臣下たちはどよめいた。

 大王はつい数日前まで、タフテ・ジャルシードにおいて杯を我が手にせんとしていたのだが、神官は頑として許さなかった。


 神のもとでは大王も平民もなく、これといった戦功もない者に身分だけで杯を与えることはできぬと。

 クゼラクセラ大王にとってジャルシードの杯を授与されることは、悲願であったが、いまだ叶わなかった。

 だがもうそれどころではなくなった。失われんとするアラシアの威厳を、ふたたび確固たるものにしなければいけなくなった。

「申し上げます!」

 近衛兵が息せき切って駆けつけ、なにごとかと思えば、

「ダライアス獅子王子はトンディスタンブールにおわした! しかし……」

「しかし、なんだ!」

 変に言い淀む近衛兵にいらだち、アケネスは叱咤する。それを受けても口はもごもごと言葉を発しかねているようであった。それをどうにかこらえ、次の言葉をどうにか発する。

「トンディスタンブールは独立を宣言。アラシアの王位継承権をダライアス獅子王子に与えるよう要求しております」

「なんだと!」

 アケネスにサーサヌは無論のこと、臣下たちの驚きは大きかった。クゼラクセラといえば、冷静に、眼光鋭く話を聞いていた。

「大王に近しい方々は皆追放されてしまい。やむなく近郊の都市へと移っておりますが」

「ダライアスが……」

 この報せにクゼラクセラも驚きを禁じ得なかったが、すぐに冷静になり、口をつぐんで少し考えるそぶりを見せ、

「西への派兵は変わらぬ。目的地がトンディスタンブールになっただけのことだ」

 その言葉が何を意味するのか。臣下たちはふたたび驚き、王子たちは歓喜した。

「女狐の子が、ついに正体をあらわしました!」

 アケネスにサーサヌは叫び、臣下たちも打倒ダライアスに同調した。

 ダライアス、トンディスタンブールにて挙兵!

 という報せは四方を駆け巡り。ヴァラカナ半島においては、クゼラクセラ大王の耳に届くより早く、多くの人々が知ることとなった。

 季節は冬へと移り、肌を刺すような寒さが人々に降りてきており。山々は降雪が確認されていた。

 その降雪が確認される直前と、ダライアス挙兵の報せの直前に、ニコレットを大変驚かせることがあった。

 コヴァクスの失踪は、隠すにも隠すわけにもいかず。断腸の思いで知らせた。

 その任を仰せつかったのはイヴァンシム、バリル、ダラガナの三人であった。まず三人は心を鬼にしてニコレットに、ロヒニにおいてはコヴァクス失踪の件を発表させた。

「悲しくも兄は行方知れず。……かくなるうえは、私が国王代理として新オンガルリを治めてゆきます」

 とは言うものの、案の定、ロヒニの人々はどよめき、動揺をきたしたものもあった。


「小龍公がいなくなって、この国は大丈夫なのか」

 アラシアに支配され、暴政と搾取がひどかったのを、解放してくれた。と安心したのもつかの間、その落胆は大きかった。ソケドキアとの関係も危ないというではないか。

 色違いの瞳は、ざわめく人々を写し。表向きは毅然としているものの、なにかの拍子に大泣きしそうなのを懸命にこらえているのが現状であった。

「うろたえるな。ここで狼狽すれば、また昔に逆戻りだぞ!」

 そう叫んだのはバリルであった。その張りのある声に、人々ははっとして、ひとまずは落ち着いた。

 それからが、三人の出番であった。

 主にロヒニの街の有力者を訪問してまわり、コヴァクスがいなくてもニコレットがおり、さらに自分たちがそれを支えるという旨を語った。

 その甲斐あり、ロヒニはとりあえずは、平穏であり。港もいつも通り交易がおこなわれていた。だが、前にシァンドロスが乗り込んできたようなことがあるかもしれず、警備は厳重になった。

 ニコレットは心労から体調を崩し、伏せることが多くなった。それと対照的にクネクトヴァとカトゥカは溌剌とし、ニコレットを公私共に支えていた。

 それら皆の協力がなければ、ニコレットはおろか、せっかく建国した新オンガルリは、どうなってしまったであろう。

 ソシエタスとラハマディにペロティアも事の次第は知っており、薄氷を踏む思いながらも自分の仕事に精を出していた。

「小龍公が逃げたか。あいつがそんなことをするのか?」

 ラハマディは憮然としながらも、心のどこかでまた戻ってくるさと期待するものがあった。

「あいつには借りがあるからな。勝ち逃げは許さねえ」

 それを聞くペロティアも、

「ほんとならあたしも逃げたいけど、あいつと同類になるなんて悔しいからね」

 と踏ん張りを見せていた。

 そんなとき、ラハマディとペロティアが預かる街に訪問者があり。なんでもオンガルリから来たという。

 太陽の恵みも光り降り注ぐも肌寒い冬晴れの朝。その代表は、街を預かるラハマディとの面会を求めた。

「オンガルリから客、だと」

 もしかしたらそれらと戦わねばならなかったアラシア人のラハマディは、今さらながら運命の不思議を思いながら、一同を官舎の一室に招き入れペロティアとともに面会した。

「お会いしていただき、感謝いたします。わたくしは、オンガルリの女王、ヴァハルラでございます」

 服もぼろで身なりこそ貧しいが、丁寧な言葉づかいにしとやかな所作でうやうやしく、感謝の言葉を述べるヴァハルラ女王と名乗る女性に、ラハマディはやや呆気にとられた。

(オンガルリの女王……)

 ともの者といえば、三人の子供と老騎士と若い騎士との、総勢六名であった。


「王族なのに国から逃げてきたの!」

 思わずペロティアは素っ頓狂な言い方になってしまった。

「コヴァクスが逃げたと思ったら、今度はオンガルリの王族に逃げ込まれちゃったよ。どうなってんの?」

「コヴァクスが逃げた、だと? 娘さん、それはどういうことだ」

 若い騎士はコヴァクスの名を聞き、ペロティアに詰め寄る。他の者らの視線も、ペロティアに集中する。それに対してラハマディも視線を送り返す。

「失礼。オレはアッティ。オンガルリの騎士だが、コヴァクスとは蹴球仲間なんだ」

「小龍公の蹴球仲間か。オレも多少はたしなみがあってな、あいつの蹴りにやられた借りがある」

 ラハマディにペロティアはぞんざいな言葉遣いをする。どうしてこれらがコヴァクスの建てた国で街を預かっているのか不思議であると、老騎士のラハマディを見る目は厳しく。その人物を吟味しているのはいうまでもなかった。

「失礼。それがしはマジャックマジルと申す。小龍公の蹴りはいかがでござった」

「オレは網の守備をしていたが、悔しいが、決められてしまってな」

「蹴球をされたのでござるか」

「いや、ちゃんとしたかたちでなく、なんか成り行きで小龍公とやりあってな。その借りを返したいと思っているんだが」

「ねえ、ねえ。今は蹴球の話じゃないでしょ」

 話がずれてゆくのをペロティアが止める。

「ああ、そうか。オレら怪しまれてんのか」

 ラハマディははっと気づいて、苦笑する。無理もあるまい、会ったときに一応自己紹介はしているのだが。

(小龍公は異国の者も仲間にされ、さらに蹴球もされていたのか)

 急に、厳しかったマジャックマジルの目が穏やかになった。

「いや、小龍公が信じ、街を預けているお方であれば。怪しい人ではありますまい」

 マジャックマジルは不安そうなヴァハルラらにそう言って安心させる。ペロティアはじっと控えているはずだったが、

「でもなんで、オンガルリから出たんですか?」

 と、ラハマディが聞かねばならないことを代わって聞いた。

「はい。……我が国の情勢、ダライアス獅子王子が出てゆかれてから不安になりまして」

「そんなにやばいのか?」

 王族を相手にも俗っぽい言い方がどうにも抜けないラハマディとペロティアに、アッティは厳しい目をむける。

「言葉づかいに気をつけろ!」

 と、どやしつけたくなるが、立場を考えればこらえるしかなかったことが悔しいながらも。

「ところで、小龍公が逃げたとは、どういうことだ」

 と、話がずれて聞きそびれたことをやっと聴く。とにかく苛立っている。


「オレもよくわからんが、ソケドキアの王子と一緒に出掛けてな、行った先で失踪したと」

「コヴァクスが失踪だなどと。お前、でたらめを言うと許さんぞ!」

「オレもでたらめと思いたいが、実際ソケドキアから来た使者がそう言ったそうだ」

「ソケドキアのシァンドロスか。自らを獅子王子リオンターリと称する新興勢力の王子だと聞いたが……」

 なにやらややこしくなりそうなので、話を切り上げたいラハマディは

「難しい話でよくわからんが、紹介状を書くので早めにロヒニに行った方がいいだろう。ここも、なんだかんだでやばそうだからな。ロヒニなら、いざというとき船で逃げられる」

 と、ヴァハルラにそう言った。

「はい、ありがとうございます」

 ヴァハルラは礼を言い、一行は別室に案内されしばらく休み。その間ラハマディは紹介状をしたため、ヴァハルラに手渡した。それと同時に早馬を出し、ソシエタスに事の次第を報せ。またロヒニにもゆかせ、ニコレットらにも報せようとする。

 アッティは騎乗し。ヴァハルラら家族は馬車に乗り、手綱はマジャックマジルがにぎり。ラハマディに礼を言い、街を発った。

「これは、えらいことになりそうだぜ」

 見送るラハマディはぽそりとつぶやき、ペロティアも「うん」と頷き。それから、街に来ている商団の者らを集めた。

 その一方、陽も落ちてこようと言う頃、早馬の伝令から事の次第を聞いたソシエタスは、

「なんだと!」

 おおいに驚き、天を仰いだ。

「おいたわしや。我らに力がないばかりに……」

 拳を握りしめ、王家の不遇を嘆いた。しかし嘆いてばかりもいられない。一行がこちらに向かってきているということで、ソシエタスもすぐに支度をして預かる街を発った。

 しばらく馬を飛ばせば、言われた通り、マジャックマジルにアッティらが遠目に見え。久しぶりに見る顔なじみに、こみあげるものがあり、

「おおーい!」

 咄嗟に大声が出た。それは一行にもわかり、

「おお、ソシエタス!」

 マジャックマジルは顔をほころばせ、馬を前に進め、互いの顔がよく見える距離まで近づき。何かを言うよりも互いに手を差し伸べ、かたく手を握り合った。

 その頃にはもう黄昏時で、徐々にそれぞれの顔は夜のとばりに覆われていっていた。

 アッティは用意していた松明に火をつけ、灯りをともす。

「アッティも、久しぶりだな」

「はい。お久しぶりでございます。このような形で会うのは、不本意ですが」

 馬車に近づいたソシエタスは、アッティとその向こう、馬車の幌の中から顔を出すヴァハルラとその子ら、第一王女オレアに第二王女オラン、そして末っ子の王子カレルを仄暗さの中で見て。

 感涙おさえがたくもかろうじておさえ、下馬し跪いた。


「お久しゅうございます。我らに力がないばかりに……」

 それ以上の事は、声が詰まって言えなかった。ことに、小龍公コヴァクスの失踪にソシエタスもたいへん胸を痛めていた。まさか、と思いたかったが、実際コヴァクスは帰ってこないので、信じざるを得なかった。

「ソシエタスこそ、苦労をおかけしてしまい、我らこそ申し訳ない」

「もったいないお言葉」

 女王の言葉にソシエタスはいよいよ泣き出しそうだった。騎士らしい剛毅さはあるが、生来生真面目なこの男は、案外涙もろいところがあった。

 女王のみならず、子供たちもソシエタスの顔を見て、暗かったのがぱっと明るくなったのを見てなおさらだった。

「さあ、ゆきましょう。案内いたします」

 揺れる心をおさえ、騎乗し、夜闇の中松明の灯りをたよりに街へゆく。その道中、話は尽きなかった。特に子供たちはソシエタスを見てから、顔は確かに明るくなり、

「ねえ、ソシエタス」

 と、何かにつけて話しかけてくる。それまでが、よほど不安であったのだろう。

 やがて街に着けば、すぐさま官舎に案内し。旅の汚れを落とすために湯を沸かせ、空腹を満たすための食事の支度をさせた。

 食事はラハマディのところでもして、生き返った心地だったが。ここでは、湯につかれて安らかな眠りにもつけるという安心感もくわわり。一行の顔から緊張が解けてゆくのがよくわかった。

「しかしなぜ国を出たのですか?」

 と早く聞きたいのをおさえて、ともに食事をとり。それが終わると、子供たちは寝室へと案内されて、用意された寝間着に着替えて、安らかな眠りについた。

 子供たちが離れ、大人だけになり。

「これもすべて、イカンシどものせいだ!」

 アッティは忌々しく吐き捨てた。

 私欲に走った奸臣にそそのかされ、道を誤り、おめおめと虜囚となってアラシアに征服されたのだ。

 とはいえ、なぜイカンシは死に、国王直参の黒軍フェケテシェレグは、大将であるカンニバルカごといなくなったのか。なぜイカンシは私欲に走ったとはいえ、国を滅ぼすようなことをしたのか。謎は多い。

 が、謎解きをする余裕はなかった。

 隣国で同盟国であったマーラニアはヴラデをもってダライアスを討とうとしたが返り討ちに遭い。かといってダライアスは凱旋したという話は聞かず、行方不明になり。

 それから、ヴラデの妻であるエリジェーベトが何やら不穏な動きをしているようで。明らかに臣下たちの、王家への接し方が変わり、どこか冷淡になった。

 それにともない、レドカーン二世も、妻子に対し冷淡になり……。

「王は正気をなくされ、やむなく隔離し療養生活を送っておったのですが」

「それを、突然マーラニアから帰ってきたエリジェーベトが外に出しおってのう」

「エリジェーベト、たしかヴラデ公の」

「そうじゃ、あのヴラデに嫁ぎマーラニアに行っておったあの女じゃ。子もおらぬと、母国に帰ってきたのじゃが」

 エリジェーベトはオンガルリに帰ってきて、女の身であるにもかかわらずルカベストの王城にて男の臣下たちとともに国政に関わり。そればかりか、

「王はおさびしゅうございましょう、などと、夫の死から間もないというのに……」

「まさか……」

 ソシエタスはごくりとつばを飲み込んでしまった。男女の話に対し苦手意識がある初心うぶな性格だった。

「その、まさかじゃ。あろうことか、自ら夜伽を買って出てのう」

「それ以来、王はエリジェーベトにべったりで。まるで妻子などなきかのごとくです。私は、女王と王子があまりにもおかわいそうでなりませんでした」

 蝋燭を乗せた燭台の乗る円卓を囲み。ヴァハルラは無言のまま、何も言わないが。閉じられた目からは、うっすらと涙が浮かんでいた。

 衛兵や召使いの数も減らされ。人の集まる王城の中にあって、妻子は孤立させられてしまった。

 そればかりか、エリジェーベトとともにマーラニアからも多数の将兵がオンガルリに入ってきたのだ。

「これはまずいと思っておったが」

「私も、気が気でならなかったのですが。あらぬことが起こりまして」

「あらぬこと?」

 ソシエタスが気になっているのを見て、ヴァハルラは顔を伏せ、手で覆った。

「かまいません、お話してあげて」

「……はい」

 何があったのか。ヴァハルラはいたく恥じ入っている様子であった。それを気にしながらも、マジャックマジルは語る。

「男が女王のお部屋に忍び込んできたのじゃ」

「なんと、曲者が」

 ヴァハルラは驚き、悲鳴を上げ。駆けつけた衛兵により取り押さえられたが。その翌日に、

「国王陛下がありながら、女王は男をつくっていたというではないか」

 などという話が持ち上がったのだった。

 本来火消しにつとめるはずの臣下たちでさえ、「けしからんことだ」とヴァハルラを責めた。取り押さえた衛兵でさえ、なにもせず味方をせず。話が膨らむのを傍観していた。

「その挙句に、不貞を犯す女王を追放せよ、などと、エリジェーベトは言いだしたのじゃ」

「なんという」

 ソシエタスは絶句した。あんまりな話である。そんな露骨なやり方で女王を追い込むなど。

 これには、ルカベスト大聖堂の筆頭神父シキズメントも心を痛め。城におもむき、女王と面会し、その悩みを聞き。

 それから、マジャックマジルはシキズメントから話を聞き。そこで、コヴァクスをたよって国外逃亡を企て。信頼する若い騎士のアッティに打ち明けた。

 マジャックマジルはシキズメントとアッティとよく話し合い計画を立て。別の日にシキズメントはヴァハルラにその話をした。

 最初驚いていたヴァハルラだったが、マジャックマジルとアッティが守ってくれるということで、意を決した。

 後日、女王と王女、王子はお祈りにゆくと馬車で大聖堂へと向かい。その御者はマジャックマジルがつとめた。

 王族の外出だというのに、護衛の兵はつけてもらえなかった。それが何を意味するのか。ほんとうに曲者に襲われて危害を加えられてもかまわないと、その存在は粗末に扱われているということだった。

 だが、それが好都合だった。

 大聖堂へはゆかず、そのまま逃げだし。郊外でアッティと一緒になり、一路新オンガルリを目指した。

「道が雪で閉ざされる前に逃げ出せて、なによりじゃったが」

「まさか、コヴァクスが失踪とは……」

 マジャックマジルとアッティは憮然と言い放った。よもやコヴァクスが行方不明など、どうして想像しえよう。

「まさに、冬を迎えたわけですな」

 ない詩心から詩的な言葉が出たが、そこに風情のふの字もなかった。

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