第3.8話:覚醒の代償、あるいは剥き出しの真実
ルカが自身の胸に羽根ペンを突き立てた瞬間、世界から一切の音が消失した。
真空のような静寂の中、ルカの体を中心に「因果の檻」が内側から爆縮し、封じられていた一万二千五百件の時間が、三人の主役たちへと一気に逆流を始めた。
それは「救済」などという生温かいものではない。
ルカというダムによって堰き止められていた「本来の人生」が、数年分、数十年分という質量を伴って、彼らの肉体と精神を直接打擲したのだ。
1. アルト:【殺戮の渇きと、英雄の重圧】
「……が、……あああああああああああッ!!」
最初に絶叫したのはアルトだった。
彼の肉体を、一万を超える戦場の記憶が貫いた。ルカがアーカイブし続けた「勇者の武勲」――それは、彼が切り伏せるはずだった数多の魔物と、その返り血の温もりだ。
アルトの右腕が、目に見えるほど膨張し、血管が青白く発光する。今までルカに触れられて「涼しい」と感じていたあの冷たさは、出口を塞ぐための氷蓋に過ぎなかった。その蓋が外れた今、彼の内側で眠っていた闘争本能が、真っ赤なマグマとなって溢れ出す。
「熱い……! ルカさん、体が、砕ける……! 俺が、俺じゃない誰かが、俺の中で叫んでるんだ! 『殺せ』って、『守るために、すべてを焼き尽くせ』って!!」
アルトの背後から、黄金色の魔力が炎となって噴き上がり、執務室の天井を溶かしていく。彼の瞳はもはや人間のそれではなく、宿命という名の呪いに塗り潰された「英雄」のそれへと変質していた。
ルカが彼から奪い、守りたかった「凡庸な少年の日々」が、英雄の重圧によって一瞬で灰へと帰していく。
2. セレスティーナ:【腐敗した祈りと、死の抱擁】
「あ……ああ……。そんな、嫌……嫌ですわ……!」
セレスティーナは、自分の喉を掻きむしりながら崩れ落ちた。
彼女には、ルカが保留し続けた「一万通りの死に様」が流れ込んでいた。聖女として清らかに散るはずだったその因果は、長期間のアーカイブによってドロドロに腐敗し、今や彼女の肺を、心臓を、子宮を、黒い怨念の泥で満たしていく。
彼女の白い肌に、呪印のような黒い脈が浮かび上がる。今までルカが「健康診断」と称して吸い取っていたのは、彼女の命を蝕むはずだった死の味だ。
「わたくし……わたくし、こんなに……こんなに汚いものを、望んでいましたの!? 『誰かのために死にたい』なんて、そんなの……ただの、独りよがりの……狂気ではありませんか!!」
セレスティーナの目から、血のような涙が溢れる。
彼女が信じていた「清廉な献身」は、保留されたことでその醜い本性を露呈させた。彼女の指先からは、触れるものすべてを腐食させる黒い光が漏れ出し、執務室の床を泥濘へと変えていく。彼女は、自分が望んだ「聖なる死」が、いかに残酷なエゴであったかを、全身の激痛とともに理解させられていた。
3. ファルマ:【王座の孤独と、焦熱の憎悪】
「……ふ、ふふ、……あはははははははッ!!」
三人のうち、ファルマだけが狂ったように笑い声を上げた。
彼女に流れ込んだのは、ルカが保留した「支配者の孤独」と「反逆の業火」だ。彼女は、自分が父を殺し、民を焼き、孤独な女王として君臨する一万通りの『あり得た未来』を、一瞬で追体験した。
ルカが彼女の首筋に触れ、奪い去っていたのは、彼女を「悪」へと突き動かすはずだった決定的な絶望だ。
「これよ……。この重み、この吐き気、この絶望こそが、わたくしの求めていた『リアリティ』よ! ルカ、貴方、よくもこれほどまでの地獄を一人で抱えていたわね! ……ああ、愛おしいわ。貴方のその、死人のような冷たさの正体が、こんなにも激しい憎悪だったなんて!」
ファルマの周囲の空気が、焦熱の風となって吹き荒れる。
彼女の瞳には、すでに王都アイリスを焼き尽くす炎が宿っていた。ルカが彼女に与えた「退屈な王女としての平和」は、今や最大の反動を伴って、世界を滅ぼすための燃料へと変わった。
執務室の崩壊
三人の熱量に耐えきれず、法導省の建物が内側から弾け飛んだ。
瓦礫が降り注ぐ中、ルカは一人、膝をついていた。
彼の胸に突き刺さった羽根ペンからは、インクではなく、一万二千五百件分の「人生の残滓」が、黒い影となって溢れ続けている。
ルカの視界は、もはや正常な色彩を失っていた。
目の前に立つアルト、セレスティーナ、ファルマ。
彼らは今、ルカが守ろうとした「平和な友人」ではない。
世界を救い、世界を呪い、世界を焼く――剥き出しの「宿命」そのものへと変貌していた。
「……受理、完了……」
ルカは震える指先で、瓦礫の中に落ちた法導台帳に触れた。
台帳は、主の命を削りながら、最後のリミッターを解除した。
【因果の完全開放:達成率一〇〇パーセント】
【対象三名への接続:完了】
【特記事項:……物語は、もう止まらない】
ルカの周囲に、三つの影が歩み寄る。
英雄の熱を帯びた手。
聖女の黒い涙に濡れた手。
王女の焦熱の執着を宿した手。
それらが同時に、ルカの体に触れようとしていた。
「「「――ルカ」」」
三つの声が重なった瞬間、王都アイリスの中央に架かった「黒い虹」が、地上のすべての光を飲み込んだ。




