第3.95話:因果の受肉、あるいは最初の災厄
ルカの肉体が光の粉へと解け始めたその瞬間、放出された一万二千五百件の因果は、行き場を求めて一つの「形」へと結実を始めた。
それはルカが積み上げてきた『特記事項なし』という名の欺瞞が、物理的な実体を持って世界に復讐を開始した瞬間だった。
瓦礫の山から噴出したのは、悍ましいほどに巨大な、そして神々しいまでに白い、【未提出の守護者】。
それは、ルカの「前世の事務服」を思わせる無機質な灰色の布を纏い、顔の半分が「法導台帳」の紙片で埋め尽くされた、異形の巨神だった。その背中には、数千本の「抜かれなかった剣」が翼のように生え揃い、手には万物を無に還す巨大な「調律印」を携えている。
■ 災厄の顕現:【静止する断頭台】
巨神がその調律印を地面に叩きつけると、衝撃波と共に「不可視の波」が王都アイリスを駆け抜けた。
波に触れた者は、その瞬間に時間が凍結される。しかし、それは単なる停止ではない。
保留されていた「痛み」だけが抽出され、肉体に投影される拷問。
逃げ惑う民衆の足が、突如として石化するように止まる。
彼らの脳裏には、ルカが保留したはずの「本来死ぬはずだった瞬間」の感覚がフラッシュバックする。ある者は喉を切り裂かれた幻痛にのたうち、ある者は家族を失った喪失感に精神を焼かれ、その場に釘付けにされた。
「……あ、ああ……。空が、文字に、埋まっていく……」
誰かが空を指差し、絶望の声を上げた。
王都の上空。黒い虹が弾け、そこから無限の「羊皮紙の破片」が雪のように降り注ぐ。その一枚一枚に、ルカが書き記してきた『異常なし』『保留』『特記事項なし』という文字が、呪詛のように刻まれている。
紙片が肌に触れた瞬間、人々の皮膚には事務的な「受領印」の痣が浮かび上がり、その人間が持つ「未来の可能性」を強制的に吸い上げていった。
■ 三人の主役たちの前に立ち塞がる「壁」
覚醒したアルト、セレスティーナ、ファルマの前に、その巨神は冷徹な眼差しを向けた。
巨神の声は、一万人の声が重なったような、感情の欠落したルカの声だった。
『――審議未了。この物語は、受理できない』
巨神が振るった「抜かれなかった剣」の翼が、アルトの放つ英雄の炎を一太刀で切り裂いた。
アルトは血を吐き、石畳に叩きつけられる。彼の肉体に宿った力は、今や「保留された過去」という重力に引きずられ、発揮することさえ困難になっていた。
「くそっ、ルカさん……! これが、あんたが隠してた『平和』の正体かよ!」
『肯定。これは、君たちが望んだ「何も起きない世界」の究極形である』
巨神の足元から溢れ出す黒い泥――セレスティーナの腐敗した祈りが、彼女自身の足を絡め取り、引きずり込もうとする。
セレスティーナが放つ浄化の光は、巨神が纏う「事務的な無関心」という障壁に触れた瞬間、霧散して消えた。彼女がどれほど叫び、命を賭そうとも、巨神(ルカの残滓)はそれを「予算外の行動」として無効化し続ける。
「嫌、嫌ですわ! わたくしの死すら、貴方は事務的に処理してしまわれるの!?」
■ 因果の臨界:【物語の強制終了】
巨神の周囲では、物理的な空間そのものが「フォルダ」のように層を成して折り畳まれ始めていた。
王都全体を「保留案件」として次元の隙間にパッキングし、永久に静止した記録の中に閉じ込めようとする、世界の自己防衛反応。
ルカの意識は、その巨神の核の中で、混濁していた。
彼は三人の姿を見ている。
苦しみ、喘ぎ、それでも自分たちの人生を取り戻そうと足掻く、醜くも美しい人間たちの姿を。
(……ああ。そうだ。僕は、これを「処理」したかったんじゃない)
巨神の手に握られた調律印が、最後の一撃を王都に下そうと、高々と掲げられた。
それが振り下ろされれば、アイリスの時間は永久に保留され、誰も死なない代わりに、誰も生きることのできない「完結しない記録」となる。
その時、ルカの消えゆく魂が、巨神の腕を内側から引き止めた。
(まだだ。一万二千五百一番目の案件が、まだ残っている)
それは、ルカ自身の「生」への執着。
そして、彼らに「本当の物語」を始めさせるための、最後の事務手続き。




