#第1話:文香の場合
それはまるで、錆びついた血液みたいだ。
生暖かくて、渋くて酸っぱい味がする。
でも、吸い込まれそうなくらい
瑞々しい琥珀色にひかり輝いている。
ベランダから眺める東京の夜空は、やけに澄み渡っていた。
何の曇りもない鮮やかな黒の世界。
ぷっは─────と開放的な紫煙をそこへブチ撒ける。
わたしが吸っているブラックストーンの甘ったるい香りが、後から心地よい余韻を残してはすぐ消えていく。
「なんか世界で独りぼっちな気分───」
かれこれ20分くらいこんなことを繰り返している。
もう5本目の煙草も風前の灯火と化していた。
つい1ヵ月くらい前まで、わたしは彼氏と同棲していた。
長い長い時間を積み重ねてきた6年間の恋は、あっけなく音を立てて崩れ去った。
気がつけば、もう29歳というアラサーになっていた。
今更ながら思うことは、たくさんの幸福のあとに残ったものは、煙草の灰のように燃え尽きた愛と、残り火のような憎悪だけだったってこと。
ふざけんじゃねーよ────
わたしは言葉にできないそんな気持ちごと、今夜に限って綺麗な都会の黒い闇の中へ、煙と共に吐き出しているのだ。
「またそんなとこで何してんのぉ?風邪ひくよ、文香ぁ」
後ろから、わたしを呼ぶいつもの甘ったるい声がした。
「おかえり、千春。思ったより早かったね」
振り向けば、そこには友達で同居人の千春が、コンビニの袋を下げて立っていた。
紅茶色のふんわりした縦巻きの髪/クリっとした愛らしい瞳/さくらんぼのような赤い可憐な唇/お人形さんのような華奢な体。
きっと男なら誰もが可愛がるような、そんな子だ。
わたしより4コ下で、妹のような存在。
そして、こんなわたしを可愛そうに思ったのか、半月前から一緒に住むようになったのだ。
「ねぇねぇ、ちょっと聞いてよ文香ぁ。今日の合コン最悪だったんだよぉー。みんなハズレだったってゆーかぁ───」
千春は天真爛漫というか、いつも悪びれもせずわたしに男がらみの話を持ち帰ってくる。悪気はないのはわかってはいるが、今のわたしにはボディーブローのようにきいてくるのだ。
でも、楽しそうに笑いながら喋っている彼女を見ていると、
なんか憎めなかった。
「───だからね、早めに帰って来ちゃったんだぁ。文香と飲み直そうと思ってさ。はいっ、おビール」
コンビニ袋の中から取り出してわたしに缶を手渡してくれた。
「サンキュー」って言いながら、彼女のおでこに軽くお礼のキスをしてあげた。
「相変わらず男前だなぁ、文香ぁ」
そう笑いながらわたしを指差す先は、きっとこのショートカットの黒髪なんだろうと思う。
わたしに別れを告げた男は、長い栗色の髪が好きだった。だから、わたしはずっと髪を長く伸ばして、髪の色だっていつも栗色に染めてあげてた。
だから、別れた瞬間に長い髪を短くぶった斬ってやった。色も真っ黒に染めてやった。
何もかも消してしまいたかった。
「文香ぁ、かんぱぁーい」
無邪気に千春が笑っている。わたしを何も知らない千春と乾杯して、わたしはビールを一気に流し込む。
でも、いくら酒を飲もうが、いくら煙草を吸おうが、あの男はわたしの中から消えてはくれない。
「ごめん、千春。わたし、もう少し煙草吸ってくるね。先に寝てていいよ」
そう言って、わたしは逃げるようにまたベランダに出る。
後ろから「吸い過ぎは体に毒ですよー」と千春の声がした。それを遮るように、わたしは大きな窓をそっと閉める。
きっとあんたなんかにはわからない。
今までさんざん彼のために尽くしてきたわたしの気持ち。
6年も経って今さら捨てられる惨めな気持ち。
わたしはまた煙草の煙を吐き出す。こんな綺麗な夜空を白く白く、汚してしまいたかった。
あの男のカッコいい残影も、蕩けてしまいそうな残香も、優しく愛を囁いてくれた残響も、わたしを苦しめる全てのあなたを、わたしの心に染み付いた思い出を。
ふざけんじゃねーよ、馬鹿────
わたしを振ってんじゃねーよ、馬鹿────
わたしを見下してんじゃねーよ、馬鹿────
わたしはきっと、これからずっと独りぼっちで生きていく。
どんなに辛いことがあっても、這いつくばって生きていく。
だから、せめて。
わたしを裏切ったあの男も、わたしを無邪気に傷つける千春も、
みんなみんな───
死んでしまえばいいのに────
なんて言えないわたしは、またブラックストーンの煙に紛れ込ませた黒い渦を吐き出す。白い煙が一瞬、渦を巻いて壊れて消えた。
その後に、ブラックストーンの甘ったるいダークチェリーの香りが、わたしを包み込んでいた。