二階のつきあたりの部屋
家のお兄ちゃんは、もう長いこと、高校へは行っていません。
学校へ行かなくなったどころか、家族ともめったに会わなくなってしまいました。何をしているのかというと、二階の奥のつきあたりの部屋で、たくさんのセキセイインコたちと、毎日毎日遊びたわむれているのです。
いえ、遊んでいるというのは嘘で、インコたちを「調教」しているのです。
わたしは唯一お兄ちゃんに「謁見」を許されているので、あんな部屋で何をしているのかこっそり教えてもらったのです。「調教」も「謁見」も、実はお兄ちゃんに教わった言葉です。わたしは少女漫画ばかり読んでいる子ですから、難しい漢字なんて知りません。
インコは何羽いるのでしょうか。十羽や二十羽でないことは確かです。かといって、百羽はいないと思います。数えたことはないけれど。
とにかく絶えず小さな黒い穴から、色とりどりの奇麗な小石のように、するすると出入りしています。黒い穴はベニヤ板のあちこちに開けてあり、気味の悪い目玉のようにこちらを睨んでいます。
階段を半分昇ったあたりで、もう乾いた鳥の糞の匂いがします。
一階の廊下の下あたりでも、鳥たちの騒ぐ声が聞こえてきます。この黒崎家はすでに、お兄ちゃんの家来である邪悪なインコたちに乗っ取られているのです。
わたしたちの知らない間に、インコたちは台所に降りていて、キャベツやニンジンや白菜を食い荒らし、緑の葉をあちこちに散らして、勝手気ままに小鳥式の小さなセックスをして、いい気持ちになって、観葉植物の上で眠ています。
甘たるく腐った赤黒い果物が、とんでもないところで、傷だらけに痛んで転がっていることもあります。ほとんどお酒になって、爛れた花のような甘美な汁が滲み出ています。
わたしたち家族がそれを追い払おうものなら、傲慢にも四方八方から飛んできて、髪の毛をむしり、頭をつっつき、ひどいときには眼球をクチバシで刺そうとするのです。 かわいそうなのは子犬のパフで、はじめの頃はウーッとうなって見上げていたのに、いちど二十羽くらいの鳥の集団に囲まれ、左右の耳を噛まれたのです。台所中を追いかけまわされ、血だらけになって逃げ回ったので、二度と恐ろしいインコ軍団を敵にまわすようなことはなくなってしまいました。
それどころか、階段の近くすら寄りつかず、邪悪なインコたちのキキキッと鳴く声にすら怯えて、たちまちしっぽをまいてテーブルの下にもぐり込んでしまう始末です。
二階のつきあたりの部屋の内部は、不思議な形をしていて、ベニヤ板や段ボール箱で囲まれて、三重構造になっています。これはお兄ちゃんとの「謁見」を許されているわたし、つまり黒崎ヒロミだけが知っている秘密です。
はじめは八畳の勉強部屋だったのですが、一番真ん中に蚊帳の釣られた本丸があって、そのまわりは二の丸、廊下から見えるのは三の丸なのです。
お兄ちゃんは子供の頃とても大事にされていたので、こんなに広い勉強部屋が与えられていたのです。
両親に期待されて溺愛され、わたしなんかよりも顔もきれいで、いわば小さな王子様で、将来の夢のところに、平気で「総理大臣」と書いていたそうです。
でも、そんなふうに人生が都合よく進むほど、世間は甘くはありません。
いつのまにか、みんなつまらない現実に納得し、情けないしょぼくれた自分をそれなりに気に入って、後輩にもそれを説教したりして、大人になっていくものです。
それなのにお兄ちゃんは、万が一にも自分が王様ではないという現実を、ぜったいに受け入れませんでした。一人も友達を作らなかったお兄ちゃんは、いつしか燃えるような豹の目をした、悪魔のような自我の持ち主になってしまいました。
孤独な深夜、天井を睨んでいるうち、あの世に潜んでいる何か不吉なものが、憑いてしまったのかも知れません。外の廊下から三の丸に入ると、ベニヤ板でできた小さな暗い迷路になっていて、狭いのに迷ってしまいます。
電気はだいたい消してあるので、わたしは懐中電灯を持って入ります。
お兄ちゃんの許可をうけないでこのベニヤ板のお城の中に入ろうとすると、見張りのインコたちに見つかって、大変な攻撃をうけてしまいます。
お兄ちゃんには奇妙な力があって、インコに命令することができるのです。
インコは昔から家で飼っていたのが、大きくなってしまったのと、いつのまにやら外から入りこんできた不良インコたちと、その二種類のインコが交尾をして生まれたハーフのインコとがあります。もともとのインコたちは、「貴族」の爵位を受けて「本丸」の中で威張っています。
「鷹彦にも、しょうがないな」
と、お父さんが諦め顔で新聞を開きます。
「いっそあの子を殺して、わたしも死んでしまおうかしら」
と、お母さんが思い詰めたように涙ぐみます。
「なにを馬鹿なことを。くだらん。……ところで明日は早朝会議で早いからな。俺は、もう寝るぞ」
「あなたは、いつもそうやって、そうやって、子供の話は避けるのよね。いつだってそうだったわ。悪戯した怒られたりすると、全部あたしの育て方が悪い、こうですものね。ああ、恐ろしいこと。あの子はいったいどんな一生を過ごすのだろう。きっと私たちが死んだあと、ホームレスになってしまうのだわ。あの子はきっと、凍死してしまうんだわ。高校だって行っていないし、このままでは大学だってダメだろうし、専門技能があるわけでもないし」
「なに、大検という手も、あるという話じゃないか。ほら向井さんのお嬢さんがやったやつだ。卒業しなくても受験できるそうじゃないか」
しかしママは、お兄ちゃんの未来を考え始めると、たちまち冷静ではなくなります。
「別に、大学に行かなくてもいいのよ。お勉強だけが人生ではないわ。ただ、何か生きていく能力があれば、よいと思うの。将来、いったいあの子は、どうやってご飯を食べていくつもりなんでしょう」
「あのなぁ、お前も、鷹彦鷹彦と、馬鹿の一つ覚えのようにいってないで、もうそろそろ、自分の人生を楽しむべきじゃないのか。お花とかお茶とか、小説のカルチャーセンターとか、最近は何でもあるじゃないか」
「あなたはそれでも、父親なの」ママは物凄い顔で、パパを睨んだ。「あの子を生んだときだって、病院に来てくれなかったし。そんなふうになれないうから、気をもんでいるんじゃないの!」
怒るとママは、とても動物的な顔になり、醜くなってしまいます。わたしはどうやらこの人に似てしまったらしい。
「結局あなたが、あの子をちゃんと叱ってあげなかったから、こうなってしまったのです。父親のいない家庭は非行に走ると、ワイドショーの評論家がいってました」
「馬鹿な評論家の言葉なんか、あてにするな。そもそも俺はな、評論家とかコメンテイターとかいう人種が、大嫌いなんだ」
「あなたはしょっちゅう出張だの、視察だのゴルフだのいって、家を空けてばかりいて。長男の出産にも立ち会わず。その間に、その間に、高見沢慶子なんかと」
パパはこの名前が出ると、必ず舌打ちをします。
「もう済んだことを、そうやって、いちいちいちいち」
そしてパパは、ビールのコップをいらだたしげにがちりと置いて「いちいち、いちいち、いちいち!」と語気を荒げて繰り返します。
「いえいえ、わたしの中では、まだ済んでいません。永遠に済んでいません。わたしは高見沢さんに、面と向かって女としての価値を否定されるようなことまでいわれて。ああ、クヤシイ。あのとき、わたしはいっそ、わたしはいっそ」
ママは眉に深い皺を寄せ、いきなり両手で目を覆います。
「あの人が、癌で亡くなったと聞いたとき、わたしは快哉を叫んだわ。あの時、わたし、鬼になったのだわ」
パパはうんざりしたように、顔を背けた。
「ほう、アメリカで航空機事故があったみたいだぞ」
そういって、わざとらしく新聞を開く、硬い音。
「日本人商社マンが六人なくなったそうだ。菱田物産のエリート社員だ。おっ、大東亜生命の役員も入っているぞ。ご家族も、かわいそうに。ふうん。死んだとわかっていながら、家族はこれから、アメリカに飛ばなければならないわけだな。搭乗券とか買って並んでいるとき、どんな気持ちなのかねえ。こういう場合、保険金は、どのくらい出るのだろう。……ま、こんな運の悪い家に比べれば、わが家なんか、案外、幸せな方かもしれないぞ。よそから見たら、たぶん、大方、幸せなほう、なんだろう」
何ごともヒト事のように嘯くパパの横で、ママはどっと泣き崩れます。
お兄ちゃんと連絡するには、電話で「許可」を取らなければなりません。
そうすれば、セキセイインコたちの警戒を、解くことができるからです。
わたしがはじめて二階のつきあたりの部屋に入ったのは、お兄ちゃんが人と会わなくなってから、もう何カ月もたったときでした。
わたしが廊下に現れると、若い血気にはやったインコたちが、たちまち羽を立て、年期の入ったインコたちがそれを軽くつついてたしなめるといった印象でした。
ご飯と野菜だけは、神棚にでも捧げるように、障子の外に置くことになっていました。これだけのインコたちを養う野菜は、かなりの分量が必要で、わたしは三日に一度は、近くの商店街の八百熊に、キャベツや白菜や野沢菜を買い出しに行くのでした。
とびきりの新鮮な野菜を貢ぎ物に、小さなこしゃまくれた青いインコに案内されて、わたしは奥の部屋のベニヤ板と段ボールの迷路の中へと入っていきました。この貧弱な青いインコは、もともとは身分の低い他所者だけれど、なかなかの切れ者で、次第にのし上がったインテリインコといった感じでした。
毛が醜く毟られているのは、どうやら権勢をかさにきて彼が威張り散らすので、どこかで嫉妬深い連中に、闇討ちにあっているためのようでした。
薄暗い三の丸は、雑然として下級インコたちがめいめい勝手な格好をして、羽をむしったり、後輩をいじめたり、中には積み上げられた椅子やダンボールの影で交尾を楽しんでいたりする者までいました。お兄ちゃんのかつての子供っぽいセーターや、可愛らしいズボンや、得体の知れない襤褸切れを合わせて、何かごわごわとした不気味な巣を作っているインコもいます。そこかしこに、古い腐った林檎が、転がっています。ここはいってみれば、下町なのでした。
ところが二の丸にさしかかると、どことなく品格があり、餌箱や水浴びの器などもきちんと整列され、羽の奇麗なインコが増えてきます。というより身奇麗にすることとお喋りすることしか考えてないような、高慢な貴族インコばかりなのでした。彼らは首を少し伸ばし気味に、嘲笑的な表情をして、乙にかまえています。
クリスマスのときつける赤や緑の豆電球が、静かに点滅していました。こうして薄ぼんやりとした暗がりの中で見ると、インコたちも、まるで考えを持った人間の集まりのように思われてきます。なにかの魔法で、不当にもこんな姿に身をやつしてはいるものの、実は自分たちが前世では人間であったことを了解している、とでもいった顔つきなのです。
三の丸のインコたちは、ほとんど黄色や黄緑といったありきたりの色でしたが、二の丸にくると、白に青色の混じったような美しい上品な羽色をしたインコが目立ちました。ここに濃い紫が混じると、なかなか典雅な小鳥になります。クチバシの清潔な貴族的なインコたちは、きちんと板の上に並んでとまり、わたしを軽くあしらうように、見下ろしているのでした。
お高くとまって、わたしが入ってきたことなど何でもないとでもいうように、この外部からの侵入者を冷ややかに眺めているのですが、横を向いているその表情には、並々ならぬ警戒心と、強い好奇心が感じとれました。狭い路地のようなところをくぐり、二重にも三重にもなった灰色の古いカーテンを開けると、そこはぼおーっと青白く浮かび上がる本丸でした。わたしは背筋が冷やりとしました。
お兄ちゃんは、裸のからだにインコの羽をセロテープでべたべたとつけて、先端に銀のナイフのついた槍のようなものを片手に持ち、インディアンの酋長のようにあぐらをかいて座っていました。奇怪でエキゾチックな仏像のようです。
背景は床の間のもともと掛け軸のあったところで、そこには『大鳥王鷹彦神』と筆文字で太く書かれてありました。すぐ上には金色の紙で、ヨーロッパの王家の紋章のような「双頭の鷲」のシンボルマークが描かれてありました。
右の方の顔はインコだったかもしれません。
その奇妙な掛け軸には、おびただしい鳥の羽が、まるで直接その紙の肌から生えた下向きの紫色の鱗のように、重ねられていました。つまりそれは、鱗だらけの蒼白い龍のうなじのようにも見えたのです。
どこから拾ってきたのか、いくつもの蝋燭の炎で、お兄ちゃんの姿は妖しくゆらゆらと朧げに浮かびあがり、洞窟の中の魔神の像のようでした。
とても妖しい美少年です。
耳には針金のピアスがつけられ、髪は女の人のように長髪のまま、大きく見開かれた目は豹のように異様な輝きを帯びています。胸やおなかにも、水色の羽がつけられていました。目のまわりに野蛮人のように墨色の隈取りがあります。頭には長い尾羽が立てられ、これから戦場に血を流しに行くとても引きしまった体をしたインディアンの若い酋長のようです。
わたしが懐中電灯で全身を照らすと、幾つかの赤くて細い紐をつけている外は裸でした。わたしも大きくなってからは、お兄ちゃんのおちんちんをじかに見たのは、これがはじめてでした。目を伏せても、どうしても見てしまいます。その沈んだ色、罪深い形に、ドキドキしました。でもどこかインドの聖者のような威厳があります。おちんちんのまわりにも、水色の小さな羽毛が植えつけられていました。
「ここは日本じゃない」とお兄ちゃんはおごそかに宣言しました。
「イーグリア・インコニア二重帝国だ」そういってから、野生の豹のように鋭い目でギロリとわたしを見つめました。まるでもはや妹ではないというように。
この名前はどうやら「鷹とインコ」から作られた勝手な造語らしいのですが、後でよく考えてみると、イーグルというのは鷹ではなくて鷲じゃなかったかしらとも思いました。
「どうして、わたしたち家族を苦しめるの?」わたしは恐る恐る尋ねました。
お兄ちゃんのあそこは、怒った大きな幼虫のように、微妙に息づいていました。
「白っ茶けたゲームに、飽き飽きしたんだ。学校だの、家族だの、会社だの、意味のないおままごとを続けたい奴は、そうやって続けれてりゃいいさ」
「まじめに生きることが、おままごとなの」
「胸に手を当てて、考えろ。俺は、降りたんだ。影絵のようなゲームからな。夢には夢で、対抗する。俺は『黒崎鷹彦』を自らの手で抹殺する儀式をすませた。一羽の鳥が、犠牲になった。つまり生贄だ。そしていま、聖イーグリアンⅠ世をここに宣言する」
銀色を帯びた青い姿は、ところどころ入れ墨のような模様が入れられ、汗でうっすらと滲んで神秘的に輝いていました。
わたしが貢ぎ物の野菜を両手で捧げると、インコたちは、ゆっくりと暗がりの中で羽を扇状に開いたり、首をかしげて胸毛を直したりしました。
蝋燭の炎で照らされる闇の中で、おびただしい鳥たちがそうやって扇状に羽を開き、小さな口の中で舌を尖らせ、しだいにわたしや家族に対する敵意をむき出しにしているようでした。
「タカヒコサマハ、神ダ」
と突然、一羽のインコが金切り声をあげました。さっきの醜い毛の毟られたインテリインコです。
すると本丸に潜んでいたインコたちが、めいめい物に憑かれたように、
「タカヒコサマヲ、スウハイセヨ」
「タカヒコサマヲ、スウハイセヨ」
「タカヒコサマハ、神ダ」と、歌い始めました。
まるで輪唱のように少しずつずれ、声の波がうねってゆきます。はたして意味がわかっているのでしょうか。インコは言葉を持っていませんから、きっとはじめはお兄ちゃんが一羽ずつ口移しで教え込んだのでしょう。
何という孤独。
もともとほんとうは、とても優しい、動物好きのお兄ちゃんだったのです。まだわたしが小学校にあがる前、いっしょに小川で泳いで水泳を教わったり、公園で鉄棒を教わったりしました。
そういえば、お兄ちゃんがなめている飴玉を、わたしが脇で欲しがったことがありました。お兄ちゃんはわざと「ああ、おいしい。あー、おいしい」とやってみせるので、わたしはとうとうぐずって泣き出してしまったのです。
するとお兄ちゃんは、そのままなめかけの飴をつまんで、わたしの口にポトンと入れてくれたのです。飴玉を舌でころがしたときひろがってきた甘い味。
半分くらいになった透明な金色の固い飴玉は、歯にコツコツと当たりました。お兄ちゃんはあとで優しくおでこをくっつけ「だってヒロミ、怒っちゃうんだもの」といって茶目っけたっぷりの目をして、わたしのほっぺたをつつくので、わたしは飴玉をなめながらますます甘えて泣き出してしまうのでした。
お空を見上げながら、まるでわたしも、飴のように金色にとけてしまいそうでした。
でももうそんな懐かしい時代は、過ぎ去ってしまったのです。
いまここにあるのは、灰色の闇と瓦礫でした。
壊れた古い椅子や、破れたダンボールのバリケード、乾いた鳥の糞の荒涼とした匂いや、燃えるような豹の目です。
あの優しいお兄ちゃんが、わたしたちの家を乗っ取り、インコを手足のように使ってこの家をがんじがらめにするなんて、考えてもみませんでした。
おびただしい羽の舞う中、二の丸、三の丸のインコたちが呼応しはじめ、暗がりの中で異様な声をして、「タカヒコサマハ、神ダ」「タカヒコサマヲ、スウハイセヨ」と口々に叫び続けています。
暗がりの中、あちこちからわき起こったきた翼が、ばさばさと悪夢のように重なります。鳥たちの狂気じみた気配が、羽毛とともに漂います。
毛糸をからませた巣の中の、まだほんの小さな雛たちすら口まねをして、三角形のホオズキのような色をした気味悪い口を開き、「アカヒカカカカ、アビダ」などと舌っ足らずに言っている始末です。
「というわけで、鷹彦のことは他に方法があるまい」とパパは宣言しました。
「来週あたり、いとこの博紀君と洋平君に手伝いに来てもらうことにする。彼らはスポーツで鍛えているから、頼もしいぞ。名目上は、ささやかなパーティーというわけだ」
何げない夕食を装って、ひそひそ声の家族会議が開かれました。皆、押し殺したように、箸の音よりも小さい声で話しました。
「でも鷹彦に薬を飲ませて、間々田医院に送り込むというのは、わたし」
と涙ぐむママ。
「ここまできたら、仕方がない。他に方法があるなら、いってほしいのだがね」
「とうとうイーグリア・インコニア二重帝国をつぶすのね。聖イーグリアンを攻めるのね。でもその後、二階はどうなるの?」
わたしも興奮していました。
「直後に、閉鎖だ。現時点で、どんな病原菌が発生しているか、わからんからな。保健所に来てもらうことにする。今こそ父さんの、家長としてのリーダーシップが問われているわけだ」
と、パパはビールを注ぎながら満足げにいいました。
「例の薬は、お母さんが入れてもらえるかな。何の料理に入れるかは、まかせる。そのまま車に鷹彦を運び、本町通りの間々田精神医院だ」といいます。
パパは久しぶりに奇妙にてきぱきとしていて、まるで会社にいるようでした。
しかしそのとき、キッチンの隅の角から一羽の黄色い鳥が飛び立って、ヒュルヒュルと天井を這いつくばるようにしてひと周りし、あれよあれよという間に階段を通って二階へと飛び去っていきました。
子犬のパフはあっけにとられて吠えるのも忘れ、鳥がやっとキッチンを出ていった辺りで激しく吠え出しました。苦労の足りないお坊ちゃん犬なのです。「スパイだ」とお父さんは小鳥を見上げて、憎々しげに舌打ちをしました。
それからが悲惨でした。
お父さんの出勤時ともなると、緑色のひねこびた顔をしたインコが二階から降りてきて、肩や頭のまわりをうるさく飛びまわり
「バカハ、ハタラケ。シヌマデ、ハタラケ」と、鋭い声で繰り返すのです。
さすがに駅までまといつくと、それ以上は追ってこないであっさりと引き返すようでした。でも夕方、家に帰ってきたのが知れると、今度はパパが晩酌をやっている茶の間の食器棚の上にとまり「バカハ、ハタラケ。シヌマデ、ハタラケ」とやるのでした。
パパは怒って、ビールやお酒をひっかけるのですが、すぐにぱっと飛びあがり、緑の尾を斜め下に伸ばしたとぼけた格好で、ヒュルヒュルと逃げ去ってしまうのでした。
ママにも異変が起こりました。キッチンで野菜をコトコトと切っていると、とても羽の美しいかわいらしい白いインコがそばに寄って来て、小さな黒い目でもの欲しそうに見上げます。
さすがに情がくすぐられて、まな板脇の野菜屑をやろうとすると、いきなり白い羽を逆立て「オマイノテーシュハ、ウワキモノ。オマイノテーシュハ、ウワキモノ。キキキッ」と、嘴から桃色の舌を突き出して罵るのでした。
あるいは、いい天気なので庭で洗濯物を干そうとすると、どこからともなく例のかわいい雌インコが飛んできて、物干し竿の上にとまり「オマイノテーシュハ、ウワキモノ。キキキッ」と底意地悪く繰り返すのです。
わたしはわたしで中学校から帰ってきて、部屋のベッドに寝転がって漫画の本を開こうとした途端、「ブスハ、イキテテ、ショーガナイ。ブスハ、イキテテ、ショーガナイ」とやられました。人の心理の弱みを突いてくるのです。背景にお兄ちゃんが操作しているのがわかっていながら、どうしても鳥たちを憎んでしまいます。
わたしは、はっきりいって、ブスです。そんなこと、あらためてこんなちっぽけな鳥にいわれなくたって、わかっています。
毎日鏡を見るたび、絶望的な気持ちになります。わたしの目は小さくて僻みっぽいし、太っていて不格好で、ファッションだって何を着ても似合いません。
原宿を歩いていたって、友達のように、モデルクラブの人から声をかけられることなど、決してありません。実はその友達は、わたしと歩いていると自分の方が引き立つので、日曜日になるとわざとわたしを誘って、表参道や竹下通りを何度何度も往復したがるのでした。こんなことを考えてしまうと、人のことを悪く悪く、取ってしまいます。以前、担任の先生はこういうのを性悪説というのだと教えてくれました。
でも、妹の容貌のことを、実の兄が小鳥を調教してまで言わせるべきことなのでしょうか。このときはじめて、わたしは兄に「悪魔」を感じました。もうお兄ちゃんなどといって、甘えていられません。
悔しさと無念さで、顔が熱く火照りました。
「わたしに、悪いことを、させようというの?」
「そんなに、わたしに、恐ろしいことがさせたいの?」
下唇を噛みながらベッドの下をのぞき込み、犯人のインコを捕まえましたが、それが水色の子供のインコなのでした。
小鳥は抵抗してキキキッといって小さなからだを曲げ、必死にわたしの手を噛もうとしましたが、この子は何も意味がわかっていないのだと思うと、急に可哀想になって離してあげました。
ところが逃げていく途中、わたしの部屋のファンシーケースの肩にたかってこちらを見下ろして「ブスハ、イキテテ、ショーガナイ。ブスハ、イキテテ、ショーガナイ。ギギギィ」とやらかしたのです。
この時、わたしの心は薄い血を流しました。
どうやら家族ひとりひとりに担当のインコが一羽ずつつけられているようです。
それだけではありません。敵の志気を弱めるためか、いかにも汚ない老いぼれた灰色のインコが、庭の木や、応接室のテーブルにうずくまり、誰にいうともなく
「フコウフコウ、ツマラナイ。フコウフコウ、ツマラナイ」
を、繰り返すのでした。
こいつは、インコというよりは、むしろ小さな梟とでもいったような奴で、人間にたとえれば初老の窓際族といった印象です。
いっそ箒で叩き落としてやろうと思ったのですが、そのインコを見ると、赤く爛れた目や、毟られて肉がのぞいた頭が目につき、むしろ哀れさが増して、いっさいが味気なくなり、いかにも「フコウフコウ、ツマラナイ」という気になってしまうのでした。
どうも、脚の指なども一二本欠けているみたいなのです。
かと思うと、同じ作戦なのか、小さなお子様インコが庭でたくさん群がり遊び、
「コノイエインチキ、バラバラダ。コノイエインチキ、バラバラダ」とか、
「オマイノジンセー、イミガナイ。オマイノジンセー、イミガナイ」、
「トナリノイエガ、ヨクミエル。トナリノイエガ、ヨクミエル」
などとやりながら、砂浴びをしたり、塀づたいに色とりどりの追いかけっこをしたりするのです。
そのうち、このいたずらっ子集団が「フコウフコウ、ツマラナイ」の標語を担当している老いぼれインコをじりじりと囲んで、若い鋭い嘴で噛んだり羽を毟ったりする残酷な遊びを始めました。
老いた灰色のインコはなすすべもなく、おろおろとよろけながら、あっちで毛をむしられ、こっちで羽をひっぱられます。
いじめが終わると再び、この老いぼれは、こぶしの利いた声で「フコウフコウ、ツマラナイ。フコウフコウ、ツマラナイ」を低くつぶやくのでした。
そんな地獄を味わっているうち、わたしたち家族に不思議な兆候が現れました。
ある日の夕暮れ、パパが縁側に座り、がっくりと肩を落としていたので、わたしは声をかけたのです。
「いや、考えてみれば、あの鳥たちのいっていることが、本当なのかもしないと思ってさ」と、柄にもなくぼんやりとして遠くを見ています。
「バカハ、ハタラケ。シヌマデ、ハタラケ、か。俺もこの年まであちこち飛び回って忙しがってきたが、一体何がなにやら分からぬうちに、時間だけが過ぎてしまった。うちの会社は、菱田物産のような一流会社じゃないが、それなりに知られた中堅どころで、お父さんも課長になって、同期の中ではまずまずの地位だ。しかしこんなものはな、定年になってしまえば、夢の中で握っていたお札のように儚く消えてしまうものだ。オマイノジンセー、イミガナイ、ってか……」
「パパ、その手に乗らないで。それがお兄ちゃん、じゃなくて、イーグリアンの奴の戦略なんだから」
「わかっているさ、そんなことぐらい。でも考えると、小鳥たちの言うことにも、なるほど一理あるとも思えるんだ。このままでは、いずれ癌か脳卒中で倒れて、死ぬまぎわに『じゃあ、けっきょく何だったんだ?』とつぶやきながら、人生に騙されたような気分のまま終わってしまうに違いないよ。こうやって慌ただしくしていることに、何の意味があるのかね。俺はどうやら自分というものを、見つめてこなかった。……最近、芭蕉や山頭火が、妙に慕わしくなってねえ」
ママもまた、精神状態がおかしくなっていました。
キッチンのテーブルにうつ伏せになっているので起こしてみると、髪をもつれさせた疲れた顔でこういいます。
「お父さんのわがままにつきあって二十年……。ふたりでじっくり話し合う時間もないまま、ここまで来てしまったわ。あんな高見沢慶子みたいな狐女に騙されて、お父さんが家族のことをほったらかしにしてきたことが、鷹彦をあんなにしてしまった原因なのよ」
彼女の頭の中では、まるで高見沢慶子さんが諸悪の根源のようです。
「ママ、これは分裂を狙ったアイツの作戦なのよ。あんまり、考え込まないで」
でも彼女は力無く笑うだけで、日に日にしなびて憔悴していくのでした。パパはその様子を冷たい目で見ています。わたしは泣きたくなってしまいます。
窓辺には冷酷にも、黄色い鳥たちが四羽ほど並び、わたしたちの心境の変化をじっくりと観察しています。
ある日パパとママは、つまらないことで言い合いを始めました。
「つまりお前は、わたしのことを、ちっとも尊敬しとらんのだ。態度を見れば分かる」
「ええ、してませんとも。尊敬されたかったら、尊敬されるようなことをやったらどうなんです。お隣の山室さんのお宅は、毎年ご家族で海外旅行に行かれて、絵に描いたようなお幸せな生活をされて……。わかってますとも。わたしたちは見せかけだけで、心はバラバラなのです。あなたはずっとわたしを、恥じていました。高見沢サンのような派手な美人なら、旅行に連れていくんです」
「高見沢のことは、もういい。終わったことだ!」
パパは茶碗を力いっぱいテーブルに投げつけました。
ママの額を、破片のひとつがかすめたようです。
悲鳴とともに、顔の左半分がみるみる血だらけになり、指と指の隙間から赤い条が垂れてゆきます。
白いハンケチは、鮮血でぼってりと染まってしまいました。
おー、おー、という、母親の嗚咽が聞こえます。
すると小さな黄緑色の悪魔たちが、窓辺に群らがって、
「コノイエインチキ、バラバラダ。コノイエインチキ、バラバラダ」
「トナリノイエガ、ヨクミエル。トナリノイエガ、ヨクミエル」
という言葉を、嘴から毒素のように吐き出し、小さな桃色の舌を激しく上下させました。
こうしてわたしは、とうとう決心したのです。
キッチンの隅っこで、一本の長い蝋燭を探しだし、マッチでその先端に火をつけました。炎はわが家の険悪な空気を吸って、くねるように伸び上がり、金赤色にゆらめきました。
わたしは階段を登ります。
一段一段登ります。
やめるなら今なのですが、もう後戻りできません。
途中でちょろちょろとよろめいてきた幼いインコが、わたしを愛らしく見上げ
「ブスハ、イキテテ、ショーガナイ。ブスハ、イキテテ、ショーガナイ」
とやったので、わたしは両手ですくい取るようにしました。
「そんなにわたしに、恐ろしいことが、させたいの?」
わたしは寂しく笑い、一呼吸しました。そして、
「お前、馬鹿だね。かわいそうに」
と頬ずりしながら、ゆっくりと親指の爪で首をしめつけました。
抵抗すればするほどかわいらしく、泣きたいほど愛らしく、温かい小さなからだがいじらしく、手の中でいたいけにもがきます。
やがて幼い鳥は、ギギギッとうめくように鳴き、ぐったりと薄目を開けて、ピンク色の両脚をゆっくりと伸ばしたきり、動かなくなりました。
わたしは階段を登ります。
一段一段登ります。
握っている蝋燭の炎がゆらめきます。
二階のつきあたりの部屋は、もうすぐです。
あそこは、燃えやすいものばかりでできています。
悪いのは、あの部屋に棲む悪魔です。これが最後の「謁見」になるでしょう。
もはや、わたしたち家族に、幸福も不幸もありません。
鳥たちが、羽毛の漂う闇の奥からばさばさと現れ、あちこちに囲むように群がってきました。わたしも鳥たちも、殺気立っています。
もう後戻りはできません。 (了)