6.半妖
村の警鐘が鳴り響いたのはほんの数分前のことであった。その音を聴いた皐月はすぐさま村の門の見張りのところに駆けつけた。なにが起きたかは尋ねるまでもなかった。少し距離があるとはいえ、今までに見たことないほどの数の天狗が一直線に村に向かってきた。
そもそも、天狗は山から出てこないものだと思われていた。その天狗が群れをなして村に向かって来ている。この異常事態を前に皐月が真っ先に思ったことは弥生と喜助の安否であった。二人が向かったはずの山を縄張りにしていた天狗たちが姿を現したのだ。二人の身にもなにかあったと考えるのは自然の流れであろう。
皐月の手は震え始めた。眼前に迫ってくる天狗に怯えたわけではない。弥生と喜助に何が起きたかのではないかと想像したからだ。
「弥生……喜助……」
皐月は静かに二人の名を呟いた。そこには絶望の色が伺えた。
「二人は大丈夫よ、信じなさい」
皐月は背後からした声にはっとする。そこにはナツとウメ婆が立っていた。ナツのいうことにはまったく根拠はなかったが、不思議と説得力はあった。
「あの二人がおっ死んでいたら私が生きている間には平和は訪れないだろうね」
ウメ婆は大好きな葉巻をふかしながら笑った。
「まあ、あんな天狗にやられるわけはないと思うけどね。さあ、締めていくよ、ナツ、皐月」
普段は無口なウメ婆だが妖魔との戦闘を前にすると違う。皐月は前を見据えて震える手を強く握り締めた。
ウメ婆の言葉を合図に鞍馬村を代表する霊媒師たちの浄化が始まった。
*
村に鳴り響いた警鐘は葵と太一の耳にもしっかり届いた。
「お母さん……」
葵は不安な顔を覗かせながら母親を呼んだ。太一は葵の裾を掴みぐずっていた。
「大丈夫よ。二人は家にいなさい」
そう言う母親の顔も真っ青であった。
鞍馬村で警鐘がなることは滅多にない。妖魔が村近くに現れても数が少なければ主に皐月が村人に知られることなく片付ける。村人に余計な不安を与えないためだ。逆に言えば警鐘がなるということによって事態の大きさがわかる。さらには、今日は村の若い霊媒師の弥生が儀式を行う日ということは村の者全員が知っている。そんな時に鐘が鳴り響けば何らかの関係性を勘繰るのは当然である。
葵が家の外に目を向けると、農具という名の武器を片手に男の大人たちが慌しく村の門へと向かっている。葵につられて外の風景を目の当たりにした太一はその光景が恐かったのだろう、とうとう泣き出してしまった。
葵は泣き出した太一に遠慮のない拳骨を食らわした。
「昨日は強くなるとか言ってたくせに!」
そう言われた太一はピタッと泣きやんだ。これだけでも十分太一は強い子供といえるだろう。泣いている弟に迷わず拳骨を放つ葵のほうが数倍強いともいえるが。
「いい太一、妖魔なんかまたやー姉ときー兄が帰ってきたらすぐにぶっ飛ばしてくれるよ!」
葵は自信たっぷりに言った。太一は目を見開いて力強く何度も頷いた。葵が皐月やナツの名前を挙げずに弥生と喜助の名を出すのはやはり年齢が近い分親しみやすいのだろう。だが、今この村で二人に期待しているのは少数派である。事実、母親は二人のやり取りを見て悲しさを覚えていた。大量の妖魔が村の外に現れたのだ。最初から外にいた二人は恐らく助からない。そう思ったからだ。
「太一、行こう!」
葵は家を飛び出した。次いで太一も垂れていた鼻水を拭き取り勢いよく飛び出した。二人の突然の行動に母親の体はついていけず止めることはできなかった。
「葵! 太一! 待ちなさい!」
二人には母親の制止する声など全く耳に入ってなかった。葵と太一が行ったところでできることなど何もないだろう。そんなことは幼いながらに理解していた。それでも、葵と太一は全力で走った。
*
門の前にでは既に三十体近い天狗が結界を破ろうとしていた。見えない壁を壊そうと幾度も体当たりをかます。皐月とナツは村の門の上から矢を放つがなかなか天狗を射抜くことはできなかった。
皐月は思わず息を飲む。その理由は天狗の数が多いからではない。妖魔である天狗たちの統制がとれているからだ。妖魔は集団で行動することはあるが個々の行動は独立している。このような場合はたいていリーダーが存在する。そして、皐月は気が付く一体の特異の天狗の存在に。
結界に突っ込む天狗たちの少し後ろでどっしりと構える一体の天狗。他の天狗と比べて図体がでかく、二メートルを超える大きさである。武器も刀ではなく紅葉に似た団扇であった。しかし、その団扇の色は紅葉の綺麗さとはかけ離れていて、多くの血でも吸ってきたかのような赤紫であった。そして、内からにじみ出るような凶暴さを備えた顔つき。そこにいるだけで、結界が破れたときのためにと集まった村の男たちの戦意を喪失させるほどであった。
だが、皐月にとってそんな見た目などはどうでもよかった。皐月の目にはもっと凶悪なものが映っていたからだ。それは、今まで見たことないほど強大で禍々しい妖気である。
「皐月、集中しなさい」
ナツに言われて気が付く。皐月の手は止まっていた。皐月はひとつ息を吐くと再び矢を放ち始めた。
「ウメ婆、あとどのくらいもつ?」
ウメ婆は皐月とナツの後ろで結界の補強をし続けている。額からは汗が流れ落ち、息も切れ切れとしていた。老体であるウメ婆にとって結界の補強のため霊力を流し続けるのはかなりの重労働であった。
「ふん、まだまだいけると言いたいところじゃが……年はとりたくないね。今のペースでいけば、あと五分くらいかね」
ウメ婆は迷いもなく真実を告げる。
それを聞いた村人たちは青ざめた。結界を突破されたら自分たちの出番となる。と、同時に死が目の前に迫ってくるのだから当然だ。
「そう……」
皐月は寂しそうにそう言うと、門の上から飛び降りて、門と結界の間に立ちはだかった。
「皐月! なにやってんの戻りなさい」
ナツは声を荒げた。皐月の無謀な行動に村人たちもどよめく。
皐月がいる場所はいうならば第一の結界と第二の結界の間。せっかく二つの結界で守られているのにその一つの効力をなくす行為だ。だが、皐月の狙いはわかる。
「ここからの方が確実に、より強く当たる」
皐月はそう呟き弓を引く。
単純に天狗との距離を縮め、矢が当たる確立をあげ、かつ矢の強さを維持したまま目的を捕らえる。結界が破壊される前に少しでも多くの天狗を葬るための苦肉の策だ。第一の結界を突破された瞬間に皐月は恐らく死ぬことになるであろう。
門から降り立った皐月が放つ矢が天狗を捕らえる回数は格段に上がった。だが、目に見えるほどの効果は現れない。実際は天狗の数は少しは減っている。しかし皐月にはその実感が湧かなかった。終わりが見えない。その事実は皐月の、ナツの、村人の精神を確実に削っていった。
ひたすら印と向き合っていたウメ婆から絶望的な言葉がこぼれる。
「そろそろ不味いね……」
ナツは叫ぶ。
「皐月! 一旦、中に入りなさい!」
皐月は顔を上げナツを見る。皐月は少しなにか考えたあと首を振り再び矢を放つ。
門に掛けられている結界は先の第一の結界と少し違う。
第一の結界はいうならば見えない壁であり、場所にかけた結界である。第二の結界は門や村を囲む塀に妖魔が触れると妖魔に痛みが走る。この結界は物質に掛けられているということになる。もし皐月が中に入るため門を開け、その間に第一の結界が破壊されたら……。第二の結界は意味をなさず村の中に天狗の侵入を許すことになるだろう。皐月はその万が一の可能性を考え留まる決意をした。
「皐月おばちゃーーーーーーん!」
大きな声で皐月を呼ぶものがいた。皐月は声の主を見た。葵だ。
葵と太一はいつの間にか村の男たちの中に紛れていた。葵と太一は何かを指差した。皐月は
指の先を追った。指の先は天狗たち後方の……空?
少し遅れて村人たちも空を見上げた。そして、「あっ」と、声を出す。
皐月の目にもようやく二人が指差すものが映る。
葉だ。大きな葉が村目掛けて飛んできている。その上には人影が見える。
葉が天狗の群れの真上に来ると、一人の少年が飛び降りた。銀色の髪、黒の袈裟、背中には白い包帯で巻かれたなにかを背負っている。間違いない喜助だ。
喜助は近くにいた天狗を一体挨拶代わりといわんばかりに殴り飛ばす。
「遅くなりました皐月さん」
皐月は喜助の無事を知り安堵のため息を漏らした。
「今回は許してやろう」
皐月のクールな返答に喜助は八重歯を出して笑った。
「さあ、反撃といきましょうか」
*
「さー姉、大丈夫?」
「えー、なんとかね。……それで、これはいったいどういうこと?」
皐月は前方を見た。
これはというのは次のとおりだ。
喜助が飛び降りてきた大きな葉は天狗の群れの横に舞い降りた。村人たちはぎょっとした。そこには弥生と天狗が三体いた。弥生が天狗たちに何かを指示すると三体の天狗は目を合わせ、一度頷くと天狗の群れに攻撃を開始した。結果、先ほどまでの天狗の群れは今は喜助と天狗たちによって混戦となっている。
そして、弥生は皐月のもとに駆けつけた、というわけだ。
「えーっと、詳しいことはあとにして、とりあえずあの三人の天狗は味方なの。見分け方は髭。白い髭の天狗は味方。間違って攻撃しないでね」
皐月は驚いた。妖魔は全て悪と思っている弥生の口から味方の妖魔の紹介を受けるとは思いもしてなかった。
と、突然、門の上からナツが飛び降りる。年齢の割には身軽である。
「お母さん! びっくりしたー。もう歳なんだから無茶しないでよ」
「余計なお世話よ。で、あれは味方と解釈していいの?」
「さすがお母さん、飲み込みが早い」
「ふーん。ところで、その首にかかってるのは?」
ナツは腕を組み目を細めて弥生の黄色いスカーフを指差した。
「これ? 山の神がくれたの。お母さんの妹さんが昔使ってたやつって言ってたけどお母さん知ってる?」
ナツは少し驚いた顔を見せた。
「やっぱり! よく知ってるわ。子供のころはいつもしてたもの。どこやったのかと思ったら山の神にあげてたのね」
「ねえ、お母さん、これどう使うの?」
「さあ? わたしには全然使えなかったのよね」
「えー、さー姉は?」
「わたしは初めて見た」
「えー、結局わかんないまま実戦か」
そう言うと、弥生は迷いもなく混戦へと向かっていった。
あまりに躊躇ない弥生の行動に驚きながらも皐月は弥生を止めようとしたが、ナツに制止された。ナツは嬉しそうに笑う。
「見違えたと思わない?」
皐月はナツに言われてもう一度弥生をよく見る。そして、弥生が纏っている霊力が以前までと全く異なっていることに気づく。しかし、それ以上に皐月が感心したのは弥生の表情であった。もう今までの自信のないおどおどした見習いの顔ではない。
「子供はちょっと見ぬ間に育つものなのよ」
「ナツさん、やっぱり歳ですね」
「余計なお世話よ」
二人はクスッと一度笑い、弓を構えた。
*
弥生は結界の内側で立ち止まる。勢いよく出たはいいがどうしたものかと考える。さっきナツにスカーフの使い方を聞いたが、本当は知っている。というより予想が付いている。ただ、確証が欲しかったのだ。だが、結局ナツから情報はなにも得られなかった。
弥生は大きく深呼吸をして腹をくくる。首に巻かれていたスカーフをとり、右手で強く握る。そして、スカーフに霊力を込める。いや、流すと表現するほうが正しいかもしれない。
「おい、天狗! かかってきなさい」
結界の外にいる一体の髭の黒い天狗を結界の中から挑発する。弥生の言葉が理解できているかは定かではないが天狗は弥生に向かってきた。天狗は大きく振りかぶり刀を弥生に振り下ろそうとした。弥生は刀に向けてスカーフ差し出した。スカーフは重力を無視し、まるで一本の棒のように伸びきっていた。刀を受け止めたスカーフはそのまま刀にぐるぐると巻きついた。その動きはまるで生きているようであった。
「はっ」
弥生はスカーフに霊力を流した。霊力は刀を通して天狗にも流れる。天狗から苦痛の声が上がる。人間で言うならば電流を流されたようなものなのだろう。
天狗は声もあげず地面に倒れこむと塵となって消えていった。
弥生はほっとする。自分の考えは間違っていなかった。スカーフは霊力を込めることにより自由自在に操れる。強度も布とは思えないほど高く、刀も受け止めることができた。改めてスカーフを見て頼りになる武器を手に入れたと感心する。
弥生はふと天狗が塵となった場所に目をやり背筋を凍らせる。そこには、ヒトの頭蓋骨があった。この天狗は本当に人間が妖魔化したものなのだ。そのことを実感した瞬間、弥生は混乱した。果たして、今わたしは殺したものは妖魔なのか、はたまた人間なのか。
そのことを考えた瞬間弥生はその場に立ち尽くしてしまった。
そんな弥生に容赦なく妖魔化した人間は襲いかかる。天狗の突き出した刃は弥生の目の前で止まる。結界による見えない壁にぶち当たったのだ。慌てて弥生はスカーフを天狗の腕に巻きつけた。そのまま天狗に霊力を流そうとした。
その時、また視界にヒトの頭骸骨が入った。
弥生は再度凍りつく。このまま霊力を流せば天狗を倒せる。しかし、弥生にはできなかった。弥生の額から嫌な汗が流れる。呼吸も変に乱れる。天狗の腕に巻きつけたスカーフも力なく落ちてしまった。
解放された天狗は再び弥生に刃を向ける。
その瞬間、喜助が天狗に背後から掌底を放つ。
天狗はやはり塵となって消えていく。そして、ヒトの頭蓋骨だけが残される。弥生は一度それを見てすぐに目を逸らした。
目を逸らした先で喜助と目があった。
「喜助……これ」
弥生は不安げな声を出す。そして、天狗が残していったものを指差す。
喜助は黙ってそれを見た。そして、すぐに弥生に視線を戻した。
「違うよ。救ってるんだよ」
喜助は一言そういうと乱戦の中へと戻っていった。その一言は弥生を救った。
「生意気だな」
弥生には喜助が初めてかっこよく見えた。それが悔しくてたまらなかった。弥生は今度こそ結界の外に出た。
*
喜助と弥生、それに三体の天狗が現れてから戦局は大きく変わった。50体近くいたはずの天狗はもう数体ほどしか残っていなかった。
突如、後方に控えていた特異な天狗が雄叫びを上げる。その大きさは凄まじくその場にいた誰もが耳を塞いだ。
そして、ゆっくりと動き出した。口からは涎がぼたぼたと垂れ、真っ赤に染まった目は大きく見開き、焦点は定まっていなかった。味方の天狗と比べると気が狂っているのは明らかである。
狂った天狗の前に一体の天狗が飛び出す。先ほどまで喜助と鬼ごっこ紛いの戦いをしていた天狗だ。武器を構えることはなく、両手大きく左右に広げ、なにか言う。その言葉は弥生以外の人間にはわからなかった。だが、彼は説得しようとしているということは皆感じ取った。
次の瞬間、血しぶきが飛ぶ。天狗の血だ。味方の。
説得は失敗した。気が狂った天狗は紅葉のような団扇でかつての仲間を切り裂いた。恐らく仲間であったことなどはもう覚えていないのだろう。
二人の天狗が駆け寄る。悪堕ちした天狗は止まらない。止めを刺すといわんばかりにゆっくりと近寄る。
「さがってろ」
喜助はそれを阻止するために立ちはだかった。その言葉に従い切りつけられた天狗を抱えて後方へと下がっていく。ほぼ同時に弥生、皐月、ナツの手により残っていた天狗は片付けられていた。
辺りは一度静まり返った。
「あとはお前だけだ」
喜助は勢いよく天狗へと向かっていた。
意外にも勝負は一瞬でついた。
飛び込んでくる喜助に対し天狗は団扇を振り下ろした。喜助は急停止しそれを後方へ飛んでかわしたはずだった。
しかし、喜助は地面に足が着くことなく後方へ吹っ飛ばされた。
「喜助!」
弥生が叫ぶ。
ようやく喜助の足は地面に触れるが勢いは止まらず、喜助はそのまま地面を滑るように転げる。
喜助にも他の者にも何が起きたかわからなかった。確かに喜助は攻撃をかわした。団扇には全く触れていない。それでも喜助は後ろに勢いよく吹っ飛んだ。見えないなにかにぶつかったかのように。
「風じゃ」
門の上から声がした。ウメ婆だ。
「天狗は天狗の団扇で風を起こすといわれている。喜助は団扇から生み出された風に飛ばされたのじゃ」
続けて天狗も何かいうが皆にはわからない。弥生にだけわかる。その言葉を聴いた弥生は喜助を一度見る。喜助は傷ついた体起をこしているところだった。
天狗が起こした風がどれほどの大きさかはわからない。しかし、喜助にかなりのダメージを与えたのは喜助の様子から明らかであった。喜助の足元はふらふらとし、呼吸もうまくできていない。
その姿を見た弥生は意を決する。喜助にばっかり頼ってはいられない。自分がやらなければ。
弥生はゆっくりと最後の敵へと向かっていった。天狗もゆっくりと歩を進める。
「待て弥生」
皐月は結界の中から飛び出して引き止める。
「わたしが行く」
弥生は確かに成長した。しかし、霊力が上昇しただけであって戦闘能力が上がったわけではない。弥生にあの天狗の攻撃をかわして霊力を流すのは困難であった。かといって、皐月なら倒せるかといわれればそれも限りなく不可能だった。
「待ってさー姉、対処法がわかったんだけどさー姉には無理なの」
「対処法?」
「そう。天狗が言うには風を起こすには団扇を振り切らなきゃダメみたいなの。だから、その前に団扇を止めればなんとかなる」
「なるほど……それは確かにわたしには難しいな」
皐月は自分の武器を見つめる。弓では団扇を止めることはできない。
「だからわたしが……」
「いいえ、俺が行きます」
弥生と皐月はほぼ同時に振り返る。さっきまでよろめいていた喜助がすぐ後ろまで来ていた。天狗もすぐそこまで来ていた。
「俺が行きます。次は本気で行きます」
「本気って、さっきも本気だったでしょ。そんな体で挑んでも結果は見えてるわ。それに今の話ちゃんと聞いてた?」
「団扇を振らさなきゃいいんだろ」
そう言って、喜助は背中の武器に手をかける。喜助は武器を解禁する気だ。
「でも……」
ずっと望んでいた喜助の武器の使用のはずなのに弥生はなぜか止めようとした。
喜助を止めようとする弥生を皐月は手を弥生の前に出して黙らす。
「喜助、本気で行け」
「はい」
「ちょっと」
弥生は慌てて口を挟んだ。が、今度は喜助に止められる。
「弥生、俺のこと嫌いになんないでね」
喜助はそう言って笑いかけた。
嫌いになんないで。最後にもう一度頼んだが喜助は諦めていた。喜助には確信がある。この戦いが終われば自分は弥生に嫌われる。弥生だけじゃない。皐月にも、ナツにもウメ婆にも葵にも太一にもこの村の全ての人に嫌われる。
――大丈夫。慣れているから。今までと何も変わらない。みんなに嫌われ、憎まれ、それでも生きていく。ただそれだけだ。ちょっぴり寂しいのはせっかく友達になった弥生に嫌われること。でも、今、弥生を、村を、みんなを守らなきゃ、本当の友達なんかじゃないよね。ねえ、お爺ちゃん。きっと、友達ってそういうものなんだろ?
喜助に迷いはない。そして、背中のものを下ろす。
喜助が頑なに使うことを拒否した武器。その封印が解かれる。
弥生は複雑な心境だった。ここまで嫌いにならないでと念を押されたのだから確実になにかある。あれほどまでに中身が気になっていたのに、今は中身を知るのが恐くなっていた。
喜助が包帯の上から貼られていた呪符をとった。そして、目の前に迫る天狗に笑みを見せた。天狗はニターっと歪んだ笑みを返した。
その瞬間わずかな妖気を弥生は感じた。間違いなく包帯の中からである。弥生の予想通りであった。包帯の中には妖気の込められた武器。意外だったことはその妖気が思いのほか弱いという点だった。
しかし、次の瞬間、それとは比べ物にならないほど大きな妖気を感じ取る。妖気の発生源は……喜助であった。
そして、喜助の容姿に変化が現れる。
目が幾分か鋭くなり、八重歯は大きく鋭くなっていた。そして、頭に二本の角が生えてきた。
間違いない。全ての元凶、全ての人間の敵、悪夢の始まり。鬼だ。
村人たちからどよめきの声が上がる。
弥生は呆然とした。
喜助は鬼。その事実は弥生にとって信じられないものであり、そして、受け入れがたいものであった。
皐月が弥生の肩を叩く。弥生の体は震えていた。
喜助は包帯を完全に解く。中から出てきたのは無数の棘が黒い金棒であった。喜助は天狗を金棒で指差す。
「こうなったら加減できなくなるんだ。だから先に謝っとく。ごめん」
喜助は悲しそうに笑った。
狂っているはずの天狗は恐怖のあまり狼狽る。初めて見せる悪堕ちした天狗の理性だった。今の喜助は妖魔も恐れる存在となっていた。
悪堕ちした天狗は喜助に向けて近づくなといわんばかりに団扇を三回振った。天狗が生み出した風は旋風となり刃と化す。触れたもの全てを切り裂く。旋風は一直線に喜助へと向かっていく。
喜助は大きく息を吸い込み、そして咆哮をあげる。人々は耳を塞ぐ。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおぉぉぉ」
喜助の咆哮に大地が震え、空気が振るえた。そして、天狗が生み出した旋風をいとも容易くかき消してしまった。
間髪入れず喜助は天狗に飛び掛る。天狗は慌てて団扇を振り下ろそうとしたが鬼と化した喜助の速さは先ほどまでとは段違いであった。天狗があげた団扇は振り下ろされることはなかった。その前に喜助の金棒が天狗の腹部を叩いた。ゴキッと鈍い音が響く。天狗にも骨があるのかはわからないが、確実に天狗の体を支えるなにかが折れた。いや、砕けた。
天狗は悲鳴をあげ、その場に跪いた。
喜助は左手に霊力を込める。止めの一撃を放つためだ。
そこに、二体の天狗が割り込む。そして喜助に向かって何か言う。
弥生にはしっかりと聞こえた。天狗たちの必死の命乞いが。
弥生は震える体で天狗の言葉を代弁しようとした。しかし、その前に喜助は口を開いた。
「ごめんな、でも、もう戻れないんだ」
その言葉を理解した二体の天狗はゆっくりと進んでくる喜助に道を譲ってしまう。
「今開放してやるからな」
喜助は苦しむ天狗に優しい声でいう。そして、左手を天狗の頭にかざす。
「悪妖退散」
喜助は目を閉じ左手で天狗の頭をゆっくりと撫でる。泣きじゃくる子供をあやすような優しさで。
天狗は苦悶の声を出すのを止め、笑顔でなにか呟き、やがて塵と化す。あとには天狗の団扇だけが残された。その団扇の色は綺麗な赤に変わっていた。
残された天狗たちの目からは涙がこぼれていた。
*
辺りは静寂に包まれていた。本来なら村を襲う妖魔を退けたのだから歓喜の声を上げ皆で祝うべきなのだろうがどうにもこうにもそんな雰囲気ではない。
理由は簡単だ。
一つはその妖魔を倒したものの多くが妖魔であったことだ。しかも、そのうちのひとりは鬼。妖魔が世界中に溢れかえる原因となったあの鬼だ。さらには、鬼であることを隠し、昨日はこの村に泊まっていたのだ。裏切られたような感覚に陥るのも無理はない。
もうひとつ理由がある。それは天狗が涙を流している。天狗だけではない。弥生も泣いていた。そのことが、村人たちをさらなる困惑に誘った。
弥生はしっかりと聴いた。天狗の最後の言葉を。
泣き崩れる弥生に皐月は訊く。
「なぜ泣く、弥生」
「だって……」
弥生は言葉を続けることができなかった。
「妖魔は悪い妖魔しかいなかったか?」
弥生は首を横に振る。
「ううん、そんなことなかった」
「そうか」
さつきは弥生の肩を軽く叩く。
「それがわかったなら喜助のもとへ行ってあげな」
そう言い残し村の門へと戻っていった。
弥生は皐月にそう言われて初めて喜助のほうを見た。喜助は座り込み明らかに沈んでいた。その背中からは落ち込み具合が伝わった。弥生は涙を拭いて喜助のもとへ向かった。
「美味しいところ持ってったくせに、なに落ち込んでんのよ」
「弥生……だってさー」
喜助は目を伏せた。いつもの喜助なら必ず相手の目を見て話すはずだ。しかし、今の喜助にはそれができない。
鬼は人々に最も恐れられる存在である。それを一番よくわかっているのは他の誰でもない喜助自身である。喜助には弥生が自分に怯えていると思った。
そんな喜助を見て少し笑いながら言う。
「約束覚えてる?」
弥生は喜助に訊く。
「覚えてるよ。けど、やっぱ無理だよね」
喜助はもう完全に諦めていた。
「あの約束だけどさ、そもそもやっぱりわたしは最初からあんたのこと嫌いなんだから成り立たないんだよね」
弥生はさらっと言った。
喜助は一度顔を上げ弥生を見るもすぐにうな垂れてしまった。弥生は冗談のつもりで言ったのだが喜助には上手く伝わらなかったようだ。
弥生はそんな喜助を少し可愛いと感じた。
「いいから行くわよ」
弥生は喜助の手を握り体を起こす。喜助はそれでも動く気はない。
弥生は喜助の手をぐいぐい引っ張り村へと戻ろうとする。喜助はとぼとぼと歩く。
村人がざわめく。なんのざわめきか喜助には予想がついた。鬼である自分を人々が受け入れてくれるわけがない。もう村へは戻れない。
喜助は弥生の手を振りほどき立ち止まる。
「ごめん弥生、俺もう村には……」
弥生はため息を吐き、少し笑う。
「面倒くさいやつね、あれ見なさい」
弥生は親指を立てて村の方を指す。
喜助は恐る恐る顔を上げる。そこには喜助の予想とは大きくかけ離れたものが待っていた。
それは嬉嬉に満ちた村人たちの姿であった。そして歓声があがる。
「よくやった坊主!」「ありがとうー」「カッコよかったぞ」「お前は村の英雄だ」
喜助の顔は見る見るうちに明るくなっていく。歓声は止まない。
「お前鬼だったのか! びっくりしたわ! でも、弥生ちゃんが許すなら俺らも許す!」
「そうだ、お前は鬼でも俺らの村の恩人だ!」
「天狗たちもありがとう!」
「お前なら弥生ちゃんを嫁に貰ってもいいぞ」
「よっ、大将!」
喜助は笑顔で応えた。
「きーーーー兄! カッコよかったよ」
葵と太一が笑顔で手を振る。喜助も八重歯を見せて大きく手を振る。
弥生はそんな喜助を見て胸を撫で下ろす。そして、はっとする。
「誰よ! 今紛れて嫁にいってもいいとかとんでもないこと言ったの!」
弥生の怒りは歓声にかき消される。喜助は嬉しそうに笑う。
その時、ゆっくり門が開く。歓声がピタッと止む。門から出てきたのはウメ婆であった。
「さあ、弥生、喜助、最後の仕上げじゃ。骨を集めてきておくれ。おっと、天狗の団扇も必要じゃな」
弥生も喜助も仕上げがなにを指すかわからなかったが、すぐに言われたとおりに動き始めた。
「皆の衆も降りてきておくれ。家にいるものも呼んできておくれ」
村人たちも首を傾げたが、とりあえず指示に従う。
「皐月や、天狗たちもこっちに連れて来といてくれ」
皐月だけはなにが始まるか理解しているようだ。
「ナツ、頼んだぞ」
「ええ、任せて」
ナツは子供のように得意げな顔をした。