おりひめ
「今日こそは……」
私は意を決して黒い門を開けると、伊勢沢家に乗り込む。左手前に伊勢沢家の番犬、柴犬のラッシーが私を見て小屋から出てきた。
愛嬌のある顔でワンと吠える。私が軽く頭を撫でてやると、長い舌をだして、尻尾を左右に振り甘えてくる。
「こんにちわ、おばさん」
「あ、綾香ちゃん、こんにちわ」
ベージュのカーディガンを着た更紗の母親が出迎えてくれた。更紗に似て愛嬌のある顔はとても30代には見えない。
「お邪魔します」
お辞儀をすると、靴を脱ぎ、たたきに揃える。更紗の家の玄関は雑然としている。左側に木製の靴箱があり、その上に造花、隣に金魚の水槽、右側はダンボールがうず高く積まれてある。一番上にはリボンに包まれたピンクの箱が置かれている。
「今来たの? 」
「あ、更紗」
おばさんが奥にいなくなり、私が階段をあがろうとした矢先、更紗が現れた。
「あがってよ」
「うん」
私が階段に登る際に、更紗は凄い勢いで、ダンボール群に近づき、何かを手にとった。
「どうしたの? 」
「ううんなんでもないの、はやくあがって」
背中を押されるように階段を上がる。
「うえ、これまだ飾っているの」
「貴重なものらしいからね」
階段の途中に黒い仮面が飾ってある。
いつみても気味の悪い仮面だ。なんでも更紗の父親がジャワ島に出張した帰りにお土産として買ってきたものらしいが。大きい眼と口にギザギザの歯が、日本の妖怪ナマハゲに似ている。
部屋に入ると、更紗が革張りの回転椅子に座った。
「はい、これ、今日の授業を写したノートと各科目のプリント」
「ありがとう、綾香助かる」
更紗はふくよかな顔を綻ばせる。私は中学校の近況を更紗に話して聞かせる。更紗は適当に相槌をうつがあまり聞いてなさそうだ。私は出来るだけ楽しい話をして、空気が和むのを待つ。
もういいかな……?
「あ、あのさ」
私がタイミングをみて、「あの話」を切り出そうとすると、更紗の顔が強張る。私の微妙な表情の変化を読み取られてしまった。
「いや、なんでもない」
私がごまかすと、更紗が薄く笑う。
「どうせ、学校に行かない理由を聞きたいんでしょ? 」
更紗は学校を休み始めて今日で5日目だった。最初は風邪かなにかだと思っていたけど、いくらなんでも5日は長すぎる。
「う、うん、先生がね……」
2年Bクラスの担任の先生が友達の私に、プリント類を渡すついでに様子を見てきてほしいと言ったので、今日、自宅にきたわけだけど……
「前もいったけど、ただ、行きたくなくなっただけ、そう言っといて」
更紗は頑として学校に来ない理由を話さない。2日前に来たときと同じく元気そうなのに。少し前より痩せたように見えるが、顔色もそんなに悪くない。学校にこれそうに見えるんだけど……何でこないのかな……やはり、あのことが堪えているのかな……
更紗が学校へこなくなる、ちょうど一週間くらい前の話だ。
休み時間に私と更紗は、教室で 授業のことや、先生の話、最近みたドラマの話で盛り上がっていた。
『あ、そういえばさ、話は違うんだけど、ここ三ヶ月ほどダイエットしてる』
更紗がダイエットをしていると聞いて驚いた。顔や体型はぽっちゃりしてるけど、そんなに太っているようにも見えなかったからだ。
『はあ、ダイエットねえ、でも、効果出ているようにはみえない』
『もう、なんでそういうこというかな? 』
『更紗はダイエットなんかしなくても良いって言いたかったの、見かけなんかどうでもいいじゃないって』
『そりゃ、綾香はねえ』
『なによお……」
私はどちらかというと性格が男っぽい。他の女子みたいに化粧をしたり、着飾ったりしない。
「もうちょっと、優しく言ってほしいよねえ」
隣にいる黒田朱里をみて更紗は苦笑いをする。私はその様子をみてむっとした。
「私は私だよ」
確かに思った事をなんでも言ってしまう。好き嫌いもはっきりしているけど、人の気持ちが分からないわけでもない。
私がもやもやしていると、話に混ざってきた男子がいた。
『伊勢沢がダイエット~~? 』
阿呆の福地という男子だ。細長い頭とがった顎が特徴的でどこか青唐辛子に似ている。
『本当にしてるのか? 全然痩せてないじゃん』
『うっさい、どっかいけ、馬鹿』
更紗はそう言われても何なく交わしたようにみえた。3人に囲まれて不利とみたか福地は仲間を呼んだ。
『牧田ちょっと来い、伊勢沢がダイエットだってよ、全然変わってないよな、このデブ』
そこまで言われて、更紗はぶちきれた。
『うっさい、馬鹿福地! 』
『デブ、デ~ブ』
『ちょっとやめなよ……』
低脳なあおり合いに私は呆れて、あまり参加する気はなかったが、一応更紗を援護する。
「うるせーな、福井」
福地は私にガンを飛ばして続けた。
『ほら、牧田もいったれよ、デ~ブ』
『あ? ああ、デ、デ~ブ』
男子が二人してデブ、デ~ブと合唱。その騒ぎにつられて、後二人が参加して大合唱。『あ~もういこ、更紗、馬鹿の相手はしてられない』
『別に気にしてないよ、でも、うっとうしいから他いこっか』
このような出来事があったにはあったが……更紗はこれくらいで動じるような女ではないはずだし、実際、その後も飄々と授業を受けていた。
次の時間には、福地は更紗や私や他の女子にやりこまれ、学校が終わると、さっさと逃げ帰ったほどだ。だから、これが不登校の理由だとは考えにくい。しかし、更紗はその翌日から学校に来なくなった。不登校3日目にラインを送ってみると、さっきのように、『大したことはない、ただ行きたくなくなった』の一点張り。
なぜ、私に理由を言ってくれないのか、ずっと気になっている。何か他人にいえない事情でもあるのだろうか?
外が暗くなって帰宅しようとすると、珍しく家にいる更紗の母親が私に言った。
「あのねえ、綾香ちゃんさえ良ければ夕食食べていかない? 」
「え? あ、はい、喜んで」
「じゃ、すぐ降りてきてね、更紗もね」
更紗の母親はいそいそと出て行き、階下へ降りていく。それを見て更紗が一言。
「点数稼ぎかな、ママ、ふだん、なんにもしないくせに、綾香がきたから」
更紗の母親は家事の殆どを娘に任せている。
旦那がシンガポールに出張してから、自分は好きなことのし放題。ふだん、友達の家にいったり、趣味の絵画教室に出かけている。その上、週三日、夕方から家を出て朝まで返ってこない。
「明日、浮気デーみたい、だから、埋め合わせしてるんだろうね」
更紗はだるそうに言って、窓に視線を移した。
「お待たせ、お口に合うか分からないけど」
木製の丸テーブルを囲み夕食を三人で夕食をとる。私の家ではあまりない状況だ。親が離婚して、母親とマンションに二人で住んでいるが、私の母親は夜遅くまで仕事をしていて一緒にご飯を食べることはめったにない
「糖質制限してるからこれだけ」
ハンバーグに、かぶらの煮付け、ブロッコリーの茹でたもの、大根おろし、レンコンの炒め物。更紗の食事はそこに鰯の煮付けがくわえられ、大根が消えている。ご飯の量も私たちの半分だ。
「鰯などの青魚はDHAやEPAが入っていて痩せるんだって。けど、根野菜はふとるんだ。それとご飯は糖質の塊だから、半分にしてる」
「ふ~ん」
更紗は得意げにダイエットの食事の話をする。私はこういう話にあまり興味がない。
「そんで、これはココアだよ」
「え? ココアって甘ったるくて、太りそうじゃない? 」
「純ココアなので糖質はすくなめだから、これはいいの」
「それ美味しくなくない? 」
「痩せるためだもん」
「だから、痩せなくてもいいじゃない」
私の発言にちょっとむっとした顔で更紗は言った。
「綾香には分かんないよ! 食べても太らないもんね、私は体質が綾香みたいに単純にできてないのよ、いいよね、おいしい物食べるだけ食べても太らない人は……」
「更紗、言いすぎよ」
母親がごめんねと私に謝る。どうしたんだろう? 今日の更紗は機嫌が悪い。食事の席が一気に冷え込むと、それを察したのか更紗は付け加えた。
「あ、ごめんねえ、糖質制限してるとね、ちょっといらいらしやすいの」
「そっか……」
私は一瞬、落ち込んだが、意外と元気そうな更紗をみて安心もしている。なにが理由か分からないけど、そのうちすぐに学校へ出てくるだろうと、その時は楽観視していた。
「福井さん、ちょっと」
黒田さんが私を呼んだ。
「更紗、どうだった? 」
「大丈夫そうだったよ」
「そう」
「でも、全然、不登校の理由がわかんない、あんなに元気そうなのになんで、学校に来ないのかな……」
私が呆れたように言うと、彼女はぽつりとこぼした。
「きっと、牧田君にデブって言われたのがショックだったんだと思う」
「なぜ? 」
「だって、伊勢沢さん、牧田のこと好きだし」
「え? 」
初耳だった。
「まさかそんな……」
「福井さん、あの子と良く一緒にいるのに、鈍いね。私も直接打ち明けてもらったわけじゃないけど、更紗の様子みてたらわからない? 」
「ううん……ごめん、全く、でも、そんなことあるわけ、それにそんなことで、更紗が何日も学校を休むなんて」
今度は私が呆れたように黒田さんに首を横に振られた。私は恋愛関係には疎い。それにクラスの男子は子供っぽくって、そんな対象になるとすら考えたことはなかった。
黒田さんは、またぽつりと呟く。
「福井さん、本気で人を好きになったことないでしょ」
家に帰ると、私はベッドに寝転びながら、珍しく考え事をしていた。考えずにはいられなかった。黒田に言われたことにもいらついていた。私だって全く恋愛経験がないわけじゃない。何も知らないくせに……枕に顔をうずめて足をバタつかせる。
「他人のことなど人に分かるわけがない」
母親がいつも酔った時にこぼす言葉。私もそれには賛同する。人は知ったかぶって、他人のことを色々いうけど、相手の詳しい事情なんて分かるわけないんだ。そこまで考えて、私ははっとした。――黒田に私のことが分からないように、私も更紗のことを全て分かっているわけじゃないんだ。
私はひっくりかえって仰向けになると、更紗のことについて考える。あんなにしっかりした更紗でも、好きな人にデブと言われたら、こたえるのだろうか? もし私なら……と想像してみるとすぐに、胸が重苦しくなった。あれだけ好きなものを食べずに、ダイエットして痩せたのに、好きな人にデブなんて言われたら、私なら……死にたくなるかもしれない。嫌な予感がこみ上げてくる。もしかしたら、更紗はこのまま、学校に来なくなってしまうかもしれない。そればかりか……
私はさっと起き上がると、机の上に置いてある白いノートパソコンを起動させる。OSが立ち上がりネットに繋がると、検索エンジンのサイトを開き、失恋を検索する。様々な失恋について書いたサイトが826万件もヒットする。更紗の場合は失恋ではなく、自然消滅に近いと思うが、気持ちは失恋に似たようなものだ。いくつかの失恋関係のサイトを眺めていると、共通するワードがあるのに気づく。
「悲しい、侘しい、泣きたくなる。何も喉が通らなくなる。眠れなくなる、死にたくなる」
私はこれらのワードの後半をみて、共感すると同時に不吉な予感がした。妙な焦りに背中を押されて検索ワードを増やす。
(失恋・ダイエット)や、(失恋、糖質制限)、(失恋、ダイエット、死)、それぞれ検索すると、私は背筋が寒くなるような言葉を目にして唾を飲みこんだ。
大丈夫かなあ……更紗。鼓動が早くなるのを感じながら身をよじる。
あれから更紗は、10日たっても、学校にはやってこなかった。さすがに私は心配になって、放課後、自主的に更紗の家に出向いた。
「いいけど……すぐ帰ってね」
インターホーンの更紗の声は明らかに棘がある。
「あれ、どうしたの? なんか元気ないじゃん……」
犬小屋に繋がれているラッシーは、なんだかげっそりして見える。
中に入ると、まだ夕方なのに家の中は暗い。
「あ……」
玄関の右手のダンボールの群が消えている。更紗はもともと綺麗ずきなのに、いつまでも置いているのが不思議だったんだけど、やっと片付けたか。
「え……?」
しかし、奥の廊下は、細かい埃やゴミが転々と落ちている。木目が新しい階段も、以前はピカピカに磨かれていたのに、埃や小さなゴミが残っている。掃除していないのかな?
「何しにきたのよ? 」
久しぶりに会った更紗は、別人のように顔がむくんでいてやせ細っている。髪の毛はぐしゃぐしゃ、着ているパジャマは茶色く薄汚れていて、近寄ると悪臭が鼻をつく。部屋も整頓されていたのに、今日は衣服や漫画が散らかり汚い。
「どうしたの……? おばさんは? 」
「知らないよ、あんなの……、それよりなんか用? 忙しいんだけど? 」
薄暗い廊下にギラギラ光る更紗の瞳は、なんか怖い。
「ちょっと、更紗が心配で来てみたんだけど」
「はあ? 別にきてくれなくていいよ」
更紗はそういった瞬間、びくっと体を震わせて背後を振り向いた。そして、すぐにこちらを振り向くと、
「ほっといて! うざいから」
5日前とは別人……取り付く島もない。私は更紗に気圧されると、後ろに転びそうになった。
「ど、どうしたの…… 」
動揺していると、ふいにこの間、ネットで検索したときにみつけたワードが頭に浮かんだ。
『摂食障害』
――あるきっかけ(ダイエットや受験、自信を失うような失敗)で拒食となり、やせが進行しても食事をとる量が増えず、ますますやせが進行していくケース…――
もともとぽっちゃり型の更紗は、太っていると感じて、ダイエットを始めていた。そんな時に……片思いの牧田にデブとからかわれ自暴自棄に。更紗はあの一件までにも普通にダイエットをしていたが、失恋の苦痛が重なって、もっと、痩せたいと、もっと贅肉を削りたいと……
「さ、更紗、夕食ちゃんと食べてる? 」
「うるさいよ~、もう今それどころじゃないの」
「あ、あの……」
「いいから出て行って」
「更紗、聞いて」
「うっさい、出さなきゃいけないんだから……、帰って! 」
私は更紗に背中を押され、無理やり玄関から外に押し出される。
「更紗ぁ……ちょっと」
私が泣きながら振り返ると、扉が閉まりきる前に、バケツに顔をあてている彼女が見える。食べたものを吐き出しているに違いない。
私が涙を拭きながら門を出るとすぐに、シロネコヤマトの配達人が更紗の家のチャイムを鳴らした。
家に帰ると、私は夕食の用意も忘れて布団の中にもぐりこんでいた。
「ああ、どうしよう……」
このままじゃ、更紗は最悪死んでしまう。早く病院に連れて行かないと。私の親に相談を……あ、だめだ、まだ7時だし、仕事中だ。更紗の親に相談しよう。あ、今日は無理かな……さっき、更紗のうちに電話したけど、誰もでなかったし。たぶん、おばさんの外出日の3回のうちの一回が、たぶん、今日だ……そ、それなら、明日、先生に……
――落ち着け落ち着け……
私は呪文のように自分に言い聞かせる。そ、そうだ、摂食障害だからって、す、すぐ死ぬわけじゃないんだ。更紗の様子をみてパニくってた。ゆっくり起き上がると、一階の台所に下りて冷蔵庫を開き、グラスにミネラルウォーターを注いだ。一気に飲み干す。喉が潤うと、少し落ち着いてきたきがする。 それにしても……摂食障害ってこんなに早く症状が進むものなのか、分かんないけど不安でたまらない。
「母さん、疲れているから、相談は明日ね、おやすみ」
母が仕事から帰ってきたので、更紗のことを相談しようと思ったが、疲れた顔をみていると無理を言えなかった。
私が、私だけでも、更紗を助けてあげないと。
その日の深夜、更紗のことを考えると、なかなか寝付けない。だが、枕脇に置いていたスマホの着信音が室内に鳴り響く。
ラインだ……
私は布団を跳ね除けると、暗闇の中、スマホを探り当て、眩しさに目を細めながら見た。
さららん『今日来てくれたのにごめん、心配かけて悪かった。けど、明日から学校へいけそう』
――え? 更紗?
思ってもいない相手からのラインの受信と、その内容にしばらく指が止まる。夕方、出向いたときの更紗の様子からは考えられない、落ち着きのあるメッセージだ。少し前の更紗とのギャップに、頭が真っ白になったが、少しして我に返ると、震える指で短文をなんとか打ち込んだ。
あや『よ、良かった。』
精一杯、搾り出した言葉だ。その後、いつまで眺めても、更紗の返事はない。
どうしたんだろう……? 何がどうなっているのか…… 更紗の変化についていけない。摂食障害の人は心が不安定だから、気持ちも変わりやすいのかな?
殆ど眠れなかった。ぼーっとした頭で台所に出向くと、既に台所は静かだ。母親はいない。テーブルにラップに包まれた目玉焼きが置いてある。
「参ったなあ……」
予想はしていたが、やはり、学校に更紗は来ていない。更紗にラインを打ってみるが、返事はこないし、固定電話にかけても誰もでない。更紗の母親の携帯番号はしらないし。
「黒田さん、更紗と連絡とってる? 」
「ううん、最近、全然出てくれないし、ラインの返信もないんだよね」
「そっか」
「なにか進展あった? 」
「別にないよ」
黒田とはあまり話したくなかった。
「じゃあ、以上でHRは終わりだ」
放課後まで何の連絡もなし。私はぼけーっとしながら、家路につく。私には更紗がなにを考えているのかさっぱり分からなかった。更紗にとって、私の存在って何なんだろう。橙色に空が染まる頃、無性に空しくなって、中学の近くにある公園のベンチに座っていた。サラリーマン風の男性が同じように肩を落とし座っているのがみえる。同じようにスマホを眺めていて妙な共感を覚える。
その時、ふいにラインの受信音が聞こえた。
さららん『今日いけなくてごめん、でも、どうしても……悲しくって、どうしようもなくって』
更紗だ……、なにを勝手なことばかり言ってるの。
あや『私、期待してたんだよ』
さららん『ごめん、本当にごめん、でももう無理……一人は耐えられない』
あや『ど、どうしたの? 』
変だ。昨日も変だったけど、今日は何か違う。
さららん『今から……家に来てくれない? お願い…… 』
あや『わ、わかった』
私は慌ててスマホをカバンにしまうと、立ち上がる。向かいのさっきの男性が驚いたように私をみている。
額に冷たい汗が流れる。
「なにがあったんだろう」
私は更紗の家に向かって全力で走っている。
あの角を曲がったところだ。黒い門を開けると、いつもと何か違う。
「あれ? 」
犬小屋をみると、ラッシーがいないのだ。空になった小屋の前には、紐つきの赤い首輪が地面に転がっている。
「ど、どう……」
私は不気味さを感じて、扉に手をかけると、なんなく開いた。鍵がかかっていない。
な、なにかあったんだ……
私は靴も脱がずに、玄関をかけあがる。薄暗い廊下に、いくつもの黒っぽい染みが見える。
これまさか…血?
階段をかけあがり、更紗の部屋に入るが、更紗は見当たらない。
白いテーブルに黒い水溜りができている。
「更紗~~」
一階へ降りて、他の部屋を散策するが、どこにもいない。
最後の奥の部屋に駆け込むと、引き戸一枚分の橙色の光の中に更紗は立っていた。
白いパジャマ姿の更紗はゆっくり振り返ってささやく。
「ど、どうしたの? 」
相変わらずむくみのある顔から、光の粒がぽとぽとと畳に落ちている。
「来てくれたんだ」
「ど、どうしたの? な、なにがあったの?「これ? 」
差し出したものは緑色のプラスティック製のバケツだった。
「見て」
更紗に促され、私は恐る恐る中を覗く。黒っぽい液体が溜まっていて、丸い球のようなのものが浮いている。私は妙な臭いがするバケツから更紗に視線を移した。更紗は深いため息をつきながら言った。
「10日間、私は頑張ったの、必死に看病したんだけどね……そのかいもなく、金魚のデメちゃん、死んじゃった……」
「き、金魚!? 」
更紗は涙を流しながらぽつぽつと語りはじめた。
――11日前の夕暮れ時、更紗が学校から帰り、水槽を覗くと、金魚のデメちゃんが中で白い腹を向けて泳いでいるのを見つけた。何かおかしい、そう思った更紗は、すぐに金魚の病気について、インターネットで調べて、それが転覆病だと知る。更紗はその日から、学校を休んでデメちゃんの看病を続けた。
「殆ど眠れなかったし、糖質制限中よりも食べていなかった、しんどかったけど、デメちゃんのために頑張ったよ……」
そうか、それで、あんなに顔がむくんで、痩せていたんだ。
「一言いってくれたらよかったのに…私心配したのよ」
「ごめん、でも……綾香に相談したら、金魚ごときで学校を休むなって言うに決まってると思って」
言っていたかもしれない……私がうな垂れると、更紗は低い声で言った。
「ごめん……別に、あなたじゃなくても、誰にも分かってもらえないと思う。だから、お母さんには、絶対、このことは誰にも言わないでって頼んでおいた。すぐに治るからって。でも、どうでもよさそうだったけどね……」
「更紗……」
相談する相手がいないのって辛いよね。
「それで? 」
「ああ、えっと、それでね、転覆病の原因はいろいろあるけど、デメちゃんの場合、お腹が膨れ上がっていたんだ。何らかの原因で新陳代謝が落ちていて、お腹に便やガスがたまってたの。出すもの出さなきゃ治んない状態だったんだけど」
どこかで聞いた……
――うっさい、出さなきゃいけないんだから
ああ、これだったのか……
更紗は尚も鼻をティッシュでチンと噛むと続けた。
「最初は塩水浴という方法で、バケツに塩水をいれ、そこにデメちゃんをいれて新陳代謝を促すの。専用のヒーターで温度もたもちながらね。」
バケツを頻繁にみてたんだろうね。摂食障害で吐いているのかと勘違いした。
「だけど、一向に良くならないから、私は慌てた。それで藁にもすがる思いで、ネットで検索しまくったら『ココア浴』というものがあった。純ココアをいれた水に金魚をいれると、排泄機能があがるという民間療法があるんだけど、私がふだん飲んでいる純ココアで、試してみたの。」
ココア、あの……そっか、パジャマや床の黒い染み、バケツの妙な臭いはココアだったんだ。
「うさんくさいって思っていたけど、デメちゃん、どんどん、排泄物をだしていって……奇跡が起きたと思った。」
そんな瞬間に尋ねていったから、あんな言い方したのか……
「最初は調子よさそうだったの、昨日の夜にはもうひっくり返らなくなっていた。これなら大丈夫だと思って、あなたにラインで送ったんだけど……朝には死んでいた。」
「そっか……」
「まさか、死ぬなんて……昨日の夜元気だったのに……もう悲しくって、だって、小学校1年生の頃からずっと一緒だったのよ……」
「運が悪かったのよ」
「簡単に言わないで」
更紗は泣きじゃくる。私はその更紗の細い肩を抱き、右手で頭を撫でてやる。私はしばらくその状態で更紗を慰めたが、更紗の両肩に手を置いて彼女の顔を上げさせた。
「でも、私も心配してたの。黒田さんが、あなたが片思いの牧田に、ブタって言われて不登校になったって言われて」
「はあ? 牧田なんかどうでもいいよ」
「うん、分かっているつもりだった。更紗がクラスの男子を好きになるはずないって。でも、他人の気持ちなんてわかりっこないし」
私が俯くと、更紗が、私の肩に頭をこつんと押し付ける。
「心配かけてごめん……あやがそう思うのも無理はない……いくらデメちゃんが死にそうだからって、あんな態度とってちゃ、だめね……」
更紗は言いながら、後ろから何かを取り出した。それは少し前に訪れた時に、ダンボールの箱に置かれていたピンクの包みだ。
「綾香、誕生日終っちゃったよね、本当は当日に渡したかったんだけど」
「あ、有難う」
中身を空けると、綺麗なイルカのイヤリングだ。
「更紗! 」
私は思わず更紗を抱きしめる。
更紗と恋人同士になってまだ半年。こんなに嬉しい瞬間は初めてだ。更紗の肩際に心配そうにこちらを見つめるラッシーがいる。
私は無言のまま目で語りかける。私たちは大丈夫だよ、ラッシー。
駄作申し訳ないです。
しかし、区切りつけるために投稿します。




