第3.9話:事後処理の終わり、あるいは提出されなかった退職願
意識が、白濁した情報の海へと溶けていく。
アルトたちの絶叫も、王都を揺らす因果の地鳴りも、今のルカには遠い遠い、水底から眺める泡の音のように聞こえていた。
ルカの脳裏に、この世界――『因果の律』が物理的に支配する異世界に堕ちる前の、極めて退屈で、かつ平穏だった時代の記憶が甦る。
そこは、魔法も聖剣もない、ただ無機質な蛍光灯の光が降り注ぐオフィスだった。
前世の彼は、名前すら思い出せないほどに「記号」のような存在だった。仕事は、毎日届けられる大量の書類を、適切なフォルダに仕分け、ハンコを押し、キャビネットに収めること。それだけだ。
ある時、彼は上司から「重要だが、結論を出せない保留案件」の束を預けられた。処理すれば誰かが傷つき、放置すれば会社が揺らぐ。そんな、誰もが責任を取りたくない「毒」のような書類。
彼はそれを、デスクの一番下の引き出しに押し込み、鍵をかけた。
「……保留。それが、僕の唯一の才能だった」
引き出しに閉じ込められた事柄は、現実から消えるわけではない。ただ「なかったこと」にして、未来の自分に負債を押し付けるだけだ。その積み重なった負債の重み――あるいは、何一つ決断を下さなかった空虚感によって、彼の心臓は静かに止まった。
気がつけば、この異世界にいた。
神と名乗る概念は、ルカにこう告げた。
『君のその、劇的な何かを拒み、凍結し、保留し続ける性質。それこそが、因果が氾濫しすぎたこの世界に必要な「バッファ」だ。ルカ、君はこの世界の「淀み」をすべて預かる、孤独な書庫になりなさい』
ルカはその役割を、まるで慣れ親しんだ事務作業のように受け入れた。
アルトが英雄として覚醒し、親しい人々が死ぬはずだったあの日。ルカはその因果を掴み取り、前世の引き出しと同じように「保留」した。
セレスティーナが穢れを一身に受けて散るはずだったあの日。ルカは彼女の絶望をアーカイブし、引き出しを閉めた。
ルカは確信していた。
誰も死なない世界。物語が進まない世界。
それこそが、前世で彼が成し得なかった「完璧な事務処理」の果てにある、究極の平穏(ホワイト企業)なのだと。
だが。
意識の深淵で、ルカの「前世の自分」が冷ややかに笑う。
『なぁ、ルカ。お前は本当に、彼らを救いたかったのか?』
「……。救いたかった。……死なせたく、なかったんだ」
『嘘だ。お前はただ、「劇的な変化」という、事務処理しきれない感情の奔流が怖かっただけだ。お前が引き出しに鍵をかけ続けたのは、彼らのためじゃない。お前自身の「静寂」を守るためだ』
ルカの胸に突き刺さった羽根ペンから、黒いインクが溢れ出し、彼の記憶を侵食していく。
一万二千五百件。
それはルカが救った命の数ではない。
ルカが「直視するのを拒んだ感情」の数だ。
アルトに触れた時の、あの熱さ。
セレスティーナの手を握った時の、あの冷たさ。
ファルマに首を絞められた時の、あの痛み。
それらをルカが「保留」し続けたのは、彼自身の防衛本能だった。あまりに眩しく、あまりに重い彼らの人生というリアリティを、凡庸な事務員でしかないルカの魂が受け止めきれず、ひたすら「記録庫」へと放り投げていたに過ぎない。
「……ああ、そうだ。僕は、ただの……臆病者だった」
ルカは思い出す。
前世で、息を引き取る直前、彼は一通の書類だけを完成させていた。
それは『退職願』。
誰にも提出せず、デスクの中に保留し続けた、彼自身の唯一の「意志」。
今、この異世界で、一万二千五百件目の因果を解放しながら、ルカの魂はその「退職願」をようやく受理した。
孤独な管理官としての役割を。
因果を堰き止めるダムとしての存在を。
「……これで、ようやく。僕は、観測者(事務員)をやめられる」
ルカの目から、初めて「感情」を伴った涙がこぼれ落ちた。
それは保留され続け、発酵し、毒液となった一万件分の涙だった。
意識が、現実の瓦礫の山へと引き戻される。
目の前には、ルカが保留しきれなくなった宿命を全身に浴びて、異形へと覚醒しつつある三人の姿があった。
「「「ルカ、ルカ、ルカ……!!」」」
彼らが伸ばした手。
それはルカを救おうとしているのか、それとも、自分たちの人生を奪い続けた彼を、共に地獄へ引きずり込もうとしているのか。
ルカは、崩れ落ちたデスクから、最後の一枚となった羊皮紙を手に取った。
それはもう、因果を記録するためのものではない。
ルカは、自身の血で、その紙に大きく書き記した。
【特記事項:ここから先は、彼らの物語である】
ルカの肉体が、光の粉となって霧散し始める。
ダムは壊れた。
保留されていた時間は、今、猛烈な勢いで「現在」を塗り替え、世界を本来あるべき「過酷な叙事詩」へと戻していく。




