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龍の騎士と獅子の王子 Ⅰ (54867文字)

クンリロガンハの戦い


 世界は暗黒に染められていた。

 神話の世紀より戦争は繰り返されて、天に太陽が昇ろうとも、降り注がれる血の雨をとどめるにはいたらず。

 地に撒かれた血は乾いて、大地をどす黒く染めた。


 時にオンガルリ歴七十五年の秋のことである。

 オンガルリの西にマーラニアなる同盟国があり。その西はカラデニズ内海が水平線を見せていた。

 それらの南には、かつてヴ―ゴスネアと呼ばれた国があったが、内乱をきっかけに崩壊し、さらに西方の大国アラシアの侵攻を受け、その支配下に置かれていた。

 アラシアはさらに、オンガルリとマーラニアに軍靴を進めた。

 これを迎え撃つのは、オンガルリ王国軍と、同盟国マーラニア王国軍。

 クンリロガンハ平原の地を埋めるがごとき鉄甲の群れ、アラシアの軍勢三万と対峙するは、オンガルリ軍とマーラニア軍の、合わせて一万。兵数の差は二万。勝ち目は薄いように思われた。

 しかし、オンガルリ・マーラニア両軍には、悲観はなかった。

 両軍をまとめる、将ドラヴリフトは裂帛の気迫をこめて馬上より叫ぶ。

「いつものように、アラシアの小鳥どもを蹴散らせてくれる!」

「おおーッ!」

 ドラヴリフトの怒号に呼応し、オンガルリ・マーラニア両軍の将兵も雄叫びをあげれば。

「おおーッ!」

 と、アラシア軍からも雄叫びがあがった。

 アラシアの軍勢には、大鷲のあしらわれた軍旗が多数なびいていた。大鷲はアラシアを象徴する鳥として、軍旗のみならずさまざまなものにあしらわれていた。

 それらを小鳥と呼ばわるドラヴリフト。

 アラシアは幾度となくオンガルリ・マーラニア両国へと遠征したが。そのたびに返り討ちの憂き目にあっていた。

 今度もまた、返り討ちにしてくれると、自信に満ち溢れていた。

「おおーッ!」

 という、天を轟かせるような雄叫びが、またあがった。

 また負けるかもしれない。などという恐れは、ないようであった。そればかりか、勝利を確信しているかのような気迫まであった。

「ご油断めさるな。聞けばこたびの軍勢を率いるは、獅子王子アスラーンと呼ばれるダライアスでござる」

 ドラヴリフトと駒を並べるマーラニアの武将、アルカードは相手側の気迫を感じて、警戒心をいだいた。

 獅子というならば、ドラヴリフトこそ獅子と呼ぶにふさわしい黒髭をたくわえ。大柄な身体は甲冑を身にまとってさらに大きく。一軍を率いるにふさわしい風貌であった。

 それに対してアルカードは背こそ高いものの細見で色白く。ガラス細工を思わせる華奢さであった。しかし彼もまた一軍を率いる将である。その目は鋭く、見る者の心を圧すものがあった。

「ふん。子猫か」

 ドラヴリフトは吐き捨てた。いかなる相手であれ、今までと同じように返り討ちにするまでである。

「父上、進軍の指示を!」

 溌剌とした声が、両者の耳を突く。その声の主は白馬にまたがる少女であった。華奢な身ながら男まさりに甲冑を身にまとい。兜から漏れるようにして金髪が額に覗き。天上より舞い降りた戦乙女であると言わんがばかりであった。

 それだけではなかった。彼女の両の瞳の色は、違う色だった。右目は碧く、左目は黒い。それはヘテロクロミア(虹彩異色症)と呼ばれる目の症状であった。

「ニコレット、出過ぎた真似をするな!」

 そばの青年騎士が叫んだ。ニコレットと呼ばれたヘテロクロミアの少女は、ふっ、と不敵な笑みで青年騎士を見返した。

「あらお兄さま、怖いのであればご無理をなさらずに」

「なに。誰が怖がっていると!?」

 妹のニコレットに言われて、兄のコヴァクスはきっと睨む。それに挟み込むように咳払いがされる。

「小龍公、小龍公女、戦いの前ですぞ」

 三十過ぎの少壮の騎士、ソシエタスがふたりをいさめる。

「いつまでもオレたちを子供扱いするな!」

「それでござる。それだからこそ、私は言うのです」

 くす、という笑い声をニコレットはもらす。

(やれやれ。龍公と呼ばれるドラヴリフト様のお子とも思えぬほどに、幼さがまだ残っておられる)

 ドラヴリフトはオンガルリ王国の騎士であり、将軍であり。国王レドカーン二世の信頼も厚く。実際に戦功を挙げて信頼にこたえ。

「その強さまさに龍の如し」

 と言われるほどであった。そこから、龍公と呼ばれ、慕われるようになり。その子である長子コヴァクスは小龍公、妹のニコレットは小龍公女と呼ばれた。

 しかし……。コヴァクスは二十でニコレットは十八とまだ若く。三十五のソシエタスから見ればまだまだ幼く見えるのは仕方のないことだった。

 そんなオンガルリ・マーラニア軍を見る碧い瞳があった。大鷲のあしらわれた軍旗の下、最前列にて黒く大きい馬にまたがる若い将。色白で透き通るような碧眼で、じっと敵軍を見据えている。

 その隣に傘をかかげる若い侍女がいる。侍女、といっても華奢ながら冑を身にまとっているが兜はかぶっていない。背中まで伸びる髪はアラシアの月のように明るい金色まじりだったが、瞳は夜空を秘めるような黒さだった。

 アラシアには近侍の者が貴人に傘をかかげる習慣があった。ダライアスには侍女のヤースミーンが傘をかかげるのが通例であった。それとは別の近侍の者がそばにひかえて兜を持っている。


 ダライアスの髪は夜空を戴いて生まれたと思わせるような美しい黒髪であった。

「ヤースミーン」

 碧眼の将、獅子王子と愛称されるダライアスは侍女にささやく。

「オレは、勝てるか?」

「まあ」

 ヤースミーンはダライアスの真剣な横顔を見つめて、穏やかに微笑む。

「獅子王子ならば、神々の加護なくとも……」

「獅子王子!」

 侍女のささやきに割って入る闊達な声。白地に黒のまだらな模様のある馬にまたがり、ずかずかとダライアスに近づく。

 冑をまとっているが、彼も兜はまだかぶっておらず。黒髪のなかに銀糸を織り込んでいるように銀髪がほどよく混ざりこんで、黒と銀の虹が織りなされているようだった。

「突撃の合図はまだですか!」

アルタイル・イムプルーツァ!」

 後ろから同じく闊達な少女の声が追いかけてくる。馬にまたがりながら右手に傘をもち、左手に兜をもっている。

「獅子王子に失礼ではないですか」

「いやあ、すまんすまんパルヴィーン。わかってはいるが。どうにも落ち着かなくてな」

 さっと差し出された兜を受け取ってかぶり、屈託のない笑顔でダライアスに笑いかける。

 パルヴィーンと呼ばれた少女も、ヤースミーンと同じく、イムプルーツァお気に入りの侍女でいつもそばにいさせていたが。おしとやかなヤースミーンとは対照的な闊達な性質で、彼女はすでに兜をかぶっているが黒髪がのぞき、黒い瞳でイムプルーツァを見据えていた。

アルタイルの称号を受けるほどの騎士が、まるで子供だな」

「はは。獅子王子アスラーンに言われては」

 イムプルーツァは無邪気に笑う。それを見てダライアスはしずかに微笑む。

 ドラヴリフトの目が光る。

「かかれッ!」

 太い喉から怒号が発せられるや、オンガルリ・マーラニア軍は地を蹴り駆け出し。龍の牙のあしらわれた龍牙旗もたなびき駆け出す。その龍牙旗はオンガルリ、というよりも龍公、龍の騎士ドラヴリフトを象徴する軍旗であった。それと並び、青地に金の鷲があしらわれたマーラニアの軍旗がなびく。

 それと同時に、ダライアス率いるアラシア軍も動き出す。だが、全軍ではなかった。

 獅子王子ダライアス率いるイムプルーツァ以下、一万の将兵が続き。残り二万は動かなかった。

 控える二万の軍勢とともに、ヤースミーンとパルヴィーンはダライアスとイムプルーツァの背中を見送った。

「何を考えているのか知らんが、後悔させてやるぞ!」

 相手の動きを見てコヴァクスが叫ぶと同時に、激突した。

 人がいなければ草や小鳥が風に遊ぶであろう平穏なクンリロガンハの平原は怒号につつまれ、刃ひらめき、血の風が吹いた。

「おおッ」

 ドラヴリフトの怒号がはじけるとともに剣もうなりをあげ、迫りくるアラシアの将兵を剣風をもってことごとく薙ぎ倒してゆき。その子コヴァクス、ニコレットと、マーラニア軍を率いるアルカードも負けじと奮戦する。

「どけどけッ、雑魚に用はない!」

 そう叫びながら、獅子王子ダライアスは槍を振るいオンガルリ・マーラニア軍の将兵を薙ぎ倒し突き進む。

「獅子王子、アラシアにアルタイルあるのを忘れたもうな!」

 ダライアスと討ち取った将兵の数を競うように、イムプルーツァも突き進む。

 獅子王子と称させるのは王子ゆえのえこひいきではなく、まさに獅子の如く奮迅するダライアスに触発されて、アラシア軍の将兵も奮い立った。

「これは」

 アルカードはすぐに異変に気付いた。

 いつもと違う。それまでのアラシア軍は大国・大軍であることにおごって油断を見せていた。その前に、ドラヴリフトの奮戦があったからこそ、その油断を突いて勝てたのだが。

「いつもと違う」

 これにはソシエタスも気付いた。それ以上に気付いたのは、ほかならぬドラヴリフトであった。

「これはいかん」

 奮戦し敵兵を薙ぎ倒すドラヴリフトであったが、ひらめく危機感あって「ぎり」と歯軋りする。

 三万のうち一万しか動かしていないことが気になっていたが。数に頼らずこちらと同数で戦うことを選んだなど、歴戦の勇士であるドラヴリフトにとっても初めてのことだった。

 それに対して違和感を感じてやまない。

「むやみに血気にはやるな。態勢を整え全軍一丸となって攻守のつりあいをとれ!」

「なにを馬鹿な」

 父の号令が聞こえながらコヴァクスは突っ走り。妹のニコレットも負けじと突っ走る。そんなふたりの視線の向こうには、ひときわきらびやかな甲冑の騎士。

「この騎士が獅子王子アスラーン・ダライアス……」

 そのダライアスと目が合った。

 オンガルリにて、色違いの瞳をもつ少女騎士あり。という話は聞いていた。白馬にまたがり戦場を駆け抜ける姿は、戦乙女といってもいい優雅ささえ感じさせた。

「この騎士、瞳が色違い……。小龍公女ニコレットか。ゆくぞアジ・ダハーカ!」

 意を決しダライアスは黒き愛馬・アジ・ダハーカを駆けさせた。


 アジ・ダハーカとは、アラシアに古代より伝わる三頭三口六目の龍の姿をした魔神の名である。

 愛馬にその名をつけていて、まさかそれを信仰しているわけではないが、いかなる魔神であろうと己の力で従わせるという、若者らしい強い気持ちのあらわれであった。 

「小龍公女ニコレットなるか。我こそ獅子王子ダライアス!」

 その叫びをあらためて聞くまでもない。ニコレットとてダライアスに向かっていたのだ。が、その間に飛び込もうとするコヴァクス。

「まて獅子王子、お前の相手はオレだ!」

「いや、オレだ!」

 間に飛び込もうとするコヴァクスに飛びつくのは、アルタイル・イムプルーツァであった。

「うむッ!」

 イムプルーツァの振るう大剣鋭い斬撃がせまり、コヴァクスはとっさに己の剣で受け止めたが。強い衝撃とともにずしりと来る重みに、一瞬体勢を崩し落馬しそうになって、かろうじて踏みとどまった。

「どうしたッ、その程度で獅子王子と張り合おうというのか!」

「ぐッ……」

 イムプルーツァの得物は通常の剣よりも半身長く、その分重い。コヴァクス歯を食いしばってふんばるのが精一杯だった。

 その間にダライアスとニコレットはそれぞれの得物をひらめかせて渡り合う。

 ダライアスは槍を自在に操り隙を見て鋭い刺突を繰り出すが、ニコレットも負けず、女性用の細身のものではあるが剣をひらめかせ槍の攻めをしのいでいた。

「女とて容赦無用!」

「もとよりしておらぬ!」

 その言葉通りダライアスは巧みな槍捌さばきを見せ、ニコレットを翻弄する。上から前から、横から、斜め下から、それはいつどこでどのように来るのか見当がつかぬほどに素早く変幻自在であった。

 容赦無用、とは言ったもののそれは強がりで実際は苦戦を強いられニコレットは槍の攻めをかわしたりあるいは剣で防いだりの防戦一方である。

 一方でコヴァクスとイムプルーツァ。それまでコヴァクスの剣に圧力をかけるように押し付け力でねじ伏せていたのがとっさに大剣を振るい上げる。その隙にコヴァクスは体勢を立て直すが。その直後に大剣がうなって迫る。

「反撃の機会を与えてやったのに生かせないのか」

「……!」

 一旦剣を離したのはコヴァクスに反撃の機会を与えるためであった。それを生かせず、コヴァクスは歯ぎしりしながらイムプルーツァの猛攻に耐えるしかなかった。

 その様は父ドラヴリフトからも見え、苦虫を噛みつぶすように苦い顔をする。部下に命じ助けに行かせるか、と思ったが。騎士が戦場において刃を交えているのである。ことに一騎打ちともなれば互いの命のみならず名誉を賭けてのことである。

 それを親子の情で、負けそうだからと助けるのは騎士の道に外れる。しかしコヴァクスとニコレットが討たれたとき、軍勢、将兵に与える心理的影響ははかりしれない。

「馬鹿め」

 号令を無視し無暗に相手に突っ込んだことで己を追い込むことになってしまった。そればかりか、軍勢のまとまりがそのために乱れたのは否めなかった。

 我が子とはいえ号令無視で軍勢に悪影響を与えてしまったことは、なんらかの制裁をくわえねばならぬであろうが、制裁をくわえる以前に、討たれてしまいそうだった。

「おお」

 手勢を率いてコヴァクスとニコレットに迫る一団がある。マーラニア軍を率いる将、アルカードであった。

(ドラヴリフト殿、汚名は私が一切引き受けよう)

「小龍公、小龍公女をお助けせよ!」

 アルカードの号令でマーラニアの将兵はそれぞれの一騎打ちに迫って割って入り。それに対して、

「卑怯!」

 とのアラシア軍将兵からの怒声が飛ぶ。名誉を賭けた、しかも獅子王子の一騎打ちである。アラシア軍は邪魔をしていないというのに、あろうことかマーラニア軍は邪魔をする。

「ちッ!」

 忌々しく舌打ちをし、ダライアスは槍を振り上げながらアジ・ダハーカを操りニコレットから距離を取る。同じようにイムプルーツァも大剣を振り上げながらコヴァクスから距離を取る。

「待て!」

 コヴァクスがそう叫ぶのを無視し、迫るアルカードとマーラニア軍を一瞥し、

「退け!」

 と、ダライアスは槍をかかげて号令をかけ、己も退いてゆく。

 あわや討たれるか、というところまで追い込まれていたのも忘れてニコレットとコヴァクスはダライアスらを追おうとするが、そのふたりの前に立ちはだかって止めるアルカード。

「なりませぬ、小龍公、小龍公女!」

「おどきくだされアルカード殿!」

「いいえ、どきませぬ!」

 叫びながらアルカードはコヴァクスの馬の手綱を握り、ニコレットにはソシエタスが手綱を握る。

 遠くからそれを見るドラヴリフトはとりあえずの安堵のため息を漏らす。

「こちらも退け!」

 相手に合わせて自軍を退却させる。形の上では痛み分けのように見えるであろうが、ドラヴリフトの心中は敗北を喫したと穏やかではない。


 両軍互いに退いて距離を取り。ダライアスらは後方の二万と合流した。それから総攻撃をかけるかと思われたが、さらに退いてゆく。

 それを見てドラヴリフトは軍勢の動きを止めて、態勢を整え守りを固める。

 一時は隊列が乱れてそのままダライアスに打ち負かされてしまうかと思われたが、なにを思ったのかすんでのところで勝利を自ら手放し退いていった。

 同数をもっても互角だったのである。もし後続の二万と一緒に最初から総攻撃を受けていたら、と思うと、ドラヴリフトとて穏やかではいられなかった。

 これもすべて、ダライアスが軍勢を率いていたからか。戦術の面は真正面からの突撃と稚拙ではあった。なのに、今回渡り合ったアラシア軍は、いつもと違うものを感じさせてやまなかった。

「アラシアに若獅子あり。これは我が国にとっておおいなる脅威である」

 まだ戦いは始まったばかりである。用心せねばなるまい。またそれとは別に、頭痛の種もある。

 コヴァクスとニコレットである。

 アルカードとソシエタスにともなわれて下馬し兜を脱いで、馬上から睨み据える父の視線に縮むように跪いている。

「お前たち……」

 その一言がずしりと重く、ニコレットは心臓を鷲掴みにされそうな思いだった。しかしコヴァクスは彼なりの言い分があるとばかりに、顔を上げて父を睨み返していた。

「号令無視の罪は重い。そのこと、わかっているのか」

 ニコレットは無言であるが、コヴァクスはひるまない。

(オレは自分なりに全力で戦った。たとえ討たれても、戦場で死ぬなら騎士の本望ではないか!)

 というようなことばかりが頭をよぎる。父が求める反省のはの字もなく、圧力を感じればこそ、反発やむことはなかった。

 一方で、ニコレットの色違いの瞳と長い金髪は揺れていた。

 互いを馬上から見下ろし、口をつむぎしばし無言。周囲には重い沈黙が垂れこめていた。

 号令無視の罪は重い。ともすれば死罪もある。あろうことか龍公ドラヴリフトの子で小龍公、小龍公女と愛称されるコヴァクスとニコレットは率先して号令を無視し、軍勢の態勢が乱れるのに一役買ってしまったのだ。

 同じことをするにしても、下っ端がするのと、それなりに立場がある者がするのとでは、意味合いも責任も大きく異なる。

 どのような制裁が言い渡されるのか、アルカードにソシエタスらは、固唾をのんで見守っていた。

 というときであった。遠くから、

「おおーい」

 という声がする。見れば馬を駆って誰かが来ている。しかも二人。ひとりは手にはなにか書簡らしきものを持ってかかげている。もうひとりは旗をもち。その旗には獅子の身体に鷲の頭を持つ獣、グリフォンとその横に翼をもつ天使がならんで王冠をかかげている絵があしらわれていた。

 その王冠は世が群雄割拠する中オンガルリ王国を建国した初代の王レドカーン一世の王冠である。

 その絵があしらわれた旗を見て、

「勅使か?」

 誰かがぽそっとつぶやいた。その旗はオンガルリ王家を象徴し、誰もが使ってよいものではない。ということは、これらは王からの遣いであった。

「お前たちのことは、追って沙汰する」

 子らへ制裁をくわえねばならぬが、勅使が来たということでそれは後回しにして。ドラヴリフトはアルカードと駒を並べて勅使の方へと向かい。

 オンガルリ王家の旗を目にすると、下馬し跪く。そうすれば、他の将兵らも同じように下馬して跪く。

 その中で、ニコレットはしょんぼりし、コヴァクスは真っ赤な顔をうずめるように下げて跪いていた。

 そんな人間たちを見下ろすように、龍牙旗と青地に金の鷲のマーラニアの軍旗がならんで、一本のオンガルリ王家の旗と対峙する。

「ご苦労でござる。レドカーン二世王よりの勅使でござる」

 慇懃無礼に勅使は言う。さっきまで戦争、命のやり取りをしていたことなど知らないと言わんがばかりに。しかし、ドラヴリフトもアルカードも、気にする様子もなく黙ったまま。

「王は大変お怒りである。そして、お嘆きである」

 唐突にそう言う。なんのことだ、とさすがのドラヴリフトも驚かざるをえず。それを言おうとするが、勅使は無視して書簡を広げて、粛々と読み上げる。

「オンガルリの龍公ドラヴリフトは王家よりの信頼を逆手にとり、一部のならず者と手を組み反逆を企て、国家転覆をはからんとする。よってドラヴリフトらを逆賊と認め、レドカーン二世自ら王家直属の黒軍フェケテシェレグを率いて征伐するものなり」

 どよめきが起こった。突然逆賊よばわりされたのである。驚くなという方が無理な話である。

「なぜでござる」

 絞り出すような声でドラヴリフトは言った。横のアルカードも茫然としながら勅使を見据えている。

「一部のならず者とは、誰でござる!?」

「ふん。ご自身の胸に聞いてみるがよかろう」

 にべもない勅使の目は冷たかった。

 これが命を懸けて戦った者への態度なのかと、多くの者がこの不条理に怒りを禁じえなかった。

「我らマーラニアの者たちが一部のならず者とおおせか!」

 こらえきれずにアルカードは声を荒げた。

(裏でなにかある)

 人心安定せぬ乱世である。敵は外国のみにあるのではない。同国人に陥れられて失脚した者など、星の数ほどいる。自分たちがその中に放り込まれそうないやな気配を感じてやまなかった。


「その書簡をお見せください!」

 突如叫ぶのはコヴァクスであった。その横にニコレット。うしろでソシエタスがふたりをいさめるが、聞いてない。

 父より制裁を受ける身ではあったが、かといってこの理不尽なことに我慢できなかった。

「よさぬか!」

 ドラヴリフトは叫んでふたりを諌めようとするが、これも聞かれなかった。

「我らの王家への忠誠は神も照覧したもうこと。その我らがなぜ逆賊なのですか!」

 コヴァクスは目をいからし勅使を凝視する。ニコレットも同じように色違いの瞳で凝視する。

 一瞬ひるんだところを見せた勅使であるが、しぶしぶと、書簡をもろ手に持って広げて見せた。

 よくよく見れば、王レドカーン二世の赤い蝋印が押されている。しかしそれでもおさまらず、ふたりはずかずかと前へ出て、ニコレットは手を差し出し直に見せろと言う。

「無礼であるぞ!」

 さすがに勅使も堪忍袋の緒が切れて叫んだが、それでひるむニコレットではなかった。

 その肩をつかまれ、振り返ってみれば。平手打ちがしたたかにニコレットの頬を打った。ほかならぬ父のドラヴリフトである。

 打たれた勢いでニコレットはよろけて、コヴァクスがとっさにささえて、父を見据える。

(ニコレットは、かつて王をお慕いし愛していたが、その愛が実らず後宮入りできず、愛憎の炎を燃やしているという噂を聞いたが……)

 勅使は冷たい目で様子を見ていたが。

「それでは」

 と素早く反転して、風のように去ってゆく。

 そのあとは、騒然となる。

「なぜ我らが逆賊なのか」

「いったい何があったというのだ」

「王は我らを成敗すると? ということは、討つということか」

 などなど、天地がひっくり返ったように驚き、それは増すばかり。それを背中で感じながら、ドラヴリフトは自分たちがはめられたのだということをいやというほど実感していた。

「なんと嘆かわしい……」

 拳を握りしめ歯軋りする。

 しかし、いかに嘆こうともらちが明かない。

「ドラヴリフト殿」

 アルカードは苦い顔をしつつも平静をたもち、ドラヴリフトに目をむける。それに頷き相槌を打ち、

「しずまれ!」

 と、叫んだ。

「これは何かの誤解であろう。ならば王と話をし、誤解を解く」

 だがざわめきはしずまらない。命懸けで戦ってもあの冷たい態度。将兵らは日頃王宮の王侯貴族が自分たちをどう見ていたのかを肌で感じていた。その、肌で感じていたことが今はとげで刺されるような冷たい痛みにかわり。落ち着いていられなかった。

「結局、我らは捨て駒なのだ」

 吐き捨てるような叫びが起こった。ドラヴリフトにアルカード、ソシエタスはそれらを諌め落ち着けようとするがならず。

 コヴァクスとニコレットはそれを黙って見ることしかできなかった。


 ところはかわる。

 そこはオンガルリの王都ルカベスト。

 王城を中心にして高い建物がそびえ立ち、一国の都にふさわしいにぎわいを見せていたが。

 にわかに多くの兵士が繰り出し、人々は騒然としていた。

「オンガルリにて反乱起こる! 治安維持のため人民の外出を禁ずる!」

 と、厳戒令も布かれた。

 家屋の中で幼子は母親にすがりつき、母親と父親は不安そうに中に閉じこもるしかなかった。

 その中で人々の不安を一層掻き立てたのが、黒い軍装で統一された黒軍フェケテシェレグの存在であった。

 王家直属の精鋭部隊である黒軍が王都ルカベスト郊外に結集する。その数は二千。

 黒軍の将軍・カンニバルカが数名の部下とともに王城におもむき、国王レドカーン二世と謁見する。

 筋骨隆々としたたくましい身体つきに岩盤すら噛み砕きそうな太い顎を持つカンニバルカは、まさに容貌魁偉と言うにふさわしい。それだけにルカベストの都の風景から思いっきり浮いて、まるで野人が紛れ込んだようだ。

 王城にのぼり、貴族居並ぶ王の間にいればいたで、なんともいえぬ畏怖の念が飛ばされていることを感じていた。

「よく来た」

 王・レドカーン二世は王座から跪くカンニバルカを満足そうに眺めていた。そのそばには、一番の信頼を置く臣下のイカンシ。彼も同じように満足そうな顔をしていた。

 王は鎧に身を包み、意気も盛んであった。

「これから龍退治だ」

 豪快に笑った。それから、

「その前に、魔女狩りだ」

 と言って立ち上がり、大股に歩き出してカンニバルカの横を通り過ぎ。カンニバルカも立ち上がってついてゆく。その後ろにはイカンシがついていった。


魔女狩り

 

 王城のある一室は扉の前に兵士が立って、厳重に警備されていた。

 その部屋には貴人がいるからでもあり、また、魔女がいるからでもあり。

 エルゼヴァスの碧い瞳は窓から都の景色を静かに見つめて。ふたりの召使いの少女は、もの憂げにその背中を見つめていた。

 よわいは四十になるが、金髪は輝き碧い瞳も透り、コヴァクスとニコレットのふたりの子を産み育てたなどにわかには信じがたい美貌をたもっていた。

 ニコレットの金髪と右目は母親から受け継いだものだった。左目は父からであった。

 神話の時代より戦争の絶えぬ世界であるが、それと同時に人の行き来も盛んで、様々な民族が刃を交えるとともに血を混ぜあった。ニコレットの色違いの瞳はそれを象徴していた。

 夫ドラヴリフトが出陣した翌日、急きょ王城へ呼び出されて行ってみれば、突然この部屋に監禁されて、今に至る。

「いったい何が」

 エルゼヴァスはぽそっとつぶやいた。

 嫌な予感がする。自分たちはなにか人の力の及ばぬ大きななにかに取り込まれてしまったのではないか。

 そう思ったとき、扉が激しくノックされて。思わず大きく振り返って、ノックを真正面から受け止めた。

 背筋を伸ばし、凛として。召使いの少女が扉を開けるのを見ていれば、乱暴に押し開けられて、召使の少女は面食らって少し後ろへよろけた。

 扉を押し開けたのは、王のレドカーン二世であった。

(これは)

 エルゼヴァスはうやうやしく礼をして王を迎えるが、心中穏やかではない。なにより、王の目に殺意を感じた。今まで王に忠誠を誓い、王のために尽くし。王もそれを喜んで、よくしてくれていたが。

 いったい何があったのだろうか。

「エルゼヴァス」

 背後にイカンシ、カンニバルカら護衛をしたがえ、レドカーン二世はふんぞりかえるほどに威圧的だった。

 そのイカンシを見た途端に、背筋に走るものがあった。

 エルゼヴァスを舐めるように眺める卑しい顔つき。イカンシとは前々から相性が悪かったが、どうもこの一件はこの男によるところが大きいと直感した。

「相変わらず美しい」

「お褒めにあずかり、光栄でございます」

 突然何を言い出すのだといぶかしながら、深く頭を下げたら、

「そこで、その美しさはどのようにしてたもっておる?」

 という言葉がつづいた。

「どのように?」

「成人した子がふたりもおるなどにわかに信じがたいほどのその美貌。なにか秘訣があるのであろう」

「秘訣など。他の皆さまと同じように、普段の化粧に気を配っているだけでございます」

「ふん。少女の血で化粧するのが?」

「……」

 突然の言葉にエルゼヴァスはさすがに絶句した。王は何を考えているのか。

「連れて来い!」

 有無を言わさず、王に言われて衛兵にともなわれてやってきたのは、かつてエルゼヴァスに仕えていた召使いの少女だった。

「ソレア……」

 その少女は、ぶるぶると子猫のように震えていた。

「ソレアよ、エルゼヴァスは己の美貌のために、若い娘の血を飲み、湯ぶねに満たして全身に浴びていたそうだな」

「はい……」

「ソレア、あなたなにを言うの!」

 召使いの少女はたまらず叫んだ。しかしレドカーン二世にきっと睨まれて、押し黙らされてしまった。

「お、奥さまは、若い娘をさらってはなぶり殺して、生き血を樽に貯めて。ワインのように飲んだり、血のお風呂に入られたり。それはそれは、まさに地獄の魔女の所業」

「お前も殺されそうになったのだな」

「はい。ある日髪を櫛でおときしているとき、すこしそそうをして引っ張ってしまって。そしたら奥さまは大変お怒りになり。『お前の血をもってあがなえ』と」

「おお、なんというおそろしい」

 間髪入れずイカンシが同情のつぶやきを発する。レドカーン二世の目は冷たく光る。

 聞いているエルゼヴァスは、自分が陥れらてしまったのをいやというほどに感じていた。

 少女の血で美貌をたもつなど、そんなのは聞いている自分も恐ろしいというのに。それをしていたと言われるのである。

「ソレア、あなたは、好きな人ができて、お嫁にいくということで暇を乞うたのではなかったのですか?」

「うそ、そんなのうそ! 奥さまは魔女です! 黒魔術に染まった魔女です! この目で何度も血を飲んだり、血のお風呂に入るのを見ました!」

 ソレアは真っ赤な口を開いて叫んだ。その叫ぶさまこそ狂気じみて、魔女にとりつかれているようだ。

「おお、よしよし。恐ろしい記憶をよみがえらせてしまったようだな。すまぬすまぬ。隙を見て逃げ出さねば、この娘もどうなっていたことか」

 レドカーン二世は優しくソレアを抱きしめた。イカンシは衛兵に命じて、

「この女をとらえよ!」

 と命じた。

 ああ、命運尽きたか。 

 エルゼヴァスは覚悟を決めた。

「お待ちください」

「なにか?」

「喉が渇きました。すこしの間、ワインを一杯よろしいでしょうか」

「……どうぞ」

 イカンシは強がっていると鼻で笑いながら、一時衛兵を止めた。


 召使いは棚のワインを取ろうとするが、エルゼヴァスは違うと言う。

「私が飲みたいのは、あのワインよ」

 と指させば、召使いの少女は首を横に振る。

「奥さま、あれは」

「いいから、あれを取ってちょうだい」

「で、でも……」

 躊躇する少女に強烈な平手が飛んだ。

「この、役立たず! お前たちに暇をあげるわ。どこへなりともおゆきなさい!」

 平手を受け頬を真っ赤にした方ももちろん、もうひとりの召使いの少女は呆然とする。もう、どうしてよいのかわからなかった。

 それを無視して、自分でワインをとるとグラスにそそいで。グラスの端を鼻に触れさせた。

 そのワインはとても濃い赤色だった。

(まさかほんとうに血を飲んでいたのではあるまいな)

 イカンシは思わず眉をひそめた。

 召使いの少女らは、互いに目を合わせて、うんと頷きあった。

「奥さま、私たちもよろしいでしょうか?」

 そう言われて、エルゼヴァスは少女らを厳しい目つきながらも静かに見据えた。

(さっき頬を打った意味がわかっていないの?)

 やや戸惑いを覚えた。それから、心の中で頬を打ったことを詫びた。

「いいわ」

 そう言われて、少女らはグラスを構えて、互いにワインをそそぎあった。

 エルゼヴァスはワインを一気に飲み干し。少女らも同じようにワインを飲みほした。

「さあ、もうよいであろう」

 処刑の前のせめてものいこいのひと時、と待ってやっていたレドカーン二世だが。もういいだろうと、衛兵に命じて連れ出させようとし。

 衛兵はエルゼヴァスの腕をつかんだが、その頬に強烈な平手が飛んだ。

「気安く触らないで!」

「この、魔女め!」

 衛兵はもはやエルゼヴァスを龍公ドラヴリフトの夫人と思わず魔女だと思い込んで、蔑視していた。

 平手を受けて怒り心頭の衛兵に追い打ちをかけるように、エルゼヴァスは思い切り足を踏んだ。

「おのれ、一度ならず二度までも!」

「あらごめんあそばせ。すこしよろけてしまったかしら」

 そう言うと、少し咳き込んだ。かと思うと、口の端から、一筋の赤い血が流れ出てくる。

 衛兵は魔女がなにかの黒魔術でもするのかと思い、あわてて後ろへ下がった。

 すると、召使いの少女らも同じように吐血するではないか。

(あなた、コヴァクス、ニコレット、さようなら!)

 エルゼヴァスは鋭くレドカーン二世とイカンシを睨んだ。それから、口から大量の血を吐いて、さっきまで凛としていたのがうそのように、糸の切れた操り人形のように倒れこんで。召使いの少女らも同じくひどく吐血をして、ばたりとたおれこんで。

 そのままぴくりとも動かなかった。

「しまった、毒のワインを飲んだのか!」

 周囲は騒然とした。やけに赤いと思っていたが、それは毒のためであったか。

 もはやこれまでと己の命運をさとり、自ら命を絶つとは。

 衛兵らは慌てて倒れたエルゼヴァスのもとまで駆けて頬をたたいて抱き起そうとするが、ぴくりとも動かない。ただ、目を閉じて静かに眠るのみ。

 召使いの少女らが同じように毒のワインを飲んだのも、魔女に仕えていたということでただでは済まないと思ってのことだろう。

 レドカーン二世とイカンシとソレアは目を丸くして呆然とし、カンニバルカは覚めた目でこの成り行きを見据えていた。

 呆然としていたイカンシではあるが、徐々に顔は真っ赤になり。

「この魔女の屍を八つ裂きにして、辱めを受けさせましょう!」

 と叫んだ。ソレアは顔を真っ青にして、ついにこらえきれずに失神し、他の衛兵に介抱され。カンニバルカは気付かれぬように「ふっ」と笑った。

 レドカーン二世といえば、

「いや、そのような野蛮なやり方は、浪漫王の名に恥じる」

 と言って憤慨するイカンシを諌めた。

「予は、浪漫に生きる男。オンガルリを浪漫あふれる国にしたいのだ。そこへ、いかに魔女といえども屍を八つ裂きにして辱めるなど、そんな無粋ままねはしたくない」

「……」

 王の言葉を聞いて、イカンシは呆気にとられたが。すぐに冷静さを取り戻して、それは違う、と進言するが。

「いや、だめだ」

 と、頑としてゆずらない。

 カンニバルカは笑いをこらえるために必死になって奥歯を噛み締めている。すこしでも油断すれば「がはは!」と大笑いしそうだった。

 これ以上へたに説得して王の機嫌をそこねるのもまずいと、イカンシはようやく「わかりました」と言い。レドカーン二世は衛兵に命じて、エルゼヴァスのなきがらを運ばせ。召使いの少女らは別に葬るよう命じた。

 王は一同をしたがえて城内を闊歩し。そのまま王城前の広場まで来た。

 広場には人はいなかった。

 普段は開放的で王都らしい賑やかさと雅やかさを見せるのだが、今は戒厳令が布かれて誰もが家屋の中に閉じ込められていた。そのかわりに、百名ほどの屈強な兵が勇ましく仁王立ちしていた。

 その百名の兵は皆、黒い軍装の騎士であった。国王レドカーン二世直属の親衛隊にしてカンニバルカが将軍をつとめる黒軍フェケテシェレグの兵士であった。


 皆目つきは鋭く、威圧感があり。見ただけでも一騎当千のつわものぞろいとわかる。こんな兵士らが、郊外に二千も待機しているのである。

「いかに龍公ドラヴリフトが強くとも、予が自ら組織した黒軍にはかなうまい」

「はい、左様でございます」

 黒軍を目にして大得意になるレドカーン二世は、鼻息も荒い。

 エルゼヴァスのなきがらといえば、衛兵が抱きかかえていたのだが、それに一瞥をくれると。

「広場の中央に置け」

 と、指さして命じた。

 言われるままに衛兵はなきがらを王城前広場の中央に横たえると。レドカーン二世はそのなきがらのもとまで来て、じっと寝顔を見据えた。

 美しい。イカンシも、エルゼヴァスが美しい夫人でよかったと思っていた。そうでなければ、若い娘の血で美貌をたもっているという話をでっちあげることはできなかった。

 もっとも、醜ければ醜かったで、それを理由に魔女だと言うつもりであったが。

(ふ、わしもなかなかの陰謀家じゃな)

 イカンシは己が陰謀家であることを重々承知している。これもすべて、立身出世のため。権力と富のため。ドラヴリフトのようなきれいごとなど、糞食らえであった。


 見抜いていた。王レドカーン二世がドラヴリフトに嫉妬していたのを。

 オンガルリを建国したレドカーンの名を受け継ぎ。それにふさわしい王になろうと努力していたが、それが高じ、あらぬ方向にゆき、夢想家になり、自らを「浪漫王」と名乗るまでになってしまっていた。

 己もドラヴリフトと同じように戦場を駆け巡り、故国を守りたいと強く願っていた。しかし、ドラヴリフトは王の身を案じて戦場に出ることを許さなかった。

 諌めようと思えば、諌められた。だが、イカンシはそうしなかった。

「ドラヴリフトが王のご親征を諌めるのは、おそらく、王に力なしと侮ってのことでは」

「なに。いや、そうかもしれぬ」

 この、たったひと言で、王は術中に落ちた。

「所詮、ドラヴリフトはただの武人。王の浪漫を理解しておらぬのでしょう」

「あやつに龍公なる愛称をつけてやったのは、予の浪漫ゆえであったが。そうか、あやつは予の浪漫を理解しておらぬか」

「理解せぬばかりか、王は龍公を信頼し軍事すべてを任せておられますが……」

「予を侮るどなれば、その信頼を逆手に取り……」

「逆賊でございます」

「そうだ、あやつは逆賊だ! いつか、きっと、反旗をひるがえす!」

 レドカーン二世はもうすっかりそそのかされて、言われるがままであった。黒軍を組織するように進言したのも、イカンシだった。

 いわく、王が絶対的な信頼を寄せられる手勢を持つべきであると。その言葉に乗り、黒軍は組織された。とはいえ、レドカーン二世は実質的にはあまりかかわらずに、イカンシに任せっぱなしであった。

 それでも、国軍は王自ら組織したと思い込んでいた。

 ドラヴリフトは、まさかそんな裏があるとは知らず。しかし黒軍の結成には反対した。

「王は軍や戦争を遊びと思われているのか」

 ドラヴリフトは心配していた。軍事に関しては皆が力を合わせて充分な戦力を保持し、戦果も挙げている。にもかかわらず、これといった必要性もないい軍事組織を新たに結成するなど、どうであろう。

 軍事組織は負担大きく、国力を大きく削ぐ。だから慎重に運用せねばならない。王はそこまで思慮が及んでいないようである。

 とにもかくにも、ドラヴリフトは王を心配していた。それはイカンシも見抜いて、ますます忌々しさばかりがつのるのであった。

「ドラヴリフトの言うことなど、無視なされ」

「心配など心にもないことをぬかしよって。もとより、そうしているが。しかし、あやつの忘恩には、はらわたが煮えくり返る思いじゃ」

 恩を感じ忠誠を尽くすならば、王に意見するはずがないと、レドカーン二世はそう思い込んであらたまることなく。イカンシはそれをあおりにあおった。

 アラシアより獅子王子率いる軍勢が攻め込み。ドラヴリフトにこれを迎え撃つように命じ、さらに隣国であり同盟国であったマーラニアにも援軍を要請した。

 マーラニアにアルカードなる勇将あり。このアルカード、ドラヴリフトと厚い友情で結ばれている。それならば、機を見てドラヴリフトとともに、討つ。そういう段取りであった。

 そしてついに、エルゼヴァスは魔女であるという、根も葉もないでっちあげを吹聴し、今に至る。


 レドカーン二世はエルゼヴァスのなきがらを見下ろし。腰に佩いている剣を抜けば、もろ手で逆手に持ち替え。

 きっ、と目を見開き。剣をエルゼヴァスのなきがらの左胸、すでに動きを止めている心臓に突き立てた。

 周囲は驚き思わず「おお」と声を上げた。

 物言わぬエルゼヴァスは静かに眠りながら、突き立てられた個所からは血が滲んで溢れだす。

 甘いと苦々しく思っていたイカンシであったが、これを見て考えを改め、王が自分の思った通りになっていることを確信した。

 カンニバルカも最初は驚いたが、すぐに落ち着き。事態を冷静に見守っている。

 レドカーンの目は血走り。ともすれば己の男をもってエルゼヴァスのなきがらを辱めるのではないか、と思わせるほどに、熱狂しているようだった。

 剣がなきがらに食い込む感触を感じて、胸の奥底から、とめどもなく溢れ出す狂気。王はそれを浪漫と情熱と受け止め、戦意を高揚させた。


「魔女よ、消えるがよい!」

 そう叫びながら剣を勢いよく抜き、大きく掲げた。

 その剣はオンガルリを建国したレドカーン一世が帯剣していた、王家の宝剣であった。

 エルゼヴァスの血に濡れた剣は太陽の輝きを受けてきらりと輝き、レドカーン二世の狂気を表現しているかのようである。

 血のしずくがたれて、鼻先に落ちた。レドカーンは血の感触を感じて、

「おおーッ!」

 と、大きく叫んだ。獲物を狙う狼の遠吠えのようである。と、イカンシは思ったが。カンニバルカの耳には、餌をねだる犬の声に聞こえた。

「魔女に油をそそげ! 火で燃やして、魔女の痕跡をすべて消し去るのだ!」

 八つ裂きにするのは己の浪漫に反する野蛮な行為だが、宝剣で心臓を貫き、火で燃やすのは己の浪漫にもとづく行為だった。

 命じられた通り油が運ばれてなきがらにそそがれて。そこに、松明の火がつけられれば、眠れるエルゼヴァスはまたたく間に炎に包まれた。

 すべてを包み込み飲み込む炎を眺めて。

「お前の夫も子も、同じようにしてやろう」

 と、ぽそっとつぶやいたのち、

「居室から、なんでもよい、エルゼヴァスのドレスをもってこい。ドラヴリフトらに見せつけるのだ」

 と命じると、

「出陣じゃ!」

 剣をかかげて叫んで。騎乗し郊外の黒軍フェケテシェレグと合流し、目指すは一路クンリロガンハ。

 王は戦う。すべては、浪漫のために。


 王の目指すクンリロガンハにおいては、ドラヴリフトやアルカード率いる軍勢が足踏みし進も退くもならずであった。

 ダライアス率いるアラシアの軍勢はどこかにゆき、襲い掛かってくることはなかった。

 だが、王が黒軍を率いて征伐に来るという。

 わけもわからないままに、逆賊にされて。

 もう軍勢は大混乱であり、これには歴戦の勇士であるドラヴリフトとアルカードも悩まされた。

「静まれ、静まれ!」

 コヴァクスとニコレットも落ち込んだり怒ったりするどころではないと、ソシエタスとともに将兵をなだめてまわるが。聞き入れられず、歯噛みするばかり。

 混乱し、さらに恐慌をきたす兵卒までいる。天の神の怒りを受けたとばかりに、うろたえること見るに堪えぬものだったが。そのとおり、将兵らにとって王は天の神にひとしい存在である。

 それから、逆賊と言われたのだ。

 将兵らはドラヴリフトやアルカードよりも、良くも悪くも素直だった。前々から、王侯貴族たちは自分たちを軽んじているのではないかというのを、肌で感じ取っていた。

 それでも、王より龍の騎士であると、龍公と愛称されるドラヴリフトを信じて戦ってきたが。それが、今はどうか。

「これが命を懸けて戦った者への報いなのか!」

 こらえきれず多くの者がそう叫び。さらには、軍装を投げ捨て、逃げ出す者まで出てくる有様であった。

「待て、逃げるな!」

 逃げ出す者の首根っこをつかんで、コヴァクスは殴り倒すが。火に油を注ぐばかりであった。

「もうよい、逃げたい者は逃げよ!」

 ドラヴリフトは歯噛みし、そうさせるしかなかった。とにかく、軍勢を落ち着かせるのが先決である。逃げたい者は逃がし、留まる者をまとめるしかなかった。

 逃げ出す者の中にはマーラニア軍の将兵も多かったが、アルカードも同じようにするかなかった。

 マーラニアは同盟国ではあったが、国内においてはアラシアと徹底抗戦と唱える者と降伏し属国になろうと唱える者との争いが絶えず、国情は落ち着いているとは言えず。団結力などなかった。

 そのため軍においても力を発揮しきれないところもあったが、アルカードはそれをどうにかまとめ、ドラヴリフトと協力して、アラシアと戦ってこれていたが。それも、はかなく崩れ落ちてゆくのをいかんともしがたい。

 気がつけば、両国合わせて一万あった兵力は、半分もあるかどうかまで減っていた。

「なんという愚かしい」

 国外の敵に敗れてこうなったのではない。同国人に陥れられてこうなったのである。

 ドラヴリフトもアルカードも、悔しい気持ちをおさえることはできなかった。コヴァクス、ニコレットともなればなおさらであった。

「この悔しさと怒りは、どうすれば……」

 コヴァクスは怒りに燃える瞳を、勅使の消えた方向へ向けた。まさか残った将兵でもってルカベストへ攻め込むなどできるわけもない。それならば、いっそのこと……。

「父上、かくなるうえは、残る兵力をもってダライアスと当たり、玉砕いたしましょう!」

「私も、それがいいと思います!」

 ニコレットも兄と同調し、ソシエタスが落ち着かせようとするのを聞かず、ドラヴリフトに詰め寄る。しかし、

「ならぬ!」

 という一喝が飛んだ。


逆賊を討つ


「なぜですか。このままおめおめと、逆賊の汚名をかぶって討たれるのですか」

「それも犬死にだが、玉砕も犬死にだぞ」

「ならどうすればよいのですか!」

 どうせ自分たちは死ぬしかないのだと、コヴァクスとニコレットは思っていた。

「まさか王に命乞いをするのですか?」

 ニコレットは色違いの瞳を鋭く光らせて言った。わけもわからぬままに自分たちを逆賊と認めた王に命乞いなど、身を汚されるような生理的嫌悪感を感じる。

「お前たちは、逃げろ」

 その言葉に、コヴァクスとニコレットは心臓を射抜かれるような衝撃を受けた。よりにもよって、逃げよ、とは。

「もはや王を説得することはかなわぬであろう」

「それで、逃げるのですか。我らに卑怯者になれ、と」

 コヴァクスは父をうらめしげに睨んだ。だが、その父は違うと言った。

「一時の恥を忍び、耐えるのだ」

「耐える?」

「そうだ。どこかに身をひそめ、再び立ち上がる機会を待つのだ」

 なるほど、そのやり方もあるだろう。しかし、コヴァクスもニコレットも釈然とせぬものを感じていた。

「それで、お父さまはどうなさるのですか?」

「わしは……、王にこの命をささげて、忠誠に偽りのないことをしめす」

「それは、犬死にと言われたではありませんか」

「そうだ、犬死にだ。しかし、お前たちはまだ若い。年寄りにつきあって一緒に犬死にすることはない」

「……」

 コヴァクスとニコレット、言葉もない。

「わかりません」

 コヴァクスはうなった。

「どうすればよいのか、わかりません……」

 父を捨て己だけ逃げるなど、どうしてできよう。ニコレットの色違いの瞳は、うっすらと涙にぬれる。

 父に甘えた幼かったころの日々を思い出したのだ。

「私も、まだ判断がつきません。しばらく、一緒にいてもいいですか?」

「お前たち」

「父を捨てて己だけ生き残るなど、どうしてできましょうか」

 コヴァクスは鋭いまなざしでドラヴリフトを見据えた。

 ドラヴリフトは「ぎりり」と歯軋りしたが、このわからずやの若い兄と妹は、父親から離れようとしなかった。それが甘えによるものではないのはわかっているから、なおさら難しい。

「ドラヴリフト殿」

 横からアルカードが声をかける。

「待っておればレドカーン二世はクンリロガンハに来られましょう。その時にあらためて対話の機会をもてれば、あるいは誤解は解けるかもしれませぬ。その万が一に希望を託すのも、悪くはないかと」

「うむ……」

 言われる通りだが。はたしてレドカーン二世は対話に応じるだろうか。自らを浪漫王と称するほどうぬぼれと妄想が強く、最近は自分たちを邪険にしているのがいやでもわかっていた。

 王のため、国のために、命を懸けて戦い。戦果を挙げれば挙げるほど、嫉妬は深くなっていったようだった。

(エルゼヴァスはどうしているだろうか)

 表には出さぬが、故郷に残していた妻のことが気がかりであった。王に逆賊と言われたのである。となれば、妻も無事ではすむまい。もしかしたら、もう、すでに……。

 残った将兵たちも、やはり動揺と葛藤は大きい。彼らも故郷に家族や友人、恋人がいる。本音を言えば、逃げたいであろう。それをこらえて、残っているのである。それだけに、ドラヴリフトの存在の重みは増した。それは自分自身でも痛感することである。

「やむをえぬ。ここで王を待とう。しかし、逃げたい者は逃げよ。今は己の身を第一に考えるのだ。生きておれば、絶望から立ち上がることができる。死ねば、終わりだ」

 ドラヴリフトも葛藤があり、そう言うのが精一杯であったが。信頼を寄せる大将のこの一言でいくらか気が楽になったようで、軍勢はいくらか落ち着きを取り戻し。夜をしのぐために野営のしたくがいつのころからかはじめられていた。


 一方ダライアス率いるアラシアの軍勢は、クンリロガンハの草原を離れて、砦に駐留していた。

 その砦はかつてはオンガルリの砦であったが、ずっと昔にアラシアによって落とされて。以後オンガルリに攻め込む際の拠点にされていた。

 砦からさほど離れていない距離に、いくつか町や村があり。この地域一帯が総じてクンリロガンハという地名だった。

 そこは国境地域であった。

 オンガルリはクンリロガンハはオンガルリ領であると主張し、同じようにアラシアもクンリロガンハをアラシア領であると主張していた。

 そんなことだから、この地域に暮らす人々は、自分がどこの国の者かということがさっぱりわからなかった。ということはなく、長い間アラシアがオンガルリ攻めの拠点にしていたのだが、将兵たちは支配者意識丸出しで乱暴狼藉をはたらき、アラシアに対して反発し。オンガルリに、早く助けてほしいと思っていたから、うっすらとではあるが、自分たちはオンガルリ人だと思っていた。

 が、ダライアスが来てから変わった。

 ダライアスが砦に着いてまずしたことは、周辺地域の人々に、乱暴狼藉を働かないことを宣言することだった。

 最初信じていなかった人々だが、実際将兵の誰も乱暴狼藉を働かなかった。


 乱暴狼藉を働かないどころか、町や村のおさたちが砦に呼ばれて。長たちは不安な思いで赴いてみれば。

 場所は砦の軍議室であった。長たちは平伏していたがすぐに立つようにうながされて。ダライアスの後ろの従者が前に進み出て、なにか袋を乗せた盆を長たちに差し出した。

「今までアラシアの者がお前たちに嫌な思いをさせた。このダライアス、つつしんで詫びよう」

 それを聞いて長たちは仰天し、うながされて袋を受け取れば、ずしりと重い。さらにうながされて中をのぞいてみれば、アラシアの金貨がぎっしりと詰め込まれていて、口から心臓が飛び出るほどに仰天は頂点に達した。

 アラシアの金貨には、現大王のクゼラクセラの横顔が掘られていた。髪はすべて剃り上げられているが鼻は高く精悍な顔立ちである。このクゼラクセラ大王こそ、獅子王子ダライアスの父であった。

 もっとも、大王から見ればダライアスは三人目の妻の産んだ、六人目の子であるが。

 あまりの出来事に足を震わせている長たちを、ダライアスは見据えて言った。

「この金はお前たち個人に与えるものではない。この地域一帯の人々に与えるものだ。それを勘違いするな」

 長たちは恐れ入って言われもせぬのに平伏した。

 そういったことがあって、砦の周辺は平穏なものだった。旅の商団もよく砦や周辺の町や村に立ち寄り、にわかに活気づいてきていた。

 その商団の者たちは砦の外で酒を飲みながら、子供はファールーデという細い麺に蜂蜜をかけた菓子を食いながらなにやらやんやと騒いでいた。

 彼らの視線の先には、ともに上半身裸のダライアスとイムプルーツァが剣で激しく打ち合っていた。

 剣は訓練用の刃引きのものだが、それでも鉄の塊であることにはかわりがない。それを力いっぱい振るい。実戦さながらの打ち合いを見せていた。

 それをヤースミーンは胸の前で手を組んで心配そうに見つめて、パルヴィーンは他の将兵や商団の者たちと一緒になってやんやと騒いでこの打ち合いの観戦を楽しんでいた。

 奮戦するダライアスであったが、一瞬の隙を見せてしまい。腹に強烈な蹴りを受けて、背中から倒れてしまった。

「どうしたッ、獅子王子の称号が泣きますぞ!」

 そう言うイムプルーツァも汗まみれで肩で息をしている。言われたダライアスは、ぎり、と歯軋りし唾を吐き飛ばしながら立ち上がり剣を振るい。激しい打ち合いを繰り広げた。

 

 草原での戦いから数日が過ぎていた。

 ということは、オンガルリ王都ルカベストから出発した、レドカーン二世率いる黒軍フェケテシェレグ二千がオンガルリの草原を目前にしているところだった。

 レドカーン二世は得意満々に駒を進めていた。

「申し上げます!」 

 近侍の者が先に出発し、ドラヴリフトらの様子を探っていた斥候の報告を伝える。

「逆賊ドラヴリフトらは、草原にて野営し、我らを待ち構えております!」

「なんと!」

 声を上げたのはイカンシであった。

「奴ら徹底抗戦するようでございます」

「そうだろう。いや、むしろそうしてほしいと願うところだ」

 レドカーン二世は叫んだ。

「ドラヴリフトの首は予が獲る! 龍の騎士を討ち、浪漫王の浪漫を国中はおろかアラシアにも轟かせるのだ!」

 意気も盛んである。


 一方で野営のために建てられた数個の幕舎のうちのひとつに、ドラヴリフトはコヴァクスとニコレットの親子三人でいた。

 周辺に物見をはなてば、レドカーン二世率いる黒軍の到着も近いという。そこで父は子らを呼び寄せた。

 数日悶々とする気持ちを抱えたふたりは、もう爆発寸前だった。剣をめちゃくちゃに振り回したくなる衝動に何度も襲われた。

 父から呼ばれたふたりの目は険しいものだった。

 それを見るドラヴリフトの心中はいかばかりか。

「お前たちに託すものがある」

 そう言いながら手に持つ旗。それは龍牙旗であったが、それは他の旗とは違った。赤地に銀糸で龍の牙が三本あしらわれている。

「これは、王より特別に賜った紅の龍牙旗である」

 王がドラヴリフトをほんとうに信頼していたころ、龍の騎士、龍公の愛称の他にこの紅の龍牙旗を授与していたのである。

 ドラヴリフトはこれを大切にし、戦いにおいては傷つけるまいと後方にさげていた。

 ドラヴリフトも、コヴァクスもニコレットも、オンガルリの騎士たちはこの紅の龍牙旗のもとで戦ってきた。

 紅の龍牙旗はドラヴリフトたちにとって、騎士としての誇りの象徴であった。

 ドラヴリフトは紅の龍牙旗を長子コヴァクスに差し出した。旗竿を握る拳は強く握りしめられていた。

 が、コヴァクスは父の心中がわからず、戸惑っているようだった。

「言わねばならぬか」

 ドラヴリフトは苦笑した。しかし、穏やかな顔で。

「やはり、わしは死ぬであろう」

「父上」

「お父さま」

 ふたりの子は目を見開いて父をまじまじと見た。そんなことを言われますなと言おうとしたが。

「しかし、お前たちは生きろ。生きて生きて、生き抜くのだ。これは父からではない、龍公ドラヴリフトとして、小龍公、小龍公女に命ずるのだ」

 ふたりの目を厳しい表情で見つめ、ドラヴリフトはそう言った。


 コヴァクスとニコレットはどう言えばよいのか、言葉が見つからずに戸惑いっぱなしだった。

「王の迷妄はゆくところまでゆき、もはや取り返しはつくまい。それを我が命をもってお諫めするのだ」

「それは……」

 ニコレットは唇を震わせている。だがコヴァクスは、

「王を討つのですか」

 と、はっきり言った。これにはドラヴリフトも苦笑した。が、否定はしない。首を縦に振った。

「ありていに言えば、そうだな」

 それは衝撃的な告白であった。

 あれだけ王に忠誠を尽くしてきたのが、王を討つなど。気が狂ったとしか思われぬ告白であった。

 だがドラヴリフトはいたって正気であった。

「できれば我が命も王のお命も、平穏無事で済めばそれにこしたことはない。しかし、そうはならぬであろう。獅子身中の虫が蠢動し、なにもかもを食い破ってしまった。もう、再生はかなうまい。しかし、転生の希望はある」

「転生……」

「そうだ。お前たちは生き、オンガルリを転生させるのだ。それが使命だ。紅の龍牙旗はそのための旗印だ」

 オンガルリを転生させる。コヴァクスもニコレットも、父がひどく悩んでいたことをこのときになってようやくわかった。

 しかし、かといって父の死を受け入れることは、できなかった。

「申し上げます!」

 外からソシエタスが叫んだ。それと同時に地響きがする。

「国王率いる黒軍フェケテシェレグがやってきました! 全速力で我が方に向かっております!」

 ドラヴリフトの目が光った。

「受け取れ!」

 胸に拳を押し付ければ、思わずコヴァクスは旗竿を握って受け取る。ニコレットは幕舎の片隅にあった、旗入れのための長箱をかまえており。咄嗟に旗を竿に巻き、箱に収める。

 その間にドラヴリフトは幕舎を出てソシエタスがそれに続き。コヴァクスとニコレットは慌てて後を追った。

「黒軍が来たぞ!」

 騎士や将兵たちは世界の終りのような叫びをあげ。それを掻き消す馬蹄や軍靴、雄叫び。

 黒い軍装の軍勢が雪崩のように迫ってきている。

 その先頭に立つのは、岩盤を噛み砕きそうな異形の相のカンニバルカ。

「逆賊どもを皆殺しにしろ!」

 肝心のレドカーン二世といえば、突撃する黒軍の背後で近衛兵に囲まれて、馬を軽く走らせて、まるで蹴球の競技でも観戦するかのようなお気楽さだった。そのそばにはもちろんイカンシ。

 レドカーン二世はにっくきドラヴリフトをこれで始末できるという喜びに満ち溢れていた。その歓喜のまなざしの先にあるのは……。

「あれは……!」

「母上!」

「お母さま!」

 ドラヴリフトにコヴァクス、ニコレットは絶句した。

 押し寄せる黒い雪崩の掲げる軍旗は黒一色ではあるが、その軍旗にまじって赤いドレスが槍斧ハルバード穂先に突き刺されているではないか。

 なんだあれはと疑問に思う間でもなかった。それはエルゼヴァスのドレスであった。

「エルゼヴァスはすでに……」

 ドラヴリフトはうめいた。あらかたの想像はついていたが、実際にそれを見せられると、衝撃はやはり大きかった。それとともに、ドラヴリフトの覚悟もより固いものとなった。

「おいたわしや」

 アルカードは心の中で冥福を祈りながら愛馬に飛び乗った。

「どうなさるのですか」 

 マーラニアの騎士が不安そうにたずねれば、

「是非もない」

 そう叫んで馬を駆けさせた。黒軍の方へと。それが何を意味するのか。

 アルカードが駆け出すのを機に、マーラニアの騎士や将兵らの行動は二手に分かれ、一方は逃げ、一方はアルカードを追った。

 オンガルリも同じようなことだった。ドラヴリフトも愛馬に飛び乗り駆けながら抜剣し。そのあとを数十の騎士が続いた。

 コヴァクスとニコレットといえば、愛馬に飛び乗るや、

「さあ、ゆきましょう!」

 と、一緒に騎乗したソシエタスがふたりに馬を並べた。前もってドラヴリフトから伝えられていたようだった。

 周囲は大将を追う者、逃げる者とで混乱していた。逃げる者は、一旦残ってはいても、いざとなれば心は彼方へと吹き飛ばされてしまったようだった。

 やはり王家に刃を向けるようなことは、できないのだ。

「父上、母上……。おさらばでございます!」

 天地も裂けよとばかりにコヴァクスは叫んで、愛馬を駆けさせ。ニコレットは溢れる涙を風に散らしながら愛馬を駆けさせ。ソシエタスがそれに続く。が、他に続く者はいなかった。

 かと思われたが、二騎続く者があった。

「僕はマーラニアの見習い騎士のクネクトヴァです、どうかご一緒させてください!」

「同じくマーラニアの見習い騎士のカトゥカです、私も同行させてください!」

 ふたりは見習いというだけあって若いどころか幼く、まだ十五の少年と少女だった。

 だが必死に馬を駆けさせるコヴァクスとニコレットに返事をする余裕はなく、かわりにソシエタスが「よし、来い!」とやっと叫んだ。


「しかし、なんと愚かしい!」

 ソシエタスも叫ばずにはいられなかった。

 迫りくる黒軍フェケテシェレグに立ち向かう者たちは、わけもわからずに逆賊にされて。それでもひるまずに、騎士としての誇りと、己の命をもって王を諌めようとする。そんなことのできる騎士だからこそ、国を支える有為な人材たちでもあったのだが……。

 そう思えば思うほど、ソシエタスは愚かしい思いに駆られるのであり。いつかきっと、仇を討つと心に誓うのであった。

 若い五騎が草原を離脱しようとするのを振り返って見ようともせずにドラヴリフトとアルカードは黒軍めがけて駆け。あとにつづくのはわずかに数百程度だった。

 最初一万の兵力であったというのに。これでは勝ち目はなかった。が、そんなことはわかっていた。

「おおおーッ!」

 ドラヴリフトは叫んだ。その轟きはまさに龍の咆哮であった。

 咆哮が轟けば、両勢ぶつかり合った。

 ドラヴリフトはまっさきにエルゼヴァスのドレスへと駆けて。掲げる者を討ち槍斧を奪い取り、ドレスを取り戻して鎧の上にたすき掛けに巻いた。

「龍公、先にゆきます!」

 ぶつかり合うとともに、そんな叫びがドラヴリフトの耳に飛び込んだ。

 長年ドラヴリフトを龍公と、父と慕いともに戦ってきた騎士たちは、黒軍の黒騎士たちに次々と討たれてゆく。それでも無様な姿を見せまいと、皆前のめりで倒れてゆく。

「我らマーラニアも後れをとるな!」

 ドラヴリフトの奮戦を目にしてアルカードも負けじと奮戦した。ひらめく剣は黒騎士たちの刃をかわしながら一瞬の隙を突き、血風を吹かせて。血のしずくが頬に飛び散り、反射的に舌でなめとった。

 アルカードに続くマーラニアの騎士や将兵も覚悟を決めていた。愚かな同盟国の王に怒りの鉄槌を下す思いで当たって、砕けてゆき。青地に金の鷲のあしらわれた軍旗は倒れて、踏みしだかれてゆく。

 同じように龍牙旗も次々と倒れて、踏みしだかれてゆく。

 今までの戦いで、ここまでそれらの軍旗が倒れたことはなかった。

 いかに覚悟を決め奮戦しようとも、兵数差があり。しかも黒軍は、ほんとうに強く鍛え上げられたドラヴリフトの騎士たちをいともたやすく討ち取ってゆく。

「圧倒的ではないか我が黒軍は」

 後ろからレドカーン二世はご満悦で手を叩いていた。ドラヴリフトらはどう出るであろうかと考えていたが、望み通り徹底抗戦をしてくれた。その心中を推し量ることなく、王は単純に喜んでいた。

 なによりも、カンニバルカの働きは凄まじい。

 大きな槍斧ハルバードを自在に振り回し、迫りくる騎士たちを吹き飛ばし。まるで竜巻でもおこったかのような勢いであり。向かうところ敵なしであった。やがて、ほんとうに迫ってくる敵はいなくなった。

 もともと数に差があるのだから、それも無理もなかった。

「どうしたどうした! これで終わりではあるまい!」

「ここにいるぞ!」

「おう、受けて立つぞ!」

 敵を求めるカンニバルカに向かうは、アルカードであった。

 マーラニアの騎士たちがカンニバルカによってことごとく吹き飛ばされたのを見たが、それでひるむアルカードではなかった。

 双方雄叫びをあげて得物を掲げて、数合渡り合った。

 うなる槍斧をかわし、剣をたたきこむが、カンニバルカも素早い動きを見せ巧みにかわす。

「まだまだ!」

 無慈悲な槍斧の一撃が右のわき腹に当たり、鎧はおろか肉も骨も砕けて、アルカードは吹き飛ばされて。背中をしたたかに打ちながら落馬した。

 いななく愛馬は、脳天を打ち付けられて。断末魔の悲鳴を上げて、倒れた。

「ぐッ……」

 全身にひどい痛みが走り、アルカードは身動きが取れなかった。口からは血があふれ出てとどまることを知らなかった。

「無念……」

 やっと出る声でうなりながら、アルカードはカンニバルカを睨み据えた。

 その血まみれの姿と血走った目を見て、

「ほう、ヴァンピールみたいじゃな」

 と、カンニバルカは馬上からからかった。ヴァンピールとは、オンガルリにマーラニア、旧ヴーゴスネア一帯に伝わる人の血を吸うという怪物のことだ。

「名を聞いてなかったな、聞いておこうか。オレはカンニバルカ」

「我が名は、アルカード。我ら肉体は死すとも魂は死なず。お前たちに、永久とわの呪いを……」

 言いながら、アルカードは一気に血を噴き出し、そのまま瞳を閉じてこと切れた。

 死せるアルカードを一瞥すると、カンニバルカは馬を駆けさせた。

 向かう先には、ドラヴリフト。

 もう味方は皆討たれて、愛馬も討たれ、徒歩立ちでひとり、傷だらけになりながら迫りくる黒騎士らと渡り合っていた。

 肩で息をし、ふらふらしながらも、気力だけで戦う有様のドラヴリフトにとどめを刺そうと黒騎士たちは迫るが、その気迫は龍公と呼ばれるだけあり。なかなかにしぶとく、黒騎士たちは攻めあぐねているようだった。

 しかし、それでも、万に一つの奇跡など起きそうもなかった。もはやドラヴリフトとアルカードに続いた騎士や将兵はすべて死に、残っているのはドラヴリフトのみ。

 遠目からそれをながめるレドカーン二世は、鼻息も荒く興奮しっぱなしである。

「討て、ドラヴリフトを討て! あやつを討った者には、褒美は思いのままじゃぞ!」


「うおお!」

 攻めあぐねていたとはいえ、この状況で逃げ出す者はいなかった。ドラヴリフトの心身の強さに驚嘆はしても、討つことには変わらない。そこへ王の鶴の一声である。

「王よ!」

 自分を討てという声はドラヴリフトも聞いた。最後の命を振り絞るように、裂帛の叫びが轟いた。

「とくと見よ、我らの姿を!」

 叫びながら吐血する。全身傷だらけになりながら、まさに血を吐く思いの叫びであった。それから、攻撃をかわしながら足元にあった槍を素早く拾い上げると、レドカーン二世に向けて、力強く投げた。

 槍は宙を突く勢いでレドカーン二世に迫った。

「ひっ!」

 迫る槍を見て悲鳴を上げ、全身が石になったように固くなった。周囲も同じように石のように固まってうごかない。

 しかし、槍はわずかにそれてレドカーン二世の頬をかすめ、斜め後ろに控えていた近衛兵に突き刺さった。

 近衛兵が断末魔の悲鳴を上げて落馬するのをよそに、

「逆賊め!」

 と、レドカーン二世は怒りを爆発させてあらん限りの大声でドラヴリフトを罵った。それをイカンシがあおりにあおる。

(エルゼヴァス、今ゆくぞ)

 槍を放った直後、いくつもの刃がドラヴリフトを貫いた。

 それでも、倒れない。目を見開き、じっと遠くのレドカーン二世を睨み据えている。

「まだ死んでいないのか」

 さすがに黒騎士たちも、不死身なのかと恐れおののいて遠ざかる。それと入れ違いに下馬したカンニバルカがのっしのっしと迫る。

 見開かれた目を見れば、瞳孔は開いている。

「敵ながら天晴なやつよ」

 ドラヴリフトは、こと切れていた。にもかかわらずに、倒れずに立ち続けていることに、カンニバルカは心から驚嘆した。

 槍斧を近くの者に預けて剣を抜けば、刃ひらめき、ドラヴリフトの首を刎ね飛ばした。

 その衝撃で仁王立ちしていたのがようやくにしてぐらつき、倒れて。同時に首は地に落ちた。

「ひゃあっはー!」

 首が地に落ちるのを見て歓声をあげたレドカーン二世。嬉しさのあまり、人の言葉が出なかった。イカンシもしぶとさに驚嘆したが、一番の政敵を討てて大喜びである。

 黒軍の黒騎士たちも、歓喜の叫びをあげた。

 だがカンニバルカは何も言わなかった。くるりと回れ右をし、ずかずかと大股でレドカーン二世向かって歩き出す。

 それを見てレドカーン二世は馬を進めて、イカンシもそれに続いた。ドラヴリフトを討った功労を讃えてやろうと思っていた。

 レドカーン二世は、自分が、今まで読んできた戯曲の中にいる思いであった。戦場を駆け巡る英雄の戯曲を心を躍らせながら読んで夢中になったものだった。

 ドラヴリフトやアルカードら騎士たちのなきがら転がる悲惨な情景を目にしながらも、自分が戯曲の英雄になったような思いでいっぱいだった。

 まさにそれは浪漫であった。

「よくやった!」

 王は下馬し、イカンシも下馬し。カンニバルカのもとまでゆく。

 イカンシもたいそう喜んでいる。

(これでわしの時代が来る!)

 そう確信していた。

 そんな嬉しそうなイカンシを見て、カンニバルカは「ふっ」と笑い、

「これで、オンガルリ州の知事サトラプになれますな」

 と、言った。

 それを聞いたレドカーン二世は一瞬ぽかんとし、イカンシは「何を言うのだ」と驚く。

 知事サトラプとは、アラシアが支配する地域を王に代わって治める代官のことだ。

「これ、悪い冗談はよさぬか」

 イカンシはどぎまぎしながら笑ってごまかそうとするが、カンニバルカの目はドラヴリフトの首を刎ねたときよりも鋭い。

「愚かな王をそそのかし、アラシアと密かに結び、富と権力が約束された気分はどうですかな?」

「おぬしの毒のある人柄は重々承知じゃが、それは言いすぎではないか」

 イカンシは明らかに狼狽していた。歓喜がひっくり返る思いだった。

 レドカーン二世は相変わらずぽかんとしている。

(様子がおかしい)

 イカンシは察していた。どうも、自分にとってよくない雰囲気である。王に命じられて結成した黒軍フェケテシェレグの黒騎士たちは、イカンシに対して冷たい視線を送っている。

 もっとも、実務的に黒軍結成の任に当たったのはカンニバルカであり、ほとんど任せっぱなしと言ってもよかった。

 このカンニバルカは放浪の剣士であった。どこの生まれかもわからない。腹黒いイカンシは素性のよくない者を多く召し抱えていたが、カンニバルカもその中のひとりであった。

 カンニバルカはよく働きイカンシの覚えもよく、重宝してやった。実際カンニバルカが来てから、イカンシの配下のならず者たちは見違えるようにまとまり、ちょっとした軍隊のような変貌ぶりであった。

 だから黒軍の将軍にカンニバルカを任命したのだが。

(まさか……)

 王を掌の上で躍らせていたイカンシだが、さらに、カンニバルカの掌の上で踊らされていたというのか!


オンガルリ国の終焉


 いや、まさか、そんな、と思うものの。カンニバルカらの目は冷たい。アルカードやドラヴリフトに対しては多少は尊敬の念を抱いていたようなのに。

 などと考えている間に、イカンシの腹に全身を貫く衝撃と苦痛が走り。血が喉をさかのぼり口内にあふれてくる。

 ドラヴリフトの首を刎ねた剣が、イカンシの腹を貫いているではないか。

「な、なにをする!」

 と言おうとするが、うまく言葉にできず。全身を駆け巡る苦痛がたまらず、

「ひいぃー」

 と情けない声でうめいて。剣が抜かれて、腹と背からどっと血があふれ出て、膝から崩れ落ち、うつぶせに倒れて口をぱくぱくさせるイカンシ。

 レドカーン二世もこの突然にことに驚き、口をあんぐりあけて呆然とし。近衛兵はすわやと剣を抜くが、それよりも早く黒軍の黒騎士は動き、近衛兵をあっという間に始末してしまった。

 主が次々と落馬しぴくりとも動かず。それぞれの愛馬はたまげたようにいなないてどこかへと駆け去ってしまった。

 イカンシは出血多量で意識がもうろうとする中、

(なぜ、うまくやっていたはずなのに)

 と何度も苦悶しながら問答し。その脳天に剣が叩きつけられ、ざくろのように割れた頭から肉片とともに脳漿がぶりまけられる。

 それを茫然と見るレドカーン二世は、この中でたったひとり残されてしまった。

「浪漫はベッドで見るもの。戦場で見るものではない」

 カンニバルカはあからさまな蔑視をレドカーン二世に向ける。他の黒騎士たちも同じだった。

「予を、どうするつもりじゃ」

「ふん」

 立ちすくむレドカーン二世に目もくれず、カンニバルカは黒騎士らに呼び掛けた。

「お前ら、金目のものは持っているな!」

「おおーッ!」

 なんということであろう。王などに目もくれない黒軍の黒騎士たちはカンニバルカの呼びかけには、雄叫びで応えるではないか。これではまるでカンニバルカの軍隊である。

「よし。かねてから打ち合わせたとおり、カルトガのツニスで会おう。散れ!」

 言うが早いか、カンニバルカは素早く愛馬にまたがって駆け出し。同じように黒騎士たちもそれぞれがそれぞれの思いのままに風まかせに散ってゆく。


 カルトガ。ツニス。

 カルトガはフィリケア大陸北岸の国の名で、ツニスはその王都である。しかし、カルトガはすでに滅んでいる。

 かつて、大陸の西方、エウロパと呼ばれる地域にマーレ帝国が興り、その南向こう岸のフィリケア大陸にはカルトガ帝国が興り。激しい憎悪をぶつけあい、熾烈な戦争を幾度となく繰り広げた果てに、ついにマーレ帝国はカルトガを滅ぼした。

 しかしそのマーレ帝国も今は滅んで、大陸西方エウロパおよび南向こう岸のフィリケア大陸北岸は大小さまざまな国が割拠している。

 オンガルリとマーラニアもその中の国のひとつであり。マーラニアはマーレ帝国の末裔を名乗る民族が興したことで、マーレ人の国という意味であるマーラニアという国名となった。


 などとゆっくり考える余裕などもなく、わけもわからぬままに、レドカーン二世は、今度こそ本当にひとりぽつんと残されてしまった。

 周囲はもの言わぬ屍ばかりであり。風にそよぐ草がそのさまを笑うようにさらさらと小さな音を立てている。

「こ、これは……」

 たまらず尻もちをつき、ただ、呆然とするしかなかった。

 そこには、常日頃唱えている浪漫など微塵もなかった。


 クンリロガンハの草原で同士討ちが起こる!

 という報せが獅子王子アスラーン・ダライアスのもとに飛び込み。

「よし、出陣だ!」

 と、アラシア軍はすぐさま支度を整えて出陣し。ドラヴリフトとアルカード率いるオンガルリ・マーラニア同盟軍と渡り合った草原に着けば。

 そこには、オンガルリ・マーラニアの騎士や将兵の屍が無造作にころがっており。その中になぜか、腑抜けた男が尻もちをついてぽつんと座っているのみ。

「これはどういうことだ」

 ダライアスもイムプルーツァも、不思議そうに周囲を見渡し。ヤースミーンとパルヴィーンは思わず鼻を抑えて、屍を見ぬように目を空へとそらさねばならなかった。

 それほどまでに屍はいたましいことになっていた。

「イカンシなる者がアラシアに呼応し、オンガルリ・マーラニア同盟軍を討つ手筈ではなかったのか」

 予定通りならばイカンシなる者がドラヴリフトとアルカードを討ち、王を捕えて、ダライアスと面会するはずであった。

 報せをもたらした斥候も、不思議そうにし、まるで物の怪に化かされたような気持だった。

「この者は、オンガルリ国王レドカーン二世でござる!」

 草原にぽつんと座り込んでいた男を尋問していた兵だったが、その身にまとう鎧の豪奢さが気になり王の顔を知る者を探して見せてみれば、国王であると言うではないか。

 それと前後して、

「アルカードだ!」

「ドラヴリフトの首が落ちているぞ!」

「イカンシが刺し殺されている!」

 という声がする。


 その一方でヤースミーンの顔が真っ青になっていた。

「無理するな。お前は後方へ下がって従軍の文官や神官と一緒に休め」

「……はい。申し訳ございません」

 いえ、獅子王子とともにいます。と言いたかったヤースミーンであったが、草原の惨状と腐臭に耐え切れず近侍の者に付き添われて下がってゆく。

 闊達で気の強いパルヴィーンはどうにか持ちこたえてイムプルーツァに傘をさしていたが、おしとやかなヤースミーンにはきつすぎた。

 とはいえ、戦場慣れしているからと言って、いつまでもこの悲惨な景色の中にいつづけられるわけでもない。

「これはどうしたことだ」

 アラシア軍全体が、物の怪に化かされたような雰囲気の中にいさせられているようだった。

「ルカベストへゆこう!」

 ダライアスは叫んだ。

「何が起こったのかわからんが、オンガルリは今ただ事ではないことになっているのは間違いない。そこにつけこんでルカベストを落とすのだ!」

「しかし、もっと慎重になってもよいのでは」

 不測の事態もありうる。イムプルーツァは慎重にとさとそうとするが、

「父クゼラクセラ大王の命は、ルカベストを落とすまで帰るなかれだ」

「それならば、このイムプルーツァが先陣をつとめ、獅子王子は……」

「なぜ父がオレに獅子王子の称号を与えたのか、お前は忘れたのか」

「……。そうでしたな」

「考えている暇はない。ゆくぞ!」

 ダライアスの号令一下、アラシア軍三万は進軍を開始した。その中でイムプルーツァは気を利かせて、工作兵に屍を弔うよう命じ、レドカーン二世らしき男を連行させたのであった。


 アラシア軍は駒を進めた。

 行く先々での抵抗もあると思っていたが、通りゆく格町村や都市は、

「アラシア軍がここまで! ああ、負けた、オンガルリは負けたのだ!」

 と絶望的な悲鳴を上げるのみで、何の抵抗もなかった。

 そもそもオンガルリ国民自体が、ことの成り行きをよくわかっていなかった。龍公ドラヴリフトはマーラニアと一緒にアラシア軍の侵攻と戦っているかと思えば、ドラヴリフトは逆賊であると、レドカーン二世自ら黒軍を率いて親征し。そうかと思えば、アラシア軍である。

 さらに、囚われの身となった国王レドカーン二世が、みじめったらしく連行されているではないか。

 国民はなにがなにやらさっぱりわからず、ちんぷんかんぷんのていであり。それこそ、国全体が物の怪に化かされたかのようだった。そのため戦意も喪失し、何の抵抗もしめさない。

 そのため、進軍の速度を速めていたとはいえ、わずか数日でルカベストにたどり着いてしまった。

 そこで待っていたのは、王妃ヴァハルラと第一王女オレアに第二王女オラン、そして末っ子の王子カレルであった。

 王妃はまだ三十代と若く、三人の子も、上から十三歳、十歳、八歳と幼い。

 そばにはわずかな供のみで、郊外でアラシア軍を待っていた。

 騎士らがこれらを取り囲もうとしたが、ダライアスはそれを制し。下馬し自らの足で王妃らに近づく。そのすぐ後ろにイムプルーツァが控え。そのそばに、騎士に連行されるレドカーン二世。

 粗末な服を着せられて、ひどく落ち込んだ表情で、国王とも思えぬみすぼらしさであった。

「陛下……!」

 王妃ヴァハルラはこれに大変衝撃を受け、胸を痛めた。それでもどうにか踏ん張って立っていた。が、末っ子の王子カレルは、父の惨めな姿に衝撃を受け、

「父上!」

 と叫んで、泣き出してしまった。

「この男、まことレドカーン二世であるか」

「はい……」

 あまりにも品もない姿だったために確信が持てなかったのだが、これにてようやく持てた。

 しかし、レドカーン二世は家族と顔を合わせても、

「へへへ、へへ」

 と薄ら笑いをするばかりで、意識はどこかへ飛んだか、夢の中にさまよいこんでしまったかのようだった。

「色々と話したいことはあるだろうが、単刀直入に問う。降伏か否か」

「降伏いたします」

 ヴァハルラと子供たちは静かに平伏し。侍女がうやうやしく王と王妃の冠を差し出した。これをもって降伏の証とするのだという。

「ただし!」

 大きな声で割って入る者があった。

 ドラヴリフトに仕える老騎士のマジャックマジルという者であった。齢六十五になり頭や眉も髭も白くなっていたが精悍で、年の衰えを感じさせない。

 一連の出来事を聞いていてもたってもいられず、ドラヴリフトが所領する地域のヴァラトノから王都ルカベストまで馬を飛ばしてきた。なにかあったとき、すぐに王妃を補佐せよと、ドラヴリフトからの言いつけであった。

「王家はもちろん国民を大事に扱い、決して乱暴狼藉は働かぬと……」

「約束しよう!」

 言葉を遮り、鋭いまなざしでダライアスはマジャックマジルと睨み合った。

「そのお言葉、お忘れなきよう」

 マジャックマジルはダライアスの瞳を見て、悔しいが安堵し、同時に情けない思いもした。

 侵略国の王子の利発さに比べて、我が国の王のなんと情けないことか。

「ここは寒い。城に入ろう」

 そう言うダライアスの目は三人の子らに向けられていて、暖かみにあふれて。まず王妃に手を差し伸べて立たせて。それからオレアとオラン、カレルのもとに歩み寄って、手を差し伸べて平伏していたのを立たせた。


白い妖精


 時はさかのぼる。

 クンリロガンハの草原にて迫りくる黒軍フェケテシェレグから逃れるコヴァクス、ニコレットとソシエタスに、マーラニアの見習い騎士の少年クネクトヴァと少女のカトゥカは全速力で愛馬を駆けさせていた。

 背後では怒号が響き、引き返してともに戦いたい衝動に何度も駆られた。しかし、引き返したところで何かができるわけでもない。

 今自分たちができること、せねばならぬことは、とにもかくにも、逃げることと、生きることであった。

 後ろを振り向けば、追っ手は来ていないようである。逃げる者は無理に追わないということか。

 ともあれ、駆けた、駆けに駆けた。

 戦場から少しでも遠く離れなければならない。

(とはいえ、どこにゆけばよいのだ)

 コヴァクスは駆けながら悩んだ。前面にはダライアス率いるアラシアの軍勢、背後には黒軍。クンリロガンハの地域一帯はアラシアの支配下に置かれているであろう。

 下手をすれば地元の人々につかまってダライアスに突き出されるかもしれない。

 アラシアの影響が及んでいない西方エウロパにゆくにしても、ここからでは距離が遠すぎる。

 考えながら駆けるうちに草原地帯を過ぎ、山岳地帯の森の中の道に入った。ここでは馬を駆けさせられないから、ゆっくり歩かせないといけない。それ以前に、馬も疲れているようである。

「一旦立ち止って、今後のことをゆっくり考えたいが、どこかいいところはないか?」

 コヴァクスは周囲を見渡しながら言った。

 あたり一帯うっそうとした森の中である。ここはどこになるのだろう。

「さあ。クンリロガンハ一帯はダライアスが押さえておるでしょうから、下手に人里に近づけず……」

 ソシエタスも悩んでいた。

 コヴァクスやソシエタスらもここらあたりの地理には暗い。ダライアスとの戦いの前に、巡回ができればよかったのだが、オンガルリ・マーラニア同盟軍が草原に来たころには、ダライアスは素早い動きで国境のクンリロガンハ一帯をすでに支配下におさめていて、できなかった。

「贅沢は言わん、きこりの山小屋でもあればいいんだが」

 いい加減馬も限界にきているようだ。それとともに、空も暗くなってきた。

「仕方がない。ここで野宿をするか」

 馬をとめ下馬し、改めてあたりを見回すが、あるのはひたすらに木ばかりの森であった。

「近くに山小屋がないか見てきます」

 クネクトヴァとカトゥカが二手に分かれて散策にゆこうとする。クネクトヴァは栗色の髪と瞳の利発そうな少年であり、カトゥカは黒髪もつややかな少女であり。まだ背丈はさほど高くないが、長じればともによく伸びそうである。

「ありがとう、たのむわね」

 ニコレットは下馬すると座り込み背中を木にあずけ、頭を垂れ下げていた。

 涙は止まっているが、心の中ではまだ流れていた。

「くそッ!」

 コヴァクスは木に拳をぶつけた。こみあげる悔しさを抑えることができない。

 みんな兜を脱いで馬の鞍の上に置いているが、さすがに鎧は脱がなかった。脱着に手間がかかり、まだ油断できないこの状況の中では多少重くても鎧を身に着けざるをえなかった。

「誰だ!」

 クネクトヴァの叫び声。はっとして剣を抜き、声の方へゆこうとすると、にわかに赤々と燃える松明の火があらわれたかと思うと。

 周囲を見渡しコヴァクスは歯軋りした。

「囲まれた?」

 アラシアの兵がここら辺で巡回していたのだろうか。そういう危険は承知の上であったが、実際に遭遇すると、ひどく緊張と危機感を覚えるものだった。

「驚かないでください。私たちは旅の巡礼者です」

 クネクトヴァの威嚇の声に怖じてか細い声がささやかれる。

 松明の火とともにあらわれたのは六人。ともに灰色のフードつきのマントコートを羽織っていて。フードで頭を深く覆って、よく顔がわからない。

「旅の巡礼者……」

 コヴァクスらは油断せず剣を構えながら六人をじっと見据え。離れていたクネクトヴァとカトゥカは背中を見せず後ろ歩きをしながら六人と距離をとった。

 コヴァクスらは六人の姿に思わず目を見張ってしまっていた。

「驚かれましたか」

 巡礼者の頭らしき若い男はため息交じりにつぶやく。するとそれに合わせるようにコヴァクスの愛馬・龍星号シャルカーニュチーラグとニコレットの白馬の愛馬・白龍号フェヒエシャルカーニュが荒く鼻息を吐き出す。

 この二頭はドラヴリフトが我が子に立派な騎士になってほしいとの願いをこめて贈った良馬であり、機微に富み乗り手の意図をよく読み取る馬だった。

 六人は二頭をちらりと見て、フードを外した。

 六人は皆黒髪で黒い目をしていて、五人は男で女がひとり。六人とも若くまだ二十代のように見えた。

 しかし、黒髪に黒い目はともかく、顔立ちがあっさりしているというか、彫りが浅く、見慣れない顔立ちだった。

 不審そうに見据えるコヴァクスらを眺めて、ひとり口を開く。

「我らは東方から参った者です」

「東方……」

「はい。アラシアよりさらなる東方にマオという国があります。我らはその国の生まれです」

マオ!」

 コヴァクスらは驚きを禁じ得ない。昴の名は聞いたことがあるが、あまりにも遠く東方のことなので、どこか神話めいたものを感じていた。その昴から来たという旅人が、なぜか目の前にいる。

「話せば長くなります。すこし戻ったところに山小屋がありますから、そこでゆっくりと」

 言われてコヴァクスとニコレットは目くばせして、一瞬ためらった。

 この者たちを信じてよいのかどうか。すると、女ががくっと膝から崩れ落ちるようにして倒れ。ごほごほと咳き込む。


「大丈夫かい? 無理をしてはいかん」

 ひとり身をかがめて背中をさする。

「すいません……」

 言いながら女の咳は止まらない。それを見かねたソシエタスは女のもとまで歩き、

「立てるか?」

 と、手を差し伸べた。

「いえ、騎士さまにそのようなお手間をかけさせ……」

「かまわぬ。早く山小屋で休みたいのだ」

 言いながら女の手を引いて立たせ、抱き上げた。

「それでは……」

 五人は先に立ってコヴァクスらを先導し。しばらく歩けば、なるほど山小屋があった。

 馬を木につなぎとめ、一同は山小屋の中に入り。

 入るやいなや、クネクトヴァとカトゥカがへたり込んだ。

 だらしがないぞ、と咎めるところだが、コヴァクスもニコレットもそうも言ってられず。同じように腰を落として座り込んだ。

 ソシエタスは奥の藁束の上に女を寝かせると、思わず「ふう」と大きく息を吐き出して。それに気づいて恥ずかしげに咳払いをしてごまかす。

 昴の巡礼者らは山小屋のそなえつけのランプに火をともせば、闇が少しだけ光りに払われて。

 薄暗い中、力のない、悪く言えばだらしない騎士たちのうつむく顔が暗がりからすくい出された。

 みんな疲れ切っていた。

「見たところ皆さま名のある騎士であろうかと思われますが、何事があったのでございますか?」

 巡礼者の中の頭らしき男は不思議そうにコヴァクスとニコレットらを見ていた。

 ニコレットの色違いの瞳も珍しそうだ。勘の鋭い者ならそれを見て「もしや」と気づきそうなものだが、さすがに昴ほどの遠方から来た者にはわからないようだ。

「……すまぬが、話すわけにはいかぬ」

 コヴァクスは力なくつぶやくように言った。下手に話をして巻き添えにしてはいけない、という彼なりの心遣いのつもりでもあった。

 なにより、今はとにもかくにも疲れて、なんでもいいから眠りたかった。だから、なぜ昴などという遠方からアラシアをまたいでこの東エウロパ地域になるここまで巡礼の旅をしているのか、という疑問をもつ余裕もなかった。

 すう、すう、という寝息がする。クネクトヴァとカトゥカだった。そのそばでニコレットは紅の龍牙旗の長箱をかかえて壁に背をもたれれて眠っていた。

「大変お疲れのご様子。今宵は静かに眠りましょう」

 そう言うと五人の男たちも思い思いの格好で眠りにつき、わら束の上の女も静かに寝息を立てていた。

 それを見届けてから、コヴァクスとソシエタスも瞳を閉じて眠りについた。

 

 翌朝、日差しが窓の隙間から入り込むのと同時にニコレットは目覚めた。

 腕の中の長箱の感触を確認して、とりあえずの安堵を覚える。

「あなたたち、起きてたの」

 ふと見れば、クネクトヴァとカトゥカは山小屋の扉を開けて、そこで門番のように山小屋を護衛していた。

 眠りもそこそこに目を覚ましてアラシア兵が来たときにそなえているようだ。

 そのかいがいしさにほほえましいものを覚えて、

「ふわあ」

 ついうっかり、大あくびをしてしまった。

 実は横になりながらも目だけ開けていたコヴァクスはその様子をからかってやろうかと思う気にもなれず、無言で上半身を起こせば。続くように目覚めたソシエタスが立ち上がった。

 六人の巡礼者もそれに気づいて目覚めて目を開ける。

「すまない、起こしてしまったか」

 申し訳なさそうに言いながらもコヴァクスは厳しい目つきで六人を見据えた。

 幸いここがアラシア兵に見つかることはなかったが、かといってとどまるわけにもいかない。この六人も巻き添えにしてしまいかねず、少しでも早くここを離れなければいけなかった。

「お目覚めになりましたか」

 言いながら男五人は上半身を起こし、背伸びをする者も。

「何があったのか知りませんが、腹ごしらえをしてからゆかれてもよろしいのでは」

 六人の頭らしき男は大きな袋から小さな袋を取り出し。それを開ければ、干し肉がいっぱいに詰められていた。

「気持ちは嬉しいが、騎士たる者が……」

「まあまあ、固いことを言わず」

 男はコヴァクスに干し肉の入った袋を差し出す。

 どうしよう、とニコレットとソシエタスと目くばせするが、

「いただきましょう。まずは、生きねば」

 ソシエタスがそう言うので、コヴァクスは受け取り、山小屋の外にいたクネクトヴァとカトゥカも呼んで干し肉を分け合って食した。

(情けないが……)

 危機に陥り逃亡の身になり、寝る場所も食うものも事欠く有様になるのかと思っていたが。早々にしてこのようにして人からの恵みを受け取れるとは。

 そのありがたさを干し肉とともに噛み締める。

 おかげで活力を取り戻せ、オンガルリ復興の決意を改めて固めるのであった。

「少ないがこれは礼だ」

 ソシエタスが金貨を一枚差し出す。コヴァクスとニコレットは何も持っていないが、ドラヴリフトから言伝を受けたソシエタスはいくらか備え持っていたようだ。

「ほんと少ないねえ」

 藁束で横たわっていた女が突然そんなことを言って。「何を言うんだ」とコヴァクスらは唖然としてしまった。


「そう言うな、火急のことで持ち合わせが……。ではない! お前たち何者だ!」

 一瞬女の言葉に素直な反応を示したソシエタスだが、様子のおかしさに気づき、咄嗟に山小屋から飛び出て剣を抜けば。同じようにコヴァクスもニコレットも剣を抜き、クネクトヴァとカトゥカもあわてて剣を抜いて。

 五人肩を寄せ合い背中合わせになって円陣を組んだ。それをあっという間に六人は取り囲んでしまった。

 素早い動きだった。弱々しかったはずの女も、今はしっかりと立って、仲間たちと一緒になってコヴァクスらを囲んでいる。

 その動きはただの巡礼の旅人とは思えぬものであり、ではなんなのかというと、

「お前たち、まさかアラシアに雇われた暗殺者か?」

 うかつだったと大きな後悔を覚えた。アラシアが一般人をよそおった暗殺者を使うのではという用心にまで気を回す余裕がなかった。

 だが六人は不気味に笑って、

「違うな」

 と否定するが、殺気が発せられる。その六人の冷たいまなざしには、殺意が込められている。明らかに五人を殺す気だ。しかし、アラシアの暗殺者ではないという。

「そうか、女が病弱であると見せかけて我らを油断させたのか」

 女を山小屋まで運んでやったソシエタスは歯軋りしながら言う。

 最初から大丈夫だと思っていたわけではないが、女は病弱そうにしていたので、そこからつい大丈夫だろうと油断してしまった。疲れていたとはいえ、なんともうかつであった。

「お前たちのことは知らぬが、その色違いの目の女からして、オンガルリの者か」

 ニコレットは背中に紐でしばりつけて背負う長箱の重みを感じながらも、何の反応も示さずに六人と対峙する。

(オンガルリは落ち、こやつらは逃亡の身というわけか)

 主の命を受け、アラシアの支配地域を回り、名のありそうな王侯貴族を暗殺しながらダライアスを追っていたが。とうとうオンガルリを落としたか。となれば、同盟国のマーラニアもあやうかろう。

 というところまで察した。それと同時に思うものがある。

「我ら常に闇にまぎれての暗殺に明け暮れていたが、たまには、太陽の下で堂々と人を殺したくてな」

「なんだと……」

 きのう会ってすぐに手を出さなかったのは、そのためだったのか。

 六人の目のぎらつきが増した。

「御託はいい。ゆくぞ!」

 六人は一斉に飛び掛かった。得物はない。無手でだ。

「おおッ!」

 コヴァクスらも負けじと飛び出し、剣を振い。クネクトヴァとカトゥカはふたり一組で女目がけて駆けた。

「うわ!」

「きゃあ!」

 勇んで飛び出すと同時に、悲鳴があがった。クネクトヴァとカトゥカは、女に拳と足とで弾き飛ばされてしまい、地にころがる。

「なッ!」

 見習い騎士ふたりが弾き飛ばされて驚く暇などない、代わる代わる拳や掌、脚が繰り出されて、それをよけるのが精一杯だ。

 クネクトヴァとカトゥカを弾き飛ばした女は、目をぎらつかせて悶えるふたりを眺めている。その目はとても楽しそうだ。

「やあッ!」

 防戦一方のニコレットであったが、一瞬の隙を見つけて相手に斬撃を見舞う。が、しかし、その剣は両の掌で挟まれてしまった。

「え……」

 掌は剣に強く吸いつくように挟んで離れず、剣を引こうとしてもびくともしない。

「剣を放せ!」

 コヴァクスは咄嗟に叫んだが、遅く、別の者がニコレットの脇腹に蹴りを見舞った。

「ああッ!」

 言われて剣の柄から手を離すと同時に蹴りを入れられて、もろくも吹っ飛び、どさりと地に落ち倒れる。

「ニコレット!」

 別個になっては不利! と、コヴァクスとソシエタスは素早く肩を寄せ合いニコレットのそばまでどうにか動き、相手の攻めをしのぎながらニコレットが立ち上がる暇を稼ぐ。 

 クネクトヴァとカトゥカにも同じようにしてやりたいが、五人がかりの攻めは激しく、身を守る以外の事はできないでいた。

「うう……」 

 クネクトヴァはどうにか起き上がり、よろけながらもカトゥカのそばで剣を構えて女を威嚇する。

「なかなか健気じゃないか。そうじゃなきゃ、殺し甲斐がないというものさ」

 女は不気味に微笑んだ。鼠を狙う蛇のいやらしさというか、若いふたりは思わず女のその不気味さに生理的嫌悪感を感じ取ってしまった。

「はっははは、たわいもない」

 五人はいったん攻めの手を止めた。これらもまた、鼠をいたぶる蛇のようなものだった。

「さぞ名のある騎士であるからには、楽しませてくれようと期待したのだが、とんだ期待外れだ」

「なにい……」

 コヴァクスは歯軋りする。実際相手はあまりにも強い。こんなところで死んでたまるか! とは思うものの、意気込みと実力は必ずしも比例するものではなかった。


「かくなるうえは、じわじわとなぶり殺しにして、ゆっくりと楽しむとしようか」

 女はクネクトヴァとカトゥカをぎらつく目で見据え、舌なめずりをする。若く健気なふたりが苦悶にのたうちまわる様を思い浮かべると、なんとも言えぬ喜悦を覚えるのであった。

(こいつらは何者で、何の技を使っているのか知らんが、こんなところで……)

 まったくもって正体不明であった。はるか東方、大陸の地の果ての帝国・マオ。その名を聞くだけでも神話めいたものを感じるほどに遠さを感じ。その神話の中の悪神に飲まれようとする。 

 その時であった。

「おやめなさい」

 という声がどこからかした。

 六人ははっとして、声の方を向けば。その視線の先、山小屋の屋根の上にいつの間にいたのか、女がたたずんでいるではないか。

 それは白い衣を身にまとい。背中まで伸ばした黒髪に、六人を見据える黒い瞳に、なめらかながらも整った目鼻立ちをして。太陽を背にし、陽光がまるで後光のように射していて。

 さながら天上界から女神が降臨したのかと思わせるほどの神々しさだった。俗な言い方をすれば、それはとても美しかった。

 この場にいながら、コヴァクスは思わず見惚れてしまうほどだった。

「……」

 目が合った。

 どこか悟った風ながら凛として、黒い瞳の中に吸い込まれそうなものを覚えざるをえなかった。

 そうかと思うと、女が宙に浮いた。跳躍したのだ。

 白い衣は風になびいて、まるで白い花びらが風に舞っているかのようで。音も立てずに、地に降り立った。その間、六人は石のようにかたまったままだった。同じように、コヴァクスらもかたまってしまって、カトゥカは起き上がるのを忘れてしまうほどだった。

「ロンフェイ、うぬは……」

マオに逃げたと思っていたのでしょう? いいえ、ずっとあなたたちをつけていたわ」

「な、なに!」

 六人が驚愕する。この、たったひとりの少女を、六人は恐れているようであった。

「あなたたちが殺してきたのは、悪逆なアラシアの支配者ばかりだから見逃してきたけれど……」

(なんだって……)

 会話を聞いてコヴァクスらは心臓が飛び出そうなものを覚えた。アラシアのどこか知らないが、アラシアの支配者、つまり王侯貴族のたぐいを暗殺していたなど。どのくらい暗殺したのがわからないが、いくらか騒ぎになっているのではないか。

 などと考える余裕があることが不思議でもあった。この白い衣の少女があらわれてから、不思議にも、コヴァクスの心に余裕が生まれた。

「おのれ!」

 ひとり、だっと駆け出し少女に襲いかかった。

「よせスーフー!」

という制止の声がしたが、スーフーと呼ばれた男は聞き入れない。

 強烈な拳の突きが少女の顔面に迫る。これを受ければ端正な鼻柱はへし折られるばかりか、顔面が陥没しかねない。

 だが、少女は顔を少しそらしてなんなく拳をかわした。

 まだまだと、今度は強烈な蹴りが繰り出されるが。脚は風を切るのみ。

 気がつけば、少女は宙を舞って相手の頭上まで飛んでいた。ともに目にも止まらぬ早さであるが、少女のはそこに驚異的な跳躍まで加わっていた。

 その顔には焦りの色など微塵もなく、まるで蝶が風に遊んでいるかのような優雅ささえ感じさせた。

 スーフーは今度は足をつかもうと手を伸ばしたが、少女の足は素早く動きつま先で手を挟み込んだ。そうかと思えば、背面宙返りをし、手を挟まれたスーフーは釣られた魚のように持ち上げられて、ぽーんと宙に放り投げられた。

 宙返りをして、何事もなく着地すると。少し遅れてスーフーが地面に叩きつけられてしまった。

 あれほどの技の遣い手であるにもかかわらず、受け身を取れず背中をしたたかに打ちつけてしまった。

 それと同時に、

「ぐえ!」

 という蛙がつぶれたような鈍い悲鳴がしたかと思うと、白目をむいて痙攣して気絶するありさまだった。

「なんと!」

 のこる五人はコヴァクスらからはなれてひと塊になり少女にそなえた。

 コヴァクスらは、ただ唖然とするばかり。

(パンクラチオンではない……)

 西方エウロパにおいて文明発祥の地とされるグレース地域にはパンクラチオンという格闘技があり、コヴァクスらも心得はあるが。この六人やロンフェイと呼ばれる少女のつかう体術はあきらかにそれとは違うものだった。

 いったいこの者たちは、何者なのか。

「ええい、退け!」

 その言葉が発せられるや、ひとりがスーフーなる者をすばやく担いで、六人は逃げだした。しかし少女は追わず、背中を見送るのみ。

 ほとばしる殺気も絶望感も消え、あたりは静寂に包まれる。

 少女はコヴァクスを見つめた。しかし何かを言うでもなく、そのまま背中を見せてると歩き出す。

「待ってくれ、君は何者なんだ」

「……。縁があればまた会えるでしょう」

 にべもなく、少女は駆け出す。風に乗るかのように、軽やかに。白い衣は風に遊ぶかのように軽くはためく。

 その風の破片を頬に受けているような錯覚を覚えながら、まるで白い妖精でも見るかのような不思議な気持ちを感じながら、コヴァクスは背中を見送った。 

 

夢を見る


 取り残されて、いまさらながら、自分たちはまだ生きていることを知った。

 コヴァクスは少女の消えた方を見つめていた。

 木につなぎとめていた馬がいなないた。

「ぼやぼやするな!」

 そう人間にさとしているようにも聞こえて、みんなはっとする。

 カトゥカは手助けなしに起き上がれて、ほっと一息つけば、クネクトヴァも思わずつられてほっと一息ついてしまった。

「もうだめだ!」 

 声にはどうにか出さなくても、心の中ではそんな叫びがこだましていたのだった。

「お兄さま」

 あらためて意を決したようにニコレットは言う。

「南へゆきましょう」

「南、ヴーゴスネアか」

 言われてコヴァクスは頭の中で考えを巡らせる。

 オンガルリ・マーラニア両国の南はかつてヴーゴスネアという国があったが、アラシアの侵攻を受けて滅び、国土はいまはアラシアの支配下に置かれている。そのさらに南方にグレースはあった。

 それは国名ではなく、地域名であった。

 グレース地域は南の海へ張り出した半島でもあるが、その半島の中にはいくつかの独立した都市国家ポリスが領土を分け合っていた。

 兵も強く、それにともない独立心も強く、都市国家ポリスは同盟し、互いにアラシアの侵攻を長きにわたり跳ね返してきた。

「……。どう思う、ソシエタス」

「そうですな……、私も小龍公女のご意見に賛成です」

「その考えを聞かせてくれ」

「欲を言えばマーラニアにゆきたいところですが、おそらく陰謀の魔手が伸びておるでしょうから、大変危険です」

「しかし、グレースまでゆくのも危険ではないか?」

「さきほどの会話を聞きましたでしょう。アラシアの支配者が暗殺されていると。おそらく、旧ヴーゴスネア地域の支配はさほど強くないのでは、と」

「なるほど……」

 思い出すのも屈辱的ではあるが、あの六人は強かった。少女があらわれなければ、なぶり殺しにされていたかもしれない。それらがアラシア人を暗殺していたのはうそではあるまい。

 何が起こっているのかは知らないが、旧ヴーゴスネア地域では反アラシアの気風が強まってなんらかの抵抗もあるかもしれないし。旧ヴーゴスネアの反アラシア勢力と出会い、そこでなんらかの行動も起こせるかもしれない。

 どの道をゆくにせよ危険はさけられぬが、獅子身中の虫を警戒しなくてもよい分、ニコレットの考えを聞き入れたほうがまだましなのかもしれない。

 内から陥れられる獅子身中の虫ほど恐ろしいものはないというのは、いやというほど思い知らされたから、なおさらだった。

 ともあれ、南にゆき、反アラシア勢力と手を組む。その方針でゆく腹が決まった。

 それぞれ愛馬を木から解き放って騎乗し、南の方角へと駆けた。

 さっきまで死にかけたことに心が囚われるような暇などない。

「この命あらば、ただゆけよ」

 コヴァクスはそうつぶやいて自分に言い聞かせた。しかし頭の片隅に、あの、白い衣の少女の残影が残っているのは自分自身にも秘密だった。


 クンリロガンハ地域を移動し、旧ヴーゴスネアとの境を目指す。幸いにというか、オンガルリと旧ヴーゴスネアの間にそれほど高く険しい山はなく移動はしやすい。それはアラシアにとって侵攻のしやすさでもあったが。

 甲冑をまとった身の五人が馬を駆るのは目立つから、なるべく人目につかぬようにするのもまたひと苦労であった。

 また季節も秋であり、昼はともかく夜は暗くて寒く、身も心も暗さと寒さに飲み込まれてしまいそうだった。なにより、食べるものに困った。まさか集落に買いにゆくわけにもいかない。ましてや盗みなど騎士としての矜持が許さない。

 だから日頃の野外訓練でつちかった手法――鳥やうさぎをとらえる。食べられる木の葉や実を見つける――でもってどうにか飢えをしのいでいた。

 しかしそれは思った以上に過酷で、気力も体力もおおきく奪われる。雑草でもおいしく食べられる馬がこのときほどうらやましいと思ったことはない。

 訓練ならばいずれ終わるが、これは訓練ではない。

「こんな調子で大丈夫なのか……」

「小龍公、気持ちを確かに」

 先が見えないいらだちから、コヴァクスは思わず愚痴が出て、それをソシエタスがなだめる。

(やはりまだお若い)

 若さゆえもあるだろうが、コヴァクスは龍公ドラヴリフトの子として比較的恵まれた育ちだった。いかに苦難を覚悟していようとも、それは想像をはるかに超えたもので、己の覚悟がいかに足りないものだったかも痛感させられるのだった。

 ニコレットもふんばってはいるが、時折、

「ああ……」

 と、深い憂いを含んだため息をもらす。

 年長のソシエタスはそんな兄と妹を精神的に支えなければならなかった。が、ついにコヴァクスはこらえきれずに爆発した。

 平地を避けなるべく人のいない山道を進んで。途中小休止しているときのことであった。

「ええい、こんなまどろっこしいことをしてなんになる! かくなる上はルカベストを目指して……」

「目指してどうするのですか」

「意地を見せて斬り死にするのだ。なるだけ道連れを連れて!」


「馬鹿な」

「馬鹿とはなんだ!」

 荒れるコヴァクスはなだめるソシエタスに迫った。ひとつ間違えば剣を抜き斬り捨ててしまいそうなほどである。

「お兄さま、お気を確かに」

 内心ニコレットも荒れていたのだが、先に爆発したコヴァクスを見てにわかに正気に戻った。

 クネクトヴァとカトゥカはいったんは驚きすくんだものの、勇気を出して、ソシエタスの横に並んで一緒になだめる。

「小龍公、どうか落ち着いてください」

「だまれ小僧!」

 コヴァクスの拳がクネクトヴァの頬をしたたかに打った。

「見習いの分際でオレに指図するな!」

「いけません、お兄さま!」

 一発で物足りず、起き上がろうとするクネクトヴァにさらに迫ろうとする。そこにニコレットとカトゥカが手を広げて立ちはだかる。

「いてて……」

 と言いそうなのをこらえて、クネクトヴァは痛みに耐えていた。

「なにが小龍公よ、がっかりだわ!」

 荒れるコヴァクスを睨んで、カトゥカが叫び。そばのニコレットは驚き、冷や冷やする思いだった。

「なんだと。その口のきき方はなんだ!」

「知らない。私の主はマーラニアのアルカード様。アルカード様に言われなければ、誰があんたなかと!」

「ならば主のもとにゆくがよい!」

「だめお兄さま!」 

 ぶち切れたコヴァクスは剣の柄に手をかけ。恐慌をきたしながらもニコレットは兄にしがみつき動きを止め。ソシエタスも「これはいかん」とコヴァクスの肩に手をかける。

「あッ」

 カトゥカの悲鳴が響く。

「小龍公に謝れ!」

 クネクトヴァだった。自分をかばったカトゥカを平手打ちしたのだ。

 信じられない思いでカトゥカは半泣きの目でクネクトヴァを見据える。同時にコヴァクスがニコレットの手を離れて突然倒れ。ソシエタスは拳を握りしめて、肩で息をしている。

 肩に手をかけて自分の方に振り向かせるや、その顎に拳を食らわせ気絶させたのだ。

「小龍公、申し訳ありません」

 ソシエタスも自分がしたことはわかっている。この場を鎮めるために、やむをえなかったのだ。

 途端にニコレットが崩れ落ちる。張り詰めていたものが切れ。色違いの瞳から涙がとめどもなく流れ落ちる。

(重すぎる試練ではある……)

 ソシエタスも何も言えない。

 いかに厳しい訓練をつんだとて、それは国に、父に守られたうえでのことである。その守りから外されてしまって……。

(皮肉にも、低い身分の見習い騎士の方がこの緊急時に強いとは)

 クネクトヴァもカトゥカも、その甲冑の出来を見ればそれほど出来のよいものではなく、身分の低さをうかがわせた。それでもアルカードがそばに置いていたということは、将来性を買ってのことのようだ。

(しかしいかに重い試練だとて、逃れることはできぬ)

 逃げようと思えば逃げられる。しかしオンガルリの小龍公、小龍公女としてアラシアから追われることは避けられず。みじめな浮浪者として、まだまだ長い人生をおびえながら過ごさねばならない。が、まずは追跡から逃げ切れることはないだろう。

 結局、選択の余地はない。

 なまじ高貴な家の生まれであるために。

(国や身分など、儚いものだ)

 ということを、ソシエタスはしみじみと感じていた。

「ふう」

 ソシエタスまでがため息をつきどかりと座り込んだ。さすがに力が抜けた。

「すまないが、何者かが来ないか見張ってくれないか。小龍公と小龍公女はオレが見るから」

「わかりました」

 すぐに返事をして動き出そうとするクネクトヴァだが、カトゥカはかたまったままだ。

「カトゥカ、ごめんよ……」

 その言葉を聞き、カトゥカは涙をぬぐって頷いて、それぞれ馬に乗って見張りにゆく。

「小龍公女、みっともない姿を見せてしまいますが……」

 打ちひしがれるニコレットを横目に仰向けに大の字になって横になった。コヴァクスは目を閉じて眠っている。

 空は青い。いい天気だ。逃亡の身でなければ、雲を道案内に心ゆくままに旅をするのだが。

(しかし、なんとかせねば)

 旧ヴーゴスネアにゆき、反アラシア勢力と合流するといっても、ただ行くだけでは身も心も持つまい。何かいい考えはないかと、ソシエタスは思案を巡らす。

 

 コヴァクスは気がついて、目を開けてみれば。

 誰もいない荒野にひとり。

「ここはどこだ」

 立ち上がって周りを見渡しても、ただ荒野が広がるばかりで何もなければ誰もいない。

「小龍公!」

 突然大声で呼ぶ声がするが、声が聞こえるばかりで人の姿はない。

「なにが小龍公だ」

 あからさまな嘲りの声がこだまする。

 それは何度も何度も繰り返しこだまする。

「誰だ!」

 素早く剣を抜いた。と思ったら手ごたえがおかしい。なんと剣だと思って握っているのは、木の枝ではないか。

「はっはははは……」

 侮蔑をふんだんにふくんだ嘲笑がこだまする。木の枝を放り投げ、思わず耳をふさぐが、笑い声をさえぎることはできなかった。

「やめろ、やめろ、やめろおー!」

 声を大にして叫んだはずだが、声が出ない。どんなに声を出そうとしても、出せなかった。

 どすん、どすんとにわかに地響きがする。地震かと思ってみれば、なぜか目の前に巨大な淡紅色の象がいて、コヴァクスを怖い目でにらんで。まるでうさぎを狙う獅子のようだ。

「なッ!」

 巨大な足の裏が頭上にあって、踏みつぶそうとする。動くことができなかった。

「もう会えないわね」

 声にならない悲鳴を発したかどうか自分でもわからないが、ふと、聞こえる言葉。

「君は……」

 あの白い衣の少女が、冷たい目でこちらを見つめていた。

 淡紅色の象の足が、コヴァクスを踏んだ。


「うわあッ!」

「小龍公!」

「お兄さま」

 コヴァクスの目がかっと開かれるとともに、上半身をがばっと起こし、はあはあと肩で息をする。

「お兄さま、うなされていましたわよ」

「……」

 心配そうに見つめるニコレットとソシエタス。

 顎に一撃を食らって気絶をして、悪い夢を見た。

 心配そうなニコレットとソシエタスと目が合って、コヴァクスはまた仰向けに横になって、

「ふう」

 と、大きく息を吐き出す。

「カトゥカの言う通りだ」

「……」

「オレは甘えん坊だった。殴ってしまったクネクトヴァにも、悪いことをしてしまった」

 ソシエタスは気絶させたことを謝ろうと思っていたが、言いそびれてしまったが、コヴァクスは気にしていないようなので、無理に言おうともしなかった。

「なんとかしないと」

「え?」

「ただ、行く。というのではだめだ、何か工夫をしないと」

 なにかしらの工夫をせねば、野垂れ死にだ。

 なにかいい案はないかと、コヴァクスなりに思案し。「あッ」と声を出す。

「そうだ、商団にまぎれよう」


サロメ


「商団に?」

 ニコレットは色違いの瞳を丸くする。

「どうだ、ソシエタス」

「ふむ……」

 悪くはない考えではある。無理をせず助けを受けるのは、大事なことだ。むやみな精神論は、最後は自滅しかない。

「ただ、商団といってもいろいろありますからな」

「金、だろう」

「まあ、まずは金ですな」

「剣まではやれぬが、鎧兜をやれば協力してくれるんじゃないか?」

「お兄さま、本気なの?」

 いま身に着けている鎧兜は父から与えられたものであり、それはまた国から、王から賜ったものでもある。それを、商人に与えるというのは、騎士として抵抗があった。

「本気だ。いまは生きて志を果たすことが大事だ。騎士の誇りにこだわりすぎても、意味がない」

「ただ、見方によっては、我々はよい商品でもありますぞ」

 商団の商人たちが悪心をいだいて、自分たちをアラシアに売り飛ばそうとすることもありうる。そうなれば一巻の終わりだ。

「それならば、アラシアに売るよりも手元に置いた方が得だと思わせるのだ」

「ほう、どのように?」

「それは……」

 一旦間をおいて、

「その時に考える」

 と、気まずそうに言った。ニコレットは呆れ、ソシエタスは苦笑する。

 しばらくして、クネクトヴァとカトゥカが戻ってきた。

 コヴァクスは立ち上がり、

「すまなかった」

 と、丁重に詫びた。

 突然の変化にとまどったふたりだが、コヴァクスがもう落ち着いているのを見て安堵を覚えたようだった。

 それから自分の考えを伝えると、きょとんとしていたが、他に思いつくいい方法もなく、

「わかりました」

 と、ふたりならんで返事した。

 話が決まれば早くせねばと、コヴァクスは愛馬・龍星号シャルカーニュチーラグにまたがり、ニコレットも続いて白龍号フェヒエシャルカーニュにまたがり、ソシエタスらも愛馬にまたがり、山道をくだり大通りを目指した。

 少々強引な進め方ではあるが、ものはためしである。

 で、広い大通りの端っこで商団が来るのを待ったが、人生不思議なもので、待っているものはなかなか来ない。

「クンリロガンハのあたりはダライアスがよく治めて、商団の行き来も活発だと聞いていたんだがな」

 気まずそうにコヴァクスはみんなに言い訳をしてしまう。

 もう陽は落ちようとして、影も伸びる。

 というときになって、やっと商団らしき集団が見えた。

「やっと来たか!」

 いいかげん焦れていたコヴァクスは、「お待ちを慌ててはなりません」という声を無視して龍星号を駆けさせてしまった。

「もうほんとに、お兄さまったら」

 走り出したら止まらない性格はわかっていたが、ここまで短慮とは。やむなくみんなで追いかければ。

 商団の目前まで迫ったコヴァクスに対し、

「なんでてめえは!」

 という怒号が飛ばされる。それに対して、いろいろ言っているみたいだが、怒号が大きくてよく聞こえないが、「話を聞いてくれ」というようなことを言っているのかもしれないが、聞いてもらえそうにない雰囲気である。

 商団といってもおとなしい商人ばかりの集まりではない。神話の世紀より戦争の絶えぬ大陸の文明交差点を縦横無尽に駆け巡っているのであり、それなりの備えはしてあって。

 商品を満載した馬車や荷車の周囲の者たちは剣を抜いたり槍を握ったりして、臨戦態勢をとっている。

 突然現れ前に立ちふさがられては、誰だってそうなる。

「お前たちに危害を加えるのではない、まずは話を聞いてくれ」

 そう言うコヴァクスの後ろからさらに仲間たちが来て、商団の商人たちはますます警戒する。警戒しながら、その装いをまじまじと見やる。

「こいつ、オンガルリかマーラニアの騎士か」

 誰かが言い。コヴァクスはすかさず「その通り!」と正直にこたえた。

「あっはははは」

 途端に闊達な笑い声が聞こえる。それは凛としながらも澄んだ声で、あきらかに若い女の声だった。

 商団の後方から馬を進める者があった。それを見て、コヴァクスは思わずうなった。

 さっきの笑い声の主だろう。長い黒髪を頭の後ろでまとめ、そこから一直線に背中まで黒髪が垂れ下がって。風に泳ぐように軽やかにゆれている。

 肌は白く目つきは鋭く光り、鼻も高くやや厚めの唇の端でえくぼがつくられて、唇の右端の下にはほくろがあった。

 豪奢な黄金の首飾りで飾られた首から下といえば、肌の露出が多く。長い紅い布をよく膨らんだ胸に巻き、あまった分は髪と一緒に腰にたれるにまかせて。その腰から下は紅いスカート、腰から縦にに切れ目が入り、白い太ももにふくらはぎと同じ紅いサンダルが見えた。

 胸と腰の間は胸と腰とは対照的にほそくくびれて、へそも恥ずかしげにさらしている。という、なんとも大胆な格好で、見ているこっちが照れくさくなる。それと同時に妖艶な女の色香をふんだんに遠慮なく撒き散らしている。

「オンガルリとマーラニアの騎士。落ち武者かい?」

 聞かれたくないことをずばりと聞かれた。クンリロガンハ草原の悲劇から数日たっているので、旅の商団の耳にも入っていてもおかしくはない。

 とはいえ、美しさも相当なものだが、それ以上になんとも図太い女である。

 それより、女が前に出てきた途端に、いかつい商人の男たちはおとなしくなった。これはどういうことであろうか。


 何か言おうとしながら声が出せないコヴァクス。女はそれをおかしそうに眺めながらも、コヴァクスとの距離を縮める。

 商人たちは警戒のまなざしを送り。なにかあれば一斉に襲い掛かれるよう身構えている。

 後ろに控えるニコレットらはことの成り行きを見守りながら、平静を装いつついつでも剣を抜けるように心得る。

 そんなニコレットの色違いの瞳に女の視線がそそがれた。

 女の騎士。しかも色違いの瞳。愛馬は白い。

「まさか、オンガルリの小龍公と小龍公女だと言うんじゃないだろうね」

「そうだ、オレは小龍公コヴァクス。この者は妹の小龍公女ニコレット!」

「あっはははは」

「なにがおかしい!」

「さきの戦いで龍公ドラヴリフトと盟友アルカードは討たれ。小龍公と小龍公女は恥知らずにも逃げたと聞いているよ。どんな恥をかいたのか、聞かせてくれると言うのかい」

 本気で信じていないようである。無理もない話ではある。しかし、そんな話が出回っているとは。

 無理もないが、不本意なことでもあった。

(ああ、しまった)

 コヴァクスは苦々しいものを覚えた。商人というものを、なめていたようだ。そんな不安はニコレットらも覚えていた。

「姐さん、こんなわけのわからねえ奴ら、やっちまいましょうや」

 得物を手に商人たちは鼻息が荒い。今までの旅で商品を狙われて襲われたことは何度もあった。それをそのたびに返り討ちにしてきた。だから今もこうして商売ができているのだ。つまり、彼らは百戦錬磨の玄人と言ってもいい。

 それより、今何と言った? 姐さんとうやうやしく呼んだ。それはどういうことなのか。

 ともあれ玄人ならばこそ、コヴァクスやニコレットたちの技量もある程度は見抜いた。

「おっちょこちょいなところもあるが、剣の腕はそれなりにありそうだな、小龍公殿」

 女はコヴァクスの目を射抜くように見据え、不敵な微笑みを浮かべている。それよりも、コヴァクスを小龍公殿と呼んだ。

「オレが小龍公コヴァクスであると、そなたは信じてくれるか」

 そう言った途端、女の腕が素早い動きを見せたと思いきや、閃光が走り。すわやとコヴァクスは抜剣し、火花が散って、閃光を受け止めた。

 女の右手にはいつの間にか短剣が握られいて、それでコヴァクスに斬りかかったのだ。ニコレットやソシエタス、クネクトヴァとカトゥカは咄嗟に剣を抜き。商人たちも数歩進み出て、それぞれ対峙する。

「お姉さまのジャマダハルを止めるなんて。こいつ、やるわ……」

 ぽそっと、つぶやきが女の声で漏れる。もうひとり女がいた。男ものの服を着て、徒歩立ちで、黒髪を首の後ろで切りそろえて。その短い髪形のため、少年のようにも見えた。

「なにをする」

「ふふ、ちょっと、腕試しをね」

 交差する剣を挟んで互いに睨み合い。女は片目を一瞬つむって見せて、すぐに離れた。離れる直線、心地よいにおいが鼻をなでた。

 短剣・ジャマダハルを片手に馬を操り、馬術もそれなりのようで。戦場においても本職の将兵におくれを取るまい。

 そのジャマダハルという短剣はふつうのものとはつくりが違って、その握りは刀身とは垂直に、鍔とは平行になり、手に持つと拳の先に刀身が来る様なつくりになっていた。

(あの短剣、ジャマダハルはたしかアラシアのさらに東方、インダウリヤのものでは)

 ニコレットは古今東西の兵法についてが書かれた兵書で読んだことがあるような、薄い記憶を頭の奥から引っ張り出して、その珍しい短剣に思いを巡らせる。

 ということは、この商団の活動範囲はアラシアにとどまらず、それは気の遠くなるような距離の長旅をしているということか。

「おもしろいことになったわね……。私の名はサロメよ。私たちに何の用かしら?」

「わけあって、同道させてもらおうと思っていたのだがな」

「まあ」

 サロメは闊達に笑った。いつの間にかそばに来ていた少女が馬上のサロメを見上げている。

「お姉さま、こんな奴ら、やっちゃいましょうよ」

「まあ待てペロティア。これは面白いことになってきた。神のおぼしめしかもしれないよ」

「神のおぼしめし?」

 少女ペロティアや商人たちがぽかんとするのをよそに、サロメは不敵な笑みを浮かべて言った。

「いいよ、一緒にいたければいさせてあげるわ」

 ペロティアや商人たちは言うにおよばず、言われたコヴァクスたちまであっけにとられてしまった。


 さてダライアスである。

 クンリロガンハの草原で変異を素早く察し、まっしぐらにオンガルリの都ルカベストを目指し。これを掌握し。ついに、レドカーン一世が建国してから七十五年つづいたオンガルリ王国の歴史に終止符を打ち、アラシアの一州にするにおよぶ。

 ルカベストを掌握し厳戒令を布き、厳重に警備し。その一方でかつての女王ヴァハルラの書による書簡を「旧」オンガルリ各方面に配布し、アラシアの支配の周知を徹底した。


 王は正気を失い幽閉され。女王は降伏を決め。

 王城は都ルカベストにそびえるオンガルリ王家の王城ではなく、アラシアの一州にある支城となった。

 支城となった王城には、旧オンガルリの貴族が詰めかけ。レドカーン二世に代わって王座に座すダライアスに跪いてアラシアへの忠誠を誓った。それと同時に、あらん限りの金銀財宝がダライアスの目の前に並べられて。そばのヤースミーンと警護のイムプルーツァとその侍女パルヴィーンは思わず出そうな大きなため息をこらえて、その輝きに目を見張った。


 ダライアスは貴族の差し出した金銀財宝を目にして。一旦目を閉じたかと思うと、かっと目を見開き。

 王座から立ち上がり、剣を抜いたかと思えば大股で貴族たちのもとまで歩きだし。悲鳴が響き渡る中、剣で貴族たちをめった斬りに斬り殺してゆく。

 あふれる血は王の間のカーペットや床を赤く濡らし。金銀財宝にまで飛び散り。

 赤い血の飛び散った金銀財宝を蹴飛ばし、目いっぱいの力で踏みしだいた。


 そういう場面が、脳裡に閃き。実行しないようにするために、拳を強く握りしめていた。

(貴族がこれらを得るために、どれほどの民衆が搾取されたのかしら……)

 そう思うと、ヤースミーンの胸が痛む。

 イムプルーツァにパルヴィーンも、貴族をあからさまな軽蔑のまなざしで見る。

 オンガルリに赴くにおいて多少の歴史は学んだが、建国当初は善政が布かれ国も活気に満ちていたというが、今は、そんな印象は受けなかった。

(龍公ドラヴリフトは勇士であったが。レドカーン二世のような愚王のためにその勇気を奮うとは)

 内心はどうあれ、そうせねばならぬ宮仕えというものを、アラシア大王クゼラクセラの子であり獅子王子アスラーンの称号をもつダライアスは考えた。

 ドラヴリフトの勇気が嫉妬を生み、さらに陰謀を生み、自らを死に追いやったとは。これを悲劇と言わずしてなんと言おう。

(できれば死なせたくなかった)

 盟友アルカードもふくめて、音に聞こえし勇士である。できるならば、配下にくわえて協力を求めたかった。

 これから大王への報告をし、沙汰を待たねばならぬ。その間支配を強めなければならない。が、まずすることがある。

「聞けばドラヴリフトの妻も、レドカーン二世に殺されたのだな」

「はい、そうです」

 すこし違うが、殺したといっても差し支えなかろうと貴族は「そのとおりでございます」とこたえた。

「ならば、その妻もふくめ、クンリロガンハの地にて死した勇士たちを手厚く弔い、魂に安らぎを与えたい」

「なんと」

 貴族たちは驚いた。敵にそこまでするのか、と。

 そんなことは歴史書や戯曲の中だけのことだと思っていたのに、そんな奇特な者が実在することに驚きを隠せなかった。

 その驚きように、思わずダライアスは眉をしかめそうになった。

(所詮はイカンシのつながりだ)

 イカンシが陰謀を張り巡らし、オンガルリの貴族を抱き込みドラヴリフトを孤立させていったのは調べがついている。だからこそ、それをそそのかしたのだが。

 だから、イカンシの死を悲しんでいる者は誰もいなかった。

 その家族は哀れなものだった。妻や子に、抱えていた愛人一同イカンシの死を知るやこの世の終わりのように嘆いて。それはイカンシが死んだから悲しいのでなく、媚びを売ってでもイカンシを利用して生きていて。その利用するイカンシがいなくなって、これからどう生きてよいのだろう、という嘆きであった。

 無用の混乱をふせぐために、一応それらも監視しながら保護してはいる。

 ともあれ、ダライアスの命により、ドラヴリフトらクンリロガンハで死した勇士たちの葬儀が執り行われることになった。

 それとは別にもうひとつ、気になることがある。

 降伏をうながすためにマーラニアに使者を送っているのだが、帰ってこないのだった。


 ダライアスが征服した旧オンガルリの支配に心を砕いているとき。コヴァクスらはサロメの商団と一緒になって、南西に国境を越え、アラシア領内、旧ヴーゴスネアのリジェカ地方に入った。

 西方の大帝国マーレが滅びてからエウロパは様々な国に分裂したが、その東方に位置するヴーゴスネアもマーレから分離独立した国のひとつであった。

 南に都市国家ポリスひしめくグレース、東に大国アラシアと接し。つねにアラシアからの侵攻に遭っていたが、二十年前についに滅ぼされてしまった。

 国境を越えリジェカ地方に入ってすぐの町に逗留し、そこで商売をすることになった。

 甲冑を脱ぎ商団の商人と同じ質素な服に着替えたコヴァクスらは、宿の中でサロメに、

「うかつに外に出るんじゃないよ」

 と言われて、あてがわれた部屋で休んでいた。というか、休まされていたというか。

 宿の部屋はこれまた質素なもので、いままで自分が暮らしていた部屋とは比べ物にならない。が、日差しはよく。窓からさんさんと陽光が降り注ぎ部屋は明るかった。

 部屋に閉じこもるのは好きではないが、うかつに外に出てアラシアの兵士にぶち当たれば面倒なことになるから贅沢は言えない。

 コヴァクスはベッドに仰向けになって横になって、組んだ手の上に頭を乗せ、ふとふとふるさとを思い浮かべていた。

 ふるさとはヴァラトノといい、ヴァラートネ湖という広い湖があった。

 都ルカベストの南西百三十キロに位置し、クンリロガンハ地域のすぐ北の位置で。

 先祖代々このヴァラトノ地域を治めていた豪族だった。


 薄汚れた天井をぼおっとながめながら、脳裡に浮かぶふるさとの景色。

 ヴァラートネ湖は生命の源になる水を山々から注ぎ込まれて。さまざまな生命が湖を慕い住み着くようになった。人もまた例外ではなかった。

 ヴァラトノという地名は湖からとられた。

 その湖に、蒼き狼と白き牝鹿の夫婦が東方より来て、郷里の大湖ヴァイカレにちなみヴァラートネと名付けた。という伝説があり。それがコヴァクスら、マジャクマジール族の先祖であるとされる。

 老臣マジャックマジルの名は民族名からとられた。

(あの口うるさいじいさんは、今何をしているんだろうか)

 物心ついてから、口うるさいじいさんことマジャックマジルの厳しい指導を受けてきたものだった。

 その一方で蹴球が好きで、よく球の蹴り方も教わり。おかげで貴族の子息たちの参加する蹴球の競技大会では好成績をおさめることができ。仲間から魔術師マギア・コヴァクスとまで呼ばれたものだったし、マジャックマジルもたいそう喜んでくれた。

「なんだかんだで、よくなついていたなあ」

 長じて妹のニコレットとともに、父に従いアラシアとの侵攻と戦うようになった。が、戦場で戦うよりも蹴球の競技がやっぱり楽しいし、好きだった。

「志を果たせたら、また蹴球技をやりたいな」

 ぽそっとつぶやいて、目を閉じた。その途端のことだった。

 だん!

 という大きな音がして、何事かと思い起き上がれば。丸い球が床に転がっていた。どうも窓から飛び込んで壁にぶつかったらしい。

「おーい、球とってくれー」

 という声がする。窓から外を見れば、網の張られた二本の木の棒が庭の両端に建てられている。

 商団の商人たちと町の少年らが蹴球の競技をしているようだった。

 サロメも相変わらずの肌の露出の多いきわどい服装で、蹴球の競技を観戦していたようだ。

「……」

 コヴァクスは球を拾うと、外に投げずに、それを持って外に出た。

「ちょっとコヴァクス、うかつに外に……」

 サロメが言うのも聞かずに、コヴァクスは球を落としたかと思うとつま先で蹴りだし。転がる球とともに駆け出した。

「やろうっての、面白い!」

 ペロティアだった。コヴァクスの左方向から迫り、脚を突出し球を奪おうとするが、それをひょいとかわし。網に向かって猛然と、球とともに駆け。球をもっていないペロティアよりも速かった。

「うまい、球が脚に吸い付いているみたい……」

 網の前にひとり守備が立ちはだかり、

「よしこい!」

 と乱入したコヴァクスの挑戦を受けて立つ。それもかまわずに、狙いを定めて目いっぱい球を蹴れば。

 球は楕円を描くように宙を飛び、守備は飛び跳ねて手を伸ばして球をとめようとするがその指先をかすめて、網は揺れた。

 着地した守備は落ちた球を茫然とながめて、他の者たちも同じように技の巧みさに舌を巻いた。

「どうだ!」

 思わずコヴァクスは拳を突き上げた。伊達に魔術師マギア・コヴァクスと呼ばれたわけではない。

「おめーすげーな!」

 商人や少年たちがコヴァクスのまわりにあつまって、取り囲んでやんやの喝采を送る。

「なにさ、一回くらいでいい気になってんじゃないわよ」

 ペロティアはむくれて、腕を組んで様子を見ていたサロメのそばまで来て、コヴァクスを睨んでいた。

 成り行きで同行させたコヴァクスたちであったが、思わぬところで商人たちの心をつかんだことを、サロメはひそかに喜んでいるようだ。それこそ最初は「いいんですかあんな奴ら」と文句を言っていたのが、今はどうだ。

「ねえ、もう一回やろう!」

 少年たちはコヴァクスの技がまた見たくて、蹴球の競技を再開させようとする。

 取り囲まれるコヴァクスはやや照れ笑いを浮かべていたが、サロメの視線に気づき気まずい思いをする。なにかあってはいけないから、うかつに外に出るなと言われていたのに、蹴球がしたいがためにのこのこと外に出てしまった。

 騒ぎは宿の中にも届き。何事かと窓からニコレットにソシエタス、クネクトヴァとカトゥカが覗き。

「もうお兄さまったら」

 あきれてニコレットは頭を抱えていた。

 商人や少年たちがわいわいはしゃいでいて、他の泊り客や宿の主も何事かと覗いていた。ということは、宿の外にも騒ぎはもれているかもしれない。

「いいよ。気晴らしになった?」

 サロメはとがめず、コヴァクスに笑顔を向ける。

「はいはいみなさんお騒がせしましたね。ごめんなさいね」

 周囲に愛嬌をふりまきながら、サロメは蹴球は終わりだと告げ、少年たちに家に帰るようにうながす。

「明日もいる?」

「ああごめんね、明日の朝には出るよ」

「また来てくれよ!」

 少年たちは名残惜しそうに家路につき、商人たちはコヴァクスを囲んで一緒に宿に入ろうとする。

 その様子を見て、サロメはふっと不敵な笑みを浮かべた。

「おおサロメ、そなたに再び会うのを一日千秋の思いで待っていたぞ!」

 少年たちと入れ替わりに、男が武装した兵士をふたりしたがえてやってきた。その男は貴族然とした豪奢な装いで、顔は上気し、サロメを見ただけで身も心もすでにとろけているようであった。


 男は五十すぎの壮年で、金にも女にも不自由していなさそうである。

 宿の主と一緒に蹴球を眺めていたが、ひと段落するや主を押しのけサロメのもとまで早足でやってきて、いきなり抱きつこうとする。

 周囲は驚いて「あっ!」と声を上げる。

 避けようと思えば避けられたはずだが、サロメは逃げずに抱きつかれてしまった。

 男はもう大興奮である。

「私がこうすることで喜ばぬ女はいなかった」

「ヒュカンテスさま、まだ陽はたこうございます」

「よいではないか、よいではないか。太陽の祝福をともにうけようぞ」

「それはまた……。いつになく大胆なこと」

 この男はリジェカ地方を治めるアラシア人の代官サトラプなのだが、以前に商団としてリジェカに立ち寄ったサロメを見かけて一目で熱を上げ、何度も言い寄ってきたものだったが、そんなに強引ではなかった。

 それが突然これである。湧き上る情念を抑えきれなくなったのだろうか。

(ダライアスも出て行ったし)

 国境に見張りを立てて。サロメの商団がこの町に来るという報せを受けて飛んできたのは容易に想像できた。

 そしてこの強引さも。

 いかに代官といえども、この振る舞いはどうであろう。

 コヴァクスらは緊張を覚えた。サロメにお熱の代官がコヴァクスに気付いたら、と思うとさすがに肝の冷える思いだった。

 無論同行する商人たちも素性は知っている。ここまでの道中、紅の龍牙旗も見せた。

 代官にコヴァクスらを売ろうと思えば売れるのだ。が、誰もコヴァクスらのことは言わない。その気があったにせよ、皆が慕う「姐さん」にこんな真似をされたら商売をする気にはなれない、といったところか。

 ペロティアなどは怒りで顔が真っ赤だ。

 固く抱きしめられたサロメであったが、脇をくすぐると、「わっ」と驚いて力を緩め。その隙に離れる。

「ヒュカンテスさま、申し訳ございませんが、あなたのお申し出を受け入れることはできません」

「なぜだ。私に何の不満がある?」

「あなたにご不満など。ただ、私は定まった相手を見つける気持ちをもっておりませぬ」

「定まった相手がおらぬのに、私を拒むのか」

「ありていに申し上げれば、そうです」

「そんな。私の愛人になれば何不自由なく暮らせるぞ。危険と隣り合わせの行商などせずともよいのだぞ」

「……。これ」

 ヒュカンテスの言葉がひと段落したとき、いつの間にかサロメの後ろに商人が控えて、手に持つ剣を差し出すようにうながす。

 どこでどう入手したのか。金銀細工に宝石でいろどられた豪奢な剣で、思わず息をのむほど、高価そうなしろものである。

 これひとつでどれだけの兵を養えるだろう、とソシエタスは思わず考えてしまった。

「お詫びに、これをお納めさせていただきます」

「いらん!」

 剣を差し出されても、ヒュカンテスは喜ばず。怒気をあからさまにし、サロメを睨む。

「サロメよ、私はそなたがほしい。そなたのためなら、私はなんでもするぞ」

「申し訳ありませぬ」

 熱い言葉を投げかけられても、それを瞬時に凍らせるようにサロメは、相手を受け入れず。それでも礼を尽くして、詫びる。

「いいかげんにしろ!」

 とコヴァクスは言いたかったが、うかつなこともできず。だまってそっぽを向くしかなかった。

 剣に続いて絹織物に虎の毛皮が差し出された。いずれもはるか東方の産で王侯貴族でなくば目にすることもかなわぬしろものである。

(どこでそんなものを。サロメたちは、ただの行商人ではない)

 コヴァクスとニコレット、カトゥカにクネクトヴァは唖然とするばかりだったが、さすがに年長のソシエタスは冷静さをたもち。品物をまじまじと見やる。

 並の者なら目にしただけであまりの高価さに卒倒しそうなものを差し出されて、サロメの気の使いようがうかがい知れるのだが。ヒュカンテスは首を激しく横に振った。

「もうよい!」

 踵を返して背中を見せて、ずかずかと歩きながら護衛の兵士に、

「それを持って帰るぞ!」

 と命じ。傍観する者たちをずっこけさせた。もらうものはもらう、なかなかしたたかなものである。

 宿の主ははらはらしながら見送ったあと、サロメに、

「早くここから出た方がいい」

 と言った。

 サロメを心配して、というより巻き添えを恐れている風であった。

「仕方がないわね。そうするわ」

 ため息をつき、サロメは一同に支度を命じる。だが、

「わあ」

 という騒ぎ声がする。何事かと思えば、

「兵士たちが宿に!」

 おかみがあわてて主に言う。ヒュカンテスと入れ違いに数十の兵士が宿に押し寄せたのだ。

「この宿に人を惑わす魔女がいるとの報せがあった。おとなしく出てくるがよい。日没まで待とう」

 などと兵士長は叫んだ。

 それを聞いてサロメは、

「うふふ」

 と、ほくそ笑んだ。

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