第五十三話 心の闇 ~暗澹なる過去の果てに~
空に引っ張られる感覚の後に失神して、気がつくとあたしは実家がある村の広場に居た。
「やーい、おとこおんなー!」
「気持ち悪いな! 俺たちの後をついてくるなよ! ノロマがうつるだろー!」
「酷いよう、どうして皆あたしの事いじめるの?」
目の前で小さな女の子が泣いていた。
同年代くらいの男の子達に囲まれて、木の枝で突かれたり悪口を言われている。
それでも、女の子は馬鹿にしてきた男の子たちについていこうとしていた。
紛れも無い、これはあたしの過去だ。
そしてこの女の子は、まだ兵士の訓練学校に入る前のあたし。
己を知るって事は、過去を見せるって事なのかな?
過去のあたしは今のあたしの存在には気づいていないのか、近くに居るのにまるで見向きもしない。
あたしは、過去の自分に触れようと手を伸ばそうとする。
「あたしはずっといじめられていた。誰からも認められず、誰にも好かれなかった。最初は取り入られようと頑張ったけれども何にも周りは変わらず、やがてそれも無為無駄と感じるようになってきた」
もう一人の幼い自分に触れる瞬間、まるで時間が止まったかのように流れていた周りの風景は止まり、過去のあたしは年齢に相応しくない口調でこちらを振り向き語り始める。
あたしがいじめられ続けて悟った事、全てを諦めた瞬間にたどり着いた結論をはっきりと言われてしまい、思わず胸の中と顔が熱くなってしまう。
「そ、そんな事ないよ! そんなの嘘なんだから!」
あたしは必死に否定してみたが、何だか余計に恥ずかしくなってしまう。
自分が今まで散々そう思ってきたのに、何で今更誤魔化したり隠したりする必要があるのだろう?
うう、でも何だか嫌な気分。
胸に手を押さえ、気分の悪さともう一人の自分から目を背けた瞬間、止まっていた風景は再び物凄い速度で流れ始める。
その光景に戸惑っている中、今度は兵士の訓練学校の教室内が映し出された。
「ねね、シュウちゃん。一緒に帰ろう」
「うんー」
授業の終わりを告げる鐘がなり、教官が部屋から出て行くと同時に、あたしの隣に座っていた感じの良さそうな女の子が笑顔で手を伸ばし誘ってくる。
もちろんこの場面も覚えている。
何も出来ないあたしに初めて出来たお友達の女の子。
ずっと続く。この子となら仲良くやっていけるって当時は疑いもしなかったよね。
「あああ! ごめんねごめんね」
「お前、どこ見ているんだ?」
いじめなんて些細なきっかけから始まるものだ。
あたしが食事で出たスープを自分の机へと持っていく時に、つまづいてしまいとある男の子へとかけてしまった。
だがそのかけた相手が、貴族の家の人で教室の学生の半数を牛耳っている存在だと言う事が、あたしの不運だった。
慌ててスープのかかったズボンの裾を持っていたハンカチで拭こうとするが、貴族の少年はあたしの手を避けると自分のズボンのポケットから出した高級そうなハンカチで拭きだす。
「まあ、いいよ。別にわざとじゃないだろうし」
あれ、何か酷い報復が待っているんじゃないかとドキドキしていたが、何もされない?
よかった。目をつけられたら大変な事になっちゃうからね。
あたしも気をつけないと……。
この時は、事なき事を得たと安堵していたけれども。
「ねえ、一緒に帰ろう!」
あたしは何とか笑顔を作って友達の女の子の手を握ろうとする。
しかし女の子は無言かつ冷たい表情のまま、あたしを避けるようにその場から去ってしまった。
学生時代のあたしは唯一の友達に見捨てられた事を悟ったのか、その場で泣き出してしまう。
泣いたって何にもならないのにね。
その時、他のクラスメイトがクスクスと意地が悪く笑っていたのは気のせいじゃない。
その出来事から、あたしの学生生活は生き地獄と化す。
朝登校してきたらあたしが普段使う机の上はゴミでぐしゃぐしゃ。他の誰かに話しかけても無視される。食事は基本邪魔され、持ってきたお弁当が捨てられたり、食べられない程いたずらされる事もあった。いじめは次第にエスカレートしていき、訓練中でおふざけの名の下、半殺しにされた事だってある。
最初は何とか懸命に抵抗していたつもりだけど、毎日飽きもせずに行われる酷い仕打ちのせいで、次第に諦めて成すがままになっていた。
意を決してお父さんやお母さんにも相談したけれど、いじめなんてやり返せって言うだけであたしを助けてくれない。
教官にも相談したけれど、何故かまともに取り合ってくれないのは、以前にあたしが不注意でスープをひっかけてしまった貴族出身の男の子が首謀者で、大人たちにも何らかしらの根回しがされているって事くらいは鈍いあたしでも容易に予想できた。
「人間なんて、自分に都合が悪くなれば自分以外の誰かなんて容易く切り捨てる」
そうだよね。仲が良いなんて、所詮、あたしの思い込みだったんだよね。
でも別にそれが悪い事じゃないって今なら理解できるの。
あのままあたしと付き合っていたら、あの子までいじめられていたもの。
そんなの、あたしには耐えられないよ。つらいのは自分だけでいい。
「人間は常に自分を理解して欲しい、受け入れて欲しい、認めて欲しい、愛して欲しいと思うくせに、自分は都合のいい時しか相手を理解しようしない身勝手で打算的な生き物だ。弱いものを虐げて、強いものには媚びるどうしようもない存在なんだ」
あたしが今まで思ってきた事をもう一人のあたしが延々と、深く暗いどろどろとした感情と共にあたしへと投げかけてくる。
その声に耐え切れなくなり両耳を両手で塞いでしゃがみこみ、そのじめじめとした声を聞かないようにするが、それでも聞こえなくなる事無かった。
「人間なんて嫌いだ。皆嫌いだ。悪魔な自分が好き。自分が一番好き」
再びあたしは、もう一人の自分を見る。
すると周囲の景色は再び流れを止め、もう一人の自分はいつの間にか悪魔の姿になっていて、満足げな笑みを浮かべている。
「そんな事ないもん! た、たしかに昔はどうしようもなかったけれども……」
そうだ、昔はもう一人の自分が言うとおりだったんだ。
でも今は違う。あたしのかけがえの無い人も出来たし、ラプラタ様とかリトリアとかにも良く思われている。
「エミリアの事、好きなのは解ってるよ。だってあたしはあなただもの。けれども、エミリアは本当にあなたの事を好きでいてくれているの?」
「そ、そんなの当たり前だよ!」
何を今更言っているの?
エミリアはずっとあたしの事を信頼してるって言ってた。あの人が建前や体面を気にしたり、他の誰かが傷つく嘘を言わない人って事は、頭の悪いあたしでも知ってるのに。
でもなんだろう、凄く胸が痛いのはどうして?
もしかして、本当は疑っているの?
ううん、そんな事は無いんだ。今までは裏切られてきたけど、エミリアは違うんだ。
「ラプラタ様だってそう、あなたに利用できる価値があるから付き合っているだけじゃないの?」
「うるさい! 違うもん!」
駄目だ、相手のいう事を聞いちゃ駄目なんだ。
もっと心を強く持たないと、自分なんかに負けちゃ駄目なんだ!
「何でそんなにムキになるの? それってやっぱり自分は誰からも必要とされていない。いらない人間だと言う事を認めているんじゃない」
「そんな事ない! 今はこんなあたしでも必要としてくれる人がいるんだ!」
そうだ、あたしにはエミリアがいる。もう一人じゃない、あたしは一人じゃない。
「本当にあなたを理解しているのは、あたしだけ。アイリスだけだよ」
その名前を聞いた時、あたしの呼吸は一瞬止まり、心臓の鼓動が早くなっていく。
どうしようもなくて、誰も救ってくれなかった。
頼れる人も居なくて、自分に自信が持てなかったあたしは苦しかったり辛かったりすると、鏡の前で自分とは違うもう一人の自分を演じて自分自身を慰めていた。
あくまで演じるだけであって、意識は勿論あたしだし繰り返しても自我が変わるとかは無かったけれども、普段着ないような可愛らしい衣装を着たり、口調を変えてみたりしていた。その時に演じていたもう一人の自分の名前がアイリスだった。
シュウなんて男っぽい名前は嫌だ、女の子らしい名前が欲しいって願いを込めてつけられたどこにでもある名前だ。
「そんな顔しなくてもいいよ。あたしはアイリス。あなたの事を愛して、守って、慰めてあげる」
「違う! あたしはシュウだ!」
悪魔の姿となったもう一人のあたし、アイリスと名乗る少女は両手を広げ、優しい微笑であたしを受け入れようとしている。
しかしあたしは、その誘いを拒絶するかのように腰に下げていた短剣を抜き構えた。
もう嫌だ、こんな幻に付き合っていたらどうにかなりそうだ。
今だって心臓が痛いし、胸は苦しいし、何だか気持ち悪いし。
「あたしに勝てると思うの? アイリスはとっても強いんだから」
あんなあたしの幻想、所詮はストレス解消の産物。
辛い現実を生きて来たあたしが負けるわけが無い!
「深淵なる力の解放!」
あたしは悪魔の姿になるべく、聞き手を空へと高らかに上げて変身する時の言葉を言い放つ。
これで変身して、あんな不愉快な存在をやっつけるんだ。
「あ、あれ? どうして変身してないの?」
しかし変身する時の黒い光は発生せず、何かがおきる気配はまるで無い。
「シュウちゃん、悪魔の力はアイリスのものだよ? だからシュウちゃんだけでは使えないの」
う、嘘でしょ……。
もしかして、駄目な自分を捨てて他の優れた何かに変身したいって願望がアイリスであり、悪魔化したあたしという事だからなの?
そ、そんなのないよ!
あたしの命を代償にして、エミリアを救いたいって思いの結実が悪魔の力だと思っていた。
それすらも勘違い、嘘だなんて嫌だよ!
「エミリアって人は確かにいい人だね。でもね、シュウちゃんの事は何とも思ってないんだよ?」
「何でそういう事言うの? あなたに何が解るの?」
あたしが不安になればなるほど、アイリスは笑顔になっていく。
優越感に浸る様子が、目に見えて解るのがなんだか悔しい。
「さっきも言ったけれど、みんなあなたに利用価値があるから付き合っているの。用が済めば何事も無かったかのように縁を切るの」
「違うもん! エミリアはそんな事無い!」
何度でも言ってやる。エミリアは断じて違うって!
あの人は、あたしの事を信頼しているって言ってくれた。好きって言ってくれた。
だから、エミリアだけはそんなのじゃない!
「どうして? どこにそんな保障があるの? 自信満々に言ってるけれど、何故そこまで期待出来るの?」
あたしがどんなに必死に叫んでも、どんなに強く拒んでも、もう一人のあたしは自分の踏み込んで欲しくない心の領域へ土足で踏み入っていくような、酷い屈辱感に苛まれる。
「アイリスには解るよ。エミリアがシュウちゃんを将来的には裏切るって事」
「えっ。な、なんでそんな事が解るのよ!」
「エミリアは天使の記憶を完全には取り戻していないんだよね。大いなる厄災に対抗する為に力を得る過程で失った記憶も蘇ると思うの。もしも完全に天使の記憶を取り戻したら、シュウちゃんなんて相手にするのかな?」
「……っ!」
あたしは再び強く反論しようとしたが、結局出来ずに言葉が詰まってしまう。
それと同時に、何度拭ってもおさまらない程の大量の涙が目から溢れ出す。
なんで、どうしてこんなに悲しいの?
天使になったってエミリアはエミリアなんだから、そんな事あるわけがないのに。
でも、本当に天使としての記憶を完全に取り戻したらあたしなんて……。
「そ、そんな事……、な、ないもん」
泣きながら必死に反論するも、上手く言えずしまいには声が裏返ってしまう。
そうだよね、それは正直ずっと思っていた。
どんなに否定したって、いざ記憶を取り戻して正真正銘の天使になってしまったら、あたしの事なんてきっと……。
現実は無情だ。誰もあたしを助けてくれない。
全てを諦めた時、短剣を握る手の力が消えて無くなってしまう。
い、嫌だよエミリア。あたしから離れないでよ。
どうしてみんなあたしを一人ぼっちにするの?
あたしだってみんなから好かれたいし愛されたいのに。
見た目が悪いからなの?
どじだから?
頭が悪くて何も出来ないから?
ねえ、どうして?
「本当にあなたの事を解るのはアイリスだけだよ」
何が何だかわけが解らなくなって、もう頭の中ぐちゃぐちゃで、何を信じればいいのか解らなくなって、ただ助けを求めていた自分を、アイリスは優しい言葉をかけてくれながら、まるであたしの全てを受け入れてくれるかのように温かく包み込むように抱きしめてくれる。
ああ、あったかい。
そうだよね。
自分の苦しい事は自分が一番解るから、もう一人の自分であるアイリスなら全部解ってくれるんだよね。
ありがとうね。今までずっとあたしを慰めてくれて。
「シュウちゃんは、アイリスのものだからね……」
何だかとても気持ちいい。あたしはアイリスのモノ。大好きなアイリスだけのあたし……。




