妹が生まれるまで(3)
三年生になると、母の臨月が近付いたこともあり、母は家にいることが多くなった。父も母も生まれて来るまで、男の子か女の子か分からない方がいいと言って、全く調べようとしなかった。僕は気になって仕方なかったけど…。
あれは二年生の秋から冬に変わる頃だったと思う。珍しく、父も母も早く仕事から帰ってきて、三人で夕食を食べている時のこと。
母がいきなり口を押さえてトイレに駆け込んだ。それを見た父も、ちょっと遅れてトイレに走って行く。僕は何が何だかさっぱり分からずに、のんびりと夕食を食べ続ける。
しばらくすると、父も母も戻ってきた。母はうれしそうにほほを赤らめながら、
「広道、あなたの弟か妹がここにいるのよ。楽しみねぇ」
と言われた。今思えば、かなりベタな流れだが、当時はどう答えていいのか分からずに、ただ黙り込んでいた。
「おい、広道。おまえ、もうすぐお兄ちゃんになるんだぞ。分かるか?」
「ええ〜。マジで!」
「マジだ。こんなことで嘘をついてどうする。なあ、母さん」
母は少しも膨らんでいないお腹に目をやりながら、父の問いかけに黙って頷いていた。
そんなやり取りをしてから、あっと言う間に月日が流れ、また夏がやって来た。いつもと違って母がいつも家にいることが、何となくうれしかった。
七月二〇日、母は陣痛が来たため、父に付き添われて病院へ行った。僕はいつもの年と同じように、一学期の終業式を迎えるために学校へ行く。
その翌日、僕は父に連れられて、病院へ向かった。その後、父と一緒に母のお産に立ち会った。分娩室の中はお医者さんや看護士さんがせわしなく動き回っていたし、妙に明るいランプがいくつも上から母を照らしていて、とてもまぶしかった。
そんな中で母はとても苦しそうに、いつもと違った息づかいをしていた。それがラマーズ法なんて、その頃は全く知る由もなかった。
しばらくして、母は無事に妹を産んだ。今考えると、よく八歳の子どもを分娩室へ入れてくれたものだと思う。
海の日に産まれた妹は「海美」と名付けられた。僕は海美が終業式の翌日に産まれたことを、ちょっとだけうらやましく思った。
この年の夏休みは母が夏休みの宿題を見てくれた。さすがに小学三年生ともなると、宿題をさっさと片付けた方がいいことが分かってきた。二年生の頃よりも自力で頑張れるようになった。だが、やはり一人ではまだ全てはできない。
一人でやっていて、心が折れそうになると、母が海美を抱いて、宿題の分からない所を教えてくれた。海美はあまり泣かないので、手がかからなくていいと母はよく言っていた。
母が弁護士の仕事をできない間、父は一人で仕事をさばかないといけないため、毎晩、夜遅くまで仕事をこなしていた。そのため、父と家で会えるのは週に一回程度となっていた。
この頃、父はいつも、僕が起きる前には仕事に出て行き、帰って来る頃にはもう僕は寝ていた。週末、いつもよりも夜遅くまで起きている時だけ、父と会えることができた。
そうやって、長いようで短い夏休みもどんどん過ぎていき、また八月三一日がやってきた。ところが、今までと同じように遊園地には行けなかった。まだ産まれたばかりの妹を連れて、遊園地なんて行けるはずがない。
この年は父も仕事で手一杯で仕事を休めなかった。また、父方の祖父母はこのときすでにいなかったし、母は駆け落ち同然で父と一緒になったため、母方の祖父母とはかなり疎遠になっていた。そのため、海美を預けることもできない。
今なら、仕方ないと思えるが、あの当時は突然のことで、遊園地に行けないことを泣きわめいているうちに、八月三一日が終わってしまった。
宿題が終わらずに一日中、宿題に追われていた七歳の誕生日よりも、後味の悪い九歳の誕生日となってしまった。僕が泣きわめいている間も海美はおむつの時とミルクの時間にしか泣かなかったらしい。これではどっちが赤ちゃんか分からないと、後に両親は言っていた。