大学1年生
四月、新しい生活が始まる。未だ、幸との失恋から立ち直れずにいたけど、月日は待ってくれない。入学式は七日だった。もうすでに入学手続きやら、新しい住居やらのために、二回も飛行機で向こうへ行った。飛行機に乗るたびに、幸の一言が胸に突き刺さった。飛行機なんか大嫌いだ。向こうでの生活が始まる前に、もし会えるなら、もう一度だけ幸に会いたかった…。しかし、彼女は卒業式の帰りに別れてから、一度も電話に出てくれない。メールだって一回も返信を返してくれなかった…。こう言う時、女性はきっぱりとけじめをつけられるからすごい。男はいつまでも女々しく、過去を引っ張り出してしまう。よく、女性の恋は上書き保存、男性の恋は常に新規保存って言うけど、あれは本当に的を射ていると思う。
出発前夜、母はごちそうを作った。法専合格を自分のことのように喜んでくれた。海美も「お兄ちゃん、大学合格おめでとう!」と喜んでいた。しかし、父は相変わらず冷たかった。この日も父は仕事で遅くなるようで、三人でトンカツやらポテトサラダやらの母の手料理を食べた。
「お兄ちゃん、どうして、お父さんはお兄ちゃんに冷たいのかな…」
海美の何気ない一言に、母と僕は凍り付いた。海美に悪意などないことは分かるが、何も出発前夜に言わなくてもいいのにと思った。少女特有の無邪気な優しさほど、残酷なものはない。悪意がないだけに始末に負えない。
「そんなことないぞ。海美が知らないだけで、お父さんはお兄ちゃんにも優しいぞ!」
それは過去の話ではあるが…。思い出の中の父はいつも優しい。
「そうよ。お兄ちゃんの言う通りよ。そんなこと、お母さんだって、知っているんだから!」
「じゃあ、知らないの海美だけなんだ…」
「まあ、そう言うことだな…」
「何よ。せっかく、お兄ちゃんのこと、心配してあげたのに…。お兄ちゃんの意地悪!」
何とか海美をごまかすことができたが、もう、そろそろ限界なのかもしれない…。海美も、もう小学四年生になるのだ。女性とはどうして、こんなにも鋭くて、目ざとくて、打算的なのか…。そこには九歳の少女も、十八歳の娘も、五三歳の女性も、全く関係ない。
大学生活が始まると、香山さんの言った通り、新しい生活にふり回された。六法全書やら参考書やらを買いそろえたり、共通教育と言う名の一般教養科目を学ぶために無理矢理分けられたクラスメイトと歓迎会に行ったり、サークル勧誘されたり、バイトを始めたり…といろいろやった。毎日が新しいことの目白押しだった。最初こそ、香山さんのことをよく思い出して、心がうずいたのに…。気付いた時にはそれほど心がうずかなくなっていたし、彼女のことを幸と呼ぶことを止めていた。それはある意味、とても悲しいことであったが、一方で確実にどこかへ進んでいる証であった。それが前向きなのか、後ろ向きなのかはよく分からなかったけど…。
一般教養科目の講義は全く面白くなかった。しかし、一般教養科目の三四単位のうち、過半数を取らなければ、専門科目の講義は受けられない決まりがあるため、みんな必死だった。司法試験のことを考えれば、できるだけ早くから専門を学習する必要がある。さらに法改正により、三年後に法科大学院の設立、五年後に新司法試験が始まることが決まっていたことも、僕らを不安にさせた。
一方で、サークル活動にも余念がなかった。高校の時に部活動をやってなかった反省から、旅行サークル「プラ・ビダ」に入った。プラ・ビダとはスペイン語で「純粋な人生」のことである。このサークルでは夏休みなどの長期休みに旅をするために、いろいろ計画してから実際に旅行をするのである。それにしても、何でスペイン語と思い、
「なんで、トラベルサークルって、分かりやすい名前にしなかったのでしょうか?」
と新歓コンパの時に聞いた。すると、みんなが急に笑い出した。僕にはさっぱり分からなかった。
「大原、お前、面白いなあ…。まあ、トラベルとか、ピュアライフとかだと分かりやすいけど、何かどこかの安っぽい旅行会社みたいでださいだろう? だから、スペイン語でかっこつけているんだろうよ」
キャプテンの赤屋さんが言っていた。彼が言うと何か説得力がある。法の世界で説得力があると言うことは、それだけで一つの武器だ。そんな彼がなんかうらやましかった。大学とはみんなが知らない言葉でけむを巻いたり、仲間だけに分かる言葉で暗号めいたやりとりをしたりする世界だなと、このとき感じた。
「大原、とりあえず一杯飲んでおけ。飲みの席でやらかしたら、それで丸く収まる」
言われるがままに、僕は出会ってからまだ一ヶ月ほどしか経っていないビールを一気に飲み干した。この時、まだ一八歳なので、紛れもない未成年だが、この頃は大学生になったら、少しぐらいお酒を飲んでもいい風潮がまだ残っていた。そんな風潮も国立大学の法人化により、完全になくなってしまうのだが…。
どうにか、一年の前期が終わった。めんどくさいことはさっさと片付けるに限る。前期で取れるだけの一般教養科目を取ることにした。何と二八単位分。そのため、月曜から金曜まで毎日大学に通い詰めだった。特に水曜は一限目から四限目までずっと講義でつらかった。その代わり、月曜は昼から二コマ、金曜は午前中に二コマだったので、いくぶんか楽だった。
それでも夕方はコンビニでバイトしたり、サークルに顔を出したりと学生生活をそれなりに楽しんでいた。夏休みに入り、プラ・ビダでは沖縄へ行こうと言うことになった。大学は九月末まで休みなので、人の少ない九月六日から一週間行くことに決まった。そんな訳で、八月はいつもよりバイトの回数を増やしたり、サークルの先輩にドライブに連れて行ってもらったりして過ごした。気付いたら、一緒に入った同期五人のうち三人がサークルを辞めていた。もう一人の一橋さんと言ういつもアコースティックギターを背負った女の子と僕はこまめに顔を出していた。そのため、先輩にはよくかわいがられていた。
もちろん、お盆には実家に帰った。久々の地元だが、高校までの友人が少ない僕にはひどく退屈だった。あまりにも退屈なので、小四の海美の宿題を見てやったほどだ。海美はしっかりしているので、別に僕がわざわざ見なくても、海は夏休みの宿題をすでに終わらせていた。そして、塾の勉強をしていた。僕のようにわざわざ家庭教師をつける必要はないらしい。
高校の時まで、ここで暮らしていたはずなのに、なんかぎこちなかった。高校時代、全く家に寄り付かなかったので、ほとんど家のことを知らない。確か、母は海美が小学生になってからも、相変わらずパートタイマーのような生活を続けていたはずだが…。いつの間にか、本格復帰を果たしたらしい。海美に聞いたところ、僕が大学生になってから、そうなったらしい。薬害肝炎の時を除けば、実に十年ぶりのことである。
海美が生まれてから十年。今もこの家では海美の誕生日を祝っていることだろう。僕のいない家で…。父は海美に全ての関心を注いでいた。僕の分まで…。僕には何も声をかけてくれなかったのに…。
それから、あまりにも暇なので外に出たら、例の川沿いの道で偶然、香山さんに出会ってしまった。久しぶりに会った彼女はずいぶんあか抜けていた。もともと、あまり着飾る人でなかったのに…。まるで別人のようだった。間違っても、彼女が「ヒロ君」と呼ぶことは二度となかった。付き合う前のように、「大原君」「香山さん」と呼び合うのはとてもぎこちなかった。そして、もう僕らは昔には戻れないことを再確認させられた。香山さんと再会しなければ、よかったのに…。
お盆も終わり、大学へ戻ると、またバイトとサークルに精を出す。コンビニのバイトもサークルも何も代わり映えしなかった。一九歳の誕生日にサークルの先輩に連れ回されて、飲んだくれて、次の日にひどい二日酔いになる。吐き気と頭痛と胃の痛みが一日中続いた。ただ、むなしかった…。
どんなに騒ぎ回って、楽しい夜を過ごそうとも、現実は何も変わらない。それどころか、何かを食いつぶしてまで、一時の狂気を先取りする愚かさを感じてしまう。夏の終わりに誕生日を迎えると、ろくなことがない。
別に酒が入っていなくても、みんなの前では無理して、楽しそうにしてしまう。あたかも、自分も騙されたかのように楽しんでいるから驚く。プラ・ビダの沖縄旅行でもそうだった。そして、ふと一人になって、夕日などを眺めていると、意味もなく泣きたくなってしまう…。そのことに、またびっくりしてしまった。
「おい、そこの少年! 悲しそうに夕日なんか眺めても、全然、様になってないぞ…」
「大宮さん…」
うわっ、一番見られたくないところを目撃されてしまった。彼女は前のキャプテンで就職活動中の大学四年生。そのため、サークルにはほとんど顔を出していないので、今回の沖縄旅行の準備で初めて会った。だから、あまり面識はない。話によれば、司法試験は受けていないので、弁護士・検事・裁判官と言った法曹の仕事ではなく、一般企業を狙っていると聞いた。
「ずっとニコニコするのって、疲れるよね…。みんなといる時は楽しそうにしないといけないし…。たまには一人ぼっちにならないとやってられないって…」
意外だった…。いつも、愛想のいい大宮さんでも、そんなことを考えるなんて…。困った人を見たら、必ず手を差し伸べる人の言うこととは、到底思えなかった。
「大原君って、意外と無口なのね…。みんなの前ではペラペラとしゃべっているから、おしゃべりな人だと思っていた。まあ、気が済むまでここにいるといいよ。夕食まで自由時間だし…」
そう言うと、大宮さんはゆっくりとコテージへと戻って行った。夕日に映える彼女の姿が目の奥に焼き付いて離れない…。ああ、これが大人の女性のふるまいか…。
十月に入り、後期が始まった。運良く、前期に一般教養科目の二八単位をうまく取ることができたので、残りの六単位と専門科目の一四単位を取ることにした。本当はもっとたくさん取りたかったのが、二年以降にならないと取れない単位も多くて、一年後期に取れるものから、取れるだけ取ることに決めた。
相変わらず、授業とバイトとサークルの繰り返しの日々が続いた。沖縄旅行以来、大宮さんのことを考えることが多くなった。ただ、大宮さんは四年制のため、卒論や就職活動などで忙しいため、全くプラ・ビダには顔を出さない。とりあえず、就職先は決まったとか、そうでないとか、聞くのだがよく分からない。どうにかして、また大宮さんに会えないかな…。暇があれば、そんなことばかり考えている。さりげなく、人づてに大宮さんの情報なんか集めようとしている。何やっているんだろう…。一目惚れなんか、自分らしくないな…。
ところが、意外な形でチャンスはやって来た。十二月にサークルで毎年恒例のクリスマスコンパが行われ、そこに大宮さんがやって来た。このチャンスを逃してはいけないと思ったが、どうやって、彼女の近くへ行けばいいものか…。そもそも、共通の話題がない。沖縄でのちょっとしたやり取りなんか、あちらが覚えているはずもない。とりあえず、様子を見ることにする…。
「おい、大原。もう、帰るのか?」
「すみません…。もう、きつくて…」
二次会が終わった。今日はもう何もないな…。眠いし、疲れたし、もう帰ろうとした時だった。帰り際、赤屋さんに呼び止められた。一橋と二年生の山岸さんの二人の女子に支えられながら、大宮さんが出てきた。
「いや、別にいいよ。お前の家、村上駅の近くだよな?」
「はい」
「大宮さんが酔いつぶれてしまってさ…。大宮さん家も、村上駅の近くなんだよ。タクシー代出すから、かなでちゃんと一緒に送ってくれないか?」
「わかりました」
複雑な心境…。なんでこんな役ばっかり…。まあ、一年生だし、しかたないな。それは一橋も同じだろう。先輩達は酔いつぶれた人を僕らに押し付けて、そのまま、カラオケに向かってしまった。ちょっと、薄情だな…。結局、こんな形でしか、そばにいることができないのか…。まあ、与えられた役割をしっかりやることにしよう。そう思った矢先だった。一橋が後ろから肩を叩いてきた。助手席の僕は後ろを振り返ると耳打ちしてきた。
「何で、一年生ってだけで、こんなことを押し付けられるの? 私、帰るから…」
何を急に言い出すのか? 今度は僕が耳打ちする番だった。
「ちょっと、それは困るよ。大宮さんを送ってから帰ればいいだろう?」
一橋はイラッと来たのか、僕の右の耳たぶをぎゅっと引っ張った。痛くて、思わず叫んだ。
「何、とぼけているのよ! 大原、大宮さんのことが好きなんでしょう? このチャンスをうまく生かしなさいよ。この意気地なし!」
そう小さくつぶやくと、一橋は運転手に一言言って、さっさとタクシーから降りて行った。こうなるとは思わなかったので、僕はただとまどっている。こんな時に寝息を立てている大宮さんが恨めしくさえ思えた。あっという間に、四年生の先輩方が書いたメモの通りにタクシーが着いた。
それから、彼女を抱えるようにして、家まで連れて行くしかなかった。小柄の僕が大柄の彼女を抱えるのは大変だった。彼女の家に入ってから、それなりに迷ったが、リビングに大宮さんを寝かせた。下手に奥にあると思われる寝室を見るのは申し訳なく思われた。それから、鍵を外からかけて、鍵をドアポストに入れた。これで僕の役目は終わった。終わったら、変な汗がたくさん出るし、とにかく疲れた。やっとの思いで家に帰れた。
「昨日はごめんなさいね。四年生なのに、醜態をさらしてしまって…。ところで誰が送ってくれたの?」
コンパの翌日、珍しく大宮さんがサークル室にやって来た。部屋にいたみんなが驚いている。
「大原とかなでちゃんですよ」
赤屋さんがぶっきらぼうに言うと、大宮さんが僕の方に近付いてきた。それを見た一橋もこっちへやってくる。
「昨日はありがとう。もし、よかったら、今度ごはん食べにでも行かない? 私がおごるから、ぜひ、二人にお礼がしたいの…」
「大宮さん、実は私、先輩を送っている最中に気分が悪くなってしまいまして…。そしたら、大原君が『俺に任せておけ』と言いましたので、お言葉に甘えて、途中で帰ってしまったのです」
「おいっ、何を言って…。痛っ…」
一橋が嘘をついているので、止めようしたら、背中を小突かれた。さらに横からちらっとにらんできた。
「…なので、大宮さんを送ったのは大原君だけです。私は何もしていませんから…」
おい、何を言っているんだよ。お前がそんなことを言うから、赤屋さんとか山岸さんとかがニヤニヤしているし…。
「そうだったのね。じゃあ、大原君、携帯を貸して」
言われるがままに携帯を差し出すと、大宮さんはあっと言う間に僕の携帯番号とメアドを自らの携帯に打ち込んで、僕の携帯にメールを送ったようだ。返してもらった携帯には、彼女の携帯番号とメアドの入ったメールが来ていた。
「じゃあ、また連絡するね。私は今から卒論ゼミに行かないといけないから…。じゃあね!」
そう言うなり、大宮さんは駆け足で遠ざかって行った。部屋では僕を除いた全員がニヤニヤしていた。
「やったじゃない。ナイスアシストだったでしょう?」
一橋が言ったことを無視すると、こらえ切れなくなったのか、みんな笑い出した。僕はどうしたらいいのか分からずに、ただ呆然としていた。
クリスマスを目前にした日曜、大宮さんと一緒に外食をすることになった。夕方、遅れてはいけないと思い、五時四五分に待ち合わせ時間に着いた。六時まであと一五分もある。別に何も期待してないと言えば、嘘になるけど…。ただ、お礼にごはんをおごってもらうだけ…。何もあるはずがない。六時五分前、大宮さんがやった来た。
この日は、この前のようになってはいけないと言うことで、酒抜きだった。話が進むに連れて、彼女が司法書士の資格を在学中に取っていたことや、すでに司法書士事務所への就職が決まっていることを知った。
「もう、司法試験は受けないんですか?」
「私の家は余裕がないから、チャンスは在学中だけ。合格率五%の合格率は厳し過ぎるよね。でも、司法書士なら、法専で四年間まじめにやっていれば、何とかなる。一つの学年に千人いるけど、法専でも現役で司法試験に受かるのは約二百人だけ…。あとの八百人はどうにかして、法律関係の仕事ができるようにもがいているのが現実よ」
思いのほか、まじめな話となった。それにしても厳しい世界である。それにしても、八月三一日の誕生日がどれだけ憂鬱かを書いていたはずなのに、だんだん女性遍歴を語ることがメインになってきてしまった。どうも、うまくいかない。しかし、これまであった人生の節目をありのままに書いていくと、どうしても外せないので仕方ない。大宮さんとは、この日に外食しただけで、何もないまま、三月の卒業の季節を迎えた。そして、僕の大学一年は終わりを告げた。