第3.5話:記録漏れ、あるいは街に溢れる既視感
それは、法導台帳には決して記されることのない、微細な「バグ」のような現象から始まった。
王宮深層記録庫の圧力が臨界点に達したことで、保留されていたはずの因果が、不可視の飛沫となって王都アイリスの街に降り注ぎ始めたのだ。本来なら起きるはずだった劇的なドラマの破片が、行き場を失って現実の隙間にこびりついていく。
最初に異変に気づいたのは、市場の片隅で果物を売る、どこにでもいる老婆だった。
彼女は、目の前を通る見知らぬ客に対し、激しい動悸とともに叫び声を上げた。
「ああ、お前さん! 生きていたのかい! あの時、燃え盛る家の中で死んだはずじゃ……!」
客は困惑し、眉をひそめる。当然だ。この平和な王都で、火事など一度も起きてはいない。老婆は震える手で客の腕を掴んだが、その瞬間に彼女の脳裏を支配していた「燃える家の記憶」は霧散し、ただの「少し立ち眩みがした老婆」だけがその場に残された。
老婆の記憶の端で、ルカがアーカイブしたはずの『隣国の侵攻による村の焼失』という因果が、一瞬だけ現実を侵食し、そして消えたのだ。
こうした「起きなかったはずの記憶」は、伝染病のように街中に広がっていった。
「なあ、俺たち、昔どこかで戦わなかったか? お前の剣が、俺の胸を貫く光景が、どうしても離れないんだ」
「馬鹿を言え、俺たちはただの幼馴染だろう。……でも、不思議だ。お前のその首筋の傷、俺がつけたような気がしてならないんだ」
酒場の隅で、親友同士が互いの体に触れ合い、存在しないはずの傷跡を確認し合う。その指先が触れるたび、彼らの内側には、保留された『悲劇的な決別』の因果が、鈍い痛みとなって沈殿していく。
彼らは平和を享受しているはずなのに、なぜか互いの顔を見るたびに、涙が止まらなくなる。その涙の理由は、ルカの台帳の裏側に封印されているため、誰にも説明がつかない。
異変は無機物にも及んでいた。
広場の中央、ルカが昨日「メンテナンス」と称して凍結した聖剣オルフェウスの周囲では、物理法則が微かに歪み始めていた。
聖剣の台座の近くに置かれた花瓶は、中身の水が凍りついているにもかかわらず、そこから真っ赤な薔薇が異常な速度で開花し、一瞬で枯れ落ちる。一秒の間に、数年分の「時」が圧縮されては弾ける。聖剣を抜いた後に訪れるはずだった『激動の時代』というエネルギーが、出口を求めて台座の周囲に局所的な時間の濁流を生み出しているのだ。
「……ひどいな、これは」
巡回中のルカは、広場の惨状を見て、思わずこめかみを押さえた。
彼にしか見えない「因果の飛沫」が、雪のように街を白く塗り潰している。道ゆく人々が、ふとした瞬間に立ち止まり、ありもしない方向を見て怯え、あるいは存在しない恋人の名を呼んで慟哭している。
ルカは、噴水の縁に座り込み、虚空を抱きしめている若い女に歩み寄った。
彼女は、ルカが保留した『流産で失われるはずだった赤子』を、現実には存在しないにもかかわらず、その腕に感じているようだった。
「……いない。いないの。温かかったのに、急に冷たくなって……。でも、私の体には、産んだ記憶があるのよ。どうして? 私の子供はどこへ行ったの?」
女は、自分の腹部を掻きむしり、ルカに縋り付いた。
ルカは無言で彼女の背中に手を回し、その震える体を支えた。
彼女の肌からは、本来経験するはずだった「喪失の痛み」が、未処理のデータとなってルカの手のひらへと流れ込んでくる。それは熱く、重く、そして耐えがたいほどに「生」の匂いがした。
「大丈夫です。……何も、起きていません。貴方は何も失っていない」
ルカの声は、自分でも驚くほど冷酷に響いた。
彼は彼女の背中を撫でながら、内緒で「事象安定」の魔導を流し込む。彼女の脳裏で暴れていた因果の残滓を、無理やり記録庫の奥底へと押し戻す作業だ。
女の瞳から光が消え、彼女は憑き物が落ちたようにルカの手を離した。
「……あら? 私、何をしていたのかしら。お騒がせしました、事務官様」
彼女は小綺麗に身なりを整え、何事もなかったかのように去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、ルカは自分の指先を見つめた。
彼の指は、もう感覚がない。昨日から続く過剰なアーカイブの代償で、皮膚の一部が、古い紙のように白く硬化し始めている。
街の人々は、ルカが因果を無効化するたびに、「救われている」はずだった。
悲劇を避け、死を遠ざけ、穏やかな今日を約束されている。
だが、その平穏の代償として、彼らは「自分の人生を実感する」ための決定的なリアリティを、少しずつルカに奪われていた。
「ルカさん!」
背後から、アルトの声がした。
振り返ると、そこには昨日の疲弊した様子とは打って変わって、目に狂気的な輝きを宿したアルトが立っていた。彼は、自分の右手をじっと見つめている。
「見てくれ、ルカさん。……変なんだ。俺のこの手、何もしていないのに、血の匂いがこびりついて取れないんだ。洗っても、洗っても、誰かを殺したときの感触が、掌に残ってる。……俺、本当は、誰かを殺さなきゃいけなかったんじゃないのか?」
アルトが、ルカの目の前で自分の右手を強く握りしめる。
ミチミチ、と骨が軋む音がした。
彼の内側に沈殿している『戦乱の英雄』としての記憶が、肉体の感覚を書き換えようとしている。
「……それは、ただの幻覚だ。アルト君、君は昨日、誰も殺していない」
「分かってる。頭では分かってるんだ。でも、体が……魂が、『未完成だ』って叫んでるんだよ!」
アルトが、ルカの胸ぐらを掴んだ。
その拳からは、昨日吸い取ったはずの熱量が、再び異常な速度で再生成され、溢れ出している。保留された因果は、一度アーカイブしても、源泉である宿命が断たれない限り、何度でも湧き上がってくるのだ。
ルカはアルトの拳の上に、自分の白い手を重ねた。
冷たさと熱さがぶつかり合い、その境界線で、目に見えない火花が散る。
「……私が、何度でも止めてあげる。君が、君でいられるように」
ルカは再び、アルトの因果を飲み込んだ。
街のいたるところで、こうした「未遂の記憶」が、人々の日常を少しずつ壊していく。
笑い声が絶えない広場の裏で、誰にも聞こえない悲鳴が重なり、積み上がり、圧縮されていく。
ルカは空を見上げた。
真っ黒な虹は、今や王都全体を包み込むほどの巨大な輪となり、世界の彩度を奪い去ろうとしている。
【観測ログ:外伝(街頭観測)】
【現象:因果の滲出による集団的既視感の発生】
【対象:王都全域】
【処置:個別無効化による鎮静。ただし、一時的な処置に過ぎない】
【特記事項:世界が、自分たちが『生きていない』ことに気づき始めている】
ルカは法導台帳のページを捲った。
次のページは、もう残り少ない。
【保留件数:一二、四九九】
【限界まで:あと一歩】
ルカの足元で、石畳がピシリと割れた。
そこから、一輪の、この世のものとは思えないほど禍々しく美しい「保留された花」が、芽吹こうとしていた。




