第3.7話:三位一体の瓦解、あるいは緊急事態報告
法導省因果調律局の執務室に、三つの激しい足音が重なり、重厚な扉が悲鳴を上げて開け放たれた。
ルカは、すでにその予兆を「台帳の震え」として感じていた。彼のデスクには、限界を超えたアーカイブがもたらす磁場異常により、クリップや羽根ペンが数センチほど浮遊し、不自然な静止を保っている。
「ルカ! 説明しろ、騎士団の連中が、何かに取り憑かれたように……!」
「ルカ様! 神殿の回廊が、見たこともない黒い泥に埋め尽くされて……!」
「ルカ! 王宮の書庫が、開かないのよ! 扉の向こうから、誰かの泣き声が聞こえるの!」
アルト、セレスティーナ、そしてファルマ。
本来なら決して同時に現れるはずのない、この世界の「主役」たちが、一人の下級事務官の前に揃い踏みしていた。彼らの顔はどれも青白く、その背後には、ルカにしか見えない「保留された宿命」が、巨大な影となって絡み合っている。
ルカはゆっくりと椅子を回し、彼らを見た。
彼の右目は、過剰な因果の蓄積により、白目が真っ黒に染まり、瞳孔だけが冷たく光っている。
「……順を追って報告を。一人ずつ、手短に」
その声の低さに、三人は一瞬気圧された。ルカは、まず肩を激しく上下させているアルトに視線を向ける。
「騎士団で、何が起きた」
「……演習中だったんだ。木剣で打ち合った瞬間、相手の騎士が、急に……! 戦場でもないのに、腹を抱えて叫び出したんだ。『内臓が、こぼれ出ている』って! 見れば、彼の体は何の傷もないのに、そこから目に見えない『何か』が噴き出して……。その場にいた全員が、自分たちが一度も経験したことのないはずの『致命傷の痛み』を共有して、動けなくなっている!」
騎士団における異常。
それは、ルカがアーカイブした『大戦の負傷者たち』の因果が、物理的な距離を超えて現実に滲み出した結果だった。
「次は、神殿だ。セレスティーナ様」
「……はい。……聖堂の床から、黒い泥が湧き出しているのです。それは触れると、誰かの『後悔』が頭の中に直接流れ込んでくる、恐ろしい液体。僧侶たちは皆、その泥に飲み込まれ、自分の罪を告白しながら溶けるように倒れています。……ルカ様、あの泥、わたくしの……わたくしの祈りの成れの果てではありませんの?」
セレスティーナの指先が、恐怖で震えている。
聖女の殉教を保留し続けたことで、浄化されるはずだった世界の穢れが「濃縮された後悔」へと変質し、物理的な汚染として神殿を侵食している。
「そして、殿下。王宮の書庫ですね」
ファルマが、憎々しげにルカを睨みつける。
「ええ、そうよ。扉が勝手に閉まり、中からは何千人もの人間が、一度に喉を掻き切るような音が聞こえてくるわ。そして、わたくしがその扉に触れた瞬間……見えたのよ。わたくしが、わたくしの手で、この国を焼き尽くしている『未来の景色』が。あれは何? ルカ、貴方が隠しているのは、あんな地獄なの?」
ルカは沈黙した。
三つの報告が重なり、一つの答えを導き出す。
騎士団(武力)、神殿(信仰)、王宮(権力)。
この世界の屋台骨を支える三箇所で同時に起きた異変。それは、ルカという個人が堰き止めていた「因果のダム」が、もう全方位に渡って決壊を始めたことを意味していた。
「……そうです。私が保留し、アーカイブした、あり得たはずの真実たちです」
ルカはデスクから立ち上がり、一歩、彼らの方へ踏み出した。
その瞬間、ルカの足首を、影から伸びた無数の「黒い手」が掴んだ。それは記録庫から溢れ出した、未提出の感情たちの亡霊だ。
「ルカ様! 足元が……!」
「動かないでください。触れれば、貴方たちも因果の渦に巻き込まれます」
ルカは事務的な冷静さを装いながら、手元の法導台帳に最後の一撃を加えるようにペンを走らせる。
ガリ、とペン先が折れ、羊皮紙を突き破った。
「アルト君。セレスティーナ様。殿下。……貴方たちは、私が守りたかった『平和』という名の嘘に、もう耐えられなくなっている」
「……何、言ってるんだよ、ルカさん。守りたかったって……」
「私は、君たちが死ぬのを見たくなかった。君たちが悲劇の主役になるのを、ただの事務処理で防げるのなら、それでいいと思っていた。……だが、それは傲慢でした。人生から痛みを取り除けば、そこには何も残らない」
ルカの周囲で、ついに現実の風景が剥がれ始めた。
壁は紙のように燃え上がり、その向こう側には、一万二千五百件もの「保留された悲劇」が渦巻く、果てしない暗黒の空間が広がっている。
「今から、最後の案件を受理します」
ルカは三人の中心に立ち、その両手を広げた。
彼の手は、今や半分が紙のような無機質な白に、もう半分が因果の毒による黒に染まっている。
「案件番号一二、五〇〇。事案名――『世界の正常化』」
ルカが、自身の胸の中心に、折れた羽根ペンを突き立てる。
ドクン。
世界が、一度大きく脈打った。
王宮の鐘が、あり得ない音色で鳴り響く。
広場の聖剣が、ついにその鞘から数センチほど、自らの意志でせり上がった。
ルカの視界に、最後のリミッターが外れるログが流れる。
【警告:アーカイブの総開放を開始】
【保留された因果の一括有効化を実行】
【執行者:ルカ】
【特記事項:……さようなら、退屈な楽園】




