表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『有効化、保留中』  作者: 月見酒
有効化、保留中:静かなる事務員の「一万二千五百件」の拒絶
7/39

第3.9話:事後処理の終わり、あるいは提出されなかった退職願


 意識が、白濁した情報の海へと溶けていく。

 アルトたちの絶叫も、王都を揺らす因果の地鳴りも、今のルカには遠い遠い、水底から眺める泡の音のように聞こえていた。

 ルカの脳裏に、この世界――『因果の律』が物理的に支配する異世界に堕ちる前の、極めて退屈で、かつ平穏だった時代の記憶が甦る。

 そこは、魔法も聖剣もない、ただ無機質な蛍光灯の光が降り注ぐオフィスだった。

 前世の彼は、名前すら思い出せないほどに「記号」のような存在だった。仕事は、毎日届けられる大量の書類を、適切なフォルダに仕分け、ハンコを押し、キャビネットに収めること。それだけだ。

 ある時、彼は上司から「重要だが、結論を出せない保留案件」の束を預けられた。処理すれば誰かが傷つき、放置すれば会社が揺らぐ。そんな、誰もが責任を取りたくない「毒」のような書類。

 彼はそれを、デスクの一番下の引き出しに押し込み、鍵をかけた。

「……保留。それが、僕の唯一の才能だった」

 引き出しに閉じ込められた事柄は、現実から消えるわけではない。ただ「なかったこと」にして、未来の自分に負債を押し付けるだけだ。その積み重なった負債の重み――あるいは、何一つ決断を下さなかった空虚感によって、彼の心臓は静かに止まった。

 気がつけば、この異世界にいた。

 神と名乗る概念は、ルカにこう告げた。

『君のその、劇的な何かを拒み、凍結し、保留し続ける性質。それこそが、因果が氾濫しすぎたこの世界に必要な「バッファ」だ。ルカ、君はこの世界の「淀み」をすべて預かる、孤独な書庫になりなさい』

 ルカはその役割を、まるで慣れ親しんだ事務作業のように受け入れた。

 アルトが英雄として覚醒し、親しい人々が死ぬはずだったあの日。ルカはその因果を掴み取り、前世の引き出しと同じように「保留」した。

 セレスティーナが穢れを一身に受けて散るはずだったあの日。ルカは彼女の絶望をアーカイブし、引き出しを閉めた。

 

 ルカは確信していた。

 誰も死なない世界。物語が進まない世界。

 それこそが、前世で彼が成し得なかった「完璧な事務処理」の果てにある、究極の平穏(ホワイト企業)なのだと。

 だが。

 意識の深淵で、ルカの「前世の自分」が冷ややかに笑う。

『なぁ、ルカ。お前は本当に、彼らを救いたかったのか?』

「……。救いたかった。……死なせたく、なかったんだ」

『嘘だ。お前はただ、「劇的な変化」という、事務処理しきれない感情の奔流が怖かっただけだ。お前が引き出しに鍵をかけ続けたのは、彼らのためじゃない。お前自身の「静寂」を守るためだ』

 ルカの胸に突き刺さった羽根ペンから、黒いインクが溢れ出し、彼の記憶を侵食していく。

 一万二千五百件。

 それはルカが救った命の数ではない。

 ルカが「直視するのを拒んだ感情」の数だ。

 アルトに触れた時の、あの熱さ。

 セレスティーナの手を握った時の、あの冷たさ。

 ファルマに首を絞められた時の、あの痛み。

 

 それらをルカが「保留」し続けたのは、彼自身の防衛本能だった。あまりに眩しく、あまりに重い彼らの人生というリアリティを、凡庸な事務員でしかないルカの魂が受け止めきれず、ひたすら「記録庫」へと放り投げていたに過ぎない。

「……ああ、そうだ。僕は、ただの……臆病者だった」

 ルカは思い出す。

 前世で、息を引き取る直前、彼は一通の書類だけを完成させていた。

 それは『退職願』。

 誰にも提出せず、デスクの中に保留し続けた、彼自身の唯一の「意志」。

 

 今、この異世界で、一万二千五百件目の因果を解放しながら、ルカの魂はその「退職願」をようやく受理した。

 孤独な管理官としての役割を。

 因果を堰き止めるダムとしての存在を。

 

「……これで、ようやく。僕は、観測者(事務員)をやめられる」

 ルカの目から、初めて「感情」を伴った涙がこぼれ落ちた。

 それは保留され続け、発酵し、毒液となった一万件分の涙だった。

 

 意識が、現実の瓦礫の山へと引き戻される。

 目の前には、ルカが保留しきれなくなった宿命を全身に浴びて、異形へと覚醒しつつある三人の姿があった。

「「「ルカ、ルカ、ルカ……!!」」」

 彼らが伸ばした手。

 それはルカを救おうとしているのか、それとも、自分たちの人生を奪い続けた彼を、共に地獄へ引きずり込もうとしているのか。

 ルカは、崩れ落ちたデスクから、最後の一枚となった羊皮紙を手に取った。

 それはもう、因果を記録するためのものではない。

 

 ルカは、自身の血で、その紙に大きく書き記した。

【特記事項:ここから先は、彼らの物語である】

 ルカの肉体が、光の粉となって霧散し始める。

 ダムは壊れた。

 保留されていた時間は、今、猛烈な勢いで「現在」を塗り替え、世界を本来あるべき「過酷な叙事詩」へと戻していく。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ