2.悪妖
喜助は弥生と皐月の家で夕飯にありつけていた。
喜助は口元に大量の米粒をつけたまま目を輝かせて云う、
「こんなにおいしいご飯は初めてです。ナツさんの手料理は最高ですね」
ナツは弥生の母である。ナツは今年で四十歳になるが、まだ若々しい。髪は少し茶色がかっていて、それが若く見える要因のひとつである。割烹着姿で現れたナツを喜助は理想のお母さんだと絶賛した。そんなナツも当然のように霊媒師である。
「あら、喜助君はお世辞がうまいのね。まだまだあるから遠慮せずおかわりしてね」
「はい、ありがとうございます。」
そういいながら喜助はナツに茶碗を差し出し早くもおかわりを求めた。
鬱陶しい。弥生は心の中で呟いた。なぜこいつはここにいるのか。宿なら葵と太一の家のほうが筋ではないのか。ちなみに、葵と太一はこっぴどく怒られ今日の夕飯は抜きらしい。村の端にある原っぱの抜け道に関与していた子供たちも飯を抜かれているらしい。
弥生は味噌汁を飲みながら喜助を睨んだ。喜助はそれに気づくと八重歯を見せてニカッと笑う。それが弥生のいらいらを増幅させた。
「ところで喜助や、この村に用というのはいったいなんの用だい?」
ウメ婆が尋ねる。
ウメ婆は弥生と皐月のお婆ちゃんであり、この村最大の権力者である。今では、妖魔の退治は殆ど皐月とおまけ程度に弥生が行うが、結界や呪符の大部分はウメ婆がつくっている。体はとても小さく、髪はすっかり白く染まっている。目は開いてるのか閉じているのかわからぬほど細いが、噂によると妖魔と戦うときはカッと開くらしい。あくまで噂だが。
「いやー、用というほどのものではないんですが、ただ良い村だって訊いたので是非寄ってみたいなーって感じです」
「そうかい。教えたやつはなかなか見所があるね。で、喜助はどこから来たんだい?」
「いや、あのー、えーっと、ここから北のほうにある島からです」
歯切れが悪い。名前をきかれたときもそうだ。どこか胡散臭い。弥生はそう感じているのだが、弥生がそれ以上にきになるのは家族の反応だ。
家に着きナツとウメ婆に喜助が自己紹介したとき、ふたりの反応は皐月と似ていた。
そして、今もだ。三人はなにかを目で確認しあったように見える。しかし、それがなんなのかは弥生にはわからなかった。その目配せに参加できない弥生は自分の家にいるはずなのにアウェーの気分だ。
仕方ないので弥生は思考を胡散臭い喜助へと戻す。
そもそもここから北のほうに島などあったであろうか。弥生が知る限りはないはずなのだが。弥生は喜助の詮索をすることにした。
弥生は誰もが不機嫌だとわかるトーンで言う。
「そもそもあんたはなんで旅なんかしてんのよ」
「悪妖退治。俺坊主だし」
坊主が悪妖を退治する理由になるのか弥生にはよくわからない。いや、その前に冷静に悪妖とはなんなのか。
「悪妖ってなによ」
「悪い妖魔のこと」
「はあ?妖魔は全部悪いに決まってんでしょ」
「そんなことないよ、良い妖魔もたくさんいるよ」
「そんなわけないでしょ、妖魔は人間を殺す悪いやつよ。世界の常識でしょ」
「それは弥生の勘違いだろ」
弥生は喜助の言い方にカチンとくる。
「はあ、つうかなんであたしにだけタメ口なのよ。あたしにも敬語使いなさいよ、それと気安く名前で呼ばないで」
「お爺ちゃんが年上には敬語を使いなさいって、弥生はおなじくらいだろ。あと、友達は名前で呼べって、あっ、ナツさんおかわりいいですか」
ナツははいはいと返事しすばやくご飯をよそう。
「……あたしがいつあんたと友達になったのよ」
「さっき」
弥生には友達となった覚えは全くない。喜助のいうさっきがいつを指すかなど見当もつかない。
「……あんたいくつよ」
「十五」
弥生は明後日で十五である。弥生がなにかをいおうとしたが弥生の粗暴な態度を見かねた皐月がそれを遮る。
「弥生いい加減にしな。喜助のなにが気に食わないの」
「別に」
弥生はふてくされながら答える。
「弥生はいくつなの」
どうやら喜助は鈍感らしい。弥生の露骨な嫌いという態度に全く気づかない。
弥生は当然のように無視する。
「今は十四よ。明後日で十五になるのよね」
代わりにナツが答える。弥生がナツを睨みつけるがあっさりと受け流される。
「じゃあ、俺と同い年じゃん」
「そうね」
弥生はそっけなく答える。
「そうだ喜助、渡したいものがある」
と、突然皐月がなにかを思い出し立ち上がる。皐月は玄関に向かい、巾着袋もってすぐに戻ってきた。
「喜助、これをやろう」
喜助に袋を渡す。
「なんですか、これ?」
「妖魔の牙だ」
喜助は首をかしげた。
「あんた本当に妖魔退治の旅してんの? 世間知らずもいいとこね」
弥生は呆れたといわんばかりに言う。
「あのね、これはらお金になるの。もっと大きな街に行けばこれらを妖魔を討伐した証として報酬金をくれんの、わかった」
「うーん、なんとなく。じゃあ、妖魔を倒せばいつも牙を落としてくのか?」
「違うわよ。今回は妖魔化した犬だったから牙だっただけよ。妖魔化した猫だったら爪、牛だったら角、鳥だったら嘴とか羽とか」
弥生は得意げに説明する。
「ふーん。なんでそんなものが残るんだ?」
先ほどまでと打って変わって弥生は黙り込む。弥生もそこまでは知らない。ここから皐月が引き継ぐ。
「そもそも妖魔ってどう生まれるかわかるか?」
喜助は首を横にふる。
「動物が妖気に取り込まれて変体するんじゃないの?」
弥生が答える。
「それは少し違う。妖魔化した動物は厳密には妖魔ではない」
「違うの?」
弥生が驚きの声をあげる。喜助は早くもよくわかっていない。
「ああ、動物を妖魔化させるような妖気を持つものが妖魔だ」
「じゃあ、妖魔はどう生まれんの?」
「妖魔は物体に魂が宿って生まれる」
「「物体?」」
喜助と弥生が思わず口をそろえる。弥生は嫌そうな顔をしたのに対し喜助は嬉しそうに笑った。
「そうだな、例えば河童なら皿とか雪女は氷の結晶、そんな感じだ。多くは動物の死骸に魂が宿って妖魔は生まれる。死骸も物体と考えるからこの説明が一般的だ」
「動物が妖魔化するのと、死骸に魂が宿って妖魔が生まれるのって同じじゃないの?」
「私たちからしたらな。でも、妖魔化した動物にとっては大きく違うんじゃない?」
弥生は一瞬皐月のいったことが理解できなかったが、すぐに思考は行き着く。もし自分が生きたまま妖魔になってしまったら……。
「それに……」
皐月が話を続けた、
「生きた動物が妖魔化するようになったのはここ最近の話。なんでかは言わなくてもわかるでしょ?」
弥生はゆっくりと頷く。ここまでのやりとりで世間知らずを露呈した喜助もさすがにこれは知っているらしく、
「例の事件以降ってことですね?」
「ああ」
そのときの喜助の表情がやけに険しいことに弥生は気がついた。妖魔を退治する旅をしているものなのだから例の事件を気にかけるのは当然のことなのだが、その顔からはそれ以上のなにかが感じられた。
「あなたたちが生まれてすぐは妖魔化する人間も珍しくなかったのよ。」
ナツが悲しげにいう。
「人間も妖魔になるんですか?」
喜助が目を丸くして驚く。弥生はその話は訊いたことはあったが実際に見たことはなかった。
「そうなのよ。今は霊媒師や坊主、まあ霊力を扱える人ね、そういう人たちが人々の体に印を刻んだから大丈夫だけど、事件のすぐ後は印が間に合わなかった人や、妖魔になるなんて信じないで印を拒否して妖魔になってしまった人がたくさんいたの」
弥生は喜助をチラッと横目で見る、
「さすがにあの事件のことは知ってるのね。優秀ね」
「まあね」
弥生は嫌味をいったつもりだったのに喜助には伝わらなかった。それに顔はまだ険しいし、今度は拳を強く握りしめてもいる。やはり喜助にとってあの事件は特別なものらしい。弥生はその様子から、喜助は妖魔に家族あるいは恋人、友人、いずれにしても親しいものが殺されたのだと適当に予想をつけた。そう考えれば喜助が旅をしているのにも納得がいく。
と、同時に弥生は喜助を愚かなやつだとも思った。今の世界ではそんなことは珍しい話ではない。仇のためといって妖魔を討伐してもきりがない。事故にあったと割り切るのが一番なのだ。少なくとも弥生は今までそうしてきた。そうするしかなかった。
ただ、今回、もし葵が、太一が妖魔に殺されていたら割り切ることができただろうか……。二人からもらった大量の花が視界に入った。
弥生は思考を停止させて無理に話題を変える。
「あんたにも印くらいはあるでしょ? 今まで生きててなんの印かとか疑問に思わなかったわけ?」
喜助は小さな声で言う。
「俺にはないと思う」
「えっ? そんなわけないでしょ?」
弥生は思わず聞き返す。
「自分から見えない位置にあるだけであるはずだ」
皐月がサラッと言う。
皐月の言うことがもっともだろ。今の時代に印のない人間などいないはずだ。もしいたなら妖魔と化しているだろう。もっとも、霊力が高い人間はその例外ではあるが。
しかし、弥生は思う。本当になかったら危険ではないのか。喜助の霊力が高いのは霊媒師である弥生にはわかるが、万が一のことを考えると印は必要である。もしかしたら島では影響が弱いからと印を刻んでないのかもしれない。実際に島では影響が弱いかどうかなどは弥生は知らないが。
「念のため確認したほうがいいんじゃない?」
「あら、喜助君が心配なの、弥生。それともそれを口実に喜助君の裸を見たいだけ?」
ナツが理想の母親とはかけ離れたいやらしい顔で冷やかす。
唐突なナツの茶々に弥生は顔を真っ赤にして怒る。
「は、はあ? んなわけないでしょ、頭おかしいんじゃないの。なんでこんなやつの裸を拝もうとしなきゃいけないわけ」
「あらあら、そっちに対してそんなに怒るなんて本当にうぶね。ん~、やっぱり年齢が近い男の友人が今までいなっかったのが原因ね。このままじゃ皐月みたいになっちゃうわよ」
弥生が反論するよりも先に流れ弾が飛んできた皐月が動く。
「ナツ姉、それはどういう意味ですか? 私はただ寄り付くひ弱な男を蹴散らしてきただけで、そんないわれをされる記憶はないんですけど」
「あら、数多の男を振ってきたとしても三十をもうすぐ迎えるのに結婚できてないのは事実じゃない」
「私に見合う男がいなかっただけです」
皐月は努めて済ました顔で言う。
「弥生にはこんな風にならないでほしいわ。ね、喜助君」
「ちょっと待て、なんでこいつにふるのよ」
弥生はビシッと喜助を指差し叫ぶ。と、同時に皐月が叫ぶ
「こんな風ってどういうことですか」
騒ぎ立てる二人の間を縫って喜助が口を開く。
「ところでナツさんと皐月さんって姉妹なんですか? ん? それじゃ皐月さんと弥生は姉妹じゃなくなっちゃう」
やはり喜助は空気が読めない。これまでの流れをぶった切った。これが自分に被害が及ぶ前にと狙ってやったならたいしたものだが、そういうわけではなさそうはなさそうだ。
皐月は肩の力を抜いて答える。
「ナツ姉は私の母の妹だ。よって、弥生は従姉妹だ」
喜助の中で歯車が噛み合う。
「あー、なるほど、合点がいきました」
それ以上は喜助も何も訊かない。この家には足りないものが多すぎる。弥生の父は、皐月の両親は……。相手から云わないならば触れないほうがいい。それぐらいはわかる。喜助も同じだから。
喜助の手によってなにかを削がれた気分の弥生は、
「お風呂いただくね」
とだけいい、食器を片して風呂場に向かった。
その後姿を見送ったナツはやらしい笑みを浮かべる。
「喜助君、ちょっと」
と手招きをする。
弥生のなにかは削がれたがナツのなにかは削がれていない。喜助を呼ぶその顔は理想の悪代官と絶賛されるものであった。
*
弥生は肩までしっかりと湯につかり、上を見上げて目を瞑る。
草原でのことを思い出す。
はずれた。弥生が放った矢は妖魔の額を射抜くことはなかった。弥生はそのことには深く反省してない。そのこと以上の後悔があるからだ。
弥生は受け入れていた、葵が死ぬことを。黙って見ていた。もう何もできないからと。いや、本当は黙っていなかった。心の中で言い訳が駆け巡っていた。葵が、太一がこんなところに来るから悪いんだ、あたしは何も悪くない、と。そこにヒーローのようにあいつが現れ二人を救った。二人が無事だったから気づいた、あたしは最低だ。もし、二人が死んでいたなら気づかなかっただろう。向き合わなかっただろう、卑怯な自分と。
自分が惨めに感じて仕方なかった。だから、見知らぬあいつに八つ当たりをしていた、気を紛らわすために。それもわかっている。そして、そんな自分がこれまた卑怯であるということも。
弥生は自己嫌悪の渦へと呑まれていった。
そのとき外から声がした。
「湯加減は如何でしょうか」
「うん、丁度いいわ………………って、あ、あ、あんた、そ、そ、そこでなにやってんんのよ、この変態」
弥生は絶叫した。その悲鳴はナツたちにもしっかりと届いていたが、ナツにとっては作戦成功の報せでしかない。
「なにって、ナツさんに頼まれたからこうして風呂が冷めないようにしてるんだろ」
「そ、そんなこといって本当は覗こうとしてるんでしょ」
弥生は見られているわけでもないのに顔を赤くしながらほぼ平らな胸を両手で覆った。
「そんなわけないだろ、だいたいそんな高いところにある窓から覗くなんて、ちょっと頑張らなきゃ無理だろ」
喜助の言うとおり、風呂場にある窓は高い位置にある。そんな高い場所にあって床から二メートルほどのところにある。外の地面からは三メートルを超えるだろう。弥生はほっとして真っ赤に染まりきった顔は徐々に戻っていった。が、喜助の言葉を思い返し再び朱に染まる。
「ちょっと頑張れば見えるってことじゃない」
「おう」
あまりにも潔い返事だった。
「覗いたらぶっ殺すからね」
喜助はへいへいとだるそうに返事をした。
小声で、皐月さんならともかく弥生は、というのを弥生は聞き逃さなかった。なにかを言い返そうとその場で立ち上がったが、やはり見られているわけでもないのに素っ裸で立ち上がっていることが恥ずかしくなり湯の中に戻って丸くなってしまった。
年頃の女の子にとっては壁一枚あるとはいえ、自分が裸の状態で男性と会話をするなんてことは大事件であった。さっきまでの惨めな気持ちはどこかに吹き飛ばされてしまっていた。
結局、弥生が平静に戻るのにはかなりの時間を要した。喜助はその間そんな弥生の気も知らず風呂の温度が上がりすぎず、かつ、下がりすぎないように釜戸と格闘していた。
弥生はここでようやく、二人で話せる、イコール誰の邪魔もなくこの胡散臭いやつを詮索できることに気がついた。
「喜助」
「うん? なに? 熱すぎる?」
「いや、それは丁度いいわ……本当はなんで旅してんの」
「さっき言ったじゃん。悪妖退治って」
「換金制度も知らなかったやつがそんなこと言ってもね金目当てじゃないならなんで危険まで冒して妖魔退治の旅なんかしてんのよ。やっぱ、敵討ちとか? まさか本当にただのボランティアとか言わないよね」
弥生は自分の予想を交えて問い詰める。
喜助は少しの間黙っていた。その間が、こいつにはやはりなにかあると弥生に確信をもたらした。
「……欲しいものがあるんだ」
ようやく返ってきた言葉は弥生が予想していたものとは違った。
「何よ、欲しいものって?」
「鬼の奇石」
弥生は固まった。絶対無理だ、手に入るわけがない、そう思ったからだ。
「それって……あの?」
「うん、あの」
「全部?」
「全部」
鬼の奇石は今世界がこんな状況に置かれる原因となった石である。
あの事件は今から十五年前に起きた。
ひとりの鬼の手により当時の都が一夜で壊滅した。その鬼は青く輝く石をもっていた。その石から強大な力を得たという。都を壊滅させたあと鬼は各地の強大な七体の妖魔にその石の欠片を分け与えたという。欠片を得た妖魔は爆発的な成長を遂げた。そして、この八体の妖魔からでるあまりにも強く、邪悪な妖気は日本全土に広がっていった。そして、妖魔は増殖していった。無論、このとき鬼が持っていた石こそが現在、鬼の奇石と呼ばれるものである。
「あんたわかってんの、全ての石を手に入れるには凶悪な妖魔を八体も浄化する必要があんのよ」
弥生は思わず声を荒げる。
「わかってる」
喜助は静かに答える。
「なんなのあんた、世界を救うヒーローにでもなるつもり? それともなに、八つ集めたら願い事でも叶うっていうの?」
喜助は鼻でクスッと笑って答える、
「願いが叶うってのはあながち間違いではないね、ただ俺の願い限定だけど……あの石がもともとなにか知ってる?」
弥生は質問の意味がわからなかった。
「石は石でしょ?」
「違うよ、あれはもともと人の魂だよ。魂が石化したもの」
そんな話は初めて聞いた。人の魂というならばいったい……。
「端子委が石化って……その石化した魂は誰の……?」
これ以上聞いていいのだろうか? 弥生はそう思いながらも気が付けば口に出していた。
「誰の魂なの?」
「俺の母さん」
喜助はさらりと答えた。
ぜんぜん違った。弥生は喜助を能天気なやつで悩みなど何もないようなやつだと思っていた。それが今、完全に覆された。と、同時に自分が恥ずかしくなった。
「妖魔に……鬼に石にされたってこと?」
「詳しいことはわかんないけどそういうことだと思う」
「その……今お母さんはどうなってるの? 亡くなったの?」
「死んではいないかな。でもずっと眠ったまま。今は人形みたいに眠ってるんだ」
喜助は寂しそうに言う。
「でも石を母さんの魂を全部取り戻せたら目が覚めるはず。だから俺は妖魔退治の旅を始めたってわけ」
顔は見えないがわかる弥生にはわかる。喜助は今笑っている。お母さんの目が覚めることを微塵も疑っていないから。
「事情はわかったけど……無理よ。あんたには悪いけど絶対不可能よ。あれから十五年経ったけど、未だに石を持った妖魔は一体も討伐できてないのよ。それなのにあんたひとりで八体倒すなんて絶対に無理よ。お母さんのことは残念だけど命が惜しければ諦めなさい」
弥生は非情であった。しかし、それは喜助のためである。
「うーん、弥生が言いたいこともわかるけど……それってずるくない? 逃げてる気がする」
喜助の言葉は今の弥生には重くのしかかった。まるで今の弥生に向けて言ったような台詞だ。だから、なんとしてでも弥生は言い返したくなる。
「ずるくもないし、逃げてもいないわよ」
「でもやるって決めたから。それに諦めたりしたら怒られるよ」
「怒られるって誰に?」
「昔の自分に」
喜助のその答えに弥生は返事をする気が起きなかった。昔の自分はどんなことを思っていただろうか、弥生は少し考えたがすぐにやめた。
返事が来ないことに気づいた喜助は切り出す。
「次は弥生の番な」
「は?」
「次は弥生が質問に答える番。爺ちゃんが友達に嘘を吐いちゃダメって言ってたから正直に答えろよ」
――だから、友達じゃないって。
心の中で弥生は突っ込みを入れる。
「弥生はなんで最近元気ないの? あと、なんかいらいらしてるし」
「へ? なんで今日初めて会ったあんたが最近のあたしのテンション事情なんか知ってんのよ」
「さっき聞いたんだよ。あの子たちがあんなとこにいたのは弥生を元気つけるためなんだろ」
少し端折られている気もするがそういうことだ。弥生は黙った。
「で、なんでなの?」
弥生は深いため息を吐く。別に隠すほどのことでもないのだがなにか言いにくい。
しかし、喜助があんな話をしたあとに自分だけ話さないのは居心地が悪い。
弥生は仕方なく話を始める。
「あたしが明後日誕生日って言うのは覚えてる」
先ほど食事中に確かに言っていた。喜助はうん、とだけいい次を待つ。
「この村の霊媒師は十五歳になるまでにある儀式を行うの。村から東に少し進んだところに鞍馬山っていうのがあって、そこの山頂近くに洞窟があって、えーっと、さらにその奥に祠があるの。そこで鞍馬山の神に杯を渡して、契約を結ぶのが儀式なの」
「それのなにが問題なの?」
「ううん、なにも儀式に問題ないわ。問題は鞍馬山の天狗よ」
「天狗?」
「そう。鞍馬山には天狗が住んでて山に入る人間を襲うの。天狗は今日会った犬の妖魔なんかとは比べ物にならないほど危険なの」
「今まではどうしてたの?」
「今までは天狗なんていなかったわ。天狗が現れたのはここ十年のことみたいなのよ」
「あの事件以降ってこと?」
「うーん、微妙なずれがあるみたい。あの事件以降色んなところに妖魔が大量に現れたんだけど鞍馬山はしばらくの間無事だったみたい」
「無事ってどういうこと?」
「妖魔が全く出なかったらしいの。だから山菜や木材の調達に重宝してたらしいんだけど、ある日突然天狗が住み着いたみたい。それからは誰も寄り付かないわ」
「ふーん。けど、弥生は儀式のために鞍馬山に行かなきゃいけない」
「そう。しかも儀式は見習いの霊媒師が独り立ちするためのものだから他の霊媒師の協力は禁止なの……はぁー、あんなところひとりで行ったら死んじゃうわよ」
弥生は話してる途中からどんどん力がなくなっていった。
「他の霊媒師の協力は禁止か……」
喜助は呟く。そして、すぐにぴーんとくる。
「霊媒師の協力は禁止なんだよね?」
「そうよ」
その返事をきいて喜助は勢いよく立ち上がる。そして、壁をよじ登り窓から顔を出していう。
「じゃあ、霊媒師じゃない俺がついてくよ。それなら問題ないでしょ」
「確かに……って、きゃーーーーーーーーーー」
弥生は女の子らしい悲鳴を上げ、男にも負けない力で近くにあった桶を喜助のおでこ目掛けて投げた。桶は見事、喜助にクリティカルヒットした。喜助は高さ三メートルから地面へと叩きつけられた。
弥生は耳まで真っ赤にし、かつてない速さで心臓が脈を打った。
「死ね、変態」
弥生の声は家中に響いた。が、その悲鳴はナツを喜ばすだけであった。