第20話「味覚喰いと焼きおにぎり」
広場の中央に、二つの竈が向かい合った。
一方は俺の簡易の竈。炭火を起こし、鉄網をのせただけの粗末な調理台だ。もう一方には、アルデが指を鳴らして出現させた黒曜石の調理台。表面には無数の舌を象った紋様が刻まれ、そこから黒い蒸気が立ち上っている。
村人たちは広場の端に集まり、固唾をのんで見守っていた。リリアが弓を抱え、ギリアムが大剣を地面に突き立て、将軍が無言で腕を組む。グレゴールは鍋を脇に置き、トシは気配を消してカウンター代わりの岩の上に座っている。
「条件を確認します」
アルデが薄絹の下から静かに言った。
「互いに一皿を作り、それを相手が食す。先に“うまい”と言った方が負け。料理の内容、食材、技法に制限はありません」
「いいだろう」
「ただし——私は味覚喰い。私の作る料理は、食った者の味覚を一時的に奪います。それでも構いませんね」
「構わない。どうせお前との勝負が終われば、味覚は返してもらう」
アルデは答えず、調理台に向かった。彼女が取り出したのは、黒く脈打つ果実だった。表面はぬめり、時折、果肉の内側から低い呻き声のようなものが漏れている。見ているだけで舌が痺れる——いや、舌だけじゃない。心が、冷たくなっていく。
「“絶望の果実”。味覚を失った人間の涙から育ちます。この村で三年かけて収穫した、私の最高傑作です」
アルデの細い指が、果実を切り開く。中から溢れたのは、墨のような黒い液体と、腐敗した花のような甘い異臭だった。
「これをソースに、一皿を仕上げます」
彼女は手際よく、黒い液体を煮詰め、無味砂漠で採れる白い根菜を薄切りにし、それを黒いソースで和えた。見た目は美しい——墨と真珠を散らしたような一皿だ。だが、香りだけで俺の舌の奥がじんと痺れる。
一方、俺の手は空っぽだった。
「……なにを作る気だ」
リリアが小声で言う。
「焼きおにぎり」
「は?」
「焼きおにぎりだ。醤油を塗って、炭火でこんがり焼く」
俺は持参した桶から、今朝握ったばかりの塩むすびを取り出した。それを鉄網にのせ、炭火の上でじっくりと炙る。表面がかさりと乾き、うっすらと焼き色がつく。そこに、異世界デリバリーから取り寄せた醤油を刷毛で塗る。醤油が炭火に落ち、じゅわっと香ばしい煙が立ち上った。それだけだ。
村人たちが、ざわつく。
「匂い……匂いがする」
「醤油の、焦げる匂いだ」
「なんで……三年ぶりだ、こんな匂い」
味覚がなくとも、嗅覚が少しでも残っていれば、この香りは届く。焼き醤油の香ばしさは、日本人のDNAに刻まれた記憶のようなものだ。そしてこの世界の人間にも、それは同じらしい。
アルデの手が一瞬止まった。薄絹の奥の目が、俺の手元をじっと見つめている。
「……ただの焼きおにぎりですか」
「そうだ」
「それで私の“絶望の一皿”に勝てると思っているのですか」
「勝ち負けじゃない。お前に食わせたいだけだ」
やがて両者の皿が完成し、広場の中央に並べられた。
アルデの皿——白い根菜に黒いソースが絡み、皿の縁には絶望の果実の薄切りが花びらのように飾られている。見た目は息をのむほど美しい。だが、近づくだけで舌の奥が凍りつき、心の底に沈んだ記憶が呼び覚まされるような、危険な美しさだった。
俺の皿——ただの焼きおにぎりが二つ。表面はこんがりと焼け、醤油の香ばしさが湯気と共に立ち上っている。見た目は何の変哲もない、ただの握り飯だ。
「では、同時に食しましょう」
アルデが俺の焼きおにぎりを手に取り、俺が彼女の絶望の一皿を受け取る。
「——開始」
俺は黒いソースに和えられた白い根菜を、口に運んだ。
次の瞬間、舌が死んだ。甘い、苦い、酸っぱい、しょっぱい——すべての味覚が一気に消え去り、代わりに押し寄せたのは、どろどろに溶けた闇のような“無味”だった。無味は苦痛だった。何も感じないことが、これほどの苦しみだとは知らなかった。歯の根が凍り、喉が閉まり、胃が拒絶する。
——味覚を三年奪われた村人たちは、これを毎日。
——それでも、生きるために食っていた。
俺は無理やり飲み込み、顔を上げた。
「……なるほど。これが絶望か」
「ええ。味覚を奪われた者の苦しみを、味わい尽くす一皿です」
「うまくはない」
「当然です。これは“味”そのものを否定する料理。うまいはずがありません」
一方、アルデは俺の焼きおにぎりを、薄絹の下で口に運んだ。
——彼女の手が、止まった。
「……あつい」
かすれた声が漏れる。
「あつい。そして——しょっぱい。焦げた醤油が、しょっぱくて、ほんのり甘い。外はかりかりとしていて、中はふわりと柔らかい。これが、米の味。これが、醤油の味。これが——」
アルデの箸を持つ手が震えている。
「私は、味覚喰いとして育てられました。人の味覚を奪い、その味をグーラ様に捧げる。私はそのために、自分の味覚を捨てた。味を感じることは禁忌だった。なのに、なんで——これは、こんなに」
「食え」
俺は言った。
「捨てたんじゃない。閉じ込めてただけだ。お前にも、味は残ってる」
アルデはもう一口、焼きおにぎりをかじる。そのたびに彼女の手が震え、薄絹の下からかすかな嗚咽が漏れた。
「……おいしい」
彼女はついに、はっきりと言った。
「おいしい。どうしようもなく、おいしい。私は——負けました」
薄絹がはらりと落ちる。現れたのは、まだ幼さの残る若い女の顔だった。頬には火傷の痕——エマと同じ、厨房でできた古い傷だ。彼女もまた、かつては料理人だったのだろう。
「お前、もとは料理人か」
「……はい。教団に味覚を奪われる前は。でももう、何も覚えていません。ただの“舌”でした」
「なら、思い出せ。焼きおにぎりは、初めての味じゃない。お前が子供の頃、誰かが焼いてくれた味だ」
アルデは目を見開き、それから——ぼろぼろと涙をこぼした。
「……母が、焼いてくれた。貧しくて、具も入れられなくて、醤油だけ塗って。それでも、あたたかくて、しょっぱくて——」
「それが、お前の味だ」
「私の、味」
彼女は焼きおにぎりを胸に抱き、声を上げて泣いた。広場の村人たちも、もらい泣きをしている。
エグゼビアがそっと歩み寄り、跪いた。
「アルデ。教団を——やめよう」
「……司祭長様」
「私もやめた。白いご飯を食って、思い出したんだ。我々が追いかけるべきは、グーラ様のためじゃない、自分のための味だと」
アルデは涙に濡れた顔で、何度もうなずいた。
「私も……私も、自分の味を、取り戻したい」
その時だった。教会の黒い尖塔が、激しく震え始めた。アルデが持ち歩いていた黒い果実が、ひとりでに破裂し、中から黒い煙が立ち上る。
「グーラ様が——お怒りです」
アルデが青ざめる。
「味覚喰いが離反したことで、封印が不安定に——」
煙は渦を巻き、広場の上空に黒い雲を作った。その中に、巨大な顔が浮かび上がる。歪んだ舌と、無数の目と、裂けた口——偽りの味覚神、グーラの幻影だ。
「カズマ……我が舌を、返せ……」
地の底から響くような声が、広場を揺るがす。
俺は焼きおにぎりをもう一つ、鉄網にのせながら言った。
「返せだと。こっちの台詞だ。奪った味覚を全部、村に返せ」
「ふざけるな。味覚は我のもの。すべての味は、我の口に集約されるべきもの」
「なら、食いに来い。ここで待ってる。焼きおにぎり、まだあるぞ」
黒い雲は怒りに震え、それから——かき消すように消えていった。だが、空気にはまだ、重い圧力が残っている。
「……封印が、完全に解けるのも時間の問題です」
アルデが言った。
「グーラ様——いえ、グーラは、無味砂漠の中心で、あなたを待っています」
「場所は」
「“味無き宮殿”。かつて食神トシと共に建てた、味覚の神殿です。今は砂に埋もれ、誰も近づけません」
トシが岩の上から飛び降りた。
「味無き宮殿——なつかしいな。兄貴と俺の、最初の家だ」
「案内できるか」
「ああ。道は覚えてる」
俺は村人たちに向き直った。
「みんな、よく食った。味はすぐに戻る。それまで——これを食い続けろ」
俺は持参した醤油の瓶を、老婆に手渡した。
「焼きおにぎりの作り方は、簡単だ。米を炊いて、握って、焼いて、醤油を塗る。味が戻るまで、毎日食え」
「……ありがとうございます」
老婆は醤油の瓶を、まるで宝もののように抱きしめた。
夕方、俺たちは村を出る支度を整えた。アルデが同行を申し出た。
「私も連れて行ってください。グーラの元へ。私は——自分の味を取り戻すために、ケリをつけたい」
「わかった」
リリアが俺の隣に並んで歩きながら言った。
「また増えたな」
「なにが」
「仲間が」
「……そうだな」
「でも、悪くない」
「ああ」
無味砂漠の彼方に、黒い雲がたれこめている。その中心に、偽りの味覚神が待つ。味を奪う神と、味を与える屋台シェフ——決着の時が、近づいていた。
(第20話 終)
▼ 次回予告(第21話用の引き)
無味砂漠の果て、砂に埋もれた“味無き宮殿”。そこは、食神トシとグーラの兄弟神がかつて共に暮らした、味覚の神殿だった。
「兄貴はなぜ堕ちたのか——それを話す時が来たようだ」
トシの声が、いつになく重い。
(次話:「味無き宮殿への道」)




