第20話:断章Ⅱ:窓際管理官(永久残留)
■ 序:凍結された時間、あるいは管理者の孤独
幸福な夢の断片は、音もなく霧散していった。
ルカが目を開けた時、そこにあったのは、温かい紅茶でも、日差しが差し込む木造の部屋でもない。色彩を欠いた白銀の空間と、網膜を焼き切らんばかりに明滅する、膨大な因果の数式だった。
「……。
……。
……。
……。
……夢、ですか。……。
……。
……福利厚生としては、……少々、……出来が良すぎましたね。……」
ルカは、神の座を兼ねた「管理局長デスク」に、血の気の失せた指先を置いた。
支配役を葬り、神域の全権を掌握してから、地上時間でどれほどが経過したのか、今の彼には判別できない。
彼が行っているのは、この脆く崩れかけた世界を『保留』という名の停滞で維持し続ける、終わりなき「窓際」の執務。
神域の権能は、ルカの精神を磨耗させ、その「個」としての輪郭を奪い続けている。
かつての思い出も、三人の声も、今ではただの「高解像度な記録」としてしか認識できない。ルカは、自分が誰であったかを忘れる代わりに、世界を存続させる「生きた部品」へと成り果てていた。
■ 地上:【三人の密約、あるいは不穏な予算案】
一方、地上――。
ルカが命を懸けて救い出した大陸は、表面上の平穏を取り戻していた。
魔導砲台は撤去され、狂信の茨は枯れ、勇者の聖剣は折れた。だが、その平和の立役者であるはずの三人は、ルカが望んだような「穏やかな余生」など、一秒たりとも送っていなかった。
帝国の旧・最高軍事機密室。
そこには、かつて敵対し、あるいは互いを呪い合った三人が、一つの円卓を囲んでいた。
「……で、進捗はどうなっている。アルト、セレスティーナ」
ファルマが、かつての鋭さを完全に取り戻した瞳で二人を射抜く。
彼女の前には、膨大な魔導書と、神域への「強制介入」を想定した複雑な理論図が展開されていた。
「こっちは順調だ。……勇者の力はルカさんに奪われたけど、代わりに『神域の座標を物理的に叩き切る』ための新しい感覚が馴染んできた。……次にあんたの前に立つ時は、事務的な挨拶なんてさせない」
アルトが、黒いボロ布を巻いた新しい「剣」の柄に手をかける。それは聖剣などではない。神域への「違法アクセス」を可能にする、因果のノイズで打たれた反逆の刃。
「わたくしも、準備は整っておりますわ。……ルカ様がわたくしの信仰を『没収』してくださったおかげで、神ではなく『ルカ様個人』を召喚するための、純粋な呪式が完成しました。……今度は茨ではなく、わたくしの指先で、あの人の心を繋ぎ止めます」
セレスティーナが、狂おしいまでの笑みを浮かべて印を組む。
三人は、ルカの「事後承認」による強制的な救済を、真っ向から拒絶していた。
「……あ奴め。わたくしたちを『自由』にしたつもりだろうが、甘すぎる。……ルカという唯一の黒字資産を失って、経営が成り立つはずがないだろう」
ファルマが、ペンを卓に叩きつける。
彼女たちの目的はただ一つ。神域の「窓際」で永遠に孤独な執務を続けるルカを、力ずくで引きずり下ろし、この地上へと『強制連行』することだった。
■ 監査:【永久残留という名の断罪】
神域。
ルカの周囲に、かつて彼が救った一万二千五百人の亡霊たちが、静かに整列していた。彼らは今やルカの部下であり、同時に、彼の正気を削り取る「監視者」でもある。
「……。
……。
……。
……報告。……。
……。
……地上の三個体に、……不穏な因果の収束を確認。……。
……。
……。
……。
……これらは、……私が設定した『幸福な余生』のルートを、……著しく逸脱しています。……」
ルカは、虚空に浮かぶモニターを見つめ、微かに眉をひそめた。
彼の「計算」では、力を失った彼女たちは、互いに支え合い、あるいは忘れ去ることで、穏やかな人間としての生を全うするはずだった。
「……。
……。
……。
……再計算。……。
……。
……。
……。
……却下。……。
……。
……。
……私の存在を追うことは、……神域の法への再接触を意味する。……。
……。
……。
……それは、……彼女たちの安全を損なう、……最悪の『非効率』だ。……」
ルカは、万年筆を握り直す。
彼は、地上の三人が自分に近づけないよう、さらに強力な「因果の障壁」を築こうとする。
だが、その手が、震えた。
「……。
……。
……。
……。
……。
……。
……なぜ。……。
……。
……。
……私の指に、……『震え』という名の……無駄な挙動が発生している……? ……。
……。
……」
それは、神域の権能をもってしても「保留」しきれなかった、ルカの根源的な感情の残滓。
三人が自分を求めているという事実。それが、冷徹な管理者であろうとする彼の理性を、内側から激しく揺さぶっていた。
■ 終幕:【定時後の戦い】
地上から、空を貫くような「三つの光」が立ち昇る。
それはルカが作った『保留』の壁を、暴力的なまでの愛と執着で食い破ろうとする、反逆の狼煙。
『ルカ――!! 逃がさんぞ、この大馬鹿者が!!』
『ルカさん! 今すぐ、その椅子から引きずり下ろしてやる!』
『ルカ様……お迎えに上がりましたわ……!』
神域の静寂が、外側から物理的に破壊されていく。
ルカは、押し寄せる情報の濁流に呑まれそうになりながらも、玉座を掴んで立ち上がった。
「……。
……。
……。
……。
……。
……。
……。
……困ります。……。
……。
……。
……。
……。
……定時後の『強制介入』は、……労働基準法(セカイの理)に、……違反しています……」
ルカの頬を、一筋の汗が伝う。
それは、彼が「神」ではなく、再び「一人の事務官」として、彼女たちと向き合わなければならない時間の訪れを告げていた。
永久残留を決め込んだ窓際管理官の、本当の「戦い」は、ここから始まる。




