パラレル恐怖症~彼女の場合
私は男性恐怖症だ。そんな私が、恋をした。
彼はアパートのお隣さん。母親に連れられて、引っ越してきてすぐに菓子折りを持って挨拶に伺った。
「困ったことがあったら何でも言ってください」
これからのことを考えると心細さが絶頂だった私に、間違いなく社交辞令とはわかっていつつも勇気を与えてくれるには十分だった。
大学が休みの日でも私は一切外出せず部屋にいた。内向的な性格なためか友人もできない。パンフレットに載っていたサークル紹介のなかで興味があった文芸サークルにも怖くて見学へ行くことすらできなかった。
帰りたい。お父さんとお母さんと犬のロッテがいる実家に帰りたい。
朝からベッドで泣きたいのを我慢していると隣の部屋からかすかに歌が聞こえてきた。安いアパートのせいか壁が薄い。そのため生活音はある程度漏れてしまう。
いつしか遠慮がちなその歌がたった一つの楽しみとなった。
6月8日。私は大学へと向かうバスに乗っていた。
大学前まで運んでくれるこの路線は大学へと近づくにつれて大学生でいっぱいになる。そのなかには当然、男子学生もいる。まだ距離があるにもかかわらず、私はバスを降りなければならなかった。
こんなことでこれからやっていけるのだろうか? 期待はない。不安しかない。
降りたバス停から大学までの途中には神社があった。ビルの雑踏に紛れることなく堂々と……というか明らかに浮いた存在だ。神社といったら木に囲まれた閑静な中にあるイメージがあったが、この神社はビルに囲まれた喧騒のなかにあった。
そんなどこまでも違和感にまみれた神社ではあるが、私にとっては唯一の憩いの場でもある。ここへは人が来ないのだ。
賽銭箱の前に座って鳥居の向こうを、足早に歩く人たちを、行きかう自動車をぼんやり眺めていた。こちらとあちらでは時間の流れが違う。時間がねじれているのではいだろうか。
自分の世界にどっぷり浸っていると、いつの間にか隣には小学校低学年くらいの女の子が座ってこちらをジッと見ていた。
「お姉ちゃん。恋してるの?」
ドキッとした。
「なんで?」
「だってここ、縁結びの神社だもん」
最近の子はませているな。
「そうなんだ~。知らなかったな~」
「もう、100パーセント結ばれるんだよ」
「へぇ~」
「で、どんな人?」
屈託のない笑顔で聞いてきた。好きな人がいることはバレているらしい。
初対面の人間のテリトリーにドカドカ入ってくる、その小さな女の子へ不思議と嫌悪を覚えなかった。そういえば、まともに会話をしたのはいつ以来だろう。
「アパートのお隣さんだよ」
「ふ~ん」
「うん」
こういうのを顔から火が出る思いというのだろうか。まともに女の子の顔を見ることができなかった。
「じゃあ、これあげる」
そういうと、女の子は賞状を渡すように両手で二枚の紙を差し出した。
「これは?」
「野球の観戦チケット。自由席だけどね」
「ちょ、ちょっと! こんなのもらえないよ」
「いいからいいから。それで誘っちゃえ」
そう言ってチケットを押し付けると、女の子は鳥居に向かって走っていってしまった。
「あの、お嬢ちゃん、ありがとう」
「お嬢ちゃんって、若い女の人が使う言葉じゃないよ! それからあたし、イズモ」
途中、振り返って彼女が言った。
「ありがとう、イズモちゃん」
もう一度私は彼女に向かっていった。よかったのかな。もらっちゃって。
にしても、野球観戦へ誘う女子大生ってどうなんだろう。私も大学へ向かうことにした。
講義の最中もどうやって渡そうか悩んでいた。彼を誘う目的でもらったのに、一人で行くのは気が引ける。行かないのはもちろん却下。でも、いきなり彼の前に現れて「一緒に野球見に行ってください!」ではただの電波な女子大生だ。たぶん、彼は私のことを覚えていないだろうし。隣に住んでいるとはいえそんなに面識はない。
悩んだ挙句、郵便で送ることにした。封筒に入れて郵便受けに投函ではそのまま捨てられてしまうかもしれないし。切手がはってあればその可能性も減るんじゃないかな。
根拠はないけれど。
6月17日。試合の日。野球の試合よりも私にとっては大事な試合がある日。
その試合はプレイボールされることなく私の不戦敗に終わった。ドームへは行った。でも、彼を見つけることはできなかった。
オロオロしていると、不自然に円を囲むような人垣を見つけた。
「もしかして……」
急いで駆け寄ると彼が倒れていた。その光景に思わず顔を手で覆った。
私が野球に誘うから。チケットを送りつけたから。私のせいだ。私のせいで彼は……。
頭が真っ黒に染まっていくのがわかる。渦に巻き込まれていくのがわかる。
「お姉ちゃん!」
その声を聞いて私は我に返った。目を開けると、そこはあの神社だった。隣にはイズモちゃんが座っている。
「お帰り」
何がなんだかわからない。
「どういうこと?」
「だから言ったでしょ。成就率100パーセントだって」
イズモちゃんはケラケラと笑いながら言った。
「ここ、空いてますか?」
ドキドキしながら彼に聞いた。これで何度目だろう。どんなに経験しても慣れることはない。
「あ、はい。空いてます」
周囲で歓声があがり、私はビクッとした。は、恥ずかしい。何かで誤魔化さなければ。私は来る途中売店で買った冷たいお茶を急いでカバンから取り出し、キャップをあけて飲んだ。
彼がチラッとこちらを見た気がした。
「暑いですね」
うっかり話しかけてしまった。
「そうですね」
パニック。顔が赤くなっていないだろうか。耳が赤くなっていないだろうか。今、私の声裏返らなかった? と、とにかく、何か話さなければ。私から話かけたのだから。このままでは間がもたない。
「いつもこの席でお会いしますね」
何を言っているのだ私は! 彼とは何度も会っているけれど、目の前の彼が実際に私と会うのは6月17日、今日までないじゃないか。
周囲でまたワッと歓声が上がった。来る。野球ボールが彼をめがけて来る。何とかしないとまた彼が死んじゃう。私は必死に口をパクパクさせたが声が出ない。
そして。
私は神社の賽銭箱の前に座っていた。携帯のディスプレイには6月10日と表示されている。
「お姉ちゃん、お帰り」
隣にはイズモちゃんが座っていた。
「今回もダメだったんだ」
「うん」
私は彼女を見ないで答えたが、イズモちゃんからは「やれやれ」というオーラがにじみ出ているのがわかった。
「お姉ちゃん、これでいいの? その人、何度も死んでるんだよ?」
「だって……」
「もうさ、いい加減にしなよ。仕方がないな~。これあげるから」
そういって、彼女は布でできた小さな袋を私に差し出した。
「これは?」
「見ればわかるでしょ。お守り。しかもあたしのお手製」
真ん中には『お守り』と縫われているが、一目でこれをお守りとわかる人は、果たしてどれだけいるのだろうか。
「ありがとう」
こんな小さい子供にここまでしてもらって、私は……。
「感謝は良いから、次は必ず成功させてよね!」
そういうと、イズモちゃんは賽銭箱の前の階段からひょいと飛び、鳥居に向かって走っていった。
「お姉ちゃんはあたしの友達なんだから、応援するのは当たり前でしょ。でも、成功してもあたしのこと忘れないでね!」
途中、振り返って寂しそうな笑顔で言うと、また鳥居に向かって走っていった。彼女と会うのはこれが最後になる。そんな気がした。
「さてと」
決着をつけよう。イズモちゃんが背中を押す力は強烈だった。私はカバンにお守りを大事にしまい、大学へ向かった。
6月18日。いつも降りるバス停で私は降りなかった。
バスから窓の外を見る私にはもう、あの神社は見えない。この地でできた、最初の友人を私は忘れない。
こういうのは自分にとってはじめての試みだったので、辻褄があっているかどうかなど不安が残ります。ショートショートになるため、できるだけ削りました。削らなければ倍以上の文字数になりました。
読んでいただきありがとうございました。