The Romance of Rotting Moon with Gossipy Ghosts
僕は僕が大嫌いだ。
僕を僕たらしめる、僕の特性が、ずば抜けて嫌いだ。
特性を欠点ととるか、個性ととるか、はたまた特技ととるかは、自分の気の持ちようだと教えられてきたが、そう言う一般人の論理が当て嵌まるとでもお思いで?
お前らは人生を楽しめ。勝者の戯言をお前たちの論理で味わえ。お前たちは生まれながらに幸福だ。自分から逃れたいとは思わないのだから。自分を切り刻んで抉り出せるのならそうしたいほどの特性というものが、お前たちにはないのだから。
特性というものは孤独だ。異常だ。そして離れようと思っても、離れられない。
それを、まるで切り離して持ち歩けるとでもいうようにお前たちは言う。
それは見方次第ですごい力になるよ。
まあ、そういう考え方に、学ぶべき点がないというわけではない。ネガティヴを自認する僕にしても、一理あると思うところはある。
特性も生かしようによるとは思うようになった。
どうだい、お前たちとしては、成長したって言うんだろう?
だけど、僕が僕を大嫌いだ、ということに変わりはない。
◆
幌のついたトラックが闇が染みついた悪路をゆく。
どうやらこの道はもう何年も使われていないようだ。地面は石や木々の根でデコボコして、荷台から足をぶらつかせていると、生え放題の草がさわさわと触れていく。
梟はホーと鳴き、虫の音がヒョーヒョーと聞こえてくる。黒い木々が深い森を演出し、道の上に覆いかぶさるように枝を広げている。木々が密集するその向こうには、何も見えない。森を掻い潜るようにトラックはエンジン音と重たい車輪のめぐる音を立てて道を蹂躙していく。
幌から見上げると、枝の影の格子の向こうに夜が広がっている。白い鱗みたいな満月が架かる、夜。
積み荷がときどきカチャン、カチャンと硬質な摩擦音を奏でる。
幌の奥の暗がりから耳障りなぺちゃくちゃお喋りが絶えることはない。
しっかり蓋をした瓶を弄びながら、彼はドライブの揺れに身を任せる。
五月蠅いお喋りを脳内から締め出しながら。
◆
彼は歯車の空間に居座り、根気よく待ち続けたものだ。
そこは現実空間とは別の領域の場所であった。世界は数字で説明でき、化学式で余すところなく表すことができるのと同じで、時計を動かす歯車を表象としたイメージの世界があった。
つまり、それは彼が持つ『時』だった。
巨大な歯車はいくつも噛み合い、ガタゴトと音を立てて、組み合わさって聳え立っていた。彼と彼を巡る幾人もの人間やいくつもの環境が絡み合い、彼の世界を形成し、歯車を動かしているのだ。
彼は時の一部を形成しているガラクタに腰かけて、空のガラス瓶を弄んでいた。ネジ式の蓋は外されていた。
彼はその瞬間を待ち続けたのだ。彼の世界を形成する時の一部が、彼の目の前に落下してくるのを。
彼は欲していた。
それは万物に降り注ぐ光。
◆
おどおどした表情で、大仰なジェスチャーを交えてその男は話した。
滑り出しはそれほどの言葉数ではなかったが、憑かれたようにその話しぶりは勢いを増していった。
郊外の家です。そう、郊外のです。そこに盗んだ金を隠しました。家の主は、聞かないでも分かるでしょう、とっくに死んでます。私が殺したんだから、当たり前でしょ?
三人家族で、使用人が何人もいる裕福な家だったようです。優しそうなご主人、病弱なご夫人、そして可愛いお嬢さんでしたよぅ、殺すのが惜しいくらいの。お嬢さんは両親や使用人が次々に血だるまになっても声を上げられないくらい、大人しい子でした。残念ながら売り払うのも犯すのも趣味じゃないんでね、へっへっへっへ。皆一緒に地下室に埋めました。
何しろ郊外の家ですから、いい感じに荒れ果てて、忘れ去られ、誰もよりつかなくなりましたよ。私はそこと複数の都市を行き来して、あちらこちらの屋敷からお宝を頂戴しては隠しました。金、銀、ルビー、ダイヤモンド。絵画に彫刻・・・。金目のものはその家でしばらく保管し、ほとぼりが冷めたら別の都市で換金するんですよ。いやぁ、なかなか神経を使いました。金もたんまり、家に保管しましたよ。でもこのネクタイピンとネクタイは気に入って売れなくてね、見えますか?どっちも違うところで盗んだ物です、へへへへへへへ。
悪い事と良い事の区別なんて溶けて分からなくなっちまうもんですよ。同じです。良い事をして生きるのをベースにしているのか、悪い事をして生きるのをベースにしているのか、それだけで、良い事も悪い事もその判断基準が変わってくるんです。モノサシだってセンチメートルの幅が変わればメートルやミリメートルだって変ってくるでしょ?そんなものです。悪い事を悪い事だって思ってかかるストッパーなんて、悪い事を悪い事だと思っていなければどうにもならんのです。
まあでもそんな生き方をしたせいか、宿命というか、類は友を呼ぶというか、悪い事と良い事の判断の境目が完全に曖昧な殺人鬼にばったり出会って、私も仕事先で刺されてお陀仏です、なーむ。
あの銀製の月のペンダントはいい金になると思ったんですがね、前も換金屋に持って行ったんです、半月の形をしたね、へへへへへへへ。
◆
僕は母似なんだそうだ。
AがAを嫌うならAはAに似ているBも嫌うはずである。よって、僕は母が大嫌いだった。
最も、あの村に住む多くの人に関して、僕は感情を捨ててしまったから、大嫌いも何もない。それが例え、実の母親であろうと。
母は一人で僕を産んだ。一人で産んだけれど、父と暮らしていた。
父は明らかに死体だった。血の気がなく露出した肌は灰色をしていて腐臭を放つ。崩れた顔で笑う。うまく四肢が動かないらしくぎこちない歩き方をする。ゾンビだった。
それはどうやら生前資産家だった男で、母は男の生前叶わなかった結婚を男が死んでから行えた。
「私、死んだ後の方があなたを好きかも。だって死なないもの」
明らかに男が死んでから母は妊娠した。村の男も母の妊娠に身に覚えはなかった。僕は女と死体の間に出来た子供だった。
学校で僕は差別に遭わなかった。〝差別に遭っていない〟という特別な格差をつけられた。
あなたは変じゃない。
あなたのお母さんとお父さんはおかしくなんかない。
だってあなたはこんなにも、良い子だもの。
人間は逆さ立ちで歩くのが本当の姿なのです。それでよいのです。変ではありません。そういう論理も成り立つことになる。
否定されれば否定されるほど、僕がどうあったらいいと周囲に憐れまれているのか思い知る。
僕は僕がどう思われているのか、十分に知る機会があった。
いつも下から見上げるように人を見る、静かすぎる子供。
不気味な夫婦の有り得ない息子。笑顔がなく、子供らしさの欠如した少年だったろう。
そりゃ年がら年中現実を突きつけられていたら精神的に老ける。厳然なる僕の現実と環境が求める適性との間で引っ張り合いになりながら、僕は冶金されたのだ。
「死なないというのもなかなか難儀だよ」
肺あたりから煙草の煙をもくもくと出しながら父が語ったのを、薄暗い気持ちで聞いた。
父は顔を歪めて笑った。
「生きてないんだからね」
色褪せたブルーの瞳で僕を見ていた。
僕はしばしば、瞳の色が父似だといわれた。
よって、僕は父も大嫌いなはずだ。
◆
無論、彼のことを、村中の人々が不気味に思っていた。
母親は動く死体を夫で彼の父親だと言い張り、父親は腐った顔を歪ませ帽子を上げて挨拶し、村人を震え上がらせた。
息子は物静かで、いつもどこかあらぬ方向を見ている。不機嫌な面持ちをいつもしていた。彼の母は昔から村に住んでいるエキセントリックな娘、彼の父は妙に陽気などう見ても死体。大人たちは血の通った彼を遠巻きにし、子供たちに彼をからかう勇気にはなかった。
それでも村人たちは、彼を努力して受け入れようとしていた。
差別はよくない。彼にもいいところはあるはずだ。彼のような人間が、村で果してくれる役割もあるだろう。
村が〝偏狭な価値観と伝統が根付いている辺鄙な村〟から脱却するために取り組んできたモダンなモラルの形成という教育は、功を奏して、村人に浸透していた。法律、人権、マイノリティに優しい社会。
だが一方で未成熟の寛容主義は批判と厳罰の精神を忘れがちだった。生理的な本能と嫌悪を無視しがちだった。
村は美しいモラルに包まれて圧死したのだ。
◆
彼が弄ぶガラス瓶の中には、魂が入っている。
あるいは霊と呼ばれるものが籠められている。
人の形をした霊たちは、一様にお喋りだった。
自分のことを話したくてたまらず、彼はそのお喋りの犠牲者になる。
◆
小学生の彼が教室の机について授業を受けていると必ずその少年は話しかけてきた。
なぁなぁ、オレの話を聞けよ。カエルのケツの穴に爆竹ぶっこんでやったんだ。弾けるとすげぇぜ?ぐちゃぐちゃになった肉のかたまりが飛び散って気持ち悪ぃんだ。
チョウの羽をもぐとすげー変な虫になるんだぜ。イモムシみたいな格好のやつがよたよたよたよた歩くんだ。
保健室の薬を持ち出して、クラスの奴のスープに混ぜて食わせたんだ。しばらく学校に来なかったよ。気分が良くなって井戸にションベンしてやった。あの井戸まだみんな使ってるかな?
村の外れの古井戸の中を探検さえしなければ、オレはこの村の支配者だったんだ。誰もオレに逆らえなかった。大人だってオレをどうすればいいか分からなかったさ。
井戸の底にキラキラ光る三日月のペンダントさえクラスの奴らが見つけなければ、オレだって縄ばしごで降りてみようなんて思わなかった。
誰かが縄ばしごを外したんだ。
絶対にゆるさねぇ・・・誰もオレを探しに来なかった・・・絶対にゆるさねぇ・・・ゆるさねぇ・・・
こんな具合で、しょっちゅう話しかけられるものだから、彼はうんざりしていた。
教室の中だけではなく、あらゆるところで彼はうんざりする羽目になった。人々は彼の都合など考えず、出現し、話しかけ、勝手にベラベラと自分の身の上を喋る。
彼のことなどどうでもいい一方的なお喋りの犠牲に彼はなり続けた。
父のせいだか分からないが、とどのつまり、彼はゴーストが視え、話が出来た。
◆
僕は死人が嫌いだった。父もさながら、お喋りなゴーストに付き合わされると自我が潰されて何にも考えられなくなるんだ。不愉快だろう?
その僕が、ひとのお喋りから解放された瞬間を忘れるはずがない。
今思えば彼女は焦げ茶色の染模様がついたワンピースを着ていた。
彼女は顔色が悪く、異様に白かった。形のよい大きな目を縁取る濃い睫毛と艶のある黒髪がそれをより一層引き立て、唇は青みがかっていた。
見たことのない人間が村にいると気付いて、僕は彼女を注視したんだ。
そしたら、彼女はそれを「失礼よ」と窘めた。
「君のことを初めて見るよ」
「私もあなたのことを初めて見るわ」
当然のことを確認し合って、僕らは話しをした。僕と彼女は言葉を交わし、花を摘み、かくれんぼをした。
彼女は余所者のはずなのに、勝手知ったる村とでもいうように、あちこちを走り回った。
僕は笑った。たくさん笑った。かつてないほど楽しかったんだ。
それからとても珍しいことが起きていることに気が付いた。僕にいつも話しかけてくるあのお喋りな奴らが、一人も寄って来ないんだ。
時折、彼女は振り向いて微笑んだ。そうして見せる微笑みは恐怖に引きつっているような感じで、彼女はこう僕に聞いたんだった。
「あなたは何で死んでないの?」
僕は答えを知らないから何も答えられなかった。
沈黙する僕に彼女は微笑みかけた。
「答えを知らない。だから何も答えない。賢いわね」
僕は彼女に訊ねた。
「僕はいつも僕を無視され、話しかけられる」
「誰に?」
「ゴーストに」
そう言う僕を見た彼女の表情は驚きに縁取られ、目を見開いて彼女はか細い声で言う。
「あなたのことなんて嫌いよ」
僕は驚く。
「どうして?」
「死霊と話せるんだったら、あなたは私のものだけにならないじゃない」
「僕のことならいくらでも君にあげる。僕は僕が嫌いだから君にあげていいし、僕のことなんてどうでもいいゴーストたちなんて、もっと嫌いだ」
「あら、試してみた?」
「何を?」
「死霊を静かにさせる方法」
ちょっと怖い顔をして、彼女はくすくすと笑う。
そうして、僕の耳に口を近付け、囁くようにして言う。
「嫌なものは全部、ガラス瓶の中に閉じ込めてしまえばいいのよ」
嗅ぎ馴れた、しかし毒のように甘い腐臭がかすかにした。
◆
まるでボロのような姿の婆は、姿形を保っていながら、寡黙な性質だった。
やがて、その婆も重たい口を開いたけれども。
女衒をやっていると色んな女を見るよ。最後まで泣いて暮した子や、売春宿でのし上がっていった子、薬漬けでぽっくり死んじまった子、アタシのように女衒になった子・・・幸運な子はそうはいないよ。アタシゃ、みんな見てきたんだ。
幸運に見えても、長い目で見ればそれが不幸の始まりだった子もいる。
踊り子に志願した子はとても美人で、運動神経がよかった。艶やかな黒髪に、濃い睫毛が印象的な大きな瞳をした子。その脚でステップを踏めば誰にも負けないくらい男の目を引きつけ、あの子は崇拝を受けた。他の誰かが足蹴にされ、蹂躙されようと、あの子だけは宿に来る男たちに大切にされ、惨めな思いをさせられることはなかった。男はあの子の踊りを見るとみんな言うのさ、あの子は売春宿にいるような子じゃァないってね。
あの子が請け出されて結婚したときにゃ、通いの男はみんな言ったよ、ほら俺の言う通りだろ?って。誰が見たってそうなんだからアンタが言うからじゃないさ、っていうもんだけどね。郊外に家を持つ、小金持ちの病弱な男は優しい性格をしていて、それが気に入ったってあの子は言っていたね。
一度子供を見せに来たことがあったよ。小さくて可愛い、あの子そっくりの女の子さ。よせばよかったのに。あの子は自分の幸せな姿が、売春宿の子たちにどう見えるのか分かっていなかったのさ。
その一回きりで、あの子は顔を見せなくなった。後になって、裏で流れてくる情報で、あの子は悪い盗賊に殺されたって聞いたよ。何でも、その盗賊はうちの売春宿の子の客で、その子は盗賊が根城にする家を探していると知って協力したらしいね。
幸運だと思える出来事も、表側から見るだけじゃなくて、裏側からも見ることだね。非の打ち所のない人間などいやしない。どんなに明るい性格だろうと、崇拝されようと、幸運を引きつけようと、それから外れる悲しみや苦しみや惨めさが見えないと、自分で自分の影を見つけられなくなっちまう。
こう語った後、老婆は再び口を閉ざして、何も語らない。
◆
滅多にいない。話をしたがらないゴーストというものは。
行くところ、行くところ、僕は話しかけられた。一方的なお喋りはとても苦痛だ。だけど相手は話す相手がいないから、僕に話しかける。やつらは犬が土に埋められた骨を嗅ぎ当てるように自分たちのお喋りを聞ける相手を区別して見つけ出すのだ。
かくして、僕はやつらに人格を、意向を、心情を無視され、蹂躙されるようにお喋りの犠牲になる。
幌の奥に光る無数のガラス瓶たちは、その報いを受けたゴーストたちだ。
僕のトラックには僕に話しかけてきた霊を閉じ込めたガラス瓶でいっぱいだ。ネジ式の蓋のガラス瓶の中に小さくなって、やつらはまだ喋っている。閉じ込められているから大分音量が小さくなっているけれど、めいめい勝手に話をしているのでざわざわと不愉快な音になってお喋りは僕の耳に届く。
しかし、美しい。暗い幌の奥に、ガラス瓶を微かに青白く光らせて、ゴーストたちは蠢いている。幾千の星が遠くに見えるみたいだ。もしかしたら本物の夜空の星もお喋りをしているのかもしれない。散々お喋りに煩わされてきたから、僕は星のお喋りなんか御免蒙るけど。
トラックが道の凹みにとられて揺れるたび、ガチャン、カチャンとガラス瓶は音を立てる。
トラックは止まることなく、凹みも、木の根も、岩も越えていく。
朝の来ない僕の道をひたすらに進む。
トラックの運転席に、行く先を照らす眩い明かりがガラス瓶に入れられて置かれていることを、僕は知っている。
◆
台所の隅に置いてあった、ジャムの空き瓶。
それを手に、彼は時を表象したイメージの世界へと飛び込んだ。
生身の母と死体の父と時計とその辺にいたゴーストを踏み台にして上がると、彼は巨大な歯車が噛み合うところに立っていた。
その世界は彼にまつわるすべてが表象となって現れている。彼の知らない生き物の営み、村の人々、産業、環境、あらゆるものが時の動きに内包され歯車となって互いに連関し合っている。
そして彼はそこでひたすら待った。昼が終わり夜に変るその瞬間。
歯車の上の方から、ゆっくりと光り輝く太陽が落ちてくるのを待っていた。
歯車の歯の間にひっかかりながら、太陽は巡ってきて、段々に降りて来る。彼は立ち上がった。ガラス瓶を手に、太陽から目を反らさず、落ちてくる場所を定めて待った。
光の球は歯車に連れられて降りて来る。その後から闇がついてくる。世界は夜というヴェールを被る。昼は縮小されていく。
ガラス瓶の中にゆっくりと落ちてくる光の球を、彼は見つめ、ほのかに温かくなったガラス瓶にそっと蓋をした。
時は夜で満ちる。太陽を失くして、昼の時間を失う。彼の時を夜が支配した。
彼が関わりを持ってきた、その環境ごと、闇に放り込まれた。
彼は太陽を手に入れると、時の表象の世界から去った。
夜の世界を生きるためのいい明かりが手に入った。
彼の抱いた感想だった。
◆
彼女の言われた通りにしたら、すぐによくなったんだ。
家からガラス瓶を持って来て、鬱陶しいゴーストに瓶の口を向ける。するとひとりでにするする入って行くんだ。蓋をギュッと閉めたらそれでお仕舞い。簡単だろう?
僕は興奮した。あんな素晴らしい気分になったのは初めてだったからだ。ゴーストの喋り声を完全に締め出すことはできない。だけど、僕の手の中に握られている。
僕が初めてガラス瓶に閉じ込めたゴーストはあの五月蠅い少年だった。
少年は彼女の周りでわいわい騒いでいた。口汚く罵ったり、あっかんべーをしたり、尻を丸出しにして突き出したりしていた。
彼女はまるで動じない。彼が見えていないみたいだった。
僕が近付くと、いつものように少年はべらべらと下らないお喋りを始めた。ガラス瓶の口を向けても取るに足らない言葉を次々に垂れていた。が、目を見開いていき、まるで煙のように瓶に吸い込まれていった。
ガラス瓶の蓋を閉めると、存在も声の音量も萎んだ少年は、驚いたような表情でガラスの壁を叩いている。
ガラス瓶は僕の手の中に収まっている。
僕は嬉しくてたまらなかった。気分は上り、口元は緩み、目なんかきっと輝いていたと思う。
「すごいや。君のお陰で僕はこいつから解放される」
「随分嬉しそうね」
彼女は僕の瓶の中身を見つめていた。分かるのだ。
教えてくれたのは彼女なのに、浮かない表情をしている。
「生れてこの方、僕はゴーストのお喋りに付き合わされてきたんだ。僕の考えも、感情も全部無視されてきた。雑音に掻き消されてきた。今、とても透徹されているんだ、何も邪魔じゃないんだ。僕は僕を見つけている」
静かに見つめている彼女は奇妙に人間らしくなかった。置物のように生気がなく、動作の気配がまるでない。
瞬きをひとつした瞬間、僕は口を閉ざした。
「ねえ、今のあなたの気持ち。当ててみせましょうか」
僕は動けない。彼女の茶色いワンピースを見て。
「ガラス瓶の中に邪魔者を仕舞い込めて、清々しい。自分の力でゴーストを小さく、弱い存在に出来て嬉しい。手の内に籠められて、とても満足している。彼は無力、彼は自分に何も手を出せない、僕は」
彼女のワンピースはもともと白いようだ。彼女の胴から上を完全に茶色く染める、あの染みは何だろう?
「彼を支配している。自分以外のものはどうでもいい。どうなってもいい。自分が満足できるならば」
暗い目で彼女は僕を見る。
「実に傲慢で、醜悪な喜びに、あなたは満ちている」
その通り。
僕は震える。汚い僕の魂ごと、彼女は言い当てている。まるで自分のことのように。
彼女の目が、ゆっくり細められた。
「私はそんなあなたが嫌いよ。嫌い」
深い悲しみと喜びが、鋭い雷撃になって、僕の体を貫いた。
僕に僕を解放するアイディアをくれた彼女に嫌いだと言われるのは悲しい。しかし、僕は僕に抱いている虚無感にようやくラベルをつけることができた。
僕は僕が嫌いだ。
ぺちゃくちゃというお喋りの雑音に紛れて自分自身を見つけられない。己を支配できない自分が嫌だった。
その嫌な自分に直結しているのは支配欲だ。ああ、どんなに願ったことか。ゴーストたちを貶め、「お前の話など聞く価値もない」と罵る光景を。僕を仲間に入れてやっている町の人々を足蹴にして「お前らに慈悲をかけてもらいたいと祈ったこともない」と言う圧倒的な自分を。「お前らから産まれたくなかった」と父母を跳ね除ける強さを。
周囲を蹴散らして、嗜虐に浸りたいのだ。恐怖と後悔に彩られる表情を見たいのだ。お前らの間違いと、僕に関する勘違いを糾弾したいのだ。
あなたは変わってなんかいないわ。
少し個性的なだけなの。とっても良い子よ。
良い子なんかじゃあ、ない。
「あなたは嫌な人よ」
「その通り!!」
口端が上り、快哉を上げるように言葉が飛び出した。
彼女の灰色の表情をなぞるように見つめる。
「君一人だ!この僕を見つけたのは!」
不可解な両親に無視され、村人の善意という蓋に圧迫され、ゴーストたちのお喋りに消されてきた僕が、僕自身の境遇と、僕の内面と、僕のいる環境を一致させて、すべてが明瞭に啓けた瞬間だった。
こんなにも気分がいい。物事をはっきりと判断でき、イエス・ノーの自分の答えも明確に出せる。
だが、僕を見つけた唯一の人物は、僕のことが嫌いなのだ。
彼女は無表情に、歩き回る僕を見つめていた。まるで下らないもののように。
高揚感の上に、途轍もない悲しみが襲ってくる。
「そんな僕は君が嫌いなんだ?」
「そうよ」
静かに、鋭い問答が交わされた。
「そりゃそうだよな、こんな僕、僕も嫌いだ」
「よく分かっているようね。その気持ちもよく分かるというもの」
「何故だい?」
「私もこんな自分、嫌いなのよ」
彼女が腹の辺りが茶色いワンピースの裾をつまんで、会釈する。
「分からない?」
くるりと背を向ける。水色の背、スカート。
僕は問うた。
「何故、君は動いているの?」
彼女は無言で歩きはじめる。
僕はただ、その背中姿に誘われるように、ついていった。
◆
職業家は病のようなもので、仕事に憑りつかれている。
死んだ後もなお、やり残した仕事に、特別の思いを持った品や作業、それから功績に思いを募らせること惜しみない。
その換金屋も特別仕事に力を入れていた人物の例に漏れなかった。
あれは惜しい。どう考えたって惜しい品物でした。高い値で売れたと思います、カバレット『ルナ・ドール』の全盛!歌い手に貢ぐのに持ってこい。新品、未使用の煙管・・・螺鈿で孔雀の羽を表現した一品なんです。妖艶なぽってりした赤い唇があの煙管をくわえたらと思うと想像しただけで私の頭の中にはスターシャイン!きらめきが散るのです。
換金屋をただやってたわけじゃありません。私は私の店に流れてきたものを、持つべき人に渡すのが使命だと分かっておりましたから。あるんです。いるんです。主人を探す物と運命の出会いを待ちわびる人と!
ああ、あれも・・・半月の形のペンダント。換金しに来た男がいましたナ。
あれはセットのはずなんです。さる筋から噂だけは聞いていました。なに、品物が相応しい渡り手にゆくよう、あらゆる貴重な品の情報は掴んでおくものなのです。
四つの月のペンダント。それぞれのペンダントは不思議な力を持ち、合せると更に大きな力を発揮するとか・・・なに、魔術の品ですよ。最も、さる筋も詳しくは教えてくれませんでしたけれどね。なんでも「おぞましい」そうです。
私はその男が換金しに来たとき、すぐさまその品がただの貴金属ではないと分かりました。一見銀に見えるその月のペンダントは、実は銀やプラチナなどとはまた別の金属で作られている。勿論、ちゃっちい化合物ではなく、考えられないような組み合わせの金属間化合物・・・魔術の品です。私はその半月がさる四つのペンダントの一つであるとすぐ分かりました。それから、半端な状態で持ってきたその男が、後ろ暗いルートでそれを手に入れたであろうこともね。
勿論、買い取りましたとも。そんな男の手中にあるのは相応しくありませんから。
互いに結びつきの強いセットの品というものは、離れがたい家族のように、自然と寄り集まってくるものです。私はいずれ他の換金屋やオークション会社にペンダントが渡るものと予測して、気長に待っておりました。
待つこと。出てきたときに、然るべき手段で入手すること。必要なのは忍耐です。私がするべきことは、四つの月を揃えて、相応しき者の手に渡るようにすること。ただそれだけ、それだけのはずでした。
なのに・・・無情なものですナ、殺人鬼の手にかかるとは。
◆
ゴーストをコレクションしていくと、図書館の本にラベルをつけて分類しておくのと同じことが起った。
ぺちゃくちゃとお喋りをしている内容を、整理していけるようになったのだ。
そうした中には、彼にとって有益な情報があった。
他人の秘密。悲劇を訴える者、非難する者、奇行を報告する者。
子供には教えられることのない知識。残虐な事実、迷信といわれた魔術、悲惨で猥褻な事件。
村で行われている事業や、仕事や、大人たちの営み。
それは彼の旅を可能にする蓄えとなる。
彼は待った。彼の計画を実行に移すに相応しい時を。
彼は見つけた。
夜はゴーストを捕まえやすい。
日ごと、姿を変える、夜のカーテンに架かる月を眺めては、冀う。
月を手中に入れる夢想。
◆
彼女とやって来たのは村の外れにある古い井戸だ。誰も近寄ってはならないと、子供たちは皆きつく言われている。
僕は手の中の少年の言っていたことを思い出す。
彼は井戸の中の少年。
彼女は井戸の縁に手をかけ、覗き込む。僕も同じようにすると、下は真っ暗だ。
「この中に、私の欲しいものがあるの」
顔を上げると、彼女は細首に掛けている細い鎖をさらりと引っ張り出すところだった。
取り出したのは美しい藍色の真円。
「これはね、新月なの」
彼女の灰色の目、うっすらと縁取られた隈、こけた白い頬。無に近い表情で、白い人差し指を下に向ける。腐ったような臭いが漂う。
「井戸の底に三日月があるはずなの。あなた、自分が嫌いなんでしょう?」
「ああ」
「あなたは、自分が要らない?」
「そうとも」
「それなら、私にくれる?」
僅かに目が細められた。
「私にあなたをくれる?あなたは私の望みを叶えてくれる?」
「なぜ」
「私にはあなたにある醜悪がないの。だけど、私の望みを叶えるには、私にはあなたの大嫌いな部分が必要なの」
僕は手を伸ばし、彼女の手を握る。
ぞっとするほど冷たい手を包み込んで、笑みを浮かべて答えた。
「それができたら、君は君を僕にくれるかい?僕は、僕を嫌悪し醜悪だと言う君が必要なんだ」
輝きのない黒い目が、閉じられた。
「ええ、そうしましょう」
「どうすればいい?」
「まず、三日月をとってきて」
「君の望みは何」
「消えたいの」
絶望のために、声は静かに震えている。
「私はこの世から消えたい。こんな姿でいたくない。だけど消えることが死ぬほど怖いの。もう死んでいるのにね」
血だらけのワンピースを着た少女が、泣くこともできずに、そこに存在していた。
◆
彼は幌のトラックで旅をするようになってから、様々な夜に沈んだ町を歴訪した。
人気の少ない夜こそ彼の歩む道はあり、彼の世界は広がっていた。
彼はそこでゴーストと出会い、際限なくガラス瓶に閉じ込めていった。様々なゴーストがいた。男も女も老いも若きも、囚われの身となる。
彼らのほとんどは喋りたがった。自分たちの言葉が聞こえるものを絶えず探し、彼が目の前にいると勝手に話し始める。心残りがある者たちは概して、秘密や噂、悲劇や怒りなどを胸の内に抑えきれなくなっているから留まっているのだ。
ガラス瓶の中に閉じ込められても彼らにとって対して問題はないようだった。ぺちゃくちゃと止まないお喋りが出来る相手がいるし、仲間の積み荷が山ほどあるのだ。
夜の町には危険も潜んでおり、彼は殺人鬼に遭遇することもあったが、その殺人鬼は首から下げていたもののために彼の関心を得ることになった。
彼がそれを奪うと、刃渡り三十センチのナイフを振り上げていた殺人鬼はその場に崩れ落ちた。
そして、彼は、殺人鬼の魂が悪魔に連れて行かれるより前に、ガラス瓶の中に閉じ込めた。
◆
夜に移動しよう。
人目につかないようにすれば誰も僕を止められない。
夜に活動しよう。
夜はゴーストと出会いやすいし、捕まえやすい。彼らを情報の糧とするのだ。
夜に生きよう。
欲しいものはただ一つ。
◆
真っ暗でじめじめした井戸の底にはまだ水が溜まっていた。彼はそこで彼より小さい死体と銀色に光る三日月を見つけた。
天井の僅かな外の光で眩しく光るそれに彼は魅入られ、手を伸ばした。死体は恐くなかった。何せ、彼の父は死体なのだ。
片手で縄ばしごを掴み、片腕を伸ばして、死体の細い手に握られた三日月のペンダントを手に入れる。
不思議な満足感があった。彼は上を見上げた。丸く切り取られた遠い光。その向こうにいる彼女に思いを馳せた。
彼女はこれを手に入れる僕を必要としている。必要としている必要としている必要としている・・・
縄ばしごを上り、大きくなっていく外の光と比例するように彼の思いは肥大していった。
井戸の縁に手をかけて、体を乗り出す。手にした銀色の三日月がきらきら反射して井戸の縁にかかる。荒れた雑草だらけの空き地を見回す。
彼女はそこにいなかった。
◆
僕の心は燃え上がったんだ。生れて初めて燃え上がった。
他人に迷惑をかけてはいけないとか、助け合いで生活が成り立っているとか、人権とか倫理観とかそういうものをすべて焼き尽くしてしまうくらいに。
僕の望むものは僕の中で火種となり、激しく燃焼した。
だから僕は盗んだ。僕が生きる世界の太陽を。
◆
村の空を闇が覆い、夜の時間が永遠に支配し、鳥は声を殺し木々は眠りについたその日。
村には大きなジャムの工場があった。村の果樹園で獲れた果物を加工し、瓶に詰めて出荷していた。村の第一の収入減を彼が知らないはずがなく、彼が一番最初に自分の必要なものを手に入れる仕入れ先としてジャムの工場を思い付いたのは必然的であった。
工場には手ごろな大きさのネジ式のガラス瓶が大量にあった。分厚いガラス底の瓶や、ランタンの形をしたもの、果物の形をしたものなど、様々な変わった形の瓶もあった。彼は一切合財幌付のトラックに積んだ。彼の旅には必要不可欠なものだった。
町の人々は集会所に集まって、議論していた。異常な状況が、彼が太陽を盗んだせいとは微塵も考えず、終わらない夜について想像を巡らしている。
彼はガラス瓶をしこたまジャムの出荷用トラックの荷台に積み込むと、トラックに乗り込んで発車した。ガラス瓶に入れた太陽は、眩しく光り、フロントウインドウの前に置かれていた。夜道を照らす素敵な灯りになった。
彼はこのとき、まだ村の夜を奪い、昼を失って夜に閉じ込められた村から出られなかった。村は他の世界から切り取られ、夜だけをループし、彼もその例に漏れなかった。
彼にはトラックの運転手が必要だった。彼を連れ出せる、敏腕運転手。彼は多分、それに誰がなりうるかを知っていた。
トラックを工場から暫く走らせ、右折すると商店が建ち並ぶ道がある。終らない議論をしている村人たちは残らず集会所に行って身を寄せ合っているから、村はひっそり静まり返っている。
彼は床屋の正面にトラックで突っ込んだ。ハリボテみたいなドアも窓も壁も柔らかく砕け散った。
何の因果か。このとき、トラックが潰れたり、彼が大怪我をしたりしたら、太陽を盗んだ彼を捕まえ、村人たちはモラルと法律に則って彼から太陽を奪い返し、社会的制裁を加えることができたのに。安普請の床屋の壁が彼の試みを幇助し、トラックも彼も傷付かなかった。
主人が不在の、真っ暗な店内に彼が降り立つと、まずぺちゃくちゃと喋りかけてくるゴーストを処分した。彼が髪を切っている間も絶えず話しかけてきた、医者を兼任していた頃の床屋の主人、床屋に毒を盛られたと訴える婦人、みじめな髪型にされたから元に戻したいという禿げ頭。皆ガラス瓶の中に入れて荷台に積む。
彼は鏡の近くにトラックを寄せ、ドアを開けておいた。鏡の前に立つと、ひょろりとした青白い顔の少年が映る。その向こうに、鏡に映る細い背中が見える。その更に向こうにやはり青白い顔の少年が・・・入れ子型に映り込み、どこまでも連なっている。合わせ鏡だ。
一度目を閉じてから、彼は目を開け、数え始めた。1、2、3・・・
入れ子型の鏡の世界の枠。
目で追う連立の写し身。
躊躇せず、数える。5、6、7・・・
8、9、10、11、12
13
世界の向こうから黒い影が跳び越えてくる。
枠をひょい、ひょい、と跨いで、二つの角と尖った長い尻尾を持つ黒い影。
彼はトラックのドアに手をかける。徐々に近付いて大きくなっていく黒い影を静かに見つめて。
黒い影がひらりと鏡を跳び出して、尻尾がくるりと宙を舞った。
その途端、彼はトラックのドアを開けた。
黒い影が彼に飛び付こうとして、トラックの運転席にひょっと吸い込まれるように入り込んだ。
彼は瞬間的にトラックのドアを閉めた。
黒い影はトラックのフロントガラスの前に置かれた太陽の瓶詰に慄いたように身を縮め、運転席に座り込む。
そして、窓の向こうの彼をじっと見つめているようだった。
彼は問うた。
「お前が悪魔か」
一瞬、間が合って、返答があった。
「そうだ。こんなことをしてただで済むと思うか?」
「だが、お前、その中じゃ何もできないだろう?」
席に座る影が何も言わずニヤリと笑う。
彼は続けて言った。
「僕の言うことを聞け。そしたら出してやる」
「悪魔と契約か?やるねぇ」
「僕はこの村の昼を手に入れた」
「分かるぞ分かるぞ。運転席に太陽を入れたガラス瓶がある。ここは夜の匂いがぷんぷんとする。非道の悪臭もな」
「ここの人間は夜でしか生きれなくなった。村は他の世界の時から切り取られて、取り残された。誰もここから出ることはできない」
「お前は何が言いたい?さあ、勿体ぶってないで言えよ」
悪魔がドアの窓にすり寄ってニヤリとする。
彼は窓越しの悪魔に顔を近付けた。
「悪魔、お前は夜のもの。夜を引き連れて夜だけの世界を生きることができる。その力で夜の道を作り、僕を連れていけ、このトラックで。僕の旅が終わるまで付き合え、永遠に」
黒い影が怒りに燃えたような気配があった。ニヤリと笑った。
「悪魔を従属させる愚か者!呪われろ!魂など腐っちまえ」
するすると、運転席に納まる。
さあ、と言った。
「どこへ行く?高潔さの欠片もない魂よ」
彼は自分の運転手を手に入れた。
◆
その男は、ガラス瓶の中で至極落ち着いていた。
参ったな。私の役目がぁ果たせないじゃないか。まさか月のペンダントの効果を知る人がいたとはね。私しか知らないんだと思っていたのに。残念な気分だ。
その月のペンダントは換金屋で手に入れた。買ったんじゃないよ。私は換金屋がどこに一番大切なものを仕舞っておくか知っていたんだ。私の仕事は社会生活もままならないから、とにかく金が必要なんだ。金目のもののありどころを押さえておくのは基本。簡単に探し当てることができた。最初はがっかりしたよ、ただの銀のペンダントに見えたから。だけど私がペンダントを手にした瞬間、私の胸を弾丸が貫いた。背後に迫っていた換金屋の主人が私を銃を撃ったんだ。目の前が歪み、ぱっと真っ暗になってそのままばたんと倒れた。お陀仏かと思いきや、意識が引っ張り戻されるようにすぅっと感覚が蘇ってきて、体にぴたりと戻った。目を開けると自分の体が自分じゃないみたいな、変な感じがした。何があったか分からなかったけど、とりあえず倒れた体を起こした。死んでいるのに私は動いていた。そのまま私は持っていた大振りのナイフで換金屋の主人を切り裂いた。私は切り裂き魔だもの。
家業のようなものだよ。町の人間は増えすぎちゃいけないから、定期的に減らす必要がある。人口が多すぎると派閥が出来て、お互いに憎み合うようになり、大きな争い事が起こる。自然淘汰のシステムとはいえ、作り上げた社会や文化を壊したら勿体ないだろう?だからちょうどいい人口を保つためのお手伝いをしなければならない。グランパの教えさ。
夜な夜な街を歩いて、人殺しを繰り返していると、理性を保つのが大変さ。私は殺しすぎてもいけないし、殺さなさすぎてもいけない。毎日町の人の人数の統計をとって、判断するんだ。長年家で貯めてきたデータを元に、保たれるべき人口と出生率と死亡率と流入者から減らす人数を割り出す。何日も殺さなくて済む日もあるし、連夜殺人をしなければ間に合わないこともある。抵抗に遭うこともあるし、捕まる恐れもある。実に神経を削る仕事だったよ。
月のペンダントを手にした日。換金屋の主人を殺して、私は奇妙なことに気付いた。私は死体になった。なのに生きている。試しにナイフで心臓を一突きしてみた。血はあまりでないし、体に穴が空いただけで死なない。手には月のペンダントが、銀とは違う光り方をしている。このペンダントのせいだって、私は確信できたよ。
頗る都合がよかったよ。なんせ死なないし、心の浮き沈みもない。疲れもしない。ちょっと食べ物はいるが、眠らないでも平気。町からは出られないが、不都合はなかった。私は終始穏やかに仕事を続ければよかった。見た目はそこまで生きている人間と変わらないし、死ぬことはない。後継ぎをもうけることに頭を悩ませる必要もなかった。この百年ほどは実に快適だった。
君を目の前にしたとき真っ先にこのペンダントに視線を向けていることにもう少し気を付けていたらね。よかった。夜中に妙にキビキビ歩いている人間がいると思えば、私を再び死者に戻し、亡霊にして仕事を奪うとはね。ああ、どうする君。私がいなくなったら誰があの町の人口を調整するのだ・・・
◆
ねぇ、旦那。
私を連れて行って下さい。連れて行って下さいよぅ。私の根城なんです。私を連れて行ったら、隠した宝のありどころを教えて差し上げますよ。
悪路に揺られてかちゃん、かちゃんと瓶同士が音を響かせる。ゴーストたちの旋律がさざ波のように押し寄せる。
僅かに外が明るくなったのを彼は認め、幌から顔を出す。黒い枝々に覆われた道を抜け出し、開けた土地に出ていた。
伸び放題の草花に覆われ、それに守られるように屋敷が佇んでいた。
トラックが、屋敷のドアの前に停まった。
私はあそこを根城にしていたんですよ?!隠し場所は普通には分からないところにしました。きっと役に立ちます。あなただって金や銀は欲しいでしょう?
喚き立てるガラス瓶を荷台に置き去りにして、彼はトラックから降り、蔦の這う屋敷を見上げた。
剥落した壁、どこまでも暗い窓の向こう。幽霊屋敷だった。
「ここで待ってろ」
彼は運転席に声をかけて、屋敷のドアに向かう。枯れた蔦で覆われたドアからドアノブを探し出すと、みしみしと音を立てて開けた。
廊下が続き、埃っぽいにおいがふわーっと外を求めるように押し寄せてくる。
彼は一歩を踏み出し、中に入った。ぎし、ぎし、と時折鳴る廊下を歩き、蜘蛛の巣を払いのける。壁紙の花や家具の趣味は古風だった。家主を失って色褪せている。
上に行く階段には見向きもせず、彼は奥まったところにひっそりと佇む黒っぽいドアに向かう。
冷たいドアノブを掴んで、引くと、キィと音を立てて開いた。床がぱっくりと口を開けているように暗く、地下へ続く階段が闇に沈んでいた。
火も点けず、彼は闇の中に足を踏み入れる。
コツ、コツ、コツ、コツ、コツ・・・・
家主がいた頃は、使用人たちがきっと地下の貯蔵庫に向かうたび、軽快な足音を響かせていただろう。
しかしそのときは二度とやって来ない。
地下の貯蔵庫は、彼らの墓場なのだから。
薄闇の地面に彼は白骨をいくつも見つける。大きいのや小さいのが薄ら浮かび上がる。
彼の目の前にはその場にそぐわぬ美しい女性が光を帯びて佇んでいる。
悲しげな表情はウェーブのかかった黒髪が縁取り、白いレースで縁取られたネグリジェからは細く美しい脚が覗く。
首には円形の銀色に光るペンダントを下げている。
「誰だか知らないけど、あなた、私を殺してくれる?」
開口一番、女性はそう言った。
彼は黙ったまま、待った。すると、女性が迸るように次々と言葉を紡ぎ始めた。
「何故なの?何故、あの人は私にこのペンダントを持たせたの?可哀相な使用人たちを残して、私は一人ぼっち、ずっとここから離れられない。どうして?どうしてこんなことになったの?幸せになれると思ったのに・・・」
はらはらと涙を流す様すら艶やかな女性を眺め、彼は初めて言葉を発した。
「どうすればいい?」
「この満月のペンダントを持って行ってくれればいいの」
女性は微笑む。
「そうすれば、私は彼らと一緒に眠ることができる」
彼は手を伸ばし、女性の胸の上に光る満月をそっと握り締める。女性は体温を帯び、温かかった。
生きている。しかし、女性は微笑んで頷く。
「私の娘がこの世界のどこかにいる。もしあの子に会ったら、こうするか」
黒い瞳が輝いた。
「助けてあげて」
ぷつり。
力づくで、満月のペンダントの鎖を千切って、彼は奪った。
薄ら光を帯びて立っていた女性は、目の光を失くした。白い肌は黒く変色し削り取られるようにしてなくなり、目は溶けて消え、体はひしゃげてバランスをなくし、白骨になってそのままかしゃんと音を立てて崩れ落ちた。
彼は手の中の光る満月を見つめ、踵を返す。
闇の中に吸い込まれるように、階段を上る。
コツ、コツ、コツ、コツ・・・・・
◆
呆れた。よくまあ私にまで辿り着いたものだ。魔術師の小間使いなんてなかなか見つかるものではないよ。第一、社会じゃ存在しないものとされているはずだからね。まあでも、それはお互い様のようだね?お前は私と喋ることができるのだから。
私も天だか地獄だか、召されぬままで困っていたんだ。旦那様が最悪な魔術道具を売り払ったと聞かせられてから恐ろしくて恐ろしくて、心配でたまらなかったんだ。その不安と恐怖を胸の内に溜め込んだまま死んだから、亡霊のままこの世に居ついているんだろうね。魔術師の小間使いになどならぬ方がよいよ。知らなくてもいい秘密を嫌でも知ることになる。
だがお前はそれを知りたいから、魔術師の家など探し当てたんだろう?いいだろう、教えてやろう。お前がどんな理由からアレが欲しいのか知らないが、偽物の月などいつか滅びなければならない。幸か不幸か、アレを探すお前は生きている。誰か生きている人間に伝えることができれば、そして生きている人間が行動していれば、いずれ誰かが悪に気付く。立ち上がる者は現れる。私はアレの滅びの芽を残すことになるんだ。
旦那様が作り出した最悪なものは四つの月。四つの月は引力によって死体を生けるものに蘇らせる。死体はその月の持ち主でなくてはならない。月を手にした死体は厭が応でも復活する。
月はそれぞれ能力が違う。死体が蘇るにも、度合いと制約がある。
満月は生きているときと変わらぬ完璧な姿になる。ただし生きる体を維持する活動はする必要がないし、復活したその地から一歩も動けない。生きる楽しみがひとつもない。
半月は身体は半分元通り。行動範囲は生きていたときの半分になる。だが普通の人間の生活ができる。食べる楽しみや寝る楽しみがあるということだ。
三日月は身体が四分の一しか復活しない。しかし自由にあちこちを移動でき、食べることも寝ることもできる。唯一生殖機能を持てる。死体が歩いているようにしか見えないがな。
新月は姿は死体のまま。行動範囲は制限されない。便利なのは飲まず食わずでよいところと、生身の人間が新月の持ち主に会っても違和感を持つことがないということだ。アンデッドとゴーストの両面を持つ存在として復活する。
つまりどの月を手にしようと、自我を取り戻した死体は生者の頃にはなかった苦悩のただ中に放りだされるということだ。自分がおぞましい姿で息をしていることを想像してみろ?一歩も動けぬ絶望を考えてみろ?いい気分がするもんだろ。
だが、その月が引き起こすのは死者が復活するだけではない。存在が知られてしまえば、そして実証されてしまえば、死者と生者の存在、生死のありように線引きが出来なくなるだろう。人間の積み上げてきた価値観を崩し去り、死んで復活した方が都合がよいという思想が蔓延るだろう。殺しても復活すればいいじゃないか、死んでも復活すればいいじゃないか、月の力で・・・
生と死はあってなきようなものになる。魔術師はそんな月を創り出したんだ。
魔術師はそれらの月をペンダントを完成させ、満足したようで、ぽっくり死んだよ。
私のように、ゴーストになることもなく、ね。
◆
彼は探す。明けない夜をふと見上げ、目を走らせる。たとえ雨降りの雲が空を覆ったとしても、空にぼんやり明るく照らす影がないか見定める。
頭を巡らし、あちこちへと目を転じ、ひたすら夜にその姿を探す。
例えどんな形をしていようと、見えなかろうと、その存在を彼は感じる。
この世で唯一探すもの。彼を突き動かし、心に抱くもの。
そして、未だ手が届かぬもの。
夜は、闇に浮かび、空に架かる姿に、手を伸ばす。
見えない月に。
◆
今夜は月が明るい夜だ。星々もあの明るさには敵わない。
僕が夜空を見上げつつ屋敷から出てくると、悪魔が声をかけてきた。
「大層なものを見つけたな」
「出発するぞ。旅はまだまだ続く」
「随分急ぐな。月を揃えて満足か?」
運転席の闇がニヤリと笑う。
僕は窓に顔を近付けて言う。
「お喋りは嫌いだ。黙って僕の言う通りにしろ」
「こんな囚われの身でお喋りも自由もできないなんてトンでもない専制君主!憐れな悪魔だ俺は」
その口調はおもしろがるようなもので、僕は冷めていく。
僕はこんなふざけた奴が大嫌いだ。
「お前を殺してやれたらいいのに」
「お前にはできない」
「まあ、いい。お前には何もできない。それとも、お前を自由の身にしたら、僕はお前に魂をとられるのかな?」
運転席の闇が膨張したかと思うと、鼓膜をつんざくような笑い声が響いた。悪魔は嘲るように言った。
「お前の魂を誰が欲しがるものか。己の欲のために何をしようと厭わない、美徳も貴さも失った腐りかけた魂をな!」
それを聞いて、僕は急に気分をよくする。頬が自然に緩み、気持ちが優しくなる。
僕はこんな自分が嫌いだ。ゴーストの声に煩わされ、親を怨み、ゴーストを支配して快楽を感じ、生まれ故郷の人々がどうなろうとお構いなし。どうでもいいものしか持たない自分が嫌いだ。
だけど嫌いな僕の嫌いな部分を嫌いで仕方のない彼女が僕の嫌いな部分を求めているのだ。
その満足から、僕は逃れられやしない。
満月のペンダントの細い鎖を結んで、首からかけ、服の下に隠す。三日月と半月と一緒になって、満月は揺れる。
荷台に上がると、ゴーストが耳障りなお喋りをしている。
卑屈な泥棒が声をかけてくる。
旦那、隠し場所は見つけましたか?
金や宝石は見つけられなかったでしょう、それもそのはず、とっておきの場所に隠しましたからね、へっへっへっへ
僕は気分よく声を張り上げた。
「さあ、出発するぞ!どこまでも進め」
エンジンがかかる音がして、がたんとトラックの荷台が大きく揺れ、ガラス瓶たちが仄かに光りながらざわめいた。
まるで笑い声のよう。
僕は夜空を見上げ、手を伸ばす。
やけに明るい満月を、掌を広げて、握り締めた。
◆
さて、彼のお話はここまで。彼の特異な道程を、わたしの知っている限りをお話した。
彼は探し続けるだろう、可哀相なあの子を、夜を巡って。それが宿命なのかもしれない。彼を生み出した彼らが授けた運命、忌むべき力にゴースト、捻じ曲げられた良心、あるいは魔術師の創り出した月に導かれて、出会ったのだから。ささいな出会いが、一生を左右し心を捕らえて離さない、なんて人間にはよくあることだろう。ただ、多くの人間にとって、彼の見えている世界、生きる世界が特異で奇妙だったって、それだけだ。
彼のことを語るわたしが誰だって?
さあ、彼をずっと天井から傍観している者とでもいえばよいのか・・・
今も夜と夜の世界を繋げて、彼は旅している。
悪魔が運転するトラックに、お喋りなゴーストたちを籠めたガラス瓶をたくさん積んで、見えない月を探して。
「独蛇夏子は、3日以内に14RTされたら『腐りかけてる』というタイトルで『カオス』の話を書きます。 http://shindanmaker.com/485745」というのをTwitterの診断メーカーでやったんですけど、14RTされるはずもなく・・・。
『腐りかけてる』『カオス』でインスピレーション湧いたので書きました。
即興小説で『ゆるふわ』がお題に出るよりインスピレーション湧くってどうよ。
『腐りかけてる』はタイトルの『Rotting』です。