第二十二話 気が遠くなる程、昔の記憶と愛情
王様を襲撃した男が言った天使という存在を、あたしは勿論知っている。
背中から真っ白な翼が生えてて、悪魔と戦い人々を導く、気高くも慈愛に満ちている存在って感じなんだけれども、そんなの神話やおとぎ話とか作り話でしか出ない様な空想上の生き物なんて信じているわけでもなく、そもそも天使崇拝はとっくの昔に廃れてしまったらしいから、あたしの人生において全く無縁の存在だと思ってた。
けれども、今は違う。そんなフィクション上の生き物は本当にいるんだ。
今まで特に気にも留めていなかった天使と言う存在を心から信じてしまう程の光景を、間に当たりにしてしまったのだ。
それは、あたしがエミリアから逃げ出してしまった昨日の夜の出来事。
「え、う、嘘でしょ……?」
何が何だか、正直訳が解らない。
あたしは自分自身を何度も疑い、今目の前に起きている出来事を幾度と無く確認するけれども、何度見てもベッドの上で苦しんでいるエミリアの背中からは、眩く輝く一対の翼が生えている。
な、なんで。どうして。エミリアに翼が生えちゃってるの!
悪い夢でも見てるのかな……?
苦しむエミリアはあたしの方に気づかないのか、体を震わせてうずくまったまま、じっと苦痛に耐えているようだ。
そ、そうだよ!
エミリアが苦しんでいるのに、あたしは何をしているの?
ここで呆然と立っているだけじゃ駄目だし、戸惑っている場合じゃないよ!
何とかしないと。あたしはエミリアの騎士なんだから。
勇気を振り絞り、あたしはゆっくりとエミリアへ近づいていく。なるべく足音をたてないようにそっと踏み込み、エミリアの体を触れようとした瞬間。
「ひいっ」
今までベッドの上で丸くなっていたエミリアは急に立ち上がると、綺麗な黒髪は眩い金髪へと変化する。
変な声だしちゃったけども気づかれる事は無く、それどころか虚ろなまなざしのまま窓の方へと歩いていき、月の明かりが体に触れると手と翼を広げ、その光を体全体で受け止めようとした。
普段のエミリアからは想像もつかないような、あまりに奇怪な行動とエミリアの呆然とした表情に、あたしはこれ以上彼女の近くにいると自分にも何かが起こりそうな、本当は見てはいけないものを見ているような気分になって、結果何も出来ずに怖くなって部屋から逃げてしまった。
「私は、セラフィムを迎えにきたのだよ。今度こそ、永遠の契りを結ぶためにね」
まずい、凄くまずいよ。
今エミリアは支度をしてこちらへ向かってきている。
もしもこのヘンタイ男と合わせたら、こいつは絶対にエミリアを連れて行ってしまう。しかも相手はかなり手ごわい相手なんだよね、団長があんだけぼろぼろにされてるし……。
本当に天使だったら、たぶん全員で戦っても勝てないんじゃないかな。
だってこっちは人間だよ?
確かに皆何でも出来る人ばかりで、あたしを除けば優秀な人だけれども、相手は神話上の生き物なんだよ?
絶対にむりむり、だからエミリアがここに来る前に何とかしないと。
どうしよう、うーん。
あたしは無い知恵を絞り、周りを確認しながらどうすればエミリアを救えるか必死で考える。
あ、そうだ、いい事を思いついた。意外と早く思いつくとかあたしって冴えてるー!
「団長! あたしは邪魔そうなのでここから撤退します!」
「解った。出来れば他の兵士に増援を頼む!」
「はいっ!」
どうせあたしが居た所で足手まといになるのは目に見えている、だからここは撤退するふりをしてこっちに向かっているエミリアを来させないようにしないと。
下手に引きとめられなくて良かった、団長もあたしの実力解っているからね。
「遅くなってごめんね、あれ? シュウどこにいこうとしてるの?」
謁見の間から出ようと体の向きを変えた瞬間、入り口からエミリアが真剣な面持ちのまま現れる。
嘘でしょおお!
もう作戦失敗になっちゃったよ!
あと少しだったのに、何でこんなにあたしってタイミング悪いの……。うぐぐ。
「君をずっと待っていた。やっと会えた、嬉しいよ」
「何を言っているの?」
最も最悪な場面を、あたしは目の当たりにしているのかもしれない。
今までどんな窮地も乗り越えてきた、けれども今回は流石に諦めるしかないと思っている。
だってあのヘンタイ男が本当に天使だとしたら、絶対に勝ち目は無いもの。
怖い、怖いよ……。
「さあ、帰ろう。天界へはもう戻れないけれども、魔界に私の城がある。そこが私たちの新たな愛の巣となるのだよ」
「意味が解らない。私の帰る場所はここだから、あなたにはついて行かない」
こういう時こそ、頑張って立ち向かわないと駄目なのに。
解決方法を考えようとしても頭の中真っ白になっちゃって、何も思い浮かばないよ。
このままではエミリアは連れて行かれてしまう。それだけは間違いないのにどうして、あたしの体は動けないの?
怖くって、寒くって、息苦しくって、泣きそうで、もう駄目だよ……。
あたしは目の前が潤んで霞んできた時、ふとエミリアの方を見る。
いつもは頼もしい笑顔を見せてくれるのに、何故かすごい困惑している。
あたしの勘違いかもしれないけれど、妙に不安がっているのは気のせいかな?
その瞬間、あたしの脳裏にあの日の夜の事が浮かぶ。それと同時に、まるで金縛りにあったように自分の意志では動けず、小刻みに震える事しか出来なかった体の底から力がじわりと湧き出していく。
あの時、彼女は苦しんでいた。痛がっていた。
それにもかかわらず、あたしに優しい笑顔を見せてくれた。自分の事よりもあたしの事を考えてくれる人がいるって事を知った。そしてあたしは決めたんだった。
あの時エミリアを守るって誓ったじゃない。
全身が寒くなるほどの恐怖は、熱く滾るほどの勇気へと変わっていく。
「アハァ、転生した時に記憶を失ってしまったのだね? ならば思い出させてあげよう。そして自らの口で解放の言葉を紡ぐのだ」
今は怖がっている場合じゃない。この一番大事な時こそ、動かなきゃ駄目なんだ!
動けあたしの体!
震えている場合じゃないよ!
みんな得体の知れない相手にどうしようか迷ってて動けない時だから、あたしがやらなきゃいけない。他の誰でもない、自分の手でエミリアを守らなきゃいけないんだ!
剣を強く握り締め、体勢を可能な限り前かがみにしつつ、あの天使に己の全てを力をこめた一撃を叩き込む。
しかし天使は瞬時に黒く鈍く輝く水晶で出来た剣を出すと、まるで何事も無くあたしの攻撃を軽々とその剣で防いでしまう。
「に、逃げてエミリア! お願い……」
「私とセラフィムの恋路を邪魔しようとするのかい? 実におこがましいと思うだろう?」
天使は剣を大きく弧を描くように振り払うと、自身の力と体重の全てをかけた攻撃は行き場を失い、大きく体勢を崩してよろめくと、剣の柄であたしの腹部を軽く叩く。すると、まるで巨大な何かに勢いよくぶつかったかのような衝撃が全身を駆け巡ると後ろに大きく吹き飛ばされてしまう。
後ろの壁にぶつかっちゃったのかな、気がついた時は背中と後頭部が酷く痛い。
「シュウ!」
あたしの事を心配してくれている。あなたはそうやって自分の事よりもあたしの事ばかり考えていてくれる。凄く嬉しいよ。こんなに他の誰かに大切にされた事なかったもの。
「は、早く、ここからなるべく……、遠くへ……」
だからお願い、早くここから逃げて。今は理由なんてどうでもいいの。ここに居たらあたしの大切な、こんなあたしでも好きでいてくれているあなたが、別の何かになってしまいそうで。物凄く遠い存在になりそうで怖いの。
「無為に命を奪う事は好きではないんだ。可能な限り手は抜こう。爆滅の神光、ディバイニティバースト!」
「うわあああああ!」
エミリア……、逃げて……。




