第九十四話 リリスの過去 ~最後の一人~
『私はとても臆病で、何も出来ないけれど、それでもあなたの側に居たい思いを募らせて』
聞きなれた声が聞こえてくる。
この歌って、建国記念祭で私が歌った歌……?
『どんなに辛い事があったとしても、挫けそうでも、この気持ちに嘘はつけずに、ただ、あなたの優しい笑顔だけを見ていたい』
でもどうして?
何故こんなにもはっきりと聞こえてくるの?
私はあの時、確かに消えてなくなったはずなのに。
『このまま隣に居たいと願うけれど、無情にも引き離されてしまい、私とあなたは、運命の女神の悪戯にもてあそばれる』
私はリリスから今までに感じた事が無い程強烈な快楽を与えられ、それを拒む事もせず素直に受け入れ、そしてさらに得たいと心から願った。
『それでもずっと、私はあなたの事を思い続けよう。そして――』
私は何もかもを捨ててもリリスが与えた悦楽を欲した。
地位、名誉、絆、記憶、感情、魂。
自分が持っているもの全部を捨ててもいいと思ってしまうくらい、彼女に夢中になった。
その結果、私はリリスと一つになった。
だからこのまま底なしの闇の中へ溶けてなくなっているはずなのに。
『これからもずっと一緒に居よう。この思い、永遠に続きますように』
この歌を聞いていると、それじゃあ駄目なんだって気持ちが湧いてくるよ。
「あたしのエミリアは、どんな時でも優しい笑顔をしてくれて、いつも余裕があって、何でも出来て美人で巨乳で、もうとにかくぐうの音が出ない程の万能完璧超人なんだ!」
そんなのは押し付けなんだよ。
私はあなたが思っているような存在じゃない。
淫楽に負けてしまうくらいに弱くて、情けない。
それが私、リリスの誘惑に負け快楽に溺れたエミリアなのに。
でもどうしてだろう。
あなたの声が聞こえてるたびに、ただ気持ちのよい事だけを求めていた体に力がみなぎっていくような気がする。
「あたしのエミリアは、リリスなんかに負けないんだー!」
その言葉を聞いた直後、全身に強い衝撃が走る。
その瞬間から、まどろみ淀んでいた意識が鋭く、瞬く間に覚醒していく。
それはまるで、暗雲たちこめる空を切り裂く一筋の陽光のように強くて、熱くて、そして輝かしい。
……こんなにかあいくて私の事好きでいてくれるひと、ほっとけないよね。
よし、手を握った感覚もあるし、足も動かせる。
起きなきゃ、シュウが待っていてくれている。
行かなきゃ、私の事を必要としてくれている場所へ。
さあ目覚めて私、リリスの手で生み出された忘我の海に溺れている暇は無いの。
そう自分に言い聞かせながら、私は全身にまとわりつく心地よさを振り切り、重たい瞼をゆっくりと開けていく。
「ここは……?」
リリスが与えてくれた快楽から抜け出る事の出来た私を待っていたのは、リリスがかつて祝福を受けた場所だった。
そこは植物が枯れ果ててしまい、大地は腐敗し、生き物の気配は全く感じない。
元々は綺麗な場所だったのに、彼女の影響によって多くの伝染病が蔓延する死の大地と化してしまっていているんだよね。
私の体が酷く震え、穏やかな心が再び陰ろうとしているのを感じる。
リリスが受けた、過去の忌々しき出来事の数々を思い出したからかもしれない。
「あなたはリリムの呪縛から解放された。ずっとあなたの様な方を待っていました」
そんな気持ちの中、私の目の前にぼんやりと蜃気楼の様に揺らめいているリリスの姿が映し出される。
意味深な言葉を私へと言うリリスの表情にかつての禍々しさは無く、とても穏やかだった。
「お願いがあるのです。全てを知り、リリムを救って欲しいのです」
「全てを知るってどういう事なの? 私が体験した事が全てじゃないの? リリムって誰?」
私はリリスの言った事が理解出来なかった、だから聞こうとしたのに。
問いかけた瞬間、彼女は水に薄まっていくようにすっと消えてしまう。
リリスは何を言いたくって、私に何をして欲しかったのか?
リリムとは誰の事なのか?
全てを知るって、まだ何か知らされていない事実があるというの?
彼女が言い残した言葉をどうにか理解しようと、熟考をしようとしていた時。
「あれは!」
「もうじきあなたの命は尽き果てるでしょう」
腐敗した大地に祝福のせいで瀕死になったリリスの目の前に、自身の身長とほぼ同じくらいの緩いウェーブがかかった金髪と、とても優しくて慈悲深い表情と眼差しが印象的な天使がいる事に気づく。
あの天使は間違いない。高位天使の一体であり、治療と防御の天空術に長けた大天使ラファエルだ。
でも何故、ラファエルがこんな所へ来ているの?
私は、二人の会話がよく聞こえる場所へと向かう。
どうやら今はリリスと一つではなく、エミリアとして行動出来るらしい。
ちょっと前に自身の前世と対峙した時と同じ様に、相手はたぶんこちらに気づいていないという事は、これもまたリリスの記憶の一部なのかもしれない。
「あなたにしてきた事、されてきた事を全て見ていました。だから許してだなんていえませんし、許されようなんて思っていません。ですが、私なりに罪滅ぼしをさせて欲しいのです」
その言葉を聞いて、私は酷く憤怒する。
何を今更言っているの?
天使がリリスに散々酷い事をしておいて罪滅ぼし?
あまりにも虫が良すぎる。こんなんじゃ怨まれても仕方ないよね。
「あなたが最後の産み落とした子の命を助けます。そして成人し、自身の意志を持つまで私が育てましょう」
しかし私のそんな気持ちとは逆にリリスは、今まで虚ろで何にも興味を示さず、ラファエルが来ても全く無視をしていたが子供の命を助けると聞いた瞬間、顔をゆっくりと上げる。
「ああ……、うあああっ!」
会話の途中にも関わらず、リリスは痛々しい悲鳴と共に子供を産み落とす。
本来ならばこの子も死ぬはずだった。
しかしラファエルは、生まれて体液にまみれた子供を取り上げてゆっくりと抱きかかえると、淡く柔らかい光が子供を優しく包み込んでいく。
「名前は、どうしますか?」
「り、リリム……。私のような苦労や苦痛とは無縁の子に……」
リリスは今まで苦痛で歪んでいた顔とはまるで違う、とても穏やかな表情をしながら生まれた子供に触れつつ名前をつけると、その場で息を引き取った。
「我が名において、この尊き命に祝福を与えん。母の願いよ、この幼子に宿れ! 恩恵の神光、ディバイニティ・ブレス!」
ラファエルはリリスの最期を看取ると、生まれたばかりの子供を天へ高らかに掲げて天空術を発動させた。
すると子供を包んでいた柔らかい光は、腐敗したこの土地を焦がすほど眩い光となっていく。
そして光がおさまると、リリスが産み落とした子の頭には、光の輪がぼんやりと掲げられていた。
ラファエルはその様子を確認したであろう後、リリスの子を大切に抱きかかえるとその場から飛び立ってしまった。
正直、意外な光景だった。
私はあのまま、リリスは苦痛の中で憎しみを育て続けていき、何らかの方法で不滅の魂を手に入れたものだとずっと思い込んでいた。
さっきの出来事が本当ならば、もう一つ引っかかる事がある。
リリスはあの場で力尽きた。
死ぬ直前のリリスの表情は、憎しみでも怨みでもなく、何だか今までの全ての出来事に満足して逝ったような気がしたからだ。
じゃあ、リリスはアダムや天使達の仕打ちを怨んでいない?
でも私が体験したあの苦痛や無念は間違いなく本物……。
解らない。いったい何が正しいというの?




