大学2年生
春休みに入った。いつものようにバイトとサークルの日々が続く。三月中旬、一週間ほどコンビニのバイトの仕事を休ませてもらって実家に帰った。やはり、父は冷たい。母や海美が優しく接してくれる分、一層冷酷さが響く。どうして、こんなに頑張っているのに、父は認めてくれないんだ。いつしか認められない思いは憤りに変わり、憤りは怒りに変わっていった。そして、とうとう、父に対して殺意すら覚えていた自分に正直に驚いた。
もうすぐ、小五になる海美はそのことに言い知れぬ不安を感じているのか、珍しく四人がそろった夕食で一人明るくふるまっていた。海美が楽しそうに話していると、みんなが楽しそうに見えるから不思議である。ただ、どう見ても不自然で、無理しているようにしか見えない。父も母も僕も無理をさせられているような気がした。もはや、昔のように何も考えず、家族団らんはできないのだろうか…。
二年生になった。もう、一般教養科目は全て取り終えたので、あとはひたすら専門科目を取るだけである。一年の間に一般教養科目三四単位、専門科目一四単位の合計四八単位を取れたので余裕ができた。結局、取れるだけ二二単位を取ることにした。
二年生になって、バイトでもサークルでも後輩ができた。後輩ができると、これまでのように上から指図されるままに動くだけではいかなくなる。今まで先輩がしてきたように、今度は僕が後輩にいろいろと世話をしていかなければいけない。それから、自動車学校へ通うことにした。
いろいろ新しいことに挑戦しているはずなのに、常にいい知れぬ不安と喪失感に襲われ続けるのはなぜだろう…。いつから、こんなことを感じるようになったのか? そんなことがいつも、心のどこかにひっかかっていて、取り除こうとしているうちに、四月…、五月…、六月…、七月…と過ぎ、前期は終わってしまった。ただ、惰性で四ヶ月を過ごしてしまった。残念である。司法試験の受験資格を得たので、五月の短答式試験を受けたが、あっけもなく落ちてしまった。もっと、勉強せねば…。
夏休みに入ってからも、何かピリッとしない日々が続いた。プラ・ビダはとうの昔にキャプテンが赤屋さんから山岸さんに変わっていた。このサークルはキャプテンを男女交互に受け継ぐ変な習慣がある。このままいくと、次の年のキャプテンを任される恐れがあった。この年の一年生は男子三人と女子二名が入った。ここまでは去年と同じだが、これまでに一人も欠けなかった。これは一橋の面倒見のよさのおかげである。そのおかげで、僕は二年生なのに好き勝手できるのだから、彼女にはさらに頭が上がらなくなった。この年の夏旅行は北海道に行くことになったが、僕は全く乗り気でなかった。もう、サークルを辞めようと考えてさえいた…。
お盆に実家に帰らなかったら、八月三〇日、突然父から電話があった。仕事で近くまで来るから、久々に二人でごはんを食べようと連絡があった。一体、どんな風の吹き回しか? あれから六年、ずっと放置されてきた。六年の間に僕は子どもでなくなった。今さら、かつてのように父と二人で外食して喜ぶはずもない。この六年の間に父への思いは怒りや失望、はては殺意へと変わった。今さら、お互いに何を求め合うと言うのだろう。
「明日、誕生日だろう。一日早いが、二〇歳の誕生日おめでとう! これで大っぴらに飲めるな。まあ、大学に入ってから、かなり鍛えられたと思うけどな…」
そう言って、中ジョッキで乾杯した。これまでの六年間、全くと言っていいほど会話を交わしていなかったと思えないほど、父は自然に話をかけてくる。これまでの六年が何かの間違いか、悪夢のようにさえ感じられた。僕はただ戸惑っている。何かを変えたくて、ここに来たと言うのに、父のあまりにも急過ぎる父の変化に追いつけずにいる。飲んでごまかすしかない…。
「どうした、広道。さっきから、ずっと黙り込んで…。そりゃ、今までお互いに会話らしい会話をしてないから、どうしていいのか分からないのは分かる。お前もつらかっただろうけど、父さんもずっとつらかった…。やっと、こうやって話せる日が来てよかった…」
思わず、耳を疑った。父さんもつらかっただって? はぁ? 全くもって意味不明…。父はあの日からずっと、僕の存在を否定し続けてきた。そのためにどれだけつらい思いをしたことか…。
「お父さんはこの六年間、何を苦しんできたの? 僕にはよく分からない…」
それは僕の偽りのない思いだった。今、父が何を思い、何を考えているのか、全くつかめない。目の前にいるのに…。血のつながった親子なのに…。
「そりゃ、そうだろうな…。広道から見れば、たった一度の過ちを許せず、六年間も全く口をきかない冷たい父親だっただろうよ…。本当はもっと早くこうしたかった。実の息子なんだ。一度ぐらいの過ち、さっさと許して、昔見たいに接してやりたかった…。でも、できなかった…。何が『罪を憎んで、人を憎まず』だよ…。笑っちゃうよな。自分の家族も救えないのに、弁護士として他人を救えるはずがない。そんなこと、頭では分かっているのに、行動に移すのに六年もかかったよ…」
まくしたてるように父は言い切ると、一気にジョッキに残ったビールを飲み干した。それに合わせて、僕も残りを飲み干した。そして、生中を二つ頼んだ。今さら、そんな告白はいらない…。せめて、僕が大学に行く前にやって欲しかった。そうすれば、今よりは心に響いただろうに…。残念ながら、全く僕の心に届かなかった…。
「お父さんがつらかったんだね…。でも、僕も本当につらかったよ。親から見捨てられることがこんなにもつらいなんて思わなかった…」
違う! 違う! 違う! 僕が伝えたいことはこんな月並みの言葉じゃない! でも、うまく表現できなかった…。
「それは本当にすまないことをしたな…。人間って、難しいな…。憎むべきは罪であって、広道でないのに、あの日から憎むべき罪と広道が重なって、離れなかった…。これが仕事で扱う他人なら、何も問題ないんだけどな…」
やはり、語りにくいことを語っているせいか、いつになく酒のペースが早い。わずか、三十分でビール三、四杯をお互いに飲み干し、つまみもどんどん平らげた。話している時以外は、常に何かを口に入れていたんじゃないだろうか。
「やっぱり、もう無理なんじゃないかな…」
「何が…」
「もう、昔には戻れないよ。だって、僕、過ちを犯したから…」
「そんな訳ないじゃないか…。だって、か、家族なんだぞ…」
ああ、やっぱり、そうか…。父は明らかに動揺している。ビールまでこぼしてから…。どんなに言葉で昔と同じようにやっていこうと言っても、お互いの気持ちは全く違う所にある。ただ、母と海美にこれ以上、余計な心配をかけたくないと言う思いだけは、一致しているに違いない。父のこぼしたビールを拭きながら、そんなことを考えた。
父と六年ぶりに言葉を交わした結果、父への失望や怒りなどは一時的なものではなく、これからずっと続いていくと確信した。そのことが僕をやりきれない絶望へと引きずり込む。八月三一日の朝、終わりの見えない悪夢から目覚め、僕は二十歳になっていた。
その日は前日のうさを少しでもはらしたくて、サークルの連中と日の高いうちから、飲んだくれていた。この時、初めて一橋の弾き語りを聴いた。いつもギターを持ち歩くものの、一回も弾いた所を見たことがなかったので、背中のギター入れは飾りかとばかり思っていた。透き通るような声とギターの音色に思わず聞き入ってしまった。なんか、悪い物を洗い流してくれるような気がした。もっと、たくさん聞きたかった…。それから、もう夏も終わるし、花火でもやってはじけようと言う流れになった。それで、大学近くの公園に移動して、花火をしながら、飲んでいるうちに、不覚にも記憶が飛んでいた…。
目覚めた時にはベッドの上にいた。前々日からの酒で二日酔いなのか、三日酔いなのか分からないようなひどい状況である。どうやって、ここへ戻ったのか思い出そうにも、頭が割れそうなほど痛いし、ひどい吐き気のせいで、しばらくトイレから出られそうになかった。便器のひんやりとした感覚が気持ちいい…。どう考えても汚い便器で、ほてった頭や顔を冷やすとは…。
どうにか吐き気が収まったところで、歩くこともできずに、這うようにしてベッドまで戻る。ベッドの何気ない段差が堪える…。ふと、枕の横にコンビニの袋が置いてあるのが目に入った。中にはソルマックが五本入っていた。さらにメモも添えられていた。
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バカヤロー! 酒は飲んでも飲まれるな 一橋奏
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まさか、一橋に介抱されるとは思わなかった。ソルマックを一本飲み干して、体中に広がる変な苦さを感じる。奴にお礼をせねばいけない…。
「別にお礼なんていらないから、プラ・ビダを辞めないで欲しいの…」
「えっ、俺、そんなことを言っていたの?」
「あれっ、覚えていないの? まあ、酔いつぶれていたから仕方ないか…。みんなで花火を楽しんでいたのに、急に『弁護士になるためにサークルを辞める!』なんて叫び出して、そのままぶっ倒れるんだから…」
「あちゃ…」
ああ、ぶっちゃけてしまったのか…。これは言い訳のしようがない。赤屋さんが三年のときから予備校に通って、司法試験に向けて勉強していると聞いて、いても経ってもいられなくなった。
「それにさ、プラ・ビダには同期が二人しかいないから、どっちが欠けても一人になるから、幽霊部員でもいいから残って欲しいの…。だって、このサークルは出席とか関係ないし…。次のキャプテンだって、私が引き受けるから…」
「わかった。そこまで一橋が言うなら続けるよ…」
「よかった」
「でも、ちゃんとお礼はさせてくれよ。サークルを続ける話と、介抱された話は全く別だから…」
「そうね…。じゃあ、今度、ほへと食堂の昼食バイキングね!」
いくら同期とは言え、こんなに甘えてもいいものだろうか? 彼女だって、司法試験を受けるだろうに…。大丈夫なのか? 身内に甘えられない僕はいつも周りの人に甘えている気がする。これは許されることなのだろうか? 二〇歳そこらの人生経験で、それがいいか悪いかなんて判断できるはずもない。
二年後期が始まった。バイトとサークルに行く時間を減らして、夕方から予備校へ通うことにした。講義もより専門的になり、模擬裁判や判例集を読み込むゼミなどの演習が中心になってくる。来年は五月の短答式を合格して、継ぎに行けるようにしたい。父や母を越えるためにも、一日も早く弁護士にならなければいけないと思った。
十二月、赤屋さんが十月の口述試験を合格して、無事に司法修習生になる資格を得た。プラ・ビダから合格者が出たのは約十年ぶりのことであり、クリスマスコンパでは赤屋さんの話題で持ち切りだった。身近な人の明るい話題に僕もやればできると思わずにいられなかった。ここでも、一橋は弾き語りをした。最近、何かあれば、彼女がギターを弾くのがすっかり定番になっているようである。
年末年始は久々に実家に帰った。父が不自然なほど、僕にあれこれ話をかけて来るので、正直うざかった。でも、母と海美はホッとしているようだった。これはこれで不自然だと思うが、この不自然さについて、我が家の女性達は何も言わなかった。できることなら、「美味しんぼ」に出てくる海原雄山と山岡士郎のように、とことん対立した上で仲直りするのがよかったと思う。このような妥協だらけの和解に未来はない。なぜなら、お互いの対立点は何一つ解決してないから…。
この年は成人式に出るため、いつもよりも長く実家で過ごした。海美は僕が長く実家にいることがうれしいのか、相変わらずよくなついてくれた。それが僕もうれしくて、家ではゲームの相手をしたり、勉強の分からない所を教えたりした。彼女は山手女子中学校を目指しているようで、来年の受験に向けて頑張っているようだ。小さいと思っていた海美も四月になれば、小学六年生になる。本当に月日が流れるのは早い。
成人式では六年ぶりに赤口と三橋に再会することができた。中二の時の過ちのせいで、仲の良かった三人はバラバラになってしまった。もし、あの時、過ちを犯さなければ、灘山中から灘山高へと一緒に進学できただろう。しかし、僕は回り道をしたものの、大学は念願の法専に入れた。他の二人もそれぞれ苦労したものの、大学がそれぞれ入りたい大学へ入ったと聞いて安心した。医者になりたいと言っていた赤口は日本医学部の最高峰である東大医学部へ、工学博士になりたいと言っていた三橋は東京工大へと進んでいた。あれから、誰一人として腐ることなく、きちんと未来をつかみかけていることに、互いに元気つけられた。そのまま、なだれ込むように三人で居酒屋に行って飲んだ。三人とも転校先の中学や高校では居場所がなかったようで、成人式の後によく行われる同窓会には全く顔を出そうとは思わなかった。
赤口と三橋との再会に元気をもらい、再び大学へと戻った。予備校での勉強も今まで以上に熱が入った。バイトは生活がかかっているため、これ以上減らすことができなかった。サークルへは全く行かなくなってしまった。そうやって、五月の短答式試験合格へ向けて頑張ることにした。そうやっているうちに、あっと言う間に二年の後期は終わっていた。春休みはひたすらバイトと予備校に費やした。時々、一橋から「たまにはサークルにも顔を出せ」と言ったメールや電話が来たが、いつも適当にごまかしていた。唯一、サークルに顔を出したのは卒業式で、赤屋さんと村中さん、前島さんの四年生三人を送り出した時だけである。このときも山岸さんと一橋にかなりクドクドと言われたが、僕は全く聞いていなかった。