龍の騎士と獅子の王子 Ⅱ (56304文字)
けだもの
宿は上を下への大騒ぎになった。宿の主におかみ、泊り客たちは巻き添えであり。大変な不安を覚え、身体を震わせ恐慌をきたしていた。
「あんたがヒュカンテスさまを拒んだおかげでこのざまだ!」
主とおかみはサロメに食って掛かった。だが、
「うるせえぞ!」
という商人とペロティアの怒号に怖じて飛ぶように駆けて自分の部屋にひっこんで、そこで身を寄せ合いがたがたと震えるしかなかった。
泊り客も大慌て。その中で度胸のある者が、
「オレは魔女じゃないから、行ってもいいだろう」
と進み出たが。途端にたくさんの矢が飛び、針鼠にされてしまった。
魔女などいいがかりであり、サロメにふられてその腹いせに兵をもって宿を包囲したことは誰でもわかった。日没まで待つ、というのはサロメの心変わりをまだ期待していると見ていいだろう。
「はい全員集合」
サロメは手を叩いて、自分が泊まる、宿で一番広い部屋にコヴァクスらや商人たちを集めた。
「とんだ成り行きになりましたな」
ソシエタスは気遣うように言う。自分たちが見つかってではなく、サロメにご執心の代官のご乱心などという事態になるとは考えもしなかった。
が、今になれば、サロメにご執心な男どもはたくさんいるだろうし。そのために手段を選ばぬこともあろう。今までこのようなことが多かったのではないかと思うと、すこし、サロメが気の毒に思った。
「ほんとうに、とんだ成り行きで」
ソシエタスの気遣いを受け止め、軽くうなずく。
「殿方から何度かお声掛けがあったんだけど、こんなことは、アラシアでは初めてだね」
「アラシアでは初めて?」
ニコレットはきょとんとする。アラシアは大国の驕りがあり、人も粗暴であると思っていたから、意外な思いだった。
「ずっと東のインダウリヤでは何度かあったけど、まあどうにか切り抜けてきて。アラシアに入ってからは、ダライアスさまの動きに合わせて商売してきたからね」
「ダライアスに?」
ニコレットは色違いの瞳をサロメに向ける。彼女がダライアスを買っているようなのも、意外であり興味を引いた。
「ダライアスさまはお年に合わず厳格なお方で、配下に乱暴狼藉を働かせないから、あたしらだけじゃない、行商をしている者は皆ダライアスについていったものだよ」
「そうなのか」
コヴァクスも意外そうに驚いていた。ダライアスといえば、クンリロガンハでの戦いでの悔しさが蘇る。
今ごろオンガルリはダライアス率いるアラシア兵に踏みしだかれていると思うと胸が張り裂けそうであったが。そういうことはない、と?
「クゼラクセラ大王さまに命じられて東でインダウリヤとやりあっていたのが、突然西へゆけと命じられて。なかなか大変そうだったよ」
「大変そう?」
ダライアスの勇名はアラシアの国外にも轟いている。東のインダウリヤとも刃を交え、その武勇は相手を感歎させたというのも聞いたことがある。実際に戦い、勇士であることはわかっているが。それが大変そうな思いをする、というのはどうにもぴんとこない。
「まああんまり詳しくないけど、大王さま、王子王女をえこひいきして、ダライアスさまは嫌われているらしいよ。獅子王子なんてご大層なあだなも、かっこ悪い思いをさせようとして、無理やりつけたらしいし」
「なに?」
「考えてもみな、獅子王子なんてご大層なあだ名をもっていて負けてしまうなんて、かっこ悪いじゃないか。大王さまはダライアスさまに、そんな思いをさせようとして、戦争ばっかりさせてんだよ」
「……」
「ともあれ、ダライアスさまの監視の目がなくなって、ヒュカンテスも本性をあらわしたってことだね」
「……」
コヴァクスら無言。
ことの真偽ははかりかねるが、もしそうだとしたら、こちらこそ侮辱的ではないか。
「ああ、話がそれたね、ごめんごめん」
苦笑いしつつ、サロメは改めて一同を見渡す。
「この場をどうするか。私がヒュカンテスに頭を下げればいいんだろうけど、あんな気持ちの悪い男はいやだね」
あからさまに侮蔑する態度を取り、ペロティアと商人たちは大きくうなずく。すると、扉が突然開いて、
「いっときごまかすだけでいいから説得してくれ!」
と数人の他の泊り客がサロメに詰め寄る。完全な巻き添えなのだから、サロメを見る目は厳しい。しかし、
「うるさい、出てった出てった!」
と商人らとペロティアが部屋から叩き出す。それからも扉越しに、
「魔女め!」
という悔し紛れの罵声が飛ばされる。
コヴァクスらはかたく緊張し、この成り行きに身を置くしかできなかった。それに対し、サロメは冷たく無表情ながら、口元はうすく笑っているようだった。
(このひと、何を考えているの?)
この事態を楽しんでいるように見え。いわゆる大人の女というものとは、このようなものなのかと、カトゥカはサロメに怖いものを覚えた。
「サロメ、サロメよ!」
ヒュカンテスの叫び声。
従者に担がせる輿に乗り、あぐらをかいてもろ手を挙げて大声を張り上げる。
その他に護衛の兵士に、謎の荷車。木でできたそれは木の箱の車であり、中に何か入っているようである。
「物で我が心をごまかせると思うな。私はなんとしてもサロメがほしい!」
何の恥じらいもない。欲望に突き動かされるがままに、ヒュカンテスは叫んでいた。
思いは届かなかった。しかし、あきらめられない。ならば、力尽くでだ。
が、いかに大声を出そうと、宿の外からサロメの部屋の中にまで声は届かない。だから宿の主とおかみは、一旦自分の部屋にこもったものの、事態解決、もとい危機を脱するために逐一知らせて。知らせながら、
「なんでもいいから代官さまを鎮めてくれ!」
と懇願するが、知らん顔で追い払うのみ。これにはコヴァクスは眉をしかめた。
「いくらなんでも冷たいだろう。なんとか説得できないのか?」
「そうだね、できるものならとっくにしてるよ」
「なに?」
「ヒュカンテスはもう、正気を失っているよ」
「どうしてわかる」
「なんか、おっきな木の箱の車が来たって?」
「ああ、宿の主人が言ってたな」
「あの中になにがあるのか、知ってる?」
「いや……」
サロメはくすりと笑い、
「け、だ、も、の」
と変に間隔を開けてそう言った。言い終えて、ジャマダハルを装着する。ペロティアに商人らも得物を手にしている。覚悟を決めて一戦交えようとするつもりだ。
「けだもの……」
「そう、けだもの」
「それは野獣かなにかか」
「その野獣そのものだよ。早く鎧着た方がいいよ」
部屋の中にはあずかっていた武具一式もあり、サロメはそれを指さす。
「もう戦いは避けられないの?」
ニコレットは色違いの瞳を鋭く光らせて言う。言いながら戦いは避けられぬことを直感でさとった。
「残念ながらね。あ、女は別室で着替えられるよ」
言われてニコレットとカトゥカは部屋の中にある別室に甲冑を持って入った。
「やれやれ、これは大変なことになりそうですな」
「大乱が起こるよ」
「……かもしれませんな」
ソシエタスも覚悟を決めたようだ。終始無言のクネクトヴァも覚悟を決め鎧をまとい、鞘から剣を抜き剣身を眺める。
「野獣とは、野獣に人を食わせるのか」
「ああ、あたしらはけだものの餌さ」
武装を追え臨戦態勢に入り、コヴァクスの顔つきは凛々しくなり。サロメはそれを好ましく眺めた。
ニコレットとカトゥカも鎧をまとい終え、別室から出てきた。
「サロメ、なにか大き目の武器はないか」
「あるけど」
「そいつを使わせてくれ」
「いいけど、ただじゃないよ」
「代価は、お前たちの身の安全だ」
「いいよ、あれをもっておいで」
商人に命じて、しばらくして戻ってくれば、通常の倍の大きさの剣を差し出された。
「破壊力あるよこの剣。扱えればの話だけどね」
その言葉にうなずき、大剣を受け取った。ずしりと腕に来て、手ごたえを感じた。鞘はなく剣身に布を巻きつけられて、それを外せばぶっとい剣身があらわれ。しばらく眺める。
「サロメ、サロメ、おおサロメよ!」
ヒュカンテスはサロメの名を叫び続けていた。それはまるで戯曲の悲劇の主人公のように。
夕陽は紅にそまり、影が伸びていた。
「日没まで待つと言ったが、待てぬ!」
木の箱の車を血走った目で睨み、「ゆけ」と叫べば。人夫は後ろから勢いよく押し、宿に突っ込ませた。それと同時に縄が引かれれば前が開き、大きな黒い影が勢いよく、地響きを立てて飛び出した。
それは宿の扉をぶち破って中になだれ込んでゆき、空を裂けんがばかりの悲鳴とけだものの彷徨が宿中に響いた。
「ヒュカンテスの奴!」
サロメは忌々しく叫んだ。日没まで待つと言いながら待てずに、けだものを放ったのか。
ぎゃあああ――
もはや人とは思えぬ悲鳴がけだものの彷徨にまじって響く。それから骨肉を噛み砕く生々しい音まで耳に飛び込み、クネクトヴァにカトゥカ、ペロティアは思わず耳をふさいだ。
「うむ!」
コヴァクスは大剣をかつぎ部屋の扉を開けたが。
「!!」
目に飛び込むけだものと、それに食い殺された無残な人の死体。それは宿の主とおかみだった。
「大熊!」
人ならぬ野獣をはなつのはわかっていたが、どこで捕まえたのか、まさか大熊とは思いもしなかった。
「お兄さま!」
「来るな!」
助太刀に駆け付けるニコレットを部屋の中に突き飛ばして、自分も部屋の中に飛び込んだ。
どどど、という図太い足音がし。扉を巨体で打ち破る音がした。咄嗟に部屋に戻ったコヴァクスは見つけられなかったが、他の者が見つかったようで、その悲鳴が響いた。その声は女と子供だった。
「いやああ」
「お母さん、おか――」
お母さんと叫ぶ子供の声が途中で途切れ、後にはひたすら女の嗚咽交じりの悲鳴が響いた。
クネクトヴァにカトゥカ、ペロティアは耳をふさいで固まったままだ。
「いや、いや、いやあーー!」
女の悲鳴が響いていた。その悲鳴にはこの世の者とも思えぬ恐怖と苦痛がないまぜになり。この悲鳴を上げている最中に、大熊に食われていることは想像にかたくなかった。
やがて悲鳴が途切れた。
「くそ!」
コヴァクスは扉を開けようとするが、それをソシエタスとニコレット、サロメが止める。
「気持ちはわかるわ、でもあなたひとりじゃ無理よ!」
「じゃあどうすればいいんだ!」
コヴァクスはサロメを睨んだ。うかうかしているうちに、罪のない人たちが狂った男の放ったけだものによって犠牲になってしまい。コヴァクスは胸が張り裂けそうだった。
「ゆるしてくれゆるしてくれ」
大熊に食い殺された母子の夫は我先に窓から外に逃げ出していた。顔は恐怖でくしゃくしゃになり涙も鼻水も垂れ流し無残な有様であったが、そのことに気付く余裕などなく、ひたすらに逃げた。
他にも数名、窓から逃げ出したものもあった。が、しかし。
突然飛来した矢が夫の肩を射抜き、驚きと苦痛で思わずころんでしまう。他の者にも同じように矢が飛び、身体のところどころを射抜かれる。
「待ってくれオレたちは関係ないぞ!」
何を言おうとも問答無用と矢は飛来し、絶望にあふれた悲鳴が空をつんざき。それをヒュカンテスは心地よく聞いていた。しかしそこに喜びはない。
「サロメは、サロメの悲鳴はまだか!」
脳裡に大熊に食い殺され無残なことになったサロメが浮かぶ。
どうせ手に入れられないなら、破壊してやる! そんなゆがんだ情念ばかりが胸の中で燃え盛る。
この大熊、小熊の頃に愛玩動物として商団から買ったものだ。それが長じるようになると、いいことを思いついた。
罪人を大熊に食わせるのだ。
わざと餌を抜き、餓えたところに罪人を放り込む。
なすすべもなく絶望いっぱいに食い殺されるのを見ることに、一種の快感と悦びを感じたのだ。
とくに餌が若い娘ともなればもう、大興奮である。
年頃の若い娘はつい粗相をしてしまうものであり、時として役人の厄介になってしまいがちである。そんな若い娘を連れてこさせては、大熊に食わせたものだった。
もちろんこんなことは堅物のダライアスには秘密だ。だから大熊を飼っていることすら黙り通し、このリジェカ地方から出て行ったときにはほっとしたものであった。
「食い物はどこだ!」
そんな叫びにも似た彷徨がとどろき、扉や壁が巨体で破壊しながら餌を求める大熊は、ついにサロメたちのこもる部屋に目をつけた。
大剣を握るコヴァクスはごくりと生唾を飲み込んだ。サロメすらさすがに緊張を覚えていて、目つきは鋭いを通り越して険しい。
「逃げるよ!」
「逃げるって、外に出れば矢の餌食だ!」
「あたしに考えがある、窓から出たら同じようにするんだよ!」
「ほら、お姉さまの言う通りにしなよ!」
ペロティアは勇気を振り絞り、クネクトヴァとカトゥカに怒鳴った。ニコレットにソシエタス、商人たちも爆発しそうな恐怖をおさえて、うなずく。
窓から外を覗けば矢で射殺された死体が転がっている。深呼吸をして、まず自分が窓から外に出た。
「待って、サロメよ、殺さないで!」
弓を構えていた射手はサロメを確認して、すぐには矢を放たなかった。主がお熱の女である、とりあえず指示を待った。
サロメの声はヒュカンテスも耳にした。
「なにをしている、殺せ、サロメを殺せ!」
射手は矢を放った。しかしサロメを射抜けなかった。
「死体を盾に!」
指示を待っている間にサロメは死体をかついで、なにをするのかと思えばおそろしいことに死体を盾にして矢を防いだではないか。それに続いてペロティアに商人たちも素早く窓から出て死体をかついで盾代わりにして矢を防いだ。
「人間の身体は案外丈夫だからね」
にやりと笑えば、射手のひたいに短剣が飛来し突き刺さり。どお、と倒れる。ペロティアがはなったものだ。
商人たちも同じようにして、のこり四人の射手に短剣をはなった。ペロティアのようにひたいに当てられなかったが、頬や顔面、喉と当て致命傷を負わせ矢を放てなくした。
「なんていう……」
窓に出たら同じようにしろと言っても、何をするのかと思えば、死体を盾にするなど騎士として考えられぬことをサロメらはやった。これはとても真似できぬと、部屋の中でことの成り行きをやや呆然と見るしかなかった。
が、ゆっくりしている余裕はない。大熊の彷徨がとどろき、地を揺るがす足音もする。こっちに向かってきている。
幸い射手はペロティアらがしとめて矢の危険はなくなり、外に出られた。
「さあ、小龍公女!」
ソシエタスにうながされてまずニコレットが外に出て、
「先に行け!」
とコヴァクスに言われてカトゥカ、クネクトヴァが外に出た。次はコヴァクスと思っていたソシエタスだが、当人は部屋の扉から少し離れたところで大剣を構えて大熊にそなえて動かないでいる。
「小龍公お早く!」
「……お前が先に行け!」
扉の向こうで壁が砕かれる音がする。大熊はあたりかまわずに体当たりをして、破壊の限りを尽くしているようだ。
「小龍公、ご無理をなさらず!」
「おいソシエタス、あの大熊なんか様子がおかしくないか」
「様子が?」
「どうもふらふらして、まっすぐ進めないみたいだ」
「いやそんなことより」
宿が揺れた。壁を崩し柱を倒して、もろくなってきたみたいだ。
「これはいかん。宿がくずれますぞ」
木造の質素なつくりとはいえ、暴れる大熊の巨力に耐えられずところどころ悲鳴のようなきしみを立てる。
コヴァクスは咄嗟に駆け出し、窓から飛び出した。ソシエタスもそれに続いた。その直後、壁に大きなひびが入り、宿は轟音を立ててついに崩れ去った。
「ああ、ああーー!」
ヒュカンテスは悲鳴を上げた。崩れた宿の下敷きになった大熊を憐れんで、ではない。死体を盾にして射手をしとめたペロティアたちは得物を手にしてヒュカンテスめがけてまっしぐらに駆けた。
思惑が外れてサロメがこちらに明らかに殺意を向けていることに、耐えがたい屈辱を感じていたのだ。
その目は溢れんばかりの殺意と、軽侮の念がこめられている。このようなまなざしを受けるのはまこと屈辱であり、それがサロメゆえに、何十倍もの屈辱感が身体を駆け巡る。
「ヒュカンテスさまをお守りしろ!」
護衛の兵士らは槍や剣をかかげて守りを固めた。
ぐわああ――
地鳴りのような彷徨が轟き、瓦礫から大熊が立ち上がった。
それは魔神が地中より誕生したかのような恐怖を人々に与え。ヒュカンテスには歓喜を与えた。
「熊はまだ生きているぞ!」
兵士が叫んだ。なにせけだものである、敵味方の区別などあるはずもなかった。
「案ずるな、熊には毒を飲ませてある!」
おびえる兵士をはげますようにヒュカンテスは言った。いかにサロメに熱を上げていたとはいえ馬鹿ではない。餓えたけだものに敵味方の区別がつかぬことくらいはわかる。だから毒を飲ませて暴れ続けられないようにしておいたのだ。
瓦礫から大熊があらわれたことで、サロメらは足を止め、ひと塊になって大熊にそなえる。
(けだもの……)
大熊もけだものだが、それを放って人を食わせようとするヒュカンテスはそれ以上にけだものだ!
「くらえ!」
崩壊直前に外に飛び出ていたコヴァクスだが、大口開けて彷徨する大熊を睨み、素早く拳大の瓦礫を見つけて思い切り蹴った。
瓦礫は開け放たれた大口の中に飛び込み。大口の奥の喉の穴をふさいだ。
喉をふさがれて大熊は驚き、後ろ向けに倒れて、仰向けになりまるで亀のように手足をじたばたさせた。
「おおお!」
大剣を掲げてコヴァクスは瓦礫の山を駆けた。大熊は手足をじたばたさせるのみ。
「くたばれ化け物!」
剣をどてっ腹に突き立ててやろうと駆けるコヴァクスであったが、窒息しているはずの大熊は立ち上がり。すぐ近くまで来たコヴァクスと目が合ったかとおもえば、四つの足で瓦礫を蹴って突っ込んでくる。
「うおお!――」
喉が張り裂けそうなほど叫び、コヴァクスは大剣を前に突き出した。その直後、腕に、大剣が肉にめり込んでゆく鈍い感触がして、柄から手が引きはがされて、大熊の太い胴がぶち当たって思いっきり吹っ飛ばされてしまった。
強い衝撃が走り、宙を舞い、背中をしたたかにうちつけて地に落ちて。全身にひどい痛みが走り、身動きができなかった。
おお、というどよめきが起こる。見よ、大熊は大剣を飲み込んで口から柄を出した状態で駆けたかと思えば、ごぼりと多量の血を吐き、どお、とうずくまり。
苦痛の喘ぎ声をうならせるばかり。
「お兄さま!」
「小龍公!」
ニコレットにソシエタスらは慌ててコヴァクスのもとに駆けた。大熊に弾き飛ばされた衝撃から身動きが取れず、歯を食いしばって痛みをこらえる以上のことができないでいた。
大熊は喉から大剣を突き立てられて、その苦痛はいかばかりか。人にも同じような苦痛を与えて食い殺したとはいえ、唸り声は憐れみを多分に含んでいた。
「なぜオレが死ななければいけないんだ!」
大熊の唸り声を人の言葉にすれば、そんなところだったろう。
「馬鹿な、馬鹿なあー!」
これまた喉も張り裂けそうなヒュカンテスの痛いまでの悲鳴が響いた。まさか大熊がたおされようとは。
「熊がやられた……」
ヒュカンテスを護衛していた兵士たちは、目の前で起こっていることがにわかに信じられず。がたがたと身震いしていた。それから「わあ」と叫んで、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
大熊を倒すような化け物を相手にして勝てるわけがない、と臆病風に吹かれて。主を守ろうとするものは、誰ひとりとしていなかった。
「ふぎゃ!」
輿を担ぐ従者らも、主を放り投げてさっさと逃げ出してしまった。
「ま、待てお前たち!」
と、いかに呼べども叫べども、誰も聞かない。
それをよそに、サロメは苦痛の唸り声を上げる大熊を一瞥したかと思えば、そのもとに歩み寄った。
多量の血を吐き、大熊の顎のあたりは血の池と化していた。サンダルと足が血で汚れるのもかまわず、血の池に足を踏み入れ。大熊を見下ろす。
「……」
かっと目が見開かれたかと思えば、ジャマダハルを脳天に突き立てた。
びくん、と大熊は震えて。それから、ぴくりとも動かなかった。
「ぎゃあ!」
大熊の代わりでもあるまいに、ヒュカンテスが悲鳴を上げた。逃げようとして立ち上がったところを、太ももにペロティアの放った短剣が突き刺さり、たまらず尻もちをついてしまい。
すぐさまに商人らに取り囲まれてしまった。
町の住人らが遠くからその様を見守っていた。
大熊に吹っ飛ばされた衝撃のためコヴァクスはまだ動けず、ソシエタスに担がれて瓦礫の山から出て。さら地に下ろされて、横になるしかなかった。それをニコレットが寄り添い、ひざまくらで介抱する。
「……」
何かを言おうとするも、しゃべることもままならず、声が出ない。それほどまでに衝撃は大きかった。幸い骨折はないが、鎧をまとっていなければ、骨が砕けていたことであろう。
「お兄さま、気を確かに」
(オレは狂っちゃいない!)
身動きできずしゃべることもできず、まるで死期が近いかのような扱いだ。無理もない話だが、不本意なことである。
だがかろうじて目は見える。片目は開かず、もう片方を半開きにして、ことの成り行きを見守る。頭がニコレットの膝に乗っていることも忘れて、ことの成り行きに注意を払う。
「ヒュカンテスさまを逃がしてあげな」
信じられない言葉がサロメの口から飛び出た。
太ももに短剣が突き刺さり尻もちをつくヒュカンテスは、子猫のように震えて代官の威厳など風の前の塵のように吹き飛ばされてしまっていた。
「でもお姉さま」
「いいから」
ペロティアや商人たちは「殺そう」と息巻くが、サロメはかたくなにだめだと言い。どうして、といぶかりながら、
「とっとと消えな!」
と、よろよろと立ち上がるヒュカンテスの尻を蹴り、犬のように追い払う。その背中を見るサロメの目は――
「……!」
ソシエタスとクネクトヴァとともにコヴァクスの身を守り剣を構えていたカトゥカだったが、サロメの目を見た途端、なんとも言えぬ冷たい物が背筋を駆け抜けた。
もの言わぬ肉塊と化した大熊を見据えて、視線をよろけるヒュカンテスにうつせば、町の人々が群がってくる。ニコレットの膝の上でかろうじて半開きの片目でそれをコヴァクスも見ていた。
膝にコヴァクスの頭を乗せるニコレットも、ソシエタスもクネクトヴァもカトゥカも、その様子を息を呑んで眺めていた。
「なんじゃお前たち!」
と言ういとまもなかった。力ないヒュカンテスに、町の人々は一斉に襲い掛かった。
「殺せ!」
「殺せ!」
「殺せ!」
そう叫びながら。
あっという間に群集はヒュカンテスを取り囲んだ。それはどんどんと膨らんでいった。
群衆の輪の中心に放り込まれて、ヒュカンテスはこの上ない恐怖を感じていた。
「あ、あ、あ、ああーー!」
破裂するような悲鳴が上がり、無数の手や足を叩きつけられて。みるみるうちにぼろ布のような無残な姿になり。それでも私刑はやまず、ついには悲鳴も出なくなって、されるがまま。
目はうつろになり、生気はなく。落ち着いて見れば、それは死んでいることがわかった。
群衆の中の誰かがそのことに気付いて、私刑を止めて。
「ざまあみろ!」
と死体に唾を吐いた。それから数人が、
「死んだ、ヒュカンテスは死んだ!」
と死体を掲げた。
それはニコレットの膝の上から、かろうじて片目を開けるコヴァクスの目にも飛び込んだ。
ペロティアや商人らは呆気にとられる一方で、サロメは無言で無残な様のヒュカンテスを眺めていた。
革命の火の手あがる
(なるほどそれでヒュカンテスを殺さなかったのね……)
ニコレットは膝の上に兄の頭を乗せて、息を呑んだ。あの時すぐに殺さなかったのは慈悲でもなんでもない、もっと無残に死なせるためだったのだ。
サロメという女は、恐ろしい感性を持っていると思わざるを得なかった。
「……」
コヴァクスはコヴァクスで、絶句していた。それから意識が遠のき、ついには両目が閉じられたが。ニコレットはそれに気づいた様子はなかった。ソシエタスもクネクトヴァもカトゥカも、剣を構えながら、昂ぶる群衆を眺めていた。
それらにサロメの目が向けられる。
ソシエタスらは緊張を覚え、互いの距離を縮めて守りを固める。
「これから面白いことが起こるわ」
妖艶な微笑み。ヒュカンテスをはじめとする高貴な男たちがどれほどこれの虜にされてしまっただろうか。
「魔女……」
ニコレットはぽそりとつぶやいた。同じ女だからわかる、というか。サロメは、得体の知れぬ魔性を秘めている。
ふと見れば、群衆の目は自分たちにも向けられていた。
「革命を!」
突然の叫び。それは群衆の中から飛び出した。
その叫びは怒りを多分に含んでいた。
革命を!――
との叫びは次第にこだまし、町全体を包み込んだ。太陽はその叫びを避けるように、ついに沈んで夜のとばりが落ちて。変わって月や星々が地上を見下ろしていた。
月は満月であった。
夜の闇につつまれた町では一斉にかがり火がたかれて、怒りに燃えた群衆の顔が闇からすくい出される。
満月は巨大な眼球のように、夜空から地上を見下ろしていた。
これから何が起こるのか、ニコレットらは想像もできなかった。ただ、自分たちが経験したことのない動乱に巻き込まれていることを理解するのが精一杯であった。
サロメの瞳は月に呼応するかのように輝いていた。
大熊の血を吸ってどす黒くなったジャマダハルもまた、不気味に輝いていた。
「こいつに乗れ!」
いつの間にか、商人たちがコヴァクスらの愛馬を曳いてきていた。
「いったいなにがどうなってるの? サロメは何者なの?」
声を出した時に、声が震えていることに気付いた。それから全身が震えていることにやっと気づくニコレット。
「そんなこと知るか」
突然の声にはっとして下を向けば、いつ気がついたのかコヴァクスが目を開けていた。それからニコレットの膝の上に乗る頭を上げ、自分の足で立ち上がろうとする。
が、ふらついている。大熊との衝撃いまだ冷めやらず。それでも、自分の足で立って、愛馬の龍星号のもとまでゆき、手綱を受け取った。
「お兄さま」
「小龍公」
気遣ってニコレットとソシエタス、クネクトヴァとカトゥカがそばにより、手を差し伸べる。商人も心配そうだ。
「コヴァクス!」
サロメの凛とした声が響く。
「ここからだよ、生きるか死ぬかは」
何を言うんだとニコレットらは思ったが。コヴァクスは苦笑し、しっかりとサロメの目を見ながら、こくりと頷いた。
不敵なサロメの笑顔を眺めて、ふと、ロンフェイという白い衣の少女のことが脳裏に浮かぶ。
「私と出会ったのが運の尽きよ」
なぜかそんな言葉が脳裏に閃いて。痛みに顔をゆがめながら愛馬にまたがった。
「オレたちをどこへ連れていこうってんだ?」
「とってもいいところ」
「いいところ、か」
「ええ、いいところよ」
そんなやりとりに、ニコレットは何かを察し、慌てて愛馬の白龍号に飛び乗り。ソシエタスらもそれに続く。
わあっ、という群衆の雄叫び。夜になり静かになるはずが、静寂はどこかへと吹き飛ばされたかのようだった。
夜の闇もまた町をつつみこもうとしてできないでいた。火の手があがった。商人やペロティアらも各々の愛馬を宿の馬舎からひっぱり出して飛び乗り。ペロティアはサロメの愛馬を曳いて、主のもとへと走らせれば。
素早い動きで愛馬に飛び乗ったサロメは、火の手の上がった方へと駆けてゆき。コヴァクスもそれに続いた。
それはアラシアの役人が詰めている官舎で、この町に来たヒュカンテスが宿舎にしていたところでもある。
それを群衆は取り囲んで、火を放ったのだ。
アラシア人の役人や守備兵は、無残なしかばねとなって放置されていた。
革命を!
革命を!
ひたすらにその叫びがこだまする。
そこに武装した騎乗の一団が飛び込み、群衆はさらに過熱する。
まるで龍の舌のように官舎を飲み込む炎は満月の光に照らされて燃えたものか。満月はもの言わずにじっと地上を見下ろしていた。
燃える官舎を取り囲み熱狂する群衆。老いも若きも、男も女も、町の人々皆が、アラシアへの憎しみと復讐を声高に叫んでいた。それとともに、
「リジェカの独立を取り戻そう!」
という叫びも。
――リジェカ。
アラシアに支配されていた旧ヴーゴスネアは、もとは六つの国に分かれていた。この町のあるリジェカ地方は、リジェカ王国というひとつの歴とした国であった。
東西に大帝国興り、滅亡後小国が乱れ咲くように興っては亡びの興亡を繰り広げた。そういったことがもう何百年と続いているのだ。
そんな熱狂する群衆の中に、コヴァクスやサロメらが来て、ヒュカンテスを斃すきっかけをつくった彼ら彼女らを群衆は歓呼で出迎えた。
「オレたちが何者がわかっていないのか」
群衆からコヴァクスの素性を問いただす声は出なかった。甲冑を身にまとい帯剣し、戦争の玄人であることはわかる。それでいて、ヒュカンテスを斃すきっかけをつくった。
それで十分だった。
ニコレットやクネクトヴァ、カトゥカは群衆の熱狂に呑まれてしまっていた。それを年長のソシエタスがことあるごとに、
「しっかりなされ」
と声をかけねばならなかった。
戦場においてアラシア兵と幾度となく渡り合ってきた。狂気を孕んだ敵兵と死闘を繰り広げてきた。それは恐ろしいものだったが、その当時は父がおり仲間がおり、勇気を奮い起こせた。
しかし今は父もなく仲間も少ない。それと、敵兵の狂気とは違う群衆の熱狂。
戦場ではない町の日常が非日常に変わる得体の知れない恐怖。それをニコレットとクネクトヴァ、カトゥカは感じてやまなかった。
「ここはほんとうに、人の世なの?」
そんな言葉がぽつりと出た。
コヴァクスもどうにか自我をたもちながら、言葉もなく。いつの間にかサロメがそばにより、背中をぼんとたたく。
「コヴァクス!」
「なんだ」
「打ち明けるのよ、オンガルリの龍公ドラヴリフトの子、小龍公だということを」
「打ち明けてどうするんだ」
「鈍いね。小龍公、あなたが革命の先頭に立つのよ!」
「革命の先頭に!」
「そうよ、革命に加わるのよ。革命と言ってもほとんどが素人の民衆、それを、戦争の玄人のあなたが引っ張るのよ!」
「……!」
これにコヴァクスは絶句してしまう。
このやりとりを見て、
(なんという恐ろしい女と出会ってしまったことだろう)
と、ニコレットは思えてならなかった。このような女と出会ってしまう運命というのは、これは神の悪戯なのか悪魔の業なのか。
レドカーン二世率いる黒軍に攻められ、それから逃げるのに精いっぱいで、他国で革命など考えもしなかった。
背中に担ぐ長箱の中の紅の龍牙旗が、やけに重かった。
ソシエタスも言葉を出しあぐねる。年長とはいえ、使節団の一員として同盟する隣国に出向く以外にオンガルリを離れたことはなく。
生まれて初めて足を踏み入れるアラシアの支配地域において、民衆のアラシアを憎む心の強いことを肌で知り、それまで感じたことのなかった戦慄を感じてやまない。
まだ十五のクネクトヴァとカトゥカともなればなおさらであった。
「神よお守りください」
ひたすらにそう唱えるしかなかった。
それと対照的なのがペロティアと商人らであった。この群衆の熱狂に当てられても、比較的に落ち着いたものだった。
まだ十七と若いペロティアはやや怖がっているようだったが、落ち着いた商人のそばにいて、平静を保っていられるようだった。
「オレが、革命に……!」
「そうよ、太古の帝国の皇帝は言ったわ、賽は投げられたと。今がその時なのよ!」
「賽は投げられた、ふん、投げたんだろうが!」
人知の及ばぬなにかがコヴァクスをここまで運んだ、どうにもそうとは思えなかった。誰かがこうしてやろうと仕組んだ。サロメが仕組んだ。迂闊にも自分たちはいつに間にかサロメの遊んでいる盤上遊戯の上に来てしまい、駒のひとつにされてしまったようだ。
なにを考えているのか知らないが、もはや逃げることはかなわぬ。いや、逃げることなどもとより許されておらぬ身なれば――
コヴァクスは剣を抜き叫んだ。
「我こそはオンガルリ王国龍公の子、小龍公コヴァクスである!」
それを聞いて、群衆はわっと沸いた。
「オンガルリの小龍公だと!」
「それがなぜここにいる!?」
「悔しくも我がオンガルリもアラシアに敗れたが、流浪の身に落ち、一矢報いる時を待っていたのだ!」
「オンガルリもやられたのか!」
どよめき、ざわめき。アラシアの侵略欲は果てがないのか、という驚きと怒り。
「そうよ、やられたわ。このままやられっぱなしでいいの!?」
「いいわけがない!」
「立ち上がれ! アラシアと戦うのだ!」
どよめき、ざわめきにぶつけられるサロメと商人らの言葉。群衆を焚き付ける。
復讐に燃える群衆の心を冷ます術はなかった。
群衆の燃える目はコヴァクスやニコレットらに向けられていた。
「お覚悟を決めなされ、小龍公女!」
色違いの瞳の向き定まらぬニコレットにソシエタスが怒鳴り声に近い声で呼びかけた。
「我らの進む道は所詮いばらの道」
ソシエタスももう覚悟を決めざるを得なかった。逃げることはできぬのだ。
ニコレットは不安そうにソシエタスを見つめ、こくりと頷いた。頷くしかなかった。
「お前たちも覚悟を決めろ!」
不安そうな若い見習い騎士にも同じように怒鳴り。クネクトヴァとカトゥカも互いに目を交わし合い、こくりと頷く。
「……で、これからどうしたらいいんだ?」
情けないと思いつつ、そうサロメに問うコヴァクス。革命を先導しなければいけないのはわかっているが、どう先導してよいのかわからない。
「もう、仕方ないね」
あれこれ教えていては無駄な手間がかかると、コヴァクスの横でサロメはジャマダハルを掲げて叫んだ。
「革命を広げよ! いざゆかん、民衆よ、小龍公につづけ!」
叫ぶやサロメはだっと馬を駆けさせた。コヴァクスらも慌ててそれに続けば、群衆も続く。その中には町の守備兵も見受けられ、武装し騎乗の者もいる。
食ってゆくためにアラシアの兵となった町の者であった。その者たちも、この時を待っていたのだ。
いつしか一個小隊なみの戦闘集団があつまっていた。それらが、サロメとコヴァクスに率いられていた。
「どこに行くんだ」
「ロヒニって町よ。昔から栄えた港町よ!」
「港町、海沿いなのか」
オンガルリは内陸国であり、コヴァクスは海を見たことがない。
「海の町か……」
よもやこのような成り行きで、生まれて初めて海を見ることになろうとは。
「そうか、小龍公さまは海を見たことがないんだね。革命をなせば見れるよ!」
「……」
サロメやコヴァクス、群衆らは進んだ。ロヒニへ。途中集落を抜けるたびに、数は増えてゆく。アラシア人は恐れをなして逃げてゆく。
リジェカを治めていた代官のヒュカンテスを殺したのだ。このことは一斉に広まるだろう。アラシアも報復するだろう。その報復に革命の炎が掻き消されてはならぬのだ。
そのためには、まずロヒニ制圧であった。
進む、進む、駒は進む。
進む群衆の輪は膨らんでゆく。いつかの時にそなえていた人々は人目を忍んで、もくもくと刃を研ぎ澄ませていたのだ。
その刃を振るうは、まさに今この時であった。
丸一日進んで、あと一日でロヒニだ。しかし進み通しはさすがに疲れて、途中の町で休憩をする。
この町からもアラシア人は逃げ出し、逃げられなかったものは無残なことになり、
――リジェカの独立を!
という叫びがこだましていた。
群衆は過熱するばかり。休む間が惜しくて、進もうを連呼する。それをサロメが説得し、一時足を止めさせた。
コヴァクスといえば、提供された家屋のベッドで横になりぐっすり眠っていた。大熊との戦いで受けた衝撃はやはり大きく。町に着くなり龍星号から落ちそうになってしまうという、格好悪いところを見せてしまった。
ニコレットらは隣室に控えて。サロメらは群衆の中から数人を集めて、何かを話していた。彼らはアラシアに徴兵された元兵士たちであった。
訓練を受けそれなりに腕に覚えがあり、武装もし、サロメの指示を受けて、どこかへと飛んでいった。もちろんただではなく、それなりのものを渡したうえで。
その背中を見つめる瞳は、異様な輝きを放っていた。
翌朝。
指示を受けた元兵士のひとりが慌てて戻ってきた、だがひとりではない。何人か引き連れて、サロメに会わせ。さらにコヴァクスらとも会った。
睡眠を取り、回復をし、安堵するニコレットらと朝食をとっているときであった。サロメから会わせたい者がいると言うことで面会を申し込まれ、世話になっている家屋の住人に食器を片付けてもらって、顔を合わせた。
それは平服を着て荷物を背負い、一見流浪の旅人のようであるが、目つきは鋭く、戦争を知る玄人のようで、いわば兵士のようだ。が、アラシア人ではないようだ。
「大変です、大変なことが起こっています!」
元兵士はなんとかの一つ覚えのようにそればかり言い。その大変なこととは何か、元兵士の慌てぶりが尋常でなく、さすがにサロメも不審を抱く。
詳しくはこの者にということで、話を聞いてみれば、
「南方ソケドキア地方にてフェレッポス公蜂起し、ソケドキア地方はソケドキア国として独立しました!」
旅人は堂々と言い放った。
「ソケドキアが独立!」
まさか他でも革命が起こっていたとは知る由もなく、コヴァクスたちに、さすがのサロメも驚きを禁じ得なかった。が、にわかに信じがたい話である。妄想狂の虚言であるとも考えられる。
「証拠は?」
と言うより早く、旅人のひとりが荷物を下ろして袋を開ければ、アラシア貴族が身に着ける指輪を取り出して、見せつけた。
アラシアの象徴である鷲の彫刻のある精巧な金の指輪であった。しかも血がこびりついてどす黒く汚れていた。
「いかがでござる」
コヴァクスらは息を呑み指輪を眺め。サロメは、
(まさに時は今!)
と会心の気持であった。
「そのこと、ロヒニに伝わっているか?」
そう訊くのはコヴァクスである。先に革命が起こりソケドキアが独立するともなれば、一斉に広まることであろう。それが今どこまで広まっているのだろうか。
「おそらく、すでに知る者もあるかと」
ロヒニは昔から人の行き来の多い港町である。特にアラシア人らが船で逃れてきているかもしれぬ。
最初にいた町は辺鄙な町で人の行き来も少なく、アラシアにとってもどうでもいいような存在であり、何か事が起ころうとも伝わることは少ない。
しかしロヒニはそうではなく、重要な場所として警備も厳しいと聞く。
それを、群衆を焚き付けて革命でひっくり返すのだが。
「……」
コヴァクスは少し考える。
「すでに革命は起こったかも……!」
それを聞き、サロメは不敵に微笑む。
「ロヒニだけでなく、旧ヴーゴスネア全土で、革命が起こっているかもしれませんわ」
「うん……」
ニコレットの言葉を聞き、そうかもしれないとコヴァクスは頷く。というときだった。
「ロヒニで革命!」
という叫びがこだまし、騒然となった。
この町にたくさんのアラシア人が逃げ込んできたのだ。
「殺せ!」
「アラシア人を殺せ!」
「殺さないで!」
「止めろ!」
殺せという叫びと殺さないでという叫びを耳にしてコヴァクスらは飛び出した。
外は激しい乱闘が繰り広げられていた。いや、それは乱闘と呼ぶにはあまりにも一方的な私刑であった。
群衆に取り囲まれて、いいように殴られたり蹴られたりする人々がいる。おそらくロヒニから逃れたアラシア人であろう。女子供もいる。
「よせ、やめろ!」
「やめて、子供に罪はないわ!」
コヴァクスとニコレット、ソシエタスにクネクトヴァ、カトゥカは慌てて群衆の中に飛び込み、私刑をやめさせ、アラシア人をかばった。
サロメは腕を組んで高みの見物を決め込んで、ペロティアや商人らも同じように様子見。
「なんで止めるんだ!」
「憎しみにとらわれるな、我らが目指すのは革命だ。復讐ではない!」
叫びながらコヴァクスはとっさに剣を抜き。群衆は「おお」とどよめいた。
ニコレットたちもとっさに剣を抜いてかまえて、アラシア人をかばう。
かばうアラシア人の中には女子供もいる。ニコレットはそれを色違いの瞳でみつめて、安心させようとして微笑んだ。
「その色違いの瞳! まさかお前はオンガルリの小龍公女か!」
かばうアラシア人からそんな叫びが起こった。色違いの瞳に金色の髪の少女騎士といえば、オンガルリの小龍公女ニコレットが真っ先に浮かび。その通り、今目の前にいる少女騎士はニコレットであった。
ということは、他の者たちは……。
「そうか、獅子王子に敗れ、ソケドキアと手を組んで復讐をしようというのか」
どういう風に考えを巡らせているのかはわからないが、ソケドキアと一緒に仕組んだと思い至り、アラシア人の目が厳しくなる。
「早まるな! 無用の殺生はせぬ!」
「そのような甘言など。獅子王子のようなことをのたまうものだな!」
(ダライアスはほんとうに嫌われているのか)
アラシア人の言葉から、ダライアスがどのように思われているかをはからずも知った。群衆はおかまいなく、
「かばうことはない、アラシア人は殺せ!」
とひたすら叫んでいた。だがコヴァクスらは一歩も引き下がらない。恐れているのは、革命がただの復讐に成り下がってしまうことだ。だからここはなんとしても止めなければならない。
「お前たちに殺されるくらいなら!――」
そんな女の叫びがあがったかと思うと、悲痛な子供の悲鳴がして。あろうことか、女たちは一様に我が子を刃にかけて殺してしまったではないか。
「なにをする!」
「いいぞ! 手間が省ける、死ね、アラシア人は死ね!」
「あなた!」
「おう、後でゆくぞ!」
群衆の喝采を受けながら、女が子を殺して、それから男が女を剣で斬り殺し――
「クゼラクセラ大王万歳!」
女を斬り殺した剣がコヴァクスとニコレットに振るわれる。
「――馬鹿野郎!」
女子供はすでに死したとなれば、もう慈悲をかけようにもかけられず。コヴァクスは胸が張り裂けそうな思いで襲いかかる剣を振り払い、男たちを斬った。
刃にかかった男たちは断末魔の叫びをあげ、よろける足で死せる女子供、妻子のもとまでゆき。その上に覆いかぶさって、息絶えた。
コヴァクスは肩で息をしていた。手ごわかった、ということはなかった、しかしこの様子で行けば自分が殺さなくても群衆に殺されていたことだろう。ヒュカンテスのように、惨たらしく。
それを思うと、結局は自分が斬らねばならなかった。急所を外さず、なるだけ少ない苦痛で死ねるように。
(だが、同じ殺すことではないか。そこに何の差がある!)
望み通りアラシア人が死んで、群衆は「さすが小龍公!」と大喝采であった。だが喝采を全身で受ければ受けるほどに、コヴァクスの中で耐えがたいなにかがうごめくのであった。
白き衣の少女ふたたび
群衆はアラシア人の死に狂喜する。
「ロヒニへゆこう!」
コヴァクスに投げつけられる叫び。コヴァクスらが先導してくれるという期待。
叫びにもまれるような気持ちになりながら、周囲を見渡す。
なにより、助けることのできなかったアラシア人たち。
「所詮はいばらの道」
と言うのは簡単だが、一歩進むたびに、いばらのとげが食い込んでゆくようであった。
「小龍公、しっかりなされ!」
ソシエタスである。コヴァクスが、やむをえなかったとはいえアラシア人を死なせてしまったことをひどく悔いていることを見て、そうとう心配な様子であった。
まだ試練ははじまったばかりである。ここで心をくじかれれば、なにもかもがおしまいである。
ニコレットにも同じようにクネクトヴァとカトゥカが寄り添い励ましの言葉を送るが、心ここにあらずの体で、色違いの瞳は呆けているようであった。
まるで自分がいばらの鞭でぶたれているようであった。
あれほど憎いと思っていたアラシア人だが、それが目の前でこのようなことになってしまい、強い衝撃を受け、こらえきれなさそうであった。
サロメは腕を組んでその様子を見ている。
(さてどうなる小龍公、小龍公女)
まだまだこんなものではない。これしきのこと、序の口である。
(所詮はいいとこ育ちのおぼっちゃんにお嬢ちゃんか)
かすかな失望をおぼえる。
突然目の前に現れ、それがオンガルリの小龍公と小龍公女らであるというから、まあまあなんという運命の巡り会わせであろうと思ったものだ。
これはうまく使えれば、と思っていたのだが。当てが外れただろうか。やはり、なまじっかな王侯貴族の出身者など当てにしない方がよいのだろうか。
「おい、どうしたんだ、しっかりしろよ!」
サロメの横を駆け抜け、商人らがコヴァクスを励ます。蹴球でのコヴァクスの蹴りにしびれて、それまで怪しんでいたのが解け、仲間だと思うようになったのだ。
ペロティアはサロメの横にいて動かない。
「案外ひ弱なやつ」
大熊を斃して、さすが、と思ったが。あらぬところで腑抜けになってしまった。
群衆はおかまいなく、革命! 革命! と騒ぐばかりで鎮まることを知らない。
「サロメ、あなたは何をたくらんでいるの?」
「……!」
ふと、耳元で声がして。驚いて飛び跳ねて声の方を見れば、そこには、白い衣の少女。
「ロンフェイ……」
サロメは少女を鋭いまなざしで睨んでいた。ペロティアも驚き、サロメの後ろに隠れる。
「昴に逃げたと思っていたでしょう? いいえ、私はこの通りここにいるわ」
「あれは!」
カトゥカの叫び声。クネクトヴァもニコレットも、驚き思わず息を呑む。なんとあの時窮地を救ってくれたロンフェイなる少女がいるではないか。しかも、サロメと睨み合っている。
「小龍公!」
ソシエタスも見つけ、肩をゆすれば、コヴァクスは驚き目を見開く。
「私たち一龍六虎を金で買い、アラシア人を暗殺させて、なにをしようとしてたの?」
「お前、ここでそれを言うの!」
サロメの叫び。突然のことにペロティアは驚き、熱狂する群衆も何事かと叫びが聞こえたものは二人を凝視する。
「なんだって!」
信じられないものを聞いて、コヴァクスらもふたりを凝視する。アラシア人を暗殺? それは、あの時遭遇した謎の六人も言っていた。
なにがどうなっているのか。混乱しそうなのをこらえて、コヴァクスは歯を食いしばる。なにより、あの白い衣の少女がいる。
「縁があればまた会えるでしょう」
と言って別れたあの少女が!
ちらりと、ロンフェイはコヴァクスに目をやった。
艶のよい長い黒髪が、少し揺れ、同時にコヴァクスの心も揺れた。
「縁とは不思議なものね」
か細いはずなのにはっきりと聞こえるロンフェイの声。とても澄んだ声だった。
「どうしてかしら。あなたの後をつけたくなって」
「つけていた、オレたちの後を……?」
あれから別れたのではなく、後をつけていた、だと! そんなこと全然気づかなかった!
ロンフェイの声はニコレットらにも聞こえ、一同呆然とする。
「そして、サロメ、あなたにまた会うことになったわ。どうしてかしらね」
「コヴァクスたちを知っているの?」
「ええ、六虎たちと出会って、殺されようとしたわ」
「なんですって……!」
ロンフェイとサロメの話を聞いて、コヴァクスは変な胸騒ぎを禁じ得なかった。あの六人、サロメと関係があるのか。
「運命は不思議。これは神の悪戯か、悪魔の業か」
「……」
サロメも軽い混乱に陥っているようである。あの冷静沈着のサロメが狼狽して、ペロティアに商人たちは不安を覚える。
「ありゃ誰だ」
と商人のひとりがロンフェイを指さして言う。ペロティアも不思議そうにしている。
どうやらこの商団でも、彼女のことを知るのはサロメのみのようだった。
群衆の喧噪につつまれながら、サロメとロンフェイは睨み合って。交わる視線から火花が出そうである。
「運命の糸がもつれにもつれて、さしものあなたも、縛られてしまったようね」
「……」
サロメはロンフェイの言葉を受け、ぎりりと歯を食いしばる。
(六虎どもは一度でもあいまみえた相手は見逃さない。ならば、コヴァクスたちを殺そうとやっきになるわね)
今でこそ泳がせているが、いずれは顔を合わせねばならない。そのときにコヴァクスらと会えば……。
「お姉さま?」
サロメが石のようにかたまり、気の強いペロティアも多少の不安をおぼえる。そもそも何を言っているのかわからない。
自分たちに隠し事をしているようで、悲しみもおぼえるのであった。
サロメは舌打ちする。
「所詮は私も人ということね。すこしうぬぼれていたわ」
「人であることを忘れ、神にでもなったつもりで、ヴァラカナ半島を混乱におとしいれるつもりだった?」
「ええ、そうよ」
開き直って、張りのある声でこたえるサロメの顔は、美しいながらも禍々しさもにじみ出て。神の生まれ変わりだの使徒だのとのたまえば、信じる者がいそうであった。
ヴァラカナ半島とはオンガルリ・マーラニア以南、旧ヴーゴスネアと都市国家群あるグレースを合わせた地域のことで、東をカラデニズ内海、西を地中海にかこまれた半島状の地形になっている。
かつての西の大帝国・マーレ帝国の国名は、地中海を囲む国という由来があった。
東西を海に囲まれながら、東西文明の交差点でもあり、古来よりさまざまな民族の行き来があり、また支配する国もよく替わった。
群衆は一部をのぞき熱狂の渦につつまれ、ひたすらに「革命!」を叫んでいる。が、誰も動こうとしない。サロメがコヴァクスを前面に押し出し、引っ張らせようとしたので、群衆もコヴァクスらを当てにしていたのだ。
ここまでは、思惑どおりであった。
ここまでは……。
まさか、コヴァクスらが自分より先に六虎どもとあいまみえ、ロンフェイにすくわれていたとは!
神ならば見えたであろうが、いかんせんサロメとて神ならぬ人の身なれば。
「最初から駄目だったか……」
軽くため息をつく。
「それより」
ロンフェイが周囲を見渡して言う。
「これだけ革命が広がれば、アラシアも黙ってはいないわ」
「そうね……」
サロメはにやりと、不敵な笑みを浮かべる。
ふたりの話を聞いていたソシエタスは、はっとして、
「小龍公、小龍公女、おそなえなされ!」
と叫んだ。
叫びを聞いてコヴァクスらははっとして、急いで愛馬にまたがり抜剣し臨戦態勢をとり。サロメも続いてジャマダハルを装着し愛馬にまたがる。
いよいよゆくかと、群衆は狂喜の雄叫びを上げた。
なにがなにやらわからぬが、うかうかしていられない。ロヒニに急ごう。
と思ったが。
「いつでも逃げられるように」
と、今度はよく通る声で、ロンフェイは声を大にして言った。
「アラシアが攻めてくるのか」
革命は旧ヴーゴスネア全体に同時多発的に広がり、南のソケドキアは独立までした。アラシアはなすすべもなく、おいやられている。そう思いたいのが人情であろう。
ことにアラシア人がはかなくも死んでゆくところを見れば、なおさらそう思いたいであろう。
だが、現実は違うというのか。
「アラシア人を殺せ!」
突然サロメは叫んだ。「殺せ! 殺せ!」とひたすらに叫び、群衆を焚き付け。群衆も焚き付けられるがままに、
「殺せ! 殺せ!」
と狂ったように叫んで、周囲は殺気の坩堝と化した。
「何を考えている!」
革命をただの復讐に落したくないと思っていたコヴァクスらは、サロメを睨んだ。
だが睨む以上の事ははばかられた。あまりにも群衆は熱狂しすぎて、もうちょっとやそっとのことで落ち着きそうになかった。
ロンフェイは無言で、冷たいまなざしで様子を見ている。その脳裡に閃くのは。
「阿鼻叫喚の地獄絵図……」
忌々しそうに、ぽそっとつぶやいた。
哀れなアラシア人たちのなきがらは、怨みをふんだんに含んだうつろな目で、様子見を決め込んでいるようだった。
「コヴァクスと言ったわね」
「あ、ああ……」
いつの間にか、ロンフェイはすぐそばまで来て、馬上のコヴァクスを見上げていた。
澄んだ、黒い瞳であった。見つめられるうちに、吸い込まれそうな錯覚すらおぼえそうな、澄んだ、深淵の黒い瞳であった。
突破!
吸い込まれそうな瞳。
コヴァクスは思わずロンフェイの瞳を見入ってしまった。
(彼女は何者なのだろう)
縁があればまた会えるでしょう、と言って別れたと思っていたのが、自分たちをつけていたとは。なんとも気まぐれな。
その気まぐれは、自分たちにとって吉と出るか凶と出るか。
しかし、今はそれどころではない。
無責任に煽るな!
そう言おうとしたとき、耳に飛び込む轟き。
「アラシア軍!」
ニコレットが叫んだ。
革命は各地で起これば、それを鎮圧するために軍が動くは道理。その鎮圧のための軍勢が来ているのだ。
鉄甲に馬蹄、軍靴は空を揺らして轟き。群衆の耳に飛び込んでくる。同時に殺気もぶつけられる。
「アラシアが来たわ。さあ、思う存分殺しなさい!」
サロメは叫んだ。
しかしそれに応える声は、
「あんたたちがなんとかしてくれるんじゃないのか!」
という、なんとも頼りない声。群衆はアラシアを怨む心深けれども、実際にアラシアを転覆させることは、誰かがやってくれるだろうと、他を当てにする心も持ち合わせていたのだ。
「逃げろ!」
コヴァクスは叫んだ。
「逃げろ!」
と、ひたすらに叫んだ。轟きからして勢いをつけて迫ってきており、問答無用で町を滅ぼすであろう。その数も数千はくだるまい。
瞬時にして町は恐慌に陥り、悲鳴がところどころで響き、人々は算を乱して逃げ惑った。
「お姉さまは!」
ペロティアの驚きの叫び。
「姐さんはどこに行ったんだ!」
ペロティアの叫びを聞いて商人たちも、驚きの叫びをあげる。
なんと、サロメの姿が見えないではないか!
「オレたちを捨てて、自分だけ逃げたのか!」
憤懣やるかたなく商人らは歯軋りして。ペロティアは衝撃大きく唖然としている。コヴァクスもニコレットもサロメを探し求めて周囲を見渡すが、その姿は風に吹かれて消えたかのように見えなかった。
「あれだけ煽っておいて……」
「私たちは捨て駒だったのですわ、お兄さま」
「あの、糞女!」
コヴァクスは切れてサロメを口汚く罵る。ペロティアに商人らは何も言い返さない。
言い返す理由がないどころか、同じ思いだった。
何が目的かは知らぬが、彼女にとって革命などどうでもよく、ただ乱れればよかったのだろうか。
コヴァクスのそばで静かにひかえていたロンフェイであったが、龍星号の首筋に優しく触れる。
「逃げましょう」
そう優しく語りかけた。いかに勇を鼓して戦おうとも、勝ち目はない。ならば逃げるしかない。
「……」
コヴァクスはこの混乱の中歯軋りをして、轟きの方角を鋭いまなざしで睨んでいた。
「ロンフェイ」
愛馬の首筋に触れる白い衣の少女を見下ろし、コヴァクスは言った。
「君は、強いか?」
「……人並み以上には、と思っているわ」
「なら、オレと一緒に来てくれるか」
話を聞いていてニコレットとソシエタスは、コヴァクスが何を考えているかわからなかった。が、コヴァクスの方でもわかってもらおうとは思っていなかったようだった。
「一緒に?」
不思議そうにはしているが、深淵の黒い瞳はコヴァクスをとらえていた。
「無理にとは言わない。君がよければでいい」
そう言うや、コヴァクスは愛馬を駆けさせた。轟きの方角に向けて。
「お前たちは逃げろ!」
一瞬だけ振り向いて、ニコレットらにそう叫んで。その姿はどんどん小さくなってゆく。
「お兄さま!」
「小龍公!」
ニコレットやソシエタス、クネクトヴァにカトゥカは驚いて後を追おうとする。
「わッ!」
愛馬を駆けさせるカトゥカであったが、突如背中に異変を感じてみれば、なんとロンフェイがいつのまにか飛び乗っているではないか。
「ろ、ロンフェイさん」
「彼を追って」
「は、はい!」
静かだが芯のある声に圧されて、カトゥカはコヴァクスを追った。
ロンフェイに驚いたのはニコレットやソシエタス、クネクトヴァも同じであったが。今はそれに突っ込みを入れるどころではない。
コヴァクスは後ろを振り返ることなく、ひたすらに愛馬を駆けさせ。向こうには、迫りくるアラシアの軍勢が見えた。
ここリジェカ地域は平地が多く山も高くない、比較的なだらかな地形であった。そのため、数千というアラシア軍はまるで黒い巨大な影のように進軍し町を飲み込もうとしていた。
その地形のおかげで馬で走りやすく、愛馬・龍星号は元気いっぱいに地を蹴っていた。
「逆らう愚か者がまだおるか」
革命を鎮圧するアラシア軍の将は、愛馬を駆けさせるコヴァクスらを見止めて「がはは」と高笑いした。
同時多発的に革命が勃発し、それを鎮圧するために軍も動いた。ソケドキアは独立こそしたが、それ以外ではもろくも鎮圧されていったものだった。
その過程でロヒニ奪還の命が下り、そこへむけて進軍しながら途中途中の町も制圧していった。
町は町で、アラシア軍が来たことで恐慌をきたしていたのだが、わずか数騎で駆け出すコヴァクスらを見て、皆互いに顔を見合わせていた。
「……いくか!」
サロメに取り残された商人らは叫んだ。
「このままおめおめと死んでたまるか!」
それぞれの愛馬にまたがりコヴァクスらの後を追うように駆けてゆく。ペロティアは魂が抜けたような顔をしていたのだが、それを見てはっとして、急いで自分も続いた。
「オレたちもゆくぞ!」
恐慌をきたしていた群衆だったが、大口開けて雄叫びを上げて取るものもとりあえず駆け出した。
進撃のアラシア軍の轟きに負けじと群衆の雄叫びが響いて、前の商人らにペロティア、コヴァクスらは思わず振り向く。
「ええい、もうどうにでもなれー!」
と叫ぶのはペロティア。もうやぶれかぶれである。
「え、なに? この町は抵抗するのか」
無抵抗な者をこらしめる簡単な仕事とたかをくくっていた兵士たちは、自分たちに向かってくる人数が増えたことに驚きを禁じ得なかった。
兵士の中には、徴兵された地元の者も多く、軍勢の七割は地元の者らである。
(オレだって、アラシアの兵士になんかなりたくなかった!)
革命が起こったとて、どうせ鎮圧されてしまうだろうとあきらめていた。そのあきらめの気持ちは、急に小さくなってゆく。
「武器をさかさまにもて!」
誰かがそう叫んだ。すると次から次へと、言われた通りに武器をさかさまに持ち返る者が続出した。そうしている間にコヴァクスらは迫ってくる。
「道を開けろ!」
そんな声がしたかと思えば、心得たとばかりに兵士らは間を開けて道をつくってゆくではないか。
「どういうことだ」
その様子はコヴァクスらにも見えたが、考える暇などない。あるのは、駆ける、それのみ!
「や、やや!」
アラシアの将は、迫るコヴァクスらが何の抵抗も受けずに兵士たちの間を駆けるのを見て仰天する。
てっきり兵士らに取り囲まれて無残に討たれるものとばかり思っていたのに。
「これはどういうこと?」
クネクトヴァとカトゥカも驚く。乱戦の中に飛び込むものとばかり思っていただけに。
「そうか、徴兵した兵士ども、逆らいおったな!」
事態を素早く察するのはさすが将であろう。こうなれば、兵士たちに任せることなどできぬ。自分らの手勢で戦うしかあるまい。
アラシア人の将や兵士らは徴兵した現地兵を押しのけコヴァクスらに迫った。
その間に商人らやペロティア、群衆がぶつかってきた。
徴兵された現地兵は同胞に殺されてはたまらぬと、一斉に逃げ出した。そうさせてしまうほどに、群衆の目は血走っていた。
「あれ、いつの間に!」
カトゥカの隣に、なぜか馬に乗るロンフェイがいた。気づかぬうちに馬を奪って飛び乗ったようで、そのついでに取った槍を握りしめていた。
「な、なにこの人、なんなの!」
「危ない!」
クネクトヴァは絶叫し、呆然とするカトゥカに刃が迫る。「きゃあ!」と悲鳴が突いて出たあと、「ぐわッ!」という野太い悲鳴がして。見ればカトゥカに刃を振るったアラシアの騎士は槍で突かれて、落馬した。
「集中しなさい!」
すんでのところで助けたロンフェイはカトゥカを叱咤した。握る槍の穂先は赤く染まり、アラシアの将兵を薙ぎ倒す。
薙ぎ倒しながら、先頭のコヴァクスに近づく。
「人を巻き込むなんて、あなたも人が悪いわね」
「無理にとは言ってないぞ!」
剣でアラシアの騎士を斬りふせながらコヴァクスは叫んだ。
「このまま突っ切るぞ!」
逃げる者はあらかた逃げ出し。戦意ある者は悪魔の形相でコヴァクスらに迫る。
その軍勢の数は一気に減ってはいたが、そこは歴戦のアラシア兵である。列を崩さず、陣形を整えなおし。コヴァクスらを取り囲み、殲滅させようとする。
「オレたちから離れるんじゃねえぞ!」
アラシア兵に囲まれ四苦八苦していたクネクトヴァとカトゥカだったが、商人らとペロティアが駆けつけ、ひと塊になって攻めをしのぎ。突破口をさぐる。
群衆は血気にはやり、アラシア兵につかみかかる。
「なにが人々を変えたのかしら?」
この群衆の変わりようを見て、ロンフェイは不思議そうにしていた。
「お父さま、お母さま、天国より私たちをお守りください」
ニコレットは胸中そう祈りながら愛馬・白龍号を駆けさせる。といっても、四方をアラシア兵に囲まれ、その包囲を突き破りながら、だが。
商人らを合わせてもわずか十騎ばかり。それで数千の軍勢に突っ込むのだから、無謀といえばあまりに無謀。
大多数がなぜか逃げ出し、さらに群衆が突っ込んできたとはいえ、そこは玄人の兵士たちである。素早い動きで一同を取り囲み、刃を閃かせる。
「土民風情など放っておけ、その、小癪な若造どもを始末しろ!」
どこの誰かは知らぬが、一丁前に騎士のなりをして突っ込んでくるとは。頭がおかしいのか。救世主気取りの阿呆なのか。ともあれ群衆は彼ら彼女らに引っ張られているようなので、それを始末すれば片付く。
と、アラシアの将は思っていた。
コヴァクスは勇を鼓して包囲を突き破ろうとする。迫り来る刃を剣で弾き、立ちはだかるアラシアの騎士らを斬り伏せ。突破口を切り開こうとする。
商人らもどうにかコヴァクスと並んで、ともに突破口を切り開こうとする。
「わずかばかりの人数で突っ込むなんざ、お前は馬鹿か!」
ともに戦いながら怒声を飛ばす。それに対しコヴァクスは必死の形相。
「無理に来なくてもよかったんだぞ!」
「馬鹿言え! お前には借りがある。借りを返す前に死なれるのは癪だからな!」
この商人はあの宿で、コヴァクスの打った球を取れなかった守備だった。球を取れなかったことが、よほど心残りのようだ。
「魔術師と呼ばれたオレの球は、誰にも止めさせん!」
「へッ、止めてみせるさ!」
「こんなときまで蹴球の話ですか!」
ソシエタスは半ばあきれながら叱咤する。いまはそれどころではない、と。
「オレの名はラハマディ。アラシア人だ!」
「そうか!」
もっと突っ込むべきところはあるのだが、いまはそれどころではない。
だがその会話は、聞こえていた。かなりの大声でしゃべっていたのだから無理もない。
「この裏切り者め!」
アラシア兵がラハマディに突っかかる。
「うるせえ!」
同胞であるはずのアラシア兵を、ラハマディは容赦なく剣で斬り伏せてゆく。
商人らはこのラハマディを中心に動いていた。この男は商団の副長的な存在だった。
ラハマディやペロティアたちは、何か事情があってサロメと行動をともにしていたのだろう。故郷を捨てるような、複雑な事情が。
だがそれに思いをはせるのはあとである。
(とはいうものの、どうやって切り抜ければいいのか)
突っ切っても突っ切っても、果てしなく立ちはだかるアラシア兵。後ろでは群衆がやり返されて、逃げ惑う者も多くなった。
(やっぱりこれは自殺行為だったのよ!)
ニコレットはこの乱戦を駆け巡りながらやるせなくなった。コヴァクスは、どうにも頭がおかしくなってしまったようだった。自分たちもそれに付き合わされて、ここで無念の死を遂げてしまうのだ。
「突っ切れ、とにかく突っ切れ!」
敵兵を倒すことよりも、コヴァクスはとにもかくにも、遮二無二に愛馬を駆けさせた。徐々にでも、刃のかわしかたも心得てきて、前に、前にと進む。
「あいつらを止めろ!」
コヴァクスらがこの軍勢を突っ切ってゆこうとするのを察した将は前に回り込むように命じ、行く手を遮ろうとする。
「みんな、私をかばって!」
ペロティアはそう叫ぶと弓を構え、立ちはだかるアラシア兵めがけて矢を放つ。
乗馬用の小さな弓で矢も短めで、この混戦の中、仲間たちに守られながらも間断なく矢を放ち。しかも射れば必ず当たる腕前だった。
おかげで陣列に小さいながらも崩れが生じ。それを見逃すコヴァクスではなく、馬脚でアラシア兵を蹴り倒し蹴り倒し、ひたすらに突き進んだ。
ロンフェイはコヴァクスと並走していたが、特別目立った働きはしなかった。ただ、その澄んだ黒い瞳はじっとコヴァクスをとらえている。
ペロティアの矢が功を奏してか、亀裂が入ったように、立ちはだかるアラシア兵らは面白いように崩れて後ずさった。
「いけるぞ!」
刃をかわし、ひたすらかわし、前に突き進めば。兵の群れの厚みは薄れてゆき、その向こうには、なにもない。
アラシアの将はしきりにわいわいと叫んでいるが、人間の言葉になっていない。
一騎、コヴァクスの前に立ちはだかるアラシアの騎士。ゆかせるかと剣を叩きこむ。
「どけ、邪魔だ!」
渾身の一撃を叩きこむ。
アラシアの騎士は崩れ落ち、それを飛び越える。
「突破ァ!」
ついに、アラシアの軍勢のど真ん中を突っ切って、突破したのだ。コヴァクスは剣を掲げ、あらん限りの声で叫んでいた。
「おのれ……!」
わずか十騎ばかりの小勢に、自軍を突破されるとはなんたる屈辱!
アラシアの将は目を血走らせて身悶えしていた。
それで、こやつらはそのまま逃げるのか。と、思っていたが。あにはからんや、なんとコヴァクスは馬首を反転させるではないか。
「お兄さま、ほんとうに狂われてしまったのですか!」
ニコレットはたまらずに叫んだ。もう死ぬんだ、と思わずにはいられなかった。
「こうなったら、アルカードさまに恥ずかしくないようにしよう!」
「うん! いつもは優しいけど、だらしなくしていたら、アルカードさますごく怒ったものね」
クネクトヴァとカトゥカは、その若さゆえか覚悟を決めた。それを見るソシエタスは内心やりきれぬ。
(悪いことが重なり、ついに我ら命運尽きるか)
死を恐れはせぬが、志を果たせず道半ばで命尽きるのは、やはり無念であった。
「てめえ勝ち逃げする気か!」
ラハマディはコヴァクスにがなった。ニコレットと同じように、
「あいつほんとに頭がいかれたのか!」
と、叫ばずにはいられなかった。
他の商人にペロティアも、コヴァクスの狂気としか言いようのない反転を見て、付き合いきれないものを感じた。
群衆もせっかくやる気になったが、やはり地力の差で押し返されている。もはやそこに希望はなさそうだった。
ロンフェイといえば、「ふう」と小さく吐息を漏らし、コヴァクスと並んで反転し、一緒にアラシア軍に突っ込んでゆく。
「馬鹿め、命が惜しくないのか」
何を思ってか知らぬが、せっかくの逃げられる機会をふいにするなど。アラシアの将は槍を掲げて、
「やつらを殺せ!」
と号令を下す。
アラシア兵たちは言われずとも、突破された屈辱を感じ、こんどこそと襲い掛かる。
大口を開け刃閃かせるアラシア軍は目と鼻の先に迫り。かっ、と目を見開いて、ロンフェイは馬から跳躍すれば。
白い花びらを思わせるような、優雅な着地を見せ、槍を構えるや猛然と振るい。
それにともない、アラシア兵たちは木っ端のように吹き飛ばされるではないか。
足さばきも舞踏を思わせる華麗さで、軽やかに舞いながらも地をしっかと踏みしめ。それを軸にして白い衣を身にまとう華奢な身体は芯がしっかりしているようで、槍を振るいながらも倒れそうにない安定感を感じさせ。
さながら戦場に咲いた一輪の白百合を思わせた。
おかげでひとかたまりだったアラシア軍の統率に乱れが生じ、そこにコヴァクスは突っ込み。さらにニコレットらも続き。さっきと同じように亀裂を広げてゆく。
「お、おい」
商人のひとりがぽかんとし。ラハマディは「ちっ」と舌打ちし、
「オレらもいくぞ!」
と叫んで剣を閃かせ馬を駆けさせた。
「な、なんという!」
一見ひ弱そうな少女が、という驚きを禁じ得ず。アラシアの将は口をあんぐりとあけて呆然としていた。
そうかと思えばアラシアの騎士を斃しざまに馬を奪い、ふたたび馬上の人となって戦場を駆ける。
その目はこちらをしっかととらえている。
「コヴァクス!」
ロンフェイは巧みな綱さばきでアラシア兵をうまくかわしながら馬を駆けさせ、あっという間にコヴァクスに追いつき、隣に並んだ。
「大将を!」
槍の穂先ををアラシアの将向けて突き出す。
お互いの瞳がお互いを移し合い。視線交わり。コヴァクスは、
「おう」
と力強くうなずき。アラシアの将めがけてまっしぐらに駆けた。
「みんな、コヴァクスを援護して!」
言われずともニコレットらはコヴァクスを援護し、道を切り開き。そこにラハマディにペロティアらも加わった。
「ええい、不甲斐無い者どもよ!」
わずかばかりの小勢を相手にてこずる兵士にしびれを切らし、アラシアの将は馬を駆けさせた。
頼りにならぬ兵卒がやるより、やはり己の手で討ったほうがよいかと、腕に覚えあるアラシアの将は自軍の兵すら馬脚で蹴飛ばす勢いでコヴァクスに迫った。
「おおお!」
大喝一声。コヴァクスは雄叫びを上げて剣をかざせば、アラシアの将も槍をかざし、一気に距離を縮め。
刃ぶつかり合い、火花が散った。
その直後、槍の穂先は砕けた。
「やるな!」
すぐさまに槍を捨て剣を抜き、今度は剣同士ぶつかり合い火花を散らす。
コヴァクスとアラシアの将の一騎打ち。その周囲をロンフェイらは駆けまわって、邪魔する者を薙ぎ倒す。
「ロンフェイは何を考えているの?」
ニコレットは不審に思わざるをえなかった。コヴァクスを助けているのかと思えば、アラシアの将はコヴァクスに当たらせた。尋常ならざる力があるようだが、それならアラシアの将を討ってくれてもよさそうなものなのに。
そんなロンフェイの澄んだ黒い瞳は、一騎打ちを映し出している。
(オレは、戦わねばならないんだ!)
そればかりが脳裏を駆け巡った。
アラシアの将は、息切れを起こし、動きが鈍くなる。
(オレは弱くなったのか!)
支配者として贅沢に染まった生活をおくり、自分でも思った以上に身体はなまり。必死のコヴァクスに押されていた。
(これは、やられる!)
恐怖が身体中を駆け巡り、それがまた身を固くさせるという悪循環が一瞬のうちに起こり。それを見逃すコヴァクスではなかった。
ぶうん、と剣はうなり。強い手ごたえを感じれば。アラシアの将の首が飛んだ。
その途端、わっとアラシアの兵は悲鳴を上げ。算を乱して逃げ出した。
首が地に落ちたころには、一騎打ちの周囲を駆けまわっていたロンフェイらの近くには、アラシアの兵はいなくなって。ロンフェイはコヴァクスのそばによる。
「よくやったわ。あなたがはじめから私の力を当てにしていれば、捨てたでしょうね」
「君もじゅうぶんに人が悪いな」
「お互いさまでしょう」
首のない胴を乗せた馬があさっての方向へ駆けてゆくのを尻目に、ふたりは笑い合っていた。
「君でも笑うんだな」
感情がなさそうな覚めた印象のロンフェイだったが、いま、たしかに微笑んでいて。
静かにうなずいた。
小さな国
「おいおい、なにいい雰囲気になってるんだあ?」
ラハマディは見つめ合うふたりを見て、助かった安堵感と喜びとともに、思わずあきれてしまった。
コヴァクスとロンフェイは、散ってゆくアラシア軍を尻目に、お互いに見つめ合い、微笑みあっているからだ。
「お兄さま!」
これに黙っているニコレットではない。ソシエタスもクネクトヴァもカトゥカも、あきれてしまっているのを隠そうともしない。
「あ、ああ」
呼ばれて、はっとして、コヴァクスは我に返る。
澄んだ黒い瞳を見つめていると、まるで吸い込まれるような、不思議なものを覚えたのだ。それは一瞬でも時間を忘れさせるものだった。
ロンフェイもロンフェイで、コヴァクスに見つめられて、悪い気はしなかった。
だが今はそれどころではない。
群衆は逃げるアラシアの兵士を追い、一旦は逃げた地元の兵士らも戦況がひっくり返るのを見て踵を返して、今さらながら戦いに加わるのだった。
形勢は一気に逆転した。コヴァクスの勇気ある突破のために。
いつしかコヴァクスらの周囲に人が集まり、
「小龍公、小龍公女、万歳!」
の、合唱がはじまった。
「これは……」
ペロティアにラハマディは息を呑む。
サロメに煽られながら他を頼みにするような群衆が、コヴァクスやニコレットとともに戦う道を選んだのである。
人間なんて。――
という、諦観を心の中に秘めていた。だがこれはどうだ。
「逃げる者は追うな。ひとまず町に戻ろう!」
剣を掲げて言えば、群衆はそれに応じて。町に戻ってゆく。
その顔は、殺戮を望む悪魔のような形相ではなく、明るく、人間らしい表情をしていた。
町へは、徴兵された地元の兵士も加わっていた。互いに顔を見合わせて、ともに町に入れば、
「小龍公、小龍公女、万歳!」
の歓声が響き渡る。
だがその中、無残な姿で果てたアラシア人らはそのままにされていた。それを見て、ニコレットは、
「この人たちを弔ってあげましょう」
と言った。
群衆は「なんだって?」と驚いた。憎きアラシア人に慈悲をかけるのか、と。徴兵された兵士らも、どうするのだろうと、様子を見ている。
「言ったはずだ。我らの目指すところは、復讐ではない、革命であると!」
有無を言わせぬ気迫をこめて、剣を掲げてコヴァクスは叫んだ。ニコレットははっとして、背中の長箱を解いて紅の龍牙旗を取り出し。ふたりの騎士見習いは進み出て、馬を並べて一緒に、受け取った紅の龍牙旗を掲げた。
紅の地に、銀糸で龍の牙が三本あしらわれている。
これはただの旗ではない。誇りであり、コヴァクスらの生命であった。
「この旗の下に集う者は、戦士でなければならぬ! ただ殺したいだけの外道はいらぬ!」
コヴァクスは叫んだ。血を吐く思いで叫んだ。そうでなくば、聞いてもらえそうになかった。だから必死だった。
それをロンフェイは静かに見守り。ペロティアにラハマディらは紅の龍牙旗を注視し、口をつぐんで、成り行きを見守っている。
群衆らは紅の龍牙旗を見上げて、「おお」とうなる。
風の噂で聞いたことはある。オンガルリに龍公あり。龍公に紅の龍牙旗あり、と。その紅の龍牙旗が、いま目の前にある。
気がつけば万歳の声は途切れて、沈黙が耳に痛い。
そんな中、徴兵の地元の兵士らは顔を見合わせて互いに頷き合うと、
「我らは小龍公、小龍公女に従います!」
と叫びだした。群衆は驚いてその方に目を向ける。
徴兵の地元の兵士らはあらん限りの声で「小龍公、小龍公女!」と叫んだ。まさかわずかばかりの小勢で突破を果たしたのがオンガルリの小龍公と小龍公女とは思わなかった。
驚きは大きかったが、同時に希望が開けてくる。
これを見て、群衆もさすがに改まらざるを得なかった。
数人の人々がアラシア人のなきがらのもとに集まり、荷車も用意されその上に乗せられる。そばには町の神父がいて祈りの言葉をささげている。
アラシア人のなきがらは町の共同墓地に運ばれる。コヴァクスらも後ろを着いてゆく。その後ろに、さらに大勢が着いてくる。
共同墓地につけば、穴が掘られて。アラシア人のなきがらは丁寧に穴の中に並べられ。神父は祈りの言葉をささげ。厳かな雰囲気の中、埋葬が進められてゆく。
「アラシア人なんか」
そういう不平不満がないわけではないが、これもすべて、アラシアと戦いリジェカの独立を果たすためと。コヴァクスの言わんとすることを、人々はどうにか理解しようとつとめた。
コヴァクスとニコレットらは下馬し、左胸に右手を添えて、目を閉じ、胸中静かに祈りの言葉をつぶやいている。ロンフェイも同じように下馬し、両掌を合わせて頭を下げて目を閉じている。
「これは夢じゃないよな」
ラハマディは思わずつぶやき、思わず下馬する。ペロティアらも思わず下馬する。
殺気だっていた群衆がアラシア人を弔うことが、にわかには信じがたかった。しかし、これは夢ではない。
「これも革命のうちか」
ラハマディはそう、ぽそっとつぶやいた。
アラシア人の葬儀は厳かな雰囲気の中でおこなわれた。
革命! 革命! といきり立っていた人々だったが、この葬儀の中で落ち着きを取り戻してきているようだった。
徴兵の兵士らも、静かにこの中に身を置いていた。
「魂よ、安らかなれ」
神父のしめの言葉で葬儀は終わる。
目を開けたコヴァクスは周囲を見渡す。
アラシア人の埋められたところには、簡素な木の墓碑が立てられていた。
ロンフェイはその墓碑を見つめ、あらためて、手を合わせ黙祷した。
クネクトヴァとカトゥカは一緒に紅の龍牙旗を掲げながら、母親に刺殺されたアラシア人の子供の悲痛な死に顔を思い出し。涙をおさえられなかった。
「お母さんに殺されるなんて……」
マーラニアにいる母親はいまどうしているだろうか。オンガルリは落ち、マーラニアも無事でいられるとは思えなかった。
「泣いてちゃだめよ」
ニコレットが若いふたりを優しくさとす。
「これからもっとつらいことがあるわ。心を強くもちなさい」
「はい」
涙をぬぐいながらふたりはうなずく。それを見るニコレットの色違いの瞳も、涙に濡れているが、どうにか落涙はおさえていた。
それを見て、
「泣きたきゃ、泣けばいい」
と、コヴァクスは言った。
「お兄さま」
コヴァクスは厳しい表情をし、木の墓碑を見つめていた。いつの間にかロンフェイが横にいた。
「そのうちいやでも涙が出なくなるかもしれない。だから、いま泣けるうちに泣いておけ」
「……」
ともに墓碑を見つめながら、ロンフェイはコヴァクスの言葉を耳をすませて聞いた。
(ここまで来るのに、さほど時間は経っていないはずだが、ずいぶんと長く感じるものだ)
ソシエタスは胸の内でひそかなため息をつく。
人々の視線がコヴァクスたちに集中する。
(成り行きで頭になっちまったな)
ラハマディはコヴァクスの双肩に重い責任がのしかかっているのが見えた。サロメと違い、のらりくらりとできない性格であると、つくづく思った。
ペロティアに他の商人たち、徴兵された兵士たちも、戸惑いながらも、コヴァクスに視線を向けるしかなかった。
「悔しいけど、あいつに従うしかないみたいですね」
忌々しそうにペロティアはラハマディに言う。「お姉さま」と信じていたサロメに裏切られて。ラハマディら商人らも同じように裏切られた衝撃大きく。心の傷の深さ推して知るべきであろう。
ここでやけを起こしてコヴァクスと離れたところで、一旦乱れはじめたヴァラカナ情勢の中で生きてゆける自信は、さすがになかった。
サロメは身一つで逃げたので、高価な商品は残っている。だが、生きるか死ぬかの中で、そんなものがどれほどの役に立つというのだろう。
「そうだな。みんなで力を合わせないとな」
ラハマディは自分に言い聞かせる。
これを離れたところから見る冷たいまなざし。
ソケドキアから来た『ソケドキア人』と、サロメの指示を受けて町を出た元兵士らだった。
他に数人ロヒニに出向いていて、まだ戻ってきていないのだが。そんなことお構いなしに、彼らは視線をかわして頷き合い、町を出ていった。
アラシア人を弔い終えて、一同は町の中心部に戻った。
「くッ」
コヴァクスは頭がふらつき、思わず歯軋りをする。
負担大きく、それは心と身体の両方に来て。いかに若く活力あるコヴァクスといえど、限界を感じさせられるのであった。
どうにかこらえて下馬したものの、頭のふらつきはおさまらない。
(だめだ)
足から力が抜け、倒れてしまいそうになる。そこへ、身体を支えられ、転倒をまぬがれる。それと同時に、鼻に優しくふれるようなかおり。
「ロンフェイ……」
「しっかりしなさい」
周囲は「あっ」と声を上げる。
どうにかふんばっていたコヴァクスだが、他はごまかせてもロンフェイはごまかせなかった。
ニコレットらは呆気にとられている。
コヴァクスは鎧を身にまとい、少女の細腕で支えるには重そうなものだが、ロンフェイはまるで木の枝でも支えるようにコヴァクスを支えていた。そればかりか額に触れる。
やわらかな少女の手の感触に、にわかに安堵感を覚えて、コヴァクスは意識をなくした。
「熱があるわ」
これはいかんと、ソシエタスがすぐさま駆けつけロンフェイと代わり。慌ててかついで、宿舎として提供されている家屋に駆けこみ。ニコレットらも続く
「……!」
着いてゆきながら、ニコレットはあらぬものを察した。
(お兄さまは、ロンフェイに、恋をしている!)
ロンフェイを見る兄の目。それはただならぬものを秘め、それを恋という。
家屋の住人は部屋に運び込まれたコヴァクスをいたく心配し、ソシエタスとともに鎧を脱がすのを手伝い、身軽な服装にしてベッドに横たえ。ニコレットは小桶に水をため布きれを浸す。
「私がそばにいるわ」
小桶をニコレットから取り上げると部屋へ滑り込むように入ってゆく。その間ロンフェイに見つめられ、その眼力に逆らう気を抑えられてしまった。
コヴァクスは意識なく、目を閉じ眠りについている。
ベッドに腰掛け、その寝顔を見つめ、水に浸した布を額に乗せる。
「精神的にそうとうまいっているようね」
そう言うと、ロンフェイはコヴァクスの頬に優しくふれた。
「小龍公が倒れられたなら、やむをえませぬ、小龍公女がひとまずの指揮を」
「ええ」
頭領として革命を引っ張るはずのコヴァクスがあんなことになって。やむなくニコレットが代わって指揮をとらねばならなかった。
部屋の中にロンフェイとふたりきりなのが気になるが……。
「変なこと考えてるでしょ」
ペロティアが冷たいまなざしをして、ニコレットに言った。
「そ、そんな」
「まさか、実の兄なのに、やきもち?」
「そんなわけないでしょう」
「やめろ」
ラハマディが眉をしかめながらペロティアをいさめた。クネクトヴァとカトゥカは怖い目をしているが、おかまいなく、
「ふん!」
と、鼻息荒く、一瞬だけ睨み返して、そっぽを向く。
「まったく。小龍公女さん、わりいが」
ニコレットはため息をつきつつうなずき、ソシエタスにともなわれて外に出る。
群衆は、人々は、兵士たちも、ニコレットを注視する。
その、期待のまなざし。貫かれるような痛みをなぜか感じる。
「お兄さまがお休みの間、私が指揮をとります」
人々はざわめく。コヴァクスを一番頼りにしているのだ。ざわめきの中から、
「もし小龍公が死んだら、あんたが革命を引っ張ってくれるのか?」
という声がする。
(縁起でもない)
その声はロンフェイにも聞こえ。頬に触れながら、すこし柳眉をひそめた。
コヴァクスは瞳を閉じて、夢の中の人になっている。
「心配はいらないわ。明日には元気になると思います」
胸を張り、毅然とこたえる。
色違いの瞳に力を込めて、人々を見据える。
争いながらも交わり合った、多種多様な人種民族入り乱れる世界を象徴するような、ニコレットの色違いの瞳。
ふと気配がすれば、ソシエタスの他に、ラハマディとペロティアら商人らもニコレットの後ろに控えて、人々を見据えていた。
「そういうことだ。余計な心配してねえで、そうだな、兵士どもは町を警備してな! 他はおとなしく休んでろ!」
ラハマディが一喝すれば、人々の肝っ玉を突き。
「は、はい!」
と、よい返事が帰ってきて。人々はあわただしく動き出す。
「オレもゆこう。すこしでもなにかあれば、すぐに知らせるのだ!」
ソシエタスが警備につく兵士らの中に入ってゆく。
ラハマディらは睨みを利かせる。
「こういう時は、なめられたらだめだ」
「はい……」
コヴァクスの時と違い、ニコレットは女であるためか、人々の反応はどこか冷たかったように思えた。
もしラハマディらが機転を利かせてくれなかったら、どうなっていたことやらと、ニコレットは生きた心地がしなかった。
「それにしても」
だめだと思いつつも、どうしてもため息が出てしまう。
「人の上に立つ、というのは、大変なものですね」
「それがわかってりゃ、十分だ」
困惑気味のニコレットに、ラハマディはつとめて明るく応える。
言葉づかいは悪いが、根は善い男のようであり。ニコレットは安堵感を覚える。
そんなラハマディはペロティアと他の商人に、商品を確認するよう指示すれば、一同は「合点だ」と駆けてゆく。
最初の町でのあの混乱の中、しっかりと商品を乗せた荷車をもってきているのだから、しっかりしたものである。
「あんたたちがしっかりしてねえと、あいつら復讐心にとりつかれて、ただの人殺しになっちまうからな」
「そうですね」
「まあ、まずは、あんたも休んで体調をととのえろ。小龍公さんとあんたに引っ張ってもらわねえといけねえからな」
「でも」
「いいから」
ラハマディは眉をしかめながら言った。つべこべ言わずに休め! と視線で強く訴えられて、ニコレットはやむなくうなずき、あてがわれた部屋に戻った。
ラハマディはニコレットが部屋に戻るのを見てから、クネクトヴァとカトゥカを見て、
「その、お坊ちゃんの方は小龍公、お嬢さんの方は小龍公女の護衛だ」
「僕にはクネクトヴァという名があります!」
「私も、カトゥカという名があります!」
お坊ちゃん、お嬢さんと言われてふたりは機嫌を悪くしながらも、言われた通りにそれぞれ部屋の前にゆき。気を利かせた家の住人の用意してくれた椅子に腰かけ、護衛につく。
(まあ、あのふたりだから、間違いはおこるまい)
万が一にも間違いが起こって。あらぬ声に顔を真っ赤にするクネクトヴァを想像して、ラハマディはひとり面白がる。
「しかし、なんだかんだで、若いなあ」
若いのは結構なことだが、それだけでは前には進めぬ。ソシエタスも苦労しただろう。その苦労を、自分もしなきゃならんか、と二十九のラハマディはふとふと考えるのだった。
結局、あれからなんらおかしなことはなく、そのまま陽が沈み、夜のとばりが落ちる。
コヴァクスのそばにつきそうロンフェイもさすがに、うとうとしてしまい。思わずあくびをしてしまった。
「……」
コヴァクスを見れば、眠ったままだが、熱は下がり。寝顔も落ち着いている。それを見て、ロンフェイはコヴァクスに並んで横になる。
そして迎えた翌朝。
うっすらとまぶたがひらき、なんのきなしに顔を横にすれば。
「……!」
目は見開かれ、思わず出そうな声をとっさに抑え、反射的に上半身を起こした。
無防備にもほどがあるというか。若い娘が男と同じベッドで寝るとは。知らぬとはいえ、女性と同じベッドで一夜を明かしたのははじめてのことで。起き抜けに心臓がどきどきするのを禁じ得なかった。
ロンフェイは瞳を閉じ、胸の上に手を重ねて静かに横たわる。まるで人形のように。
「ろ、ロンフェイ……」
ぽそっとつぶやけば、それが聞こえたのかロンフェイもまぶたを開け、静かに上半身を起こし、コヴァクスを見つめる。
視線が交わり、互いの瞳に姿を写しあう。
「よかった」
ロンフェイの微笑み。それはなぜか心に沁みわたる。
「ロンフェイ、君……」
「昨日、あなたが倒れてから、ずっとそばにいたわ」
「そうか、オレ倒れて……。ずっと!」
そういえば、昨日突然意識をなくした。それからここに連れてこられて、寝かされた。それはいい。まさかロンフェイがずっとそばに付き添っていたとは!
「どうして、君は……?」
「あなたの勇気に、感じ入るものがあって」
「オレの、勇気?」
ロンフェイは微笑んでうなずいた。
自分の勇気など。ただ、必死なだけだった。
「ああ……」
にわかに、なにかむずがゆいものを感じる。照れくさいともいおうか。
「ちょっといいかな?」
ドアが開けられる、ラハマディだった。彼はふたりを見て、ふっ、と軽く笑う。その後ろに控えるニコレットにソシエタスに、クネクトヴァ、カトゥカは何と言っていいのかわからない戸惑いを見せている。
(なんだったらゆっくりしてもらってもいいが、そうもいかなくてな)
ラハマディは苦笑を禁じえない。
「な、なんだ、ノックぐらいしろよ」
「わりい、わりい、火急のことでな」
「火急のこと?」
「ロヒニから使者が来てるぜ。小龍公に会いたいとさ」
「……ロヒニから?」
ロンフェイはいつの間にか立ち上がっていて、ベッドから距離をとっている。コヴァクスは、ロヒニから使者の旨を聞き、展開に動きがあったことをさとった。
思えばロヒニでも革命が起き、多くのアラシア人が報復されているのだ。
「わかった、着替えたらすぐいく」
「早くしてくれよ」
ラハマディはどこか面白そうな顔をして、部屋を出てゆき。あとにつづくニコレットは、
「わ、私は、やっぱりノックをしましょうと言いましたからね」
と、言い訳がましいことを言い、他の者らとともに部屋を出れば。すぐそばにロンフェイ。
「きゃ」
思わず小さな悲鳴が出てしまって、思わず顔を赤らめ恥じ入る。いつの間にいたのか、まったく気配を感じさせない。この少女は何者なのだろう。謎の多い少女だ。それが、やけに兄になつく。それが気になる。
わかったわかったと胸の中でつぶやきながら、ドアが閉められるのを見て、コヴァクスは着替える。といってもそれほどいい服はなく、家の住人が用意してくれた男ものの洗い立ての平服だった。
着替えが済んで部屋を出て、家屋の一階の広間に出れば。中央の円卓に、見慣れぬ男性が三人座っている。
コヴァクスを見ると、三人は居住まいを正して、立ち上がった。
ひとりは黒服を身にまとい。背はそこそこ高く、白髪交じりの栗色の髪、顎は少し角張り、目つきは眠たげだが奥に見える栗色の瞳は鋭い光を放っていた。
もうひとりは白髪頭で、これは青い服を身にまとっている。少しやせたような顔型をしていて、目つきは明らかに鋭い。
三人目は赤い服を身にまとっている。やや薄い黒髪で、童顔っぽい顔つきをし、人懐っこい顔をしている。が、口元にうっすらと出ているしわを見るに、実際は四十を越えているようだ。
「お初にお目にかかる。イヴァンシムです」
「私はイヴァンシムの僚友、バリルです」
「私はイヴァンシム先生の弟子、ダラガナです」
三人は若いコヴァクスに、礼儀正しく一礼をする。
「コヴァクスです。どうぞ、おかけに」
恐縮し、思わず身体が固まる。
三人が椅子に腰かけ、それに続いてコヴァクスが腰かけ。イヴァンシムは咳払いし、言葉を発した。
「まず、最初にことわっておきますが、我らは旧ヴーゴスネアのヴェアクラーデ地域の者です」
「ヴェアクラーデ……」
「我らはかつてアラシアの軍人でした。しかし、民族の誇りを捨てきれず。『抵抗者』という組織をつくり、ささやかながら抵抗を試みておりました」
「おっと」
バリルがイヴァンシムの言葉を遮る。
「私はヴェアクラーデの出でなく、ザラレヴォのモスタレの出で。ファルチザーネの者でもありませんが、ゆえあっておふたりと行動をともにしております」
「……はい」
コヴァクスはロヒニからの使者というから会ったのだが、まさかヴェアクラーデの者で、抵抗運動をしていたとは。
「ロヒニの者でなくて、申し訳ない」
すこし冗談めかしてダラガナが笑顔をコヴァクスに向ける。
「いや、それはかまいませんが。ロヒニでの革命は、あなたがたが」
「そうです」
イヴァンシムは誇るでもなし、淡々と返事をし。ふところに手を入れると、指輪を取り出して円卓に置く。
それは黄金づくりで、鷲の彫刻がこまかにほどこされていた。この指輪を許されるのは、アラシアの王侯貴族のみである。
「これはロヒニの街を支配していたアラシア人のものです」
重い口調で、ロヒニでのことを語る。
わずかばかりの抵抗者でもって、旧ヴーゴスネア、ひいては故郷ヴェアクラーデの独立を果たさんと各地を転戦して。ロヒニにたどり着いたときに、少し離れたところでリジェカの代官であるヒュカンテスが革命により斃れたという話が伝わり。
ロヒニにおいても、なぜか街を支配するアラシア人貴族が暗殺された直後もあって、支配はだいぶ弱まっており。その間隙を突けて、ロヒニを掌握したという。
(アラシア人貴族が、暗殺!)
ふと、あの忌々しい六人が思い出される。あの者らは旧ヴーゴスネア各地で支配層の高級アラシア人を暗殺していたというが……。
「各地で高級アラシア人らが暗殺されていると聞きましたが、それはほんとうだったのですか」
「左様。どこのだれがやったのかわかりませんが。そのおかげで、アラシアの支配力は弱まっております」
「では、遅かれ早かれ、革命は起こると」
「そうですな」
イヴァンシムは淡々としながらも、どこか重いものを含んで話をする。
(もう少しオンガルリがもてば……)
そう思うとやりきれぬものがあるが、考えたところで詮無いことである。
「いや、話がずれておりますぞ。我々は、小龍公と手を結びにきたのではありませんか。その話をせねば」
そうバリルが言うと、イヴァンシムは考えをととのえるようにひとつ咳払いをする。
「我らの素性はロヒニまで」
「そうです。オンガルリが落ちたことはすでに広まっておりますが、よもや小龍公、小龍公女は健在で革命を起こすとは。なかなか天晴なことでござる」
バリルはコヴァクスを讃える。
「革命精神こそ、今の世に必要とされる志です」
「……いや、それほどたいしたことではありません」
革命を起こしたとはいえ、それはサロメが引き起こして、コヴァクスらを巻き込んだかたちであることを思うと、讃えられることになにか後ろめたいものを感じるのであった。
咳払いをしたイヴァンシムは苦笑しながら、
「バリルどの、話が……」
と、間に割って入る。
「おっと、失礼」
バリルは諧謔をこめて肩をすくめるしぐさをし、ダラガナは「くく」と笑いをこらえる。
(なんだかおかしな人たちだな)
三人性格がだいぶちがうようだが、それでもこうしてともに行動できるものなのか、と。ふとふと思った。
「我らはロヒニを掌握した。小龍公、あなたがたに、ぜひともお力添えを願いたい。つまりは、その話をしにきたのです」
「それは、かまいません。願ってもない話です」
正直言えば、コヴァクスらの革命は成り行きではじまり、勢いだけで進んでいるような気がしてならなかった。このまま突っ走ったところで、どこまでゆけるのか、という不安が大きかった。そのため、昨日あんなざまだ。
アラシアに抵抗をつづけながら、いままで生き抜いてきたということは、三人とも熟練の軍人と見ていいだろう。
「それで、我らはロヒニにゆけばよいのですか」
と言いそうになったが、ふと、気になることがあった。
「ロヒニにおいて、アラシア人はどう遇されておりますか?」
それを聞き、イヴァンシムの石のような重そうな顔が微笑んだ。
「ご心配なく。最初こそ報復騒動がありましたが、いかなることがあろうと無益な殺生をせぬようにと、戒めております。ただ万一のことがあるので、警備をつけながらですが、保護しております」
それを聞き、コヴァクスは安堵する。
「我らが目指すのはあくまでも革命。報復や復讐ではありませぬ」
「まったく同意です」
話しながら、この人たちなら、信じてもよいかもしれないと、一筋の光明を見る思いだった。
「それで、我らはロヒニにゆくのですか?」
「はい。ぜひ来ていただきたい。いかんせん我らは年寄りばかり。あなたのような若い力がぜひともほしい」
バリルは力をこめコヴァクスを見据えた。
「大変うれしいお言葉です。ですが大事な話なので、みんなとも話し合いたいのですが」
「もちろん、お呼びあれ」
ということで、ニコレットやソシエタスだけでなく、ラハマディとペロティアまでもが円卓に並んだ。
クネクトヴァとカトゥカというと、徹夜の護衛でさすがに睡魔強く。気を利かせて眠らせてやることにした。
ロンフェイは、風に当たりたいと、外に出ているという。
(そのままどこかに行くのだろうか?)
なぜかコヴァクスはささやかながら不安を覚えたのは、自分にも秘密だった。
ともあれ、今後のことが話し合われた。
とりあえず、自分たちの勢力範囲というものを考えて。最初に来た町と、今いるこの町、そしてロヒニ。
面積で言えばさほど広くはない。
地理的に言えば、旧をつけねばならなくなったオンガルリと接する国境地帯であり。ヴーゴスネア建国前はリジェカという国の北部だった。
「必ずダライアスは来るでしょう」
とダラガナは言う。それはみんなも考えるところだ。
それでも、革命を進めねばならない。それで、どうするのかというと。
「独立宣言をするのです」
と言うイヴァンシムに、コヴァクスらは面食らった。
「独立宣言!」
「左様。我らの革命が起こったのみならず、ソケドキアが独立したことで、旧ヴーゴスネアにおいて革命の機運は否が応でも高まっております。もはや後戻りはできぬでしょう。ならばいっそ、独立するのです」
「独立。というと、リジェカのですか?」
「いいえ、オンガルリです」
「オンガルリ!」
コヴァクスらはさらに面食らった。かつてリジェカであったこの地域を、オンガルリとして独立させるとは!
なんという大胆な考えであろうか。
「しかしそのようなことをして、民衆は納得するのでしょうか?」
ソシエタスは疑問を呈す。大胆であるが、あまりにも大胆すぎる。
「そのことについては私も考えました。しかし、さきほども言った通り、革命の機運は高まることはあっても、低くなることはありますまい。我らの革命、ソケドキアの独立。さらに、南方グレース地域の諸々の都市国家も、これに乗じるでしょう」
「そこで、オンガルリとして独立し、旧ヴーゴスネアにおけるアラシアの支配力を一気に削ごうというのですね」
「そのとおりです、小龍公女」
ニコレットの言葉にバリルは微笑んで応えた。
「もちろん、オンガルリは一時的なもの。のちのち、リジェカとして独立することを公約せねばなりませぬが。いかんせん、旧王族の方々の消息もつかめず……」
もし旧リジェカ王族の消息がつかめれば、それを王に立てるのだが。それができず、かといってゆっくりすることもできず、イヴァンシムらとしても苦渋の選択であった。
とにもかくにも、時間が惜しい。そう思わせたのは何と言っても、ソケドキアの独立であろう。
(それにしても……)
イヴァンシムらほどの熟練者が抵抗してもひっくり返らなかった支配が、南のソケドキアからひっくり返りそうになるとは。
国を興したフェレッポスとは、よほどの者のようだ。
「国王となったフェレッポスはもちろん、その王子シァンドロスも、なかなかの勇者であると聞きました。その勢力は一気に広まることでしょう」
「そんなに……」
コヴァクスらはソケドキアが勢いづいていることをイヴァンシムから聞き、ただならぬものを感じた。
「あまり考えたくないのですが」
ダラガナは憂いを含んで言う。
「ソケドキアは、アラシアに代わって旧ヴーゴスネアを支配しようとする野心があるのでは、と。もしそうなら、本末転倒です。その対抗勢力として、オンガルリ独立が火急の命題になるのです」
「話はだいたいわかりましたが。しかし、のちにリジェカ独立を約束し、一時的にオンガルリとして独立するにしても、誰が王になるのですか?」
と言うコヴァクスに、三人の目が向けられる。
「それは、小龍公、あなたです」
「オレが!」
驚きが破裂した次の瞬間に、重い沈黙。ここまでくればもう面食らうでは済まなかった。
その沈黙をおしのけるように重い顔を向けるイヴァンシム。
「王族ではなくとも、龍公ドラヴリフトどののこ子息と言う血筋。そして人柄もよく、人望もある。だから、あなたが王になるのです。あなたしかいないのです」
「……」
コヴァクス、沈黙。ニコレットらも、唖然とするばかり。
こんな無茶な話があるか。オレが、王にだと! と、何度も何度も苦悩が反芻する。
「ご安心あれ。我らもできるかぎり支援しますぞ」
「責任をあなたにすべて背負わせることはありません。革命に関わる者、等しく責任を負うようにします」
バリルとダラガナは、コヴァクスを励ますように言う。
コヴァクス、思わず天を見上げる。
(父上、母上、とんでもないことになりました!)
ニコレットは色違いの瞳を揺らし、動揺する兄を見つめる。つまるところ、反アラシアおよびヴーゴスネア各地域独立の象徴になれと言われたのだ。となれば、それにふさわしい者は、コヴァクスをおいて他にはおるまい。
さすがのラハマディはおろか、ペロティアでさえ減らず口をたたけず。年長のソシエタスも沈黙するしかなかく。もしクネクトヴァとカトゥカが部屋で休まずにここにいれば、
「ええーッ!」
と、思わず大声を出したことであろう。
さらにロンフェイはどのような反応をしめしたことだろうか。
(ロンフェイは、オレの勇気を褒めてくれた)
一見冷淡で無表情で気まぐれなあの彼女でも、微笑み、人を褒めることがあるのかと、驚かされた。あんな彼女でも、褒めたくなって、付き添いたいと思えるようなことを、自分はしたのか。
(っていうか、どうしてオレはロンフェイの事を気にするんだ)
自分でもわからない。ただなぜか、心の中に、ロンフェイがいる。その彼女が、コヴァクスを見つめている。
「……」
周囲が答えを待っている中で、いろいろなことを考えまくって、このまま永遠にと思わせるほど沈黙していたが。
「わかりました」
そう言った途端、三人は「おお」と歓声を上げた。ニコレットらは目を見張って、反応に困っているようだった。
「こうなっては、是非もありませんな」
ソシエタスは「ふう」と息を吐き出して言うが、その通りだった。コヴァクスが了承した以上、是非もなかった。
「では、さっそくですが。今から人を集めて、独立宣言をしましょう」
イヴァンシムは微笑みながら、そう言う。覚悟を決めたコヴァクスだが、これには不審そうだった。
「どうして、こんなところで?」
ロヒニに行ってから、そこで宣言をしてもよいのではないか。そのつもりだった。が、イヴァンシムの考えは違うようだった。
「ことは一刻を争います」
そう言ったのち、
「ここは名もなき小さな町ですが、歴史は名もなき小さなところからはじまるのです。アラシアの王族も、かつては砂漠の名もなき小さな部族でした」
と、丁寧に言葉を紡ぎだす。
「……わかりました」
正直、イヴァンシムは難しそうな顔をし、言うことも難しく、コヴァクスにはとっさに理解しがたかった。ただ、この人の助言に従えばよい、という安心感は感じられた。
「ソシエタス、ラハマディ、いますぐ人を集めてくれ。ニコレットはクネクトヴァとカトゥカを起こしてやれ」
コヴァクスがそう言うや、一同も覚悟を決め、すぐに動き出す。遠慮して名指ししなかったペロティアも、
「暇だから手伝ってやるよ」
などと言ってラハマディに着いていった。
しばらくして、コヴァクスらが身を寄せる家屋の前に人々が集まった。
なにがあるんだろうと、皆不思議そうにしていた。
ソシエタスやラハマディたちは、独立宣言のことを秘密にして、人々に集まるよう言ってまわったのだった。
もう十分に集まったところで、コヴァクスがあらわれ。その後ろにニコレットとソシエタス、紅の龍牙旗旗を一緒に掲げるクネクトヴァとカトゥカが控えている。
「みんな、大事なことがある。心して聞いてくれ!」
思わず固唾をのむ。
イヴァンシムらにラハマディたちは、中に入らず、外にいて、コヴァクスらの両脇にひかえて。万が一の暴徒にそなえて身構えている。
これは、皆にとっての賭けだった。命を懸けた、賭けだった。
まず、今の状況を説明し。ロヒニを掌握したイヴァンシムらと手を組むこと、これにより、リジェカ地域の北方地帯の一部を版図におさめ、アラシアから解放したという話をした。
人々は、「わあ」と、革命前進の歓声を上げた。
歓声に包まれながら、またコヴァクスは固唾をのみ。さらに息を大きく吐いた。
「本題はここからだ。ほんとうに大事なことだから、よく聞いてくれ!」
あの小龍公がひどく緊張している。何事だろう。と、多くの人々までがつられて緊張する。
まさに、戦場において敵将を討たんとするほどの気持ちをもって、コヴァクスは叫んだ。
「ここに、オンガルリの独立を宣言する!」
「万歳、万歳、万々歳!」
コヴァクスの叫びに呼応する万歳の大合唱。
(なんだって!)
でたらめを言うな! と責められるのを覚悟していたが、あにはからんや、反応は正反対も正反対であった。安堵よりも、こちらがものすごく驚かされた。
「あんたが王様になってくれるんなら、言うことはない!」
「頼りにしてるぜ小龍公!」
「新オンガルリに栄光あれ!」
などなど、賛辞が嵐のように吹き荒れた。
「人々の小龍公を求める心は、我らよりもはるかに強かったのか」
イヴァンシムも予想以上の好反応に驚きを隠せない。コヴァクスはそれだけの働きをした、ということであり。あらためて、その勇気に敬服するのであった。
独立宣言ののち、歓声に包まれて、コヴァクスはそれを受け止めるのが精一杯そうだった。
版図はわずかばかりの、小さな国である。まことに小さな国である。それでも、アラシアの束縛から逃れられたと、人々は素直に喜んだ。それとは対照的に、コヴァクスらは、これから本格的な戦いになるのだと、身の締まる思いだった。
歓呼する人々の中に、一輪の白い花。そう見えたのは、ロンフェイであった。
(あッ!)
引き寄せられるように、目と目が合った。彼女は、コヴァクスを見つめて微笑んでいた。それを見て、コヴァクスも微笑んだ。
陰影の獅子王子
ダライアスはオンガルリを制し。王都ルカベストにて、勝利の報告の使者を送り。また父であるクゼラクセラ大王からの指示を待った。
その間、のんびり休んでいたわけではない。
まずルカベストでしたことは、ドラヴリフトら陰謀によって死した勇士らの葬儀を執り行うことであった。
その費用には帰順したオンガルリの貴族の貢ぎ物を当てた。
「我らの金でドラヴリフトを弔うのか……」
貴族たちは唖然とする。
ダライアスがルカベスト入りするやすぐさま謁見をもとめ、高価な貢ぎ物も差し出したわけだが。まさかそれを全てドラヴリフトらの葬儀費用に当てようとは。
葬儀は国葬と言ってもよいくらいの規模であった。
王都ルカベストには、もちろん国で一番の大聖堂があり。ダライアスは自らそこにおもむき、供を入り口前で待たせたうえに武器を携行せず、筆頭神父をつとめるシキズメントに会った。
このことにシキズメントは大変な驚きを隠せなかった。
「これはダライアス王子自ら、ご足労をおかけします」
弟子に執務室へと案内されたダライアスの姿を見た途端に、シキズメントは感じるものがあった。
王者の風格というものである。
弟子が椅子を用意したが、すぐに座ろうとせず。シキズメントが「どうぞ」とうながしてから腰を掛けた。
征服者であるのに、被征服者に対するこの態度はどうか。
ダライアスはシキズメントの目をまっすぐに見据えて、ドラヴリフトらの葬儀を行う旨を伝えた。
「葬儀は我が教会の儀典にのっとったやり方でよろしいのですか」
「そうしてほしい。オンガルリの民衆も、安堵するであろう」
「そこまでお考えで……。確かに、民衆も安心いたしましょう」
シキズメントは神に仕える身として、民衆の心の安寧を神に祈っていた。
ドラヴリフトとも親交があり。国防面で国を支えるドラヴリフトを動とするなら、精神の安定をもって国を支える静のシキズメントといったところか。
それだけにここ最近の国政の腐敗に心を痛めて。国王が常日頃唱える浪漫のろの字もなく、ついには亡びを免れなかったオンガルリの運命を嘆いたものだったが。
よもや征服者が一番に国の民衆のことを気にかけているとは!
「神にはこのことがお見えになっておられたのでしょうか」
思わずダライアスにこぼしてしまった。
「それはわからないが。予は己が神に導かれたなどと、不遜なことは考えぬ」
愛馬にアジ・ダハーカなる魔龍神の名をつけているような王子である。神に導かれるよりも、神すらも導く者にならんとする心意気を無意識的に持っていたとて不思議はない。
「心の固きによりて神の守りすなわち強し。と申しますが、あなたはそれを体現されたお方だ」
「……よせ。予が望むのは征服ではなく、統一である。ただそれだけのことだ」
征服者として責められてもやむをえないところを、讃えられることに、ダライアスは皮肉なものを感じた。
父が自分を遠ざけようとしているのは、わかっていた。そのために、わざわざオンガルリの、心が腐った貴族を抱き込むような手間までかけたのだ。
しかし、どうにも、おかしい。いったい何が起こっているのか。あの、クンリロガンハでの様はどうしたことか。
何か目に見えないものが、ダライアスをどこかに導こうとしているのを感じてやまなかった。
「では、頼むぞ」
いろいろ気になることはあるが、まずは葬儀である。シキズメントにすべてを託し、ダライアスは教会を後にした。
その王城までの帰路、人々は跪いてダライアスを見送った。
「!!」
ダライアスの頭に衝撃が走った。放たれた石が当たったのだ。
石を放ったのは、まだ小さな男の子だった。
「お父さんの敵!」
男の子はそう叫んで。母親は男の子を羽交い絞めにして、ともに地に額をつけて「申し訳ありません!」と必死に叫んでいた。
イムプルーツァは下馬し「おのれ!」と叫んで親子のもとまでゆき、帯剣の柄に手をかけた。
「やめろ!」
「しかし獅子王子……」
「やめろと言っている!」
言いながらダライアスは愛馬アジ・ダハーカから下馬し、親子のもとまでゆく。
周囲は騒然となり、ことの成り行きを見守っている。侍女のヤースミーンにパルヴィーンも固唾をのんで見守る。
ダライアスは跪く親子のもとまでゆくと、片膝を地につけ姿勢をかがめた。
「予が憎いか」
「憎いさ! アラシアの蛮族!」
「おやめなさい! ああどうかお許しを。罪は私が一身に追います。どうかこの子を、お許しあれ!」
母親は子を抱きしめ、必死に懇願していた。
察するに、この親子はクンリロガンハにて死した騎士の家族なのであろう。
「強くなれ」
「え……?」
「予を討ちたくば、強く生き抜くのだ」
それだけを言うと、愛馬に戻り。何事もなかったかのように帰路に着いた。イムプルーツァも騎乗し、ヤースミーンとパルヴィーンらとともにあとにつづく。
「お慈悲は一度までだぞ!」
そう周囲に言ってから、
「獅子王子は優しいが、優しすぎる」
と、イムプルーツァは憂いを含んだ声で言った。
ドラヴリフトらの葬儀は大教会にて、シキズメントの導師のもと、盛大に執り行われた。
神も天上界から見ているのか、その日は雲ひとつない快晴の秋空だった。
大聖堂の円形の屋根は陽光に照らされ強く輝き、両側に柱の並ぶ広間にはシキズメントの祈りの言葉と、少年少女らの清らかな声の鎮魂歌が響き渡る。
喪主は王妃ヴァハルラがつとめ。第一王女オレアに第二王女オラン、そして末っ子の王子カレルは従者につきそわれて、葬儀に参列する。
広間の中央に黒い棺が一基置かれており。そのそばにシキズメント。その後ろにヴァハルラとその子ら。その周囲をオンガルリの数十人の王侯貴族らが取り囲んでいた。
棺の中は空だった。
クンリロガンハにおける遺骸は、いたましいことになっており。そこに数十人残して、火葬し。その遺骨はルカベスト郊外の墓地に埋葬されていた。
この黒い棺は、クンリロガンハで死したドラヴリフトら勇士の象徴だった。
厳重な警備だが一般の国民も参列を認められ、多数の民衆がルカベスト大教会に詰めかけ。英雄の死を嘆いた。
そこに、ダライアスは姿をあらわさなかった。なんらかの言葉すらなかった。そのため、この葬儀はオンガルリの国葬の様相を呈していた。
一応でも参列していた王侯貴族たちの中で、イカンシとのつながりがあった者らは、この嘆きを見て、胸糞の悪いものを覚えていた。
(ふん。ヴラデ公がなんとかしてくれようぞ)
彼らの中に、妹が隣国で同盟国のマーラニアの将軍、ヴラデ公なる人物に嫁いでいる者がいた。その名をバゾリーといい、彼は内心妹婿に期待していた。
聞けば降伏をうながす使者がマーラニアに向かったきり、帰ってこないというではないか。「これは期待できるぞ」と、心ない貴族たちは面従腹背でダライアスに接するのであった。
そんな貴族らの心の中など知らず、勇士たちの死を嘆く民衆は次から次へと大聖堂へと詰めかけ。
この日は、都ルカベスト全体が嘆きに覆われていた。
ダライアスは征服者ながらも慈悲深い、ということは民衆もわかっていたが。それとこれとは別問題である。
シキズメントの祈りの言葉が終わると、棺は外に出されて。待っていた馬車に乗せられて墓地へと向かい。その後ろに王妃らが続き。さらに民衆が続いた。
さすがに王都中にはアラシアの将兵が張っているが。ダライアスの指示により、極力おとなしく葬儀の列を見送っていた。
民衆は警備のアラシアの将兵に憎しみと冷たさにあふれた目を向ける。そうしながらも、浪漫王を自称する国王レドカーン二世に対してもほぼ同じ気持であった。
(何が浪漫だ! 獅子王子だ!)
何度も何度も胸中でそう叫んだ。
墓地に着けば、あらかじめ掘られていた墓穴に、神父たちは棺を入れ。土をかぶせてゆく。そこでふたたび、シキズメントは祈りの言葉を発し、少年少女たちは鎮魂歌を歌いあげ。
民衆は、はばかることなく、号泣するのであった。
王城の王の執務室において、ダライアスは葬儀の報告を受ける。
何ら混乱はなく、葬儀は粛々と進んだという。
「異教の葬儀ではありましたが、思わず感動を覚えてしまいました」
言ってから、臣下ははっとした。
「そうか。ご苦労であった、さがってよい」
ダライアスは何も咎めることなく、臣下を下がらせた。
執務室において、オンガルリ国内における統治や産業に関する書物を読み漁っていた。
これからアラシア国の州に組み入れられるオンガルリを治めるならば、欠かせないことであった。
これを、オンガルリの貴族は気味悪がっているという。
(母から教わった王者の心得は、そんなにおかしいのか)
厳愛の母であった。ダライアスに常に、王者たれ、と教えてきた。
そのクゼラクセラ大王の三人目の妻で母のバビロナは、ダライアスが十のころに病によってかえらぬ人となった。
その葬儀は質素なものだった。
長じて十五の時に初陣し、手柄を立て、大王から獅子王子の称号を与えられて。以来、戦場と言う戦場を駆け巡り、いまに至る。
オンガルリの貴族がダライアスを色眼鏡で見るのはやむをえまい。しかし、アラシアにおいても、同じように見られていたのは、なぜなのだろうか!
「申し上げます!」
執務室の扉の向こうから、イムプルーツァの声が響く。
「入れ!」
との声で、従者の開ける扉から入ってきたイムプルーツァの顔は、真っ赤だった。
「何か悪い知らせか」
「顔に出ておりますか。しかしこれは隠しきれるものではありません。マーラニアにつかわした使者ですが」
「どうした」
「王都ユガレセトの郊外にて、串刺しにされているとのことです!」
「なんだと!」
オンガルリ入りするとともに、マーラニアに降伏をうながす使者を送ったのだが。一向に帰ってこない。そこで様子を探るため斥候をつかわしたのだが……。
「無残なことに、使者らは股から肩、あるいは喉までを丸太の杭にて貫かれ、郊外に打ち捨てられていると」
「誰がそのようなむごいことを」
「マーラニアの将軍、ヴラデという者の仕業のようです」
「ヴラデ……。アルカードの兄である男だな、たしか」
「そうです。国王カラレ三世もヴラデを厚く信頼し、使者を串刺しにすることを止めなかった模様」
「……舐められたものだな」
ダライアスはぎりりと歯軋りした。
どうしたものか。などと考える必要はない。
マーラニアはこちらの慈悲を蹴ったのだ。降伏すれば国王および王侯貴族はアラシアの貴族として扱うと、大王クゼラクセラの署名入り書簡にはそう書かれているのである。
つまり、これはダライアスの意志でなくクゼラクセラ大王の意志であり、慈悲なのである。それをマーラニアは蹴ったのだ。
今すぐにでも軍勢を整えマーラニアに攻め込もうと決意する。大王も、西征の全権をダライアスに持たせているのだから、遠慮することはなかった。
だが悪いことは続くもので、臣下が血相を変えてやってきたかと思うと、
「旧ヴーゴスネア各地で革命が起こりました!」
と言うではないか。
「革命だと!」
椅子に座っていたのが、思わず、机をたたきながら立ち上がってしまう。
「なぜだ、なぜ革命が起こった!」
串刺しを聞いた以上に、思わず声を荒げる。旧ヴーゴスネア地域にいたときは、民衆のことを考え、善政を布いた。それなのに、なぜ。
「悲しいかな、我らが出てから、代官たちは暴政の限りを尽くしたようです。しかも……」
「しかも、なんだ?」
「アラシア人の暗殺事件も頻発し、支配力が弱まっていたそうです」
「暗殺だと!」
そんなことは初めて聞いた。なぜ自分が旧ヴーゴスネアにいるころに聞かなかったのか。
「どうやら叱責をおそれ、黙っていたようです」
「同胞が暗殺されているというのに、保身からそれを隠し。隠しながら、暴政の限りを尽くしていたのか」
なんという馬鹿げた話であろうか。これでは革命を起こしてくれと言わんがばかりではないか。
「それで、革命は」
「はッ。南方にて蜂起したフェレッポスおよびその子シァンドロスがソケドキアの独立を宣言。さらに、小龍公と小龍公女健在で、旧リジェカ地域の一部を制圧し、オンガルリの独立を宣言いたしました」
「なにぃ……」
思わず唸る。
いったいなにがどうなっているのか。
「お前、それはほんとうか? でたらめを言うと許さんぞ」
イムプルーツァが臣下に迫る。あまりにことが一度にたくさん起きているようで、さすがに疑いたくなったのだった。
「私もまさかとは思いますが、それを伝える斥候に嘘はなさそうでした。……あ、鷲どの、なにをなさる!」
イムプルーツァは臣下の胸ぐらをつかむ。
「獅子王子を惑わせようと、悪心を抱いているのではあるまいな」
「まさかそのような……」
「やめろ!」
だん!
という机を拳で打つ音が響き。鷲の称号を持つイムプルーツァは、やむなく手を放した。
机は木製とはいえ王が使うだけあり、厚めに、頑丈につくられていて。ダライアスの拳が、こころなしか赤くなっているようだった。しかし痛そうなそぶりすら見せず、イムプルーツァを見据える。
「ともあれ諸将をあつめよ!」
緊急事態である。
今後の対策を練るため、ダライアスに従う諸将が集められた。
「我らは包囲されたのだ」
ひとりが、そう悔しそうに言う。
マーラニアが聞く耳を持たぬは予想していたが、旧ヴーゴスネアを受け持つ貴族たちは、それこそ面従腹背ではなかった。そこから支配は弱まり、崩れ、革命と独立をを許してしまった。
西方のエウロパ諸国は敵意を持ちこそすれ、もちろん味方などしてくれぬ。北方は果てしない未開の凍土の大地で、逃げ場にはならない。
気がつけば、征服者であるにもかかわらず、四方に味方なく包囲されるという状況になってしまうとは。
「大王からの使者は、まだなのだな」
「はッ、まだです」
「……」
ダライアスは諸将を見渡す。
度重なる戦場をともに駆け巡ってきた臣下であり、仲間たちであった。
ところかわって、マーラニアの王都ユガレセト。
高くそびえる王城を中心とする王都の空を、分厚い雲が覆い。季節は秋だというのに、雷光一閃し、雷鳴が轟く。
昼下がりで明るい時間のはずだが、雷を伴う雲のせいで王城の中は仄暗く。あらん限りの燈火が焚かれ。仄暗い王城の中、火は空に揺れる。
凛々しい口髭の男が、王城の一室で、妻とともに窓越しに空を見上げていた。ともに少壮だが男は男ざかりの精悍さを見せ、妻は成熟された美しさを誇っていた。
「見よエリジェーベト、アルカードの怒りは神を動かしたもうた」
「はい、ヴラデさま。アルカードどのの叫びが、雷鳴となって轟いておりますね」
この夫妻こそ、マーラニア王国の国王カラレ三世からの信頼厚い将軍・ヴラデと、その妻エリジェーベトであった。
串刺し公の獅子狩り
エリジェーベトはあてがわれている王城の一室にて、鏡台を前に座り、召使いの少女は髪をすく。
今日は夫が出征するのである。美しい姿で見送りたいという女心から、いつになく化粧に余念がなかった。
「いたッ!」
思わず声が出る。召使いはあやまって髪を引っ張ってしまったのだ。
「申し訳ありません」
召使いの少女はすぐに謝るも、エリジェーベトは聞かず。勢いよく立ち上がり、鏡台にあった鋏を手に取るや。
勢いよく少女の腹に刺したではないか。
「ああ……!」
少女は悲鳴を上げ、苦悶にのたうつ。腹には鋏が刺さったまま。
「ああ、汚い。お前のおかげで汚れてしまったわ」
返り血を浴び、エリジェーベトはますます機嫌を悪くしていた。他の召使いは恐ろしさのために縮こまるばかり。
「この汚いものを片付けて!」
苦悶にうめく召使いの少女を指差し叫べば、武装している兵士が部屋に入ってきて、もだえ苦しむ召使いを抱えて出ていった。
おそらくこの少女はどこかに打ち捨てられて、野ざらしで死なねばならぬであろう。
「すぐに風呂を沸かしなさい。……このことをヴラデさまにお伝えして」
言われて召使いたちはあわただしく動き。事の次第を聞いたヴラデは、
「左様か。やむをえぬ。出征をすこしのばそう」
と、あっさりと言い。
エリジェーベトは急きょ沸かされた風呂に入り、あらためて身を清め、化粧を直した。
それは神の差配によるものであったか。
分厚い雲が空を覆い、雷光一閃し雷鳴鳴り響けども雨は降らず。
王都ユガレセト郊外に軍勢集結し、双頭の龍があしらわれた軍旗が林立する。この双頭の龍はヴラデの家に代々伝わる紋章である。
鎧姿のヴラデは、鋭いまなざしで軍旗を見据える。
「アラシアの蛮族に死を!」
そう叫べば、同じように騎士や将兵らは、
「アラシアの蛮族に死を!」
と合唱する。雷鳴が唱和するように鳴り響く。
国王カラレ三世やヴラデの妻エリジェーベトらは、馬車からその軍勢の雄姿を見届ける。
「なんという凛々しいお方……」
エリジェーベトはうっとりとした目で、夫ヴラデを見つめる。
ヴラデは四十歳、エリジェーベトは三十五歳。少々年は取ったが、それでもふたりとも若々しさをたもっていた。
お互いに溺愛と言ってもいいほど愛し合う二人は、貴族としては珍しく、双方ともに愛人を持っていなかった。
それでいながらなぜか子ができなくて。その分、弟のアルカードにかける期待は大きかった。
「邪悪な龍公にそそのかされて、さらにアラシアの蛮族によって、愛する弟は儚く散ってしまった……!」
アルカードの死を聞き、夫妻は世界の終りであるかのように嘆いた。
ヴラデは、ドラヴリフトをアラシアと同じくらい憎んでいた。
アラシアを憎むこと底なしのヴラデは、捕虜を虐殺し。それをドラヴリフトに責められてから、敵に情けをかける愚か者と嫌悪していたが。今は憎悪にまで登りつめて。アルカードの死は、アラシアのみならずドラヴリフトのせいだと思っていた。
実情は違うのだが、こまかな調査よりも感情を優先し、武力でもって憎悪を晴らそうとヴラデは血気盛んだった。
ともあれ、アラシア征伐である。獅子狩りである。
「いざ征かん!」
進軍の号令響けば、マーラニア軍は軍靴、馬蹄の音も雄々しく響かせ進軍し。国王とエリジェーベトとともに軍勢を見送る雷雲は、憎しみと怒りを代弁するかのように雷鳴を轟かせるのであった。
マーラニア軍動く!
その報せは四方を駆け巡った。
いわく、串刺し公の獅子狩りである、と。ヴラデ自らこのことを喧伝させたのであった。
串刺し公を自称するのは、丸太の杭で串刺しにしたアラシアの使者の首を刎ね、さらにその首を槍で串刺しにし。それを先頭に立てているからであった。
首はいたましいことになっており、道中見送るマーラニアの民衆の中には、これを見て嘔吐する者まであった。
「獅子を狩り、このようにしてくれる! 広めよ、このことをどんどんと遠慮なく広めよ!」
ヴラデは立ち寄った町や村などで何度もそう叫んだ。
おかげで串刺し公の自称と獅子狩りの話はあっという間に広がり。このことがダライアスの耳に届いたのは言うまでもない。
その進軍の進路は、なんと南へと向かっているという。マーラニアの南はアラシア支配地域で旧ヴーゴスネアのヴェアクラーデ地域である。
このヴェアクラーデ地域はイヴァンシムらの故郷であり、そこもまた革命の機運高まり、各地で民衆が蜂起し。そこにマーラニアから軍勢が来るということで、アラシア人たちは必死の思いで逃げざるを得なかった。
報告を聞き、ダライアスは「ついに来たか」とうなった。
クゼラクセラ大王からは何の遣いもない。
急きょ諸将を集めたダライアスの判断は早かった。
「オンガルリを去ろう」
この言葉にどよめきが起きた。
「なにゆえでございます」
諸将は一様にダライアスに問うた。大王からの次の指示を待たねばならないのに、勝手に撤退をすればどのような罰がもたらされることか。
ダライアスは鋭いまなざしで一同を見渡した。
「理由は簡単だ。オンガルリにいたところで、座して死を待つのみだ」
「それはそうですが……」
諸将らは渋い顔をする。
ダライアスの言い分は諸将もよくわかる。旧ヴーゴスネア地域での杜撰な統治は、度し難いものを感じてやまず。援軍など期待できなかった。そこにマーラニアが来るのである。
うかうかしていれば、ダライアスの言う通り座して死を待つのみである。しかし、アラシアに帰還したところで、大王はどう応じるであろうか。
「少々ずるいが、西の都の、トンディスタンブールまで引き返し。そこにとどまろうかと思っている」
「トンディスタンブールでございますか」
イムプルーツァは「ふむ」と少しばかり納得する表情を見せる。
広大な帝国アラシアには都が四つあり、そのひとつトンディスタンブールは西も西、カラデニズ内海沿いの旧ヴーゴスネア地域の国境地帯にある。いわば西方の守備のかなめともいえる都である。
大王自身はそこからはるか東(と言ってもアラシア帝国内だが)の都スサーに滞在している。
広大な帝国ゆえに、同国内といえども東西南北で気候風土も違えば住人の地域性も違うが、一番期待をかけるとするなら、スサーからトンディスタンブールの、同じ国の中と思えぬ遠い距離であった。
「もっとも、なにもかも賭けであるが……。異国の土になるよりましだろう」
もう、それに尽きる。いかなる死に様を迎えようとも、同じ土になるなら、やはり母国の土になりたいというのが人情であった。
「わかりました。我ら獅子王子に従います!」
有無を言わせぬ一喝をもって多少強引に、勇者のしるしである鷲の称号を持つイムプルーツァは話をまとめ。他は苦笑いするしかなく。
オンガルリを制した獅子王子率いるアラシア軍は帰り支度をはじめた。
マーラニアのヴラデ公、動く。との報せは、新たにオンガルリを独立させ、とりあえずの王位に就いたコヴァクスらの耳にも届き。
打倒獅子王子を掲げて動くのがヴラデであることに、多少なりともの不快感を感じていた。
コヴァクスたちは今、ロヒニにいる。他のふたつの町、最初の町と次の町だが。最初の町にはラハマディがいて、次の町にはソシエタスがいて、そこを持ち場として統治し。互いに連携を取り合い、守りを固めていた。
無論ラハマディもソシエタスも、ヴラデの動きは知っている。
「串刺し公の獅子狩りだあ? 趣味わりーな」
アラシアの使者を無残に殺し、その首を槍で串刺しにしているということも、広く知れ渡るところで。ラハマディはペロティアとともに眉をしかめた。
ともあれ、これに対してどうするべきか、ロヒニに人を遣って指示を仰ぐことにする。
ロヒニはかつてのリジェカ王国の港町で昔から海上貿易で栄えた街であった。
コヴァクスらはロヒニに来て、その栄えを目にし。なるほどサロメが行け行けと言っていたことに納得するのであった。
頬をなでる風に、少しばかりの湿り気と、潮の香りがする。それは内陸国で生まれ育ったコヴァクスらにとって、新鮮な驚きであった。
「ここの港からイルカが見えることもあるんですよ」
あるときダラガナは笑顔でそう言い、コヴァクスらはぽかんとして、
「イルカとは?」
と、ダラガナに問うたものだった。
「イルカとは、魚のことですが。これが面白いことに、人になついたりするんですよ」
「魚が、人になつく?」
ますますわからない。
話を聞いていたイヴァンシムは咳払いし、バリルは苦笑いする。
「お前さんのイルカ好きもそうとうなものだな」
「いやあ、その珍しさが面白くて」
ダラガナも苦笑いする。話を聞くロンフェイもイルカのことは初耳であったが、この人は珍しい動物が好きなのか、と思ったとき、ふと、
「私の故郷、昴や、さらに東の島国には、三本足の鴉がいると聞いたわ」
と言えば。ダラガナはもちろん、バリルに、石のように硬い表情のイヴァンシムですら、
「ほう、三本足の鴉とは面白いですな」
と、興味を示したのだった。
そのような余談はさておいて。――
昔より街の統治の象徴として機能してきた丸い屋根の庁舎にて一同は集まり、話し合いの場がもたれた。もしかしたら、ダライアスからオンガルリを取り戻せる絶好の機会になるかもしれないのだが、どうにもコヴァクスとニコレットの表情は暗かった。
「自らを串刺し公と名乗るとは、ヴラデ公なる人物は奇矯なお方のようですな」
渋い顔をして、イヴァンシムはその人柄を推察する。バリルもダラガナも同意見のようだ。
「はい。申し上げにくいのですが、なにかにつけて父上と衝突し、はっきり言って、仲は悪いです」
「なるほど。それは困りましたな……」
手を組むべき相手の性格に難ありというのを聞き、イヴァンシムの硬い顔はさらに硬さを増した。
「ここはやむをえませんな。動かず、ただ守りを固めるしかありますまい」
「動かずに? しかし、動かなかったことであとあと何か因縁をつけられはしませんか?」
「自らを串刺し公と名乗るほどの奇矯なお方なら、何をしても因縁をつけられるでしょう。それなら、下手な真似はしないほうがいいでしょう」
「たしかに……」
コヴァクスとニコレットは不安を覚えながらも、イヴァンシムの助言にしたがうことにした。
「ご安心召され、幾たびの危機を乗り越えてきた我ら、ヴラデ公の災厄からあなた方をお守りいたしますぞ」
諧謔をこめてバリルは笑顔で言い。それにつられるようにコヴァクスとニコレットも笑顔になって、頷いた。
「あの邪悪な龍の子らは生きて、勝手な真似をしているようだな」
コヴァクスらがリジェカ地域北部の一部をオンガルリとして独立させたことはヴラデも知っている。
よくよく調べさせてみれば、取るに足らぬ小勢力。しかし南方ソケドキアの独立とあいまって、旧ヴーゴスネア地域における革命の機運は昇りに昇っているという。
そこで、旧ヴーゴスネアのヴェアクラーデ地域を迂回する進路を取った。
王都より出立して十数日、ヴェアクラーデ地域に入ったヴラデの軍勢五万はゆく先々の町や村を攻め、アラシア人をとらえては皆殺しにした。
女も子供も関係なく、串刺しにして、野ざらしにし鳥がついばみ野生の獣が食らうにまかせたのであった
その壮絶な光景に、ヴェアクラーデの人々は、恐怖した。
最初こそマーラニアから解放軍が来たと喜んだが、アラシア人へのあまりにも残酷な処置に、怖気を禁じ得なかった。
そこでも、「串刺し公の獅子狩りである!」と喧伝した。
だがヴェアクラーデの人々は、
「串刺し公なんて……」
と、冷やかであった。中には、
「解放に感謝いたしますが、残酷すぎるのではありませんか」
と、直訴する者まであり、これにヴラデは怒髪天を突く勢いで怒りを示した。
「なんと、我はアラシアの蛮族からお前たちを解放してやろうというのだぞ。それを、無下にするのか!」
怒りに怒るヴラデは直訴した者を捕え。アラシア人にしたのと同じように串刺しに処した。
「なんという恐ろしいお方だろう」
と、ヴェアクラーデの人々は完全に恐怖し、表面的には歓迎を装いながら内心では、早く帰ってほしいと願っていた。
「ふふふ、まあ待っておれ」
人々の切ない願いを知ってか知らずか、必勝の秘策でもあるのか、ヴラデはほくそ笑むのであった。
さてダライアスである。
決断も早かったが行動も早く。決議の翌日にはすでにルカベストを出立していた。
出立の前に王妃らと会った。
「侵略を詫びよう」
というようなことまでは言わなかったが、「以後をたのむ」と王妃に言った。
ダライアスはオンガルリ国内において乱暴狼藉を一切働くことはなかった。そのため、国としてのかたちはたもたれていた。王妃と会ったのも、引き継ぎの意味合いが大きかった。
王妃は力なく、「はい」と言うしかなかった。
そばのマジャックマジルは何も言わないが、その目は鋭くダライアスをとらえていた。
(このようなよい人物を生かせず……)
オンガルリにも人物と呼べる者がいるにも関わらず、それらが生かされなかった現状があった。
(アラシアもたいして変わらぬ)
表に出さずとも胸中ため息を吐き、ダライアスは王城を後にし。愛馬アジ・ダハーカにまたがり、ルカベストをあとにした。
行軍中、行く手を遮るヴラデ率いるマーラニア軍は南下しヴェアクラーデに入ったとの報せが入った。思ったよりも早い進軍速度であった。
「先回りされたか」
舌打ちするもダライアスたちは止まらず、旧ヴーゴスネアを目指し南下する。
人々のアラシア軍を見送る眼は、冷たいものだった。だが意に介することなく、一路進み続けた。
そんな見送る人々にまじる、禍々しい眼光があった。
あの、六人であった。
六人は陰に隠れながら、アラシア軍のあとをつけてゆく。
ルカベストを経って数日し、クンリロガンハの地に着いた。
ここで一旦止まり、時間ではないが食事をとらせた。それも大飯である。
そばで傘をさすヤースミーンは、ダライアスにしては珍しくこの思い出の地で感傷にふけるのであろうか、と思ったが。
「飯を食いながらでいいから聞け。ここから進路を変えて東へゆくぞ!」
との伝令を発した。
東へ!
将兵らは驚く。このまま南下すれば旧ヴーゴスネア地域であり、ヴラデが手ぐすね引いて待っている。そうでなくても革命の機運高く、ことに南方ソケドキアは黙っていまい。
東へゆけばマーラニアである。無論敵地である。
「だがヴラデの軍勢五万はいまヴェアクラーデだ。ならば本国は手薄。そこを突き、マーラニアを突っ切ってアラシアに入るのだ!」
なるほど! と将兵らは手を打って納得した。
大飯を食い終えて、アラシア軍は一路東へと進路をとり、進みはじめた。
ダライアスの軍勢はクンリロガンハの地で食事を食べ終わり、さあ進軍だというとき、
「お待ちください」
という集団があった。それは、クンリロガンハの国境地帯の人々だった。
「何事か」
イムプルーツァとパルヴィーンは抜剣し人々につめよる。よもや獅子王子を害するのかと警戒する。
「獅子王子にひと言、お別れの挨拶をしたくて」
「挨拶だと?」
「はい。獅子王子にはたいへんお世話になりました。このご恩、一生忘れません、とお伝えください」
「礼にはおよばぬ」
将兵の間を掻き分け、傘をさすヤースミーンにともなわれダライアスが姿をあらわせば、人々は歓声をあげた。
「獅子王子、できるならばとどまっていただきたかった」
「予は、アラシアの王子であるぞ」
「それはわかっておりますが、我らを大事にしてくれたのはほかならぬ獅子王子でした」
「……」
ダライアスは黙って人々の言葉を受け取る。そばのヤースミーンの目は涙ぐんでいる。母国において大王から遠ざけられていたのが、征服地でこのように慕われようとは。
「予がいれば、災厄にお前たちを巻き込んでしまう」
「獅子王子とともにおれば、どのような困難も乗り越えられましょうに」
そんな人々の言葉を、イムプルーツァやパルヴィーンら将兵たちも、黙って聞いている。このようなことを、征服地で言われるとは思いもしなかったが、同時に獅子王子ダライアスに仕えることを誇りに思うのであった。
「ともあれ、予はゆかねばならぬ。さらばだ」
ダライアスは背を向け、軍勢の中に消えてゆき。やがて、「進軍!」の号令一下、アラシア軍は進みはじめる。
人々は「お達者で」と、軍勢が見えなくなるまで見送った。
クンリロガンハの地を発ち、ついにマーラニア入りをした軍勢は「まさか」という驚愕と恐れをもって出迎えられた。
「敵地を通って帰還をしようなど、なんと大胆な」
各地の代官や太守は抵抗をこころみることなく、黙って通り過ぎてゆくのを見るしかなかった。。
五万の軍勢はヴェアクラーデにあり、マーラニアは手薄になっている。そのため留守を預かる者たちは、勝ち目のない戦いをするわけにもいかなかった。
読みが当たったかと、ダライアスは安堵するも、敵地である。ゆっくりするわけにもいかず、ひたすらに東へと進んだ。
東へ進めばカラデニズ内海に着く。そこから内海沿いを南下すればアラシアにいたる。
地理的にはマーラニアを攻略した方が理にかなっているのだが、なぜか、その西方のオンガルリ攻略を命じられて。
勝ち負けよりも、ダライアスを遠ざけたいという大王の意思がいやでも見え透いていた。それでも、逆らわずに戦ったが。そのために……。
「進め! なんとしてもアラシアに還るのだ!」
手薄で抵抗がないとはいえ、油断せずダライアスとイムプルーツァは声を励まし将兵を叱咤した。無論このことはヴェアクラーデにいるヴラデにも知るところとなり、追いかけられるだろう。だからゆっくりできなかった。
言われるまでもないと、将兵らも必死に進んだ。進みながらも「これで還れる」という希望が胸に咲く。
大王はひたすらにダライアスに戦争をさせて、理不尽ともいえるものを感じて「おいたわしや」と内心同情を禁じ得なかった。大王の指示を待たず帰還したことで何らかの責めがあるかもしれないが、
「我らは断じて獅子王子をお守りしよう!」
と、固く誓い合うのであった。
「軍勢が見えます。それもかなりの大軍勢です!」
マーラニアのある街で、物見櫓の守備兵が叫んだ。
すわやアラシア軍か! と緊張が走ったが。その軍勢が近づけば、
「や、やや……!」
守備兵に街を預かる役人たちは、別の事でたいそう驚き。その軍勢を見送るのであった。
進む。進む。
アラシア軍は敵地マーラニアを進む。
マーラニアに入ってから、ダノウという大河に沿って東進してゆく。
このダノウの大河ははるか西方、エウロパ地域の黒い森を水源として大地の割れ目を縫うようにして様々な国や地域、オンガルリとマーラニアをも横切ってカラデニズ内海にそそがれる。
河口付近には港町があり、そこで、船を借り受けられれば、内海を渡ってアラシアに帰還することもできる。
「アラシアの地を踏みしめよう!」
ともあれ、それを合言葉に将兵らは進み続けた。休憩もろくにとらず、ダノウの大河に沿って。ただ、進み続け。それを横目に、魚が一尾ぴょんと跳ねて、水しぶきを立てて大河にかえった。
それまで晴れの日が続いていたのに、東へゆくにつれ、雲が分厚くなってゆく。しかも雷光が閃き雷鳴が轟く。
「降りそうだな」
将兵らは恨めしげに空を見上げた。