第九十一話 リリスの過去 ~報われぬ愛~
「おい、食事はまだか? 早く持ってこないか」
私は薄着を纏った一人の男性の食事の準備をしてる事に気づく。
これはどういう事なの?
ふと私は自分の姿を確認する。
今までの魔術師の姿や天使の姿とも違う、薄い生地で出来た飾り気の無い藍色のワンピースを着ていて、体つきも大人になっているし髪も長くなっている。
これは私じゃない。じゃあ私は他の誰かになってしまったの?
確か破滅の女神の根源によって、シュウとの融合を強制的に解除させられて、元に戻った後に私の体へリリスが乗り移って……。
それなら、リリスになってしまったの?
でもおかしい。使っている調理器具やこの格好、どうみても相当古い時代の物。
周りの風景も魔界とは違うし、シュウやラプラタ様の姿も無い。
何故……?
「さっさとしないか? 役立たずめ」
今おきているこの謎の現象を理解しようと考えるが、それを遮るかのように先程食事を急がせた男性から再び冷たくも痛い言葉を浴びせられる。
とりあえず今は従っておこう。
このままここに居れば、やがては嫌でも現状が解るはず。
そう思い、急いで食事の準備を進める。
「お待たせしました。遅くなって申し訳ございません」
急ぎでかつ、不慣れな道具を使った割にはかなり良い出来だ。
シュウならまず間違いなく目を輝かせて感動し、喜んでくれる。
これならきっと彼も満足してくれるであろう、そう思い料理の乗った皿を彼の前へと差し出す。
「痛っ……」
しかし彼はその料理を一口食べると、皿ごと私の顔へと投げつけてくる。
皿の角が額に当たった痛みと、酷い仕打ちに私は自分でも気づかないうちに目から涙を流していた。
「何だこれは! こんな物を食べさせようとしていたのか? 作り直せ!」
そして次に私へ返って来たのは労いを示す笑顔でも感謝を表すの言葉でも無く、酷い怒声と仕打ちだった。
「はい……、申し訳ございません」
何故ここまでされて従順になっているの?
あり得ない。自分でもこんな相手に詫びるなんて信じられない。
いつもの私ならこんな不届き者、ぐうの音も出ない程に言い返してやるのに。
「それでも彼は、私を愛してくれている。当時の私はそう信じていたもの。あなたも誰かを愛しているなら解るはずよ」
「だ、誰!?」
私が投げつけられ、散らかった料理と壊れた皿を片付けようとほんの僅かな時間、彼から目を離した時、再び聞きなれない声が聞こえてくる。
その声に反応し再び顔をあげると、周りの景色はシュウが時を止めたようにぴたりと静止してしまっている事に気づく。
ただ一つ、私の目の前にいる今の私とそっくりであろう女性を除いて。
「あなたは……、リリス?」
「今までは性の快楽に酔わせ、狂わせ、墜としてから乗っ取っていたのに。まさかここへたどり着くなんて」
彼女は悲しそうな表情のまま、こちらを見て謎めいた事を語りだす。
「折角だから全てを見ていくといいわ。そうすればあなたも今の考えを改める」
そう言い残し、彼女はゆっくりと体を翻すと止まった時は再び動き出す。
見ていくという事は、ここはリリスの記憶の中……?
じゃあ私が今見て、体験しているのはリリスの過去って事なの?
「何だその態度は? そんなにこのアダムが気に入らぬか!」
「あぐっ……」
どうにか今おきている状況を理解しかけている時、腹部は鈍く重い痛みに支配される。
酷い苦痛と呼吸が出来ず、私はその場でうずくまり回復するまでじっと動かないようにした。
「ふん、もう食事は入らん! そもそもこんな小汚い者に頼んだ私が馬鹿だった」
彼は心無い言葉と唾を私へと吐きかけ、その場から去っていってしまう。
その時私は、彼の要求に答えられない自分の情けなさを感じていた。
何故ここまで私は……、リリスは虐げられているのか?
彼はアダムと言っていた。アダムと言えば人類の祖と言われ、イヴと二人で仲睦まじく過ごしたと言う神話を本で読んだ事がある。
私が知っている神話は嘘だったの?
よく解らない。でもこの気持ち、リリスはアダムを愛しているみたいだね。
あんなに酷い事されてもまだ彼の事を思っているもの。
そして私がリリスの過去をリリス本人となって体験させられてから数日が経った。
その間も彼の仕打ちが止む事は無く、彼が私の顔を見た後に口を開けば私の事を下賎、小汚い、低俗と罵り続けた。
それでもリリスになった私は、懸命にそして健気に彼へ献身し続けた。
リリスと一つになったせいで意識や思いが流れてこんでいるらしく、リリスが彼に対する気持ちはよく理解できたと思う。
でもエミリアの部分は、ずっと不思議と思っていた事がいくつかある。
何故そこまで彼を愛しているのか?
イヴと言うのは、リリスの別名の事だったのか?
ここから何故あんな狂気なる存在へと変わってしまったのか?
解らないまま、時間だけ流れていき、そしてある日。
私はアダムの夜の相手をして疲れ眠っていた時、ふと目が覚める。
隣には私を散々玩んだ彼は居なかったが、近くに茂みがぼんやりと淡く光っている事に気づき、立ち上がりそちらへ何気なく向かう事にする。
そこで彼の口から聞いた言葉は、私の価値観を大きく変えてしまうほど衝撃的だった。
「何故ですか天使様。あのような汚らわしい者と一緒にいるなんて耐えれません! 代わりのパートナーを!」
「お互いに体を交え、愛し合っているのにですか?」
「愛? そんなモノはありません。知恵の実を食べてからは、時折自分でも抑えられないほど気持ちが昂ってしまう為、彼女で発散しているだけなのです」
彼のその言葉を聞いた瞬間、私は全身の力が抜けていくのを感じた。
私は、彼が愛してくれていると何の疑いも無く信じていた。
日ごろから繰り返される私への言動は全部私がしっかりしていないから、私が彼を満足させられていないからこそされるものだと思っていたし、だからこそ出来る限り彼には答えてあげたいと思っていた。
それなのに!
私は都合のいい女でしかなかったんだね。
私が信じていた物は、全部嘘だったんだね。
私、今まで何やってたのだろう。
全身が震え、胸の中の何かが張り裂けた瞬間、私は何も言わず彼の下から去った。




